「そのときに、笑ってくれたのが私にとっては最後だったよ……」
高速道路のパーキングエリアで、休憩を取るために車から降りた茜音は空を見上げながら言った。
「もう会えなくなっちゃったんですか?」
「うん……。次に行ったときにはもうね……」
ほんの数年前にも起きていた茜音の辛い別れ。
「あのね、由香利ちゃん。結局ね、その静香ちゃんが好きだった男の子とは、ずっと両想いだった……。静香ちゃんはぎりぎりの所まで彼が来るのを待ってたんだって……。彼が駆けつけて、しばらく話しをしたあとに彼に看取られたんだって。だから静香ちゃん、写真でもとっても幸せそうだった……」
静香の葬儀が落ち着いてから、彼女が生前に茜音のことを家族に話してくれていたおかげで、自宅へ招いてもらい、仏壇に手を合わせることができた。その時に聞かせてもらえた親友の最期の時間は、彼女の望んだとおりになったのだという。
「茜音……、さっきと自分で言ってること違うじゃん……」
菜都実が小さくつぶやいた。
「うん……。あんな夢を見るようになって、ようやく静香ちゃんの気持ちが分かるようになった……。だから、わたしもまだあきらめちゃいけないし、由香利ちゃんだって、自分からあきらめちゃいけないんだよぉ」
高速道路のナトリウムランプのオレンジ色に照らされている風景の中で、茜音の姿はなぜか幻想的に他の面々には見えた。
茜音が時々真面目に語るときの、いつもとは全く違う大人びた雰囲気は、佳織や菜都実も味わったことのない、大切な人たちとの二度と逢うことの出来ない別れによって刻み込まれていると、三人は自然に理解していた。
「あのね……、由香利ちゃん。今度の治療のこともよく聞いてはいないんだけど……、わたしも佳織も、またこうやってみんなで遊んだり、由香利ちゃんの恋愛のお手伝いしたり……。みんなで待ってるから……。必ず戻ってきてね……」
「うん。分かった。また退院したら、一緒に遊んでね……」
「約束だよ?」
「うん……約束ね……」
「ちょっち……、由香利の双子は実は茜音なんじゃねぇかぁ?」
菜都実が少し崩した顔で割り込んできた。
自分がなかなか由香利の気持ちに同調しきれないところに、茜音はなんの躊躇もなくそれを飛び越えてしまった。
「大丈夫。私は正真正銘のお姉ちゃんの双子の妹だから……」
「ほんとかいな……」
「さぁて、そろそろ時間ですな……。帰りますぞい……」
時計を見た佳織が立ち上がる。遅くなるとは事前に話してあるけれど、あまり深夜になってしまってはそれぞれの家に迷惑だし、由香利の体調も心配になる。
「茜音、佳織。今日はサンキュ……」
再び動き出した車の中、隣の席の佳織に声をかけた。
「バカ、あんたらしくない。最初からお礼なんて言われる筋合いないの」
「そんでもさ……」
「菜都実……。大変かもしれないけどぉ、みんなでがんばろ。そのために私も茜音もいるんじゃん?」
恐縮しきりの菜都実をなだめる。誰が悪いわけでもないのだし、気まずくなるのはそもそもの本意からも外れてしまう。
「あんたが湿気ちゃったらうちらは暗くなるからさ。月曜は会長室に行くんでしょ?」
「まぁなぁ……。かいちょーどうなったかなぁ……」
「そうね。それにしても……、茜音は本当に強いねぇ……」
二人は後ろの座席で由香利と肩を寄せあっている茜音を見つめていた。
「おはよぉ……ございまふぅ。ふわぁ~」
週明けの月曜日、眠い目をこすりながら教室に入っていった茜音。
そんな彼女を待ちかまえていたかのように、クラスメイトに机ごと囲まれてしまう。
「茜音! あんたすごいことやってるのね!」
「片岡、見直したぜ!」
「恋愛の師匠と呼ばせて!?」
「ほぇ~?」
「なんだなんだ??」
目を白黒させている三人の前に、刷り上がったばかりと思われるホチキス止めのプリントが突き出される。
