高校二年の春だった。
朝、靴箱を開けたら、可愛い石鹸が入っていた。淡い水色をしている、星形の石鹸。透明な袋に入れられていて、袋の口はモールで縛られていた。
私は上履きを取ろうとしていた手を思わず引いた。
……何これ?
周りの人が靴を履き替えてそれぞれの教室へと向かっていく中、私は自分の靴箱の前から一歩も動けずに固まる。
「あっ、バスボム」
ふいに肩口を誰かが覗き込んできて言った。
振り向くと、そこには見慣れた顔があった。
「藍染! 寝坊したから遅れてくるんじゃなかったの? 早いじゃん」
今朝、LIMEで送られてきた「ごめん星紗ちゃん。寝坊したから先に学校いってて」という文面を思い出して言う。
「親の車で送ってもらった……。めっちゃ焦った」
後頭部を片手で掻いて、藍染はまだ寝足りなさそうにあくびをした。そんな仕草ですらどこか愛おしく見えるのは、藍染が私の彼氏だからだと思う。
「てか、バスボムってなに?」
私は石鹸だと思った水色のバスボムとやらを指差して尋ねる。自然と眉間にシワが寄った。
「え、バスボムはあの、固形の入浴剤。お風呂に溶かして、色と香りを楽しむやつ。誰かからのプレゼントじゃない? 差出人の名前とか書いてないの?」
「……ないね」
バスボム一つだけが入った袋を持ち上げて、色んな角度から眺めてみた。けれど、どこにも名前は書かれていない。
「まあ、でも可愛いのもらえてよかったじゃん」
「よかったのかな……。私、こんなのもらうようなことした覚えないんだけど」
「まあまあ、もらえるものはもらっとけって言」
のんきな口ぶりで言った藍染が、私の隣で靴箱を開ける。そして、ほぼ同時に藍染の声が途切れた。
「え、なにどうしたの?」
「俺のとこにも入ってた……」
藍染は透明な袋に入れられた、イエローの星型のバスボムを取り出してみせた。
「ねえ、このなかにバスボムが靴箱に入ってた人いない!?」
教室の皆にそう呼びかけると、談笑していたクラスメイトたちは驚いたように振り向いた。
「バスボム?」
「えー、なかったけどー」
「俺もー」
皆が顔を見合わせて、そんな反応を返してくる。
「私と藍染しかもらってないみたい」
「ええ? ワンチャン、クラス全員もらってるんじゃないかと思ったのに」
どうやら、そういうわけでもないようだ。
何で私と藍染にだけ……?
「俺、きょう風呂入る時このバスボム湯船に溶かしてみようかな」
「や、やめなよ。何か怪しいし。もしかしたら毒入りかも……」
しかも、お菓子や手紙ならまだしも、バスボムって。プレゼントのセンスがちょっと洒落ているところも怪しい……。
「僕のプレゼント受け取ってくれた?」
そのとき、後ろから声が聞こえて、教室の前に突っ立っていた私と藍染は振り向いた。
そこに立っていたのは、制服に白衣を羽織った男子だった。
スッと脚は長く、中学のころにバスケをやっていた藍染よりも背が高い。ぱっちりした二重瞼の下には形の整った瞳が黄金比と言わんばかりに収まっていて、黒縁のメガネが知性を感じさせる。彼は、私と目が合うとにっこりと柔和な笑みを浮かべた。
「綺麗なお兄さん……」
「え?! 星紗ちゃん!?」
恍惚と呟く私を見て、藍染が慌てた声を出す。
「うわ、やばい! 化学部部長の円城寺さんだ!」
教室の中の女子たちが一斉に席を立って、ドアの近くに駆け寄ってくる。
円城寺。そういえばいつだったか三年にめっちゃカッコいい人がいるとか話題になってた気がするけど……。
「あの、これは、あなたが?」
私は持っていたバスボムを見せる。
「そうだよ。それは僕が作ったんだ」
「えっ!? 作ったんだ、すごい。てっきり市販品かと」
「ふふ」
手放しで褒める藍染に、円城寺さんは、ちょっとはにかんで笑った。
「あ、あのでも、何でこれを私たちに?」
私は首をかしげた。
円城寺さんとは今まで一度も話したこともない。廊下ですれちがったことすらなかった気がする。
こんなものをもらう筋合いはないはず。
「私たち、円城寺さんに何かしましたっけ? 何かのお礼とか?」
「うーん、そういうわけじゃないんだ」
「……?」
「君たちのことが好きだからだよ」
一瞬、場に静寂が落ちた。さっきまでドアに張り付いてきゃあきゃあと円城寺さんを見ていた女子たちまでもがシンとなっている。
私と藍染はポカンとなった。
「……えっと、それはその、ファンとか、推し、みたいな感じの意味で?」
こわごわと藍染が訊いた。
「いいや、恋愛的な意味だよ」
首を左右に振って、彼は確かにそう告げる。
……ん?
