翌日の午後。
待ち合わせたカフェに現れた輝さんはオレンジ色のブラウスを着ていた。明るいビタミンカラーは彼女の印象にピッタリだと思った。
「お休みの日に、ありがとうございます」
硬い表情で丁寧にお礼を言われた。礼儀正しさはさすが桜さんの妹……と思いつつ、微かに敵意を感じてしまうのは俺が緊張しているせいだろうか。でも、きのうの稽古中の視線も気になるところであるし……。
とりあえず、会話の入口に、演武を見に来られるかどうか尋ねてみる。すると表情が和らいだ。
「来ます。姉の晴れ舞台ですから」
柔らかくふふっと笑う。この感じだと、完璧に俺が嫌いというわけではなさそうだ。
「姉は『来なくていい』って言ってます。でも、わたし、絶対に見に行きます。きのう、姉が頑張る姿がとても楽しそうだったので」
しみじみとした口調で輝さんは続けた。
「本当にずっと、たくさんのことを我慢してきたんです、姉は。だから今は、やりたいことを好きなだけやってほしいんです。剣術を始めたと聞いたときは驚きましたが……、姉には合っているみたいですね。みなさんにも仲良くしていただいていて、とても安心しました」
「それは良かったです」
「でも」
すっと鋭さを増した視線に、思わず背筋が伸びた。
「あなたに関してはまだ安心していません。姉はまだ少し迷いがあるようですし……。お時間を取っていただいたのはそのためです」
やっぱりそうなのか……。
大切なお姉さんの一大事かも知れないから、用心深くて当然か。
でもとにかく、俺が桜さんを幸せにしたいと考えているのは嘘じゃない。そこだけはしっかりと輝さんに分かってもらわなくては。
「何でもお答えします。どうぞ遠慮なく訊いてください」
腹を決めて伝えると、輝さんは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「姉から話を聞きました。あちこち連れて行っていただいたそうですね」
単刀直入で無駄のない話しぶり。真っすぐな気性なのだろう。そして……まるで尋問されているようだ。
「とても楽しかったと言っていました。当然です。今まで遊んだことのない姉ですから。……母のことは姉からお聞きになったんですよね?」
「ええ。長い間、体調が悪くて、今年の春に亡くなったと。いろいろと大変でしたね」
「体調が……、そうですね」
静かに言って、輝さんは窓の外に目を向けた。お母さんのことを思い出しているのだろうか。その横顔はどことなく苦し気に見える。それを振り払うように目を閉じて息を吐くと、静かにこちらに視線を戻した。
「姉には幸せになってほしいんです……」
しみじみとした口調に願いの深さを感じる。その思いは同じだと、胸の中でつぶやく。
「あなたのことを、親切で優しいひとだと言っていました」
ふわりと、桜さんの生き生きとした表情が目に浮かんだ。どこに行っても、何を食べても、彼女は楽しそうだった。そうだ。次はどこに行こう――?
「それと」
輝さんの声が俺を現実に引き戻す。
視線を向けると、輝さんがひたとこちらを見つめている。桜さんがときおりじっと見上げてくるときと違い、突き刺すような鋭さだ。
「しっかりと地面に立っていると。正しいと信じたことを貫けるひとのように思う、と」
――桜さん……。
胸が熱くなる。
桜さんはきちんと言葉を選んで口にするひとだ。ましてや相手は妹さんだ。無闇に話を盛ったりしないだろう。つまり、桜さんは本当に俺をそういう人間だと思ってくれているということだ。
「それは……ありがたいです。ちょっと驚いています。そんなふうに評価してくれていたなんて……」
信じたことを貫く。そうありたい。桜さんの信頼を裏切らないために。
「自分ではそのとおりかどうかは分かりません。ただ、目の前のことに誠実に取り組もうと思っています」
「そうですか。でも、そういう “ふり” をすることもできますよね? 目的を隠して」
「ふり? それは――そうですね」
確かに口八丁で世の中を渡り歩いている者もいる。そういう “ふり” が上手な人間が結婚詐欺を働いたりするに違いない――って!?
「え!? 僕は詐欺なんか考えていませんよ!?」
「分かっています。家族ぐるみで知っている相手に詐欺を働くなんて、さすがにできるとは思えません」
それなら良かった。けれど、輝さんの視線は厳しいままだ。
「でも、姉は、騙すのにちょうど良い相手です」
「そうですか? 警戒心が強いように思いますが」
「確かにそれはあります。でも、世間知らずでお人好しです」
「世間知らず……」
こんなにはっきりと妹さんにダメ出しされてしまうのか、桜さんは。――いや、雪香も俺に関しては同じだ。もしかしたら、これは妹一般の役割なのか?
