【茜音・高校2年・夏・四万十川編】
「あーあ、和樹ったら、結局来なかったじゃんかぁ」
高校の近くを流れる静かな小川のほとり。梅雨の明けた土曜日、午前中で授業が終わってから、河名千夏は何度と無くベンチの側の石をその小川に投げ込んでいた。
土曜の午後、人も少ない山間の小さな町では、静かな川のせせらぎだけが響き渡っている。
遠くの畑では、ときどき農作業の人が見えるくらいで、昼間の農村地区では、車が通ることすら珍しい。
「千夏ぅ。こんな所にいたのかぁ」
クラスメイトでもある乙輪香澄が周りの静けさをうち破って、河原の千夏に声をかける。
「なんだぁ、香澄かぁ」
「なによそれぇ? なに、また和樹との喧嘩?」
気のない千夏の返事に、ちょっとムッとした顔になる香澄。
すぐに自転車のスタンドを立て、千夏の場所まで河原を降りてきた。
「喧嘩じゃないけどねぇ……。今日電車で買い物に行く約束してたんだけどさぁ……」
この山間の集落から、日用品以外を手に入れようとすると、インターネットでの通販か、鉄道で街に出るしかない。
それも都会のように1時間に何本もあるわけでないから、時間を決めておかないと次は1時間後なんてことも普通にある。現地での滞在時間を延ばすためには、少しでも早く出発する必要があるのだけれど……。
「ははーん。さてはすっぽかされたな?」
「なによぅ! カヌー部の部室で野球の予選大会に釘付けなのは分かってるけどさぁ……。もうこんな時間になっちゃったら、今から行ってもすぐに引き返すことになっちゃうもん……」
「そうかそうか。それでも健気に待っていた千夏ちゃんはいい子だねぇ」
言葉は強気ながらもため息を付く千夏を見て、香澄はおかしくてたまらない。
「バカにしないでよぉ!」
「だってぇ、千夏見てると可愛くてさぁ。年にしては背もちっちゃいし、童顔だし、それに胸もないしねぇ」
「胸も無いは余計でしょぉー! そりゃぁ……、香澄から比べれば、私なんて見る影もないけどさぁ……」
最後の方は呟くようになってしまった千夏。
「めげないめげない。和樹君、それが可愛くて千夏のこといつも見てくれるんじゃない?」
突然、少し真面目な口調になって、香澄は千夏の顔を覗き込んだ。
「そうかなぁ……。幼なじみなだけだよ……」
さっきまでの怒った顔はどこに行ったのか。千夏の顔が寂しそうな表情に変わる。
「さ、遅くなると、家の人心配するよ。帰ろ」
「うん。そだね」
香澄に促され、力無く立ち上がる千夏。
「自転車取りに行かなくちゃ」
自宅から学校までの距離も長いので、大抵の生徒は自転車かバス通学。または県境をまたいでくる学生のために、学校から少し離れたところに学生寮も整備されている。
二人が通う高校自体も、本校は別の場所にあって、山間にある校舎は分校という名前が付いている。全校生徒も八十人程度というこじんまりとしたものだ。
「香澄、お待たせ」
自転車置き場から自分の1台を押してきた千夏は、校舎の方を一度振り向いてからペダルを漕ぎだした。
二人とも自転車に乗ってゆっくりと川沿いの道を川上に向かって走る。
小川は少し先に行くと本流に合流する。普段から見慣れてしまっているけれど、その本流は日本最後の清流と呼ばれる四万十川だ。
毎年たくさんの観光客が訪れるこの川も、千夏たちには、昔からの身近な遊び場という感覚でしかない。
「香澄ごめんね……。あたっちゃって……」
「いいって。でも、和樹は絶対に千夏のこと特別視してるって……」
「そうかなぁ……。香澄の時と態度違うよ?意地悪だし……」
「男の子ってそういうもんだと思うけどなぁ。きっと千夏可愛いから照れてるのかもしれないよ?」
「もう、またからかうんだからぁ」
香澄も千夏も、この山間の町では数少ない高校2年生。
街中の喧噪とは遠く離れたこの場所で、二人が出会ってからもう十年以上のつき合いになる。