「あちゃぁ……、これは……派手に出たなぁ……」
それを見た瞬間、事態の発端を理解できた三人だったけれど……、
「は、はずかしいかもぉ……」
すっかり取材されていたことを忘れていた茜音の感想だ。
月刊で発行されて全員に配布される生徒会の広報誌。
以前からその一部のコーナーとして部活やコンクールなどで受賞した個人を載せるスペースがあったのは頭にあったけれど、今月は『特別版・10年前の約束、覚えてますか?』と題してスペースが倍増されている。
執筆は生徒会長の清人で、茜音のことが実名で紹介され、写真と共に先日のことが記事にされていた。
彼女の要望通り、公開してほしいと告げていたプライベートの履歴も注釈付きで書かれている。
記事の内容はほぼ予想通りだったけれど、周囲の反応の大きさは三人の想定を遙かに超えていた。
三人の予想通り、周囲の反応は大きく二つに割れた。
これまでの騒動を謝罪して茜音の応援に回ったタイプが大半。ただ、一部にはこれまで以上に彼女への思いを寄せてしまったタイプも少なからずいた。ただ、応援派が多勢のため、大きなトラブルに発展することはなさそうだ。
校内でも注目度トップの「片岡茜音」に絡んだ話でもあり、ある程度は想定していた話でもある。
結局、その日は次々にやってくる人の対応で茜音は大慌てだったし、菜都実と佳織も改めて茜音の注目度を再確認することになった。
「あうぅ……。疲れたぁ……」
「凄かったなぁ……」
昼休みもそんな騒ぎで、おちおち昼食も食べられなかった三人は、放課後のウィンディに駆け込んでようやく一息を付くことが出来た。
「なんか、今まで以上に騒がれるようになったんじゃないの?」
「そうかもぉ……」
「これまでは男子だけだったけれど、生徒会のオフィシャルになって女子や先生にも広がったからよ」
「そっちか!」
生徒だけではなく、教師の間にもあの話題が公式になったことから、これまで茜音にまつわる騒動を問題視していた教師の中には、今回の記事によってずいぶんと見方を変えた者も多かったという情報も流れてきている。
それに佳織の言うとおり、女子からの反応がずいぶん目立ったのが特徴的だった。
これまでは、どちらかというとモテるのに断り続けるといった、なんとなくのマイナスイメージが先行していた茜音に、実はそんなストーリーがついていたと分かれば、その印象はがらりと変わってくる。
「こうゆーのをさぁ、シンデレラストーリーとか言うんじゃないの?」
「んでもぉ……、シンデレラだったらちゃんと結ばれないとぉ……」
「学校全体からの注目だからなぁ。おちおち失敗してられないぞ?」
確かに、話の注目度を考えれば話題性は十分すぎる。
清人の記事の最後には『来年度の夏まで、生徒会は片岡さんを公式に応援したい。結果は来年度の生徒会から報告する予定』とまで書かれているのだから、これまで茜音が個人でやっていたものが、途中で放り出せるようなものではなくなったということだ。
「いろいろコメントを用意しておかなくちゃならないねぇ」
これからどうコメントしていいのか三人で考えているときに、店のドアが開いた。
「こんにちは。やっぱりここに集まってたんだ」
「あ、いらっしゃいませぇ~」
こちらも学校帰りらしく制服のままの清人が三人の方にやってくる。
「反響が大きかったなぁ……」
「そうなんですよぉ、ありすぎたくらいですぅ……」
「それでも、あれで茜音のことを誤解する人も少なくなっただろうから、結果的には良かったんじゃないかなぁ?」
「そうだねぇ……」
佳織が分析しているとおり、結局のところはこれまで茜音のことを知らなかったために言われ続けていた悪い噂を打ち消すには十二分に効果があったのも事実だ。
「あんなに詳しく書いていただいて、ありがとうございました」
「とにかく良かったなぁ。頑張れよ」
