次に車を止めたところで、車を降りた茜音に急に身震いが走った。
「似てるかも……」
そこは町境の山の中で、近くにあるのは清掃工場があるくらい。道も狭く、普通であれば早く通り過ぎてしまいたくなるような地域にその場所はあった。
一段と谷が深くなっており、見上げると大きな鉄橋が川と道路をまたいでいる。
「茜音ちゃん?」
千夏が茜音の異変に気が付いた。
「ちょっと、下まで降りていきたいけど、行けるかな……」
「行ってみる?」
その付近は、かなり急な切り込みになっていて、茜音一人で降りるのは不安だ。
「和樹! ちょっと手伝ってあげて!」
千夏が車に向かって叫ぶ。
念のためのロープなどを和樹が持ち、少しでも緩やかな場所を探している。
「千夏は危ないから上にいろ」
「えー? 連れてってくんないの?」
「何かあったときに二人同時は無理だ」
「でもぉ……」
駄々をこねる千夏をなんとかなだめ、二人は坂を下りて行った。
「うー、こんなひどい山だったかなぁ……」
比較的緩やかな場所を選んでいるつもりでも、それなりに危ない場所はある。
「今日の服装は正解だ」
今日の茜音は、スカートの多い茜音にしては珍しいデニムのパンツをはいていた。あの当時、河原で気が付いたら随分とスカートが汚れてしまっていたことを思い出してのことだ。
「うん。千夏ちゃん来たら汚れちゃってたよ」
「あいつ、これまでも何度か危ない目に遭ってるんだ……。それなのに全然反省しねぇもんな」
「え?」
ちょっと強がりで好奇心がありそうな千夏。でもそれは彼女の本心からではない。
道も険しくなってしまったので、それ以上の会話は続かなかった。黙々と急な斜面を降りていくうちに、急に水の音が大きくなった。
「さて、着いたぞ」
出発してから20分ほどで、二人はようやく河原に着いた。上を見上げると道路からかなりの高さを降りてきたことが分かる。
「じゃ、ちょっと待ってて下さい」
これまでと同じように、茜音が周りを見回した。
情景的に言えば、この場所はかなり当てはまるところが多い。
しかし、今降りてきた山道を7歳の自分が降りてこられたかと言うことに一番の疑問が浮かんでいた。それに鉄道の線路はもっと高いところにある。
彼女は河原を歩き回って、これまでと同じように座り込んで上を見上げた。
15分ほどで、休んでいた和樹の元に戻った。
「どうだった?」
「……ごめんね……。凄く似てるんだけど、どこか違う……」
申し訳なさそうにしょげる茜音の背中を、和樹はポンポンとたたいた。
「そんなに気を落とすなって。なんかその気持ち分かるな。景色は似てるんだけど、どっか違うんだよな。この辺りは同じような場所ばっかりさ。また探せばいい」
茜音は、千夏が彼のことを想うのが分かる気がした。
こんな人が幼なじみなら、あの千夏も安心して彼のそばにいたいと思うようになるだろうと。
「和樹さん、優しいですね。千夏ちゃんが羨ましい……」
茜音のつぶやきに彼は笑った。
「君のその彼氏の方が凄いと思うぜ? ガキの頃だったけど、もう茜音ちゃんを連れだしたんだからな。俺もその位しなくちゃならないかも」
和樹は、昨日の茜音の話を聞いてショックを受けたと続けた。
「でもさぁ、千夏の奴、どこまで本気だか分からねぇし」
「和樹さん、千夏ちゃんのことどう思ってるんですか?」
「千夏? 幼なじみだけど、結局あいつが一番俺のこと分かってくれてる。俺が結構無茶やっても、あいつだけは許してくれたからな……」
斜面を登る準備をしながら和樹は笑う。
「さっきさ、千夏が危ない目に遭ってるって言っただろ?」
「はい」
「あいつさ、ドジだから何回も沈下橋から落ちたりしてんだ。溺れそうになったこともある。でも、いっつも俺の後くっついてきてさ。仕方ないから俺が泳ぎ教えたんだよ。おまえには命いくつあっても足りないから教えてやるって」
「千夏ちゃん……」
「あいつ強がりだろ? 困るんだよなぁ。ああいうのが一番。茜音ちゃんみたいな女の子の方が見ていて楽なのにさ」
口では千夏のことをバカにしながらも、ちゃんと彼女をいつも見ている。幼なじみというのはこんな存在なのだと。
「和樹さん、これからも千夏ちゃんのこと、守ってあげてくださいね……」
「あのじゃじゃ馬を見続けろっていうのかい?」
