「あぁ~~~、疲れたぁ……」
「本当に菜都実は今回リミッターなしだね……」
「明日が本番なのに今日疲れ切ってどうすんのよ!」
夕食も終わり、先にお風呂をいただいていた三人。広い畳部屋に入ったとたん、菜都実が大の字になって倒れ込んだところだ。
「だってぇ、美保ちゃん元気なんだもん。年下には負けられないっす~!」
「だからってさぁ……」
「まぁまぁ。楽しんでくれているみたいでよかったよ」
茜音も前回の千夏の地元では一緒になって夜遅くまで起きていたことを考えると、あまり言えたものではない。
この場は佳織に任せておくことにしていた。
「どうしたの茜音?」
そんな二人の会話からいつの間にか離れ、一人窓の外を見ていた茜音に気づく二人。
「ううん。なんでもない……」
しかし、茜音はあの双子のうちのどちらかが一人駅の方に向かったのを見ていた。暗くてはっきりとどちらかは見分けられなかったけれど……。
体力を使い果たした菜都実と、以前から旅行に行っても寝付きのいい佳織が先に寝息を立ててしまったので、茜音は部屋の明かりを消して、そっと庭先に出てみた。
雲もなく月明かりがあるので、思ったほどの暗闇ではない。
「もう夜も遅いですよ?」
家の方から声がした。美保たちの一番上の姉、あの優子の祖父で、この家の主でもある。
今回の旅行のことも萌とこの老人の協力でこの家を拠点にすることができた。
「はい……。なかなか寝付けなくて……」
「それはいけませんね」
彼はそう言うと、縁側にお茶の用意をしてくれた。
「茜音さんとおっしゃいましたか。あれから……、ずいぶん苦労をなされたでしょう」
「はい?」
意外な言葉だった。確かに美保と萌姉妹には事の発端から話してある。
しかしすべてを話したのは今日の新幹線の中で、そのあともずっとみんな一緒にいたので、彼女の話はこの老夫妻は知ることもなかったはずだった。
「あれから……、もう12年ですか……。大きく立派になられて……」
不自然なくらい、その老人は茜音に丁重だった。何か大切なものを思い出しているような。
「あの……」
「ええ、不思議だとお思いかもしれません。覚えていなくても不思議ではありませんよ。でも、私はあなたを覚えていますよ。数少ない生存者でしたからね」
老人は茜音を愛しげに見つめていた。
「どこで……?」
少し脅える茜音の様子に、彼は心配させないようにゆっくりと話し始めた。
「あれは……、初日の捜索が終わってからでした。ふと山を見ると、ぽつんと明かりが見えました。残骸が燃えているのかと思いましたが、双眼鏡で見ると誰かが火を絶やさないようにしているとしか思えない。『生存者がいる』と騒ぎになり、朝まで出発を待つという命令を無視して、私は仲間を連れてその場所へと急ぎました。そこにいたのが、まだ幼かった女の子でしたね……。あの子と、今日ここでお目にかかれるなんて、不思議なご縁です」
「わたしを助けてくれた方……ですか……?」
事故当時のことはもうあまり思い出すこともなく、記憶の中に固く封印されている。しかし、「大丈夫ですか?」と夜明け直前の薄明かりの中で声をかけてくれた人がいたことは思い出せる。
「あの時はまだ幼かったですし、寒い中でひどく汚れていて「とにかく病院へ急げ」と、お名前を伺うことすらできませんでした。それでも間違いなく女の子をヘリコプターの隊員に引き継いだのは覚えています。こうして年月が経って再びお会いしたときに、あの時の女の子だというのが直感で分かりましたよ。よくご無事で……」
「そんなぁ……。びっくりしました……」
あのとき、自分たちを見つけてくれたことは何度お礼を言っても足りないと思っていた。
すぐに救助ヘリコプターに吊り上げられたこともあって、お礼を言うこともできなかったのだから。
自分たちを救助してくれた恩人が目の前にいる。
「今までお礼も言えなくて……。見つけていただいて、本当にありがとうございました」
衝撃の事実を知り、茜音はすっかり眼が冴えてしまっている。
「あのときはお母さまもご一緒でしたね。今もお元気ですか?」