「はい。あ、会長の方はどうなんですかぁ?」
清人の方はあの直後の報告では、結果的に『再会』を果たした理香との関係が進み始めたと言う。その後しばらくの時間を経て、どう進展しているのかは興味がある。
「ま、まぁ……、とりあえずは俺が大学を卒業するくらいまではこのままかな……」
理香が清人に二人との関係は親に反対されることがないと語ったのも事実だった。
二人の父親が古くからの友人だったことで、清人は理香の父親に会ったときには、反対されるどころか逆に歓迎されてしまった。
もちろん、事情が説明された後は理香に勝手に持ちかけられていた縁談も破棄され、双方の両親公認の交際となっているとのこと。
「結局、専門科目は違っても理香さんと同じ科目も多いんでしょう? それこそ専門の家庭教師じゃない?」
理香はその後も地元に残り、学校事務の仕事を当面は続けることになった。ただ、それまでに広まっていた「就職できず逃げ帰ってきた」という噂は打ち消され、彼女も「時 期を調整するための一時的な帰省中」というものに訂正されているという。
それでも週末はどちらかが双方の家を訪問している生活。清人の大学入学も決まり、理香の直接の後輩となることが決まったので、彼女は自ら家庭教師役も引き受けてくれているという。
「かいちょーが学校卒業する頃までには理香さんもきっと花嫁修業終わらせるんだろうなぁ」
「おいおい……」
否定はしても、二人とも清人が大学を出る頃には4年以上の時間を過ごすことになる。お互いの気持ちが変わらなければ結果は見えているようなものだし、この二人ならば大丈夫と、周囲もそのときが来るのを楽しみにしている。
「理香さん、初恋実らせるんですねぇ。凄いなぁ……」
「あんたもそうでしょうが!」
「あぃ……。でもまだ分からないもん……」
「理香ねぇが、車を出す必要があるときは教えてくれれば出すって言ってたぞ。山道は慣れてるからまかせろって」
「それは助かります」
これまでの経験で、やはり自由に動ける機動力の重要性は身にしみて感じていたことだし、人となりを知っていれば、お互いに遠慮なく会話をすることも出来る。
今回、理香が出した問題をあっという間に解けたのも、茜音が足を運んで広まった人脈を使い素早く場所を特定できたからだ。
この人脈が後々になって茜音の旅の結末だけでなく彼女の人生そのものにまで影響してくるとは、想像もできないことだったけれど……。
一通りの報告を双方終えると、清人は急にまじめな顔になった。
「本当に、今回のことはありがとう。理香ねぇと二人分の礼を言うよ。今度はみんなで泊まりに来てくれって。上村さんの妹さんも外に出れるようになったら是非と言っていた」
「うん……。悪いね……。由香利のことだけど、まだ結果は分からないよ……。ああ見えてしっかり妹キャラで甘えんぼだからさ、面会の許可が出たら会ってやって」
その話題になったとたん、菜都実の表情は苦しそうに陰った。
これまでにも同じ事は何度もあったはずなのに、それだけ今回の状況が厳しいと言うことなのか。
「ちょっと店の準備してくるわ」
立ち上がって店の奥に消えた菜都実を見送る三人はなんと声をかければいいのか分からずにいた。
「会長、今回のお仕事は終わりで大丈夫ですか?」
菜都実姉妹の話題を続けるのは得策ではないと思った茜音は、清人の話題に戻すことにした。
「結局茜音の宿題は先送りになったけど……。私から仕掛けておいて、解決できたのは片方だけだったからね」
「いいの。まだ時間はあるしぃ。それに、学校の中も居やすくはなると思うからそう変わっただけでもいいとするのぉ」
「本当は、あのくらいじゃまだお礼には足りないと思うから、協力できることがあったら言ってな? あと、再会できたら、ちゃんと報告してくれれば、今度は速報で出してやるよ」
