そうこうしているうちに、女子の400mメドレーが終わった。
次が男子の400m個人メドレーだ。
この学校では、岸田くんが最初の出番になる。
じっと見ていると、プール脇の通路から、彼がゆっくりと歩いて出てきた。
事前にいずみから渡された紙にかかれた通りの、決められたレーンに入る。
4番のところだ。
選手が出そろったところで、長いホイッスルが鳴る。
飛び込み台の上に上がった。

「スタートの横にいる人を、よく見ててね」

 いつもその役は、いずみか別の部員がやっている役。
よく分からない言葉が、突然出てくるやつだ。
その審判長とかいう人が、水平に片手をあげた。
笛がなったら、スタートの合図。

「ピッ!」

 その合図と同時に、選手は一斉に飛び込んだ。
この広い会場中に響き渡るような笛の音だ。
横一列に水しぶきが上がったと思った瞬間、深く潜り込んだ体はぐんぐん進んでゆく。
最初はバタフライ。
岸田くんの泳ぎは綺麗だと前から思っていたけれど、やっぱり他の人間と比べてみても、とても綺麗だった。

「岸田くん、速いね」
「うちのエースだもん」

 いずみはうれしそうに笑う。
くるりとターンして、もう一度バタフライ。
岸田くんのスピードは落ちない。
次のターンのところで、2位の選手が迫ってきた。

「あぁ! 岸田くん、頑張れ!」

 こんな遠くからじゃ、絶対に彼に届いてないことは分かっている。
だけど声に出さずにはいられない。

「がんばれー!」

 ターンと同時に、背泳ぎに変わる。
よくもまぁこんなに、色んな泳ぎ方ができるもんだ。
しかも好きなように泳いでるんじゃない。
手の回し方とか、色々と面倒くさい決まりが細かくあるってのに。
岸田くんが追いつかれた。
2位と3位の選手に並ぶ。

「追いつかれちゃったよ!」
「大丈夫、次の平泳ぎとクロールで、取り返すから」

 くるっとターン。ほぼ3人が横並びになった。
それでもわずかに、岸田くんがリードしている。

「あぁ、がんばれ……」

 これはこれで、見ている方はとても落ち着いていられない。
握りしめた手が、じんわりと汗をかく。
背泳ぎから平泳ぎに変わった。
ターンからの伸びで、岸田くんが他より半身ほど先に出た。

「ね、ターンがどれだけ大事か、よく分かったでしょ」
「分かった分かった。もっと真面目に、ちゃんとするようにするよ」

 岸田くんが他のどの部員より、練習していたのを知っている。
そうか。
だからみんな、今日のために筋トレしたり練習したりしてたんだ。
のんびりビート板に浮かんでる場合じゃなかった。
400mメドレーは一番きつい種目だから、あんまり泳ぐ人がいないって。
だから、勝てる可能性も高くなるって。
岸田くんはそう言って、短い距離を他の部員に譲り、自分が一番しんどい種目に出ている。

 次のターン。
平泳ぎに変わってから、背泳ぎの時より少し余裕が出来たとはいえ、すぐに抜かされてしまいそうな距離だ。
自分が泳いでいるわけでもないのに、なんとも言えない苛立ちと焦りが押し寄せる。

 岸田くんに疲れが出てきたのか、平泳ぎ最後のターンで、また3人が並んだ。
水面に浮かび上がった時点で、ほとんど差はない。
岸田くんの腕が水面に肘から上がって、真っ直ぐ前に伸びる。
そのターンでのひとかきが、彼の始まりの合図のようだった。
自由形といわれるクロールに泳ぎが切り替わったとたん、彼はあっという間に他の人間を後ろにおいていく。

「やった! 岸田くんが抜いてったよ!」

 興奮してしまった僕がつい叫ぶと、周りにいた部員たちは笑った。

「はは。宮野がそんなに、岸田のこと応援してくれるようになるとは思わなかったよ」
「俺たちの時も、それくらい応援してね」
「えっ? う、うん……。もちろん応援するよ」

 そんなことを言われて、逆になんだか急に恥ずかしくなって、自分の顔が赤くなっているのが分かる。
思いがけない言葉に驚いている僕の隣で、いずみは無邪気に笑った。
岸田くんはそのまま逃げ切り、無事1位でゴールを決める。
僕は思わず立ち上がった。

「おめでとう! 岸田く~ん。やったー!」

 大きな声で、岸田くんに向かって叫ぶ。
拍手をして両手をぶんぶん振っていたら、岸田くんはちらりとこっちを見ただけで、特に反応を返してくれない。

「あれ? 聞こえてないのかな」

 そう思って、また彼に向かって叫ぶと、いずみに笑いながら止められた。

「きっと後で、岸田くんに怒られるよ」
「なんで?」
「恥ずかしいからやめろって」

 なんだそれ。
応援されるのが恥ずかしいだなんて、なんだか変わってる。
なんだよ。
人間ってのは、みんな照れ屋さんなんだな。
僕は仕方なくそこに腰を下ろす。
次は一番大事な奏の番だ。
ここまでにいくつかレースを見ていて思った。
僕はくるりと座席に座ったままプールに背を向けると、背もたれに向かってうずくまる。

「あれ、どうした。次は奏だよ。奏は応援しないの?」
「奏のは見ない」
「どうして?」

 ちらりと指の隙間からのぞいたいずみは、もの凄くびっくりした顔をしている。

「そんなの当たり前だよ。奏は何番でも頑張って泳いだし、何をしてたって僕には1番だから」
「あっそ!」

 奏はそこにいるだけでいいの。
怪我とか溺れたりなんかしないで、ちゃんと無事に……。

「違う。そうだ。何かあったら、僕が助けに行かなくちゃ」

 やっぱりちゃんと見よう。
ここからだって、遠いけどきっと1階に飛び降りれないわけじゃないし。
人魚仲間で、こういう競争を遊びでしたことはもちろんあったけど、こんなにドキドキするのは、初めてだ。
奏に自分の泳ぎはどうだったって聞かれても、ちゃんと答えられないし……。
100m背泳ぎの、女子と男子が終わって、次が奏の100m自由形だ。

「あ、ダメだ。なんか緊張してきた」

 もし奏が1番じゃなかったらどうしよう。
それで悔しくて、泣いちゃったりしたらどうしよう。
奏がもし途中で失格なんかになったら……。