彼ら救助隊は茜音たちを発見してくれ、ヘリコプターを誘導してくれるまでだったので、その後の事は知らされていないのだろう。
茜音は力無く首を横に振り、救助搬送された先の病院で母を看取ったという12年越しの事実を伝えた。
「そうですか……。それでは本当に苦労をされたでしょうに……。萌ちゃんからみなさんの事は少し聞いてはいたのですが……」
茜音はあの後のことを簡単に話した。
そして今回、この地にやってくることになったきっかけについても。
「そうですか。是非見つけてください。それが茜音さんにとってこれからを生きていく希望になるのでしたら」
「本当に、今回は萌ちゃんにお世話になっていて……。でも、萌ちゃんはなにかこちらに近づくにつれて顔色も冴えなくなって……」
東京駅で会ったときはそれほどでもなかったけれど、こちらに近づくにつれ萌の表情は少しずつ影を落とすようになっていた。
誰も指摘してはいないのでそれは茜音にしか気づかない位なのかもしれなかったけれど……。
「萌ちゃんがねぇ……。あの子だけは他の子たちと違って、まだ立ち直れないんですよ……。毎年、この時期になると決まって訪ねてきてくれます。でも、それが……」
前に聞いた話では、異母姉妹でありながら、母親代わりの姉妹自慢の姉であり、この老人の孫にあたる優子が亡くなってから、もう4年の月日が経つ。
普通ならばそのくらいの月日が経てば、ある程度は吹っ切れてきてもおかしくはない。
茜音と違い、一人になってしまったわけではなく、三人もの姉妹が一緒にいてくれての話だ。
よほどのことがなければ、ここまでに陥ることは珍しいかもしれない。
「そうですね……。でも、わたしも時々、あのときのことを思い出してうなされます。飛行機も今は平気だけど、昔はだめだったから……」
「こんな事をお願いしては、大変失礼かもしれませんが……」
老人は茜音の方を向いた。
「はい?」
「今回限りではなく、萌ちゃんのことをこれからも見続けてやってもらえませんか? さっき、あの子も茜音さんのことが気になるようでしたので……」
「そうですね……。萌ちゃんはさっきのお話を知っていますか?」
茜音は萌が時々見せる切ない表情が気になって仕方なかった。14歳の女の子の顔にしてはあまりにも頼りなくて、何とかしてあげなくてはという気持ちが芽生えていた。
「いや。間違えたことを伝えてはいけないと。でも、茜音さんと確認ができたので、茜音さんさえよければ聞かせてあげたいことですね」
「萌ちゃんにはわたしからも話します。でも、いきなり言っても大丈夫でしょうか?」
「大丈夫ですよ。あの子は味方になってくれる人にはきちんと心を開いてくれる子ですからね」
本当の孫ではなくとも、その老人は萌のことをちゃんと気にかけているのが分かる一言だった。
「そろそろあの子も戻ってきます。私はそれを待って戸締まりをしますから。明日は早いのですから、もうお休みください。飯田線は1本乗り遅れると大変だからねぇ」
あの当時と同じ笑顔に見送られ、茜音は寝室へと戻っていった。
「窓から手や顔を出すと危ないですよ」
「すみません……」
巡回してきた車掌に注意され、しゅんとなる菜都実。
「ほらぁ、走ってる電車は危ないんだからぁ」
翌朝、茜音たち三人と双子の姉妹の五人は、列車に乗って前日より山奥にやってきていた。
「でもぉ、こんなきれいな景色なところ、滅多に見られるもんじゃないよ?」
「分かったから、着くまでおとなしくしてなさいって」
「菜都実、この旅行はずいぶんとお子さまモードになってるよね」
「ばぶ~だ!」
口をとがらせた返事に他の四人はみんな吹き出した。
「親に見せられたもんじゃないなこりゃ……」
一人でオチを入れると、また窓に張り付いて外を見ている。
「きれいだけど、何もないとこだね」
はしゃいでいる菜都実をよそに、茜音は萌と話をしていた。
「このあたりは国立公園のなかなんですよ。それだけ人の手が入っていないって言うか……」
「そうだねぇ」
「だから知っている人しか来ません。都会的なものは何もない山奥ですからね」
「でも、昨日の列車には結構若い人いたよ?」
