大奥入りが決まり、父が新しく振り袖を仕立ててくれた。
それは袷と呼ばれる裏地のついた、まるで冬の透きとおる空のような、美しい花浅葱色のものだった。しかも冬らしく、南天に椿が描かれた見るからに豪華な振り袖だ。
(何か、お見合いに行く人みたい)
少し恥ずかしい気持ちを抱きつつ。
(でもやっぱり気分があがる)
新品の着物に袖を通すと、自然と心が弾んでしまう。
(よし、この着物に恥じぬ働きをせねば)
しっかりと決意し、いくつかの荷物と共に駕籠に乗り、大奥に向かう。そして無事に奥女中の仲間入りのち任務開始……とはいかなかった。
何故なら私は、待ち構えていたらしい正輝によって、大奥の通用口から入ってすぐのところにある、御広敷内に有無を言わさぬ勢いで連行されてしまったからだ。
正輝に続いて通されたそこは、いわば大奥の管理事務局といったところ。大奥を影で支える男性役人の詰め所となる場所である。
御広敷に詰める彼らは、御錠口の出入りを管理することは勿論のこと、出入りの商人とのやり取りや、警備などに勤めている。ちなみに江戸城御庭番として秘密裏に活動する、伊賀同心達の詰め所があるのもこの場所だ。
そして私は御広敷役人の詰め所内、八畳ほどの簡素な部屋に案内された。そこは男ばかりが詰める場所だというわりに、意外にも整えられた部屋だった。
(というか余計な物がないというか、何というか)
物見遊山気味にキョロキョロと座敷内を見回し、床の間に飾ってある掛け軸の絵柄が、兎と月である事に気付く。
「ねぇ、お月見とかもう随分前に終わったと思うけど」
「ん?あぁ、掛け軸のことか。ま、何もないより、いいんじゃないか?」
私をこの部屋に案内した正輝は呑気に答える。
(なるほど)
ここには正輝のような、かなりいい加減な方向に傾いた人が何十人も勤務している。
(うん、たぶんそう)
季節外れの掛け軸を眺めながら確信する。
「で、何で私はここに通されたわけ?」
正輝に尋ねると、ギシギシと床を踏み鳴らす音が部屋の前で止まった。
(誰かくる)
強張りそうになる顔をあわててほぐし、背筋を伸ばす。そして障子が引かれる、その時を僅かに緊張しながら待つ。
「すまぬ。待たせたな。色々と準備に手間取った」
ピシャリと音を立て、勢いよく開いた障子の向こうから、たぶん男が現れた。たぶん、と表現せざるを得ないのは、目の前の人物に見覚えがあったからだ。
女性物の着物に、頭頂部を剃ったつきしろ。横にぼさっと垂れた髪とくれば。
「落武者様だ」
思わず呟く。
「こ、琴葉、なんてことを!!無礼だぞ。ほら謝っておけ」
慌てた様子の正樹が私の頭を掴む。そして無理矢理畳に押し付けた。
「い、痛いんだけど」
「申し訳ございません。こいつは悪気があった訳ではなく、大奥入りをする。そして慣れない場所とあって、緊張のあまり無礼な事を口走ってしまったと思われます。何卒、お許しを」
私と並んで座る正樹が勢いよく体を折り、おでこを畳につけた。
(え、そんなにまずかった?)
畳に頭をつけたまま、私は顔を横に向け正輝を盗み見る。すると正輝は唇を噛み締め、目を閉じて畳に頭をつけていた。
(そこまで!?)
正輝の慌てぶりに、頭を下げながら目を丸くする。
「わかったから、面を上げてくれ」
呆れたような声で許され、私は遠慮なく頭をあげる。対する隣の正輝は恐る恐ると言った感じでゆっくりと頭を畳から戻した。
「別に何とも思っちゃいない。それに俺がお前の妹に落武者扱いされるのは、これで二度目だ。今更だな」
言いながら、落武者様は私と正輝の向かいに腰を落ち着けた。
「なんということだ!!」
正輝が大袈裟に私を睨む。そんな正輝を無視し、気になった事をたずねる。
「なんで、私が正輝の妹だとご存知なのですか?」
(少なくとも私は言ってない。それどころか問われても、ちゃんと否定した)
となると犯人は一人。隣に座り、こちらを睨みつけている正輝しかいない。
「まさか言ったの?」
「まさか覚えてないのか?」
同時に発した言葉が被さり、呪文のように難解な音となる。
正輝が更にむっとした顔になると私を睨みつけてきた。呆気なく散った私の疑問に正輝は答えてくれそうもないという状況だ。
「確かに私はこちらのおち……随分と面白味のある方とは初対面じゃないわ。以前兄上と共についた警護の任でお会いしたから」
渋々正輝の問いかけに答える。
「は?そうじゃなくて、昔、兄上と俺と」
「正輝、そこまでだ」
正輝の言葉を落武者様が遮る。
「しかし、それでは」
「良いと言っている」
二人が苛々としているのが手に取るようにわかる。そのせいか、部屋の空気が一瞬にして、張り詰めたものに変わった。
(どうなってるの?)
何だか私が悪者みたいな雰囲気だ。
「私の名は帷と申す。それ以上でもそれ以下でもない」
落武者様がとうとうその名を口にした。
(なるほど、この方が帷様)
どうやら目の前の風変わりな人物が正輝の上司、妖狐の帷様らしい。
(だから私の事情をご存じなのか)
大奥に限らず、江戸城で仕える役人は一人残らず、きちんと身辺調査され、採用される事になっている。
それは勿論、この国にとって非常に大事な将軍に間違いがあったら大変だからだ。よって、例え旗本の息子でも身辺調査は例外なく行われるのだろう。
そして私という存在が炙り出された。
(そういうことだったのか)
ようやく納得する。となれば、今更ジタバタしてもしょうがない。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。私は服部半蔵正秋の娘、琴葉と申します」
私は滅多に口にすることのない、全くもって慣れない「娘」という言葉を使い自己紹介をした。
「うむ」
腕組みをし、短く答えた、落武者改め帷様の表情が少しだけ緩む。しかしすぐに真面目な顔に戻ってしまう。
「さて、お前をここに呼んだ理由だが」
一旦言葉を切り、私をまっすぐ見つめる帷様。
「お前は俺と大奥に潜入し、伊桜里の死の真相を探る、以上だ」
「俺と、ですか?」
無礼を承知しつつ、聞き間違いではないかと驚き、重要な部分を聞き返す。
「驚くのも無理はない。大奥は男子禁制だからな」
(そう、それそれ)
私は頷きを返す。
「既に周知の事であるが、二ヶ月ほど前に伊桜里が亡くなった」
帷様は静かな声で話し始める。
「ここからは公になっていないものとなるが」
前置きをし、ため息を一つつくと、更に声を落とした帷様は、話の続きを口にした。
「彼女は自ら小刀で喉を突き、座ったままうつ伏せになった状態で発見された」
私はハッと息をのむ。死因を出血死だとは聞いていたが、それが自ら起こしたものだとは疑いもしていなかったからだ。
(さぞ、無念だったに違いない)
逃げ道のない袋小路に追い込まれた挙句、敵に捕まり、自白を迫られ自害する。もし私が自害を選ぶならきっとそうだ。
(そんなの悔しくてたまらない死に方だ)
自分に置き換え、唇を噛む。
「残念ながら過去を振り返ると、大奥で自ら命を絶った者がなかったとは言えない。しかしその多くは井戸に身投げをするといった形だった。よって、現在では暮六つになると、井戸には蓋をする決まりとなっている」
厳しい顔をした帷様の言葉を受け、正直私は恐怖を覚える。
そんな決まりが作られるほど、多くの者が自ら死を選ぶ場所。
それが今私がいる、大奥という場所なのだ。
大奥では自害する者が出るのを防ぐため、暮六つには井戸の蓋をしめる。その事実を知り、とんでもない場所に来てしまったと、私は初めて実感する。
「案ずる事はない。お前にはこの件が片付き次第、大奥から出て行ってもらうつもりだ」
「え?」
帷様の思いがけない提案に、思わず間抜けな声が飛び出てしまう。
(だって、父上も正輝も、二度と帰れないって)
正しくは「帰れないかも知れない」程度だったような気がしなくもないが、雰囲気的には「二度と帰れない」に近かった。
それなのに帷様を信じるならば、この件が片付けば、お役目ごめんとばかり帰宅できるというのである。むしろさっさと帰れと言う雰囲気すら感じなくもない。
(え、そうなの?)
私はなんだかんだ、二度と戻れない事もあるかもしれないと思ったからこそ、遺品整理のごとく私物をきっちり整理した。
(捨てなくていいものまで処分しちゃったし)
それに今から数時間ほど前。私の見送りに出た、くノ一連い組の仲間はいつになく神妙な顔で涙を堪えていた。
(まるで、今生の別れであるかのように、おいおいと……)
それに、兄嫁である紗千様は私に「ご武運を」と綺麗な櫛を持たせてくれたし、私自身も紗千様と蘭丸と別れる時は、この身が引き裂かれるような、そんな思いすら経験した。
以上のことは全て、二度と会えないと思ったから出た行動だ。
しかし私は任務が終われば帰れるらしい。
(ふむ。帰れるのか)
嬉しさが勝るが、微妙だ。
「大奥に居たいというのであればそうすればよい。しかし俺はおすすめはしない」
「いえ、折角ですから帰ります」
私は即答する。
誰だって井戸に身を投げる者が多発するような場所で一生を終えたくはない。よって私は、くノ一連のみんなから、「何故?出戻り?」としばらく質問攻めにあう、その煩わしさを迷わず選択したのである。
(だって、蘭丸もいるし)
紗千様の看病だって出来る。
というわけで。
「正輝の嘘つき」
私は散々、帰れないかもという雰囲気を醸し出していたような気がする正輝を睨みつける。
「え、俺は嘘などついていない」
「いいえ、父上とグルになって私を脅したじゃない」
「脅してなんてないだろう?」
「お手付きがどうこう言って脅したでしょう?」
「それは絶対ないとは言い切れないじゃないか」
「だって帷様と行動を共にするんでしょ?だったら公方様とどうこうなるわけないじゃない」
「それはだからその、帷様が……」
モゴモゴと口籠もる正輝。
勝負あり。
この言い合いは私の勝ちだ。
「相変わらずだな」
少し弾んだような声をした、帷様の呟きが耳に飛び込む。
(ん?あれ?もしかして?)
私は以前夢で見た女の子を思い出す。
正しくは女の子の着物を着た、男の子。
そして今、目の前にいるのもまた、女物の着物に身を包む、男の人だ。
そんな偶然が何度もあるだろうか。
私はジッと帷様を見つめる。
つるりとした卵のような肌にくっきりとした眉。こちらをジッと見つめるのは、涼しげな切れ長の目。むっと、一文字に閉じた唇は紅を差していないのに、桜の花びらのように色づいている。
悔しいけれど、私なんかよりずっと美しい人だと認めざるを得ない。
「直視しすぎだ」
帷様は不機嫌そうに、プイと顔を横に向けた。その瞬間、帷様のツンとした横顔が、私に「どけ」と理不尽に迫った小さな男の子に重なる。
(まさか)
やけに具体的だと思えたあれは。
「夢じゃなかったってこと?」
思わず声に出し、慌てて口元に手をあてる。
「その様子だと、ようやく思い出したようだな」
帷様はニヤリと口元を歪ませた。
その堂々たる意地悪な表情は、間違いない。
あの時の女の子だ。
「俺がお前を指名した理由。それを思い出した所で話を戻そう」
「お待ち下さい、指名したって」
(一体どういうこと?)
