レンズの先、君が写す色彩は


 ──1色だけの写真なんて、目がおかしくなったみたいで気分が悪い。

 ──なんでわざわざ変な写真を撮るの? せっかく良いカメラを使っているのに……。

 ──君がその写真を「良し」とするなら、君、写真部は向いてないよ。


 そんな言葉を浴びせられることが普通だった。
 自分でもなんとなく、おれがとる写真は普通じゃないんだろうな、とは思っていた。
 だけど、それがおれの『作風』だ。
 それを否定されるのは、『個性』を否定されるみたいで、苦しい。

 岩城さんのメッセージは救いだった。
 おれの写真を「良し」としてくれた人。
 1人でも気に入ってくれる人がいるのなら、写真を撮り続けていようって、そう思った。

 あのころはちょうど、絶望に暮れていた時期だったけど、岩城さんのメッセージを読んだその日だけ、世界が煌めいて見えた。
 だから、その日の写真はカラフルな花畑の写真だった。

 でも、あれからもう二度と、色鮮やかな写真を撮っていない。
 ある出来事があってから、もう絶望なんてしたくないと思っていたから。

「……思い出したら、苦しくなるな」

 脳裏に焼き付いて離れない言葉が蘇ってきて、胸が締め付けられるような気分になる。

「写真、撮りに行こうかな」

 今の気分は──重い灰色だろうか。
 とにかく、学校にいては切り取ることのできない色だ。

 荷物をまとめて空き教室を後にする。
 すっかり日は落ちて、あたりは真っ暗だ。
 おれの求める色は、すぐに見つかりそうだった。

 カメラを構えて、ピントを合わせる。
 遠くに浮かぶ、黒い雲。

 さっきまでは星が見えていたのに、もうすぐ雨が降りそうだ。

 なんだか、今の気分にぴったりじゃないか。
 希望の象徴──星を覆い隠す、分厚い雨雲。

 シャッターボタンに指を乗せ、シャッターを切ろうとした、その瞬間。
 レンズ越しの世界の中に、薄いもやがかかった。

 霧でもかかり始めたのか、それか陽炎か。
 どちらにしろこの時間にはふさわしくない現象に、思わずカメラを下ろす。
 だけど、そこには何もなくて、ただ真っ黒な空があるだけ。

 怪訝に思いながらもう一度カメラを覗くと、今度は確かにもやがかかった。
 そのもやにピントを合わせてみると、リボンのような何かが見えてきた。
 ヒラヒラと揺れる青いスカートにシャツ。
 短い髪が風に揺れている。

 ……幽霊?

 そう思ったけど、違うみたいだ。
 確かに足が地面についていて、くっきりと輪郭が見えてきたから。
 ──さっきのはただのピンボケか。

「ねぇ、邪魔」

 そこにいるのがただの女子高生だと分かったら、腹が立ってきて、言葉がきつくなってしまった。

「そこにいたら、写真に入るんだけど」

 そこの女子はきょろきょろと首を振って、自分以外に人がいないことを確認する。
 彼女と視線がぶつかる。
 その大きな瞳は、絶望に染まっていた。

「……なんで……?」 

 絶望した瞳からは、涙がこぼれた。
「ねぇ、邪魔」

 カメラを持った男子が発した言葉は、わたしに向けられたものらしかった。

 消えたはずなのに。
 世界にわたしはいないはずなのに。

「……なんで……?」

 なんで、彼にはわたしが視えてるの?
 やっと解放されたんだって、楽になりかけていた心が強張った。

「あ、分かった! わたし、幽霊になったんだ。消えるってそういうことかぁ」

 涙で滲んだ目を無理矢理笑顔の形にして、できるだけ明るく振る舞う。
 そうだ。きっとそうだよ。
 わたしはちゃんと消えてて、あの子に霊感があるだけなんだ。

「ほんと、びっくりさせないでよ。それにしても、霊感がある人なんて初めて見た」

 彼は訝しげにわたしを見つめて、

「幽霊? そんなわけない」

 と言い捨てる。

「地面に足がついてる。透けてもないし浮いてもない。どこが幽霊だよ。──馬鹿なの?」

 一気に捲し立てた彼に、心臓が冷え込んだ。
 視えてるんじゃなくて、見えてる。
 つまり、わたしは消えてなんかいなくて、解放されたってのも、わたしの思い込みだったみたいだ。
 膝から力が抜け落ちて、地面に座り込んでしまった。