二人だけではない、学校も少ないので、他からの合流も少なく、小学校の頃からみんな顔なじみになるのだけど……。
香澄は学年の中でも比較的流行を取り入れたがるような子で、髪型や、制服なども校則ギリギリにしているし、女性として恵まれた体格と、なによりもあっけらかんとした性格が周りから好かれている。
一方の千夏といえば香澄とは逆に、それこそ学校紹介のパンフレットからそのまま抜け出したような容姿をしている。
セーラー服のスカーフもきちんと前でまとめられている。
スカート丈も膝上10センチ近い香澄と、膝が隠れている千夏とでは、明らかにイメージも違った。
身長も150センチ程度の小柄で、肩まで掛かる黒髪と、その同年代よりも幼い顔が彼女の魅力でもあるのだけど、それに本人が気づいていない。
もっとも、彼女としては顔よりも女らしさが足りない身体の方に少々不満のようだけど……、こればかりはどうしようもない。
そんな対照的な二人は、小学校の頃に泣かされてしまった千夏に代わり、香澄がやりこめてくれたことから始まっている。それ以来、千夏と香澄は「実は姉妹なのでは?」と言われるほどの関係を築いている。
「でもさぁ、小学校の頃、千夏をいじめてたのも、その裏返しだと思うけどなぁ」
「そっかなぁ……。男の子なんて……」
「千夏はいいお兄さんいたからねぇ……。あんな人が目の前に現れたら、私コロって行っちゃうなぁ」
千夏には大学生の兄がいる。今は下宿をしているので一緒に住んではいないけれど、小さい頃から千夏の遊び相手であり、今でも良き相談相手だ。
「お兄ちゃんに比べたら、和樹なんて……」
「そりゃぁ、和樹が可哀相だよ。比較対照になってない! 千夏の初恋がまだ来てないのもそのせいかねぇ……」
「はぁ……」
またため息を付いてしまう千夏。彼女も分かっている。兄以外の男性となってしまうと、まだ親しく付き合える自信がない。
「千夏もそろそろブラコンから卒業しないとね」
「ブラコンなんかじゃないもん!」
香澄は千夏の頭をくしゃくしゃと撫で、
「さぁさぁ。今夜和樹に連絡しておくから、明日デートしておいでよ」
二人がそれぞれの家に別れる所で、香澄が振り向いて言った。
「いいってばぁ」
「まぁ、先は二人に任せるね。バイバイ!」
「うん、またね……」
一人になって、夕暮れになった道を自転車で急ぐ。山間の町は日が落ちるのも早い。うっかりしているとすぐに暗くなってしまう。
「もう……、香澄ったら……」
一人になると、やはり今日買い物に行けなかったことがちょっと残念に思える。ただ和樹との長いつき合いで、こんなことはしょっちゅうだ。
しかし、最近の彼女の中に生まれる気持ちが何なのか、はっきりと表現できない。
「千夏、なにぶつぶつ言ってんだ?」
自宅の前まで来たとき、突然後ろから声をかけられた。
「わ、お、お兄ちゃん!?」
「なにそんなに慌ててるんだよ」
庭先の車から、高知市内の大学に行っているはずの兄、雅春が顔を出した。
「お兄ちゃん、帰ってくるって言ってなかったじゃない?」
「俺も夏休みだし、一度とりあえず帰ってくることにしたんだ。それに……」
「それに?」
千夏の顔を見て、ふと思い出したように雅春が考え込んだ。
「いや、ちょっと千夏に相談したことがあってな」
「ふーん、変なの。まぁいいや、もうすぐご飯だと思うよ」
「俺もそう思う。早く自転車入れてきちゃえよ」
「うん」
千夏が納屋の軒先に自転車を置き、家の扉を閉める頃には、辺りはもう暗闇に沈んでいた。
「へぇ、じゃ最初は四万十川なんだ」
「うん。今のところね。むこうで案内してくれるって。写真も何枚か送ってくれたし」
「あたし、四国は行ったことないんだよなぁ……」
