約束の土曜日は残念ながらどんよりとした天気になった。
待ち合わせに現れた桜さんはロールアップしたジーンズにスニーカーという活動的な服装。真っ白なブラウスと笑顔が空の重苦しさを跳ね返すように輝いて見える。
「雨降りそうなので、歩きやすい服で来ちゃいました。すみません」
謝ってくれたけれど、こちらはまったく問題はない。むしろ桜さんがカジュアルな装いで来てくれたことが、俺との距離が近くなっている証拠のようで嬉しい。それに、ジーンズを履いた桜さんはいつもよりも元気で可愛らしい雰囲気で、見ている俺もにこにこしてしまう。
「きのうの電話のあと、ランチのお店、必死で探しました」
可笑しそうに彼女が言った。
「目の前に重大なミッションが現れたお陰で、重かったいろんなことが頭から吹っ飛んじゃって。おかげさまでかなり元気になりました」
「はは、重大ミッションでしたか」
「ええ、わたしには。でも、美味しいもののことを考えるのって、とっても楽しいです」
ランチの選定を任せたことが桜さんの憂うつを払う役に立ったとは嬉しい効果だった。それに、店を選びながら俺のことも考えてくれていたのではないだろうか。俺だって、今日の予定を検討するときに桜さんの喜ぶ顔を想像していたのだから。
「今週の職場はもうほんとうに滅茶苦茶で、テレワークができたらいいのにって何度も思いました」
桜さんがそう言ってため息をついた。今まで弱気を見せなかった彼女がこんなふうに漏らすのだから相当キツかったのだろう。
「テレワークはできないんですか?」
「緊急事態のときだけです。まあ、今までは出勤している方が気楽だったので――」
そこでプツリと言葉を止めた。それから笑顔を俺に向けた。
「お昼、三軒ほど選んでみたんですけど、どこがいいでしょう?」
笑顔の前に一瞬、頑なな表情が浮かんだように見えたのは俺の見誤りだっただろうか。
けれど、桜さんが避けたいと思った話題なら、俺も触れるのはやめよう。今日は桜さんが明るい気分になれるようにと誘ったのだから。
彼女が候補に選んでいた三軒から、俺たちはハワイアンバーガーの店に行くことに決めた。バンズから具材まであれこれカスタマイズできる分厚いハンバーガーはふたりとも初めてで、店へと歩きながら相談するのも楽しい。
到着すると、今度は他の客がどうやって食べているのかを観察し、注文カウンターの列では注文のシミュレーションをする。出てきたハンバーガーには真ん中にズレ防止のピックが刺さっており、これをどのタイミングで抜くのかでまた議論。
肩を寄せ合って話し、一緒にくすくす笑っていると、桜さんが急に我に返ったように黙る瞬間がある。俺を見上げて一、二度瞬きをし、迷うように視線を揺らす。
そんなとき、思わず彼女を抱き寄せたくなる。それからそっとこう言いたい。ここにいていいんです、俺の隣に――。
けれど現実では気付かないふりで話しを続けるだけ。なぜなら、頭に浮かぶシーンで優勢なのは、驚いた彼女が慌てて帰ってしまうパターンだから。でも、もしかしたら今日の終わりには……?
のんびりとランチを食べて店を出ると、かなり蒸し暑くなっていた。雨の気配がないのが幸いだ。
「港方面に行こうと思っていたんですけど、屋内の方がいいですか?」
葉空市は明治時代から外国の船が着く港として栄えた街で、海沿いにいくつもの公園や歴史的建造物、新しい観光施設などが集まっている。そして何より夜景が美しい。
「港! いいですね! 葉空市に住んでいるのに、ちゃんと観光スポットに行った記憶が無いです」
笑顔で答えた彼女が「そう言えば」と続ける。
「前の職場で港関係の職場に異動した先輩がいました。外国に向けた業務があったりして、普通の市役所の仕事とはだいぶ違うみたいでした」
「そっちの仕事もあるんですね。市役所の業務って幅広いですね」
「そうですねぇ……」
桜さんがくすっと笑う。
「専門職の人たちもいますけど、資格が必要ない仕事は全部事務職がやるので……、まあ、何でも屋ですね。用地買収の交渉をしてた課長もいましたし、農地の調査をしている同期もいます。映画の撮影相談の部署とか」
「選挙も?」
「ああ、そうです! あと災害対策はどの職場にいても関係ありますね。歩いて出勤する訓練があったり」
なるほど! 災害時には出勤するのか。言われてみればそうだろうけれど、考えたことがなかった。
驚いている俺に、「外からは見えない仕事って、どこにでもありますよね?」と、桜さんが気軽な調子で笑った。
そう。そのとおり。そのとおりだけど。
昨夜の桜さんを思い出してしまう。
電話口の彼女は連日の怒りの電話の影響で辛そうだった。それらの電話はおそらくテレビやネットで事件を知った人たちがかけてきたものだろう。
でも、あの事件は桜さんには直接には関係がない。そして、彼女は市役所の職員として、市民のために働く。相手がどんな市民でも、分け隔てなく。