茜音は笑顔で頷く。
「千夏ちゃんが危ない目に遭う前に、守ってあげるのが男の子の役目だと思うよ」
茜音は和樹と再び坂を上りながら、そう言って笑った。
日が西にだいぶ傾いた頃、車はようやく最後の場所にたどり着いた。
「さぁ、今日は結果はともかくこれで最後だよ。どのみち、ここから別の場所に行こうとしても、夜になっちゃうしね」
車を道路脇の空き地に停めて、運転席から振り向いた雅春から説明を受ける
この辺りはもう四万十川の本流ではない。
すでに高知県からも出てしまい、隣の愛媛県に入っていた。線路はこの辺りまでは川と並行して走っているけれど、そのあとは比較的平地を走るようになり、茜音が目指すような場所ではなくなってしまう。
後部のスライドドアを開け、茜音が真っ先に飛び出し、千夏がそれに続く。
川岸への下り坂を降り、川砂利の上を鉄橋の付近までゆっくり歩みを進める。
「どう……?」
隣を歩く千夏が恐る恐る聞いた。
今日1日見続けてきた他の場所と同じように、このあたりも大きな集落はほとんどない。
鉄道の線路と通ってきた道の他にある人工物は所々にぽつんと建つ民家だが、そこに人が住んでいるかまでは分からない。
これまでと同じように、どちらかと言えば寂しい場所。
茜音は、最後の場所であることと、陽の光が弱くなっているのも手伝って、それまでよりも注意深く周りを見回した。
頭上にかかる鉄橋だけでなく、河原の風景やむき出しになっている岩の感触まで。
見て触って、あの当時の思い出の風景と、目の前の風景の中で少しでも重なるところはないかと念入りに照らし合わせていった。
しかし……、
「ごめんね……、千夏ちゃん。ここも違う……」
申し訳なさそうに、茜音は首を横に振った。
「そっか……」
力を落としたように、石の上に座り込んだ茜音の元に、千夏は駆け寄った。
「ごめんね。ずっと付き合わせちゃって」
「ううん。茜音ちゃんこそ、ここまで来てくれたのに……」
今回の結果は誰のせいでもない。最初からそれは分かってはいるけれど、千夏は茜音に申し訳なく思っていた。
「ほえ? いいんだよぉ……。覚えていないわたしが悪いんだもん。あと1年あるから、それまで頑張るよ」
「なんか、その気持ち、凄いなぁって思ってるんだ……。私だったら出来ないかも……」
千夏は車を見上げた。他の三人は夕食の場所を検索サイトで探しているはず……。
「千夏ちゃんには和樹君がいるでしょ?」
前の場所で、和樹の気持ちを察した茜音だったけれど、敢えてそれは出さないようにする。
「和樹のこと、そこまで思えるかどうか分からないよ……。茜音ちゃんみたいに、大事な思い出があるわけじゃない。小さいときからの腐れ縁ってやつ?」
「そっか……」
でも、千夏の本心はそうじゃない。分かってはいるけれど、それは黙っていることにした。
「昨日の夜、どこまで話したっけ?」
今日は朝からずっとみんなで一緒にいたからこんな話はできなかった。
ようやく二人きりになれたこともあって、千夏はぽつりぽつりと和樹との思い出を語り始めてくれた。
千夏が和樹に強めに当たっているのは、彼女の本心の裏返しだ。
昨日顔を合わせたばかりの茜音ですらそれに気付くのだから、いつも一緒にいるメンバーだって分かっているはず。
だからこそ、和樹も千夏になにを言われても離れようとしていない。
「私、和樹のこと好きだよ。でも、あっちは私のことが好きかどうか分からないし……。もし断られるならさっさと振られちゃった方がいいのかも知れないけど、それも怖い。どうしたらいいと思う? 茜音ちゃんはこれまでどうやって頑張ってきたの?」
千夏は、茜音の話を聞いたときからこれだけは聞こうと思っていたことを口にした。
「わたし? 昨日、これしかないって。わたしも千夏ちゃんと同じ……。あの頃のわたしと健ちゃんには永遠に来ない時間に思えたくらい……。あの頃はただ10年という数字だけが頭の中にあって、その時間が過ぎるのか待っていた。でも、中学になって、高校になって……。その時期が近づいてきたら、今度は怖くなってきた。わたしはずっと忘れたことはなかった。でも、健ちゃんがわたしのことを忘れずにいてくれるなんて、誰も分からないって気付いたの……」
茜音は寂しそうに千夏に頷いた。