「……は?」

 上の方から、彼の声がする。

「消えた……」

 呆然と呟いた彼に、え、と小さな声が漏れる。
 彼はそのまま、カメラを覗き込む。
 わたしになんて、元から興味がなかったみたいに。

「──あ」

 レンズ越しに、彼がわたしを捉えた。
 彼はサラサラした色素の薄い髪をくしゃくしゃにかきむしる。

「幽霊とか消えたとか、意味不明すぎる。でも、話だけ聞いてやる。その代わり──」

 彼はくいっとカメラを持ち上げた。

「写真、撮らせて」

         *

「つまり、七海くんがカメラを覗いたときだけわたしが視える──、と」

 公園のベンチに並んで腰かけて、2人で話したことをまとめるとそうなる。

 わたしは確かに、あのパウダーによって消えた。
 その証拠は2つ。
 まず、カメラ少年の彼──七海くんが座り込んだわたしに差し伸べてくれた手を、掴むことができなかったこと。
 もう1つは、公園を通りかかった警察官に注意されたのが七海くん1人だったってことだ。

 もちろん、七海くんがそのまま見るだけだと、わたしは視えない。
 なぜかは分からないけど、写真にだけ写り込むらしい。
 実際、七海くんが撮った写真全てに、わたしの影だったり、体の一部だったりが写っていた。

「心霊写真とか、そういうのに近いんじゃないの」

 カメラ片手にむすっと呟いた七海くん。

「なんでそんな不機嫌なの……?」

「だってさ」

 カメラ越しに、彼はわたしを指差した。

「岩城だって黙ってるの、ひどくない?」

 彼にだけ視えるってことも驚きだけど、もう1つ驚くべき事実があった。

「そんなの分からないよ。展覧会で作品を見ただけなのに」

 そう。
 半年くらい前に訪れた北高展覧会で、七海くんの作品についてアンケートに記入したことがあった。
 確かに、七海彩人ってきれいな名前だなって思った記憶がある。

「だけとか言わないでくれる?」

 七海くんは少し辛口な言葉を使うけど、なんだかんだ言って優しいんだと思う。
 今も、カメラをずっと持って、わたしを視ながら会話してくれている。
 カメラを持ち上げ続けるのって、地味にしんどいんじゃないかな。
 別に姿が視えなくても、会話はできるみたいだからそんなことしなくてもいいのに。

 そんな魔法の力に引かれるみたいに──と言ったらロマンチックすぎるけど、不思議な出会いを果たしたわたしたち。
 七海くんと話すときは、少しだけ呼吸が楽になる気がする。
 神さまか誰かが、人生のさいごに、いい人と引き合わせてくれたのかな。

「──で、なんで消えようと思ったわけ?」

「いきなり深く切り込むね」

「単刀直入に聞く方が早いでしょ」

 七海くんの瞳は真剣だ。
 人間関係めんどくさくなっちゃってさ〜、なんて言っても、通じないんだろうな。あながち間違いではないんだけど。

「……2番って、辛いじゃん」

 考えた末に出てきた言葉は、結局あいまいにぼかすような言葉だった。
 七海くんの眼に、それで? と続きを問われる。

「2番も最下位も、結局いっしょだと思うの。1番になれなかったってことは同じだから。……そういうこと」

 自分でも、どういうこと? と突っ込みたくなってしまうような答えだ。

「なんか分かるかも。準特選も佳作も、変わらないよなって思うし。よく頑張りましたね、とりあえず賞をあげますね、みたいな」

 意外にも七海くんは賛成してくれた。
 書道部と写真部、同じ文化部なんだから通ずるところはあるのかもしれない。

「七海くんでも1番にはなれないの?」

「おれの写真は気味が悪いから。グランプリなんてハナから諦めてる。でも、なけなしの佳作とかはウザい」

「そういうとき、息苦しくならない?」

「息苦しくはならないけど、色が消える」

 目を瞬いたわたしに、七海くんは言葉を付け足した。

「絶望感で、世界が真っ黒になるみたいな感じ?」

 息が吸えない水の底に落ちていく。
 そう思うことがたまにあるけど、それと似ているのかもしれない。
 この話をしていたら気分が沈んで、いつのまにか首がうなだれている。