トンネルに入ってしまったので、菜都実が話に割り込んできた。
「間違いなく鉄道ファンだろうねぇ……。飯田線は乗るのも写真撮るのも有名な線だもん」
飯田線がその手の人たちに有名なのはネットを少し調べるとよく分かる。全線乗り通しや全駅を訪問したなどのページがいくらでも出てくる。
しかし、佳織はそれを見る前から知っていたのではないだろうか……。
いくつかの集落を通り過ぎ、川沿いにある小さな駅で萌は一行を列車から降ろした。
「うひゃ~、まさに山ン中!」
「このまえお見せした写真はここから歩いて行けるところなんです。この周辺は小川が流れ込むので谷に架かる橋も多いんですよ」
列車の中でカメラを用意していた萌が言った。昨日は茜音よりも就寝は遅かったはずなのに、眠そうな素振りも見せていない。
「これは萌ちゃんの私物?」
茜音も確認用にカメラは持ってきたけれど、望遠なども使えない小さなものだ。今は逆にスマートフォンで大抵のことが足りてしまう。
萌が肩から下げているのはいかにもプロの写真家などが使っているような、いわゆる一眼レフタイプと呼ばれるもので、茜音たちでさえ簡単に手を出せる代物ではない。
「貰い物ですけどね。お姉ちゃんも丁寧に使っていたので、まだまだ使えますよ。本当はボディを買い替えたいんですけどね。フィルムの時代と違って、デジタルだとすぐに新製品が出てしまうので」
「レンズはいいとしても、でも欲しくなっちゃうか……。分かる人なら欲しくもなるよねぇ……」
佳織の情報では、一番安いモデルでもセットで揃えれば10万円は下らないし、本格的に吟味を始めたらそれこそ100万円を超えてもおかしくないと言う。
「少しずつお小遣いは貯めてますけどね」
「萌ちゃん、コンクール出してみなよ。最近はジュニアの部でも結構いい賞金出るし……」
川沿いの道を歩きながら、佳織は話していた。他の二人もホームページや先日の写真を見て、彼女にはその素質は十分にあると思っている。
「いいんですよ。あのページはお姉ちゃんの物ですから。あるもので、趣味で、きれいな写真を撮れればそれでいいんです」
「そうかぁ。じゃいいの撮れたら見せてよね」
「はい。よく撮れたのはちゃんとプリントしてますし」
川沿いと言っても、ダムもあったりする関係から、本流の川幅は狭くなったり広くなったりする。
元々は工事用通路だったと思われる道は、ところどころ遊歩道のように整備されていて、ハイキング登山もできるようになっている。
そして、その本流に向かってたくさんの支流が流れ込んでいて、その川にかかるいくつもの鉄橋のことを萌は茜音に教えていて、今日の目的地にしていた。
「はう~、こんな鉄橋絶対にネットだけじゃ分からないよぉ……」
萌に案内されて、それこそ地図にもない小さな鉄橋を数々案内されながら歓声をあげる茜音。
もちろん、それだけでなく、ひとつひとつのポイントで座り込んでは上を見上げたり、当時の記憶との照らし合わせを忘れてはいない。
「これは私たちも見逃していたわね」
佳織も苦笑していた。飯田線沿線の写真として、多くのサイトで鉄橋も取り上げていたりもする。
しかしその多くはもっと川幅の広い部分や、平地の部分が多く、この山岳地帯の支流にかかる橋まではマークされていなかった。
もっとも、萌のような土地勘がある者と一緒でなければそこにたどり着くのも大変なのだけど……。
「この周辺がお話を聞いている中で一番近いんです。10年前には有人の駅があって、鉄橋があるとすれば……」
そう。当時の茜音たちは駅の人に保護してもらっているから、当然その駅には人がいたはずだ。
飯田線には昭和の終わりまではたくさんの有人駅があった。その後の設備整備に伴い、かなりの駅が無人になってしまった。
茜音たちの思い出の日はその後のことだから、少なくともその後まで人がいる駅でなくてはならない。そして近くに鉄橋があるという条件を追加することになる。
後で美保に聞いたところによると、萌も場所を選んだときに、その条件を当てはめて相当悩んでいたらしい。
「なんもないって事じゃ絶好なんだよねぇ……」