「だから、千夏ちゃんの和樹君への気持ちはよく分かるし、千夏ちゃんにもわたしのこと分かってもらえるかも知れないって思ってたの……」
「茜音ちゃんの思い、届くといいよね。ううん、届くよ。茜音ちゃんこんなに一生懸命なんだもん。半端な気持ちでこんなところまで一人で来ないよ。それに比べたら、私はまだまだ……」
改めて、茜音がたった一人、地元横須賀から遠く離れた高知の奥地までやって来た事実を千夏は見つめ直す。
容姿も自分と同じように幼そうで、一見したらこんな一人旅に出るようにはとても見えない。
生半可な気持ちでこんなことは出来ない。もし同じ立場に立たされたら、自分は茜音と同じ事が出来るのか、千夏には自信がなかった。
「あのね、信じてもらえないかも知れないけど、和樹に会う前と、会った後と、私これまでに2回性格変わったんだ。変わったって言うか、和樹が性格を直してくれたの」
「そうなの?」
さっき、和樹の話を聞いていたので、千夏が小さい頃にはかなりのおてんばだったことは分かっていたが、その前までは知らない。
「私、小さい頃誰とも遊べなかった。いつもお兄ちゃんとしか遊べなかった。そこに引っ越してきたのが和樹だったんだよ」
千夏は続けた。
「私がひとりぼっちだったときに、和樹が話しかけてくれて、一緒に遊ぶようになれた。でも、和樹は『泣いてる子は嫌』って言ったの。だから二人の時は我慢して泣かないようにした。和樹に張り合うようにおてんばの振りもした。でも、結局私はお芝居が出来る子じゃなかった。必ずドジしてね……。何度も川に落ちたりして、いつも助けてくれたのが和樹なんだ……」
「うん……」
「そしたら、『もう少し女らしくなればいいのにな』とか『中学になって制服がスカートに替わったら少しは変わるのかな』ってね」
「そうだったんだぁ」
「それから、私スカートとか着るように戻ったんだよ。みんな、和樹と会ってからの私しか知らないから、最初は驚いたよ。でも和樹が『似合ってる』って言ってくれて、それが嬉しくて……。他の人には幼すぎだって言われたりするけど、もともと私も嫌いじゃないし、和樹も気に入ってくれてるから、やめられなくなっちゃった。いつの間にか、人見知り以外の性格も治ってたな」
恥ずかしそうに微笑む千夏。確かに彼女の地元で、千夏や茜音のような服を入手するのは困難だろう。それを敢えて続けているのには、千夏なりの想いがあったのだと。
「和樹、きっと気づいてるよ。感謝してるんだ……」
茜音は黙って聞いていた。和樹だけでなく千夏も気持ちの準備はできている。
あとはタイミングを見つけてあげればいいだけの話だ。
「千夏ちゃん……。和樹君を離したらダメだよ。突然、どうしても離れて暮らさなくちゃならない時が来るかも知れない。その時に、千夏ちゃんが後悔てほしくない。気持ちだけは伝えておく方がいいよ。わたしだって、健ちゃんに好きだって言われて、それが今でも残ってるんだから。だから今回ダメでも次頑張れるんだ」
最後に、茜音は笑った。
「茜音ちゃん……」
こんなに強くて優しい笑顔を持っている同級生は、千夏のそばにはいなかった。
「茜音ちゃん、横須賀に帰っても連絡ちょうだいね。茜音ちゃんになら何でも話せそう……」
「もちろん。わたしもすてきなお友達が出来てよかった」
二人は立ち上がって砂を払い落とし、車の方へ歩き出した。
「しかし、残念だったね……。せっかくこっちまで来てくれたのに、申し訳ないことをしてしまった」
結局、その後も所々それらしいところを見ながら、宇和島まで足を伸ばした五人は夕食を食べたあと、家路を急いでいた。
日はとっくに暮れ、暗い山道には対向車の姿もない。
千夏をはじめ、地元組三人は朝が早かったせいか、暗い車内の後部座席で眠りについている。助手席には茜音。運転している雅春と旅の成果について話してた。
「いいんです。簡単に見つかるものじゃないって思っていました。逆に皆さんに気を遣ってもらって……。わたしの方が謝らなくちゃならないです……」
茜音は前を見つめた。集落を離れれば街灯などない。車のヘッドライトに照らされたところだけが視界だ。
「まぁ、ネット見てると、情報も色々集まってるようだし。まだまだ候補になる場所はあるんだろう?」
「そうですね。まだ行きたい場所はたくさんあるんです。それに菜都実と佳織がわたしがいない間にいろいろ調べてくれているみたいですから」