「おれが色が消えるって感じるのと同じように、岩城は息がうまく吸えなくて、それで消えたってこと?」

 七海くんの出した結論があまりにも的を得ていて、声が出なかった。
 代わりに首を縦に振る。

「消えるってほぼ自殺じゃん。死にきれないって、余計辛くないの?」

「……息が吸えないよりは、全然マシ。誰からも関心されないって、楽だよ」

 へぇ、と彼が呟いたのを最後に、会話が途切れた。

 時計の針が10時を指している。
 七海くんのとなりは心地よくて、思っていたよりも時間が過ぎてしまっていたみたいだ。

「七海くん、そろそろ帰る?」

 わたしはお母さんたちには視えないから、帰っても帰らなくても同じだけど。
 七海くんは時計を見上げて、あぁ、と気だるげに呟いた。

「──岩城」

「明日も会う?」

 思いがけない言葉に、目を見開いた。

「無関心がいちばんとか言っといて、話聞いてほしそうな眼してるから。……それに、写真撮れてない」

 わたし、七海くんに話を聞いてほしいんだろうか。
 もしそうじゃなかったとしても、七海くんのとなりでいると安心できるのは事実だ。

「じゃあ……会おっか」

「ん。そしたら、この公園に集合な」

「分かった。……また明日」


 岩城恵真は、世界から消えた。
 誰とも関わることなく、ひとりぼっちで生きていくんだと思ってた。
 でも、もうしばらく、「また明日」が続くみたいだ。

 先生が板書をする音だけが教室にこだます。
 その音は、おれの意識を授業から遠ざけさせる。

 いつのまにか、昨日の夜のことを考えていた。
 おれの写真を肯定してくれた『岩城さん』。
 そんな彼女に、偶然出会った。

 おれの中の『岩城さん』は真面目な優等生みたいな、そんなイメージがあった。
 ただ、昨日出会った『岩城』はそのイメージを覆した。
 優等生であることは間違いない。
 優等生であるが故に、期待されて、それに押しつぶされて、苦しんでいるんだろう。

 ──誰からも関心されないって、楽だよ。

 彼女が発した言葉。
 あのとき彼女は微笑んでいたけど、悲しさが拭いきれない笑顔だった。

 たぶん、岩城は岩城を大切だと言ってくれる人を求めてる。
 岩城をいちばんに大切にしてくれる人を。

 おれがそうなりたくて反射的に明日も会おうなんて言ってしまったけど、なれないことは分かりきっている。
 おれはもう、大切なんて作らないって決めているんだから。


「おい、七海」

 先生の声に授業に引き戻される。
 黒板には古文が書かれていて、「あらず」という所に線が引かれている。

「『あら』の活用形は?」

「『ず』の上なので未然形、です」

 きちんと正解を述べたはずなのに、クラスメートの視線は冷ややかだ。
 世界から色が消えていく。

 ──七海くん。

 無色になった世界の中に、桃色の雫が一滴落ちた。
 それは波紋を使って、世界を桃色に染めていく。

 岩城の眼が、表情が、声が、頭から離れない。
 岩城が『大切』になっていく。
 ちがう。
 これは、写真部の七海彩人にとっての『大切』だ。

 『岩城』に対する『大切』は、そんなんじゃなくて──。

 その想いに気付いてしまって、絶望しているおれがいる。
 そして、それを必死に否定しようとするおれ。
 突き放されるかもしれない。
 そんな恐怖が頭を支配する。
 この恐怖の根元にある出来事。

