「皓宇、戻っているのか」
「……天佑?」
そう尋ねてきた声の主は、先ほど脳裏に浮かんだ男、隣人の天佑であった。ただ、彼がそのように翠蘭の部屋を尋ねてくるのは珍しい。
(しかもこんなに時間に……?なにかあったのかな……?)
何の疑いもなく、翠蘭は部屋の扉を開けた。しかし、驚いたことにそこにいたのは天佑だけではない。他にも顔を見たことのある男が二人ほど、その後ろに立っている。
外は、月が出ていて少し明るいが、逆にそのせいで彼らの表情が陰り、うっすらと恐ろしさを感じさせる。
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
「え、なに……どうし……」
「悪いな、皓宇」
翠蘭の声を遮るようにして、天佑は彼女の腕を掴むと、押し入るようにして室内へと入ってきた。強引に押されてよろけそうになった翠蘭を片手で支え、にやりと笑みを浮かべる。
それに続くようにして、後ろにいた男二人も中へと入ってきた。
本能的に怖れを感じ、つかまれた腕を振り払おうとした翠蘭だったが、さすがに周囲から一目置かれるほど体格の良い天佑相手では、まったくといっていいほど歯が立たない。
「どっ……どうして……」
「悪いな、俺もこんなことはしたくはないんだが」
そう言いながらも、天佑の視線は舐めるように翠蘭の身体をなぞる。その視線の悍ましさにぞっとして、ひやりと背筋が冷たくなった。
そのおびえを感じ取ったのか、彼の口元に残忍な笑みが浮かぶ。
「どうしても、おまえを使い物にならないようにしてやれ、と仰せの方がいてな」
「使い物って……っ」
「なに、ここじゃ珍しくもない。男同士の交合も、悪くないぜ」
「お、男同士って……なんだよ、それっ……!」
そんなものがあること自体、翠蘭にとっては知識の外だ。だが、それでも自分の実が危ういと言うことだけは間違いなくわかる。
しかも――翠蘭は本当は女なのだ。裸にされてしまえば、それが露見してしまう。
(まずい……!)
なんとしてでも逃げなければ。そう思うが、手足に思ったように力が入らない。
天佑だけでなく、他の二人も加わって押さえつけられれば、翠蘭に勝ち目などあるはずもなかった。
下卑た笑いを浮かべた彼らの手が、袍の襟元をくつろげ、脱がせようとしてくる。その手が触れる感触が気持ち悪くて、翠蘭の目に涙が浮かんだ。
(やだ……やだっ……!)
「なんだこいつ、サラシなんか巻いてやがる」
「っは、どうしたこれは……女みてえに細っこい肩だな」
すっと肌を撫でられて、怖気が立つ。叫び声を上げたくても、声が出ない。そもそも、翠蘭が叫んだところで、この後宮内で翠蘭を助けてくれる人などいるはずもない。
(信じてたのに……っ)
敵だらけになった後宮の中で、唯一信じられると思っていた相手。その相手が今、翠蘭を襲っている。その事実に目の前が真っ暗になる。
(いやだ、こんなの……っ、だってまだ、目的を果たせていないのに……っ)
もし自分がこの後宮を去る――もしくは死ぬときは、家族の復讐を果たしてから。そう心に決めていたというのに。こんなところでその道が潰えてしまうなんて、そんなこと……!
「く、うっ……」
しかし、現実は非情だ。いくらあがいてみても、彼らの腕からは逃れられない。
いよいよ、サラシに指をかけられ、翠蘭はぎゅっと目を閉じた。それを取られてしまえば、すぐに翠蘭が女だと言うことは露見する。そうなれば、このまま身を穢されるだけに飽き足らず、性別を偽った罪で処罰されることは免れない。おそらくは、死罪となるだろう。
いや、それだけではない。
はっとして、翠蘭は目を見開いた。そうだ、そうなると――憂炎はどうなる。翠蘭を毎晩呼び、褥を供にしていると思われているのに、自分が女だとばれれば彼にもまた疑いの目が向けられるのではないだろうか。
(憂炎……!)