残っている二人が、ただ茜音の帰りを待っているわけがない。今回は突然のことだったので、一人での旅行となっただけで、夏休みの間は可能な限り探し歩くことを決めていた。その候補地選びは、留守番の二人に任せてある。
「茜音ちゃんは強いね……。それに比べて千夏は……。彼氏に告白も出来ないのか……?」
ため息混じりに小声で呟く雅春。
兄として、妹が幼なじみに気を寄せていることくらい、以前から分かっていたことなのだろう。一方で千夏が自分から告白できるようなタイプではないのを一番知っているのも雅春である。
「いいんですか?」
「いつまでも子供だって思っていたら、一人前に恋愛してたんだなぁ。でも、俺の初めての告白はもう少し早かったぞ?」
雅春は笑った。聞くと、彼にもお付き合いをしている女性はいるそうで、どことなく千夏に似ているのだそうだ。
「わたしは、初恋からここまで引っ張ってるじゃないですか?天然記念物だって言われますよ」
「千夏には、そのくらい頑張っていって欲しいんだ。今回の茜音ちゃんの話を聞いて、千夏に会わせてやりたいって思ったんだよ。今はどこにいるか分からなくなってしまった彼との思い出の場所を探すために、一生懸命になっている女の子がいる。それだけでも、今時の高校生には珍しいじゃないか」
「そうですよね……」
「千夏の性格のことは聞いたかい?」
「はい。少しですけど……」
茜音は眠りこけている千夏をちらっと見る。
「今は分からないかも知れないけど、千夏は本当におとなしくて、友達の輪にも入れなくて、いつも一人で遊んでいたんだ。遊び相手と言えば俺だった。でも、それじゃいけない。千夏にはもっと外を見て欲しい。自分の中に閉じこもるんじゃなくて、茜音ちゃんや和樹君みたいに外の空気を知っている人と付き合って成長して欲しい。このままじゃ千夏はなにも知らないつまらない子になってしまう。だから小さいときに和樹君が千夏と遊び始めたことをうちの両親は喜んだし、彼と付き合うことにも反対はしないのさ」
雅春が千夏の兄として、ちゃんと妹のことを考えていることに茜音は驚いた。
「わたしが参考になりますか?」
「俺達の町は本当に外部との関わりが少ない。正直さ、同じ町内で付き合おう物なら、たちまち知れ渡っちゃうよ。でも、千夏は和樹君のことが好きなんだろうし、和樹君もあの様子じゃ大丈夫だろう。あとは二人が堂々としていればいいんだが……、そこまでの強さはまだ千夏にはないだろうし。そこに茜音ちゃんがやってきたのさ。これは千夏の恋愛の先生になるってな」
ここまで言われてしまうと、茜音も笑うしかなかった。
「千夏ちゃんだって、恋してるんです。女の子って、恋すると強くなるんですよ?大丈夫。環境さえ調えれば、千夏ちゃんだってきっと」
「環境か……」
「そうですねぇ……」
「なぁ、茜音ちゃん。明日の予定なんだけど……、少し変更していいかな?」
雅春は何かを思いついたように尋ねた。
翌朝、茜音と雅春は千夏が起きる前に出発の準備を終えた。
「千夏、起きろ! いつまで寝てんだよ」
「えー、今日はゆっくりって言ってたじゃん?」
千夏はベッドの上に起きあがったが、目はまだ寝ぼけたまま。
「昨日、帰ってから出発時間変えるからなって言っただろ?もう二人とも準備できたって連絡あったぞ?」
「へっ!? ちょっとそう言うことは早く言ってよぉ」
千夏が慌てて身支度を整えている間、雅春と茜音は残りの二人を迎えに行った。
家に戻ってくると、千夏が恥ずかしそうに表で待っていた。
「ごめんね……。寝坊しちゃって……」
「いいって。学校じゃねーし」
「千夏とのデート、何回寝坊ですっぽかしと遅刻したっけか?」
「げ、おまえ何でそんなこと知ってんだよ?」
香澄のツッコミにあたふたとなる和樹。
「香澄、言っちゃだめだよ。もう怒ってないんだから」
この三人の会話を聞いているだけでも、三人が普段から親しい付き合いをしていることはわかる。
「和樹、あんまりのんびりしてると、千夏もって行かれちゃうからね?」
「な、なんだよそれ!?」
「だって、茜音ちゃんの話聞いてみなよ? すごいよ?」
「はぅ?」
急に話を振られてあわてる茜音。確かに、昨日の夜にそんな話をしたけれど……。