 これだけは、岩城に知られたくないな、と思う。

          *

 授業が終わり、昼休みになった瞬間、おれは教室を抜け出す。
 そして人のいない生物室に逃げ込む。
 生物室は、薬品の臭いがしたりいろいろな模型が置いてあったりして、生徒たちはあまり寄り付かない。
 それさえも、おれにとっては好都合だ。

「ねぇ」

 弁当箱の蓋を開けようとした瞬間に、小さな子供の声がした。
 でも、学校に子供なんているわけがない。
 きっと気のせいだ。
 岩城の言うとおり、おれには霊感があるのかもしれない。

「ねぇ、聞こえてるんでしょ? ちーちゃんの声」

 気のせいだなんて言えない事態になってしまった。
 子供に制服のシャツを引っ張られている。

「……なんだよ」

「お兄ちゃん、恵真のことが好きなんでしょ」

 にぃっと不気味に笑うその子供。
 突然図星を刺されて言葉が詰まった。

「ちーちゃんは知ってるんだよ? お兄ちゃん、恵真に一目惚れしたんだ。ピンク色の写真を撮りたいって思ってる。だけど、大切だって思うのが怖いんでしょ? 知ってるよ。ちーちゃんは物知りだもん」

 ちーちゃんと名乗るその子供はケラケラと笑って、おれから手を離さない。

「いいの? 恵真はいなくなっちゃうよ?」

「……は? 今日も会おうって約束して──」

「無駄だよ」

 笑顔の少年の瞳には温度がない。

「だって、恵真は消えるんだもん」

 さっきからふわふわとかわされて、話の核心に迫れない。

「ぜーんぶ教えてあげよっか? 恵真は、恵真を大事って思ってくれる人がいないと消えちゃうんだよ。お兄ちゃんが『大切だ』って伝えないと、完全にいなくなっちゃう。
 ──あ、でも、そっちの方がちーちゃんは嬉しいなぁ。恵真とずっと一緒にいられるし、こっちの世界は空気が綺麗なんだもん。
 早くしなよ、お兄ちゃん。真実の愛をちーちゃんに見せて?」

 馬鹿にするように笑ったあと、その子供はふつっと姿を消した。
 意味がわからない。
 岩城が完全に消えるとか、真実の愛だとか、馬鹿げてる。
 でも今の事態──人間が姿を消せることだって、もうすでに馬鹿げてる。
 だから、あの子供の言うことも、本当なのかもしれない。

 岩城がいなくなったら、おれは。
 おれは、壊れてしまうだろう。

 岩城のためにも、おれのためにも、この気持ちを伝えることがいちばんだ。
 でも、拒絶されたらと思うと、怖くて仕方がなくなる。

「無理だ…………」

 立っていられなくて、ずるずると座り込む。

 あの子供に言われたって、どんな理由を並べられたって、おれは結局。
 怯えて何もできずに、うずくまっているだけなんだ。

 世界からいなくなって、初めて夜を明かした。
 半日くらい経っただろうか。
 窓の外に見える、太陽に照らされる街はいつもと変わらない。
 リビングから賑やかな声が聞こえる。
 弟が起きてきて、朝ご飯を食べているんだろう。
 わたしがいなくても家は活気に溢れている。そのことが虚しくてたまらない。

「ちょっとくらい心配してよ……」

 とは言っても、お母さんには『薫の家に泊まる』と言ってあるから、心配する要素なんて微塵もないんだけど。
 でも、学校がある日にお泊まりなんておかしいって、思ったりしないんだろうか。

「あぁもう! グダグダ考えるのやめ!」

 底なし沼に沈んでしまいそうな思考回路を捨てて、制服のシャツに手を伸ばした。
 スカートのシワをのばして、リボンのゆがみを直す。
 姿は誰にも視えないけど、一応学校には行くつもりだ。
 授業に置いていかれることだけは避けたい。

