「おはようさん。もうすぐ着くよ。起きなさいってば」
早朝5時頃、バスはすでに長野県の安曇野付近を走っており、佳織は熟睡していた清人と菜都実を起こした。
「えー、なんで茜音が起きてんのよぉ……」
「茜音はほとんど寝てないって……。菜都実が一番寝てんのよ」
「そうかぁ、茜音にとっても緊張だもんねぇ……」
途中、通過する車窓の左側を佳織はじっと見ていた。
「先輩、見覚えありませんか?」
「なんか不思議なんだよなぁ……。本当に初めてなんかな……。どっかになんか引っかかっているみたいだ」
佳織と同じく、窓の外をじっと見ていた清人も、なにかを考えるように口数も少なくなっていた。
「茜音……、佳織まだなんか知ってるよあれ……」
ここまで来ると、菜都実も茜音も先日までの情報だけでないものを佳織が知っているのだと感づき始めていた。
「うん……。いつもの佳織じゃないみたいぃ……」
「そうそう由香利、この先に茜音が狂ったように見えても気にしないで。ときどきフリーズするから」
「フリーズ?」
「あ、ひどぉ……。ちゃんとその場所を見ようとしてるだけだもん~」
茜音が言うには10年近く前と全く同じ景色が残っているとは思えないので、集中して雰囲気やその他の状況を見極めようとしている。
そのために五感を総動員するというのだが、傍目にはその場で固まってしまっている風に見えるという。いつの間にか、菜都実の佳織の間では「フリーズ」という表現で呼ばれるようになっていた。
終点の白馬に着く頃はちょうど夜が明け切ったくらいで、朝日がバスターミナルを明るく照らしている。
「さぁて、これからどうするの?」
「ん~と、本当はこのまま乗り換えて南小谷まで行きたいんだけど……、その必要はなさそうだね」
「ほぇ?」
佳織が改札口の方を見ていたので、他の面々も見やる。
「うそ……だろ……?」
清人の口から思わずそんな言葉が飛び出した。
到着するバスを待つように出迎えの人が何人もいる。その中に一人、若い女性が混じっていた。
「さて、覚悟決めていきますか?」
佳織は呆気にとられたような彼を引っ張るようにバスの外へ降ろし、あとの三人はその後に続いた。
「出迎えてもらっちゃってすみません」
「いらっしゃい。来る便が分かってたから来ちゃいました」
彼女は佳織と挨拶を交わすと、清人の方に向き合った。
「お久しぶり。受験も合格おめでとう。来年春から大学生かぁ」
「せんせ……、なんで俺が来るの知ってんだよ?」
清人はその女性、西村理香に拗ねるようにたずねた。
「こちらの名探偵さんはものすごい洞察力ね。あの場所も私のこともあっと言う間に探し出しちゃったわ。本当なら反則と言いたいところだけど、私も住所書かなかったり意地悪だったからおあいこね」
理香は清人と佳織を相互に見やって言った。
「佳織、これを隠してたのか。やるなぁ」
「ちょっち衝撃すぎかもしれないね……」
「ほえぇ、そうだねぇ……」
そんな様子を後ろから見ていた三人は顔を見合わせて苦笑していた。
「あなたが片岡さんね。お話は聞いているよ。みんなで行ける車にしてきたから、先にそっちに案内するわ」
「は、はいぃ、お願いしますぅ」
まだショックが抜けきらない清人と、他の四人は理香の後について駅前に止めてある八人乗りのワンボックスカーに乗り込んだ。
その車の中で、佳織はこれまでの種明かしをした。
前回の単独調査の時に理香と出会っていた佳織は来訪の目的を話していた。その中で大糸線の話になったときに、佳織は茜音の話も持ち出し、詳しい話を聞いてきたと言うわけだ。
「最初はね、どうするか迷ったのよ。でもね、写真の場所が分かったら来なさいって言ったのは私だし、そのために頑張ったんだから、佳織ちゃんには迎えに来るって言っておいたの。本当はもっと後に登場する予定だったんだけどね」
理香は運転しながら答えた。清人の話だと彼女は今21歳くらいのはずだが、表面上は年上と言うことをあまり感じさせないながらも頼れるお姉さんというような魅力の女性だ。
「んじゃ、場所が分かったって報告してきたときにはもう全部筒抜けだったのかよ?」
助手席に座っていた清人は佳織を見る。
「もちろん。でもそれで試験当日に動揺しちゃったら困りますから黙ってました」
「さすがだな……。完敗だよ。片岡さんのことは帰ったら手を打とう。これでも少しは考えたんだから」