仕方なく、普段は「難攻不落の茜音」と言われてしまっている現状を話す。
「すっごい。そんな生徒うちの学校にいる?」
「まさか、そんなことになってるとは普通思わねぇよな」
和樹も苦笑する。自分たちの高校にもし茜音が転校してきたら、たちまち男子の注目の的になってしまうことは間違いないだろう。
「茜音ちゃんは意志が強いから、誰にも持って行かれずにすんでるけど……。この千夏じゃぁ……」
「なんだよそれ?」「なによぉ、香澄ぃ?」
お約束とも言うべきか、同時に非難の声を上げる二人。
「ほらほら、そう思うんだったら、ちゃんとはっきりさせときなさいって」
「え?」
車は昨日通った道を途中で折れ、南に下っていた。
川沿いの細い道を通って行き、ところどころで車を止めながら川下へ向かった。
「ところで、今日はどこに行くの?」
朝の騒ぎで、行き先など頭になかった千夏が、ようやく気がついて聞いた。
「本当は、川遊びするつもりだったんだけど、行き先変更した」
「茜音ちゃんはそれ知ってるの?」
「うん。行き先考えたのわたしだから」
「あ、そうなんだ」
千夏はそれ以上聞いては来なかった。
いつの間にか、川幅がかなり広くなっている。それでも、川沿いの雰囲気はそれほど近代化された様子もなく、家もまばらな地帯が続いていた。
「この場所が最後の沈下橋だ。これより下流はもう普通の川と変わらないよ」
もう昨日とは違い、景色を楽しむ余裕ができているので、ゆっくりと先を進めていた雅春が車を止めた。
「この川じゃなかったかぁ…」
全部を見終えたという感じで、茜音は呟いた。
昨日の夜、こっそり部屋を抜け出した茜音は横須賀の二人に電話をかけ、結果を報告していた。
「無駄足になっちゃったね。力になれなくてごめん……」
「ううん。一人でどうしていいか分からなかったんだけど、みんなに会えて、なんかようやく頑張らなくっちゃって思い直したよ」
茜音は首を振って、空を見上げた。真っ青な空にはほとんど雲も見られない。
「よし、お天気も味方してくれたぁ」
「え?」
「あぅ、独り言。さぁ、出発しよ。時間なくなっちゃう!」
まだ茜音がなにを考えているのかはっきり理解できていない千夏を乗せて、車は再び南への進路を取った。
千夏たちの住む高知県には2つの有名な岬がある。
東側には室戸岬、西側には足摺岬。どちらも観光地としては有名だけど、空路で高知入りをする場合、移動距離などの関係で、室戸岬に行く観光客が多いらしい。
昨夜も、茜音と雅春はどちらにするかの意見を交わし、時間的に余裕が持て、また静かな方をと考えて、足摺岬へと車を進めていた。
夏休みという時期柄、それなりの混雑も覚悟していたのにも関わらず、近くには砂浜の海岸も少ないためか、岬に近づくとかえって車の数は減っていた。
この岬は、太平洋の黒潮が初めて日本に当たる場所でもある。温暖な気候で、亜熱帯の植物なども育っている。
昨日のうちに、橋探しの結果が出てしまったため、本来なら千夏の家の近くで川遊びでもしようということになっていたのを、昨日の帰りの道中で予定を変更することになった。
その代わり、昼に使うはずだった食材を夕食に回すという条件になったので、早い時間に帰らなくてはならなくなってしまったけれど、このペースなら問題ない。
四国巡礼の拠点もあるだけに、海沿いの細い道にはお遍路さんと呼ばれる巡礼者の姿も見られる。そんな細い道を走り続け、ようやく駐車場にたどり着いた。
ここからの海の景色がきれいだと聞いていたので、胸を躍らせて車から降りる。
まず展望台に上った五人は、思わず息をのんだ。
「すごい……」
この日は早朝から雲もなく、青い夏空が広がっていた。その下に茜音が今まで見たことのないような、黒潮と呼ばれるに相応しいネイビーブルーの水面が水平線まで続いていたから。
「こんなに真っ青なのは滅多に見られないぞ。タイミング良かったなぁ」
「うん…」
誰となくうなずいた。茜音の地元も海を見下ろせる場所ではあるが、ここまでの色彩を見ることは出来ない。
「あぅ、カメラ車に置いて来ちゃった!」
茜音は車のダッシュボードにさっきも使っていたデジタルカメラを置いてきたのを思い出した。
「仕方ないなぁ……。じゃ車まで戻ろうか」
「んじゃあたしもトイレ行って来よう」