ウィンディでの昼下がり、ランチタイムも終わり、店の中に残っているのも少しばかりの常連さんとなったので、茜音、菜都実、佳織の三人は奥のテーブルで遅いランチにしているところだった。
テーブルの上には、佳織が持ち込んだタブレット端末が置かれている。
先日の佳織の即席工事のおかげでウィンディの店内でも無線LANが使えるようになって、どれだけ写真をダウンロードしても通信費は気にする必要がなくなった。
「案内って、自分で動ける感じじゃないんだ。その辺はどうなの?」
「んー。残念だけど、私たちが勝手に行って勝手に帰ってくるわけには行かなさそう」
「なんで?」
菜都実の質問に、佳織は画面をタップすると、ブラウザの画面を見せた。そこには四国のバス路線などが表示されている。
「この通り、この辺なんかと違って、電車もバスも多くないんだよ。しかも茜音が行きたいような条件の場所には路線すらあるかどうか……。鉄橋だから鉄道はあるにはあるんだけど、それも1時間に1本あるか。あちこち途中下車したら山の中で野宿しなくちゃならなくなるのは確実ね」
「ありゃー」
菜都実は小さい頃からあまり地元から離れたことがないと言っていた。
まだ車を運転できない彼女たちにとって、電車やバスは大切な交通手段。それが無い場所にはあまり縁がなかったのだろうが、少し地方に行けば、車がないと全く身動きがとれない場所はいくらでも存在する。
「これじゃぁどうしようもないね……」
肩をすくめる菜都実。彼女一人だったら、そんな場所には絶対に行きたがらないだろう。
「まぁ、それで情報提供してくれたお兄さんが案内してくれそうな話にはなっているんだけどねぇ」
「ほぉ?」
そこで、茜音は発端を話してくれた。彼女が登録してあるSNSでの情報を集めてしばらく、あちこちからの情報が集まってきた。
関東近辺から、北は北海道、南は九州までと場所は様々。とてもではないが一度に全部行ききれるような数ではないし、全部を回っていたら、あと1年では足りない。
そこで可能性が高そうな所に狙いを絞ることにしていた。
東京近辺で、彼女たちがすぐに行けそうな場所は既に夏休みに入ってからの数日を使って回っていたが、それらしい物は見つけられなかった。
結果として、茜音も自分が住んでいる周辺でなさそうだと言うことは分かってしまったのだけれど……。
そこで、渓流の多い、また橋も多い地区を調べていくと、いくつかの候補に絞れそうではあったものの、そのどれも茜音がすぐに日帰りで行けるような場所ではない。
最初に決めた、高知県、四万十川周辺もその1つだった。たまたまその話を読んでいた高知市在住の大学生のお兄さんが案内役を引き受けてくれるということで、今回の出発が決まった。
「そっかぁ。あたし達も行きたいけど、ちょっと急だったね……」
「そうだねぇ。もう少し早く決まれば良かったんだろうけど……」
「茜音、気を付けなよ? メールだけじゃ人なんて分からないんだから」
菜都実の言うことにも笑ってばかりはいられない。残念ながらネットを介する犯罪も多いだけに、情報を鵜呑みにするわけには行かない。
今回の話は、茜音も何度かやり取りをして、状況を考えた結果問題なさそうだと決めたことだった。
「何か分かったら連絡するから。心配しないで」
「そうよ、茜音は修羅場くぐり抜けてきてるんだから、大丈夫だって」
「あぅ、なによそれぇ?」
そんな二人に見送られ、茜音はその週末、朝1番の飛行機で高知へ飛び立った。
「暑いねぇ」
「そうだなぁ」
「まだ来ないのかなぁ……」
「着くの早すぎたからなぁ……」
出迎える飛行機の時間が10時頃ということもあり、朝早く自宅を出発した千夏と雅春だったが、思っていたような高知市内の渋滞に巻き込まれることもなく、予定の時間より1時間も早く到着していた。
夏休みの高知竜馬空港の1階の到着ロビーは、地元への帰省客で普段よりも数倍混雑する。