「い、いいですよぉ……。私は今のままでもぉ……」
茜音の中では下手に騒がれて今よりも状況が悪くなってしまうことの方が心配だったから。
「さぁて、着いたわよ。ここが車で行ける一番北側かな。ここから先は写真で佳織ちゃんに送ったとおり」
六人の乗った車は朝日に照らされた南小谷の駅を視界に入れた道路の路肩に停まった。
「すごい……」
最初に声を上げたのは茜音ではなく由香利だった。既に北アルプスの分水嶺を越えており、川は日本海に向かって流れている。
「茜音がさぁ、由香利を連れていけないかって言い出したんだよ。きっと病院暮らしじゃいろいろと行けないってわかってたんだろうから」
この日は現地撮影カメラを佳織に任せ、身軽な茜音は河原に向かった。
「凄いね……。普通女子一人でこんな山奥まで来ないよ……」
河原にしゃがみ込んで何かを話している茜音と佳織を見て、清人は感心したように声を上げた。
「茜音と一緒にいたら、あの子のことを好き放題言っている奴らが許せなかったのよ佳織は。あれを見ちゃったらとてもからかう事なんて出来ないでしょ」
「自分だったらあそこまで出来ないなぁ……。お姉ちゃんはもし自分だったら出来る?」
由香利もようやく列車内で言われていたことを実感した。実際に聞くのとその現場に立ち会うのとでは話が別だ。
「あたしじゃ無理だね。いくらなんでも10年間一度も会えないんじゃ厳しいよねぇ。しかも再会できるかどうかも分からないっていうんじゃさぁ」
そこまで言ったときに、二人が戻ってくる。
「次の場所ってありますかぁ?」
「ええ。戻ることになるけどいい? 姫川のこの先は道路が沿っていないから」
「それでいいですぅ」
車は元来た道を戻っていく。しかも今度は舗装道ではなく、横道にそれた砂利道に入っていく。
標高の高いところにはもう紅葉がだいぶ進んでいる。このあたりが赤や黄色に染まる頃は山頂のあたりには雪が降り始める。
そうなるとこのあたりも茜音たちがふらりと立ち寄れる場所ではなくなってしまう。
「うー、ここでもなかったですねぇ……」
結局、この訪問は茜音本来の目的としては空振りに終わったようだ。
「そうかぁ。また1つ候補地が消えたわけか……」
「残念だったわね……。このあとどうする?」
白馬の駅前まで戻ってきて、朝と昼御飯を一緒にしてしまうことにした。
「これでうちらの目的は果たしたわけだけど、かいちょーはまだでしょ?」
「まぁ、うちらはお邪魔虫ですから、今日中にさっさと消えちゃいますけど」
「おいおい」
当然のことながら、本来主役であるはずの清人の用件はまだ終わっていない。
そんなことは最初から分かっている佳織は、由香利の体調も考慮して、他の面子を短時間で引き上げるように調整済みだったから。
「でも、素敵よね……。初恋でそこまで一生懸命になれるって……。きっとその彼も茜音ちゃんのこと探してるんじゃないかな」
さっきまでの少し陰った顔も戻り、デザートのパフェをどう攻略しようか考えていた茜音に理香は微笑みかける。
「そうですかぁ? でも初恋じゃなかったら出来ないかもぉ……」
「そうねぇ。一度失恋経験味わっちゃうと、こんなにピュアには動けないかもしれないわぁ。場所と人を同時に見付けなきゃならないなんて大変よねぇ」
「どうでしょうか……。もしかしたら、その彼氏さんは茜音さんのこと、もう探し当てているのかも……」
「ほぇえ?」
唐突に由香利が口を挟んだ。
「だって、私もお姉ちゃんから茜音さんのことを聞いてちょっと検索してみたんです。もし同じようにキーワードを入れてネットで検索していたとしたら、茜音さんのスレッドを見つけるのはそんなに難しい話ではないんですよ」
「そうかぁ……。健ちゃん意地悪してんのかなぁ……」
由香利の言ったことももっともだ。今の時代、ネットでの情報網は10年前とは大きく変化している。
それこそ一番最初に茜音たちが検索したときにも見切れないほどの情報が手に入ったように、茜音が動き回っているという話はネット上で公開されていることだ。
佳織と萌をはじめとする支援してくれる各地のメンバーによってSNSのサイトも立ち上がり、情報の提供や写真を入れたレポートなどもある。今日の事も佳織が撮影している写真も一両日中には公開されるのだから。
