◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

「おかえり!」

仕事から帰ると、輝が満面の笑顔で迎えてくれた。笑顔で迎えてくれる家族がいるって、なんて素敵なんだろう!

「今日はデートしてきたよ、お姉ちゃん」
「デート? 輝、彼氏いるんだ?」
「んー、彼氏じゃないけど……デートのようなもの。あのね、お姉ちゃんの知ってる人。誰だと思う?」

手を洗いに行くわたしに話しかけながらくっついてくる輝。小さい頃を思い出す。

「輝の知り合いでわたしが知ってる人なんていたっけ? あ、もしかして、市役所の人と合コンでもした?」
「あはは、それもいいかもね。でも違うよ。実はねえ、風音さんと会ってきたんだよ」
「え? 風音さんて……風音さん?」
「へへっ、そうだよ。お姉ちゃんに相手にしてもらえない者同士、おしゃべりしてきた。雰囲気のいいカフェで」

なんと! きのうはあんまり賛成じゃなさそうに見えたのに、どういう風の吹き回しだろう。まあ、仲良くなれたならほっとした。とは言え、失礼はなかっただろうか。

「いいなあ。何食べたの? ケーキ? パフェ? パンケーキ? 美味しかった?」

風音さんにお礼のメッセージでも送った方がいいかな……?

「お姉ちゃん」

はっとして顔を上げると、輝が呆れたような、怒ったような顔でわたしを見ている。まるで困った子どもを相手にしているみたい。こんな表情も相変わらずで懐かしい。

「訊くのそこ? 何を話したのかとか、どっちが誘ったのかとか、気にならないの?」
「ああ、言われてみると……」

それは、輝と風音さんの関係を疑うってこと? 確かに輝はわたしよりもずっと可愛らしいもんね。でも――。

「のんきだねえ。やきもちも妬かないのね。愛されてる自信?」

グラスと麦茶を出しながら、輝が冷やかす。

「やだな。そういうことじゃないけど」

違うかな? 「そういうこと」だろうか。風音さんはわたしを裏切らないと思っているのは確かだから。

でも、その信頼は風音さんの愛情とは別の……そう、風音さんの人間性を信じている、というのが正しい。もしも輝を好きになったときは、きっと正直に話してくれる。そういうときための覚悟はできている。でも今日のところは。

「輝が今、自分で報告してるってことは、疚しいことがないってことでしょう?」
「それもそうか。あはははは」

明るい笑い声。家の中で輝の笑い声を聞くと、しみじみと幸福を実感する。そして、自由を。その幸福と自由の中には風音さんの存在もある……?

「風音さんさあ……」

ダイニングの椅子に腰かけながらふとつぶやく。

「わたしに飽きちゃうんじゃないかと思ってたんだけど……」

すると、輝が大きなため息をついた。

「そんなこと思いながら付き合ってたの? まさかそういう予定だったとか言わないよね?」

また呆れられてしまった。やっぱり常識外れかな。こんな姉でゴメンナサイ。

「予定っていうか、予感っていうか、予想っていうか……。わたしの中ではかなり確実だったんだけど……そうならないみたいねぇ……」
「うん。ならないと思うよ。本人はそんなこと微塵も思ってない様子だった。お姉ちゃんのことめっちゃ大事にしてるって感じ」
「そこがどうにも不思議なんだよね……」

意味を図りかねた様子で眉を寄せる輝。

「ほら、わたしってただ真面目なだけで、面白味がないでしょう? 流行とか話題とかよく知らないし、見た目だって特にどうってこともないし、恋愛対象として物足りないと思うんだよね。だから今まで希望者がいなかったわけだし」

この年齢まで希望者がいなかったというのは、魅力がないという自覚があっても少しばかり寂しい。

片思いは何度かした。けれど、いつも何もないまま終わった。それは自分に魅力がないと分かっていたから。……というのは口に出せる理由で、実は胸の奥にもう一つの、もっと根本的な理由があった。

それはお母さん。あのお母さんと暮らしている状況では彼氏なんてつくれるものではない。

家にいれば監視され、命令され、帰宅が遅れると文句を言われるような毎日。その日その日をなるべく穏便に終わらせることだけを考えていた日々。そんな中で、彼氏との関係を維持していくことは不可能、若しくは負担が大きくてストレスになってしまう。

家を出ることも何度も検討はした。けれど、母が何を言うか、どんな態度に出るかを想像すると、その騒動そのものが嫌で、踏み切る決断ができなかった。

だから、誰かを好きになっても、告白もアプローチもしなかった。希望を持つこと自体、自分に禁じた。わたしにとって、恋は最初から諦めとセットだった。

「お姉ちゃんに言い寄る男がいなかったのは、お母さんのせいだよ」
「……え?」

まさか、輝は気付いていた? わたしが心の奥に隠していた理由に?