「僕は、白瀬さんと藍染くん二人のことが恋愛的な意味で好きなんだ。どちらか一人なんて選べないし……、そもそも藍染くんと白瀬さんはつきあっているよね? そんな仲睦まじい二人をむりやり別れさせて二人に悲しい思いをさせたいわけでもない。僕が好きなのは常にニコイチの二人だからね」
「えっと……つまり?」
私が尋ねれば、一呼吸おいて、円城寺さんは言った。
「藍染くんと白瀬さんと、僕の三人でつきあわない?」
水を打ったように辺りが静まり返り、やがて女子たちの絶望の絶叫が廊下に轟く。
「それで~?」
「断ったよ……」
興味津々といった様子で見つめてくる香奈に、私は弱々しく答えた。
「えー? 円城寺さん頭も顔もスタイルもいいし、思い切ってつきあっちゃえばよかったのに」
「倫理的に考えてムリでしょ……」
私と藍染が付き合っているところに、円城寺さんが混ざって三人でつきあうなんてどう考えても異常だ。
体育のバレーの試合を横目に、香奈は「ふうん?」とだけ言ってにやけている。
香奈は去年まで同じクラスだった私の親友だ。二年になってからは私がA組、香奈がB組とクラスが離れてしまったけど、体育の授業は隣のクラスと合同で行われるのでこうして一緒に受けることができた。
「まあ円城寺さん振ったのはもったいないけど、でも星紗は藍染くん超大好きだし仕方ないか~。今朝も、『藍染、寝坊したらしくて同じ電車のれなかった……』って悲しそうに私にLIMEしてきたもんねー」
「ちょ、やめてよ」
肘でこづかれたとき、不意に視線を感じた。
少し遠くの壁にもたれている森永さんが、こちらを見つめていたのだ。
「星紗さ、森永さんとクラス離れてよかったよね」
香奈も視線に気づいたのか、ぽつりと言葉をこぼす。
その途端、一年の時の苦い記憶がよみがえってきた。
くすくすという耳にこびりついた笑い声が。
「えっと……」
香奈の言葉に何て受け答えするのが正解か迷っていると、試合終了の合図の笛が鳴り響いた。
「あ、次の試合うちらのチームじゃん。星紗、行こ」
「う、うん」
立ち上がった時には、森永さんはもうこちらを見ていなかった。
「二人とも今から放課後デート?」
帰りのSHRも終わり、藍染と並んで昇降口へ向かっていると、円城寺さんと鉢合わせてしまった。
今朝、私たちに振られたばかりなのに落ち込んでいるそぶりなどなく、愛想よく笑いかけてくる。これが先輩の余裕?