帷様と顔を合わせてから、まだほんの束の間と言える時間しか経っていない。それなのに明かされた情報が多すぎて、私は理解が追いつかない。
「ほんと、良くそんなんでくノ一を名乗ってるよな。鈍感すぎるだろ」
正輝がこれみよがしに私を馬鹿にする。
「き、気付いてたわよ。一応聞くけど、父上も全てご存知なの?」
「目が落ちそう。ひとまず瞬きしたら?」
正輝がいつもの調子で私を揶揄う。
私はむっとし、正樹を睨みつける。
とは言え、あまりのことに、うっかり目を見開いていた事は間違いない。
私は自分の渇いた瞳に気付くと、水分補給とばかり。敗北感と共に、意識的に瞬きを再開した。
「勿論、父上は帷様からの命だとご存知だ。じゃなきゃ、父上は「畏れ多い」とか適当な理由をつけて、お前を大奥になんて差し出したりしないだろうし。今回だって説得するのは大変だったんだからな」
(くっ、騙された)
混乱し、何をどう騙されたか。
それをいちいち思い出せない。
しかし完全に仕組まれて、私はここにいる。
それだけは真実のようだ。
(あ、でも)
考えようによっては、一人で大奥に投げ込まれるよりはマシかも知れない。それが例え、女装癖のある、少し気難しそうな人物だったとして……も。
「納得したか?」
この状況を楽しんでいるのか、愉快そうに頬を緩めた帷様に問われる。
「まとめると、私はしばらく帷様の配下につく。そういう事でしょうか」
「まぁそうだな。大奥は男子禁制だ。よって俺はしたくもない格好せねばならぬ。このような辱めを受けるのは俺だけで充分。よってお前を寄越すよう、服部に願ったというわけだ」
帷様は忌々しいと言った感じで、ご自身が袖を通している、女物の着物を見下ろした。
(なるほど。女装癖があるわけじゃないんだ)
私は一つ、帷様について詳しくなる。
「お前は、光晴様が大奥を避けている。それは聞かされているか?」
突然話が本題に戻り、私は真面目な顔で背筋を伸ばす。
「はい。公方様は伊桜里様の件に御心を砕かれ、大奥側はそれを歯痒く思っていると、父からざっくりとした説明を受けました」
私は政局に関わる事を避け、知り得た事を披露する。
「詳しくは追々話すが、私とお前は大奥で謎の死を遂げた伊桜里に何があったか。それを調べることになる」
「失礼ですが、御広敷番や御庭番として常駐する伊賀者達はその件を調査しなかったのですか?」
(そもそも事件が起きないようにするのが、仕事じゃないの?)
それでも今回のように防げなかった場合。先ずは彼らが事件を調査する。それが真っ当な流れだ。
「奥女中達は一筋縄ではいかん。男子禁制を盾に、我らを堂々と拒むからな。とは言え彼女達もそれが仕事だから仕方がないのだが」
帷様が苦い顔になる。
「大奥で女中が自殺した。そんな事が世間に知れたら大騒ぎになる。だから伊桜里が亡くなった事を、奥女中達は勝手に隠そうとした」
「まさか」
(死体があるというのに?)
辛うじて物騒な言葉を飲み込んだが、頭の中には「どうやって隠すの?」と素朴な疑問が浮かんで消えない。
「隠すと言っても、遺体のことではない。彼女が何故この世を去るほど憂いだのか。その理由の方を隠している」
「つまり、自害された原因が自分達に関係するから証拠隠滅をした、そんな感じでしょうか?」
帷様は小さく頷く。
「とある女中の話だと、伊桜里の亡骸が発見された部屋の枕元には、彼女がしたためたと思われる書き置きがあったそうだ。しかし我らが現場を訪れた際、そのようなものは一切なかった」
「つまり遺書のようなものを誰かに隠された、と」
(それが本当ならば、許される事ではない)
伊桜里様が最後にこの世に残した、大事なもの。
そして、それは残された人にとっても同じこと。
「女中が嘘をついている可能性もなくはない。しかし、伊桜里の真面目な性格からすると、光晴様に遺言の一つくらいは残すはずだと、俺は思う」
帷様の意見に私は大きく頷き、同意する。
なぜなら、夢でみたあの時。仲間に入る資格がないと勝手に思い込み、物陰に忍んでいた不気味な私に気付き、優しく手を引いてくれたのは、誰でもない。伊桜里様だったからだ。
そんなお優しい伊桜里様の事だ。訳あって自害する事を選んだとしても、後に残された光晴様を案じ、前に進めるよう、何かしら文をしたためたに違いない。
帷様同様、私もそう思った。
「光晴様のお辛い気持ちもわかる。しかし、お世継ぎを残すこと。それは光晴様に課せられた、替えの効かぬお役目だ。よって今のままでは困る」
「そうですね」
同じ人として、光晴様のお気持ちは理解できる。けれど、かのお方はこの国を統治する責任を負った人だ。
勿論それは光晴様が選んだ訳じゃない。けれど私が双子に産まれたことと一緒。どう足掻いたところで、逃れられない運命なのだ。だから背を向け、逃げ出す事は許されない。
「重臣達は、光晴様が前に進むためには、伊桜里様の死の真相を明らかにすべきだと主張している。そうしないと、いつまでも光晴様はご自分を責め続けるだろうと」
様子を静かに見守っていた正輝が、補足のような情報を私に知らせる。
「でも書き置きを隠した人は、自分に都合の悪い事を隠したいはず。だとしたらもう」
その書き置きは残されていない可能性が高い。
「勿論、それらが残されている可能性が低いことも承知している。けれど、伊桜里が最後に残した言葉。それは駄目元でも探す価値あるものだ」
きっぱりとした声で帷様は言い切った。
私もその意見には賛成だし、何より知りたい。
(一体、伊桜里様は何故自害を選んだのか)
その理由を解明したい。
もしそれが出来れば、私が伊桜里様と縁遠くなっていたことに対する、せめてもの罪滅ぼしになるような気がした。
「よって、お前と私で大奥内を捜査し、伊桜里がこの世を去った、その原因を調査する」
「御意」
自分がやるべき事はだいたい理解できた。
あとは、大奥で全力をつくすだけだ。
私と帷様は大奥で、新参者の御火乃番として働き始めた。
御火乃番とは昼夜を問わず大奥内を巡回し、火の元の確認と、警備をしてまわる係のことだ。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、大奥でも特に火事は他人事ではない。
かつて大奥の奥女中達が住む長局から出火した火事があった。長局は密集地帯となっているため一気に火の手が回り、どうする事もできなかった。そして長局から出た火は、大奥全体を焼き尽くしてしまう。その結果、奥女中数百人が焼死するという、大惨事を引き起こしてしまったのである。
この事件をきっかけに、大奥では火の番を設け、より一層火の取り扱いに対し厳重に管理する事となったそうだ。
勿論それは現在まで続いている。
帷様と私が任命された御火乃番が、まさにそれだ。
そして御火乃番は大奥内をウロウロと歩き回っていても怪しまれない上に、奥女中達に声をかけても「警備のため」と言い訳が出来るというおまけ付き。
確かに御火乃番は隠密捜査にはうってつけな職種だ。
そんな役回りをもらい大奥に潜入し、既に七日ほど。
肝心な捜査の方はというと、未だ伊桜里様についてめぼしい情報は入手できていない。
何故ならその件は禁句と言った感じ。
皆その話題を避け、無かった事のように振る舞っているからだ。
何か変化があったとすれば、帷様のことくらいだろうか。
私の中で落ち武者が定着しかけていた帷様の頭上には、島田髷のカツラが被されており、こちらが羨むほど美しい女中へと変貌を遂げている。
「くそっ、人を馬車馬のように働かせやがって」
ただし、喋らなければという但しつき。
「仕方ないじゃないですか。私達は新参者なんですから」
現在私と帷様は、大奥内にある女中たちの宿舎、長局の端にある井戸部屋にいる。
私達は釣瓶と呼ばれる縄を取り付けた桶で、井戸から水を汲み取っているところ。汲み取った水は柄に穴があけられた玄蕃桶にザブザブ入れていく。これらの水は、大奥内の主要な場所に設置された、火消し用の水瓶に投入される予定だ。
大奥内では火事に備え、日頃からこのように備えているのである。
(問題は桶の数よね……)
御火乃番の先輩女中であるお滝様に、水を満たしておけと用意された玄蕃桶はゆうに二十を超える。
(冷たくて寒いし、重労働だし)
誰かに代わってもらえるのであれば、喜んでこの役を譲るくらいには大変な仕事だ。
「あのお滝とかいう女、袖の下を貰っているに違いない」
「ですね」
「しかも饅頭一個だと、そう口にしていたように思えたのだが、お前はどう思う?」
帷様は苛々した様子で私に意見を求めた。
私達に水汲みを頼んだお滝様は、御末と呼ばれる奥女中と影でコソコソ会話を交わしていた。
(なんかこっちを見てる感じだったから)
私は二人の会話を、読唇術を用いて、密かに観察した。
それによると確かに御末は自分の仕事である、風呂や御膳所に届ける為の水汲みを私達に押し付ける代わりに、お滝様に「饅頭をあげる」と約束していた。
「そうですね。お滝様はお饅頭一個で、玄蕃桶六杯分という取り決めをされていました」
私は先程知り得た情報を正直に告げる。すると帷様は井戸の水を汲み上げる縄から手を離し、驚愕の表情を私に向けた。
「つまり、俺はたかだか饅頭一個でこんな重労働をさせられているのか?」
「いいえ、御末はお滝様にお饅頭をお支払いするでしょうから、私たちはタダ働き、という事になります」
「くっ、饅頭すらもらえぬとは」
がくりと肩を落とす帷様。
「そもそも饅頭程度で俺達を売るとはけしからん」
むっとした表情で縄を持ち、帷様は水汲みを再開した。
このままやる気を失い、職場放棄されたらどうしようと、帷様の動向を不安視していた私はホッとする。
「せめて二人で一個でいいから、お滝様が労いの意味を込め、私達にお饅頭をわけてくれるといいのですが」
この寒空の下、誰もが避けたい労働しているのは私と帷様だ。よって私達にもお饅頭を食べる権利はあるはず。
「万が一お滝が饅頭を寄越したらお前にやる。というか、俺は饅頭を食べに来たわけでも、水汲みをしに来たわけでもないのだが」
文句を言いながらも力強く縄を引く帷様。
「確かにそうですけど、仕事もせずに情報収集だけをする訳には参りませんから」
隠密捜査が成功するか否か。それは全て、事前準備にかかっていると言っても過言ではない。
「忍び者であるお前ならば、陰形術やら妖術で、人の口を割るのは朝飯前なんだろう?」
私は満杯になった玄蕃桶を持ち上げつつ、ため息をつく。
「もしかして帷様は、人が息をするのが当たり前であるかのように、私に妖術が使えるとお考えですか?」
「違うのか?修行を限界まで積んだ忍者はみな、怪しげな呪文を唱え、人を意のままに操る事が出来ると読本に書いてあった気がするのだが」
「それは歌舞伎や講談などに登場する、脚色された忍者像ですね」
私ははっきりと告げる。
「例えば、児雷也豪傑譚に出てくる主人公。忍者として描かれている児雷也ですが」
「知ってるぞ。蝦蟇の妖術を身につけた忍者だろう?蛞蝓をあやつる美しい妻、綱手と、青柳池の大蛇から生まれた宿敵大蛇丸とで三すくみの戦いが繰り広げられる話だ」
「ええ。よくご存知で」
「幼い頃、夢中になって読んだからな」
帷様は得意げに、嬉しそうな表情になる。
「それで、児雷也がお前の妖術とどう関係があるんだ」
「そもそも児雷也は蝦蟇の妖術で大蝦蟇に乗ったり、変身したりしていますが、私たちはそんな事はしないし、私は人の背丈を超える大蝦蟇なんて現れたら、怖くて一目散に逃げ出します」
「……まぁ、そうだよな。俺も逃げるかも知れん」
大蝦蟇が目の前に現れた姿を想像したのか、帷様はブルリと身体を震わせた。
「それに、物語の中では忍び入った家の壁に「自来也」と記したとありますが、忍びたるもの、自らの名を現場にわかりやすく残す、そんな事は絶対にしません」
「確かに、秘密裏に行動しているのに、証拠を残すなどあり得ないな」
納得するように帷様はうなずく。
「ちなみに有名な忍術とされがちな、地面に映った敵の影に手裏剣を刺し、相手を動けなくする術なども、勿論ながら私たちには使えません」
「影縫いの術も使えないのか……」
がっかりした様子で、帷様は肩を落とした。
そんな帷様には申し訳ないと思いつつ、私は忍者にかけられた多大なる誤解を解こうと、さらに熱弁をふるう。