出迎える側も人数が増えるので、顔を合わせたことがない同士を見つけるというのも難しい話ではあるのだけれど……。
羽田との便は通常時期で8往復程度。混雑時に10往復程度だから、ある程度落ち着けば探し当てることは出来ると経験上では分かっていたけれど。
雅春は、今日横須賀からはるばるやってくる少女がくれたメールのプリントを見た。そこには、便名や、彼女の特徴などが書いてあった。SNS上で顔はもう分かっているし、なるべくその写真に近い服装で行くと結ばれている。
「お兄ちゃん、どんな子かなぁ……。横須賀から来るんでしょう……?」
「そんなに心配する程じゃないよ。スマホで写真見せただろ?」
「うん……」
妹の千夏には周りも心配するほどの人見知りの癖がある。とりわけ同世代の子にその傾向があった。
田舎ののんびりした空気の中で育ってきた千夏には、中学校の修学旅行で行った都市部の空気やそこの雰囲気になじむことがどうしても出来なかった。
それに、その時に会った同年代の子たちとの出会いが、あまり良い物ではなかったというのも、彼女のその問題を助長してしまった。
そんなことで、兄から横須賀から訪ねて来るという女の子を案内の手伝いを頼まれたとき、素直にはうなずけなかった。
「そういう子じゃない」と説得され、半分仕方なく空港までやってきたのだ。
「この便だな……」
また1本、羽田からの便の到着が表示される。出迎えと帰省客のごった返す中で、二人は目的の人物を探すことになった。
「お兄ちゃん、あの子かなぁ?」
千夏が兄のシャツの袖を引っ張る。
「お、そうかもしれないな。ちょっと待ってろ」
「私も行くぅ」
到着のロビーから待合い室へのガラスの自動ドアを出たところで、高校生くらいの少女が一人、誰かを待っている様子だった。
「片岡……さんですか?」
「え? は、はぃ。あ、よろしくお願いします。片岡茜音です」
突然話しかけられて、びっくりした様子の彼女は、すぐに状況を理解したらしく、頭を下げた。
「高知まではるばるお疲れさまです。河名雅春です。こっちは妹の千夏。おい、おまえも挨拶しろ」
「あ、あ、うん。千夏です……。初めまして……」
千夏は慌てて答える。
『似ている』が千夏が思った茜音の第一印象だった。
空港の前の駐車場まで歩いていくとき、千夏の不安が少しずつ抜けていくのを感じた。
千夏が恐れていたような、千夏流「都会の女子高生」というイメージは茜音には全く当てはまらない。
身長も自分とほとんど変わらない。黒髪をストレートに下ろし、左右のこめかみを中心に細い三つ編みを垂らしている髪型。服装だって、オフホワイトの半袖ブラウスにマリンブルーのフレアスカート。三つ折りにしたレースソックスにキャンバス生地のスニーカー。比較的幼げな印象のする千夏と並んでも遜色がない。
都会の雰囲気どころか、これなら地元に戻っても浮いてしまうことはないだろう。
千夏は、茜音を出迎えるように言われたときに、「横須賀の高校生」との情報だけで、違うイメージのレッテルを貼ってしまったことを、心の中で詫びた。
「そうなんですかぁ。それじゃ千夏さんの気持ち分かりますよ。確かにそういう子もたくさんいますから」
空港から車に乗って、千夏の「都会の子嫌い」話を聞いた茜音は、苦笑いして答えた。
雅春が驚いたのは、行きの時のように助手席に座るのではなく、千夏が後部座席に茜音と並ぶように乗り込んだこと。
口には出さなかったけれど、SNSで茜音を知ってから、「この子なら千夏を変えられるかもしれない」という直感が外れていなかったと確信した。
「でも、茜音さんみたいな服装している子って少なくないですか?」
「うーん、そうだねぇ。あまり多くないと言えばそうかも……」
「やっぱり……。いじめられたりしません?」