「まあ……」
「いいなあ! 僕もまぜてくれないかな」
「それはちょっと」
即座に断る私。
「そんな毛嫌いしないで。さみしいじゃないか」
「毛嫌いっていうか、警戒してるんですよ」
「警戒?」
大きな瞳を瞬いて、円城寺さんは私の問いに首を傾ける。
「いや……、だって、普通は三人でつきあおうとか言わないじゃないですか」
「でも【普通】の基準は、人によって違うよ?」
円城寺さんがサラリと深いことを言ったので、ヒヤリとした。
「そうだ。ちなみに、今朝言いそびれたけど、白瀬さんのバスボムはバニラの香りで、藍染くんのはシトラスの香りだよ」
「はあ……」
曖昧に返事をする。しとらすってなんだっけ。
「そういえば、円城寺さんって俺らのどこが好きなの?」
邪気の無い瞳で藍染が尋ねると、円城寺さんは語り始めた。
「それはね、僕が君たちを初めて見たのは二週間前だったんだけど」
円城寺さんは、ふと廊下の端で、物理の教科書を忘れた私が、藍染から教科書を借りているのを見かけたのだという。
「その時、僕は思ったんだ。かわいいなあ!って」
「え、どこがですか?」
「からかわれたら恥ずかしいからって、わざわざ教室からちょっと離れた人目のない廊下で教科書を貸すっていう藍染くんも可愛いし、彼氏に教科書借りることになって照れてる白瀬さんもとてつもなく可愛かった。二人まとめて守ってあげたいと思ったんだよ!」
「聞いてもいまいち納得できないんですが……」
やっぱり変、この人。
「……」
「あ、今日は黄緑のピラミッドみたいなバスボム」
翌日、また私と藍染の靴箱にはバスボムが入れてあった。私のは、今日は雪玉みたいにまん丸で真っ白い。ていうか、これまさか毎日つづくんじゃ……。
「おはよう!」
憂鬱に思いつつも、バスボムを鞄に仕舞っていると、まるで待ち伏せていたかのようなタイミングで円城寺さんがやってきた。
「今日のバスボムは、白瀬さんのがシャボンの香りで、藍染くんのがメロンの香りだよ!」
「え、メロンすき」
藍染がそう言った。
「……あの、何でバスボムなんですか? 普通は好きな人の靴箱に入れるものって、お菓子とか……ラブレターとかじゃないんですか?」
私は気になっていた点を尋ねてみた。円城寺さんはちょっと困った顔で笑って答えた。
「お菓子だと、カロリーが気になるだろうし、手紙だって置く場所や保管に地味に困るし、キモいとか思われて捨てられたらさすがにちょっとショックだし……」
この人にもショックとかいう感情あるんだ。感心。
「でもほら、その点、バスボムなら化学室にある材料で簡単につくれるし、お湯に溶かせば消えるし、入浴時にリラックス効果とか美肌効果もあるし良いことしかないじゃないか! あと、見た目的にも可愛くておしゃれ!」
「一応、いろいろ考えてのバスボムだったんですね……」
「お? 印象アップした? 三人でつき合ってくれる気になった?」
「いや……なりませんよ」
ため息まじりに言葉を返す。この人は全く諦めていないようだ。「それは残念だなぁ」と彼はシュンと肩を落とした。けど、またすぐに私に尋ねてきた。
「そうだ! 白瀬さん、昨日あげたバスボムは使ってみた?」
「え? いや、使ってないですけど……」
「俺つかったー」
「つかったの!?」
藍染がしれっと言ったので驚いて二度見してしまった。
「うん。なんかね、湯船に溶かしたらすごいいい匂いだったし、家族にも好評だった」
円城寺さんを見ると、彼はニコッと笑いかけてきた。
こいつ、本気だ……。ふざけてるように見えてかなり本気。
「ていうか、サラッと私と藍染のことが好きだって昨日言ってましたけど……円城寺さんってその、同性もすきになれるタイプの人なんですか……?」
「え、わかんないなぁ。それは。今まで男の子を好きになったことはないから。でも藍染くんのことは好きだと思うよ。もちろん白瀬さんのこともかわいいと思う」