雅春と香澄がそれぞれ振り向いた。
「ちょっと、みんな行っちゃうのぉ?」
「千夏たちは好きに回ってろよ。2時間したら駐車場に集合な?」
「へ? でもぉ……」
きょとんとする千夏と和樹を残して、三人は駐車場の方へ戻っていった。
「……どうしよ?」
思いがけず二人になれたのだけど、何となく気まずくなってしまう。
「うん……。でも、ここに戻ってくるとは限らないから……。千夏、あそこに行かないか?」
「え? ……うん。いいよ」
少し声のトーンを落とした和樹の言葉に千夏はゆっくりと頷いた。
駐車場へ戻る道の途中で、茜音はちらっと後ろを振り返る。
「わざとデジカメ忘れてきたでしょ?」
「あうっ……」
突然香澄に言われ、冷や汗の茜音。
「ま、そんなもんだろうな。俺取りに行ってくるよ」
「あぁ……、バレバレ……?」
椿のトンネルの途中で、立ち止まる茜音と香澄。さっきの場所から二人の姿は見えない。
「まぁ、きっと千夏は気づいてないだろうねぇ。和樹は時々鋭いときがあるからわかんないけど……」
「逆に気づいてもらった方がいい?」
「そらそーか」
二人は顔を見合わせて笑った。
車に戻っていた雅春も戻ってきて、さっきとは違う通路に足を進める。
「そうだよなぁ……。二人だけになるなんて、いつもはできないし……」
香澄はぼんやりと海を見ていた。
「茜音ちゃん、悪いね……。千夏のこと……」
「いいんです。千夏ちゃんたち、ゆっくり話せる時間もなかったんじゃないかって思って……」
昨日、それぞれの気持ちを聞いた茜音。今日の行き先を決めるときに、なるべく地元から離れた場所を雅春と相談していた。
地元ではきっと無意識に素直に話すことも出来ないだろうと思ってのことで、茜音の経験からも、彼が自分に告白してくれたのは普段の場所ではなかったから……。
「茜音はきっと会えるよ……」
「ほぇ?」
「その彼にね。あたしがその彼だったら、絶対に離さないだろうなぁ」
香澄が茜音の頭に手を置く。
「あたし、千夏と一緒に祈ってるから……」
「うん。もし会えたら、祝ってくださいね?」
「当たり前じゃん! ねぇ、あの二人見に行ってみない?」
「のぞきかよ?」
「なぁに? 妹が他の男に告白されるの見るのがイヤ?」
香澄に言われてしまっては雅春も返す言葉がない。
三人は千夏たちが向かったと思われる海岸の方へ急いだ。
岬の灯台から15分ほど歩き、遊歩道の階段を下りきったところに、小さな海岸がある。
もう少し先に進めば砂浜もあるけれど、ここは岩場との中間で、砂利がうち寄せられている海岸。周りに人はおらず、二人は少し奥まったところにある岩に腰を下ろしていた。
「ここ、一緒に来たよね……」
「そうだな……」
「中学の時だったよね? バスの時間があったから全然景色も見なかったけど……」
「だって。景色を見に来たわけじゃなかったもん。あの時は……」
中学3年の夏。二人だけでここを訪れていたことを思い出す。
夏休みに入り、和樹の所属していた中学校は野球の最後の県大会で負けてしまい、3年生が部活を引退していたころの話だ。
「あのとき、まさか千夏が誘ってくれるとは思わなかったなぁ……」
「だって和樹、全然元気なくて、私がなに言っても相手にしてくれなかったんだもん……。無視されたって正直傷ついてたんだよ?」
当時のことを思い出したのか、少し拗ねた声を出す。
「そっか。ごめんな……。でも、千夏が誘ってくれて、親に黙って始発の電車とバス乗り継いでさ、海を見せてくれたんだよな……。帰って怒られたけど」
「うん。でも、あれから和樹元気になってくれたよね。誰にも話したこと無いんだ。あの日のこと」
千夏は笑った。二人きりで和樹を誘ってここまで来たのはいいのだが、帰りも相当な時間がかかる。
地元に帰ったのはすっかり暗くなってからのことで、二人はこっぴどく怒られたのだが、千夏はその後も和樹のそばにいてくれた。
なによりも和樹が驚いたのは、あの千夏が「どうして騒ぎを起こしたのか」と問いつめる兄の雅春に最後まで理由は話さなかったことだ。
「千夏、ごめんな……。もう、俺野球なんて出来ないの分かってるのに、そっちにばかり気を取られて……」
「ううん、いいんだ……。誰にも言ってないんでしょ?」
「知ってるのは親と監督と千夏だけだよ」