「そんなことないよぉ。あと、あんまりそういう場所が悪いところには行かないから。それに、わたしはそういう流行にあまり興味ないし……」
茜音の友達の中には、菜都実のように比較的流行に敏感な周りも多いけれども、茜音は昔からあまり流行りと関係ない服装をしているので、それが逆に目立ってしまうこともある。
ただ、彼女は別に構わないと思っていた。
「あとねぇ、流行に流されちゃうと、みんな同じになっちゃって面白くないもん」
「そっかぁ。お兄ちゃん、私もそう考えればいいよねぇ?」
「そんなのは千夏の好きにすればいいだろ?」
「うん、でもぉ……」
呆れたような雅春と、だだをこねるような千夏の会話を聞いているうちに、茜音が吹き出しを堪えられなくなったようだ。
「なぁにぃ? そんなにおかしいかなぁ」
「ううん、ごめんなさいっ……。いいなぁって。わたし一人っ子だから……」
事故後も病院や施設、片岡家に引き取られてと、物理的に完全な一人きりになることは少なかったけれど、やはり家族を失ったという事実は、彼女の心の中に影を残している。
ときわ園に入ったときにも、なかなか心を開くことが出来ず、よく寂しくなって泣いていたものだ。
「これで、もう少し女っ気が出ればなぁ? ちっとはもてるだろうに……」
「これで何が不満ないのぉ?」
茜音だけでなく千夏もどちらかと言えば、最近人気の流行とは服装も体型も違っている。服装は変えられるけど、体型はどうしようもない。これは望む方が無駄な話だ。
空港から約3時間。三人を乗せた車は、千夏の家のある、山間の集落に到着した。
「なんも無いところだけど……、我慢してね……」
千夏が少々申し訳なさそうに呟いたけれど、茜音は首を横に振った。
やはり彼女の家は都会であり、常に人工物に囲まれているし、自動車の音も絶えず聞こえてくる。
しかし、ここでは三人が乗ってきた車を降りてしまえば、聞こえてくるのは川のせせらぎと、セミや鳥の声だけだ。
「なんか、こういうところだと嫌なことみんな忘れられそう……」
「でも、それはたまに来るからだよ……」
それは千夏から漏れる本音。人間というのはときどき違う環境に憧れるものだ。都会に住む者は田舎の暮らしに憧れるし、逆もしかりだ。
「そっか……。でも千夏ちゃんはどうなの? ここの暮らしは嫌?」
「うーん。私はどうなんだろう……。大好きって訳でもないけど、今の私には都会暮らしはきっと出来ないよ……」
生まれてからずっと育ったところに愛着のない者はいないだろう。何もないところだけれど、千夏はこの場所が嫌いではなかったから。
「よかったら、川の方行ってみる? なにもないけど、景色だけは保証できると思うよ」
まだ夕食の時間までは少し時間がある。茜音に対する警戒心が解けていた千夏が誘ってきた。
「うん、おねがい!」
二人はもうすぐ夕焼けに染まり始める道を河原に急ぐ。
「ここだよ。と言っても川しかないけどね……」
「うわぁ……」
目の前に広がる風景に茜音は言葉を失った。
木立の間を抜けると、そこは急に少し開けた場所になっていて、さっきから聞こえていたせせらぎを発している川が現れる。
川をはさんだ反対側にも畑があるから、軽トラックが通れるほどの幅の簡単な橋が渡されている他は何もない。
茜音が住む横須賀ではもう見ることが出来ない自然のままの河原だった。
水は澄み、涼しげな音を立てて流れている。夕方でなければすぐにでも裸足になって足を浸したくなるような魅力がある。ここに菜都実がいれば一番にはしゃぎ出すのではないだろうか。
さすが四万十川に注ぎ込む支流の一つと言うだけあり、濁りはほとんどない。川底まできちんと見える川を見たのは「あの日」以来だったように思える。
「もう少し下ると本流とぶつかるの。まだ上流だから写真で見るような広い川じゃないけどね」
茜音は川面を見つめたまま黙り込んでいた。