茜音は早くも周囲の探索を始めていた。その場所に立たなくても、周囲の雰囲気という物はある。ただし、幼かった曖昧な記憶と同じような雰囲気になるのは、これまでにも経験していた。
「確かに大きな川じゃなかったんだよねぇ。この天竜川ではないんだろうなぁ……」
天竜川には発電用などにいくつもダムを持つので、上流に来てもその川幅は結構広い。やはり萌と同じく、茜音もそこに注ぐ支流に目を付けたようだ。
「うーん、どうなんだろう。高さとかはバッチリなんだよねぇ……」
萌が茜音に紹介したその場所は、天竜川から少し離れた線路脇だった。線路の下にはきれいな沢になっていて、今にも水遊びができそうな涼しげな雰囲気を醸している。
ここまで知っている人はほとんどいないと思われる。道は獣道で、最近人が通ったようには思えない。だからこそ、これだけの景色が残されているのだろう。
「飯田線の中では一番条件がはまる場所です。あとは他の路線になってしまいますけど……」
萌が苦心して探してくれた場所だけに、確かに条件はかなり一致した物がある。
「どう茜音……?」
心配した佳織がそっと聞いた。
「萌ちゃん、これと同じような場所は9年前に他にもあったかなぁ……?」
「そうですね……。でもこの辺はあまり開発が進んでいないので、この近くではないかもしれません……」
「そっか……。景色だけで言ったら本当に似ているんだよ。でも、なんか感じが違うの……。言葉じゃうまく言えないんだけど……」
景色や情景は本当によく似ている。ただ、駅からの距離など、他の条件を追加してみるとここだという確信が持てない。
「分かります。本当にその場所に行ったら、景色が変わっていたとしても分かりますよね」
その後も、可能性のありそうなポイントを回ってみたのだが、茜音の直感が反応する場所は見つけることが出来なかった。
「ごめんね美保ちゃん、萌ちゃん……。迷惑ばっかりかけて、見つけられないなんて……。ごめんねみんな……」
そばの岩に腰を下ろして、茜音は申し訳なさそうにため息をついた。
「ごめんね……、みんなを期待させちゃって……」
「そんなに気を落とさないでください。誘ったのは私ですよ?」
結果はどうであれ、本来は誰の責任も問われるものではない。
それでも、しょげ返って謝っている茜音の気持ちが分かっているだけに、萌もすまなそうにしていた。
「はいはい、また探せばいいさぁ。茜音ぇ、ちゃんと写真撮って帰るんだぞぉ」
菜都実の大きな声で、その場の雰囲気が少し和らいだ。
「ほぇ?」
「だって、ここ似てるんだろぉ? 同じようなところを探せって公開できるじゃんか」
そうだ。これまではイメージを言葉やイラストで伝えることしかできなかった。菜都実の言うとおり、実写で同じような場所といえば、発信力に大きな差がでる。
「なるほどぉ……」
「たまには菜都実もいい事言うじゃん」
「たまにかい~!」
みんなが吹き出したところで、少し遅めの昼食となった。
「あまり大した物作れなかったんですけど……」
おにぎり、鶏の唐揚げ、厚焼き玉子とお弁当定番メニューだが、景色のいい屋外で食べるのだから、何でも美味しく感じられる。
「萌にしては定番だねぇ……。いつもはもっと気合い入れるのに……」
「だって、昨日お買い物してないもん。冷蔵庫の中の物で急いで作ったから……」
朝一番に、台所から萌の叫びが聞こえた気がしたが、今日のお弁当の材料をすっかり忘れていたせいだと言う……。
「萌ちゃん、それでもすごいよぉ。美味しいもん」
「これで間に合わせかぁ……。菜都実ぃ、うちら中学生に負けてるよ?」
「来ると思った。どーせあたしはそんな役ですって……」
「だって、あんたの調理実習で、男子が喜んで食べたのあった? しかも喫茶店の娘よあんたは?」
「いいじゃん、店のはちゃんとみっちり教わったもん。お父さんに何度も怒られたけどさぁ……。茜音がバイトに来たんで、お父さんが喜んだ喜んだ……」
三人の中では茜音と佳織は互角と言われている。難攻不落の茜音はバレンタインには本来縁がないのだが、菜都実に頼み込まれて何度か手作りのチョコを作ったこともあるし、調理実習では誰でも喜んで受け取ってくれる。