「きっと、その場所で会いたいんじゃないかなぁ……。ネットでひょいと再会しちゃったら、なんか盛り上がりに欠けるじゃない。だからそれまではじっと見ている可能性もあるよね」
理香の言葉はある意味説得力がある。彼女は清人の住所なども知っていたにも関わらず、時期が来るまでヒントの手紙を送らなかったからだ。
再会していないと思っているのは実は茜音だけだったりする可能性もゼロではない。
「うぅ……。ってことはあと半年以上はまだ会えないってことになるよぉ……」
スプーンをくわえたままうなる。もし彼が自分を既に見付けているのなら、茜音に会いに来るのはそれほど難しい話ではない。
本当に自分を見付けていないのか、それとも由香利が言うようにわざとなのか。その答えはどのみち来年にならないと分からないわけだ。
「茜音はどっちがいいの?」
「うぅ、そりゃぁ早く会いたい……。でも、次に会う時ってそんな簡単に話が終わらない気がするんだよねぇ……」
「うんうん、茜音の一大決心でしょ?」
「なんか他人の気がしなくなったぞ……」
清人の呟きに、なにを今さらという様子にため息をつく佳織だ。
「だから最初に言ったじゃないですか。先輩と同じなんですよって。茜音はフリーなんかじゃないんです。言い方が悪いですけど、茜音と誰が付き合うかなんて勝手に盛り上がっている人たちに言いたいのは、茜音は10年前から相手を決めているんです。でも真面目な茜音は不確定な話で誰も傷つけないためにまだ正式発表していないだけのことです」
「なんか……、健ちゃんと会った後の学校を想像したくないなぁ……」
「暴動が起きるかも……」
校内の男子で茜音の名前を知らない者はいない。
人気があると分かっていても決して高飛車になったりしないと彼女の株は上がる一方で、最近では菜都実の言うように少し過熱気味。彼女は全く悪くないのにもかかわらず、問題視をする教師や、その姿勢を批判する女子がいるという噂も聞こえてきているからだ……。
「はあぁ……。最近断るのが疲れちゃったんだよねぇ……。こんな私のどこがいいのかなぁ……」
「生徒会でも有名だもんな。顔は見たことなくても名前だけは知ってるっていう生徒多いぜ?」
「中学から高校生ぐらいが一番気にするわよね。その辺小学生は楽よ。たまに妙におませさんの子もいるけどね」
理香は地元に戻った後は、小学校で事務員として働いているそうだ。もともと子供好きだった彼女にはちょうどいい職場だと言う。
「もう少し落ち着かないかしらねぇ……。茜音ちゃんが一人でどうにか出来る範囲を超えてるでしょう?」
本来なら茜音の騒動も周りが勝手に過熱しているだけなので彼女自身に責任はないけれど、誰かが危害を与えに走らないとも限らない。
「かいちょー、茜音に手を出す奴がいたら容赦なく退学だかんね」
「ほえぇ……。そんなことにはなってほしくない……」
「でも、用心に越したことはないでしょうね。さて、それじゃあの答え合わせの場所に案内するわ……」
一区切りついたところで理香はまた全員を車に乗せ、朝もバスで通った道を南へと進んでいく。
「佳織ちゃんは来てるけど、他の人たちはまだだもんね。今日は天気がいいからきれいに見えるわよ」
以前はヤナバスキー場としていたゲレンデ斜面の芝はそろそろ枯れはじめているようで、斜面はまだらの模様を描いている。
突然、国道から外れ細い道へと車を進めていった。
「これから先、カーブが多いから注意してなさいよ」
「はーい。でももう少しで紅葉真っ盛りだねぇ……」
「この辺は難しいのよ。なかなか地元の人だってベストの日に休みなんか取れないもん」
今走っている道も先にスキー場があるらしく、途中まではそれなりに広い道が続く。しかし急坂の部分もあり、スタッドレスタイヤだとしても入りたくない山道だ。
そんな坂を上っていき、次に車1台通るのがやっとという林道に入っていく。対向車が来てもすれ違いは出来ない。
「こんなとこになにあんのぉ~」
「まぁまぁ、黙ってなって」
佳織は周りを見回しながらデジカメを用意している。
突然、それまで車の両サイドを覆う木々がなくなって空が大きく正面に見えた。
「到着」
「茜音、菜都実、由香利ちゃんも急いで下りた下りた」
「なんだっつーのよ」
「ほわぁぁ…………」
「写真のまんまですねぇ……」
佳織にせっつかれて車から降りた四人は、目の前の光景にしばし言葉を失った。