「うん、体をこわしちゃったらおしまいだもん。手遅れになる前でよかった……」
あの頃を思い出すように、千夏は和樹の右肘をなでた。
春の予選大会で、試合後に腕の痛みを訴えた和樹は、当時マネージャーだった千夏と監督と一緒に病院に向かった。
そこでの診断結果は、和樹にとってショックなものだった。これ以上続けていれば、骨折や故障が頻発し、状況によっては右腕を使えなくなることも予想されると……。
いわゆる蓄積疲労だ。学生時代という限られた時間の中では、それを回復させるにはもう時間がないということも宣告された。
悩んだあげく、和樹はその数日後に野球選手への道を断念した。それまで一生懸命に打ち込んだ物がなくなり、和樹は落ち込んでいた。
突然の彼の退部は周囲も驚いた。
腕のことを言えば、きっと同情してくれるかもしれない。でも彼はそれを最後まで漏らすことはしなかった。
最終的に自分で決めた道を、言葉だけで同情されてほしくなかったし、それで腕が治るわけでもない。
千夏も、そんな幼なじみを見ているのが辛くなり、後を追うように部活を辞めた。
事情を知らない周囲は、そんな二人のことをはやし立てた。
仕方なく、和樹は何度か腕のことを持ち出そうかと思った。そのたびに千夏は笑って首を横に振った。
千夏も和樹の腕のことはずっと後になるまで彼女の両親にすら言わなかった。
しかし和樹は、散々からかわれた後ひとり残された現場で悔しそうにしている千夏を見てしまった。
大切な千夏を守れない無力感だけが彼を襲っていた。
「ごめんな。千夏……」
「いいんだよ。あの騒ぎから私、男の子に声をかけられることもなくなったし……」
いつの間にか和樹と千夏は部活で風紀を乱したため退部という噂が流れ、男子ばかりか女子も声をかけなくなっていった。
それでも千夏は和樹が決めた男性のプライドを守り抜いた。
「千夏には2回も助けてもらったんだな」
「ううん、和樹には数え切れないくらい助けてもらったから……。よく川に落ちたし……」
「そうだったな。いつも『飛び込んだ』とか言ってたけどさ」
沈下橋から落ちたこと。でも、それは千夏の虚勢だということも分かっていたから、すぐに服を着たままでうまく泳げない彼女の近くに飛び込んだっけ。
「和樹が言ったんだよ。スカートになればもっと女っぽくなれるかなって。だから……」
「え? やっぱりあれからだったのか?」
「うん……」
頬を赤く染める千夏。
「和樹知らないかもしれないけど、いろいろ言われた……。いじめられたりしたよ。でも香澄がいてくれたし……」
「うん……」
「和樹が似合ってるって言ってくれたから……。和樹が好きな服を着てれば、きっと守ってくれるって思ったから……」
耳まで真っ赤に染めて、最後はつぶやくようになってしまった千夏の肩を、和樹はそっと抱き寄せた。
「なぁ千夏……?」
「ん?」
「これからも、俺が千夏のこと守ってやる……。いや、違うな……。もう千夏に辛い思いをさせたくない」
千夏は和樹の顔をじっと見つめた。見開いた大きな目から光る滴が頬に流れた。
「俺じゃ嫌……、か?」
「ううん!」
大きく首を横に振る。
「私……、和樹とお兄ちゃんしか男の人知らないから……」
すすり上げる千夏をぎゅっと抱き寄せる。
「和樹……。知ってると思うけど、弱虫だよ。一人じゃなにも出来ないよ……。そんなんでいいの?」
「そんな千夏だから放っておけないんだよ。もう千夏を泣かせたりしない」
「ありがと……。もう泣かない……」
「千夏……」
ささやくような声で、胸元で泣いている彼女の名前を呼ぶ。
「俺、千夏のこと、ずっと好きだった。だから誰にも渡したくなかったんだ。それなのに、ずっと言えなくてごめん」
「どこにも行けないよ。私……。和樹のこと好きだったから……」
赤くなってしまった目をこすり、恥ずかしそうに笑う。いつも子供っぽいとしか見ていなかった顔が、本当に可愛く見えた。
「腕が悪くなったら、千夏に迷惑かけるかもしれないぞ?」
「うん。それでもいい……」
柔らかい手が、そっと腕をなでる。迷惑をかけていたのは自分の方だから。
「ねぇ、誰にも取られないうちに、もらって……?」
千夏は隣で自分が映っている和樹の瞳に頷くと、そっと瞼を閉じた。
「なにはともあれ、これであたしの心配はなくなったわけだ」