「いいですか、帷様。敵の懐に入り込むためには、潜入先の調査から始まり、出発時の携行品の選別、道中の行動。それから潜入、察知、諜報、策略、破壊、隠遁、逃走と具体的な計画をしておく必要があります」
幼き頃から叩き込まれた、忍びのイロハを思い浮かべ、帷様に告げる。
「中でも一番大事なのは、相手にこちらの正体を気付かれないこと。何故なら気付かれていないからこそ敵は油断し、こちらが優位に立てるのです」
「それはそうだが」
「ですから先ず、表向きの仕事。御火乃番の仕事に真摯に取り組み、周囲を油断させる必要があるのではないかと、私は思うわけです」
綺麗にまとまった。そう思い満足していると、帷様はふと気付いたように声を上げた。
「今回は突然決まったこと。よって準備が万全ではないはずだ。となると、お前は一体どうやって情報を仕入れるつもりなのだ?まさか何年もかけて信用を勝ち取るつもりではないだろうな?」
「それはですね」
言いかけたところで井戸部屋に、藍色の小袖に白い紐をたすき掛けした、若い女中が二人入ってきた。
帷様と私が井戸部屋で仲良く水を汲み上げていたところに乱入してきたのは、二人の奥女中。彼女達は私と同じ、黒帯に同系色の縞模様が入った地味な藍色の小袖を着ている。
勿論、打掛はなしだ。
そもそも大奥と聞いて連想しがちな、豪華絢爛な打掛を身にまとえるのは、中臈か上臈のみ。というのも、奥女中には身分により生地、色、模様などが細かく規定されているからだ。
そんな中で打掛は目で見てわかる、権威の象徴というわけだ。
つまり、現在井戸部屋に現れた二人は私と同じ小袖を着ていることから、御目見得以下の下級女中ということがわかる。
因みに御目見得以下とは、その名の通り、将軍に会う資格がないということ。
(公方様は天上人だものね)
そうそう簡単に拝見する事は叶わない尊き御人なのである。
「あんた達が噂の新参者ね」
「ふーん、噂通り、綺麗な子じゃない」
井戸の脇で満杯になった玄武桶を持ち上げようとしていた私が目に入らないのか、それとも敢えて無視されたのか。二人は井戸から水を汲み上げていた帷様を取り囲む。
「でもガタイが良すぎない?」
「そうね。骨太で可愛らしさには欠けるかも」
「つまり、公方様の好みからは外れるってことね」
「ふふ、残念ね」
二人は帷様の顔を見上げ、口々に勝手なことを言い始める。
「お滝さんから聞いたわ。この寒い中、水汲みなんて偉いわねぇ」
「しかも言われるがまま、みんなの分を率先してやってくれるだなんて、感心しちゃう」
先程から小馬鹿にするような物言いばかり。
私は黙ったまま、二人の女中の顔を見つめる。
(可もなく不可もなく。いや、狸と狐っぽいかも)
少しふくよかな方がたぬきで、痩せて背の高いほうが狐。ありがちな例えではあるが、的を射ていると思う。
二人は若干目つきが悪いように見える。それはこの場の雰囲気がそう思わせているだけの可能性もあるが。
ちなみに目の前の二人には伊桜里様や帷様のように飛び抜けた美しさは感じない。強いて言うなら狐の方が、磨けば光りそうではある。
(ま、私が言うなって感じだけど)
感じが悪い人なので、ここは良しとする。
「あら、こっちにも」
「あなたが噂の腰巾着ね」
どうやら二人は井戸の脇に座る私に気付いてしまったようだ。
(腰巾着か……)
現在の私は帷様に仕える身なので腰巾着。その通りで間違いないが、他人に指摘されると、少しイラッとしなくもない。
「可哀想に。相方が美人だと、霞んじゃうわよね」
「ほんと。単体でみたらあなたは随分可愛らしいのに」
「お滝さんに相方を交換したいと、相談してみたら?」
「そうね、何なら私から言ってあげましょうか?」
私にすり寄ってくる二人。
(なるほど、そういうことか)
どうやら彼女達は帷様の美しさに危機感を覚え、孤立させようと画策しているようだ。
(問題は自分達の意思で動いているかどうかって事だけど)
今ここでそれを聞いても答えてはくれないだろう。それに顔さえ覚えておけば後で探る事はいくらでも出来る。
(果たしてどう出るべきか)
私の目的は伊桜里様に何が起きていたかを探ることと、書き置きらしき書簡を探すこと。
だとするとここは飛んで火に入る夏の虫とばかり。偶然現れた性悪二人組の子分になっておく。
(うん、それがいいかも知れない)
私は帷様にチラリと視線を送る。しかし帷様は私を見る事なく、むっとした表情のまま口を開いた。
「くだらん」
ドスの効いた低い声が帷様から発せられた。短い言葉で、しかし嫌悪感たっぷり。
(うわ、だめだってば)
私は男である事がバレると慌てる。
「あれれ、どこから聞こえたんだろう?」
私はわざとらしくあたりを見回す。しかし帷様はそんな私の動揺など全く気にせず、女中達を睨みつけた。
「さっきから聞いていれば好き勝手に。大体、お前たちは一体誰なんだ? まず名を名乗るのが筋であろう」
帷様の正論に、二人は怯んだ様子を見せる。しかしそれで引き下がるような人物であれば、最初から私達に絡んできたりはしない。
「名乗る価値もないから、名乗らないだけ。御目見得以下とは言え、どうしてあなたのような不気味な声をした人が奥勤めに採用されたのかしら」
「本当。身のほど知らずとはまさにこの事だわ」
(うわぁ、支離滅裂だ)
それに贔屓目に見ても、帷様の声は明らかに男の声だった。それなのに、目の前の二人は帷様を女性だと疑いもしていない。
(ここが大奥だから)
女性しかいないという先入観に囚われ、違和感に気づかないのかも知れない。
「だいたい、私達の方が先輩なのだから偉そうにしないでよ」
「そうよ、新参者のくせに生意気ね」
どうやらまだまだ、帷様に対し言い足りないらしい。帷様への言いがかりに近い文句を口にすると、威嚇するように、ジッと睨みつけている。
「私達が新参者だからといって、随分な態度を取るものだな。お前達、名はなんという」
帷様も帷様だ。
完全に素の声になると、井戸の脇に立つ二人の前にズンと歩み出た。
(えーと、隠密捜査の意味、わかってるのかな)
私は慌てて帷様に駆け寄る。
「まあまあ、喧嘩なんてしても仕方がないですよ。これを受け取りに来たんですよね?どうぞ、どうぞ、お持ち下さい」
私は足元にあった、満タンになった玄蕃桶を「よいしょ」と持ち上げる。
「ふんっ、そうだな。相手にするだけ時間の無駄か」
私の意見を尊重してくれたらしい帷様。不機嫌そうな表情のまま、再び定位置へと戻っていく。その様子を横目で確認し、私はホッと胸を撫で下ろす。
「あらあら、腰巾着が仲裁してくれるみたいよ」
「ほんと。お優しいこと」
「でも、私達の味方じゃないみたいね」
「折角だからもらっておくわね」
狸の方が私に歩み寄ると、私の手から玄蕃桶を受け取った。そしてニヤリと口元を意地悪く歪ませる。
(あ、やな予感)
そう思った瞬間。
「ご苦労さま」
狸は満面の笑みで受け取ったばかりの玄蕃桶を私に向け、ひっくり返した。
サッと避けたものの、バシャンと勢いよく私の足元に水がかかる。
「あなた達は何をしているんですか」
声を押し殺し、私は告げる。
「何って、水の中に虫が入っていたから。汚い水を美麗様にお届けする訳にはいかないでしょう?」
「そうそう。私たちは優しいから、新参者のお手伝いをしてあげてるのよ。美麗様に叱られないようにってね」
悪びれる様子もなく答える二人。しかし私は二人の口から飛び出した名前に惹きつけられる。
(美麗様?それって誰だっけ)
何処かで聞いたと、私は記憶を遡る。確かあれは、くノ一連い組の飲み会だったような。
(あ、御湯殿に派遣されて、一度だけ公方様のお手付きになったと噂された人)
確かその子の名が、美麗だったはずだ。
「もう気が済んだだろう?」
帷様は呆れたようにため息をついた。そして意地悪な狸の手から空になった玄武桶を取り上げる。
「その辺にしておけ。長居が過ぎると自分の首を締める事になるぞ」
「あら、心配してくれてるの?ありがとう。せいぜいその美貌を武器に、公方様に取り入るといいわ。まぁ、無理だと思うけど」
「それじゃあまたね、腰巾着さん」
二人はクスクス笑いながら立ち去って行った。
(大奥、こわい)
私は理由もなく悪意をぶつけられた事に恐怖を感じた。
(でも美麗様という情報を残していってくれたから)
儲けものかも知れない。
「おい、大丈夫か?これを使え」
帷様がどこから取り出したのか、真っ白な手拭いを差し出した。
「あの人達、美麗様と口にされていましたね。それにここに来たのに玄蕃桶を持っていきませんでした。もしかして、帷様の偵察に来たのかもしれません。それは彼女達の意思なのか、それとも誰かの指示なのか」
何か見落とした点はないか、二人とのやりとりを思い返そうと、腕を組む。
「美麗様か……」
その名を口にしてみるが、特に情報は思い出せない。
(そもそも外にいる時はあんまり話題にあがらなかった人だけど)
大奥内ではそれなりに派閥を築いているようだ。これは調べておく必要があるかも知れない。
「おい、後でじっくり考えれば良いだろう?とりあえず濡れた場所を拭いておけ。風邪をひくぞ」
視界に入る男らしい骨太な手。その手にはしっかりと布が握られている。
確かに濡れた所に風があたり、足の爪先がかじかんできたような。
「ありがとうございます。お借りします」
私はありがたく受け取り濡れた足元を軽く拭う。
「そうだ帷様。咎めるとか、そう言うつもりはないんですけど、今のような場合、先ずは私があの性悪二人組の子分になる方が、手っ取り早く情報を入手できたと思うんです」
私は自分の足元を拭う手を止め、真面目な顔で帷様に告げる。
あの時帷様が口を出さなければ、今頃私は狸と狐の仲間入りをし、二人の身分を難なく知り得ていた可能性がある。
(うーん、残念だ)
私は再度腰を折り、着物の裾にかかった水を拭き取る。そして頭の中では早速いつ、どうやってあの二人の素性を探り出そうかと、策を練る。
「確かにそうだな。しかし、今のお前は俺の部下だ。よって、単独行動は許さん」
「え、でも」
「俺が困る」
「……なるほど」
先程の様子を振り返って見ても、帷様を一人でウロウロさせるのは危険だ。期間限定で私の上司となった帷様が職務を全う出来るよう、お力添えをすること。それが私の任務でもある。
「承知いたしました。私は引き続き、帷様の元で任務に励みます」
「うむ、頼んだぞ」
「御意。ではあと少し、水汲みを頑張りましょう」
私は帷様に借りた手ぬぐいを袂に入れると、足元に置かれた玄蕃桶をひょいと手に取る。
「全くお前は」
何か言いかけて、帷様は飲み込む。
「何ですか?」
「いや、真面目だなと思って」
「それっていけない事なのでしょうか?」
思い切って帷様に尋ねる。
「いいや。むしろ褒めるべき事だと思っている。ただ、そんなに気張らなくとも、もう少し肩の力を抜いても良いと思っただけだ」
「でもこれは任務ですし。相手に隙きを作るためにも、物わかりの良い女中を演じておくべきです。ですからたかが水汲み、されど水汲みだと思うのですけど」
私は仕事にかかろうという意味で、玄蕃桶を掲げて見せる。
「そう言えば、お前は昔から頑固だったな」
帷様はまるで頑固が良いことであるかのように、楽しそうに口元を緩める。それから井戸の前に立つと、縄の先についた桶を手に取った。
「さ、残りを片付けるぞ」
「はい!」
力強く返事をする。そんな私を見て、何故か帷様の顔にはしっかりと笑みが浮かんでいたのであった。
大奥という場所は、大きく三つに分けられる。
その一つは、将軍の私室とされる、正室である御台所が住む御殿。
二つ目は私が最初に通された御広敷。ここは周知の通り、三百人を超える男性役人が詰め、大奥のさまざまな事務や、用務をこなしている。
そして最後は長局と呼ばれる場所だ。ここは奥女中達の居住区となる場所で、二階建てとなる一棟の長屋を細かく仕切ったものがずらりと四棟並んでいる。
長局は手前から一之側、二之側と名付けられ、ここでも召物同様、職制身分に応じ、きちんと部屋割りされていた。
まず、御殿に近い一之側は、一棟十二部屋と仕切られ、京から貴宮様に付いてきた上臈御年寄や将軍付きの御年寄などにそれぞれ一人一部屋ずつ与えられている。