写真で見ていた景色そのままが目の前に広がっている。急斜面の一部がきれいに整備されており、そこからは目の前の湖を見下ろす絶景のポイントになっているの。
「ここがあの写真の答えかな。ハンググライダーで木崎湖の岸のところまで下りていけるのよ」
「そうなんですかぁ……」
「本当は雪の時を送ればもう少し問題を難しくできたんだけどね。でもここまで登れないし」
冬はこのあたり一面が雪で覆われ、この場所まで素人が上ってくるのはほぼ不可能だという。
道も一般車は閉鎖されてしまうと言うことなので雪の中を歩いて上ってくるしかないそうなのだが、晴れた日はそれは見事な景色となると言う。
「んでも、どうして教えてくれなかったんだよ。こんな手の込んだことしてさ……」
「そうね……。もう少し早く素直に教えていれば良かったかもね……」
会話はそこで途切れた。
清人や茜音が住んでいる場所からこの地区はそれほど遠いわけではない。今回のような夜行バスや特急列車を使えば数時間で到着してしまう。
二人を遠ざけておく理由がなければ、もっと早い時間で再会していても良かったわけだ。
受験に合格してからという条件はあったものの、住んでいる場所を教えていなかったというのはどこか引っかかる話ではある。
「もしかしてぇ……」
「うん、この先は邪魔は消えた方がよさそう……」
佳織と茜音は顔を見合わせて頷いた。
「あのぉ……。あそこの温泉に連れていってもらえませんか? ちょっと朝早かったもんだから……」
本当はこの景色をもっと見ていたかったのだけど、雰囲気の移り変わりを考えれば、このあたりが自分たちの役目も潮時だ。
「えー? もう少し見ていたいんだけど……」
「菜都実……」
佳織の目配せで菜都実姉妹も意図をくみ取ったようだ。
「あとでもう一度ここには案内するから、今はちょっと。ごめん」
自分たちの認識を整えてから、佳織は理香へ声をかけに立ち上がった。
「理香さん、そろそろ……」
もちろん最初から打ち合わせてあったのだと思う。これだけの言葉で二人は互いに頷いたから。
「この辺でお風呂なら、ゆーぷるでいいのかしら?」
「そうですね。あそこが一番大きいし」
ゆーぷる木崎湖はガイドブックなどにも紹介される公共の温泉施設で、併設で温水プールなどもある。
露天風呂もあり、晴れた夜には満天の星を見ながらなんていうことも可能だという。
来た道を戻るのかと思いきや、理香は車をUターンさせずに進んでいく。途中の道はどう考えてもすれ違いは出来そうにない狭路だが、上から見下ろした時に見えていた紅葉を見ながらの道は乗っているだけなら楽しい。
この日は土曜日という事もあり、紅葉狩りのハイカーと分かる人も多数歩いている。
「ここに出るのよ」
山道を下りきったところは目の前にキャンプ場が広がる湖の畔だった。木々の間だから見える濃いブルーの水面は思わず立ち止まってみたくなるような景色を見せる。
「まっすぐ行くんじゃなくて、ぐるっと回ってみる?」
直行するならば右折する道をせっかくだからと言うので左に折れる。
「これ、紅葉もきれいだけど、夏場とかすごくきれいかも……」
対向車も後続車もいないので、歩いているのと変わらないスピードで車を進める。
「由香利でもこういうとこは来ないの?」
「だって、あんまり自由な時間ないもん。それに病院だと外の出歩きって言ったって制限されちゃうし」
「そっか……」
普段一緒にいることが出来ない二人は、時々電話連絡をする程度だと言う。
湖の北側から国道に出てすぐに理香は小さな駅の前に車を止めた。
駅だと分かったのも、建物の入り口のところに海ノ口駅という看板があったからで、これがなければそれと気づかずに通り過ぎてしまうような建物だ。
「この駅ねぇ、なんの変哲もないんだけど……」
ガラス戸を開けて四人を中に呼び入れる。
「まさかここって……」
入る前に佳織がはたと思い付いたように言った。
「そのまさかね。すっかり有名になっちゃって。今日は誰もいないのね……?」
理香は待合室で振り返って周りを見回してみた。
「茜音、菜都実これ知ってる?」
佳織は壁に貼ってある新聞の切り抜きを指して二人を呼び寄せた。
「うわ、すっげぇ……! 聖地巡礼かぁ……」
「ほぇ?」
先に切り抜きを一目見た菜都実も声を上げ、何事かと残るメンバーも向かう。
「ほわぁ~、これ凄いかもぉ……。有名になっちゃったんだねぇ……」