「やめてくださいぃ!」
これ以上騒がれると、やりたいことも出来なくなってしまうではないか。どのみち、あんなふうに全校に知られてしまっては報告もしなければならない……。
「でも、会長はその頃には卒業していなくなっちゃうけど、誰に報告すればいいんですか?」
「そうですよぉ。どう引き継がれるんですかぁ?」
清人が書いた記事の例の最後の一文を思い出す二人。
「自分に直接でもいいし、生徒会室で報告してもらえればいいと思う。片岡さんの存在がもう学校の伝説みたいになってるもんな」
既に校内には清人の言うとおり、自分たちが卒業した後も、世代を越えて語り継がれそうなほどの勢いは出来てしまっている。
「伝説のお姫様になれるよ茜音は……。特に成功した暁には……」
「うぅ、悲劇だったら嫌かもぉ……」
「どっちにしてもお姫様の宿命だな……。あまり騒ぎすぎないように引き継ぎしておくよ」
「茜音は苦労の方が多いからね……。少しは楽にしてやらなくちゃ」
佳織が茜音と出会ってからはまだ2年弱。
その期間だけでも彼女の問題の大きさを認識させられたし、これから半年はさらに期限へのプレッシャーもかかってくる。余計なことで苦労はさせたくない。
「とにかく、場所探しの件は俺も協力するし、何かあったらここに来ればいいかな?」
「そうですねぇ……。探しに出かけなければここにいると思うし……、マスターさんに言っておいてくれれば……」
「もうそろそろ北の方には行けなくなるからね……」
カレンダーを見る三人。
11月に入ってしばらくすれば早い地域や山の上ではそろそろ雪の便りも聞こえてくる。
そうなると茜音のような山奥に分け入る調査は春まで本格的には出来なくなる。もっともそんなときでも列車は走るので、線路沿いであれば見ることも出来るのだが、雪深くなってしまうと、景色もすっかり変わってしまう……。
「今度の土日はまた回ってくるよぉ……。無駄足になってもいいからぁ……」
佳織が用意してくれている路線マップを見ながら、茜音はつぶやく。
「茜音?」
「候補地はまだたくさんあるし。なんかねぇ……、いろんな人と会えるようになったのが新鮮だし……」
「旅番組じゃないんだから……」
佳織は苦笑しながらも、茜音が彼女の旅に別の価値を見つけだしていると感じていた。それは佳織自身も感じていることだったから。
結局その週末は、可能な限り詰め込んだ予定とおみやげや名物情報を留守番役の二人に書きこまれた時刻表データをスマホのメールに送られて、茜音は冬の便りが届く直前の東北へと飛んでいた。
【茜音 高校2年 1月】
「茜音、お腹空かない?」
「へぇ~? 東京駅で駅弁買って食べたのにぃ?」
東京駅からの新幹線、窓際でぼんやりと外を眺めていた茜音を隣の菜都実がつついた。
「しゃーないじゃん。お腹が減る生理現象は防ぎようがないの」
「仕方ないねぇ。次の車内販売来たらお弁当買っちゃえばぁ~。まだ時間あるから食べてる時間はあるよ」
「そーする」
菜都実がワゴンを探すべき通路をキョロキョロし始めたのを見て、茜音は再び窓の外を見た。
「これでよかったよねぇ……」
小さく息を付いて茜音は呟く。
普段ならば、そんな呟きにも返事を返す佳織がここにはいない。
それには、今回だけの特別な事情があった。つい2ヶ月ほど前に……。
「上村はいるか?」
もうすぐ冬休みという教室。昼食の弁当箱を片付け、片岡茜音、近藤佳織、上村菜都実のいつものメンバーで談笑していると、教室の後ろ側の扉が開き、担任が呼んだ。
「菜都実、先生が呼んでる」
「おいよ」
茜音はたまたま廊下側を向いて座っていたので、それに気がついた。背を向けている菜都実は気づかなかったので呼ばれていることを伝える。
茜音に言われ菜都実は席を立ち、担任と数語交わすと、何か急いだように飛び出していった。
