そう、もう一人ぼっちに戻りたくはない。それが千夏の偽らざる心の声だ。
「ほら……。その気持ち、和樹君に正直に話せばいいんだよ。和樹君だって同じこと考えているのかもしれないし? それが聞けるのは千夏ちゃんだけだよ」
「茜音ちゃん……」
「わたしのいい先生になってねぇ……。うちはもっと大変だよぉ……。10年間の音信不通なんだから……。10年を取り戻すって大変なはずだから……」
いつも一緒にい続けた自分たちと、10年のブランクを超えていかなければならない茜音とでは状況はかなり違うことになるのは間違いない。
それでも、同い年で性格も似ている自分なら、茜音の手助けができるかもしれない。それが自分と和樹を結び付けてくれた茜音への恩返しになると千夏は考えている。
「茜音ちゃん……、私和樹にもう一度聞いてみる。ちゃんと聞かないでこのままいつまでも嫌な思いでいるのいやだもん」
「そうだね。きっといい返事が返ってくると思うよ。わたしが思ったとおりの和樹君なら」
「うん。ねぇ、さっきのところもう一度行っていいかなぁ? 考え事して気絶しちゃったからあんまり楽しめなかったから……」
ようやく千夏に笑顔が戻る。まだ地元に帰るための余裕は十分に残っているのを確認し、二人はもと来た道を戻ることにした。
その夜、千夏は茜音の家の近くの公園で自分の携帯電話の見慣れた番号を選択した。
「もしもし……」
コール音が消え、電話はつながっているものの、返事の声はない。
「もしもし……、千夏です……」
それでも声は聞こえてこなかった。
諦めて電話を切ろうとしたとき、
「本当に千夏……?」
小さな声が聞こえた。わずか2日ほどの間しか開いていなかったのにこれほど聞きたかった声。
「うん……。河名千夏です……」
声の主はようやく安心したようだった。
「今どこにいるんだ?」
「茜音ちゃんのおうちでお世話になってる……」
「そうか……。元気なんだな?」
ようやく普通の口調に戻る。
「ごめんなさい……。心配かけて……」
「こっちこそ、ごめんな……。千夏の気持ち、気づいてやれなくて……」
千夏の膝から力が抜けていく。大丈夫。自分たちはまだ先に進むことができる……。
「もう……、ダメかと思った……」
「違うんだ千夏。今から大切なことを話すけどいいか?」
「うん? 香澄のこと?」
「そうだ。だだ先に断っておくけど千夏が想像しているような内容じゃない。もっと真面目な話題だ。話しても大丈夫か? それとも聞かない方がいいか?」
和樹なりの心遣いだとわかる。
自分が想像している話題ではないということはもっと深刻なことなのか。
逆にそれを知らずに香澄とこれまでと同様に会話ができるか……。
「他の人は知ってるの?」
「千夏が飛び出していったあと、誤解していた連中には香澄が直接話している。だから、逆に知らないのは千夏だけだ。香澄からは千夏に話すかは自分に任せると言ってもらえている」
「分かった。何が起きていたのか、最初から教えてほしい」
「よし、じゃあ落ち着いて聞いてほしい……」
和樹は千夏を落ち着かせるように、ゆっくりとしゃべりだした。
あの夜の電話から2日後の朝、茜音は千夏を伴って羽田空港の到着ロビーを訪れていた。
「ごめんね。わざわざ来てもらっちゃって……」
茜音の家からも横須賀土産をもらい、空港でも迷惑をかけたことへのお詫びにと買い込んだ。
「いいの。そんなの気にしない!」
ロビー内に設置されている大型スクリーンの中で高知からの便の到着を知らせるアイコンが点滅する。
「きっと荷物も何も持ってないよ。折り返しの便ですぐに帰るって言ってた」
千夏が見せてくれたのは、帰りの二人分のチケットの写真で、和樹の到着予定時刻から2時間ほどしかない。フライトの便名から折り返しとして設定されているものだと分かる。
「そうなんだぁ。本当に飛行機で迎えにくるなんて頑張るねぇ」
「茜音ちゃんに比べればそのくらいやってくれなくちゃ」
「あんまり無理させたらかわいそうだよぉ」
口は動かしながらも、二人の目は乗客が降りてくるゲートに釘付けになっている。
「あっ……」
茜音が気づいたときにはすでに遅かった。
それまで持っていた荷物を足元に落とし、千夏は人ごみの中を走り抜けていく。
「和樹ぃ……」
茜音がその場にたどり着いたとき、千夏は和樹にすがりつくように涙をこぼしていた。
「ごめんなさい……。心配かけて……」
「いいんだ……。あ、茜音ちゃん……。今回は千夏が迷惑をかけました。すみません」
久しぶりに二人そろっての様子を見た茜音は、ようやく胸のつかえが取れたような気がした。