彼女の記憶にあるあの場所とは確かにここは一致しない。それでも、この川の流域であれば、もしかしたら見つかるかも知れないと期待をさせてしまうような雰囲気がそこにはあった。
「茜音ちゃん?」
千夏に言われてハッと現実に戻ってくる。彼女が心配そうに見つめてくれていた。
「ご、ごめんね。なんか懐かしく思えちゃって。でも、ここに来たことはないはずなのに」
間違いなくこんなに遠くまで来たとは思えない。もちろん景色も違う。でも……。
「河原の景色で綺麗なところは他にもたくさんあるよ。同じような景色だから。でも、私にはここが一番気に入ってる。小さい頃はよく真っ暗になるまで遊んで、気がついたら怖くなったときもあったよ」
「そっかぁ。少し山奥に入れば関東でもこういう場所はあるけれど、みんな違った……」
これまで少しずつ訪ねていた場所は、昼間が多かった。
そう、あの日はこのくらい薄暗くなるまでふたりでいろいろ話していたのだと。そのイメージが離れずに脳裏に残っている。
「茜音ちゃんの場合は普通の場所じゃダメなんでしょう?この辺は川の周りが高くないからあまり大きな橋はないんだよ」
「はぅ? どうしてそれを……?」
「お兄ちゃんから茜音ちゃんのこと聞いてるよ。私、最初はそんなこと真剣に考えてるって変な子だなって思っちゃった。でも、茜音ちゃんを一目見て変わった。この人だったらお兄ちゃんの言っていたことも本当かも知れないって」
「千夏ちゃん……」
「ごめんね。でも、都会の人っていうのと、まさか恋愛小説にあるような事を本当に思い続ける人がいるって、最初は信じたくても信じられなかった……本当にごめんなさい」
真剣な顔で頭を下げる千夏。その手をそっと握る。
「謝らないで? わたしも言われるよ。茜音は珍しいって。でも、あと1年で約束の日が来ちゃう……。今時変だと思うよ? 10年も前の約束を信じてるって……。でも、わたしにはそれしかなかったから……。他に何もなかったから……」
そこまで言うと、茜音は口をつぐんでしまった。
「茜音ちゃん、もう暗くなるよ。帰らなくちゃ」
何かを思い出し、耐えるような表情をしながら固まってしまった茜音を見かねて、千夏はそっと声をかけた。
夕日が山の向こうに沈んでしまうと、周囲は急に暗くなっていく。
横須賀では夜になっても家の窓から漏れる光や、店の明かりがそこらじゅうにあるから、夜でも周囲は十分に分かる明るさがある。
ここでは車道の所々に街灯がぽつんとあるだけで、それ以外は本当に真っ暗になってしまう。
二人が千夏の家に向かう道は、あぜ道に毛が生えた程度のものなので、もちろんそんなものはない。
「こんな暗くなるんじゃ、やっぱり怖い?」
「今は平気。小さい頃は怖かったかな。慣れれば星明かりとかでも歩けるよ」
まだ夕焼けの名残がかすかに残っているので、完全な暗闇にはなっていないけれど、女の子二人だけでは何かと不安もあるので、走り込むようにして千夏の家に着いた。
「千夏ぅ、こんな暗くなるまでどこ行ってた?」
「げぇっ、香澄どうしてここにいるん?」
玄関の前で、千夏たちを待ちかまえていたのは、仁王立ちになっていた香澄だ。
さっき車から降りたときにはいなかったはずだから、二人が川辺に行っているうちに、タイミングを見計らって現れたのだろう。
「都会嫌いの千夏が、余所から来た子に会うって聞いたら、どんなのか見たくなっちゃうじゃない!」
「失礼だよ香澄! 茜音ちゃんごめんね……。私の周りこんなのばっかだから」
申し訳なさそうな千夏だけど、そこは同い年でもあるし、普段の茜音の周りも負けてはいない。
それに突然の出来事への対応力は経験からしても茜音の方が上だ。
「千夏、早くお客さんをお部屋に通してあげなさい。和樹ちゃんも来てるんだから、早く手伝っておやり」
「え? 和樹も来てるの……?」
