アラームの音で目が覚めた。
どうやら今日の天気は晴れ模様らしい。僕はカーテンの隙間から漏れた光を見た後、ギシッという音と共にベッドから起きた。
晴れの天気とは裏腹に、僕はいい目覚めとはいえなくて、体が重く感じれた。
眠れなかったのもまた事実。夜中に何度も起きてしまったせいで寝不足気味だった。
そのせいか、頭がクラクラして視界が歪む。
この感覚は小学生の頃に40℃近くの熱を出した時と同じで。
これはやばいと直観的に感じた。
急いでベッドに横になろうとしたけれど、気づいた時には床に伏せていた。
倒れる時に音がしたのか、リビングで朝食を作っていたであろう母が僕の部屋へと駆け上がってきた。
そして「大丈夫?物凄い音がしたけど」その言葉を言い終わると同時に母はこちらへと駆け寄って僕をベッドに運んだ。

その時には意識が朦朧として、息がしずらくなっていく。
あぁやばい、おちる。
そう思った途端、徐々に重くなった瞼が閉じていき、視界がシャットダウンされた。



***



夢を見た。
1人の少年が、何かに向かって懸命に腕を伸ばしている夢。
その先にあるのは可愛らしいリボンや可愛らしい洋服。
主に女の子が用いるような物。
その少年は目をキラキラさせながらあと一歩という歯痒い距離に詰め寄ろうしている。
そしてやっとの思いで服の端を握りしめた瞬間、地面が崩れるようにして少年は暗く黒い奈落へ落ちていった。
衝撃を受け、目が覚めた。気づけば額には薄らと汗が浮かんでいた。
時刻は11時16分。
僕は寝ぼけ眼を擦りながら辺りを見回す。
すると机の上に1つの置き手紙を視界にとらえた。
『仕事に行ってきます。冷蔵庫にご飯があるから食べてね』
母からのメッセージだった。
両親は共働きで、父に関しては会えない日が何度もあった。
忙しいのはわかっていたし、僕を愛してくれていたのも伝わってきた。
だから、寂しいなんて言葉は吐いたことがなかったし、“可愛いものが好き”なんて言ったことも一度もなかった。
自分は他の人とはズレているのだと、心の中で理解していた。
そんなことで両親を困らせたくなかった。

今となっては何とも思わなくなった1人での食事。
僕は冷蔵庫の中にあったサラダを手に取り、テーブルに座った。そうしてサラダをゆっくりゆっくり、噛んで飲み込んだ。
風邪のせいだろうか。今はいつもより孤独感が増している気がする。
自分が生きたいと思う道が、何故こんなに進みにくいもので、辛いものなのだろうか。
あぁ、もう...

「あーかーさーきー!」

僕を呼ぶ声が聞こえた。
この声は、いやまさか。だって、彼女は今、学校なのだから。ここにいるはずが無い。
ということは僕の幻聴か何かだろうか。あるいは風邪の症状か。
しかし、そうとなれば相当思い詰めていたのだろう。
そう自己解決をして僕はお皿を台所の水につけた。

「あれ?いないのー?」

先程よりもはっきりと聞こえる彼女の声。
気がつけば僕は玄関の扉を開けていた。

「おっ、やっと出た」

そこには制服姿の彼女が立っていた。

「なん、でいるの」
「赤崎が心配で早退してきた!」
「はぁ?そんなんで...」
「それと、昨日のこと謝らないとなと思って」

“昨日のこと”
恐らく公園に居た時、涙を流してしまったことだろう。
僕がなにか気に触るようなことを言ってしまったかもしれない。謝るべきは僕だと思っていた。
けれど彼女は笑顔を絶やすことはなかったが、何処か気まずそうに目線を泳がせていた。

「とりあえず、家上がって」

僕は手招きをして家へと催促した。
男女2人が1つ屋根の下、そんなシチュエーションだからか変に緊張してしまう。
いいや、これは風邪のせいにしよう。
またもや風邪のせいにして、思わず苦笑いをしてしまう。
とりあえずリビングのソファーを指さして「座って」と言った後、僕は冷蔵庫を漁る。

「風邪大丈夫?」
「まぁなんとか」
「よかった」

僕は持ってきたお茶を彼女の前のテーブルに置いた。
彼女は「ありがとう」と、コップの中のお茶を1口飲んだ。
そんな些細な動作ですら、僕は緊張してしまう。思わず右手を胸に当てて鼓動を確認する。
規則正しいとはいえない鼓動が手に伝わって余計に音が速くなる。