うきうきと楽しそうに言われて、もうどうしたらいいかがわからなくなる。
「え!? まだ続いてんの!?」
「うん……」
例によって体育の授業中。
私は、円城寺さんからのバスボムがあれから毎日靴箱に入れられているということを香奈に報告していた。
「いいじゃん、もうつきあっちゃえば?」
「やだよ、私には藍染が居るし……」
「だからー、円城寺さんもそれはわかってて、三人でつきあおうって言ってるんでしょ」
「倫理観がおかしいもん」
「あはは、だよねー。言ってみただけー」
「ちょっと面白がってない……?」
そう言ったところで、遠くから、「香奈ー、ちょっとこっちきてー」と知らない子が声を上げているのが聞こえた。
「あー、クラスの子だわ。ちょっと行ってくる」
香奈は笑って立ち上がると「なにー」と楽しそうに言って駆けていく。
退屈になった私は体育館の床に座ったまま、皆のバレーの試合を眺めていた。
「ねえ」
声をかけられて顔を上げる。そばに、緊張した面持ちの森永さんが立っていた。
「も、森永さん」
「あの……」
その時、ひそひそとこちらを見て何かを話す女子たちが遠目に見えた。
やっぱり何でもない、と森永さんは何か察したように足早に去っていった。
「星紗、大丈夫!?」
森永さんがいなくなるとすぐさま、香奈が飛んできた。
「え、大丈夫だけど」
「だめでしょ、森永さんと話してたら……! 前みたいなことになるよ」
「……」
私は、遠ざかっていく森永さんの華奢な背中を眺めた。何も言えなかった。
「藍染って、男も好きになれるタイプ?」
体育の授業が終わって教室に戻るとき、藍染が廊下で絡まれているのを見かけた。心臓が縮こまる思いだった。
「え? 何で?」
藍染がキョトンとしたように返答をする。
「だって、円城寺さんに言い寄られてんのに全然嫌がらねーじゃん?」
「普通はもっと、『うわ、キモ!』とかさ、『俺の彼女狙うんじゃねーよ』とかー」
胸がざわつく心地がした。
「藍染!」
私が呼びかけると、藍染に絡んでいた彼らはハッとした様子になった。「やべ」、「彼女に聞かれてんじゃん」と足早に逃げ去っていく。
「星紗ちゃん」
「なにあれ、大丈夫?」
私が心配して駆け寄るけど、藍染はへらりと笑った。
「あー、うん。別に。……ていうか、俺が好きなのは星紗ちゃんだけで円城寺さんのことは何とも思ってないし。安心して」
「……それは、わかってるけど」
自分の中で、焦りが大きくなっていくのがわかる。まさか、私の知らないところで藍染があることないこと言われているなんて知らなかった。
もし事態が悪化して、一年前の私の時のようなことになってしまったら……。
耳にこびりついた笑い声を鮮明に思い出して、苦しくなった。
「あれっ、奇遇だね!」
そのとき、また良すぎるタイミングで円城寺さんが通りかかった。移動教室から戻る途中なのか教科書とノートを持っていた。
「あんまり、私たちに近づかないでもらえますか……」
どうしてか、私は唐突にそう硬い声で突き放してしまっていた。
円城寺さんは虚をつかれたように黙る。
「……どうして?」
少し悲しみの色が瞳に滲んでいるのを見て、胸が痛んだ。
「……私、誰にも傷ついてほしくないんです。円城寺さんがそうやって構ってくるから、藍染が『男も好きになれるタイプ?』とかあることないこと言われて……。お願いだから、もう三人でつきあいたいとかそういうこと言わないでください……」
「星紗ちゃん……」
藍染は困った声で言うけれど、気持ちは変わらなかった。
「なるほど……。悪いことしちゃったな。うん、よしじゃあ、僕が誤解を解こう! そうすれば……」
「やめてください! 傷ついてほしくないの。藍染にも……円城寺さんにも」
それだけ言うと、円城寺さんの言葉を待たずに藍染の手を引っ張って逃げ出した。