そして、二之側、三之側は二十部屋にわけた一棟を、御目見以上の奥女中達に。さらにそこからもっと細かく、三十部屋に区切られた四之側が御目見得以下の女中たちへと配分されているのである。
つまり、職制身分が低くなるにつれ、もれなく相部屋となる仕組みで、わりとぎゅうぎゅうに詰め込まれている感は否めない。
そんな中私はというと、勿論新参者の御火乃番なので、帷様と仲良く四之側。しかも御殿から一番遠い端っこだ。
しかし何の力が働いたのか、私と帷様は急遽建てられたかのような、四之側の端に不自然に増設された、どうみても掘っ立て小屋にしか見えない家を二人きりで占領している。
間口が二間、奥行きも二間。入り口から入ると土間とは別に六畳間がある。しかも梯子をかけて登る物置代わりの中二階付き。
そんな猫の額ほどの部屋を目の当たりにした時、私は思った。
(これは嫉妬を生みそうだし、怪しまれる)
更に言えば、休憩時間こそ周囲と打ち解ける機会だし、女中の口が軽くなる瞬間でもある。それなのに帷様と二人きりの居を構えるのは得策とは言えない。そう考えた私は、どうせ寝るだけなのだから、みんなと同じように大部屋に雑魚寝で我慢すべきなのではないかと、畏れ多くも帷様に進言した。
『流石に雑魚寝部屋は俺には無理だ。夜くらい、これをなんとかしたいからな』
かつらをぱかりと上にあげ、帷様は困ったような顔を見せた。
(そうか、忘れてたけど中身は落武者か)
帷様の本来の姿は誰にも明かしてはならない。よって、町人が暮らす長屋部屋のような部屋に帷様のお供として、住み込むしかないと私は潔く諦めた。
結果的に結婚前の男女が一部屋で寝食を共にする形となっているが、これもまた任務なので仕方がない。
(ま、何もないでしょ)
そもそもここは将軍である光晴様のための大奥だ。そんなやんごとなき場所で、流石に私ごときに帷様も欲情しない。というか、私は「そうであるはずだ」と帷様を信じている。
そして現在の私はというと。
昼番を滞りなく終え、既に自由時間。一日の疲れを風呂で流し自室にいる。ちなみに帷様は流石にお風呂だけはどうする事も出来ず、御広敷にこっそり戻り済ませているようだ。
そして部屋の隅に置かれた行燈に照らされた、ぼんやりとした灯りの中。今まさに、帷様と向かい合い質素な夕餉を頂こうか、というところ。
「今日のオススメはきんぴらごぼうです。帷様は甘い派ですか?それとも辛い派ですか?」
「俺は断然、甘い派だ」
帷様の揺るぎない答えを聞き、ニンマリする。
「良かった。私も甘い派なんです。どうぞお召し上がり下さい」
私は各々が使う食器を入れた木箱の蓋を裏返した、箱膳の上。大皿に盛った、大量のきんぴらごぼうを帷様の箱膳の上に乗せた。
「遠慮なく頂くとしよう」
帷様がきんぴらごぼうをガバッと大胆に箸で掴んだ。
(おおう)
帷様の箸の行方を追いながら、頬が緩む。
最初の数日間は私が作るおかずをちんまりと、先ずは味見と言った感じで箸で突いていた帷様。それが今や大胆にこんもり掴むと、迷わずきんぴらごぼうを口に入れた。
(とうとう料理の腕を信用されたのかな)
ジッと私が様子をうかがう中。帷様は味わうようにしばらく咀嚼したのち、ぶすっとした顔を私に向ける。
(おっと、味が好みじゃなかった?)
帷様の表情から、失敗したのだと悟る。
しかし。
「うまい」
帷様はツンとした顔で私のきんぴらを端的に褒めた。
「お口に合って良かったです」
帷様の表情が気になりつつも、一先ず「うまい」と漏らした事に安堵し、私も後に続けとばかりきんぴらごぼうを口に入れる。
(やば、ごぼうと人参の歯応え、そして甘さが完璧なんだけど)
味見をしたので、既にその出来栄えは自分のお墨付き。とは言え、きんぴらごぼうは歯応えを残す為の火加減が絶妙に難しいのである。
(冷ます間に案外柔らかくなっちゃうし)
かと言って早く火から降ろすと、ボリボリとした、歯ごたえ抜群のきんぴらごぼうになってしまうのだ。
(でも今日はうまくいった。おいしい、よかった)
密かに自画自賛する私に帷様から声がかかる。
「お前は旗本の娘であるのに、何故料理など出来るのだ?忍びは料理も修行するのか?」
ごぼうを飲み込み、答える。
「流石に料理の修行まではいたしません」
「ではなぜ?」
「私は以前任務で小料理屋のお台所に、見習いとして潜入した事があるんですよ」
「任務で料理を教わるのか?」
「はい。先ずは信頼を勝ち取るために、潜入した時に作り上げた人間になり切る事が大事なので」
「徹底してるんだな」
言いながら帷様は私が握った塩おにぎりの天辺にパクリと齧り付いた。
そしてやっぱり。
「うまい」
とぶすっとした顔で一言付け加えてくれる。
(顔と言葉が合ってないのは、そういう病気なのか……)
あまり触れてはいけない気がして、私はその件について深く考えるのを放棄する。そして褒められた事だけを抜きとり笑顔で口を開く。
「お褒め頂きありがとうございます。ここは食材が豊富なので料理をするのが楽しいです」
「そうなのか?」
驚いたような顔をしながら、常備食として実家から持ち込んだおしんこに箸を伸ばす帷様。
「そもそもどうやって、これらの食材を手に入れているのだ?」
「そのおしんこは実家より持ち寄ったものですが、長局にいくつかある共同台所に、御広敷御膳所から新鮮な食材が回ってくるのです。勿論タダではないですけど」
「む、買うのか。渡した金で足りているのか?」
「ええ、充分足りていますし、なくなったらきっちりせびりますのでご安心を」
袂に入れた、小銭入れの重さを感じながら答える。これはここで生活するにあたり、任務における報酬とは別に帷様から預かったお金だ。
「私は身銭を切るほどお人好しではないので、そこはご安心下さい」
「そうか。ならば良かった。遠慮するなよ」
帷様は目を細めながら、大根の味噌汁をすすった。
「甘口でこの味噌もうまい」
「これは大豆とほぼ同量の米麹を使った、我が家のお味噌です」
「なるほど。これもまた、実家からの持ち込みか」
「はい。流石にお味噌をここで呑気に熟成させる訳にはいきませんから。でも寒い時期で良かったです。これは長期保存に向かないので」
「なるほど。だから塩分が控えめで甘く感じるのだな」
「仰るとおりです」
帷様と私は任務を忘れ、呑気な時間を過ごす。その後、質素な食事を終えた私達は別行動となる。
帷様は部屋に置かれた文机に向かうと、報告書なのか、物書きに励む。
私はというと、土間に降り、亀壺に貯めておいた井戸水を使い簡単に茶碗をすすぐ。それからまた長局にある台所へ向かい、お湯をもらい掘っ立て小屋へと帰宅する。
「ただいま戻りました」
コンコンと戸を軽く叩きながら声をかけ、中に入って良いかの確認をする。というのも、私が外に出ている間に、帷様が寝間着に着替えるからだ。
「大丈夫だ」
帷様のお許しが出たので、滑り込むようにして部屋に入る。
帷様は変わらず文机に向かっているが、既に白地の木綿を藍で染め抜いた浴衣姿になっている。そしてだいぶ寒くなってきたので、綿入りの半纏を浴衣の上にしっかりと着込んでいた。
私はお茶を淹れ、働く帷様に労いの意味を込めお茶を出す。
「ありがとう、すまないな」
「お疲れ様です。では、私も着替えますので」
一言告げ、部屋に屏風を立てる。
帷様が壁に向かって置いた文机の上で、物書きに夢中になっている間に、寝巻きにさくっと着替えるためだ。
私が着替え終わってしばらくすると、大抵帷様のお仕事が終了する。
「よし、終わった。寝るとするか」
帷様の一声で、湯呑みを回収。それを土間で簡単にすすぎ、その間に帷様が文机を壁に立てかける。
「いいか、下ろすぞ」
物置として利用している中二階に続く梯子に登る帷様。
「相変わらず、重いな」
帷様が中二階から敷布団を下ろし、私は下で受け取ろうと梯子の下で待ち構える。
「畳の上にそのまま寝るよりはマシですから」
「確かに、そんな事になったら凍え死ぬな」
「囲炉裏が欲しいですよね」
「あぁ、欲しいな。しかし火事の元になると思うと、我慢だな」
帷様からずっしりと重い布団を受け取りながら、うなずく。
ここ大奥では火の管理が厳重だ。よって、各部屋に暖を取るための囲炉裏はない。火の元が多ければ、それだけ火事が起きてしまう可能性が高くなるからだ。
「帷様も御火乃番が板についてきましたね」
「あまり嬉しくないがな」
帷様は苦笑いをしながら、私に枕を手渡す。私は受け取った敷布団を、六畳間の中央に手際よく敷き詰める。
「毎日このように上げ下げするのは難儀だな」
「ですよね。屋敷では敷かれた布団に寝転ぶだけでしたから」
布団を敷きながら、屋敷での上げ膳据え膳の便利な生活を思い出す。私は自分を日陰者だと口にしながら、皆に姫様と呼ばれ、こう言った細々としたことは使用人に任せきりだった。
(案外、恵まれてたんだな)
その事に気づいて恥ずかしくなる。
「確かに、このような不便な生活をしたのは、俺も産まれて初めてだ。今まで自分の境遇を恨む事があったが、どうやら世間知らずだったようだ」
帷様は掻巻を二階から降ろしながら、私と同じ感想を口にする。私は掻巻を受け取ろうと手を伸ばしながら、思わずふいてしまう。
「なんだ、おかしな事を言ったか?」
「いいえ。私も丁度、今の帷様と同じような事を思ったので。何だか同じ事を考えてしまうなんて、長年連れ添った老夫婦みたいだなぁと思ったら、笑えてしまいました」
「なるほど、老夫婦。確かにこの状況はまさにそのような感じで笑えるな」
帷様は箱枕を脇に抱え、笑いながら梯子から降りる。
「まぁ、俺達の境遇は似ているから」
「えっ?」
「ほら、どけ」
帷様に顎で示され、布団から慌てて離れる。そして帷様が敷き詰めた二つの布団の間にしっかりと屏風を立てる。
その屏風には、質素な部屋には似つかわしくない、金箔が張られている。そしてその上に描かれているのは、根本から花弁までシュンと伸びる紫色の杜若だ。色鮮やかに描かれたそれは、ジグザグ状に横に連なっている。
帷様はその見事な屏風絵を私のほうに向けると、満足げに一つ頷いた。
「布団に入れ。火を消すぞ」
「あ、はい」
言われた通り、部屋の奥に敷かれた布団に潜り込む。
「消しても良いか?」
「はい、お願いします」
答えると、ジュッと火が消える音がして途端に部屋が真っ暗になる。それからゴソゴソと布団に入る衣擦れの音が、暗闇の中で私の耳に届く。その音に聞き耳をたてながら私は思う。
(さっき、帷様は俺達の境遇が似てるって言ってたけど)
一体何の事だろうか。
(そう言えば帷様のことをよく知らない)
家名は勿論のこと、何歳なのかも、結婚しているのかさえもわからない。それに、どうして変装しているとは言え、男なのに大奥にこんなにも大胆に立ち入る事が許されているのか。
帷様に関する謎は盛りだくさんだ。
「今日のきんぴらごぼう。あれはとても美味かった。またいつか、機会があれば食べたいものだ」
「ありがとうございます。新鮮なごぼうと人参が手に入ったら、お作りしますよ」
答えながら思う。
私は帷様について何も知らない。けれど、好きで女装している訳ではなく、きんぴらごぼうは甘めが好き。それだけは何故か知っているのだと。
布団に入り、ぬくぬくとしてくると同時に私の瞼は重くなる。男の人が隣にいるというのに、無防備にも、睡魔に襲われて完全敗北。
連なる杜若の見事な絵に見守られ、ぐっすりと眠ってしまうのであった。
作者となる者が家業の呉服屋で用いた着物の型紙を下書きに描いたという、美しい杜若が描かれた屏風を挟んだ向こう側から、すやすやと小さな寝息が聞こえ始めた。
それからしばらくして、俺はひっそりと布団から抜け出す。
(忍び相手だと、気が気じゃないな)
いつも以上につま先にまで気を張り、気配を消す。
衝立の向こう、寝息を立てる者は本職だ。空気の僅かな揺れだけで、こちらの気配を察知され、目覚めてしまうかも知れない。
そろりそろりと動き、土間で草履にそっと足の指を通す。息を殺し目を閉じ、僅かな動きがないか確認する。
彼女は変わらず寝静まっている。
(俺もそこそこ動けるという事か)
幼い頃から兄である光晴の影となるよう、御庭番である伊賀者達の手ほどきをそれなりに受け育った。
(それがまさかこんな形で役立つとはな)
