「いいお店だったねぇ」
「はい。お腹いっぱいです」
初秋の夜の空気が頬に気持ち良い。
今日は少し酒量が多かったかも知れない。桜さんを元気にしようと勢いがついていたから。その甲斐あって、彼女もちゃんと笑顔を取り戻してくれた。
楽し気に群れ歩く人々や店の案内のお兄さんたちの中を駅に向かいながら、どうにも離れ難い気持ちがつのる。かと言って次の誘いを口に出してもよいものかどうか迷う。桜さんの気持ちは……。
「……何も言わないんですね」
「え?!」
桜さんのつぶやきが胸に刺さった。俯いて隣を歩く彼女の表情は見えない。
誘わない俺を暗に弱虫だと言っているのだろうか? 桜さんも離れ難いと思っている? 誘われたらOKするのに……って?
「え、ええと」
高まる期待と焦りで言葉選びに迷う。
「風音さんは考え直さないんですか?」
「ん、え? 考え直す……?」
立ち止まって尋ね返すと、真剣な表情が俺を見上げた。瞳に宿っているのは――情熱ではなく、覚悟か。桜さんはあまり酔っていないのかな……。
「わたしの話を聞いて、もうやめた方がいいかな、とか……思わないですか?」
なるほど。桜さんの中では今日の用件は終わっていなかったのだ。
考えてみたら、確かに俺はまだ自分の考えを伝えなていなかった。自分で勝手に伝えたような気分になっていただけだ。ちゃんと覚えていたとは、さすが桜さんだ。
いや、それは当然か。桜さんにとって大事な話だったのだから。俺も誠意を持って伝えなければ。
「やめるなんて、全然思わないな」
俺の答えに桜さんが目を瞠る。あんまり簡単に答え過ぎただろうか。けれど、俺の中では最初から答えは決まっていた。
「自己評価って当てにならないっていうか、気にしないって言うか……。特に桜さんは自分に厳しいからね。それよりも、俺が抱く印象とか、周りにどう思われているかの方が判断材料としては有効じゃないかな」
目を丸くしたまま桜さんは微動だにしない。軽いショック状態なのかも。まあ、相当の覚悟をしてあの話をしたのだろうから、それも仕方ないかも知れない。
「だってほら、自分で『仕事ができる』とか『モテる』って言っているヤツが実際に優秀だったり人気があったりするとは限らないし、逆に評判悪い場合だってあるから」
「それは、確かに……」
「だから桜さんの話を聞いて、俺の桜さんに対する評価が大きく変わるっていうのはないんだよ。俺は普段の桜さんを見て、自分で判断しているんだから。それよりも今日は、桜さんのつらかった気持ちとか悩みが分かって良かったと思ってる。これから一緒に暮らしていくために」
驚きの表情でしばらくじっと俺を見つめたあと、彼女は「変わらないんですか……?」とつぶやいた。
「そうだね。まあ、今日の話くらいでは変わらないなあ」
「愛情が薄くても?」
「お母さんに対してはそれも仕方ないと思うし、輝さんのことは大切にしてたよね? 愛情が薄いとは思っていないよ」
「自分勝手でも?」
「誰にでもやりたいこととやりたくないことはあるよ。それに本当に自分勝手なら、自分のせいで誰かが不幸になるなんて悩まないんじゃないかな」
「意地が悪くても?」
桜さんは少しばかり意地になっているようだ。頑固な桜さんらしい。
「もうこの世にいない相手に対してだろう? 俺は桜さんが意地が悪いところなんて見たことないし、たぶん、桜さんは実際には意地悪なんてできないと思うよ」
桜さんは途方に暮れた様子で「すごい信頼度……」とつぶやいた。確かに俺は桜さんの人柄を信頼している。それが揺らぐほどのこととなると相当大きなことじゃないと。
「断ってほしかった?」
「いえ、そういうわけでは……」
でも、もう少し悩んでほしかったのかな。
「うーん、例えば……」
桜さんへの評価を変えるくらいの事件といったら?
「そうだな、例えば桜さんに二股掛けられてたって分かったら考え直すかな」
「そ……、それはないですね」
「でなければ、実は俺のことが嫌いとか」
「そんな! 風音さんのことは大好きです」
俺の言葉を遮るように言って、はっと固まる。それからゆっくり口元を押さえ、静かに視線をそらす姿がどうにも愛しい。
「ありがとう」
彼女をそっと腕の中に包み込む。身を固くして何秒かじっとしていた桜さんだったけれど、通りすがりの酔っ払いの冷やかしに、もがいて体を離した。残念。
「もしも」
手が離れる前に繋ぎとめると、彼女は顔を上げた。
「もしも俺が桜さんを自分勝手だとか意地悪だとか感じたら、そう伝えるよ。そしたら軌道修正すればいいよ。桜さんも俺にそうして欲しいな」
静かな瞳が俺を見つめる。
「だって、自分ひとりで完璧を目指すのは難しいから。お互いの良いところや苦手なことを分かりあって、パートナーとして補い合っていけばいいんじゃないかな。一人だと凸凹でも、二人なら少し滑らかになりそうだよ」
「でも……、たぶん、わたしが風音さんのお役に立つ可能性はそんなに――」
「あるよ。必ずある。俺、桜さんが考えているほど良くできた人間じゃないよ」
そのまましばらく俺の顔を見ていた桜さんだったが、とうとう力を抜いて、ふふっと笑った。
「本当に何も変わらないんですねぇ……」
「うん。だって、変わる理由がないから」
彼女は俺の手から片手をそっと抜きながら、しみじみと「そうなんですね……」と頷き、微笑んだ。
「風音さん、意外と頑固ですね?」
「ああ、そうかも。桜さんとぶつかっちゃうこともあるかもね。そのときはちょうどいい着地点を探せばいいよ」
「……はい。そうしましょう。これからずっと」
そう言って見上げてくる微笑みはやさしく穏やか。とうとう俺の申し出を受け入れる決心をしてくれたのだ!