思わず茜音も笑わずにはいられない。地元の新聞の記事が貼ってある。以前、佳織が湖の写真と同じ風景を使ったアニメがあるという話を聞いていた。
その場所が実在すると言うことが話題を呼び、今ではその番組を見た人たちが大勢この駅や湖の周辺を訪れるようになったという記事だった。
よく待合室の中を見回してみると、それに関連するイラストなども貼ってあり、設置されたノートにも多数の書き込みがしてあることから、相当の人数がここを訪ねてきているのだろう。ホームに出ると湖を正面に見ることが出来る風景は、ここがもしそんな舞台になっていなくても十分に訪れる価値がある場所だと茜音は思った。
「おかげで少し前まではこの辺はちょっとしたお祭り状態だったのよ。たまには困った人もいるみたいだけど、それほどまだ問題は起きていないからね」
理香はホームに置いてある木製のベンチに腰掛けている茜音のところにやってきた。
「都会にいたら、こういう所は来たくなるものかしら?」
「そうかも……。移り住んでくるかどうかは別として……」
「そう言うものかなぁ。まぁ環境的に悪い場所ではないけどね」
それは、夏に訪れた四万十川沿いに暮らす千夏も同じことを言っていた。遊びに来るのと、そこで暮らすというのは違うのだから。
「でも、ここ冬は凄いんですよねぇ?」
「そうねぇ。スキー場も近いから……。ただ晴れると景色は最高よ?」
「いいですねぇ……。何時間でもぼぉ~っとできそうだなぁ……」
由香利もホームに出てきていた。
「これでも特急が通るからね。あんまり端っことかにいると危ないわよ」
列車の接近を知らせる放送などもなく、いきなり特急などが走ってくる。掲示されている時刻表に載っていないからと油断するのは危険だ。
「もう一つ先の稲尾は車停めにくいからね……。次はもう直接行っちゃうわね」
駅を後にすると、理香はまっすぐに木崎湖温泉と書かれている方向に車を進めた。
「ここでいいのかしら?」
「はい。ありがとうございました」
緑色の屋根と白い外壁が特徴の建物が佳織たち四人の終着点で、ここからは別行動となる。
「迎えに来てもらう時間も決めてあるんで、ゆっくり帰ります」
「悪いわね……。なんか気を使わせちゃって……」
荷物を下ろしている佳織に理香は小声で行った。
「いいんです。わたしたちはおまけでしかないから……。これからが本番ですよ?」
「そうね。なんか茜音ちゃんを見ていたら自分なんてまだまだなぁって思ったわ」
「ほぇぇ? 大変かもしれないですけど……。最後に決めるのは自分ですよぉ」
「茜音ちゃん……。佳織ちゃんから聞いたの?」
突然やってきた茜音に二人は驚く。
茜音は首を横に振った。
「佳織からは何も聞いてません……。でも、何が起こっているのかは大体わかりますよぉ。わたしだって同じようなものだから……」
「そうね、茜音ちゃんも頑張ってね」
「はいぃ~」
「んじゃ、かいちょー、月曜日に報告待ってます!」
「まじかよ?」
「いいです。忘れてたら押し掛けるだけですから」
「分かった分かった」
理香と清人は四人を残して駐車場を出ていった。
「これからが本番だねぇ……」
「そゆこと……」
その車が見えなくなったときに茜音がぽつりとつぶやいた。佳織も同感だと頷く。
「菜都実、由香利ちゃんも悪かったね。うちらにできるのはここまでだからさぁ。さ、迎えまではもう少し時間があるから温泉と行きますか?」
「ほーい。お風呂ぉ~」
「茜音が羨ましい……」
そうつぶやいた直後、菜都実はその茜音の一瞬の表情を見落とすことはなかった……。
休日ということでもっと混んでいるかと予想していた温泉。まだ時間が早いのか、中はがらんとしていてまだ先客もほとんど居ないようだった。
「なんか学校の旅行みたい~」
「そっかぁ。でもあんなの本当に烏の行水じゃん……。汗流しておわりでゆっくり落ち着いて入ったためしがないっしょ。由香利、あんた大丈夫よね?」
菜都実が隣で服を脱いでいた妹に声をかける。
「あんまり熱くなければ平気……。みんななんて言うかなぁ……」
由香利は付けている下着を取ろうとしてふと不安そうに言った。
「バカねぇ。あの二人はそんなことで驚くような連中じゃないよ」
「うん、いい友達だね……」
いつの間にか茜音と佳織の姿はなく、二人だけが残っていた。