「やっぱり、大丈夫だったねぇ……。今回はみんないい勉強になったんじゃないかなぁ……」
「そうっすね。ところで、もう少し落ち着いたところはないのか? いくらなんでもここは目立ちすぎるぞ……」
外国の映画のシーンならまだしも、やはりこの再会シーンは和樹に少々恥ずかしさもあるようだ。横を通り過ぎる通行人も、そんな空港ならではの微笑ましい光景には寛容ではあるけれど。
10分後、三人は展望デッキの端にいた。逆に目立つのではないかと思った和樹だが、茜音に案内されてみて納得する。都内でも有数のデートスポットと紹介されるだけに、少しぐらい千夏が気持ちを表したところで目立つことはない。
「そうそう。出発直前に連絡もらったんだけどさ……、香澄のこと」
「あっ……」
千夏の顔が強張った。先日の電話の後、千夏は泣きそうな顔で茜音の部屋に戻ってきた。
慌てた茜音が千夏を落ち着かせてなにがあったのかを聞くと、和樹から聞いた話の内容が、この春休みにも香澄が引っ越してしまうかもしれないというニュースだったから。
結局、今回の騒ぎの発端はそれが原因だったとハッキリした。
まだ未確定の話だったし、香澄も気にかけている千夏のことも含めていろいろ和樹に相談をもちかけていたのを千夏が誤解していたことが今回の騒動に発展したということが分かったからだ。
「結局は、私の空回りだったってことなんだよね……」
申しわけなさそうに和樹に顔を伏せる千夏の肩を持って、茜音は首を横に振った。
「どんなに仲がよくても、ボタンの掛け違えは起こるよ。でも、和樹くんが迎えにきたってことは、わたしが心配することもなかったんだね」
どんなに虚勢を張ったところで、茜音には見透かされてしまう。
千夏だけでなく和樹も茜音とは初見ではない。二人ともそれは分かっているようだ。
「それにしてもひどいよぉ……。そんな大事なこともっと早く話してくれればよかったのに……」
千夏の言うことももっともで、ちゃんと話してくれれば彼女もここまでの騒ぎを起こすことはなかっただろう。
「まだ確定していないから話せなかったんだとさ。それで、今日の速報として、少なくとも春までは引っ越さないことが決まったそうだ。弟が中学3年の受験の時期に引っ越してなんかいられないってことらしくてな。春になれば高校も確定するだろうし、でも今度は香澄が受験生ってことで……。その後のことはまたそのときに決めるって言ってた。これを千夏に伝えてくれって」
「そうなんだ……。またバラバラになっちゃうね……」
それでも寂しそうに言う千夏。香澄は同級生でも古くからの千夏の味方であり、一緒に苦楽をともにしてきた仲だ。
「千夏に悪かったって言ってくれって。高知の方には香澄も来てるからさ」
「へ? そうなん?」
今日のスケジュールは、朝の便で和樹が千夏を羽田空港まで迎えに来て、千夏を連れて帰るという少々ハードなスケジュールだった。
茜音が空港まで見送るのは確定していたのだけど、当初は千夏が一人で帰るはずだった。しかし、突然和樹が上京、千夏を迎えに来るというプランに変更されたのだという。
「方向音痴な千夏だからな。変な飛行機に乗っちゃわないか心配だし……、無理やりにでも連れて帰る必要があったから……」
「え?」
思わず和樹を見上げる。彼はやさしく笑っていた。
「千夏が飛び出してからさ、ほとんど寝れてないんだ……。この間の電話でようやく一晩寝れたけど、結局昨日もだめだった。千夏が近くにいてくれないと、俺、ダメみたいだ……。情けないけどな……」
「ね、千夏ちゃん。心配要らないって言ったでしょ?」
茜音はそれだけ言うと、二人からそっと離れて自販機が並ぶコーナーへと歩いていった。
そんな茜音の後ろ姿を見送りながら、「あーあ」とため息をつく千夏。
「茜音ちゃんはなんでもお見通しだね……。心配かけてごめんなさい……。帰ったらマッサージでも膝枕でもなんでもしてあげる。あそこで和樹の寝顔見るのまたできるから……」
二人が高校に入ってから見つけた息抜きの場所。日曜日など勉強の合間に二人が向かうのは町や四万十川を見下ろす山の斜面。
誰にも邪魔されず、本を読んだりしゃべったり昼寝をしたり、二人きりになれる場所だった。
普段は和樹がいつも千夏の前面に立つということが多いのに、そこでは逆に千夏が彼をリードすることもある。たまたま勉強で疲れていた和樹に千夏が膝枕を貸したところ、二人ともなぜかそれが気に入ってしまった。
それに、千夏は和樹の腕を心配し、悪化させないようにとマッサージも覚えた。そんなことを堂々としてあげられるのもその場所だけだから。