「萌が料理当番の日って、うちの献立が変わるもんねぇ……」
三人の会話に美保も入ってきた。
「やっぱし……。いいように使われてるんじゃないの萌ちゃん?」
「いいんです。これも勉強だし……。そのかわり失敗しても文句は言わせません」
「なるほどぉ」
「でもさぁ、茜音も萌ちゃんも、彼氏は幸せだよねぇ……。あたしじゃ食わせたら最後だわ」
突然顔を曇らせてしまった萌。美保も「しまった」という顔をしている。
佳織は内容はわからないながらも、素早く雰囲気を察知すると、
「ほら菜都実、茜音のカメラ借りて写真撮りに行くよ!」
「え? それは茜音の仕事じゃ!」
「いいから!」
美保も立ち上がると、茜音と萌だけになった。
「なんだか菜都実が変な事言っちゃったのかな……。萌ちゃん……」
「うん、大丈夫です。少し前に一人になっちゃったんで……」
「そっか……。ごめんね……。菜都実にはきつーく言っておくよ」
「いいんです……。話していなかった私が悪いんだし、この旅行でとても気分転換になりました……」
「萌ちゃん……」
茜音は萌の肩をそっと抱いた。
「わたしねぇ、萌ちゃんが羨ましい……」
「え?」
それまで前をぼんやり見ていた萌が、隣の茜音を見た。
「わたし、失恋経験ないんだよね……。ずっと片思いだから……。今のこの気持ちが叶わないって分かったらどうなるんだろうって……。それを考えると怖くてね……。ほら、初恋ってなかなかうまく行かないって言うじゃない?」
「大丈夫ですよ……。私はまだ欠陥だらけだし」
「萌ちゃんが欠陥って言ったら、わたしどうすればいいのかなぁ」
大まじめに茜音が悩む顔をしたので、萌が顔を崩した。
「よかったぁ。笑ってくれたぁ。でもね、萌ちゃんはきっといい恋に出会えるよ」
「うん」
振り向くと、お昼の用意が片づけられていた。萌に話しかけながら茜音がやってくれたのだろう。
「茜音さん……」
「いいの。お昼作ってくれたんだもん。このくらいはね? これでもわたしの方が年上だしぃ……」
「はい」
「さぁて、他のみんな連れてくるかぁ……」
彼女を残して茜音は大声で三人を呼びに行った。
「茜音も早く寝なよ?」
「うん、菜都実こそへとへとなんでしょう。美保ちゃんとあれだけ遊び回って……」
あのあとも天竜川の川下りをしたり、近くに人家もないようないくつかの無人駅に降りて探検してみたりと、気がついたらもう夕方で、五人は遊び疲れた様子で戻ってきた。
翌日の出発を控えて、荷造りを終えると、家の中が急に静かになった。
「茜音さん……。まだ寝れないんですか?」
前夜と同じく、縁側でぼんやりと空を見上げていた茜音の背後から小さな声がした。
「萌ちゃん?」
「駅の方に散歩……行きませんか?」
「萌ちゃんの邪魔にならないなら、いいよ。でもちょっと待って、パジャマじゃちょっと恥ずかしいから」
他の二人を起こさないように、Tシャツとショートパンツに着替える。萌は玄関先で待っていてくれた。
二人並んで月明かりに照らされた道を歩く。
「萌ちゃんのそれ、昨日の夜も着てたでしょ?」
昨日の夜も彼女が着ていたそのセーラー服にハーフパンツの部屋着だろうか。
たぶん自分の制服を元にして作っているのだろう。本当の制服とは違い、綿素材の柔らかい布地でできているらしく、涼しそうに見える。実際の制服よりも、こちらの方が彼女によく似合う感じがした。
「見てたんですかぁ? 本当は劇の衣装用に作ったんですけどね。結局使うことはなくて、私がそのまま使ってます」
「なんか羨ましいなぁ。でも、いつくらいから作り出したの?」
ここまで自在に服が作れるようになるには、それなりの長い時間がかかるだろうから。
「小学校の……、3年生くらいから、お洋服を改造はしてました。一着作れるようになったのは5年生の最後くらいだったと思います。6年の時は卒業発表会の衣装係やりましたから」
「そうかぁ。それじゃぁもう慣れてるわけだよなぁ……。今度、型の起こし方教えてほしいなぁ」