心の中で強くその名を呼んだとき、ひゅっと風の鳴るような――鳥が羽ばたくときのような――そんな音が翠蘭の耳を打った。
続いて、自分にのしかかっていた天佑が、ふっと視界から消え去る。え、と思ったときには、ひえっという叫び声と、それから何かを殴るような音が辺りに響いた。
何が起きたのか分からず、翠蘭は困惑して震える身体をゆっくりと起こす。
すると、ばんと開け放った扉から、天佑をはじめとした男たちが慌てたように逃げ出していく後ろ姿が見えた。
呆然とその姿を見送っていると、背後から声をかけられる。
「大丈夫か、翠蘭……!」
そこに聞こえてきたのは、先ほど別れたはずの憂炎の声だった。はっとして振り返れば、そこには男の格好をした憂炎が、はあはあと息を乱して立っている。
脱いだ上着を翠蘭の肩にかけると、彼はちっと一つ舌打ちし、もう遠く逃げた男たちの姿を睨みつけた。
「ど……どうして……」
「俺のところに落とし物をしていたから、届けに……いや、そんなことより、おまえは大丈夫か……怪我なんかはしていないか?」
そう問いかけられ、翠蘭は自分の身体を見おろした。特に痛い箇所はないと思っていたが、押さえつけられていた腕には指の跡が残っている。この分だと、もしかしたら明日にはあざになっているかも知れない。そう思ったとき、憂炎がそっと指を伸ばし、その跡をなぞった。
「すまない、もう少し早く来ていれば……」
「ううん……ありがとう。あ、憂炎こそその指、怪我している。ちょっと見せて」
おそらく、天佑たちを殴ったときに痛めたのだろう。少しすり切れて血の滲むそこに手をかざし、翠蘭は目を閉じて意識を集中させた。ほわっと目の奥に柔らかな光が浮かび、それがどんどん広がってゆくのが感じられる。
「お、おい……?」
憂炎の戸惑う声がしたが、翠蘭はそのまま集中し続けた。やがて手のひらにほんのりと感じていた熱がなくなると同時に、指の辺りにずきりと痛みが走る。
(結構痛いな、これ……)
彼に気付かれないうちに、とすっと手を引っ込めようとした翠蘭だったが、すっと目を細めた彼に逆に捕まって、その手にある傷を見られてしまう。
「さっきまではなかっただろう……これは、俺の傷か……」
言い当てられて、翠蘭は俯いた。彼に治癒の力のことは話したが、それがどういったものかまでは教えていない。
「その力、癒やす代わりに自分に傷を移すんだな?」
翠蘭が頷くと、憂炎はそっと手を伸ばし、こちらの反応を確かめるようにしながら柔らかく抱きしめた。
「ということは――それを、自分の力で癒やすことはできないんだな?」
それは、質問という形を取ってはいたが、ただの確認に過ぎなかった。彼の中ではもう、そういうものだと理解をしてしまっている。
翠蘭は唇を噛み、頷いた。
「ほんの少し、症状は軽くはなるし、一応治癒力も普通の人よりは高い。けれど、死に至るほどの傷や病は、癒やしきることはできない……」
口にすると、脳裏に父の最後の姿が蘇った。あの時、翠蘭は必死に癒やしの力を使ったが、完全に癒やすことはできなかった。それが、父の死を暗示していると知りながらも、どうしても力を使うことを止められなくて――。
ぽたり、と水滴がこぼれ落ち、彼のかけてくれた上着を濡らす。それが自分の目からこぼれ落ちる涙だと理解するまで、しばらくの時間がかかった。
自覚すると同時に、ぶわりと涙があふれ出し、どんどんと流れ出してゆく。
「うっ……うわあ……っ」
「よしよし……我慢するな……」
こうして泣くのは、いつぶりだろう。父が死んだときも、母が死んだときも――皓宇の死を知らされたときも、泣くことなどなかった。できなかったのに。
わんわんと声をあげて泣く翠蘭の背を優しく撫でながら、憂炎は彼女が落ち着くまでずっとそうしていてくれた。
「……天佑?」
そう尋ねてきた声の主は、先ほど脳裏に浮かんだ男、隣人の天佑であった。ただ、彼がそのように翠蘭の部屋を尋ねてくるのは珍しい。
(しかもこんなに時間に……?なにかあったのかな……?)
