私と帷様は大奥で、新参者の御火乃番として働き始めた。
御火乃番とは昼夜を問わず大奥内を巡回し、火の元の確認と、警備をしてまわる係のことだ。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、大奥でも特に火事は他人事ではない。
かつて大奥の奥女中達が住む長局から出火した火事があった。長局は密集地帯となっているため一気に火の手が回り、どうする事もできなかった。そして長局から出た火は、大奥全体を焼き尽くしてしまう。その結果、奥女中数百人が焼死するという、大惨事を引き起こしてしまったのである。
この事件をきっかけに、大奥では火の番を設け、より一層火の取り扱いに対し厳重に管理する事となったそうだ。
勿論それは現在まで続いている。
帷様と私が任命された御火乃番が、まさにそれだ。
そして御火乃番は大奥内をウロウロと歩き回っていても怪しまれない上に、奥女中達に声をかけても「警備のため」と言い訳が出来るというおまけ付き。
確かに御火乃番は隠密捜査にはうってつけな職種だ。
そんな役回りをもらい大奥に潜入し、既に七日ほど。
肝心な捜査の方はというと、未だ伊桜里様についてめぼしい情報は入手できていない。
何故ならその件は禁句と言った感じ。
皆その話題を避け、無かった事のように振る舞っているからだ。
何か変化があったとすれば、帷様のことくらいだろうか。
私の中で落ち武者が定着しかけていた帷様の頭上には、島田髷のカツラが被されており、こちらが羨むほど美しい女中へと変貌を遂げている。
「くそっ、人を馬車馬のように働かせやがって」
ただし、喋らなければという但しつき。
「仕方ないじゃないですか。私達は新参者なんですから」
現在私と帷様は、大奥内にある女中たちの宿舎、長局の端にある井戸部屋にいる。
私達は釣瓶と呼ばれる縄を取り付けた桶で、井戸から水を汲み取っているところ。汲み取った水は柄に穴があけられた玄蕃桶にザブザブ入れていく。これらの水は、大奥内の主要な場所に設置された、火消し用の水瓶に投入される予定だ。
大奥内では火事に備え、日頃からこのように備えているのである。
(問題は桶の数よね……)
御火乃番の先輩女中であるお滝様に、水を満たしておけと用意された玄蕃桶はゆうに二十を超える。
(冷たくて寒いし、重労働だし)
誰かに代わってもらえるのであれば、喜んでこの役を譲るくらいには大変な仕事だ。
「あのお滝とかいう女、袖の下を貰っているに違いない」
「ですね」
「しかも饅頭一個だと、そう口にしていたように思えたのだが、お前はどう思う?」
帷様は苛々した様子で私に意見を求めた。
私達に水汲みを頼んだお滝様は、御末と呼ばれる奥女中と影でコソコソ会話を交わしていた。
(なんかこっちを見てる感じだったから)
私は二人の会話を、読唇術を用いて、密かに観察した。
それによると確かに御末は自分の仕事である、風呂や御膳所に届ける為の水汲みを私達に押し付ける代わりに、お滝様に「饅頭をあげる」と約束していた。
「そうですね。お滝様はお饅頭一個で、玄蕃桶六杯分という取り決めをされていました」
私は先程知り得た情報を正直に告げる。すると帷様は井戸の水を汲み上げる縄から手を離し、驚愕の表情を私に向けた。
「つまり、俺はたかだか饅頭一個でこんな重労働をさせられているのか?」
「いいえ、御末はお滝様にお饅頭をお支払いするでしょうから、私たちはタダ働き、という事になります」
「くっ、饅頭すらもらえぬとは」
がくりと肩を落とす帷様。
「そもそも饅頭程度で俺達を売るとはけしからん」
むっとした表情で縄を持ち、帷様は水汲みを再開した。
このままやる気を失い、職場放棄されたらどうしようと、帷様の動向を不安視していた私はホッとする。