「久しぶりに背中流してあげよっか? 小さい頃みたいに?」
洗い場に行ってみると先に入っていた二人の他は誰もおらず、本当に貸し切り状態の様子。
なにやらその二人が笑っている。
「どしたぁん?」
「ほえぇ~ん。ヘアゴム外して来るの忘れたぁ……」
「気がつかないで頭洗おうとする方が悪い!」
「う~」
見れば、茜音のトレードマークでもある両サイドの三つ編みが解かれていない。
これまでにもそれぞれの家で泊まった時に、茜音は入浴時にはそれを解いてきちんと洗っているはずだ。
「ドジはほっといてうちらも洗っちゃおう」
菜都実は先行組の二人から少し離れたところに妹と並んだ。
「ちょっと熱めだよぉ。注意ぃ~」
先ほどの騒動があっても、先に浴槽に入っている茜音は菜都実姉妹に声をかける。
「あんた顔赤いって……。一気に入ってるとのぼせるよ」
「もうだめぇ~」
木造の浴槽の縁に腰掛けた茜音を見て佳織が外から戻ってくる。
「露天の方が温度低くてちょうどいいよ。誰かこのドジっ娘をなんとかしてもらえないですかねぇ……」
菜都実は妹を促して先に外に出る。内風呂と違い外風呂は石造りの露天になっていて、確かにお湯の温度も控えめだ。
「本当に、あの二人にはあとでなんかおごらなくっちゃなぁ」
「え?」
露天風呂に浸かってようやくほっとしてすぐに菜都実がつぶやく。その意図に由香利はすぐについていけない。
「佳織と茜音。茜音、確かにドジも多いけど、いつもあんなに酷くないもん。きっとうちらに気を使ってんだよ。自分がピエロになってさ……。あんだけ髪型に気を使ってる茜音が気づかないなんてあり得ない」
中を見ようとするも、表の方が明るい時間は中の様子はあまり伺い知ることは出来ない。
「じゃぁ、さっきののぼせてるのも?」
「すぐ後ろがお湯の注ぎ口だったじゃん。由香利と同じで茜音もあんまり熱いお風呂は得意じゃない。茜音とは高校1年から一緒にいるし、佳織とは中学からだもん。そんくらい分かる……」
「そうか……」
「それに、いくら温泉って言ったって、こんな明るい時間って言うのも妙じゃん。佳織が周りに人が少ない時間をちゃんと調整してくれたに違いないんだよね……。あれも抜け目ないんだから……」
あの二人ならそれくらいの打ち合わせは前もってしていてもおかしくはない。それをいとも自然にこなしてしまう。
「友だちの数って言ったら、由香利と変わらない。でもあたしにはあの二人が十分すぎるほどの親友だよ」
「なんて言えばいいかなぁ?」
「別に? 今は気がつかないふりしていれば。どっかでさらっと言うからさ」
「うん。分かった」
そこまで言ったときに、扉の方から声が聞こえた。
「……だからって水かけることないじゃぁん……」
「水じゃないって! ぬるま湯だって」
「ウソだぁ……。あんなに冷たいわけないじゃんよぉ……」
「相変わらずうるさいね。どうでもいいから入ったら? ちょうどいいよ?」
菜都実に言われて二人もおとなしくなった。
「菜都実なんか何話してたのぉ?」
「え?」
まさか二人の話をしていたとは言いにくくて……、
「ん? あんた小さいねぇって話」
「そうかぁ……。本当は双子だもんねぇ……」
身長だけをとってみても、二卵性とはいえ同じ日に生まれたとは思えない。それに服がなくなったことで身長だけでない差が歴然と見えてしまっていた。
「これで全員同い年ってのも信じられんよなぁ……」
「菜都実はいいでしょあんたは……。由香利ちゃんの分まで成長してんだし?」
佳織が言うように、この中では菜都実が一番の成長で、妹の分までと言われても否定できないかもしれない。
「正直お姉ちゃんが羨ましい……」
由香利にまで言われてしまっては反論したくてもできない……。
「なによあたしだけぇ……。茜音の方が悪質じゃん。服を着ていたらわかんないからって、ちゃんとおっきくなってんだからさぁ」
「ほぇぇ? そんなことないのにぃ……」
確かにぱっと見た目は小学生にさえ間違えられることのある茜音。実はそのプロポーションは菜都実に次ぐものを持っている。服装でボディラインを隠してしまうのかもしれないけれど、外観ではなかなかそれに気が付かれることはない。
「まぁまぁ、由香利ちゃん、おっきくなるときは一気になるから大丈夫。菜都実だって高1までは洗濯板だったしね」