これで茜音も自分で服が作れるようになる。彼女たちのような服は値段もそれなりに張るから、自分で作ってしまえば安くあげられるし愛着も湧く。
「いいですよ。茜音さんには、今回のお詫びに、なにか1着作る予定でしたから……」
「ほえ? いいよぉお詫びなんて。でも、もし教えてもらえるならあのベストの上下がいいなぁ。萌ちゃんが着ていた奴」
「いいですよぉ、帰ったらサイズ計らせてくださいね」
「いやだなぁ~、萌ちゃんに貧弱なサイズ全部分かっちゃうのかぁ」
照明に浮かんでいた小さな駅には誰もいなかった。萌は小さな待合室のベンチに腰掛けた。
「この待合室、数年前まではこんなんじゃなかったんですよ。古かったですけど、木造の建物で、もっと待合室も広くて、雰囲気が良かったんですけど……。ちょっと残念でした……」
「そっかぁ。それでだったんだね……」
「あと、その軒下のベンチで、優子お姉ちゃんとお話ししていた思い出があるんです。1回だけですけど連れてきてくれて……」
「そう……なんだ……。優子お姉ちゃんって、あの……」
「はい……」
昨日、この駅に降り立ったとき、萌が寂しそうにしていたのは、その景色だけでなく、思い出までが失われてしまったからなのかもしれない。
「茜音さん、ちょっと暗いですけど一緒に来られますか? 秘密の場所に案内します……」
「わたしが行っても大丈夫?」
「はい……。でも途中ちょっと足場が悪いんです。今日は月明かりがあるから大丈夫だと思います」
立ち上がった萌が手を差し出してくれた。
萌は茜の手を引き、駅までの道を少し戻り、川沿いの草むらへ分け入る。足下を慎重に確かめながら萌が進んでいく。
その様子から昨日はここには来ていないようだ。
「この先、ちょっと足下が悪いです。夜の川は恐いので落ちないように気をつけてくださいね」
「はうぅ~、そんな事言わないでぇ」
こんな会話ではどちらが年上だか分からない。
「去年、美保ちゃんが落ちましたから。昼間でしたけど」
「えー、美保ちゃんが落ちるのをどうやって気をつけるのぉ……」
あの菜都実と互角以上の体力と運動神経をもつ美保ですら足を滑らせる場所だというのか。
「あ、よかった。ちゃんと整理されてる……」
萌の独り言が聞こえて、二人は川に流れ込む小さなせせらぎの方に足を進めた。
「この先はゆっくりついてきてください。脅かしたらかわいそうなので……」
「なにを……?」
最後に、目の前にある岩を回り込むと、茜音は「あっ」と小さな声を上げた。
「すっごーい。こんなの初めて見た」
「私たちのとっておきの場所です。こんなふうになっているのは地元の人でもあまり知らないそうです」
そこにあったのは小さな滝と小さな池、そして暗闇を飛ぶたくさんの儚い光。茜音も蛍は何度か見たこともある。しかしこれだけたくさんの光を見たことはない。
「ここもいつまで見られるか分かりません。お姉ちゃんが残してくれた思い出の場所ですから……」
萌はぽつりと話した。この場所の存在は生前の姉の宝物だと聞いていたこと。
でも連れてきてもらったことはなく、何年かしてようやく探し当てた場所なのだと言う。
昔は地元の子供たちの遊び場でもあったらしいのだが、今は忘れ去られたように寂れている場所だという。
「優子お姉ちゃんが、唯一教えてくれなかった場所です。お姉ちゃんの秘密の遊び場なんですよ……。ここで一人で遊んでいた思い出の場所だから……」
あとで分かったという姉の話をしてくれた。病弱だったという姉は、周囲からも厭われて、萌たち姉妹だけを支えにしてきたという。でも、異母姉妹という事実で周りや家庭内を刺激しないために、そのことは伏せられていた。
そのことを彼女は唯一、一番可愛がった妹にだけ最期に伝えて謝ったのだと。
「お姉ちゃん、こんなところに一人で寂しかったんだと思います。でも、他の場所にいるよりかは良かったんだと思います。今でもここに来ると、私は優子お姉ちゃんと二人きりになれる気がするんです……」
「萌ちゃん……」
「いつもはお墓の前でお話しするんです。でも、今回はここにしたかったんです……。ここなら昔みたいに静かに話せる気がして……」