何か事件が起きたとき、その関係者に対して無関係な人々がさまざまな方法で攻撃を加える事例をときどき聞く。そういう話を聞くたび、俺は嫌な気分になる。今回の桜さんのように、真面目に働いている、たまたま同じ組織にいるという相手を攻撃して何が嬉しいのか。
怒りや正義感を表現するのは構わない。けれど、それを誰かに向けるときは、向けられた相手がどんな気持ちになるのかを先に想像してほしいと思う。そして、相手が悲しむことが自分の喜びだなどと考えるのはやめた方がいい。
他人を傷付けることによって自分も心に傷を負うのだと、俺は知っている。子どものころに友達に言ったひと言が、そのときの彼の表情が、今でも時折り胸を刺すから。謝っても、和解できていても、彼が覚えていなくても、俺はあのときの自分が嫌いだ。
「けっこう風があるね」
地下鉄の駅から出るとシャツがはためいた。桜さんの長い髪もビルの間で迷う風にあおられている。
移動の間に丁寧語はやめることにした。彼女が敬語を使い続けても、先輩後輩的な関係だと考えれば違和感もない。
ここから海沿いをぶらぶらする予定だ。このあたりは地下鉄の駅三つ分くらいの距離に、大きめの公園やカフェ、ショッピングモールや港の施設などが並んでいる。しばらく来ない間に新しい通りや施設が増えていて、方向が混乱してしまう。
「わあ。海ですねえ」
桜さんが柵に手を掛けて微笑んだ。リラックスした横顔に俺の気持ちも緩む。
「意外と水が綺麗かも」
柵の上から覗くと、コンクリートの護岸から垂直に落ち込む海。南の島のような青色ではないけれど、水は透きとおっている。沖の方で魚がぴょこんと跳ねた。
「今週は家で刀に触りませんでした」
少しすると彼女が言った。
「また下手になっちゃってますね、きっと」
残念そうに肩をすくめる姿を見て、こういうところも好きだなあ、なんて思ってしまう。はっきり何が、とは言えないのだけれど。
「忙しいと仕方ないよね」
忙しいだけじゃなく、気分が重かったのだろう。
俺の慰めに、彼女は納得できない表情で見返してくる。
「風音さんは一週間、一度も刀に触らないことってあります?」
「うーん……、いや、ないかな。忙しいときは逆に気分転換に素振りしたりするから」
「気分転換? なりますか?」
「うん。なるよ」
桜さんが感心したような顔をする。いや、もしかしたら引いちゃったのかも。剣術おたくみたいに思われてしまったとか。ちょっとフォローした方がいいな。
「稽古してるときって、自分の内側に深く入っていくみたいな……。一振り一振りをただただ正しく振るっていう、そのために自分の体をどう使うか、とか、小さなことも疎かにしない、とか、自分自身と対話してる状態で。でも完璧にはちっとも近付かなくて、一回やって『ダメだ』って思って、もう一回やって『違う』って思って……それだけの世界にいる、みたいな」
「そうなんですね……」
彼女がゆっくりうなずいた。と思ったら、「あ」と何かを思い出した様子。
「そうだ! わたしにもありました、気分転換の方法。今回は忘れていましたけど、本を使うんです」
彼女が笑顔で見上げた。
「本?」
「はい。力強い、わたしが世界一だと思っている動物ファンタジーを読むんです」
まるでその物語の場面が見えるみたいに、何秒か、海の向こうに視線を向けて。
「何度も読んで、もう文章を覚えるほどなんですけど、それでも読むたびに冒険する兎たちと一体化している感じで、勇気が流れ込んでくるみたいな。ひどく落ち込んだときには、その本で心に強いプラスのショックを与えることにしています」
いつになく饒舌な桜さん。きっと心からその本を愛しているのだ。
「本のショック療法だね」
「ええ。でも時間がかかります。上下二巻ありますから」
「え? 二巻? それは……あははは」
思わず笑った俺を、彼女は満足気に見つめる。そして言った。
「これからはわたしも風音さんを見習って、素振りで気分転換に挑戦したいと思います」
「そうだね。たぶん、本より手っ取り早く効くよ」
こんなふうに宣言するところがいかにも桜さんだ。
「……でも、ものすごく腹が立っているときはダメですね」
軽く考えながら桜さんが言った。
「だって、怒ってるときに刃物なんか持ったら危ないですよ?」
きょとんとした顔で言うのを見たら一気に力が抜けた。
「その雑念が、刀を手にすると消えるんだよ……」
「あ、そうか。それができないのは真剣に刀と向き合っていないってことですね?」
邪気のない顔で素直に納得している。桜さんはしっかりしているようで、ときどき思考が中途半端だ。
「刀を八つ当たりの道具にしないこと。刀を持ったら刀のことに集中する」
「分かりました。肝に銘じます」
胸に手を当ててうなずいた。真面目なのかふざけているのかよく分からない。でも、こういうもやもやした感覚が胸に来る。
桜さんは……可愛い。