その名前を聞いたとたん、一瞬固まる千夏。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない。ちょっと待っててね」
玄関の上がり口に茜音を待たせ、千夏は勝手口へと消えていった。
「千夏、まさか来てるとは思わなかっただろうなぁ……」
ぽつんと一人残された形の茜音の側に、香澄が苦笑しながら座った。
「さっきはごめん。千夏、ほんと人付き合いが苦手でさ……。実際どうなったのか心配だったんだ」
「そうだったんだ……」
千夏が一度顔を出し、香澄に茜音を自分の部屋に案内するように頼むと、また消えてしまった。
「千夏が初対面の人とあんなに話せるようになるなんて、ちょっと驚きだったなぁ。きっと和樹もそれが気になって押し掛けてきたに違いないんだけど。でも、なんか心配して損しちゃった」
茜音を見て不思議そうに言う香澄だったが、それは香澄がいつも千夏のことを気にかけている証拠だと理解できる。
「あの、和樹さんって誰なんですか?」
2階の千夏の部屋の片隅に荷物を置き、彼女が呼びに来るまでの間、香澄にさっきの様子を話して聞いてみた。
「和樹? 千夏の彼氏だよ。彼氏って言っても、幼なじみだからお互いそんな意識は全然してないみたいだけどね。いい奴だよ」
「そうなんですかぁ……。千夏ちゃんいいなぁ……」
茜音が言いかけたときに、下の階から『夕ごはんできました』と千夏が呼ぶ声が聞こえてきた。
夕食後、千夏兄妹、香澄、和樹、茜音の五人は千夏の部屋に集まった。
それぞれの自己紹介のあと、茜音を除く四人は彼女の計画について詳しい話を聞きたがるのは自然の流れだ。
「もちろんいいよ。じゃぁ、話すね……」
声を一段小さくして、茜音は言葉を続けた。
「……この中で、もう12年前に起きた飛行機の事故を覚えてる人っているかな……?」
雅春を除けば、全員が当時5~6歳だから、覚えていなくても不思議ではなかった。
「確か、山の中に墜落した奴だな……。助かった人がほとんどいなかったって……」
雅春はそこまで言うと、千夏の部屋を飛び出し、しばらくして古いスクラップ帳を持ってきた。
「親父のが残ってた。大事故だったからな。どの新聞にも大きく取り上げられて、テレビじゃそのニュースしかやってなかったってのだけは覚えてる」
車座の中心でパラパラと古い新聞記事を見ていくうちに、全員の目があるところに集中した。
茜音が辛そうに目を伏せる。
「わたし、その時に助けられた一人です……。お父さんもお母さんも、わたしのことをかばって助かりませんでした……」
「まさか……。生存者に佐々木茜音・6歳ってあるけど……、それが君なのか?」
「はい……」
かすかに頷く茜音が、他の四人には本当に小さく見えた。
「片岡の姓は、今の両親に引き取られてからです……。その事故でわたしは家族も全て失ってしまいました……」
そのあとの話を彼女は続けた。失語症になったこと。病院での生活から、児童福祉施設に移ったこと、そして健と約束を交わしたあの最後の日のことも。
「さっき千夏ちゃんに、これしかないからって言ったよね? わたしには他に信じる物が残っていなかったんだよ……。わたしに残っている物なんて何もないから……」
無言で聞いていた四人は、すぐに返す言葉がなかった。
「ごめんなさい。でもね、その約束のおかげでわたし、一人でも9年なんとかやってこられた。結果はどっちでもいい……。ただ、確かめたいの……」
「こいつは……、想像以上に深い話だなぁ。見つけださなくちゃ」
それまで黙っていた和樹も思わず唸る。他の三人も一同に頷くしかない。
「あ、でもすぐに見つかるとは思っていません。覚えてないわたしが悪いんだから」
「そっかぁ。それで一番最初に来たのがここだってわけ?」
「川の上から下まで見て行かなくちゃね」