「どうして……?」
「茜音さん、こんな泣き虫な女の子って、男の人は嫌いになっちゃうんでしょうね……」
萌はショートパンツの裾を膝の上までたくし上げると、脛のあたりまで水の中に浸した。
「萌ちゃん、昼間の話はお断りされちゃったの……?」
彼女の気持ちを考えて、みんなの前では聞きたくなかった。やはり小さく頷いた。
「1つ上の優しい先輩です。私がお姉ちゃんがいなくなって、何もできなくなってしまったときから、ずっと元気づけてくれた人。本当に感謝してます。私から告白もしました」
「そっかぁ……」
「お付き合いできることになって、1年間、本当に嬉しかった……。でも、甘えすぎちゃったんですね……。この間お別れしました……。でも、学校ではちゃんと後輩として可愛がってもらってるし……」
茜音は萌の背後からそっと抱き寄せて耳元でささやく。
「泣きたかったら泣いていいんだよ。強がる事じゃないよ。その先輩とのことだって、お姉さんのことだって、萌ちゃんの心の中、もっと素直に出していいと思うよ……」
「本当ですか?」
涙声の返事に、今度は正面から彼女を抱きしめる。小さな嗚咽を漏らしながら、萌の小さい体が震えていた。
萌の様子が落ち着いてきた頃、そっと彼女の背中をなでながら聞いてみる。
「悔しかったよね……。でも、萌ちゃん、楽しかった?」
「はい?」
突然の問いに、さすがの彼女も意味を瞬時に理解は出来ていない様子だ。
「お姉さんとの生活も、先輩との恋も、萌ちゃんは楽しかったかな?」
萌が微かに頷いたのを確かめて、茜音は続ける。
「あのね……、わたしのこの旅の理由を萌ちゃんは知ってる。正直ね、この先も見つけられるか分からないよ。それに、見つかったとしても、健ちゃんがわたしのことを覚えていてくれるか、わたしの気持ちを分かってくれるかなんて、全然分からない……。結果は分からないよ。でも、こうやって旅をして、自分の気持ちを整理して、萌ちゃん、美保ちゃんみたいなたくさんの人に出会って、そして結果を自分でたぐり寄せることの方が大切なんじゃないかって。わたしはこの旅を楽しんでる。結果よりも過程の方が大事なんじゃないかなって思うんだ……」
「茜音さん……。楽しかったですよ。私の一生の思い出になるくらい……」
「そっか……。なら、次の時はその楽しかった思い出を越えるように楽しめばいいんだよ。お姉さんのことはきっと萌ちゃんの心の中にずっと残っていくと思う。でも、そのお姉さんを心配させないように、楽しんで歩いていけば、それがお姉さんに対する最高の贈り物だと思うな」
萌の肩を再び引き寄せる。
「うん……。やっぱり茜音さんの方が年上ですね」
「こらぁ……。でも、昨日の夜、びっくりしたなぁ。まさかあの日にわたしのことを助けてくれた人がこんなところにいたなんて……」
「あ、私もぜんぜん知りませんでした。運命なんですかね?」
朝に弁当を作っているときに聞いたのだろう。萌もそのことは全く知らなかったという。
「それだけでも、この旅が無駄じゃなかったって1つの結果になったよぉ。萌ちゃんみたいな妹もできたしね?」
「本当にいいんですか?」
「わたし、両親に言われていたの。茜音が小学校に上がったら、弟か妹を作ろうって……。その頃から妹でも弟でも欲しかったんだ……。お家だってすぐ近くだもん。わたしのこと、もう一人のお姉さんと思ってくれたら嬉しい。でも……、萌ちゃんに比べたら頼りないけどね」
「ううん。今夜のお話を聞いて、大丈夫だって思いました。あのね茜音さん……。去年はさっきの駅で部活の先輩とお話ししていたんです。その先輩も好きな人がいて、お家が離れなくちゃならなくなって……。でも、勇気だして会いに行って、今は遠距離恋愛してます」
「萌ちゃん……」
「私、茜音さんたちが羨ましいです。確かに、これまで本当に大変な苦労されたかもしれないけど、ちゃんと巡り会えば絶対に離れないと思います。今回は空振りしちゃったんですけど……、他にも場所はいくつか知っている場所もあります。私も探し続けます。約束します」
