翡翠の情報どおり、ピザがとても美味しい店だ。

しっかりした生地がふくらんでいて熱々で、トマトソースの酸っぱさにバジルの香りやアンチョビの塩味、そしてとろけるチーズ! ほかの料理もワインもみんな美味しくて、一つを味わうたびに感嘆の声が上がり、会話が弾む。

翡翠と桜さん、そして一柳さんの気心の知れた会話と笑顔が心地よい。三人とも当たり前のように俺にも話しかけてくれるので、俺も楽しい時間を過ごせている。

「じゃあ、筋トレは去年からなんですか?」

一柳さんは元から筋トレ好きだったわけじゃないと聞いて驚いた。

「そうなんです。消防士たちに訊いた手前、やらないわけにもいかなくなりまして。なにしろみんなが次々と教えてくれるので。ははは」
「一柳さんて、やるとなったら手抜きができないタイプだから」

桜さんのひと言に心から納得する。椅子に座る姿勢も話し方も、お酒が入った今でも崩れていない。

「わたしたちもびっくりしたよね? 久しぶりに会ったらイッチーが痩せてたから」
「え? 痩せた?」

思わず訊き返してしまった。今は、マッチョだけど痩せ型とは言えないと思う。ということは。

「一柳さん、就職してからどんどん太っちゃって」
「そうだったんですか……」
「いやあ、坂井には『そのままだとセイウチみたいになっちゃうよ』って怒られたなあ?」
「桜はイッチーには容赦ないから」

たしかに桜さんは、一柳さんに対してはわりと強気だ。翡翠のようにニックネームで呼ぶことはしないけれど、口調に遠慮がない。それを受ける一柳さんは気を悪くするでもなく、ただ笑っている。そして――。

一柳さんが桜さんの飲み物や料理の残り具合を気にかけて、さり気なく世話を焼いていることに俺は気付いている。だって、俺が口を出す隙がないのだから!

こういうお店が初めてだという桜さんを気遣うのは分かる。でも、それにしては慣れているようにも見える。桜さんがそれに素直に応じているのも気にかかる。“いつものこと”みたいに。

これが十年間の絆なのだろうか? そう思うと落ち着かない。

とは言え、桜さんは俺を気遣ってくれているようだし、俺と桜さんが話すのを邪魔されることもない。だから桜さんと一柳さんの関係を俺が気にする必要はない……のだろうか。

「美味しいものって、世の中にたくさんあるんですね」

ワイングラスを手に、桜さんが満足げにため息をついた。店内を見渡す瞳が明かりを受けて輝いている。

「この前は翡翠と有名なフルーツパーラーに行ったんです。値段は高かったけど、パフェがほんとうに美味しくて、お店も素敵で大満足でした」
「美味しいものを食べるっていいですよね」

それが気の置けない相手と一緒ならなおさらだ。

「わたし、今まで……」

彼女はそっとグラスを置いた。

「母の体調がもともと良くなくて、職場の歓送迎会くらいしか、宴会や食事会には出ていなかったんです。妹が家を出てからは、母とわたしの二人暮らしだったし。でも……二月に母が亡くなって」

はっとした俺を気遣うように微笑んで。

「ほんとうは、喪中だからあんまり楽しんじゃいけないんだろうなって思うんですけど、妹が、今までできなかったことをしてほしいって言ってくれて。先月、その話を翡翠にしたら、楽しい企画を考えるよって言ってくれて」

話が耳に入ったらしい翡翠が「あたしだってずっと桜と遊びたかったんだもん」と言ってにっこりした。桜さんがそれに微笑みを返す。

「桜さんのお母さんも、きっと桜さんが楽しく過ごしている方が嬉しいと思いますよ」
「ええ……、そうですね」

俺の言葉に微笑んで答えながらも目を伏せてしまう。そりゃあ、お母さん――しかも長い間、看護をしてきた――を亡くしたことから簡単に抜け出せなくて当然だ。

――……長い間?

就職してからずっと? つまり十年間? 職場の歓送迎会だけ? それ以外はまっすぐ帰宅?

十八歳から二十代って、周りはいろいろなことを楽しんでいる年齢じゃないか。就職していれば自由に使えるお金もあるし。でも、桜さんは何もできなかった?

――それは……。

どう言ったらいいのか分からない。そんな味気ない毎日を想像すると、分かったような顔をして労いの言葉をかけることもためらってしまう。

だとしたら、俺にできることは……、彼女が“今とこれから”を楽しく過ごせるように手伝うことしかない。

「もしもお金に糸目をつけないで好きなことがいくらでもできるとしたら、桜さんは何をしたいですか?」
「お金がいっぱいあったら?」

大きな瞳がこちらを見返す。翡翠と一柳さんも会話を止めて桜さんに視線を向けた。

「そうです。一生、仕事をしないで済むくらい」
「ああ! それだったら古代遺跡です!」

笑顔が輝いた。声も憧れがあふれ出したみたいに明るくて。

「わたし、神話とか伝説が好きなんです。エジプトとかメソポタミアとかマヤとか、ギリシャ、キプロス、クレタ島……。本で読んだ場所に行って、自分の目で見てみたいです」
「坂井はいつも本読んでたなあ」

一柳さんのつぶやきに納得する。本を読むことは、桜さんの制限された生活での大きな慰めだったに違いない。

「あ、でも、古代遺跡じゃなくても、本に出てくる場所が見たいかな。ベネチアとか、ロンドンの駅と橋」
「駅と橋?」
「アガサ・クリスティの小説に駅の名前がときどき出てくるんです。あと、クマのパディントンのパディントン駅。それからものすごく好きな小説に出てくるブラックフライアーズ橋」
「なかなかピンポイントですね」
「ええ。でも考えてみると、ロンドンだったら行くのも現実味がありますね。あ、あとドイツの博物館島! 川の中州に大きな博物館があって、そこにバビロニアのイシュタル門があるそうなんです」
「それは……僕も見てみたいですね」

