◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
きれいな夕焼けだ……。
電車のドアの冷たさが腕に心地良い。今日も無事に終わってほっとする時間。
帰りの電車は好きだ。仕事からも家のことからも解放される場所だから。
電車の中にいる限り、急がないことの言い訳になる。周りには知らない人ばかりで、わたしがぼんやり考え事をしていても誰も気にしない。今は家でものんびりできるけれど。
風音さんも夕焼けに気付いてるかな。まだ仕事中? 窓から見えたりしないかな?
こういうとき、連絡してみたい気分になる。でも、いつも決心がつかない。あれからそろそろ二週間経つけれど……。
風音さんの時間を邪魔したくないし、夕焼けなんか興味がないかも知れない。特に必要でもない話で煩わせたくない。
「はぁ……」
なんて難しいんだろう……。
多くの人がネットを使って友達を作ったり、何かを発信したりしているのに、わたしは知り合いにさえも連絡していいのか分からないでいる。……まあ、そもそも現実の人間関係が得意分野とも言えないのだから、ネット上ならなおさらか。
電話をかけるのが苦手なのと同じことだ。相手が見えない状態がどうにも苦手。機嫌良さそうに応じてくれていても、心の中では怒ったり呆れたりしているかも知れない。そんな想像が先行して身動きが取れなくなってしまう。翡翠くらい信頼しあえている相手なら……それでも電話は緊急時に限る。
誰かを不快にさせているのではないかと怖がってばかり。誰かを怒らせないように、いつも気を配っている。道を歩く時や電車に乗る時も。エレベーターが好きじゃないのも、知らない誰かと乗り合わせたくないから。今にも舌打ちされるのではないか、わざとらしくため息をつかれるのではないか――、近くに他人がいるとそんなふうに不安になる。これって……、目に見える相手もダメってことか。
それでもたまに、完璧に信用できるひとに出会う。就職してからは一柳さんと翡翠、そして風音さん。
そう。風音さんのことは信じられる。優しくてまっすぐなひとだと感じている。でも、だから――迷惑をかけたくない。
わたしがアクションを起こせばそれに応えようとしてくれるに違いない。そんなの申し訳ないし、もし許してくれるとしても、頼ることに慣れたくない。一つ甘えたらもう一度、次はこのくらいなら……と、だんだん依存度が大きくなって、いつか面倒だと思われる日が来るかも知れない。そんなの嫌だ。
それに、他人をあてにしていたら心が弱くなりそう。ひとりで生きることが淋しくなってしまうのは困る。そんなことにならないよう、最初から他人に寄りかからないで生きていかないと。
ただ……、ときどき考えてしまう。あれはどのくらいの意味だったのか、と。
もっと仲良くなりたいと、風音さんは言ってくれた。迷惑かと訊かれたから、迷惑ではないと答えた。そう答えるには勇気が必要だった。
迷惑だと――友達止まりなら、と答えた方が、事は簡単だった。こんなふうに悩まなくて済んだはずだから。でも、言えなかった。
あのとき心の中に生まれた小さな期待。もしかしたら、風音さんと一緒の未来があるのかも……と。そう考えてしまったら、その可能性を切り捨ててしまう言葉は言えなくなった。
けれど同時に、それを打ち消す自分もいた。親しくなればなるほど、風音さんはわたしの悪いところに気付くだろう、と。今はまだ物珍しさが勝っているけれど、時間が経てば物珍しさなど消えてしまう。そのあとに残るわたしは――。
どちらの選択をしても、行き着く先は同じだ。道筋が違うだけ。
だから、付け加えるべきだと思った。嫌になったら遠慮なく離れてほしいと。我慢してそばにいてもらうのは嫌だから。重荷になるのが嫌だから。
と言っても、そもそもわたしが風音さんの言葉を過剰に解釈していた可能性だってある。単に友人としての話だったのではないかと、今は落ち着いて考えられる。ただ……。
取られた手に感じた頼もしさが忘れられなくて……。友人以上を望まれている可能性を否定できない。
いいえ、違う。
否定できないのではなく、否定したくないのだ。自分が風音さんにとって価値のある存在だということを。
価値のある存在? わたしが?
そんなことあるのだろうか……。
ああ、まただ。浮かんでくる声。言葉。わたしを否定する――。
違う、と心の中で言い返しても消えない。時間が経っても消えない。そして……、胸の奥では「そうなのかも知れない」と恐れている。……いいえ。最近は恐れが確信になりつつある。
あの言葉が正しかったとしたら。
だとしたら……、風音さんの申し出を受け入れるべきではなかった? あの日、「困ります」と答えるべきだったのか。だけど……。
風音さんと一緒にいると、すべて上手くいきそうに思えてくる。風音さんとなら幸せになれるのは間違いないような気分になる。手に手を取って、人生に立ち向かっていけそうな。
風音さんに惹かれている――。
そう。たぶん、間違いなく。
初めて見た後ろ姿に憧れた。あんなふうに堂々と生きたいと思った。思わぬ成り行きで知り合えてからは、剣術に向ける静かな情熱と言葉の端々に見える心遣いに尊敬の念を抱くようになった。そのひとが向けてくれるやさしさに驚きながらも胸が躍る。このひととなら、もしかしたら――と。
手を伸ばしたら掴めるのだろうか。
黒川流に入門できただけで十分に幸せだった。やりたいと思ったことにチャレンジできて、努力すればわたしでも上達することが分かったことが。門人として迎え入れていただけて、新しい世界が開けたことで、自分に何か可能性があるかも知れないと思う気持ちが生まれた。
それで十分だと思っていたのに、今、別な幸せの可能性を考えているなんて……。
ああ。こんなふうにうじうじ悩んでいる自分が嫌だ!
わたしはどうしたいの?
わたしは――。
まず一番目に、風音さんに迷惑をかけたくない。
そのためにどうする?
頼り過ぎない。風音さんがいることを当然だと思わない。
ただ、風音さんが望んでくれる限りは素直に一緒にいろいろなことを楽しもう。そして、終わりがきたときのために覚悟を固めておく。……そうだ。あの日もそのつもりで答えたのだった。結局、わたしにはこれしかできないってことね。
そして二番目に、風音さんに対しては、嘘のない自分でいたい。
もっと仲良くなりたいと言ってくれた風音さんに、わたしも誠意を持って向き合うべきだから。まあ、今までも取り繕ってなんかいなかったから、あんまり変わらないか。ああ、でも……。
いざとなったら話さなくちゃいけないことがある。わたしが恐れていることを。友達同士なら知らせる必要はないけれど、もしも本当に風音さんが――わたしと一緒の未来を望むのなら、そのときは。黙ったまま進むのはフェアじゃない。
話したら、風音さんはわたしから離れてしまうかも知れない。でも、それは仕方がない。心配なのは、それを決断する風音さんが傷付くかも知れない、あるいはわたしに気兼ねして本心とは違う決断をするかも知れない、ということ。
そんなふうに決断を委ねるのは申し訳ないけれど……、そもそもそんな事態にまで進展しない可能性もまだ大きい。わたしたちが友達同士のままなら、打ち明ける必要がないのだから。
そう。これは全部取り越し苦労の可能性も高い。
今はっきりしているのは、風音さんはわたしの憧れのひとで、だから、一緒にいられると嬉しいということ。そして、有難いことに、風音さんにはお友達として認められている。それがすべて。
ただ、もしも……、いいえ。
余計な期待はしたくない。期待すればそれだけ心が弱くなりそうだから。未来への覚悟が崩れないように。
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