袖口で顔に出来た筋をぬぐい取り、いつもの萌に戻って頷いてくれた。
「萌ちゃん、ありがとうね、うん、健ちゃんとは絶対に会えるって信じる。こんなに助けてもらったんだもん。結果はお知らせしなくちゃ。……あの事故からだったな……。これもわたしの運命なのかも……。あの日も、星だけはきれいに見えたなぁ……。今日と違って周りは雪だったけど……」
満天の星を見て、彼女はあの事故の日を思い出したようだった。
「茜音さん、それは……」
あの冬に起きた事故は茜音の人生を変えてしまった分岐点だ。これまで自分からその話題には極力触れることはしてこなかった。
「いいの。あの日の夜、日が落ちたら、星がよく見えたんだよ。わたしは、助けてくれたパパを雪の中から掘り出したの。大変だったけど、雪の中なんかには絶対にいさせたくなかった。それが終わったら、ママがわたしを抱っこしてくれた。そして言ったの。これからどんなに辛いことがあっても、これまでの楽しかったことを思い出して、それよりも楽しいことを見つけて生きていきなさいって。幼稚園児だったから、まだ理解できなくて、でも言葉は記憶に残ってた。この歳になって分かることもたくさんあった……」
夜空を見上げる茜音。幼稚園の茜音には難しすぎる言葉もたくさんあっただろう。
本来なら茜音が成長していく中で少しずつ覚えさせていくこと。そこまでの時間がないと悟っていた母親が、茜音にできる限りのことを教えたかったのだと。
「ママね、最後に『育ててあげられなくてごめんね』って言ったの。わたし、そのときにね、他には何も要らないって思った。ママとの時間が欲しかった。それからだよ、本当にその人との時間が本当に大切なんだって思ったこと。本当に楽しい時間は一瞬に思えてしまうくらい短いよ。でも、それは誰も奪うことのできない、わたしだけの大切な思い出になるんだ。ママとパパに一緒にいてもらった時間、健ちゃんと一緒にいられた時間。その思い出が今のわたしを動かしているんだ……。結果じゃない。一緒にいる時間を大事にしようってのは、そこから来てるの」
さっきとは逆で、茜音が泣きたいのをこらえているように萌には感じられた。
「わたし、萌ちゃんとこうした夜も忘れないよ……。わたしの大切な思い出になるんだから……。だから萌ちゃんも、素敵な思い出をたくさん持っているなら、大丈夫だよ。わたしが保証する」
「うん。頑張ります。お姉ちゃんが空で見ていてくれるから……。あのお星様のどれかだって思ってるから」
「そうかぁ。よく、星になるって言うもんね。パパとママもお星様になってるなら、わたしのお願いかなえてくれるかなぁ?」
二人は空を見上げた。満天の星空を見るためには、この日のように月が出ていては見える星は少ない。それでも周囲が暗いおかげで、普段の星空とは別物のように見えた。
「それ……星に願いを……ですよね?」
水音だけの世界に、茜音がふと口笛で流した曲に萌が応えた。
「小さい頃にね、ママがわたしを寝かしつけるときによく歌ってくれたの……。初めて覚えた曲がこれだなぁ……。歌詞なんか覚えたのはもっと後だけどね」
茜音は萌を見て微笑んでいた。
「事故の後、わたしが話せなくなったときも、誰かが偶然に気づいてくれたんだろうね。病院でもわたしの子守歌はこれだったよ」
「でも……」
「うん、本当の両親の事を思い出す歌でもあるよ。でも、それ以上に落ち着いた気持ちになれる……。この曲がアニメ用の歌だって事は分かってるけど、それ以上に思いが込められている気がするなぁ……」
「きれいなメロディですもんね……。私も好き……。茜音さんすごく上手だし……」
「えへ。一応ね、自分のレパートリーの中じゃ一番良く歌えるかなぁ。よし、今度本物聞きに行こうかぁ?」
照れ隠しのように茜音は笑った。
「いいんですか? でも、美保ちゃんとかついて来そう……」
「だいじょーぶ。うちだって、あの二人がついてくるのは分かってるから」
「菜都実さん、食べてそう……」
「そうそう。この間行ったときも、常になんか食べていたもんなぁ」
月夜に舞う蛍の光に囲まれて、二人の話はその夜、いつまでも続いていた。