「せめて二人で一個でいいから、お滝様が労いの意味を込め、私達にお饅頭をわけてくれるといいのですが」
この寒空の下、誰もが避けたい労働しているのは私と帷様だ。よって私達にもお饅頭を食べる権利はあるはず。
「万が一お滝が饅頭を寄越したらお前にやる。というか、俺は饅頭を食べに来たわけでも、水汲みをしに来たわけでもないのだが」
文句を言いながらも力強く縄を引く帷様。
「確かにそうですけど、仕事もせずに情報収集だけをする訳には参りませんから」
隠密捜査が成功するか否か。それは全て、事前準備にかかっていると言っても過言ではない。
「忍び者であるお前ならば、陰形術やら妖術で、人の口を割るのは朝飯前なんだろう?」
私は満杯になった玄蕃桶を持ち上げつつ、ため息をつく。
「もしかして帷様は、人が息をするのが当たり前であるかのように、私に妖術が使えるとお考えですか?」
「違うのか?修行を限界まで積んだ忍者はみな、怪しげな呪文を唱え、人を意のままに操る事が出来ると読本に書いてあった気がするのだが」
「それは歌舞伎や講談などに登場する、脚色された忍者像ですね」
私ははっきりと告げる。
「例えば、児雷也豪傑譚に出てくる主人公。忍者として描かれている児雷也ですが」
「知ってるぞ。蝦蟇の妖術を身につけた忍者だろう?蛞蝓をあやつる美しい妻、綱手と、青柳池の大蛇から生まれた宿敵大蛇丸とで三すくみの戦いが繰り広げられる話だ」
「ええ。よくご存知で」
「幼い頃、夢中になって読んだからな」
帷様は得意げに、嬉しそうな表情になる。
「それで、児雷也がお前の妖術とどう関係があるんだ」
「そもそも児雷也は蝦蟇の妖術で大蝦蟇に乗ったり、変身したりしていますが、私たちはそんな事はしないし、私は人の背丈を超える大蝦蟇なんて現れたら、怖くて一目散に逃げ出します」
「……まぁ、そうだよな。俺も逃げるかも知れん」
大蝦蟇が目の前に現れた姿を想像したのか、帷様はブルリと身体を震わせた。
「それに、物語の中では忍び入った家の壁に「自来也」と記したとありますが、忍びたるもの、自らの名を現場にわかりやすく残す、そんな事は絶対にしません」
「確かに、秘密裏に行動しているのに、証拠を残すなどあり得ないな」
納得するように帷様はうなずく。
「ちなみに有名な忍術とされがちな、地面に映った敵の影に手裏剣を刺し、相手を動けなくする術なども、勿論ながら私たちには使えません」
「影縫いの術も使えないのか……」
がっかりした様子で、帷様は肩を落とした。
そんな帷様には申し訳ないと思いつつ、私は忍者にかけられた多大なる誤解を解こうと、さらに熱弁をふるう。
「いいですか、帷様。敵の懐に入り込むためには、潜入先の調査から始まり、出発時の携行品の選別、道中の行動。それから潜入、察知、諜報、策略、破壊、隠遁、逃走と具体的な計画をしておく必要があります」
幼き頃から叩き込まれた、忍びのイロハを思い浮かべ、帷様に告げる。
「中でも一番大事なのは、相手にこちらの正体を気付かれないこと。何故なら気付かれていないからこそ敵は油断し、こちらが優位に立てるのです」
「それはそうだが」
「ですから先ず、表向きの仕事。御火乃番の仕事に真摯に取り組み、周囲を油断させる必要があるのではないかと、私は思うわけです」
綺麗にまとまった。そう思い満足していると、帷様はふと気付いたように声を上げた。
「今回は突然決まったこと。よって準備が万全ではないはずだ。となると、お前は一体どうやって情報を仕入れるつもりなのだ?まさか何年もかけて信用を勝ち取るつもりではないだろうな?」
「それはですね」
言いかけたところで井戸部屋に、藍色の小袖に白い紐をたすき掛けした、若い女中が二人入ってきた。