沈黙とは、どうも慣れないものだ。
僕から言い出そうか、それとも彼女の言葉を待とうか。
そう葛藤しているのちに、彼女の口から謝罪が零れた。

「昨日は、ごめん」
「いやっ、僕の方こそごめん」

何に対して謝ってるのか明確では無いが、泣かせてしまったのは事実なのでこちらも謝罪を口にする。

「ううん、赤崎は悪くないよ」

薄く自傷気味に笑う彼女は弱々しく今にも消えてしまいそうな雰囲気を漂わせていた。

「今聞くのは、ずるいかもしれないけど昨日の言葉って...」

“死なせてしまってごめん”
この言葉の意図は僕には分からないし、関係ないかもしれない。
けれど彼女を前にして居てもたってもいられなくなった。
彼女は、「気になるよね」と呟いたあと僕の目をじっと見つめて、制服のポケットから1枚の写真を取りだした。

「私ね、お兄ちゃんが居たんだ」

写真に写っていたのは、恐らく幼少期の一ノ瀬と、隣にいる1人の男の子。
写真の中の2人はとてもいい笑顔で、仲がいいという雰囲気がこちらに伝わってくる。

「これが、一ノ瀬のお兄さん?」
「そう、似てるでしょ」

よく見てみると、目元や笑った口元が今の一ノ瀬と瓜二つだ。兄妹というより双子と言われてもさほど違和感がないくらいに。

「この写真のお兄ちゃん、メイクしてるの」
「へぇ、だいぶ若く見えるけど、何歳なの?」
「この時は14歳だったかな」

そういえば僕が初めてメイク道具に手を出したのも14歳くらいだったか。
なんだか懐かしく思えてくすぐったかった。
けれど、目の前にいる彼女の瞳は笑っていなかった。
“どうしたの?”
そう聞こうとした時には彼女は次の言葉を発していた。

「でもね、私が中学生の時に、自殺したの」

自分で息を呑むのがわかった。
頭がぼうっとするのに対し、目は彼女を捉えるのに必死で。
この子から目を離してはいけない。そんな使命が頭の中で過った。

「お兄ちゃんは、性同一性障がいだった」
「性同一性障がい...」

それは身体と心の性別が一致せず、性別を変えるため手術をしたいと願う人のこと。
僕とはまた異なったものだ。
一つ一つ苦しそうに吐く彼女は何かを懐かしむような瞳をしていた。

「私は、ずっとお兄ちゃんのこと応援してた。両親も何も言わなかった。だけど、お兄ちゃんが死んでしまって、お母さんが言ったの」

言葉を発するにつれ、彼女の体が小刻みに震えてるのがわかる。

「_____普通に生きて欲しいって」
「...普通、か」

精一杯息を吸って、精一杯言葉を絞り出す彼女は……彼女は気づいてなかったのだろう。その濁りのない綺麗な瞳から涙が流れ落ちていることを。

「普通って何?そう思ったよ。お兄ちゃんにとってあれが普通だったのに。まるで、お兄ちゃんが可笑しかった、みたいな風に言うんだもん。だけど、お母さんに言われた時、何も言えなかった。ただただ、お母さんと抱きしめ合って瞼を閉じただけだった」

彼女の膝の上に置いてあった手のひらは、いつの間にか拳へと変化していた。
強く握りしめているせいか、手が赤くなり、藍色のスカートにシワができてる。

僕は彼女の手を取り、言ったんだ。

「大丈夫」

無責任で、どうしようもない言葉。
何に対してか、なんてわからないけど、何か言ってあげないと、そう必死だった。
けれど、彼女のような人を前にして僕が平常心で居られるわけがなかった。
ごめん、一ノ瀬。
僕は1人の女の子すら笑顔にできない。
短すぎる期間で彼女はどうしようもなく健気なことがわかった。何がどうなっても自分を責めてしまう性格。
今も自分のせいにしてしまっている。
僕は彼女を救う方法なんてわからないし、どう声をかけていいのかすら考えている。
だけど、これだけは信じて欲しいんだ。

「僕は、君の、一ノ瀬の味方だ。だから安心して話して欲しい」
「...ありがとう」

僕の言葉を受けて話す勇気が湧いてくれたのか彼女は震えが収まり、落ち着きを戻した。

「えっと、それでね、赤崎とお兄ちゃんが重なっちゃって、お店連れ回したり、変なこと言っちゃった」

いつもの声のトーンに戻っていく彼女。

「あぁ、死なせてしまってごめん?」
「そうです、変に思い詰めちゃってたらごめんね」

えへへ、とはにかむ彼女は先程とは打って変わって雰囲気が明るくなった。

「ねぇ、赤崎、1つ聞いてもいい?」

少し口角を上げながら優しい瞳をして僕に問う。
僕の正面に座り直して改めて聞くもんだから、謎の緊張が体中に伝わっていく。
僕はコク、と無言で頷いた。

「赤崎はさ、手術したい?」
「手術、か」

何度か手術のことについて調べたことがある。
でもその度に、自分が追い求めている理想像が、違う。そう、納得ができないでいた。
僕は、ただ自分らしく生きたいから。

「僕は手術を受けたいとは思わない」
「...そっか、理由、聞いてもいい?」
「自分らしく、生きたいんだ」

手術を受ける人が、自分らしく生きてないとかそういうことじゃないけれど。
僕はこの体が嫌いじゃない。
自分の一人称、性格、服。全部、好きだから。僕はありのままの姿で人生を謳歌したい。

