◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
蒸し暑さが残る夜の街。駅へと向かう道はまだまだ賑やか。
カラオケ店を探すグループ、お店の宣伝をする人、足早に駅に向かう人。大勢の元気な笑い声は大学生だろうか。わたしたちは……カップルに見えるのかな。
――不思議だなあ……。
隣を歩く風音さんをこっそり確認してみる。微笑む口許、ゆったりした歩調、気楽に肩にかけたリュック――何の憂いもなさそう。
わたしを相手に? 本気? まだ信じきれていない。
いえ、もちろん、風音さんのお人柄は信用している。信じきれていないのは、おそらくどこに行っても引く手数多であろう風音さんが、わたしを選んだらしいということ。――本当だろうか。
わたしは自分が他人にどう評価されているのか、ちゃんと分かっている。
きちんとしている。いい人だけど、少し変わっている。ノリは良くない。信用できそう。流行とは縁がない。地味。美人ではないが、感じは悪くない。女性的な魅力はない。……まあ、こんなところ。
そういうわたしの何を気に入ってくれたのか。しかも、会社の女の子たちにあんな言い方をするほどなんて――謎だ。
「何を考えているのかな?」
隣から質問が降ってきた。見上げると、からかうような明るい瞳。
「どうして……」
言葉を探して視線を落とす。そういうわたしを風音さんは黙って待ってくれている。
「……どうしてわたしが風音さんの隣にいるのかなあって――思っていたんです」
「ふふっ」
笑われてしまった。でも。
くすくす笑われたら不思議と落ち着いた。そして、静かに広がる胸の温もり。
――やっぱり好きなんだな……。
どんなところが、と訊かれても、上手く答えられない。ただこうやって一緒にいられるだけで、安心で、嬉しくて、心地良い。風音さんの存在そのものが心を満たしてくれる。
「満足そうだね」
「はい……って、分かりました?」
「うん。そんな顔してる」
そんな顔してた……のか。
そう言えば、風音さんにはときどき考えていることを言い当てられている。今までずっと感情を顔に出さないようにしてきて、それに関してはかなり上級者で、だから職場でも「動じない人」と言われているのに。
「顔に表情が出るなんて、油断してるのかなあ? どう思います?」
自分のことを考えるのは限界があるから訊いてみた。風音さんがまたくすくす笑う。
「油断しててくれていいよ、俺と二人のときは」
「んーーーーー……」
わたしに向かってこんなセリフを言うとは!
しかも、風音さんは何を言っても爽やかだ。これはどうしたらいいんだろう?
「……え? 何?」
身構えられてしまった。唸ったりしたら、そりゃあ気味が悪いよね。
「失礼しました。でも――そうですね、どうしても不思議なんです……」
言いながら、ため息が出てしまった。
「俺と一緒にいることが?」
「はい」
「うーん……」
風音さんも考えている? それはつまり……?
「惹かれあってるからじゃないかなあ?」
「――!」
思わず立ち止まってしまった。すぐ横を追い越していく人が訝し気な視線をちらりと寄越す。けれど。
惹かれあっている。だから一緒にいる。
理屈ではなく、心が求めている……。お互いに?
なんてシンプルなんだろう。
なんだか泣きたいような気分だ。胸の奥に大きなものがつかえているみたいな。
振り向いた風音さんが笑って手を差し出した。わたしも手を出しかけて……迷う。
意思表示をするのが怖い。確定するのが怖い。風音さんが傷付くことになるかも。関係が壊れたときのダメージが――。
――あ。
「行こう」
「……はい」
手をつなぐって、こんなにほっとするのか……。
初めて手をつないだのは猫桟橋だった。あれは「つないだ」とは言わないのかな。引っ張られた? 不意だったし、ほんの数秒だったし、その意味を考える時間も必要もない出来事だった。
考えてみると、親と手をつないだ記憶は出てこない。でも、妹の輝とは、あの子が中学生くらいまでときどき手をつないだな。友達同士みたいに笑いながら。
「家まで送って行こうか? 駅から少し歩くよね?」
もしかして、女性として扱われてる?
こんな申し出、人生で初めてだ。驚きと少しの照れくささの初体験。
「歩きますけど大丈夫です。まだ九時ですから」
仕事でこのくらいの時間になることもある。近所で事件が起きたという話も聞かないし。
「でもさあ」
「大丈夫ですよ、なるべく大きな道を通って帰りますから。それに、風音さんの住んでいる駅を通り越しちゃうじゃないですか」
風音さんはここから二つ目、わたしは五つ目だ。うちまで来たら、たくさん戻らなくてはならない。
「俺の方はべつにいいんだけどなあ」
「そうですか? 明日も仕事ですよ?」
「うん……、まあね」
「心配してくださって、ありがとうございます」
「……いや、いいんだけど」
向こうを向いてしまった……。
気分を害してしまったかな。せっかくのお申し出だから受けた方が良かったの? でも、義務として言ってくれただけかも知れないし、断ったことでほっとしているかも知れない。遠回りになってしまうのは間違いないし。けれど……会話が止まってしまった。
ああ、分からない! 何が正しいの?