「あーあ、とうとう千夏を持って行かれたか……」
「お兄ちゃん、恥ずかしいからそんなこと言わないでぇ」
暗くなった千夏家の庭先。昼に消費するはずだった食材をバーベキューにしての夕食。話題はひとつしかなかった。
「それにしてもひどいよぉ……。みんな見てたなんて……」
あの後、気がつくと雅春たち三人が階段の上から見下ろしているのが分かって、それこそ全身が真っ赤になってしまった二人を、みんなは歓声で迎えた。
後で気がついたけれど、三人が階段のところにいてくれたおかげで、他の邪魔が入らなかったということまで分かって、帰りの車の中では、香澄の突っ込みにただただ小さくなる二人だった。
「だって、あんたたち、ああでもしなくちゃ!」
香澄は大笑いだが、雅春は気にかけていた妹が新しい一歩を踏み出したことに、寂しさと安堵の混じった様子だ。
「でも、お兄さん、ずっと千夏ちゃんのこと心配してたじゃないですか?」
茜音に言われ苦笑するも、ちゃんと和樹に注文することも忘れなかった。
「千夏のこと、泣かすなよ?」
「はい。もし泣かしたら千夏はあきらめます」
「お兄ちゃん、和樹? 私が涙もろいの知ってぇー!」
「大丈夫。うれし泣きは加算しないから。ね? 香澄ちゃんという見張り役もいるし」
そう言った茜音の顔が少しゆがんでいたのに気づいたのは千夏だけだった。
「ねぇ和樹。千夏のファーストキスの感想は?」
「えっ! 言わなきゃだめか?」
全く前触れもなく襲撃した香澄に、和樹は全く防戦しようがなかった。
「そりゃぁ、千夏が大事にしてきたものをもらったんだもんねぇ。そのくらいは言えよ」
「おまえがもてないのが分かったよ……」
香澄以外が吹き出すと、和樹は顔を赤らめている千夏の手をつないだ。
「あれ、ホントにそうだったのか?」
「うん。間違いなく私のファーストキス。お兄ちゃんにもあげてないもん」
「そうかぁ、しょっぱかったぞぉ」
一人拗ねていた香澄も吹き出した。
「もう、雰囲気ぶちこわしぃー。和樹のバカぁー」
千夏は持っていたお皿を縁側に置き、もう一度和樹の前に立った。
「もうしょっぱくないから……」
千夏は少し背伸びをして、彼女の唇を和樹のそれに合わせた。
「茜音ちゃん、ありがとう……」
すべてを片づけ、雅春が二人を送り届けに行くと、あたりにはまた静寂と虫の声だけが残った。
翌朝の出発準備を済ませ、ぽつんと窓から外を見ている茜音。
お風呂から上がってきた千夏は、その背中に手をついて言った。
部屋を暗くして、窓を開けているので夏の天の川がきれいに見える。
「茜音ちゃんがいなかったら、きっと今日みたいに出来なかった。ありがとう……」
「うん。本当によかったね。わたしも嬉しい……」
千夏は茜音の声が震えているのに気がついた。
「茜音ちゃん?」
「今日はね、わたしと健ちゃんが離ればなれになった日なんだ……」
茜音は抱きしめていた写真を見せた。9年前の今日の日付がプリントされている。あの最後に撮ってもらった写真を見ながら、茜音は続けた。
「あの日は朝から何もしゃべれなかった。でも、健ちゃんが笑ってくれたから、笑顔で写ってる……」
茜音は自分とは違い、一番そばにいてほしい人の居場所が分からない。
千夏は喜んでいただけの自分を振り返って申し訳なくなった。茜音はこの旅行で自分の目的は達成できていない。そんな茜音が自分へのプレゼントをしてくれたのだから。
「茜音ちゃん泣いてる……」
「毎年、この日はいつも一人で素直に泣ける日。だから本当は誰とも会わないの。どんなに寂しくても、辛くても泣かないって決めてるんだ……」
さっき、和樹と雅春が千夏を泣かせないと言ったとき、茜音の表情がゆがんだのを思い出した。
「千夏ちゃん、和樹君と離れちゃだめだよ。もうわたしたち、自分で決めることも出来る歳になったんだ。わたしみたいなこと、しちゃだめだよ?」
「茜音ちゃん、きっと見つかるよ。茜音ちゃんも絶対に幸せになれるよ」
「頑張るね。きっと千夏ちゃんにいい報告できるようにするから」
「ずっとお友達でいてね。私、お友達少ないから……」
「うん。また遊びに来るから」
千夏は茜音をそっと手を握った。
その夜、千夏は再び茜音を自分のベッドに招き、涙ぐむ茜音をずっと抱きしめていた。