「なんて言うか、言葉で表すのは難しいんだけど、君が、一ノ瀬がこの僕のために出かけてくれたのが嬉しかった」
「赤崎を初めて見た時、この子はほっとけないって思ったんだよ」
「自分という性別で僕は、この先生きていたい」
「まっすぐだなぁ」

口を開ければ、本音がポロポロ零れていく。
昔から張りつめていた思いが息を吐くように言葉になって、声が震え出す。真っ黒なテレビに映った自分の顔が、声とは裏腹に口角が微妙に上がり、瞳には強い覚悟が感じられた。自分の顔じゃないみたいに。

「赤崎はかっこいいなぁ」
「一ノ瀬も充分かっこいいよ、人のために何かをできるのはね」
「私は、かっこよくなんかないよ。お兄ちゃんだって、結局…」
「一ノ瀬のせいじゃない、お兄さんの頑張ったんだろう?」
「...うん、そうだね。私がこんなんじゃ、お兄ちゃん心配だよね」

よし!、と彼女は自分の頬を両手で叩いた。静まり返った部屋にパチンっと音が響く。

「あ、そうだ!」

思い出したように彼女はもう1つのポケットから淡いピンク色のリップを取りだした。

「はい、どうぞ!」

それを見た僕は急いで立ち上がって机の上に置いてあったリップを手に取った。

「交換、ね」
「ふふ、なんか変なのー」

交換したリップは、同じはずなのに僕が買ったものとは何処か違っていた。

「塗ってあげよっか?」
「はぁ?やめてよ、自分で塗るから」
「つれないなぁ」

悪戯っ子のような笑みを浮かべた彼女は、とても、とても…

「可愛いな」
「知ってるー、私かわいい、よ…」

目の前の彼女の顔がどんどんピンク色に染まっていく。
あれ、今僕、何言ってんだ。

「ばか!なんで今?!てか早くリップ塗ってよ!」

今にも沸騰しそうな彼女。照れ隠しなのか僕の肩を強く叩いた。
そしてリップを持った右手を掴まれ、僕の唇に無理やり付けられる。

「はいはい写真撮るよ!」
「なんで写真撮るの」
「オソロ写真!いいでしょ別に!」

僕は彼女に促され、スマホのカメラを見つめて笑った。
横に座っている彼女は未だ顔を染めながらピースしている様子。
こんな感情になったのは、こんなに胸が締め付けられるのは初めてな気がする。
自分を諦めかけた時の苦しさとはまた違った何が、僕の中で蠢いている。
彼女のスマホの中に取り込まれた写真を見せてもらうと、唇に載っているラメがキラキラと光っていた。
そして僕の顔も赤く染っていた。手を頬に当てると確かに熱い。
自覚した直後、グラりと視界が回転した。
僕の体はソファに沈んだ。

「赤崎?!大丈夫?!」
「はは、大丈夫だよ、ちょっと目眩が…」
「あ、そういえば赤崎ってば風邪ひいてたんだもんね」
「…なるほどそのせいか」

一ノ瀬に言われるまで風邪をひいていたことをすっかり忘れていた。
それ程までに彼女といる時間が大切だったのだろう。
でも、胸が締め付けられるのは風邪のせいだけなのだろうか。
そう考えると同時に、ふぅ、と安堵の息を漏らす。

「赤崎、ありがとう」
「こちらこそありがとう、華織」
「ちょっと、下の名前はずるくない?椿!」
「よく知ってるね、名前」
「あったりまえじゃん!クラス全員覚えてるもん」
「そりゃ凄いな」

数秒の沈黙。
それだけなのにどうしてかとても長い沈黙だと錯覚してしまう。

「ねぇ、椿」
「なぁに」
「私ね、椿に話せてよかった。椿に出会えてよかったよ」
「それは勿論僕もだ」
「昔とは違って、今がすごく息がしやすいの」

清々しいほどいい笑顔の彼女をこれからも隣で見てみたい。
本気でそう思った瞬間だった。

「ありがとう」

_________少しだけ息がしやすくなった気がした。