「なんかあったんかな?」
「さぁ」
思えば、なにげないこの出来事が、それが今回の事件の始まりだった。
しばらくして、そのまま残っていた茜音と佳織のもとに戻ってきた彼女は、出て行ったときとは全く様子が変わっていた。
「何があったのぉ?」
顔からは生気が消え、目もうつろ。しかも何かを口の中で繰り返しているようだ。
「菜都実、しっかりして! 何があったの?!」
あまりの変わりように、待っていた二人は愕然とした。
「……」
「なに? どうしたのよ?!」
「佳織…」
茜音はいら立つ佳織を抑えると、一度大きく深呼吸をして、菜都実の口元に耳を寄せ、落ち着いた声で質問する。
「ねぇ、何が起きたのか教えてくれないと、わたしたちもどうすればいいのか分からないよぉ?」
さすが、旅先でも様々な人とコンタクトを取ってきている茜音だけのことはある。相手が慌てている時ほど、こちらが冷静にならないと相手も落ち着いてくれない。
「なぁに、どうしたの…?」
菜都実は小さな声で何かを呟く。
「うそ……、由香利ちゃんが?」
今度は茜音までが顔を青くして、菜都実の顔をのぞき込んでいる。
「由香利ちゃんがどうしたって……?」
茜音までが青ざめたので、よけいに焦る佳織。
「由香利ちゃんが、危ないんだって……」
震える小声でやっと絞り出すように茜音は告げた。
「えーー!? いつから!? 菜都実、さっき呼ばれたのはそれなの?」
菜都実は小さく頷く。
「と、とにかく菜都実を病院に行かせないと」
茜音もようやく冷静な判断を取り戻した。平穏な昼休みはその時点で吹き飛び、三人の間には緊迫した空気が流れる。
状況が分かれば、この三人の間での頭脳は佳織にスイッチする。
「茜音お願い。菜都実と一緒に病院に行ってくれる? あとのことは私がやっておくから。あとで荷物とかは持っていくわ」
「うん、分かった。菜都実行くよ」
茜音はまだ放心状態の菜都実の腕を引っ張り教室を出て行く。校門のところまで引っ張てきて少し考える。
いつもならばバスで向かうけれど、今は緊急事態であり待ち時間がもったいないこと。同時に菜都実がこんな状態ではバスに乗せること自体無理かもしれない。
タクシーを停め菜都実を先に押し込むと、茜音は運転手に病院の名前を告げた。
佳織が担任に事情を話し、先行した二人分の荷物も持って病院に現れたのは、それから数時間たってのことだった。
エレベーターを降り、その前にあるがらんとした談話コーナーの椅子に茜音が一人で座っていた。
そこに置かれているテレビを見ているのか、外を見ているのかと思ったが、無表情な顔を見るとそのどちらでもないらしい。
「茜音?」
「あぁ、佳織……。ありがとぉ」
「状況はどんな感じ?」
隣に座った佳織は茜音の荷物を渡しながら聞いた。
「うん……。菜都実と家族はみんな中にいるよ」
「そっか……」
二人は黙り込む。
ここ数日の菜都実は毎日のように病院へ寄ってから帰ってきていたので、あまり病状が思わしくないということは二人とも感じとってはいた。
そして学校を通じて呼び出しをかけたということは、よくないことが起きたということをはっきりと印象付けた。
「茜音、うちの親と茜音の家にも連絡しておいた。力になってあげるようにって伝言預かったよ」
「ありがとぉ」
再び口を閉ざした二人の後ろで足音がした。
「茜音、佳織も……?」
タクシーで菜都実を病院まで連れてきた茜音も、病室のドアまで連れて行き、そこで別れてからはずっと談話室にいたので、菜都実がその後どうなったのかは分からなかったが、どうやら落ち着きは取り戻しているようだ。
「荷物届けに来たのと、茜音を迎えに来たのよ」
「そっか。二人ともさっきはごめん……。ガラにもなく取り乱しちゃってさ」
菜都実も二人の横に並んで座った。
「あぅ…」
「今夜がね……、山かもしれないって」