「行ってきます」

 玄関を出るとき、振り向きざまに呟く。
 でも、やっぱりそこに「行ってらっしゃい」はなかった。

         *

 教室の後ろに立って、授業の様子を眺める。
 寝ている子がいたり、真面目にノートを取っている子がいたり。
 誰もわたしの席が空席だなんて気にしてなくて、そんなもんなのか、と思う。
 先生も友達も、わたしのことを優等生呼ばわりする割には、優等生が休んでもなんとも思わないんだな。
 ……自惚れすぎかな。

 そんなことを考えながら過ごしていたら、もう5限目が終わって、みんなが体育の準備に向かい始めた。
 体育の授業くらい、サボってもいいよね。
 わたしの足は、書道室の方向へ歩み始める。

 書道室の扉をそっと開くと、顧問の宮田先生が黙々と筆を動かしていた。
 宮田先生の書は、自由で伸びやかだ。
 鳥が空を飛び回るように軽やかな筆遣い。
 先生の思う通りに筆が動いてくれるって感じがする。

 先生の書く作品の隣には、薫の書があった。
 ちょうど、薫のお手本を書いているところみたいだ。
 薫の書は楽しそうだ。
 跳ねるように、踊るように。
 楽しんで書道をしてくるのが伝わってくる作品。

 薫の書も、宮田先生の書も大好きだ。
 でも、見れば見るほど辛くなる。
 わたしには足りないところばっかり目について、好きが埋もれていく。
 息が苦しくなっていく。

「あーあ」

 わたし、こんな気分になりたくて書道室に来たんじゃないのに。
 静かで、墨の香るこの部屋なら、楽でいられるかなって思って来たのに。
 これじゃ、消える前と変わらないよ。

 棚から書道セットを取り出して、筆を墨に浸す。
 もやもやしたこの感情を半紙に押しつける。

「楽になりたい……」

 藍。
 頭に浮かんできた文字を書きつける。
 深すぎて、青より黒に近い。そんな色。
 この闇も深すぎて、暗いところしか見当たらない。

 半紙に墨が滲んでいく。
 今わたしがカメラを持っていたなら、海に飛び込んで、深い深い海の底の写真を撮りにいくだろうなって、そう思った。
         *

「──岩城」

 名前を呼ばれて我に返ると、いつのまにかあの公園にいた。

「……あれ?」

 書道室にいたときから記憶がない。
 あのあと、どうしたんだっけ。

 七海くんはわたしの手を見つめて、

「書道してきたのか」

 と呟いた。
 わたしの手は墨で汚れて真っ暗だった。

 続けざまに、彼は「書道もありか」とひとりごちる。

「岩城、なんかあった?」

 今日は七海くんの口数が多い。
 そして鋭い。

「息苦しいなぁってだけだよ」

「その息苦しいのって解消できないわけ?」

「──死ぬしかないのかなって、思ってるよ」

 七海くんの眼が、月明かりを反射してぎらりと光る。
 自殺なんてやめとけって言われるんだろうな。
 そもそも、死ぬ勇気なんてないけど。

「そか」

 思いのほかあっさりした反応に拍子抜けする。

「誰かに『岩城が世界で一番大事』って言われても、死ぬしかないって思う?」

 月を見上げる彼の口からこぼれ落ちた言葉。
 わたしが誰かの1番な世界線。
 そんなの、ありえないけど。

「ちょっとは息が楽に吸えそうだなって思う」

 ふーん、といかにも興味がなさそうな返事。
 七海くんは何を考えているのかがよく分からない。

 その後も、愚痴を話したら楽になるかとか、そんな話を聞かれて、たくさん愚痴を話した。
 愚痴と言うよりかは、不満と不安の入り混じった気持ちだ。
 なんで、どうして──。
 そんなどうしようもない感情を、七海くんにぶつけた。

 七海くんは、返事はそっけないけど、ちゃんと話を聞いてくれた。
 相槌を打ってくれて、ハンカチを渡してくれて。
 隣にある七海くんの体温が、とにかくあたたかかった。

 家に帰る七海くんの背中を見送って、わたしも家へと歩みを進める。
 学校でいたときはひんやり冷え切っていた心が、七海くんと話してからはこんなにあたたかくなっている。
 七海くんの存在は、確かにわたしのなかで大きなものになっていた。