御火乃番とは昼夜を問わず大奥内を巡回し、火の元の確認と、警備をしてまわる係のことだ。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、大奥でも特に火事は他人事ではない。
かつて大奥の奥女中達が住む長局から出火した火事があった。長局は密集地帯となっているため一気に火の手が回り、どうする事もできなかった。そして長局から出た火は、大奥全体を焼き尽くしてしまう。その結果、奥女中数百人が焼死するという、大惨事を引き起こしてしまったのである。
この事件をきっかけに、大奥では火の番を設け、より一層火の取り扱いに対し厳重に管理する事となったそうだ。
勿論それは現在まで続いている。
帷様と私が任命された御火乃番が、まさにそれだ。
そして御火乃番は大奥内をウロウロと歩き回っていても怪しまれない上に、奥女中達に声をかけても「警備のため」と言い訳が出来るというおまけ付き。
確かに御火乃番は隠密捜査にはうってつけな職種だ。
そんな役回りをもらい大奥に潜入し、既に七日ほど。
肝心な捜査の方はというと、未だ伊桜里様についてめぼしい情報は入手できていない。
何故ならその件は禁句と言った感じ。
皆その話題を避け、無かった事のように振る舞っているからだ。
何か変化があったとすれば、帷様のことくらいだろうか。
私の中で落ち武者が定着しかけていた帷様の頭上には、島田髷のカツラが被されており、こちらが羨むほど美しい女中へと変貌を遂げている。
「くそっ、人を馬車馬のように働かせやがって」
ただし、喋らなければという但しつき。
「仕方ないじゃないですか。私達は新参者なんですから」
現在私と帷様は、大奥内にある女中たちの宿舎、長局の端にある井戸部屋にいる。
私達は釣瓶と呼ばれる縄を取り付けた桶で、井戸から水を汲み取っているところ。汲み取った水は柄に穴があけられた玄蕃桶にザブザブ入れていく。これらの水は、大奥内の主要な場所に設置された、火消し用の水瓶に投入される予定だ。
大奥内では火事に備え、日頃からこのように備えているのである。
(問題は桶の数よね……)
御火乃番の先輩女中であるお滝様に、水を満たしておけと用意された玄蕃桶はゆうに二十を超える。
(冷たくて寒いし、重労働だし)
誰かに代わってもらえるのであれば、喜んでこの役を譲るくらいには大変な仕事だ。
「あのお滝とかいう女、袖の下を貰っているに違いない」
「ですね」
「しかも饅頭一個だと、そう口にしていたように思えたのだが、お前はどう思う?」
帷様は苛々した様子で私に意見を求めた。
私達に水汲みを頼んだお滝様は、御末と呼ばれる奥女中と影でコソコソ会話を交わしていた。
(なんかこっちを見てる感じだったから)
私は二人の会話を、読唇術を用いて、密かに観察した。
それによると確かに御末は自分の仕事である、風呂や御膳所に届ける為の水汲みを私達に押し付ける代わりに、お滝様に「饅頭をあげる」と約束していた。
「そうですね。お滝様はお饅頭一個で、玄蕃桶六杯分という取り決めをされていました」
私は先程知り得た情報を正直に告げる。すると帷様は井戸の水を汲み上げる縄から手を離し、驚愕の表情を私に向けた。
「つまり、俺はたかだか饅頭一個でこんな重労働をさせられているのか?」
「いいえ、御末はお滝様にお饅頭をお支払いするでしょうから、私たちはタダ働き、という事になります」
「くっ、饅頭すらもらえぬとは」
がくりと肩を落とす帷様。
「そもそも饅頭程度で俺達を売るとはけしからん」
むっとした表情で縄を持ち、帷様は水汲みを再開した。
このままやる気を失い、職場放棄されたらどうしようと、帷様の動向を不安視していた私はホッとする。