「やっぱり風音さんと話していると、何もかも上手くいきそうな気がしてきます。こうやって一生、風音さんに乗せられて、笑いながら生きていくんですね」
冗談めかした言葉は桜さんの照れ隠しだ。嬉しさがこみ上げてきて、なんだか落ち着かない。
「離れたくないなあ」
歩き出しながら手を強く握ると、彼女の表情が戸惑いに変わった。どうもこの点については俺と同じではないらしい。
「もう一軒、ですか? 少しだけなら……」
譲歩してくれた? でも、乗り気ではないのなら、無理には誘えない。せめてキスくらいはしたいのだけど。
「いや、まだ月曜日だし、やめておこう。それより、次はいつ会う?」
尋ねながら頭の中で仕事の予定をたどる。
一日も早く約束などしなくてよい状態になりたい。朝起きたら、そして仕事が終われば会えるという状態に。
改札口を抜けると別れの時間が近づくのを感じると同時に、食事中に聞いた桜さんの苦悩が頭によみがえった。あれを話す決断をした彼女の覚悟はどれほど大きかったことか。
だから今度は何か、彼女が喜ぶことをしてあげたい。単純に嬉しいことじゃなく、思い切り甘やかしてあげたい。今までたくさん苦労をしてきた桜さんに、彼女の想像を超えるくらいのご褒美をあげたい。
「ねえねえ、桜さん。何かわがまま言ってみて?」
「え? わがまま、ですか? 今?」
「そう。今。何でもいいから言ってみて」
手を引かれた桜さんは訳が分からない様子で首を傾げている。
いつも控えめな彼女からどんな要望が出てくるのか楽しみだ。高価な品物でもある程度なら買ってあげよう。……不動産はさすがに無理だけど。
出発待ちの電車はそこそこ混んでいる。お酒を飲んだ様子の乗客もいるものの、話し声は多くない。
並んで立つと肩が触れ、その僅かな接触から軽い酩酊状態に引き込まれる。離れたくない。でも……。
乗り込んでからも考えていた桜さんが、やがておずおずとこちらを見上げた。
「わがままを言えばいいんですね?」
たぶん、気まぐれのお遊びだと思っているのだろう。そのくらいでちょうどいい。そうじゃないと彼女は遠慮するだろうから。
「うん、そうだよ」
「それなら……、ええと」
周囲を気にするように彼女が身を寄せたので、少し屈む、と。
「家まで送ってほしいです」
「え?!」
それは!
「あ……、ごめんなさいごめんなさい! 嘘です。風音さんのお家、通り越しちゃいますもんね? ただ言ってみただけですから」
俺の反応に桜さんが慌てている。でも、たぶん彼女は勘違いをしている。俺は機嫌を損ねたわけではない。それどころか。
「何言ってるんだよ? いくらでも行くよ。行っていいなら毎日でも」
強烈な前向きの申し出に若干引いた桜さんが「いや、さすがに毎日では……」と言葉を濁した。
「分かりました。今のではわがまま度が足りないってことですね? もう一度考えます」
真剣な顔で再び黙り込む桜さん。それにはお構いなしに、俺の頭の中はフル回転。桜さんが送ってほしいと言った。それはつまり……。
つまり、桜さんも俺と同じ気持ちだということ。少しでも長く一緒にいたいということ!
間違いない。彼女も俺と一緒にいたいと思ってくれている。
もう……なんて可愛いんだろう! こんな遠回しの表現で!
「よし。送っていくよ。そして、もう一杯やろう」
「……え? それはもしかして、うちで……飲む?」
困惑顔の鼻の頭にキスしたい。
「うん。桜さんのところで家飲み」
「んん……、お酒はありませんけど……」
それは断っているつもり? そんな曖昧な断り方では引き下がるほどの理由にはならない。
「大丈夫。コンビニで買えばいいよ」
「そう……ですか? コンビニも駅前にしかないですし、お酒を売っているかどうかは……」
「なかったらなくてもいいよ。食後のコーヒーでも」
「ああ……、インスタントコーヒーならありますが……」
納得いかない顔で「わたしがわがままを言う企画だったのでは?」と訊き返されたのは聞こえないふりをする。言われてみると、確かにこれでは俺がわがままを通したみたいに見える。いや、”見える” ではなくて、それが事実か。
「しょうがない。桜さん、もう一つわがまま言っていいよ」
「え? 『もう一つ』って……。さっきのはわがままに認定されたんですか?」
「そうだよ? そのつもりで言ったんでしょ?」
無言で俺を見つめたあと、ため息とともに小さく「酔っ払ってるのか……」と聞こえた。そう思ってくれるのならそれでいい。たまにはそういうのもいいじゃないか。
「分かりました。我が家で宴会の続きです」
桜さんが頼もしく宣言した。
「うん。どうぞよろしく」
今日だけじゃなく、これからもずっと、だよ。