青の世界で夢を穿つ



スッと、彼女の全身から力が抜けるのが分かった。


心静止を示す、単一な機械音が静かだった病室を不愉快に満たした。


朝に沈む前のここは、まるで海の底みたいな静寂の青に包まれていた。満足気に笑みを浮かべるその痩せこけた顔をしばらく見つめてから、僕は静かに死亡確認を始めた。


「どうだった?真田夏菜子の最期は」


朝の回診の時に、上の先生に聞かれ、僕は重苦しいため息を吐いた。


「嫌な気分になります。死への冒涜にすら感じる。あんなふうに記憶を操作して、騙すみたいにして逝かせるなんて、悪趣味だ」


嫌なものを見てしまった。そんな感覚が拭えなかった。
血液内科という仕事柄、死に対しては嫌でも慣れてしまっていて、真田夏菜子への思い入れも他の患者とさして変わらないはずだった。


「けれど、それが真田夏菜子の希望だったんだろう。
2週間前までは酷かったじゃないか。死への恐怖で発狂して、管を全部引きちぎったり、一晩中泣いてたり、こちらへの暴言も聞いてられたもんじゃなかった」


そう、あの患者はひと月ほど前に余命宣告をされている。
2回目の骨髄移植をしてなお、白血病細胞が増えており、もう手の施しようのない状態で、緩和へ移行するICをしたのだ。


そこから彼女の情緒はおかしくなった。暴れて、泣いて、縋って、死への受け入れができる前に最期を迎えることが予想された。


そのため、近年緩和医療で導入されている、死への受け入れを容易にする記憶操作の機械を彼女に取り付けたのが2週間前のこと。




その機械を取り付ける旨の同意書を取りに行ったとき、彼女はやっと諦めたように微笑った。


久しぶりに見る彼女の笑みは、まだ治療が始まった頃、比較的元気だった頃の朗らかな彼女を想起させた。


「銀杏が綺麗だわ」


窓の外を見ながら彼女は言う。


「真田さんは知らないかもしれないけど、他の病室も知っている僕から言わせてもらうとね、この角部屋が一番銀杏が良く見えるんですよ」


そうなのね、と彼女は少しだけ誇らしそうに相槌を打つ。


「ねえ、南先生。この機械を付けると、私は今のこのつらくて苦しい気持ちから逃れられるのよね?」


「そのようです。僕もつけたことがないので分かりませんが……。
一応、患者さんの深層心理を汲み取って、見たい夢を見させてくれるようです」


死を受け入れたいと望むのならば、自然と死を受け入れることができるように。
もしくは、ただ心地よい微睡のみを与えることができるとか、なんとか。


こちらを振り返り、彼女は痩せこけた手で僕が差し出したペンを取った。


「ねぇ、先生。私、医者を目指してたこともあったのよ」


同意書の紙上に、もう力の入りづらくなった文字が掠れたように走る。


「だからね、夢の中では私、医者になるの。そうして貴方が患者よ、南先生。私を救ってくれなかった貴方を、今度は私が殺してやるわ」


そう、意地悪く微笑った顔が、今も胸にこびり付いている。






彼女はいったいどんな夢を見ていたのだろう、と死の直前の彼女を思い出しては、たびたび僕は考える。


彼女を救えなかった僕を、きっととても恨んでいただろうから。
僕は酷く嫌なやつとして彼女の夢に登場したのではないだろうか。


そう思いながらも微かな違和感が首をもたげる。


心電図のモニター波形が徐々に遅くなり、死へのそれに近くなっていることに気づき、あの日当直していた僕は真田夏菜子のいる角部屋へ向かったのだ。


病室に入ると、月明かりに照らされて見事な銀杏の木が窓の外に浮かび上がっているのが見えた。


それに照り返されるようにして、彼女もまた病室の中で揺蕩うように浮かび上がる。


死の直前だというのに、おもむろに瞳を開いている。僕は久しぶりに彼女と目が合った。その瞬間、不思議そうに彼女の目が丸くなり、なんだか笑いでもするように、くしゃりと顔が歪んですぐに咽せていた。


駆け寄ると、彼女は「南さん、元気になったの?」とまるで願うように僕に尋ねた。


一瞬何を問われているのか分からなかった。
けれどすぐに気付く。
彼女はまだ、夢の途中にいるのだ。


夢の中で僕はきっと彼女の患者だったのだ。


「ええ、貴女のおかげで元気になりました」


そう言ってから、少し言葉が物足りない気がして、彼女の目指していた職業に自分はなって今は働いてる旨を話す。


すると彼女は、良かった、と心底安心したように笑うのだ。



「……私が貴方の身代わりになったのかしら。そうなればいいと、確かにさっき、願ったから……」


閉じられていく瞼。
それに縋るように、僕はとっさに彼女の肩を掴む。
行くな、と思う。
なにか言わなければ、とも。


貴方の身代わりになれた、とはどう言う意味だろう。
夢の中で病気だった僕の身代わりになりたいと、それで死んでしまえたら、なんて彼女は願っているのだろうか。


そんな機械に作りあげられた嘘の感情で、傲慢な偽善で、彼女は自分の死にたくないという感情そのものに蓋をして、死を受け入れるというのか。
そんな感情を作り出すことが果たして正しい医療行為と言えるのか。


一瞬にうちに頭の中で鮮烈な怒りが駆けめぐって。
けれど、すぐに冷静になる。


正しいか正しく無いかなんて今はどうだっていい。
彼女がいまこの瞬間、求めている言葉はいったいなんだ。


「ありがとう。真田さん」


分からなかった。
この言葉が最適なのかはわからない。


けれど。
もし夢の中で彼女が医者で。
患者である僕の死を肩代わりしたいなんて、バカなことを思っているのなら。


その医者としての患者を想う清く崇高な感情を認めることこそが、僕にできる全てなのかもしれない、と思った。


死を示す心電図の機械音がけたたましく鳴り響く。


彼女の夢の内容は永遠に彼女にしか分からない。
その夢で僕が何者だったのか、どんな言葉を交わしたのか。


けれど、なんとなく予感はする。
今度は私が殺してやる、なんて物騒なことを言ったくせに、きっと彼女は僕を殺してなんかいないし、むしろ救おうと奔走していたのではないか、と。


自惚れかもしれないが、彼女の僕への深層心理での感情は、存外悪いものでは無かったのかも知れない、なんて思いかけて、……首を横に振る。


甘えるな。
いくら夢を暴こうとしたところで、その答えが僕に分かるはずもない。


彼女と入れ替わった僕にできることは、彼女の死を回避できる可能性があったのではないかと、その治療法を模索すること。


彼女の死を忘れないこと、それだけだった。


End.





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