茜音のなにげない呟きをきっかけにしたように、菜都実は口を開いた。
「そんな、この間までずいぶん元気だったじゃない……。また外出できるかもしれないって…?」
前の週にみんなで病室を訪れた時には、元気にこの談話室まで一人で歩いてきて、見舞い終了時間まで話した上に、玄関まで送ってくれたほどだ。
菜都実も予兆を感じていたにせよ、あまりに急過ぎる。
「先生たちも慌てたらしいよ。あまりにも急変だったみたいでさ…」
「そっか…」
「会っておく? さっき意識は少し戻ったから。声をかければ分かると思うよ」
「いいの?」
菜都実はうなずいて二人を病室に招いた。
由香利の父親でもあるいつものマスターと、あまり顔を見せたことのなかった菜都実たちの母親の姿もあった。
入ってきた二人を見ると、両親はベッドの前を空けてくれた。
「由香利、茜音と佳織だよ。分かる?」
酸素吸入が行われているが、呼吸は自分でできているようだ。傍らの機械にはいくつか数値が表示されている。
茜音はちらりとそれを見たあとすぐに目をそらし、二度とそれを見ようとはしなかった。
「う……?」
小さな声がして、由香利がかすかに目をあけた。
「由香利、茜音と佳織が来てくれたよ。ダメじゃない、心配して飛んできちゃったんだぞ?」
明るく振舞っているのは分かる。しかしそれをとがめるようなことは誰もできない。
「次に遊びにいく約束したんだからね。ちゃんと元気に戻ってこなきゃ……、ダメなんだから……」
最初の順番になった佳織はそこまで言うと、それ以上は耐え切れなくなったように床に崩れ落ちてしまう。
さっきとは逆に、菜都実がそんな佳織に声をかけて部屋から外に連れ出していった。
「仕方ないよ……。ねぇ、由香利ちゃん?」
茜音は代わりに由香利の顔を覗き込みながら手を握った。
以前よりだいぶ冷たくなってきてしまっている……。
茜音はそれをおくびにも出さないように続けた。
「由香利ちゃんと約束したよね……。ちゃんとわたしと健ちゃんが再会できたら、お祝いしてくれるって。それまでは頑張ってほしいなぁ。ごめんねぇ……、もっと一緒に旅行に行こうって言ったばっかりなのにねぇ。でも、また元気になって会えるよね。そしたら一緒に旅行しようね。あと、菜都実のこと、あんまり心配させちゃダメだよ? また来るからね?」
茜音は大きい声でゆっくりと話した。その間、由香利はそんな茜音の顔を見ていた。
「う…ん…。あか…さ……」
「うん、こっちこそありがとうねぇ」
かすかに発せられる言葉と、かすかに動く唇の形で茜音は意思を交わせる。
こんな瞬間にもかかわらず、菜都実は茜音に感心していた。これが彼女が言っていた「本当なら身につけていたくない技術」なのかと。
握っていた手を布団の中に戻し、菜都実のほうに振り返った。
「ありがとうございます。大切な時間なのに…」
茜音も後ろを向いてからは、こみ上げるものを抑えきれずにいた。
「菜都実、何かあったら夜中でも呼んでいいからね……。佳織を連れて帰るよ」
「ありがとう、茜音……」
病室を出るときに、茜音はもう一度ベッドに寝ている由香利に挨拶して病室を後にした。
「わたし……、こういうの初めてじゃないからね……。佳織にはきつかったかもしれないな。悪く思わないであげて?」
佳織を探して歩きながら、茜音は一緒についてきてくれる菜都実にぽつりと言った。
「茜音……?」
「反応がなくなってしまっても、最後まで耳は聞こえてる。寂しくないように一緒にいてあげるんだよ?」
談話室に佳織を見つけ、一緒に帰るよう促したあと、残る菜都実に茜音は言った。
それは何度も大切な人を失ってきた茜音だけが発せられる台詞。
いつもとは逆のシチュエーションだけど、それを気にするような関係ではない。
「うん。分かった。ありがとう二人とも…」