「せめて二人で一個でいいから、お滝様が労いの意味を込め、私達にお饅頭をわけてくれるといいのですが」
この寒空の下、誰もが避けたい労働しているのは私と帷様だ。よって私達にもお饅頭を食べる権利はあるはず。
「万が一お滝が饅頭を寄越したらお前にやる。というか、俺は饅頭を食べに来たわけでも、水汲みをしに来たわけでもないのだが」
文句を言いながらも力強く縄を引く帷様。
「確かにそうですけど、仕事もせずに情報収集だけをする訳には参りませんから」
隠密捜査が成功するか否か。それは全て、事前準備にかかっていると言っても過言ではない。
「忍び者であるお前ならば、陰形術やら妖術で、人の口を割るのは朝飯前なんだろう?」
私は満杯になった玄蕃桶を持ち上げつつ、ため息をつく。
「もしかして帷様は、人が息をするのが当たり前であるかのように、私に妖術が使えるとお考えですか?」
「違うのか?修行を限界まで積んだ忍者はみな、怪しげな呪文を唱え、人を意のままに操る事が出来ると読本に書いてあった気がするのだが」
「それは歌舞伎や講談などに登場する、脚色された忍者像ですね」
私ははっきりと告げる。
「例えば、児雷也豪傑譚に出てくる主人公。忍者として描かれている児雷也ですが」
「知ってるぞ。蝦蟇の妖術を身につけた忍者だろう?蛞蝓をあやつる美しい妻、綱手と、青柳池の大蛇から生まれた宿敵大蛇丸とで三すくみの戦いが繰り広げられる話だ」
「ええ。よくご存知で」
「幼い頃、夢中になって読んだからな」
帷様は得意げに、嬉しそうな表情になる。
「それで、児雷也がお前の妖術とどう関係があるんだ」
「そもそも児雷也は蝦蟇の妖術で大蝦蟇に乗ったり、変身したりしていますが、私たちはそんな事はしないし、私は人の背丈を超える大蝦蟇なんて現れたら、怖くて一目散に逃げ出します」
「……まぁ、そうだよな。俺も逃げるかも知れん」
大蝦蟇が目の前に現れた姿を想像したのか、帷様はブルリと身体を震わせた。
「それに、物語の中では忍び入った家の壁に「自来也」と記したとありますが、忍びたるもの、自らの名を現場にわかりやすく残す、そんな事は絶対にしません」
「確かに、秘密裏に行動しているのに、証拠を残すなどあり得ないな」
納得するように帷様はうなずく。
「ちなみに有名な忍術とされがちな、地面に映った敵の影に手裏剣を刺し、相手を動けなくする術なども、勿論ながら私たちには使えません」
「影縫いの術も使えないのか……」
がっかりした様子で、帷様は肩を落とした。
そんな帷様には申し訳ないと思いつつ、私は忍者にかけられた多大なる誤解を解こうと、さらに熱弁をふるう。
「いいですか、帷様。敵の懐に入り込むためには、潜入先の調査から始まり、出発時の携行品の選別、道中の行動。それから潜入、察知、諜報、策略、破壊、隠遁、逃走と具体的な計画をしておく必要があります」
幼き頃から叩き込まれた、忍びのイロハを思い浮かべ、帷様に告げる。
「中でも一番大事なのは、相手にこちらの正体を気付かれないこと。何故なら気付かれていないからこそ敵は油断し、こちらが優位に立てるのです」
「それはそうだが」
「ですから先ず、表向きの仕事。御火乃番の仕事に真摯に取り組み、周囲を油断させる必要があるのではないかと、私は思うわけです」
綺麗にまとまった。そう思い満足していると、帷様はふと気付いたように声を上げた。
「今回は突然決まったこと。よって準備が万全ではないはずだ。となると、お前は一体どうやって情報を仕入れるつもりなのだ?まさか何年もかけて信用を勝ち取るつもりではないだろうな?」
「それはですね」
言いかけたところで井戸部屋に、藍色の小袖に白い紐をたすき掛けした、若い女中が二人入ってきた。