春先のまだ冷たい風に、ざわりと木立が揺れる。
ここにいる人間たちの視線の全てが、たった1人の僕に集まっている。
それでも僕は、ここから動かない。ふいに奏が動いた。

「岸田くんのその言い方は、ちょっとよくないと思う。たとえ宮野くんの態度が悪かったとしても、初心者だって歓迎されるべきよ。現に、高校になってから水泳部に入ったメンバーだっているじゃない。それでも泳ぐのが好きだっていうなら、私は歓迎する」

 張り詰めた空気の中、奏の手が僕の背に触れた。
彼女の目が、僕の視線と重なる。

「ね、私の話を聞いてくれる? 宮野くんにはね、筋トレが必要だと思う。いまの宮野くんにとって、一番大切で、必要なもの。それは自分で自分の体をみていて、よく分かってるでしょう?」

 彼女のおだやかな微笑みに、僕はうなずく。
彼女の言うことなら、なんだって聞く。

「それは私にとっても、ここにいる皆にとっても、同じくらい大事なものなの」
「同じくらい大事って?」
「ここにいたいと思う理由」
「奏は、本当にそう思ってるの? 僕がここにいることと、同じくらいに?」
「そう。だからやってる」

 それでもし、僕も彼女と同じ気持ちになれるというのなら、僕はその言葉に従おう。

「奏は好き? 水泳部と筋トレが」
「うん。好き。大好き」
「そっか。じゃあ僕も好きになる」
「よかった」

 奏が好きなら、僕も好きにならなくちゃいけないから。

「だから岸田くんもみんなも、ちゃんと仲良くして」

 振り返った彼女を、岸田くんは忌々しげに見下ろす。

「くだらねぇ。だったらコイツの面倒はお前がみろ!」
「男子部員をまとめるのは、岸田くんの役目でしょ。ねぇ、いずみも!」

 奏の声に、黄色い長い髪の女の子はビクリと肩を揺らす。

「男女のマネージャーを兼任してるんだから、ちゃんと彼のこともケアしてあげて」

 奏は改めて、そこに集まっている人間たちをゆっくりと見渡した。

「泳ぎたいって言ってる仲間を、ちゃんと受け入れることも必要だし、それも私たちの役目だと思う。同じことを、宮野くんにも言えるけどね。本当に水泳部に入るつもりなら、他のメンバーとも仲良くすること!」

 奏が僕をかばってくれている。
彼女は許してくれたんだろうか。
君を泣かせてしまった僕のことを。
君が本当に僕のことを思ってくれる日がくるのだとしたら、僕がここに残る意味も出来る。

「分かった。そうする」
「ちゃんとみんなと仲良く出来る?」
「出来る」

「岸田くんの言うこと、素直に聞ける?」
「これからは、ちゃんと聞く」

「同じ水泳部のみんなとも、仲良くする?」
「する」

「そう。よかった。じゃあ私は信じるよ。だって私との約束も、ちゃんと守ってくれてるもの」
「そんなの、当然じゃないか」

 じっと彼女を見つめたら、その顔はちょっと赤くなった。

「じゃあいいよ。筋トレ再開ね」

 奏の顔は見る間にどんどん真っ赤になって、さっきまで一緒に体操していた女の子のところへ逃げるように行ってしまった。

「奏? ねぇ、奏は照れてるの?」

 近寄ろうとした僕を、制止するように彼女は片手をあげた。
その仕草に、僕はピタリと動きを止める。

「筋トレ再開ね!」

 奏が僕に話しかけてくれている。僕の方を見て、僕に声をかけてくれるから、僕はうれしくなってつい笑ってしまう。

「うん。分かった。奏がそう言うなら、いつだって僕はそうするから」

 そんな奏を見ながら、僕はまだにこにこしてしまっている。
岸田くんは「はぁ~」とため息をついた。

「何なの? お前」

 彼は僕に呆れてはいるけど、もう怒ってはいないようだった。

「もう俺には無理。つーか、お前とやってたら俺の練習にならないから、ペア交代な。入部、するんだろ?」
「もちろん」

「あー。だったらもういいよ。ただし、さっきの約束はちゃんと守れよ」

 練習は再開された。
冬の終わりの湿っぽい広場で、いつもの風景に戻ったのはいいけれど、やっぱりプールの水は緑のまま汚くて、彼らはそこで泳ごうとする気配もない。
もしかして、僕の「泳ぐ」っていう意味と、人間の「泳ぐ」っていうのは、少し意味が違うのかなーなんて、そんなことを思い始めていた。