伊賀者達をまとめる男の娘を誤魔化す羽目になるとは。人生とは、何が起きるかわからない。
そんな事を思いながら、慎重に部屋の扉を開け、素早く部屋の外に出る。
ほぅと一息つくと、白く湯気が立つ。肩を降ろすと、建物の隙間から吹き込む風が体を一気に冷やしにかかる。
(夜風が身に染みるとは、まさにこのことだな)
ブルリと震えながら、手拭いを頭に巻き、そそくさとその場を立ち去る。
江戸城には公にされていない、秘密の通路がいくつかある。勿論大奥も例外ではない。
大奥内に数多く点在する井戸。その中のいくつかは、一見すると朽ち果てた井戸にしか見えない。しかしそのうちの一つが、実は地下へと続く抜け穴となっている。その井戸の鉄蓋には、からくりを組み込んだ錠前がかけられており、七個ある鍵穴は正しい順番で鍵を差し込まないと解錠しない仕組みとなっている。
俺は周囲を確認し、首から下げた鍵を差し込む。するとほどなくして、カチャリという音と共に錠前が解錠された。
ゆっくりと、井戸の蓋をずらす。
「さて、気は乗らないが、行くとするかな」
呟いてから、井戸の中に下がる縄梯子に足をかけ、数段ほどゆっくりと降りる。そして木蓋をずらし、井戸に内側から錠前をしっかりとかけておく。
地上からの明かりが遮られ、縄を握る手元すら見えないほどの暗闇が俺を襲う。
「まるで奈落の底に自ら落ちているようだな」
思わず出た言葉に苦笑いをしつつ、どうにか下まで到達する。
地面に足をつけると、懐に入れていた蝋燭を取り出し、火打石で火をつけた。暗闇の中、ポッと灯った橙色の炎を頼りに、周囲を確認する。
そこは洞窟のような場所であり、開けた場所となっていた。四方に道が伸びているが、正しい道は一本のみ。
抜け道があるということは、同時に、敵に攻め込まれる危険もあるということ。よって蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下通路は、迷路のようになっている。そのため、正しい道順を知る者以外が迷い込んでしまえば、容易に脱出できない作りになっているのだ。
「全く、出来ればこのような場所には足を運びたくないものだ」
ぽつりと言葉を漏らしながら、記憶を呼び起こす。間違えれば二度と出る事がかなわない。それだけは勘弁だ。
「よし、こっちだ」
壁に手を這わせながら、記憶を頼りに進んだのであった。
***
江戸城の表と呼ばれる場所。そこには歴代の将軍と、わずかばかりの数人のみが知らされた隠し部屋がある。
普段は双子の兄と本音で語る事が出来る唯一の場として、その部屋に向かう事に抵抗はなかった。
しかし。
(今日はすこぶる機嫌が悪そうだ)
許されるのであれば、今すぐ大奥に戻りたい。密かに願い、俺は兄である光晴の前に正座した。
「帷よ、お前は大奥で一体何をしている」
「…………」
チラリと俺の後ろに控える大老、柳生宗範の顔を確認する。すると宗範は力なく項垂れ、もはや三途の川がそこまで迫っているといった、虚な目をしていた。
(なるほど。既に兄上に問い詰められたというわけか)
となると、嘘八百を口にしたところで時間の無駄。正直に質問に答えた方が良い。
「老中を初めとする、重臣達の命を受け、大奥にて潜入捜査をしております」
「そのようなことは必要ない。今すぐやめろ」
「しかし、このままでは兄上の評判が下がってしまいます」
「いらぬお世話だ!!」
パシリと手にした扇子で肘掛けを叩きつけ、光晴は怒りをあらわにする。
(これはまた随分とご立腹の様子だな)
それに少しやつれているような気もする。まぁ無理もないが。
「兄上、しっかりと食事はなさっていますか?」
こんな踏み込んだ質問はきっと俺か宗範くらいしか出来ぬ。
(どうせろくに食べていない)
見た目の様子からわかりきってはいたが敢えて尋ねる。
「光晴様は、箸で突くばかりでございます」
背後からここぞとばかり、宗範の声が飛んでくる。
「うるさい。死なない程度には食べている。それに、食欲が湧かぬのだから、仕方あるまい」
「しかし、死なれたら困るのですが」
「その時はその時だ。お前が俺の代わりになれば良い。同じ顔をした者同士だ、どうせ誰も気づかん」
(重症だ……)
思わず天を仰ぐ。まさかここまで追い詰められているとは。
「まさかまだ、伊桜里の件で御自分を責めていらっしゃるのですか?」
「……それは」
言葉に詰まる様子からして、正解のようだ。
「いいですか、兄上。美麗にうっかり絆され、手を出した。その事を後悔するのはおやめ下さい。向こうだってその気で仕掛けてきているんです。誰だってそうなります。俺だって御湯殿で迫られたら断る自信はない。宗範だってそうだろう?」
背後にいる宗範に同意を求める。すると宗範は、静かに首を縦に振った。
「私も今でこそ老いぼれとなり、女子から全く相手にされませんが、というか、嫁すら孫ばかりに愛情を注ぎ、私を蔑ろにしている、そんな様子でありますが」
話が横道に逸れたため、俺は咳払いを一つする。すると宗範はハッとした表情になり、背筋を伸ばした。
「とにかく伊桜里様は幼い頃より賢い御方でした。それに加え、光晴様の側室となるべく、太田忠敬が厳しくお育てになった。ですから光晴様がお世継ぎを残すべく、自分以外の者と閨を共にすることくらい、覚悟した上で大奥入りされていたと思われます」
「そうだな。宗範の言う通りだ。それが嫌であれば、伊桜里はそもそも大奥入りはしなかったはず。断る機会は何度も与えていたのだから」
西大平藩の藩主であり、江戸町奉行に勤める、太田忠敬の娘、伊桜里。彼女は光晴と俺の幼馴染だ。勿論周囲の策略を含み、顔を合わせた仲ではあったが、光晴にとって彼女は初恋の相手でもあった。
だからこそ、光晴は誰よりも伊桜里を大事にしてきたし、自分が次期将軍となる自覚を持ち始めてから、彼女の自由を奪うくらいならばと、早々に伊桜里の縁談相手を探そうともしていた。けれど、伊桜里は光晴と人生を共に歩む道を選んだ。それはきっと誰かにそうしろと言われたからではない。
(色恋なんて、くだらぬもの。そう思ってはいたが)
母を病でなくしてからは特に、伊桜里は光晴を精神的に支えてきた。
――若いながらも聡明で武勇に優れ、さらに政治手腕も優れている天与の人。
光晴がそう民に慕われるようになったのも、伊桜里という存在が大きい。
(だからこそ、今の状況はまずい)
俺で力になれる事があれば、何でもするつもりだ。しかし、どうあがいても、伊桜里の代わりにはなれぬ。
そして、光晴が弱っているところを見せれば見せるほど、家臣達は不安になる。それはやがて、大きな波紋となり、この世を混乱に導く事になりかねない。
「私が伊桜里に恋慕したばかりに、忠敬も大事な娘を失う羽目になってしまった。美麗に手をつけたのも、伊桜里の悩みを見抜けなかったことも、そして愛する者を同時に失ったことも、全て私のせいだ」
光晴は悲しげに目を伏せる。
「兄上のせいではない、とは言いません。伊桜里のことだ。兄上が抱える責務の重要を理解し、自分が重荷にならぬよう思い悩む事があっても、明るく振る舞っていたのかも知れません。それに彼女は懐妊し、心が不安定になっていたとも考えられます。それらに気付けなかったのは兄上の失態。けれど、賢い女であればあるほど、本音を隠すのが良くも悪くもうまいものです」
「…………」
光晴は視線を落とし、唇を噛み締める。
「光晴様、帷様のおっしゃる通り、御自分を責めるのはどうぞおやめ下さい」
宗範が懇願する。
「妻にも子にも先立たれた。私にはもう何も無い。自分でもこのままではいかん。そう思うのだが、いかんせん気力が沸かぬのだ」
ここまで弱気な光晴を初めて見たせいか、何も言えなくなる。
(これ以上言葉をかけたとしても、今の光晴には届かない)
きっと今の光晴は、繭に包まれた蚕のようなものだ。
(いや、違うな)
蚕は孵化する為に繭に籠るが、光晴は罪悪感という糸を吐き出し、その身を覆い、周囲を遮断している。
(待っているだけでは、蛾にすらなれぬ、か)
光晴を覆う繭を破るには、もはや伊桜里が残した書簡を見つけるしかなさそうだ。そしてその書簡に光晴が前向きになれるような言葉が残されていればいいのだが。
(もはやそれに賭けるしかないという状況。となると、残るはもう一つの問題)
兄上にきちんと食事を取ってもらわねばならぬ、ということだ。
(無理矢理にでも口の中に、魚でも押し込みたい所だが)
流石にそこまで鬼にはなれない。
(そもそも、食事を楽しいと思えない状態だからな)
先ずは生きる為に仕方なく食べるのではなく、食事が楽しい時間であることを思い出させる必要がありそうだ。
(となると……)
俺は考えた末に、ふとある事を思い出す。
「兄上、きんぴらごぼうはお好きでしたよね?」
「何だ、突然」
「うまいきんぴらごぼうを作る者がおりまして、是非兄上にも召し上がって頂きたいのです」
「一体どうした」
「今度お持ちしますので、一緒に食べましょう。あ、勿論宗範にもわけてやるぞ」
宗範に笑みを向ける。
「いいですねぇ。久しく三人で食事などしておりませぬからな。帷様が太鼓判を押すきんぴらも楽しみですなぁ」
宗範は俺の意図を汲んだのか、話をあわせてくれた。
「確かにきんぴらは好物だが、今はそんな気分になれぬ。せっかくの誘いだが、遠慮しておく」
光晴は首を横に振る。
「いえ、必ずお持ち致します」
「しつこいぞ」
「そうだな。兄上の息抜きも兼ね、今度三人できんぴらをつまみながら、酒でも飲み交わし、語らうとしましょう」
「何を企んでいるんだ?」
訝しげな視線を光晴が俺に寄越す。
「伊桜里の死を嘆き、悲しむ。それは兄上が一人で思う存分すればいい」
ゆっくりと告げる。
「しかし、伊桜里の思い出を懐かしみ、思いを馳せ、忘れないように語り合うこと。それは一人では出来ないことです」
「それは……」
「伊桜里と共に過ごした時間は消えることのない、宝物のような日々だったはずだ。兄上は、それら全てを苦しい思いで上書きなさるおつもりですか」
あえて厳しい口調で問うと、光晴はハッとしたように目を見開く。
(やっと気づいたか)
俺は内心ホッとする。食欲を戻すための強引な作戦だったが、意外にも後ろ向きな気持ちに少しは歯止めを効かせられたようだ。
「偲ぶ気持ち。それはまさに、残された者が出来る、旅立った者への供養ですからな」
宗範が俺の言いたいことをまとめてくれる。年老いた宗範が言うと、言葉の重みが増すような気がする。
「あぁ、そうだな。無くしたくはない、そんな記憶は多くある。たまには三人で昔話もいいかも知れんな」
光晴がようやく前向きな発言をしてくれた。
「ま、本当は俺が寂しいんですよ。一人きりでいると。だからたまには兄上と飲みたいなと、そう思ったわけです」
「相変わらずお前は嘘が下手だな」
光晴が苦笑いを浮かべる。
「えぇ、本当に」
宗範も同調する。
「でも、きんぴらごぼうは本当にうまいので、期待していてください」
そこだけは、しっかりと念を押したのであった。
その日私は、帷様が長局改め、掘っ立て小屋からこっそり抜け出す気配に気付いていた。
帷様はコソコソとやたら手慣れた感じで立ち回っていたが、生憎私は伊賀者、くノ一連い組の忍びである。
(気付かないわけないじゃない)
帷様が部屋の戸を閉め、それからきっちり二十秒。布団の中でわざとらしい寝息を立ててから、むくりと起き上がった。そして半纏を手に取ると、外に出た帷様の後を追う。
闇夜に紛れ尾行するのは得意だ。案の定、警戒しつつ先を急ぐ帷様が、私に気付く事はなかった。
そんなおっちょこちょいな帷様が足をとめる。辿り着いたのは、大奥内にいくつもある井戸の一つだった。それは普段からあまり人が寄り付かないと言われる井戸。その井戸を眺めながら、私の脳裏に共同台所での一幕が蘇る。
毎日共同台所に向かい、いそいそと調理する私。その周りでは私と同じように、自分たちの食事を用意する為に訪れた奥女中達がいた。彼女たちは馴染みある者同士で固まり、愚痴に噂話などなど。盛んに情報を交換し合っている。しかも休憩時間を利用して台所を訪れているせいか、みな、心を開いた様子で幾分口が軽くなっているという状況だ。
(これはまさに、情報収集に最適な場所なのでは?)