「だってさ」

怒った口調で頬をふくらませる輝。

「毎日毎日、あんなに悪口言われてたら、お姉ちゃんが外で暗い顔してても仕方ないよ。そのせいで近寄り難いって思った人も多かったと思うよ? だからお母さんのせい」

暗い顔……。

わたしの弱気のことではなかった。輝が言うのはわたしの気分の問題。

浴びせられた数々の非難の言葉は、確かにわたしを苦しめてきた。それが当たっているかどうかよりも、言われるということそのものが辛かった。だから、家は気を抜けない場所だった。

その分、学校や職場がどれほどほっとできる場所だったことか。言い訳をせずに家から離れられるのはそこだけだったから。

でも、会話の途中で家族や楽しみの話題になると、話せないことがあったり話題に入れなかったりした。場の雰囲気を壊さないように気を使ったつもりでも、ある程度大人になれば、みんななんとなく気付いただろう。だから周囲はわたしを何か事情のある人物として遠巻きに見ていた……のかも知れない。

「それにさ、お姉ちゃんはダメな子だって思わせて。あんなに何度も何度も繰り返して、まるで洗脳みたい。そうやって、お姉ちゃんの恋を邪魔してたんだよ」
「ふふ、洗脳だなんて大げさだよ」

だって、わたしはお母さんの非難にずっと抵抗してきた。自分勝手、わがまま、他人を見下している、心が冷たい、その他もろもろ。言葉で反論はしなかったけれど、行動で証明しようとしながら生きてきた。まあ、どれほど頑張っても、お母さんの目に映るわたしは酷い人間でしかなかったけれど。

でも……。

もしかしたら当たっていたのかも知れない、と、最近、思うようになった。お母さんがいなくなった今になって。

あんなに受け入れ難かったのは、真実を指摘されたからだったのではないか。自分が酷い人間だと認めたくなかったからではないか。だって今、わたしは――。

「だけど、お母さんがお姉ちゃんの気分とか性格に影響を与えてたのは本当だよ。だって、もう効果あったじゃん? お母さんから解放された途端に、風音さんと仲良くなれたでしょ?」
「ああ……」

記憶がぱっとはじけた。風音さんの名前が出た途端に。

自由について考えていたまさにその時に現れた風音さん。有難くご縁がつながって、新しい世界をまるで手を引くようにして見せてくれた。風音さんはわたしの自由の象徴だ。

そのうえ、わたしが他人を妬まないところが良いと言ってくれた。わたしに根性があることも教えてくれた。

「ね? お姉ちゃんはさ、ちゃんと魅力があるんだよ。だって、あたしがお姉ちゃんのこと大好きなんだから、人気があって当然でしょ? 今まではそれが発揮できなかっただけ」

優しい輝。わたしを一途に信じてくれている。

「じゃあ、もしかしたら、これから希望者がどっとやって来るかも? そんなことになったらどうしよう?」

ふざけて言うと、輝があははは、と笑った。

「そういう経験もいいよね! 風音さんがいれば、そういう相手も簡単に断れるし」
「風音さんを口実に使うってこと? 嘘ではないけれど、なんとなく申し訳ない気がする……」
「本人は喜ぶと思うよ。お姉ちゃんの心が決まったと思って」

心が決まった――か。

風音さんを好きな気持ちは本物だ。ただ、前に進む勇気が……少しだけ足りない。

一緒にいると勇気が出るんだけどな。……会いたいな。

「……じゃあ、夕飯作ろうか」
「あ、今日は出かけたついでにおかず買ってきたよ。デパ地下の豪華お惣菜! ちょっと見てよ!」
「デパ地下のお惣菜?! あのグラム売りでいくらになるか分からない……。すごい! 嬉しい! なんて贅沢!」

喜ぶわたしを見て輝がくすっと笑った。

「風音さんが言ってたこと思い出した」
「……何?」
「お姉ちゃん、美味しいものを食べている時がすごく幸せそうだって」
「あ」

確かにそうかも。風音さんと一緒の食事はいつも楽しい。

「よく見てるなあ……」
「当たり前じゃん。お姉ちゃんのこと好きなんだから」

好き?

好きだから……?

ああ――そうか。

風音さんの優しさが、温かさが、輝の言葉に乗って届いた。この苦しいような、泣きたいような、それでいて幸せな胸の痛みは……。

風音さんに会いたい……。


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