「佳織ぃ、それフォローになってないぞい……。それ考えたらさぁ、あの理香さん、けっこうスタイル良かったよねぇ。あんまり胸はなかったけど……」
「そうねぇ……って、違うっしょ! あの二人大丈夫かなぁ……」
ようやく本来の話に戻ってきたようだ。
「ああ見えても会長も奥手だからなぁ……。特定の彼女これまでゼロだもん」
「よく調べたねぇ……」
露天風呂とは言え、かれこれ1時間近く浸かっていることもあり、茜音は今度こそ本当にのぼせそうな雰囲気だ。
「まぁ、調べやすいでしょ。まぁ、もし片思いの子がいたとしても、学校じゃいくらなんでも告れないよねぇ……。目立ちすぎるし……」
「ほえぇ……」
「さぁて、本当に茹で上がりそうなのがいるから、ちょっち時間は早いけど出ますかぁ」
佳織は隣でとろんとしてきた茜音を見やってため息を付いた。
後部座席の四人を降ろして、車の中は急に静かになった。
「行きましょうか?」
「ああ……」
理香は再びハンドルを握る。さっきまでの和んだ空気とは別の、張りつめた雰囲気が二人を包んだ。
「ちょっとここから離れるわね」
「その方がいいだろ」
口数も少なく答えるが、湖周辺にいて他の人に邪魔されたくはない。
しばらく走ったところで、理香はある建物のそばの駐車場に車を止めた。
「ここは?」
「私が勤めている学校。今日はお休みだから誰もいないのよ。田舎の学校だからね、今日は私が鍵を借りてるの」
理香が説明するには、その学校はここ数年で立て替えられたとのこと。無駄に大きいものではなく、こじんまりとした風格だった。
それほど子供の数が多いわけでもないのかもしれない。理香は学生時代に教職のカリキュラムを履修し、教員免許も持っていることもあり、事務員としてばかりでなく、休んだ先生の代理を務めることもあるという。
駐車場にも校庭を見ても誰もいない。彼女は鍵を開けて清人を校内に招き入れた。
誰もいない校舎の中というのはどうにも形容しがたい一種独特の雰囲気を持っている。
その学校に通っていたとしても、休日の学校に一人で入りたいと思う者はいないに違いない。
「あの部屋は鍵がないはずだから……」
普通の教室や職員室ではなく、彼女が開けた扉は地区の行事や非常時の避難場所にも使えるように作られた多目的部屋だ。普段はフローリングだけど、畳敷きにもできるという。
「どっか見覚えはない……?」
清人は二人きりになってから口数が減っていたけれど、この校内に入ったときにも何か落ち着きなく周りを見回している。
「なんかおかしいんだよな……。こんな建物に入ったことはないはずなんだけどよ……」
「この窓からの景色も……?」
理香は部屋の窓から外を見ていた。
「なんかあんの?」
彼女の隣に立った清人はふと頭の中に何かがつながった気がした。
「この景色は……」
「1年2組、坂口清人君……。いえ、当時はちゃんだったね……」
「なんでそれを……。まさか……、やっぱり理香ねぇ……、だったのか?」
理香の言葉を聞いて絶句する清人。
「思い出した? 清ちゃん……」
潤ませた目をしている理香を見て、彼の頭の中には一人の少女の顔が浮かんでいた。
近所に住んでいた年上の女の子で、遠い昔にいつも一緒に遊んでくれたお姉さんのような存在のことをはっきりと思い出す。
幼い頃、ほんのわずかの期間だが、この土地に住んでいたことがパズルの最後のピースとして埋まった。
親の仕事の関係で、わずか1年ほどの在籍。この小学校からは1年生が終わる直前、現在の場所に引っ越してしまったため、あまりこの土地に深い思い出は無かった。その中でもよく遊び相手をしてくれたのが、幼い頃の彼女だった。
彼女の家は地元の旧家で、周囲からは近寄りがたい印象があったらしい。考えてみたら数え年で4歳も離れていた自分を相手にしてくれるのだから、なにか他にも理由があったのかもしれない。理香ねぇと当時の彼女をそう呼んだのも自分だけだった。
「ずっと……、分かってたのか?」
「ううん……」
彼女は首を横に振った。
「最初あの塾で会ったときは全然分からなかったよ……。途中からそうかもしれないって思った……。でも、本当かどうか分からなくて……。それで意地悪な問題を出しちゃったの……。もし本当の清ちゃんだったら……、きっと分かるはずって……」
「かなわねぇなぁ理香ねぇには……。でもどうしてあんな街に来たんだよ? それに、なんで出て行っちゃったんだよ……」
