お泊り保育の欠席は、最初から決まっていたわけではなかった。体調が良ければ参加する方向で、お母さんはたしかに動いてくれていたらしい。
 だけどお泊り保育前日の夜、わたしは熱を出した。たいして高い熱ではなく、翌朝には下がっていたけれど、さすがにそんな病み上がりの状態で参加させるわけにはいかなかった。

 当日の朝、準備していた大きな鞄を抱えた状態で欠席を告げられたわたしは、生まれてはじめて、目の前が真っ暗になるという経験をした。泣いたところで決定が覆らないことはわかっていた。それでも、泣くしかできなかった。お母さんのどんな言葉も今は聞きたくなくて、耳を塞ぐように、声を上げて泣いた。

 そんなときに、保育園のバスがやってきた。
 かんちゃんの家の前に止まったバスは、当然わたしの家からも見えた。思わず外に駆け出したわたしを、お母さんが後ろから抱きしめるようにして止めた。それを振り払いながら、わたしは「やだ!」と叫んでいた。
「ななみも、かんちゃんといっしょに行く! やくそくしたもん、うみでいっしょに遊ぶって! かんちゃんと、やくそくしたもん!」
 必死だった。どうしようもなく。
 あんなに大きな声を出したのも、たぶん生まれてはじめてだった。

 声が聞こえたのか、かんちゃんがこちらを見た。だけど先生に背中を押されるようにして、そのままバスに乗り込んだ。
 すぐにバスは動き出し、わたしの前から去っていく。そうしてかんちゃんだけを乗せたバスが道の向こうに消えるのを、わたしはお母さんの腕の中でずっと見ていた。

 置いていかれた、と思った。かんちゃんは、わたしを置いていってしまった。
 それは、足元が抜け落ちるような絶望だった。
 お泊り保育に行けなかったことよりもずっと、かんちゃんが行ってしまった、ということに愕然とした。
 柚島に着いたら、かんちゃんは海で遊ぶのだろう。わたしではない他の友達と。時間も気にせず、目いっぱい、飽きるまで。
 わたしがいないから、かんちゃんはそうすることができる。わたしといっしょにお絵描きをしなくてもいい。わたし以外の、外で遊べるたくさんの友達と、思いっきり走り回って、好きなように遊べる。

 ――そうだ、わたしがいなければ、かんちゃんはそうやって遊べるんだ。
 大好きなサッカーも鬼ごっこも、好きなだけできる。だからきっと、かんちゃんはわたしがいなくても寂しくなんてない。他の友達と、他の遊びをするだけ。わたしがいない柚島でも、楽しく過ごせる。

 ……いや。
 むしろわたしがいないほうが、楽しいのかな。
 ふと頭をよぎったそんな考えに、胸がぎゅうっと握りしめられたように痛んだ。

 今までずっと、当たり前だと思っていた。かんちゃんが隣にいること。わたしといっしょに遊んでくれること。
 物心がついたときからかんちゃんはわたしの傍にいたし、わたしにとってそれは日常だった。なにも特別なことだなんて思っていなかった。わたしがかんちゃんを好きで、いっしょに遊びたいと思っているように。かんちゃんもわたしと同じ気持ちで、だからわたしたちはいっしょにいるのだと、一片の曇りもなく信じていた。

 ――だけど、違うのかもしれない。
 ひとりでバスに乗って柚島へ行ってしまったかんちゃんを見たとき、わたしははじめて気づいた。
 かんちゃんはわたしを、置いていくことができる。ひとりでも、柚島へ行ける。
 この目で見たわけではないのに、はっきりと確信できた。柚島へ行ったかんちゃんが、向こうでたくさんの友達と、楽しく過ごしていること。

 けれど、もしも今日、わたしたちの立場が逆だったなら。わたしはかんちゃんを置いて、ひとりで柚島へなんて行けない。かんちゃんのいない柚島で、どう過ごせばいいのかなんてわからない。
 わたしの手を引いてくれて、わたしといっしょにお絵描きをしてくれる、そんなかんちゃんがいないと。

 わたしのいない柚島で他の友達とたくさん遊んで、かんちゃんはなにを思うのだろう。こっちのほうが楽しいなって、気づいてしまうのかもしれない。これからはこうしよう、七海とお絵描きばっかりするのはやめようって。そうしたらきっと、かんちゃんはもう、わたしと遊んでくれない。

 気づけば、柚島へ行けなかった悲しさよりも、そんな恐怖で胸が黒く塗りつぶされていた。
 かんちゃんが、わたしのもとからいなくなってしまう。それが怖くて、悲しくて、ひとりになったわたしは泣いていた。
 ――だから。

「こんど、いっしょに行こう」
 柚島から帰ってきたかんちゃんと、はじめて顔を合わせた日。
 彼がわたしに言ってくれた言葉を、今もはっきりと覚えている。そのときの彼の表情も、声も。ぜんぶ、昨日のことみたいに思い出せる。
「ななみちゃんが、もう少し元気になったら。いっしょにゆずしまに行って、うみであそぼう。ね」
 海の絵を描いて、と、わたしが差し出した自由帳に、青いクレヨンを走らせながら。ちょっと恥ずかしそうに下を向いたまま、だけどはっきりとした口調で、かんちゃんは言った。

 帰ってきたかんちゃんは、他の友達と外へ遊びにいったりしなかった。これまでとなにも変わらず、わたしの隣でお絵描きをしてくれた。
 それだけでも胸がいっぱいになるぐらいうれしかったけれど、さらにかんちゃんは、そんな約束までしてくれた。

 しばし、わたしはぽかんとしてかんちゃんの顔を見つめた。
 頑なに目線を上げない彼の目元が少し赤くなっているのを見たとき、ぶわっとわたしの頬にも熱がのぼってきた。その熱さに押されるように、頬がゆるむ。鼻の奥がつんとする。
「……うん!」
 力いっぱい頷いてから、わたしは「やくそく」と小指を差しだした。
「いっしょに行こうね、かんちゃん!」

 ――その日から、その約束が、わたしの道しるべになった。
 かんちゃんは、わたしを置いていかない。これからも、傍にいてくれる。隣を歩いてくれる。そう思えたことがたまらなくうれしくて、だから、わたしは決めた。頑張ろうって。いつかぜったい、かんちゃんと柚島に行くために。痛い注射も苦いお薬も、そのためだと思えば、いくらでも頑張れると思った。
 それぐらい眩しくて、大切な約束だった。ずっとその約束を抱きしめて、生きていこうと思っていた。


「無理だよ、どうせ」
 何年後か、かんちゃんにそう言われるまで。