何の疑いもなく、翠蘭は部屋の扉を開けた。しかし、驚いたことにそこにいたのは天佑だけではない。他にも顔を見たことのある男が二人ほど、その後ろに立っている。
外は、月が出ていて少し明るいが、逆にそのせいで彼らの表情が陰り、うっすらと恐ろしさを感じさせる。
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
「え、なに……どうし……」
「悪いな、皓宇」
翠蘭の声を遮るようにして、天佑は彼女の腕を掴むと、押し入るようにして室内へと入ってきた。強引に押されてよろけそうになった翠蘭を片手で支え、にやりと笑みを浮かべる。
それに続くようにして、後ろにいた男二人も中へと入ってきた。
本能的に怖れを感じ、つかまれた腕を振り払おうとした翠蘭だったが、さすがに周囲から一目置かれるほど体格の良い天佑相手では、まったくといっていいほど歯が立たない。
「どっ……どうして……」
「悪いな、俺もこんなことはしたくはないんだが」
そう言いながらも、天佑の視線は舐めるように翠蘭の身体をなぞる。その視線の悍ましさにぞっとして、ひやりと背筋が冷たくなった。
そのおびえを感じ取ったのか、彼の口元に残忍な笑みが浮かぶ。
「どうしても、おまえを使い物にならないようにしてやれ、と仰せの方がいてな」
「使い物って……っ」
「なに、ここじゃ珍しくもない。男同士の交合も、悪くないぜ」
「お、男同士って……なんだよ、それっ……!」
そんなものがあること自体、翠蘭にとっては知識の外だ。だが、それでも自分の実が危ういと言うことだけは間違いなくわかる。
しかも――翠蘭は本当は女なのだ。裸にされてしまえば、それが露見してしまう。
(まずい……!)
なんとしてでも逃げなければ。そう思うが、手足に思ったように力が入らない。
天佑だけでなく、他の二人も加わって押さえつけられれば、翠蘭に勝ち目などあるはずもなかった。
下卑た笑いを浮かべた彼らの手が、袍の襟元をくつろげ、脱がせようとしてくる。その手が触れる感触が気持ち悪くて、翠蘭の目に涙が浮かんだ。
(やだ……やだっ……!)
「なんだこいつ、サラシなんか巻いてやがる」
「っは、どうしたこれは……女みてえに細っこい肩だな」
すっと肌を撫でられて、怖気が立つ。叫び声を上げたくても、声が出ない。そもそも、翠蘭が叫んだところで、この後宮内で翠蘭を助けてくれる人などいるはずもない。
(信じてたのに……っ)
敵だらけになった後宮の中で、唯一信じられると思っていた相手。その相手が今、翠蘭を襲っている。その事実に目の前が真っ暗になる。
(いやだ、こんなの……っ、だってまだ、目的を果たせていないのに……っ)
もし自分がこの後宮を去る――もしくは死ぬときは、家族の復讐を果たしてから。そう心に決めていたというのに。こんなところでその道が潰えてしまうなんて、そんなこと……!
「く、うっ……」
しかし、現実は非情だ。いくらあがいてみても、彼らの腕からは逃れられない。
いよいよ、サラシに指をかけられ、翠蘭はぎゅっと目を閉じた。それを取られてしまえば、すぐに翠蘭が女だと言うことは露見する。そうなれば、このまま身を穢されるだけに飽き足らず、性別を偽った罪で処罰されることは免れない。おそらくは、死罪となるだろう。
いや、それだけではない。
はっとして、翠蘭は目を見開いた。そうだ、そうなると――憂炎はどうなる。翠蘭を毎晩呼び、褥を供にしていると思われているのに、自分が女だとばれれば彼にもまた疑いの目が向けられるのではないだろうか。
(憂炎……!)