「姉は社会人としてのキャリアはありますが、学校時代も就職してからも、遊んだ経験がありません。もちろん、市役所の仕事の中で、誰かの不幸や苦労話はたくさん見聞きしています。でも、実生活では、姉は他人からの悪意には触れずに生きてきたんです。他人と深く関わる時間も余裕もありませんでしたから」
輝さんが唇を噛む。自由がなかった生活を思い出しているのだろうか。
「だから……姉はどこか能天気なんです。学校や職場の話になると、『みんなが親切にしてくれる』なんてにこにこして言うんです。わたしから見ると、あまりにも簡単にいろんなことを信じ過ぎです」
「そうなんですか……?」
確かに俺も桜さんに「信じます」と言われた。一柳さんのことも信じている。一途なほどに。
「特に、あなたみたいな世慣れた方が相手では、姉には立ち止まって考える暇もなかったに違いありません」
「いや、ちょっと待ってください」
なんだか話が一方的すぎないか?
「僕は桜さんを急かしてなどいませんよ? それに、『世慣れた』って、もしかして僕が遊び慣れていると思ってます? そんなことありませんよ?」
「だって……、例えばそつのない会話、そしてこのお店」
輝さんが視線をめぐらす。ホテルに併設されたカフェはゆったりしていて割と穴場なので、落ち着いて話すには向いていると思ったのだけれど……。
「あんまりスマート過ぎます。まるでドラマみたい。姉をいろいろなところに案内して楽しませてくださったことも」
「僕が女性と遊び慣れている証拠だと……?」
しっかりと頷かれた。もしかしたらファミレスを選んだ方が良かったのだろうか。
反論すべきだと思う。けれど、あまりにも想定外の誤解だったので、すぐには言葉が出てこない。その間に輝さんが言葉を継いだ。
「姉は真面目できちんとした収入があり、さらに持ち家もあります。結婚すれば――しなくても、あの家に転がり込んでしまえば、働かずに暮らすことが可能です。もちろん、裕福に、とまではいきませんが」
「ああ……、なるほど」
妙に納得してしまった。
桜さんの稼ぎを当てにして、のらくら暮らす怠け者。輝さんはそれを警戒しているわけだ。
「そんなことになったら、姉はまた以前の暮らしに逆戻りです。それを許すわけにはいきません。絶対に」
「それは、分かります」
俺だって、自由でのびのびした桜さんが好きなのだ。その自由を彼女から奪うなどあり得ない。
「まず、一つ聞いてください」
頭の中を整理しながら告げると、輝さんは硬い表情のまま「はい」と頷いた。
「僕は今の仕事にやりがいを感じています。目標もあります。ですから仕事を辞めることは考えていません。金銭面で桜さんに頼ろうとは考えたこともありませんでした」
輝さんは無表情に「そうですか」と頷き、「では」と続けた。
「家事はどうですか? 姉は、家族のためなら迷わず自分の時間と労力を提供するでしょう。でも、召使いではありません」
「僕も家事はできます。一人で暮らしていますから。僕は――」
目に浮かぶのは桜さんが嬉しそうに笑う姿。
「桜さんを楽しませることが好きなんです。わくわくしたり面白がったりしている桜さんがとても好きです。桜さんが安心して笑っていられる時間と場所をつくることが、僕の願いです」
美味しいものが好きで、好奇心旺盛で、ときどきとぼけたことを言ったり、かと思うと妙に頑固だったり。それら全てが可愛く、愛しい。
「なんて顔をしているんですか」
はっとして輝さんに注意を戻すと、苦々しい顔でこちらを見ていた。
「失礼」
桜さんを思うと顔がだらしなく緩んでしまう。頼りないと思われたのか、輝さんがため息をついている。そして。
「姉は今までいろいろなことを諦める生活を送ってきました。なので、今は何でも面白がるのは当然なんです。でも、基本的にはおとなしくて、大勢に交じって元気に遊ぶようなタイプではありません。そんな姉に対するあなたの気持ちは長続きするのでしょうか」
桜さんが控えめで人見知りなこと? そんなことはとっくに知っている。
「長続きすると思っています」
桜さんとの人生を思ったら、静かに緊張が解けてゆく。
「自分は一生、桜さんを大切に思って暮らすのだろうな、という予感があります」
流れてゆく日常の中で、笑顔の桜さんが傍らにいる。そんな生活に、俺はたぶん、飽きることなどないだろう。
輝さんが眉間にしわを寄せ、「予感……」とつぶやいた。満足していない様子に、もう一度、言葉を探す。
「桜さんのことは、好き、というよりも、宝物のように感じています。ああ……、もちろん好きですよ? それに、芯の強さを尊敬しています。桜さんの中にある明るくのびのびした心を守りたいと思っています。それが僕にとっても幸せなことだからです。――こんなこと言うと、親みたいですかね、ははは」
照れ笑いが出た俺を見て、輝さんは疲れた様子で深いため息をついた。俺の答えに失望したのだろうか? 俺は問答に失敗したのか?
「仕方がないですね」
何度目になるか、視線がまっすぐにこちらに向けられる。きりりと結ばれた唇には微笑みの影もない。
彼女は結論を出したのだろうか。俺に何を告げるのか……。