「この町にはあまりいたくなかったから……。あと……、あの街に一人で居ることは辛かったから……」
「どうして……」
旧知の仲だったと素性が分かれば遠慮も必要ない。
あの当時のように、二人ならんで窓から校庭を眺めていた。
「私、進学する学校を決めるとき……、家を飛び出したんだ……。もう両親の決めた進路通りには進みたくなくて……。それに、あの家にいたら……、私のことを普通の女の子として見てくれる人はいないから……」
「そっか……」
ぽつりぽつりと話している理香の顔が幼い頃に見た面影と重なる。
髪型を変え、一見すると別人のように変貌している彼女だが、窓の外を寂しそうに見ている顔は、以前の彼女を知っていれば大きく変わっていないことが分かる。
「あの後……、清ちゃんがいなくなってから……、私、寂しかったよ……。また……、誰も相手にしてくれる人は居なくなっちゃった……。いつもこうやって一人で外を見て……。でも誰も声をかけてはくれなかったよ……」
「それじゃここに戻ってきてもいいことはなかったんじゃないか?」
地元が嫌で出てきた都会。ところがそこでは理香にとって思いがけない再会とともに、その場所では一人で生きていくのには辛すぎる現実にも直面した。
確かに就職が思うように行かなかったからと言って、帰りたくなかった地元で長くいることはないだろうと思う。
理香はしばらく何かを言い出そうとしては思いとどまっているような様子でうつむいたまま座っていた。
「最後の賭けだったの……」
「賭け?」
ぽつりとつぶやいた理香の言葉に清人の方が驚いてしまう。
「もし、本当の清ちゃんだったら……、あのときに言ってくれたことが本当だったら……。お父さんに言えるの……」
「なんの事だよ?」
何か複雑な事情があるらしいとは想像がつく。そこにどう自分が絡んでくるのか、さすがに小学1年生の記憶は鮮明ではない。
「本当は戻って来たくはなかったんだよ……。でも……、あそこで戻らないわけにはいかなかった……。私の就職が決まらないって分かった頃から、あの人はもう……」
理香はぽつりぽつりと言葉を選びながら話しているように見えた。
「でも……、私は本当に私のことを好きになった人じゃないと一緒に暮らすのは嫌……。親が決めたことなんて……、絶対に飲めなかった……。だから……、条件を言ったのよ……」
「どんな……」
これまでの経緯でなんとなく次の言葉は想像が付いた。それでも聞かずにはいられなかった。
「私のことを本当に想ってくれる人がいるって。その人が私に会いに来てくれたら、勝手に決められた結婚の話は破棄するって。もちろんすぐに出来た訳じゃないよ……。だから、一人だけっていう条件付きでね……」
「理香ねぇは、それが俺でいいのかよ?」
大体何となく予想はついていたことだったけど、自分とは幼い頃の思い出と、塾の講師と生徒という間柄しかなかった。それが突然、彼女の運命を左右するようなことに大きくなってしまっている。
「清ちゃんは私じゃ嫌……?」
「誰がそんなこと言ったよ?」
清人だってもちろんそんな事はなかった。これまで特定の彼女無しということも、告白されたりしたことがなかったわけではないし、何となく気になった子がいなかったわけでもない。
でも、幼い頃一緒にいてくれた理香の面影が強く残りすぎて、結局踏み出せずにいた。
そして、学校外で偶然出会った女性に初めて一歩近づけたと思ったら、何のことはない。結局自分が想うことができるのは彼女一人だけなのだと気づいたのだから。
「じゃぁ……、私のこと……」
「俺だって、理香ねぇの事以外考えられねぇよ……」
「うん……」
頷いた彼女の頬をつうと一筋涙が流れた。
「泣くなよ……って、俺が昔言われたセリフじゃねぇか?」
「そうだねぇ。ひっくり返っちゃったねぇ。でもいい……。うれし泣きだから……」
恥ずかしそうに顔を赤らめてしまう理香。
年上のはずなのにその姿は自分より何歳も年下に見えた。
「ありがとう……。約束守ってくれて……」
「俺さぁ、誰とも付き合ったことないから、エスコートとか全然知らないぜ? こんなんでお父さん平気なのかな?」
理香は心配ないと言うように首を振った。
「清ちゃんだったら絶対に大丈夫。私が保証する」
「ほんとか?」
返事の代わりに、理香は清人の手を引き寄せ、そっと目を閉じた。