古代の建造物には興味がある。それを造った人々の思いを想像しながら見るのも好きだ。

「翡翠は?」
「あたしはねぇ、気に入った服を片っ端から、値札を見ないで買いたい」

桜さんに尋ねられた翡翠が答えた。

「それすごい! 保管場所もお金かかりそう」
「んー、じゃあ、一回着た服を売るお店もつくる」
「売るのか? 金持ちなのに?」
「でなければ、トールサイズ専門のレンタルドレスとか」
「意外と儲かるかもね」

屈託なく笑う桜さん。それを見ながら、聞いたばかりの彼女のこれまでを思う。

桜さんの笑顔にいつもほっとする気持ちを味わってきた。でも今は、その笑顔の後ろに淋しい過去や葛藤があることを知っている。だから、桜さんの笑顔がより一層大切に思えてくる。



店を出たとき、翡翠は上機嫌だった。四人の中で一番酒に弱いようだ。くすくす笑いながら隣を歩く翡翠は、素面のときよりも女っぽさに磨きがかかっている。

「ねえ、クロ? 桜のこと、ほんっとによろしくね?」

俺の顔をのぞき込むようにして翡翠が言う。

「めちゃくちゃいい子なの! いっつも誰かのために頑張ってるの! なのに、自分はダメな子って思ってるの」
「ダメって……どうして」
「いろいろあるのよ……。自分の価値が分かってないの。あたしがどんなに感謝しても、どんなに褒めても、自分は何も役に立たないって思ってる。そんなことないのに……」

たしかに桜さんはいつも控えめだ。稽古でも目立たないことを信条としている。

初心者で自信がないから目立ちたくないのだと思っていた。けれど今、一つの言葉を思い出した。心成堂に行ったときに桜さんが口にした「わたしがいなければ」――。

あのとき、俺に手間をかけさせたと謝る彼女を他人行儀だと思った。その理由を、知り合ってからの時間が短いからだと思った。でも、もしかしたらあれは、“価値のない自分”という前提があっての言葉だったのだろうか……。

「桜はね、自分はダメな子だから、幸せになる資格がないって思ってる」

前を行く桜さんに視線を向けると、一柳さんをぱしぱし叩いて笑っている。稽古では聞かない遠慮のない笑い声に胸がちくりと痛い。

「でも、クロなら……って、あたしは思ってる」
「俺?」
「クロなら桜の固まった心をほぐせるかもって」

翡翠の真剣なまなざしが俺を捉えた。と、にっと笑い。

「この前、会ったときに言ったこと、結構本気だったんだよ? 今日も見てて思った。クロと桜って、お、に、あ、い!」

鼻の頭をつつかれた!

「何言ってんだよ?」

身を引いた俺の耳に翡翠が囁く。翡翠の背の高さなら簡単だ。

「桜ってクロのタイプでしょ? 分かるんだから~」
「なんでだよ? そういう話、したことなかっただろ?」
「でも、クロのこと、あたしはよーく分かってるもん。クロのやさしさって筋金入りだし」

翡翠の得意気な微笑みに、中学時代の顔が重なる。

「桜ははっきりとは言わないけど、お母さんのこと、かなり大変だったと思う。ずっとだったしね」
「十年……だっけ」
「違うよ。もっと。たぶん中学生のころから。家事も全部」
「え? そんなに?」

ってことは……十四、五年? 中学生で? まだ子どもじゃないか。

「だからね、桜には幸せになってほしいの」
「それは俺も思うけど……」

前を歩くふたりは。

「イッチーと桜はなんでもないよ」

翡翠は俺の不安もお見通しだ。

「根拠があるの。今は言えないけど。あのふたりはお互いに……そうだな、あたしを見守ってくれたクロみたいな存在」
「見守って? お互いに?」
「そう。イッチーは六つも年下の同期の面倒をみなきゃって心に誓ったんだって。でも本人は、新人のころは真面目すぎて、窓口でお客さんが怒っちゃうことがあって、桜はいつもハラハラしてたって」

翡翠も前のふたりを見て、ふふ、と笑った。

「だから、クロは遠慮する必要はないよ? ――あ、でも、嫌なら無理にとは言わないけど」
「いや、べつに嫌じゃ、ないけど」

そう。嫌じゃない。でも、どのくらいの好きなのか分からない。まだ。それに……。

「俺一人の気持ちでどうにかなるわけじゃないから……」

そう。桜さんがどうなのか分からない。

「でも、試してみてくれる? もちろん、無理にとは言わないけれど」

翡翠の表情は真剣だ。酔っている分を割り引いても。

「桜はフレンドリーに見えて、実は人見知りで他人にはなかなか警戒を解かないの。でも、仲良くなったら、相手をものすごく大事にしてくれる」

それは翡翠との関係を考えればよく分かる。

「自分には結婚とか恋愛は無理だっていつも言ってるのは、たぶん本気」

悲し気に微笑む翡翠。

「幸せになる権利は誰にだってあるのにね。そうでしょ? まあ、もしも結婚は無理でも……」

駅の入り口で桜さんと一柳さんが振り向いた。

「友達にはなってあげてね? お願いね、クロ」

俺の肩をぽんとたたき、ふたりに笑顔で応える翡翠。

桜さんが俺にも微笑みかけてくれた。そこにはやっぱり礼儀正しさを感じるけれど。

――もっと親しくなれたら。

彼女は一柳さんに向けるような表情を俺にも見せてくれるのだろうか。そして、いつかもっと……?