「まぁまぁ慌てるな。さっきの茜音ちゃんの話だと、ある程度場所絞れそうじゃないか。千夏、下から地図もってこい」
千夏が1階から道路地図を抱えて戻り、五人は高知県の山間のページを覗き込んだ。
「茜音ちゃんの話だと、あまり下流の方じゃないって事が分かる。四万十川沿いで鉄道って言ったら予土線で窪川くらいまでだから、そんなに場所は多くない。ポイントは絞れるさ」
自分の車で走り回ってるだけのことはある。話を聞けば、明日回るその場所では、途中千夏の家の周りよりずっと山奥になり、人家さえも少なくなってしまう場所だという。
「そんな場所なんだぁ……」
「明日は早いぞ。二人もついてくるんだろ?」
こんな話を聞いて、最初から同行する予定の千夏はともかく、和樹や香澄の二人が黙って留守番をしているわけがない。
翌朝の再会を手を振って約束した二人を雅春が車で自宅まで送り届けている間に、茜音と千夏は先に休むことになった。
「茜音ちゃん、また謝らなくちゃね……」
「ほえ?」
本当は客用の布団も用意してくれていたのだけれど、千夏は茜音を彼女のベッドに招いた。
「だって、茜音ちゃんの話、聞けば聞くほほどすごくって……。それなのに、なにも知らないで私ったら……」
「え? 全然謝ることじゃないよ。それにわたし、自分のことをそんなふうに思ってないもん。必要なことなんだって思ってる」
「そうなの?」
「それに、連絡がとれないくらいに離れたから、わたしの気持ちが変わらなかったんだと思う……。わたしの見た目が昔から変わらないのも、そういうのがあるんだよね……」
茜音の外見は、身長こそ大きくなっているものの、服装の趣味や髪型などは当時から大きくは変えていない。
育った環境もあるけれど、やはり茜音の中では当時と変わってしまうことによって、あの日が風化してしまうことを避けたいというのが根底にある。
「そうなんだぁ。やっぱり意識してたんだぁ。そうだよねぇ……」
考え込む千夏。茜音はふと帰りがけに香澄が言い残していったことを思い出した。
「ねぇ、千夏ちゃんは和樹君との事はどうなの?」
「へっ? な、なによぉ!?」
突然自分のことに話がふられてしまい、薄明かりの中でもはっきり分かるほど千夏は動揺している。
「ごめんごめん。でも、幼なじみなんだよね……。いいなぁ……」
「そうかなぁ。いつも邪魔くさくいるから、茜音ちゃんみたいな思い出なんかないよっ」
ぷいとそっぽを向いてしまう千夏。本人が気づかないだけで、茜音には千夏の気持ちは十分に感じられた。
彼が現れてからの千夏は、本人としては周りに気づかれないようにしているものの、どこかわざとよそよそしくしている。
きっと気付かれていないと思っているのは本人だけだろう。
「わたしは……、もう幼なじみも誰も今はいない……。だから、千夏ちゃんが羨ましいな……」
「茜音ちゃん……」
さっき、自分のことを語ったときの茜音のことを思い出すと、千夏にはなにも言えなくなってしまう。
「私だって、和樹のことは気になってるよ……。でも、そう言う雰囲気じゃないんだぁ……」
「そう?」
「うん。だって幼なじみってそう言うものじゃない? 彼氏とか彼女って雰囲気にはならないもん……」
つきあいが長くなればなるほど、いわゆる恋人という雰囲気から外れていってしまうというのは良くあることで、それが幼なじみとなればなおさらかもしれない。
「そうだったなぁ。でも、お互いそれがなんとなく分かるってものだと思う。健ちゃんともそんな感じだったなぁ……。好きとか嫌いじゃなかったよ……。家族だったな……」
文字通り、突然のことで肉親を失った茜音には、彼の存在はまさしく家族だったから。
「そっか……。私も和樹とそんな感じになれればいいな……」
しばらくして千夏がそう答えたとき、早朝からの長旅だった茜音は静かな寝息を立ててしまっていた。