心の中で強くその名を呼んだとき、ひゅっと風の鳴るような――鳥が羽ばたくときのような――そんな音が翠蘭の耳を打った。
続いて、自分にのしかかっていた天佑が、ふっと視界から消え去る。え、と思ったときには、ひえっという叫び声と、それから何かを殴るような音が辺りに響いた。
何が起きたのか分からず、翠蘭は困惑して震える身体をゆっくりと起こす。
すると、ばんと開け放った扉から、天佑をはじめとした男たちが慌てたように逃げ出していく後ろ姿が見えた。
呆然とその姿を見送っていると、背後から声をかけられる。
「大丈夫か、翠蘭……!」
そこに聞こえてきたのは、先ほど別れたはずの憂炎の声だった。はっとして振り返れば、そこには男の格好をした憂炎が、はあはあと息を乱して立っている。
脱いだ上着を翠蘭の肩にかけると、彼はちっと一つ舌打ちし、もう遠く逃げた男たちの姿を睨みつけた。
「ど……どうして……」
「俺のところに落とし物をしていたから、届けに……いや、そんなことより、おまえは大丈夫か……怪我なんかはしていないか?」
そう問いかけられ、翠蘭は自分の身体を見おろした。特に痛い箇所はないと思っていたが、押さえつけられていた腕には指の跡が残っている。この分だと、もしかしたら明日にはあざになっているかも知れない。そう思ったとき、憂炎がそっと指を伸ばし、その跡をなぞった。
「すまない、もう少し早く来ていれば……」
「ううん……ありがとう。あ、憂炎こそその指、怪我している。ちょっと見せて」
おそらく、天佑たちを殴ったときに痛めたのだろう。少しすり切れて血の滲むそこに手をかざし、翠蘭は目を閉じて意識を集中させた。ほわっと目の奥に柔らかな光が浮かび、それがどんどん広がってゆくのが感じられる。
「お、おい……?」
憂炎の戸惑う声がしたが、翠蘭はそのまま集中し続けた。やがて手のひらにほんのりと感じていた熱がなくなると同時に、指の辺りにずきりと痛みが走る。
(結構痛いな、これ……)
彼に気付かれないうちに、とすっと手を引っ込めようとした翠蘭だったが、すっと目を細めた彼に逆に捕まって、その手にある傷を見られてしまう。
「さっきまではなかっただろう……これは、俺の傷か……」
言い当てられて、翠蘭は俯いた。彼に治癒の力のことは話したが、それがどういったものかまでは教えていない。
「その力、癒やす代わりに自分に傷を移すんだな?」
翠蘭が頷くと、憂炎はそっと手を伸ばし、こちらの反応を確かめるようにしながら柔らかく抱きしめた。
「ということは――それを、自分の力で癒やすことはできないんだな?」
それは、質問という形を取ってはいたが、ただの確認に過ぎなかった。彼の中ではもう、そういうものだと理解をしてしまっている。
翠蘭は唇を噛み、頷いた。
「ほんの少し、症状は軽くはなるし、一応治癒力も普通の人よりは高い。けれど、死に至るほどの傷や病は、癒やしきることはできない……」
口にすると、脳裏に父の最後の姿が蘇った。あの時、翠蘭は必死に癒やしの力を使ったが、完全に癒やすことはできなかった。それが、父の死を暗示していると知りながらも、どうしても力を使うことを止められなくて――。
ぽたり、と水滴がこぼれ落ち、彼のかけてくれた上着を濡らす。それが自分の目からこぼれ落ちる涙だと理解するまで、しばらくの時間がかかった。
自覚すると同時に、ぶわりと涙があふれ出し、どんどんと流れ出してゆく。
「うっ……うわあ……っ」
「よしよし……我慢するな……」
こうして泣くのは、いつぶりだろう。父が死んだときも、母が死んだときも――皓宇の死を知らされたときも、泣くことなどなかった。できなかったのに。
わんわんと声をあげて泣く翠蘭の背を優しく撫でながら、憂炎は彼女が落ち着くまでずっとそうしていてくれた。