悟った私は即座に行動に移す。毎回少しだけ多めに材料を購入し、帷様と私で食べきれない分を、料理下手な子、それから、食に興味がありそうな子などに目星をつけ、日々無償で「余ったので、良かったら」と分け与えた。
すると、その甲斐あって私にも、数人ほどではあるが、顔馴染みと呼べる子ができた。
そしてある日、常々気になっていた事を友人となった奥女中達にさりげなくたずねたのである。それは長局の南端に捨て置かれたように存在する、からくりの錠前がついた明らかに怪しい井戸のこと。
そう、帷様が消えた怪しい井戸である。
『あー、四之側の南端にある井戸なら、長局から出火した大火事で多くの奥女中が助けを求め、飛び込んだと言われる、悲劇の井戸だね』
『今でも時折、助けてと言う悲痛な叫びが井戸の底から聞こえるんだって』
『悪い事は言わないから、お琴ちゃんも近づかないほうがいいよ』
その情報を元に、後日私は井戸を確認しに行った。すると、みんなの話を裏付けるように、大火の死者を供養する「奥女中弔いの碑」と書かれた石碑が井戸の脇にひっそりと立てられていたのである。
「なるほど、上手い事隠したもんね」
一通り、回想を終えた私は思わず感心した。
(でもまぁ、ありがちではあるか)
人が怯えるような噂を流し、その場所に秘密を隠す。それは昔から良くある手だ。とは言え、まさか大奥にそのような物が隠されているとは思わなかった。
(でも大奥だからこそか)
それこそ火事などがあった時、将軍光晴様を真っ先に救うため、地下に隠し通路が張り巡らされていてもおかしくはない。
(なるほどね)
私は帷様が消え去った井戸の蓋を見つめる。既にそこにあったはずの、からくりの錠前は跡形もなく外されている。
(確か正しい順番で、鍵を差し込む錠前だったはず)
つまり井戸の中に消えた帷様は鍵を持っていて、しかも解除にかかった時間的に、錠前の正しい鍵の差し込み方を知っていたと思われる。
(一体どうして?)
不思議に思いながら、井戸の蓋に耳をつける。すると、微かに人の足音が反響するような音が聞こえてきた。
「秘密の抜け道か」
私は無駄だと思いながら、井戸の蓋を持ち上げようと試みる。しかし予想通りと言った感じ。蓋は開かない。
(今日はここまでか)
私は腕組みし、しばし開かずの間となった蓋を見つめる。
「問題はこの事を、正輝が知っているかどうかだけど」
知っていて放置しているのであれば、私は見てみぬフリをするだけ。
何も問題はないだろう。
(でももし、帷様の単独行動だった場合)
帷様が敵である可能性が出てきてしまう。
「一体何処に続いているんだろう」
後を付ける事が叶わぬもどかしさを感じつつ、井戸の位置から抜け道が向かう方角を導きだそうと辺りを見回す。
(意味ないか)
何故ならここは江戸城本丸大奥だ。東西南北、どこに抜けるにしろ、どこもかしこも重要な場所である事は間違いない。
「さてと、今日はこのまま寝ますかね」
私は潔く諦め、その日は部屋に帰宅した。
そして翌日。
帷様より早く起きた私は、屏風の脇から帷様の様子をうかがう。すると、帷様は埃っぽい掻巻をしっかり肩まであげ、気持ちよさそうにスースーと寝息を立てていた。
(失礼します)
心で断り、帷様に近づく。
相変わらず玉のようなツヤツヤの肌で憎らしい。
(あっ、髭の剃り残し発見!!)
完璧で女性顔負けの美しい帷様に髭がある事を発見し、謎に優位に立った気分になる。
(ではなくて)
息を殺しさらに帷様に近づくと、匂いを嗅いだ。
(やっぱり少し埃っぽい。それにこれは……)
顔に熱が籠ったのを感じ、慌てて離れる。何故ならいつも帷様から仄かに香る、白檀の良い香りがしたからだ。
「ん……」
帷様が声を漏らす。
私は脱兎のごとく屏風の向こうに避難し、起床したばかりを装う。
「ふぁー、朝だわ」
「ん、何時だ?お前は起きているのか?」
「おはようございます。明け六つですよ、帷様」
「そうか、今日は昼番だったな。そろそろ起きねば」
モゾモゾと帷様が寝返りを打つ音がする。
「着替えたら、朝餉の用意をしてまいりますので、帷様はもう少しお休み下さい」
「すまぬ。今日は甘えさせてもらう」
寝ぼけ声で告げると、帷様の動きは止まった。
こうして私の、帷様の匂いをうっかり吸い込み動揺するという変態地味た、しかし立派な偵察行為は本人に知られる事がなかったのだが。
(さて、この件をどうするか)
私は大きな悩みを一つ抱える事となったのであった。
***
胸を張るほどの成果も出さず、大奥の御火乃番として帷様と働き初め、はや十日ほどが経ってしまった。
因みに数日前、帷様が井戸に消えた件については進展なし。というのも、私は悩んだ末、危険を冒し御広敷の詰め所にいる、伊賀者の御庭番経由で正輝に書状を渡してもらった。
そして何と返事が帰ってくるか。気が気でない私の元に届いたのは薄っぺらい一枚の書状。
慌てて確認するも、私はがっかりする事となった。なぜなら。
『お前は余計な事をするな、任務だけを考えろ候』
たったそれだけ。
(何このふざけた返事は!!)
しばし憤慨した私であったが、流石に帷様が謀反を企むような悪人であれば、正輝も放置しておくわけがない。よって「余計な事をするな」という文言は、「帷様を探るな」という意味であると理解し、私もその件については、自分の中で一旦保留とする事にした。
「けど、なんだかもやもやするんだよねぇ」
私は共同台所の端で、壺に入った糠に手を突っ込みながら思わず愚痴る。
「もやもやって、例のあのこと?」
隣で自分のぬか床をかき混ぜていた、お寿美ちゃんがしっかりと私の愚痴を拾う。
普段は御末として働く彼女は、実家が町方で有名な蕎麦屋をやっているらしい。そのせいもあるのか、お寿美ちゃんは気配り上手で、快活で、とても付き合いやすい娘だ。よって、共同台所で顔を合わせる度、気付けば自然と一緒にいる事が増えた。
「あ、ええと」
私がもやもやするのは、帷様が井戸に消えた件と、それに対する正輝の対応だ。けれどその事はお寿美ちゃんには告げていないし、そもそも言えない。
「美麗様が伊桜里様の幽霊を見たって話でしょ?」
(え、そうなの?)
ぬか床を混ぜる手をとめ、お寿美ちゃんの整ったうりざね顔を見る。すらっとした切れ長の目は至って真剣。嘘をついている顔ではなさそうだ。
「もやもやする。その気持ちわかるよ」
私に向かって頷くお寿美ちゃん。
「公方様を大奥にお呼びしたいからって、伊桜里様の名を出すだなんて、全く信じられないよね」
(そういうことか)
どうやら美麗様はしびれを切らし、強行手段に出たようだ。
そもそも美麗様という人物が、御湯殿で光晴様のお手付きになったというのが、私にはにわかに信じがたかった。けれど、ご老中の一人、岡島様の部屋方……つまり、私的に岡島様に雇われた美麗様が、一気に公儀公認である御中臈になったというのだから、お手付きの事実があった事は認めざるを得ない。
勿論、光晴様は悪い事をした訳ではない。当たり前の権利を行使しただけだ。それにその話はよくよく聞けば伊桜里様が亡くなる前の話で、しかもお手つきはその一度きり。むしろ光晴様は後悔なさっているご様子だったとも噂されている。
だから私がとやかくいうつもりはない。
けれど。
(それを知った伊桜里様は、どんな気持ちだったのかな)
頭にそんな疑問が浮かび、ついモヤモヤした気持ちになってしまう。
「美麗様を慕っている子達も、流石にやり過ぎだって、あまりいい顔をしてなかったし」
「確かに」
私はお寿美ちゃんが更なる情報をもたらしてくれる事を望み、ひとまず話を合わせる。
「ここだけの話、あたしはあの子が浅草の小谷園で看板娘をやっていた時のことを知ってるんだ」
「え、そうなの?」
それは初耳だった。
(知り合いってこと?)