「あの……、すみません」
一応、謝っておこう。落ち度があるのは親切を素直に受け入れられないわたしだ。
「え? 何? あ、トイレ?」
「え?」
戸惑い顔を見合わせながら足が止まった。お互いに、相手の反応が予想外だったということのようだ。
「え、と、あの、せっかく送るって言っていただいたのに、お断りしてしまって……」
「ああ、いやあ、あははは」
照れたような笑顔。不愉快そうではない。よかった。
「いいんだよ、そんなこと。本当は、もうちょっと一緒にいたいなあっていう、まあ、下心みたいなものだったんだから。ああ……、断られて残念だ」
冗談めかした表情。でも、握る手にギュッと力を感じた。風音さんは本当にわたしのことが好きみたい……。
「じゃあ、そのうちお願いします」
「そのうち?」
「もっと遅くなったときとか……、風音さんが遠回りじゃないときに」
「だったら、遊びに行く場所をよく考えないといけないなあ」
自分が想われているということが、どうしてもすんなりとは受け入れきれない。疑問、疑問、疑問。
「くくっ、困った顔してる」
「風音さんは楽しそうですね」
「うん。今日はいい日だ」
風音さんが楽しいならわたしは満足だ。ただ……不思議なだけで。
改札口の手前で、つないでいた手をどちらからともなく離す。すると、不意にこみ上げてきたのは――淋しさ? まださよならじゃなくて、同じ電車に乗っていくのに。
物理的なつながりが切れたことで頼りない気持ちになるなんて、もう風音さんに依存し始めているのだろうか。
こんなことではいけないよね。一人で生きていけなくなるのは困る。心を強く保たなくては。
電車はほどほどの混み具合。並んで立ちながら、プライベートな話ができないことにほっとしたような、残念なような、中途半端な気持ちを持て余してしまう。
少し向こうには腰に手を回し合っている二人連れ。わたしにはあんなことはとても無理だけれど、隣に立っている風音さんにもう少し近付きたいような気がするのは手をつないだ名残りだろうか。
電車が動き出したとき、楽しい時間の終わりへと向かっているのだと、心にくっきりと浮かんできた。また日曜日には稽古で会えると分かっているのに、今の時間が終わってしまうことが淋しい。
「夏休みは妹さんが来るんだっけ?」
「はい、今度の土曜日に」
輝が帰ってくるのは嬉しい。今は家の中でどんなに話しても、どんなに笑っても、安心だから。
「今回初めて車で帰るって連絡が来て、少しハラハラしているんです。大学も仕事も車が専門なので運転は慣れているみたいですけど、わたしはまだ見たことがないので」
「そうなんだ。じゃあ、こっちに来ている間に一度乗せてもらうといいかもね」
「そうですよね」
お墓参りには助かるかな。電車のあと上り坂が長いし、暑さも厳しいし。
当たり障りのない会話を続けるその裏で、風音さんとのさよならまでの時間を意識している。暗い窓に目をやると、和やかに語らうわたしたちの向こうを小さな明かりが流れてゆく。一つ目の駅はさっき過ぎた。次が……。
「日曜の稽古は来る? 妹さんと出かけたりする予定?」
こんな質問にもお別れの時間が近いことを感じてしまう。
「行きます。妹にも伝えてあるので大丈夫です」
「そう? もし妹さんが見学したいならOKだけど」
「それはないと思います」
ないと思う、というよりも阻止したい。家族に見られたら緊張して、いつもよりもっと下手になる。
ブレーキがかかり、やがてゆっくりと電車が停まった。「またね」と軽く手を上げて出て行く風音さんに小さく頭を下げる。
ホームの明かりの下で立ち止まった風音さんが見えた。こちらを向くとわたしを認め、窓を挟んで微笑みを交わす。発車の直前、風音さんは合図するようにスマホを持ち上げた。窓枠の中でホームの景色が流れ、風音さんの姿も消える……。
――スマホを見ろってことかな?
バッグを覗くと着信の合図で画面が光った。いったい何?
『次は送るよ。心細い顔してた』
――風音さん……。
心細い顔……か。淋しい気持ちを見破られてしまった。違うのかな? 夜道を怖がっていると思われた?
だとしたら……ちゃんと伝えようかな。わたしが感じていることを。だって、風音さんはちゃんと伝えてくれたから。
『さよならするって淋しいですね』
長い間、一人の時間が欲しいと思いながら暮らしてきた。なのに今、風音さんと一緒にいたいと思っている……。
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