エレベーターの扉が閉まり、二人だけになる。
「茜音……、強いね……」
それまで黙っていた佳織が茜音に寄りかかった。
「由香利ちゃんは幸せだよ。ご両親とお姉さんがいて。私は家族最後の一人だったから……。私しかいなかった…」
「そうか……」
佳織の中には教えられた話でしかないが、彼女が事故にあった当時、既に息絶えていた父親を送り、一緒に救出されたものの重傷で数日後に息を引き取った母親をわずか5歳の幼い茜音は看取っている。
まだ予想ができていた菜都実一家に比べ、それまで楽しく暖かい時間をすごしていた茜音にはあまりにも突然でショックは大きかったはずだ。
「あのね…、佳織、帰ったら休んでおいた方がいいよ」
「うん?」
「菜都実の前じゃ言えなかったけど、由香利ちゃん、今夜遅くだと思う……。なるべく菜都実のそばについていてあげたいから…」
茜音はぽつりと、病室に置いてあった機械の話をした。
「うん。分かった。菜都実の力になってやらなきゃね」
病院からの帰り道では佳織の家が先になる。二人は手を振って別れたが、その後の足取りは重かった。
茜音も正直に言えば自分の予想は外れて欲しかった。
その願いもむなしく、佳織からその電話を受け取ったのは、その夜の日が変わった時刻だった……。
菜都実が病院から一度家に帰ってくると、正面にある店の入り口の前に人影が見えた。
「茜音……?」
「あ、おかえり」
真冬の海沿いの風の中に立っていたのは、紺色のコートを着ている茜音だった。そばには乗ってきたと思われる自転車が立てかけてある。
こんな夜中なのに……。自分の親友たちの心遣いを改めて感じてしまう。
「風邪引いちゃうよ?」
「わたしは平気だから」
菜都実は扉を開け、茜音を中に招き入れた。
「茜音……、ありがとうね……。心配してくれたんだ……」
カウンターの席に茜音を座らせ、冷蔵庫からミルクを取り出し電子レンジにかける。
「本当はね、佳織もって言ってたんだけど、明日からお願いって。佳織は初めてだと思うから……」
「そうかぁ……。明日からしばらく大変だ……」
菜都実は茜音に暖まったミルクを出すと、制服を着替えに一度消えた。
「ねぇ、茜音。不思議なんだ……」
「うん?」
店を開けるわけではないので、部屋着で現れた菜都実は呟く。
「もっとさぁ……、悲しくてワンワン泣いちゃうのかと思ったんだけど、なんかそういう気持ちとは違って……。なんか空っぽなの……。気が抜けたみたいになんにも思いつかなくてさぁ……」
コートを脱いでセーター姿の茜音の隣に並んで腰掛ける。厨房の電気がついているだけなので、客席は暗く窓からは外の海岸が良く見えた。真冬の夜では人通りなどあるわけもなく、車もほとんど通らない。
その表のほうを向いているので二人の表情は隣でも良く分からない。
「そういうものだよ……。わたしもそうだった。両親の時は病室で一人になって……、静香ちゃんの時もそうだった……。今はそれでいいんだよ。大丈夫。由香利ちゃんを思って泣く時間はあとでいくらでも取れるから……」
茜音は両親を亡くしただけにとどまらず、他にもいくつも辛い別れを経験している。その中には再び会うことも叶わないものもあるのだと。
「そだね……。さんきゅ茜音。あたしこういう経験初めてだからさ」
「たくさん経験していいもんじゃないよぉ」
茜音は微笑んだ。祝い事ならば何度でも構わない。それよりも辛い話のほうが茜音には多すぎる。
自分のわがままで話していなかった妹の存在。それなのにほぼ初対面でも茜音と佳織には心を開いた由香利。
それを十分に感じ取っていながら平静を保っていられるのは、逆に気の毒な話なのかもしれない。
「そらそーだ。さ、茜音ももう遅いから一度帰ったほうがいいよ。でも、ありがとね……」
「うん。あったかかった。ごちそうさまぁ」