浮かんだ疑問の答えはすぐに自己解決する。何故なら、お寿美ちゃんは浅草寺の近くにある、お蕎麦屋の娘だという事を思い出したから。
しかも美麗様は「浅草小町」として町方で有名だっだとくノ一連い組の誰かが言っていた事を思い出した。
以上の二点から、お寿美ちゃんが美麗様を知っていても、何らおかしな事はないということだ。
「昔から綺麗だと評判だったからか、ツンとして人を見下すような所があったし、それにあたしの親友だった子の好きな人を横取りしたんだよ」
その時の事を思い出したのか、お寿美ちゃんの鼻息が荒くなる。
「しかも大して好いてなかったくせに。昔からあの子にはそういう所があるの。男のお客さんに媚を売る愛想の良さは、天下一品なんだから」
「そうなんだ」
「しかもね」
キョロキョロと辺りを見回し、お寿美ちゃんは私の耳に口を寄せる。
「美麗様は、本当は遊女が産んだ子なんじゃないかって、そんな噂もあるんだよ」
小声で告げられたのは、予想だにしなかった噂話だ。
(確かにあの辺には遊郭があるけど)
私は浅草寺付近に広がる光景を思い出す。
身売りされた女が逃げないよう、高い木の塀で囲まれているのが、浅草寺の裏手にある吉原遊郭と呼ばれる区画だ。そこは全国から多くの人が集まる歓楽街で、いつも人で賑わっている。
「でも、大奥に入る時に身辺調査をされるよね?流石に遊郭の子は入れないんじゃないかなぁ」
私はさりげなく「それはないのでは?」と匂わせる。
「まぁね。美麗様は確かに馬道通りの裏手に住んでる留吉さんとこの子だし。でも天性の男ったらしだって、みんな言ってたし」
お寿美ちゃんは素気なく返す。言葉尻には私が疑っている事を不服に思う気持ちが込められている。
「確かに御湯殿で公方様に色目を使ったって話だし、そういう事に手慣れていたら、誰だってそう思うよね」
慌ててお寿美ちゃんの肩を持つ。貴重な情報源でもある彼女の機嫌を損ねる訳にはいかないからだ。
(でもまぁ、遊女の子である可能性は低いと思うけど)
そういう噂が出るのは、吉原遊郭に近いという、土地柄なのだろう。
そして、美麗様の日々の行いが、町方でその噂を呼んだに違いない。男に媚を売るのが上手い「遊女みたいな子」という話が、人の口を渡り歩き、「遊女の子」に変化して広まった。この流れは容易に想像できる。
(実際はどんな人なんだろう)
私は俄然、美麗様に興味が湧いてきた。
「ちょっと、あんた達なんでここで糠なんて混ぜてるのよ。臭いから外でやって」
かまどの前から、声が飛んでくる。
「えー、だって外は寒いし」
お寿美ちゃんが口を尖らせる。
「着物に匂いがつくから。ほら、早く行った、行った」
追い立てられるように、手を振られる。
「わかったわよ。行こう、お琴ちゃん」
「うん」
お寿美ちゃんと私は、揃って小さな糠壺を抱え、寒空の下に渋々足を進めたのであった。
一度だけお手つきになった美麗様。そんな彼女が「伊桜里様の幽霊を見た」と騒いでいる。
その事実を奥女中仲間のお寿美ちゃんから聞いた時、私はてっきり光晴様のお渡りを願う美麗様の狂言だと思った。
寵愛を受けていた伊桜里様の名を出して騒げば、それなりに話題にあがる。そしてその話が光晴様の耳に届けば、「何事か?」と大奥へ足をお運びになるかも知れない。
(単純だけど、効果的ではあるよねぇ)
正直、亡くなった人を幽霊に仕立てるという、そのやり方には賛同出来ない。しかしただ何もせず、首を長くしてお渡りを待ち続ける事。それに我慢ならない気持ちは理解できなくもない。
(だってここは大奥。お世継ぎを残す事をみんなから期待される場所だもん)
だから、自ら仕掛けようとする気持ちが湧くのは当たり前だと思うし、実際行動した部分に関しては、ある意味尊敬にあたるとも思う。
(自分の人生がかかっているしねぇ)
自ら運命を切り開こうと行動すること。それは当たり前であって、その事自体を誰かが咎めるのは、違うような気がした。
結局のところ、今回の美麗様はやり方を間違えただけ。
(しかも幽霊だなんて、誰も相手にしないに決まってるし)
そんな感想を抱き、私はこの件を楽観視していた。そして、私がお寿美ちゃんから美麗様の件を聞いた二日後のこと。
帷様と昼番を終えた私は、割り当てられた長局もどきに戻り、「今日の夕餉(ゆうげ)は何にしようかな」とあれこれ考えながら、共同台所へ向かう準備をしていた。しかしそこへ、慌てた様子の御火乃番仲間が現れる。
「お琴ちゃんと、帷ちゃん。まだいてよかった。お清様が今すぐ部屋に集まるようにだって」
「部屋?どこの?」
「三之側にあるお清様の部屋。だからそこに集合だって。その辺の人に聞けばわかると思う。じゃ、後で」
旋風が巻き起こったように、去っていく同僚。
「ええと、帷様。私達はまた出かけないと行けないようです」
「ふむ、頑張れよ」
私は何事もなかったかのように、お風呂に向かおうと、横を通り過ぎる帷様の小袖を掴む。
「帷様、どちらに?」
「……」
極まり悪い顔をして立ち止まる帷様。それから盛大にため息をついた。
「面倒極まりないな。しかもこっちは今の今まで働いていたんだぞ」
「お気持ちはわかりますが、呼ばれたからにはひとまず行かないと」
「お前が行けば良い」
「しっかり「帷ちゃん」もあたま数に入ってましたよ?」
「チッ」
「舌打ちしない!」
私は不機嫌全開の帷様を無理矢理連れ出し、指定された場所に向かった。
「こっち、こっち」
見知った顔に手招きされ向かうと、既に招集場所と思われるお清様の部屋の中は満杯だった。仕方がないので帷様と私は部屋からはみ出た、廊下部分に正座する。
「中にすら入れぬのであれば、帰っても気づかれないのでは?」
「ダメです、点呼があったらどうするんですか」
「お前が」
「お断りします」
帰りたくて仕方がないらしい帷様を宥めつつ、私は集められた面々を確認する。そしてすぐに気付く。
「どうやらここにいるのは、御火乃番に就く者だけのようです」
「みたいだな」
「何かあったのでしょうか?」
「知らん、だがすぐにわかるだろう」
そう言って、帷様は顎を少し動かした。私は顎で示されたほうに顔を向ける。すると|御火乃番頭、つまり私達の長であるお清様が、部屋の上座に現れた。
「急に招集をかけてすまないね。先程岡島様より、御達しがありました。しばらくの間、美麗様の御部屋の前。特に渡り廊下の夜廻|《よまわ》りを強化されたし、とのことです」
お清様は淡々とした口調で告げる。
「よって、それぞれの暇を削り、見廻りに出てもらう事になると思います」
お清様は申し訳なさそうな表情を私達に向けた。
「皆様、色々と思う事はおありでしょう。しかし私達は公方様のお膝元で安全を守る大事な職についております。その事をしかと心に刻み、励みましょう。追って夜廻りの割り振りは知らせます。それまでは、通常通りで火の番につくこと」
「美麗様の件に当たるのは、今日の夜からですか?」
前方に座っていたお滝様が、鋭い質問をぶつける。
(うわ、勇気あるなぁ)
流石饅頭で帷様と私を売っただけある。しっかり者だなと、思わず感心してしまう。
「岡島様から「早急に手配するように」と承りました」
「つまり今日の夜からって事か……」
お滝様の意気消沈といった声が響き、一斉に肩を落とす私達。勿論私も例外ではない。
(たかがでっちあげの幽霊騒ぎにみんなが駆り出されるなんて)
御火乃番は、朝昼晩を問わず、常に大奥内の火の用心と警護のため、決められた場所を二人一組で巡回している。そして御火乃番につく女中は総勢十八名。つまり実質九組で全体を見廻る事となる。それだけいれば充分だと思われがちだが、ここは大奥。恐ろしく広い場所だ。よって常にカツカツの人員配置で当番を回しているのである。
(美麗様の部屋を夜廻りかぁ……帷様のお食事を作る時間は、果たして取れるのだろうか)
この時はまだ、私にもそんな余裕があった。
しかしそれから数日後、事態は急変する。
急遽組み直された当番表にそって、美麗様の居住区になる二之側の夜廻りをしていた御火乃番二名。その二名が「伊桜里様の幽霊を見た」と口を揃えて言い出したからだ。
その件を受け、お清様がみんなに通達する。
『皆を不要に怖がらせてはなりません。この件はくれぐれも他言せぬように』
しかしお清様の言葉を他所に「御火乃番も伊桜里様の幽霊を見たらしい」と、あっと言う間に大奥中に知れ渡る事となる。
そして。
『やっぱり美麗様が見たというのは、本当だったのよ』
『そうね。御火乃番が見たんだもの。間違いないわ』
『本当に伊桜里様が化けて出るんだわ』
今まで信じていなかった者達までもが、手のひらを返したように、美麗様の話を信じるようになった。そして幽霊話はどんどん大きくなっていく。
大奥では「白い影を見た」だとか、「井戸の近くで「熱いよ」と泣いてる声が聞こえた」だとか、「家に帰りたいと啜り泣いている子どもを見た」だとか。
三歩歩けば幽霊話に当たる、と言った感じ。あちらこちらで幽霊の目撃情報が囁かれるようになってしまった。
そしてついには。
『開かずの部屋となる、宇治の間の前で伊桜里様を見た』
というとんでも話が、大奥内を早馬のごとく駆け巡る事となってしまったのである。
そして大奥は恐怖の波にのみこまれる事となる。
何故なら――。
『宇治の間の前に幽霊が出た時。それは不幸が起こる前兆』
古くからそう言い伝えられていたからだ。
***
ガサガサと揺れる葉の音。
ホウホウと鳴く鳥の声。
それから私の肌を突き刺すような、冷たい風。
辺りに人影はなく、静まり返る大奥。
昼間明るく活気ある場所ほど、夜になり闇が濃くなると、途端に不気味さが増すものだ。
「みなさま、火の用心なさりましょう」
片手に手燭を持ち、長廊下をゆっくりと進みながら私は声をあげる。
「火の用心、火の用心」
私はさらに声を張り上げる。
現在帷様と私は御火乃番の仕事中。ゆっくりと進む長廊下は美麗様のお住まいである二之側のもの。つまり、大奥内を恐怖に陥れている、幽霊騒ぎの発端となった場所ということだ。
「あいつらは寒いから、怖がっているフリをしているに違いない」
「それはないかと。皆様本当に怯えていらっしゃいましたから」
答えながら、身を撫でる夜風の冷たさから身を守ろうと、藍色に染めた綿入りの小袖の襟元をしっかりと握りしめる。
(まぁ、帷様が文句を言いたくなる気持ちはわかるけど)
幽霊騒ぎが加熱の一途を辿った結果、美麗様が幽霊を見たと証言した場所の夜廻りを、皆が揃って辞退した。そのため帷様と私は「お主達しか残っておらぬ」と、御火乃番頭のお清様から泣きつかれてしまったのである。
その結果、帷様と私は、毎日この場所を夜廻りする羽目になった、というわけだ。
「全く夜廻りは好かん」
「私も好かんです」
答えてから、私はすぅと息を吸う。
「火の用心、さっしゃりましょう」
喋るとバレる。だから声をあげられないという帷様の分も私が、という意気込みで声を張り上げた。
「帷様は一連の騒動をどうお考えですか?」
「実にくだらん。それに尽きる」
帷様はいかにも面倒くさいといった顔で答えた。どうやら夜回りに納得していないようだ。
「そもそも、幽霊なんぞ、いるわけがない」
「確かに」
「しかしそう思うからこそ、このような面倒事を押し付けられる羽目になったとも言える」
「仰るとおりです。これからは多少なりとも怯えてみせたほうがいいかも知れません」
「そうだな」
私達は顔を見合わせ苦笑する。
幽霊がいるかどうか。実際のところはわからない。けれど、少なくとも私は幽霊なんて見た事がない。
(だからいないと思うけど)
「火の用心、火の用心、火の用心」
三回分ほどまとめて連呼してから、常々疑問に思っていた事を帷様にたずねる。
「そもそも幽霊を見たという人は、何を見て、幽霊を見たと言っているんでしょうか」
私の問いかけに帷様はしばし考える素振りを見せた。
「俺は幽霊など信じていない。その観点から想像するに、ここの者達は、同調行動をしているのではないだろうか」
「同調行動。それって、みんなに合わせてしまうことですよね?」
大勢の人間が同じ言動をしていると、それが正しいと思い込み、自分の判断力が鈍くなる事がある。その結果、意識的にも無意識的にも、その場の雰囲気に合わせた行動をとってしまう。それが同調行動だ。
「つまり、みんなが幽霊を見た。そう言っているから、私も見た。そのように嘘をついているという事でしょうか?」
「全ての人間が嘘をついている訳ではないだろう。幽霊がいると思い込んだ結果、誰かの影を幽霊だと勘違いしている場合もあるだろうからな」
「それはあるかも知れませんね」
「大奥は閉鎖的な場所だ。この場所で平和に暮らすには、うまく人付き合いをしていくしかない。それも皆に合わせてしまう要因だろうな」
「事を荒立てない為にも同調しておく。その結果、ここまで大騒ぎになってしまったと。火の用心!!」
私は投げやりな掛け声をかけておく。
「でも怖いですね。何か良くない事が起こらなければいいのですが」
呟くように言うと、帷様が呆れたような声を出す。
「まさかお前は宇治の間の噂を信じているのか?」
「信じてはいないですよ。ただ、もし何か偶然的に良くない事が起こった場合、今ならもれなく伊桜里様のせいにされちゃいます。それが嫌なだけです」
伊桜里様は無実の罪を着せられても釈明することができない。だから罪を着せてもいい。そうはならないし、なってはいけない。
勿論時として、幽霊のせい。そう言って誤魔化した方が楽な場合もある。しかし今回ばかりは、心が痛いし、見過ごせない。
「自分亡き後でも、己の名誉を守ろうとする者がいる。伊桜里もきっと喜んで」
帷様は突然口を閉じ、足を止めた。
「みなさま、火の用心なさりましょう。って帷様、どうかされました?」
不審な動きをした帷様を怪訝な顔で見つめる。
「おい、あれを見ろ」
真面目な顔をした帷様が、手燭を掲げ前方を指す。一体なんだろうと、私もその先を見る。するとそこには、ぼんやりと白い影が見えた。
(あれ?)