二人は立ち上がって扉のほうへ歩いた。
「由香利ね、明日帰ってくるよ。それと茜音にお願いがあるんだ」
「なに?」
菜都実は普段は見られないような寂しそうな顔で続けた。
「由香利、友達がほとんどいないの。茜音と佳織で友人代表で出てもらえるかな……? それと、この間の旅行の写真、何枚かリストして欲しいんだ。写真を作らなきゃならないから……。フィルムでもデジタルでも平気だって言ってた」
「了解! じゃ明日の朝1番に持ってくるよ。学校休みだしねぇ」
「お願い……。悪いね……」
茜音は最後に自分より背の高い菜都実の肩をたたいて、再び自転車にまたがった。
「さすがだねぇ……」
菜都実は茜音の姿が見えなくなった後も、しばらく親友が帰っていった方向を見ていた。
翌朝、茜音は言われた写真のデータを持って菜都実家に向かった。昨日の話ではそのまま通夜になるというので、制服を入れたハンガーケースを持ち込んだ。
「はい、これでいいかなぁ? これが一番可愛く映ってると思うんだぁ……」
今朝、帰ってから茜音は1枚1枚チェックをしてくれたらしく、プリントした写真の裏には既にメモが書き込んであった。
「悪いね……。うちで撮ったの少なかったし、確か一番いい顔で写ってるのこれだったから……」
菜都実は二人を奥の部屋に案内した。
「今朝帰ってきたんだ。お通夜とかは斎場にするんだって。本当は帰ってきたかった家でやってあげたかったんだけど、さすがに狭すぎて……」
「そう……」
最初の予定ではお店の中を片付けてそこに作るということで、テーブルや椅子なども隅に片付けていたけれど、やはり状況を考えるとそれでは足りないと考えられたようだ。
「どう? 寝てるみたいよね。昨日茜音たちが帰った後から顔色が戻ってね……。そのままだった……。苦しんだりしなかった。よかったよ」
すでに棺の中に寝かされている由香利のそばに二人を案内する。
「よかったねぇ……。もう苦しまなくていいんだよね……」
昨日の病室でもそうだったけれど、佳織はまだ慣れていないのだろう。しっかり見ることが出来ないという表情をしている。茜音は佳織と代わり、そっと彼女に告げた。
「昨日の夜にパパとママに……、由香利ちゃんのことお願いしておいたから……」
ちらちらと急を聞きつけた親戚などが集まり始め、三人は一度菜都実の部屋に引き上げることにし、そこで服を着替えることになった。
「茜音……。あたしさ……、こういうときどうしたらいいのか良く分かんないのよ……。みんなが来る前にこのあとのことちょっと教えてくれない? 最後くらい恥かかせたくないからさ」
「うん、分かったよぉ……」
この三人の中で実際に葬式など経験したもの、しかも身内で行った者など茜音しかいない。
茜音は簡単に、このあとの出棺と今夜のお通夜から一連の流れを話す。
「わたしと佳織は明日の告別式のお別れまでしか付き添えないから、そっから先は家族だけだからね。でも、一番そこがわたしには辛い場面なんだけど……、由香利ちゃんのために最後までお姉さんらしくね」
「そうか……」
神妙な顔をして菜都実は話を聞いている。
そうこうしているうちに、由香利を旅立たせる準備が始まってしまい、菜都実はそばへ、二人はそれを見守ることに徹した。
彼女の葬儀は本当に静かに行われた。正規の学校にもほとんど行けなかったため、昨夜言われたとおり友達らしい影もあまり見られず、ほとんどが病院の中で知り合った人だと菜都実は教えてくれた。
「でもさ……、由香利言ってたよ。なんでもっと早く二人のこと教えてくれなかったんだってさ……。あたしの大失敗だったなぁ」
結果的に最初で最後になってしまった長野への旅は、身体に無理押しをしての参加だったにもかかわらず、由香利自身だけでなく菜都実にも忘れられない思い出が作れたと、当時の一同に感謝を告げていたくらいだ。