違和感を覚えた私は集中し、目を凝らす。
「誰だ! そこで何をしている!?」
帷様が大声で問いかける。すると白い影は私達に背を向けると、突然走り始めた。
「あっ!」
思わず声をあげる。
「逃げるな、待て」
帷様が女性を追おうと、大きく足を踏み出す。とその時。
「出たのですね!!」
「きゃー!!」
突然部屋から小袖姿の奥女中達が飛び出してきた。
「伊桜里様の幽霊だわ」
「皆様、塩を、早く」
「除霊しないとですわ」
「あぁ、なんまいだー、なんまいだー」
「どうぞ、安らかにお帰り下さい」
一心不乱に塩を振り巻く者。何故か手に竹箒を持ち振り回す者。それから、数珠を手に南無阿弥陀仏を唱えはじめる者。
その姿に圧倒され、帷様と私はその場に固まる。
「一体これは」
「なんでしょう……」
帷様も私も、ひたすら唖然とするしかなかったのであった。
幽霊騒ぎに遭遇した翌日。帷様と私は数時間ほど睡眠したのち、奥女中達の住まいとなる長局の二之側に向かっていた。
「一体、美麗様は私達に何の用があるんでしょう」
「まぁ、昨夜の事だろうな」
「なるほど」
寝不足で隈が色濃く残る顔、重い足取り。私と帷様は欠伸を噛み殺しながら、私達を呼び出した美麗様の待つ二之側へと向かう。ほどなくして二之側の長局に到着した私は、美麗様の部屋方だという女中の案内で、長い廊下を奥へと進む。
「うわぁ、四之側|《よんのがわ》と中の構造が全然違うんですね」
私は素直に感想を漏らす。
「初めて来たかのように言うな」
「だって、昼と夜では全然見える景色が違いますから」
夜廻りでは確認できない部分に目を光らせるため、私はキョロキョロと辺りを見回す。
外から見るとどの長局も同じように見える。しかし中に足を踏み入れると、明らかに四之側の長局に比べ、一之側はゆとりを持つ間取りとなっていることがわかる。
(流石御目見得以上のお住まいよね)
私は大奥における職制身分の差を、しっかりと肌で感じつつ、通りすがりにチラリと座敷の中を覗く。すると八畳ほどの部屋の中には、立派な床の間や違い棚などがあり、屏風も上等なものが置かれているのが確認できた。それに加え部屋の隅々まで掃除が行き届いているのか、目につく場所には塵一つ落ちていない。
(一体どうなってるの?)
一日に何度拭き掃除をしたらここまでピカピカの状態を保てるのか。浮かんだ疑問の答えを探っていると。
「こちらでお待ち下さい」
そう言って美麗様の部屋方は足を止めた。そして帷様と私を八畳ほどの部屋に通した。それからほどなくして、美麗様が共の者を連れてやってきた。甘い香りが座敷に充満する中、帷様と私はサッと頭を下げる。
(早くお顔を拝見したい)
願うものの、ここはきっちり縦社会が敷かれた大奥だ。美麗様のお許しがなければ顔をあげる事はかなわない。
(一体どんな人なんだろう)
頭を下げながら、期待に胸を膨らませる。
「おもてをあげていいわよ」
こちらにしなだれかかるような甘く媚びた声。予想通りだなと思いつつ、私は顔をあげる。
最初に目についたのは、臙脂に染められた生地に、金糸や銀糸で華やかな刺繍が施された打掛だ。
(流石御中臈様)
それから視線を上にあげる途中で、私の目はあるものに惹きつけられた。
(あっ、可愛いもの発見)
私は帯の上にちょこんと乗る、手毬を模したような根付に目ざとく反応する。
そもそも根付けとは、煙草入れ、印籠、巾着などの小物を帯に吊るす時につける留め具のことだ。小さな根付けは細工や彫刻に凝った物が多く販売されており、皆自分の気に入った根付けを帯の上に留め、粋な着こなしを楽しんでいるのである。
私が一瞬にして目を奪われた美麗様の根付は、艶やかな漆塗り。丸く湾曲した表面に描かれた美しい松葉牡丹は、よくよく目を凝らすと、べっ甲、白蝶貝、珊瑚、象牙などを使った、実に精巧な象嵌細工が施されたものだった。
(もはや芸術品だわ)
思わず無礼を承知でつい、見惚れてしまう。
(素敵ねぇ)
感嘆の声を心で漏らし、今度こそ寄り道をせず、美麗様の顔をじっくり拝見しようと視線を上げた。
(そういうことか)
私は目の前に座る、美麗様が何故「浅草小町」と謳《うた》われていたのか。と同時に、共同台所仲間のお寿美ちゃんが「男に媚びる」と表現していた、その理由がストンと胸に落ちた。
美麗様は確かに美しい女性だ。
顔の真ん中に通る、スンとした鼻筋。切れ長の目は、少しつり上がっているものの、涙ボクロと相まり艶っぽく、むしろ魅力的に見える。しっかりと紅をひいた唇は、ぷっくりとしていて思わず触れてみたくなるほど。
そして何より特記すべきは、はちきれんばかりの胸元だろう。
(あれを嫌う男の人はいない)
私は確信する。
そして御湯殿でついうっかり、手を出してしまったという、光晴様のお気持ちが悔しいけれど、ようやく理解出来てしまった。
彼女の声や表情や仕草から伝わる「女」を前に、コロッといかない男はいないはずだ。
(きっと帷様も、魅了されているに違いない)
チラリと横に座る帷様を盗み見ると、いつも通り無愛想な顔をしていた。
(こ、好みは人それぞれだものね)
とにかく色気を武器とする女性は、異性受けはいいが、同性に理解されにくい。だからきっと、お寿美ちゃんも、あまり良いように思わないのかも知れない。
伊桜里様が全ての花が霞んでしまうような美しさを持つ女性だとしたら、彼女は。
(全ての花を養分とし、枯らしてしまう)
そんな危険な美しさをはらむ女性だ。私の中に密かに眠る女の勘が、他の娘同様、友達にしたら危険だと訴えかけていた。
「今日ここにあなたたちを呼んだのは」
不意に言葉をかけられ、ハッとして美麗様と視線を合わせる。すると彼女はクスッと笑った。
「そんなに緊張しないで」
ニコリと微笑む美麗様。
「それであなたも見たのね?」
そう口にすると、彼女は私のほうへ身を寄せた。その瞬間、ふわりと甘い香りが濃くなり、思わずドキッとする。
「何を……ですか?」
動揺を隠すように平静を保ちつつ訊ねると、美麗様は妖しげに微笑んだ。
「とぼけないで頂戴。死装束を着た伊桜里様の幽霊よ」
美麗様は言葉を切る。
(さて、何と答えるべきか)
慎重に解答しようと、黙り込む。そんな私に、美麗様は待ちきれなかったようだ。
「昨日あなた達は、幽霊が駆け足で消えていった現場にいたじゃない」
どうやら昨夜の騒ぎを、美麗様もしっかりご覧になっていたようだ。私が黙って小さく首肯くと、彼女は突然私の手を握った。
「お願いがあるの」
「えっ……なんでしょう?」
突然の行動に戸惑いながら答えると、美麗様はゆっくりと口を開いた。
「この件を公方様にお伝えして欲しいの」
「無理です」
私は失礼を承知で即答する。
「あら、私の願いを断るだなんて、いい度胸ね」
ぶんと大きく一振り、私の手を乱暴に離す美麗様。
(そう言う問題じゃないんだけど)
ため息をつきそうになるのを堪え、口を開く。
「失礼ながら、私は御目見得以下の御火乃番です。ですから、公方様にお目にかかる事はかないません。御中臈である美麗様が直訴されたほうが」
そこまで言って、失敗したと悟る。目の前の美麗様の顔からわかりやすく笑顔が消えたからだ。
「一体どこで会えるわけ?公方様は大奥によりつかない。もうずっとよ」
美麗様は不満げな顔になる。
「誰も取り合ってくれないから、あんた達に頼んだんじゃない。全く察しが悪い女ね。存在価値がないも同然。それに――」
美麗様は思いつく限りの言葉で私を貶し始めた。どうやら逆鱗に触れてしまったようだ。
(ほんと、失敗した)
外にいた頃は、天花院様対貴宮様といった、嫁姑戦争の方ばかり話題に上がっていた。だから正直美麗様の存在をあまり気にかけていなかった。
(でもこれ。かなり存在感たっぷりなんだけど)
「――あなたの目は垂れていて、情けなく見えるし、しかもやだ。そばかすがあるの?女は肌が命なのに?美意識の低い女は嫌いなのよね」
美麗様は言いたい放題だ。
「申し訳ございません」
もうよくわからない状況なので、ここは謝っておく事にする。
「とにかく役立たずね。じゃあなたは?」
美麗様は私から顔を背け、何故かうつむいたままの帷様に向き直る。
「無理です」
帷様は私の真似をした。
(やっぱ、そうなりますよね)
正直光晴様のお耳に入れようと思えば、父に頼むなり、正輝に頼むなりすれば出来ない事もないだろう。
(でも無理)
何故なら傷心中の光晴様に、伊桜里様の幽霊が出ただなんて、口が裂けても言いたくないからだ。
「あなた……何処かで見たような」
美麗様がうつむく帷様の顔を覗き込む。
「お会いした事がございません」
「そう、気のせいかしらね。それで、その声はどうしたの?まるで男の人みたいじゃない。病気なの?」
「はい。実は風邪をひいておりまして。コホコホ」
帷様は胸を押さえ、大袈裟に咳き込んだ。
「ぶ、無礼者。美麗様にお風邪をうつすでない」
部屋の端に控えていた、小豆色の着物を身に纏う女中が大きな声を出した。
「早くお帰りなさい」
鬼の形相と言った感じで、女中が私達を睨みつける。
「さ、はやく」
まるで犬を追い立てるように、帷様と私は女中から出ていくように急かされる。
「美麗様、同じ空気を吸ってはなりませぬ。さぁ、こちらへ」
女中が美麗様の肩を抱える。そして美麗様が立ちあがろうとした、その時。
「きゃあ」
美麗様が見事、畳にすっ転んだ。
(と、帷様!?)
私はこれ以上ないくらい目を見開く。何故なら、立ちあがろうとした美麗様の打ち掛けの裾を、帷様がしっかりと掴んでいたからだ。
(も、もしかしてわざとやりました?)
帷様に視線を送る。すると帷様はニヤリと意地悪く口元を歪ませた。
「美麗様、お怪我はありませんか?は、鼻血が!!誰かぁ、誰かぁ。早くこちらに」
女中が叫び声をあげると、廊下からバタバタと急いで歩く足音が聞こえてきた。
「さ、いくぞ」
「はい」
帷様と私は混乱に生じ、美麗様の部屋を後にしたのであった。