陽射しも春が近づいているのが感じられて、そんな外での時間を過ごすのにぴったりの季節がすぐそこまで来ている。
「私、迷惑ばっかりかけた……。でもね……、今回のことで、私も……、和樹がいてくれなくちゃダメなんだって、……分かっちゃったの……。だから……、和樹にフラれたらもう一生立ち直れない……。それで怖くて……、一人になるのが怖くて……、帰る勇気が出なかった……。ごめんね……。情けない私でごめんね……」
本当は、もっと前にこの言葉を言っておかなければならなかったはず。
「バカだなぁ……千夏は……。俺だって同じなのにさ……」
「うん……。もう……、嫌いって言われるまでどこにも行かない……」
「そうしてくれるとありがたいけどな」
「うん……。そうだね。一人じゃなにもできないもん」
「ウソこけ。まさか一人で東京までくるなんて誰も思ってなかったぞ」
久しぶりに二人で並んで笑えた。これならもう大丈夫。
「さて、そろそろ行かないと間に合わないよぉ……」
それまで席を外していた茜音が後ろから声をかけてくる。
「もう大丈夫だよねぇ。今度来るときは二人で仲良く来てねぇ」
三人で出発ロビーに移動し、セキュリティゲートの前で立ち止まる。
「本当に今回はご迷惑かけました。今度、茜音ちゃんも二人になって遊びに来てください。それまでにはもう少し仲良くなれてると思いますし……」
「いまでも十分だと思うよぉ……。あ、そうそう。さっき落っことした荷物……。制服もクリーニングかけておいたってお母さんが言ってた」
千夏が赤くなった。すっかりその存在をすっかり忘れていたらしい。お土産と上京の時に千夏が着ていた制服と荷物も。
今日の千夏が着ている一式は茜音からの借り物だ。
「俺が持っていきます。服はあとで千夏から返させますから」
「ううん。いいよぉ。千夏ちゃんが気に入ってくれてるからそのまま使って。今回のこと思い出して仲良くいるためのお守りにでも……」
「ありがとう茜音ちゃん……。茜音ちゃんも頑張ってね。ずっと応援してるから……」
千夏は茜音の手をぎゅっと握った。涙もろいのは二人とも同じだ。
「幸せになってねって言うのはまだ少し早いけど……、もう大丈夫だよね。わたしもいい報告ができるようにがんばるねぇ……」
セキュリティゲートを抜け振り返りながら手を振った千夏に答えていた茜音の肩をたたく者があった。
「ほえぇ。二人ともどうしたのこんなところでぇ?」
「しまったぁ、一足遅かったかぁ……」
「菜都実の寝坊が悪いんでしょ。せっかく感動の再会シーンと千夏ちゃんを泣かせた犯人を見ようと思ったのに!」
どうやら二人は千夏が実家に帰る話を聞いて羽田までわざわざやってきたらしい。
「どうだった。仲直りできたの二人は?」
「うん、二人とも本当に素直だったよ……。もう大丈夫……」
「茜音……?」
再び送迎デッキに移動し、フェンスに手をついた茜音の様子は少し寂しそうに見えた。
「正直羨ましかったなぁ……。本当に二人とも素直だったんだもん……。もう心配いらないね」
「茜音だって、そうなれるよ。あんたほど彼のこと想ってるのは日本中探したってそういるもんじゃないでしょ……」
「そっかなぁ……。まだまだだと思うけど……」
飛行機を見ている茜音の横顔は、佳織にもその心境が伝わってくるようだった。
「茜音……、見返してやるんだよ?」
「ふん?」
「千夏ちゃんたちのカップル。そして茜音のこと笑いものにしてきた人たちのこと。茜音ならできるからさ……」
「うん……。頑張ってみるよぉ……」
「さぁて、茜音。今日の午後はヒマ?」
しんみりした空気を吹き飛ばすように、菜都実の声が響いた。
「うん。大丈夫だよ」
「せっかくここまで来たんだからさ、帰りちょっち寄り道して帰ろうって。佳織も賛成してるしさ?」
「うん、いいよ」
返事を聞く前に、すでに立ち上がっていた二人はもう出口の方へと進んでいた。
「茜音! 早く!!」
「千夏ちゃん……、がんばれぇ」
誰にも聞こえることはない。飛行場の騒音にかき消されてしまう小さな声だったけれど、再び歩き始めた親友にエールを送り茜音は二人の後を追った。
【茜音 高校3年 6月】
「このルートだと、こっちの線に乗れないしなぁ……」
「こっちは幹線だから、可能性としては低いと思う。航空写真見てもそれっぽいのないし」
喫茶店ウィンディの閉店後。茜音、菜都実、佳織の三人が地図帳と時刻表を広げてすでに約1時間が経過している。
時刻は夜11時を回っているけれど、土曜日の夜でもあったので、閉店作業はマスターである菜都実の父親に任せ、ウエイトレス役の三人はテーブル上の備品や掃除などの仕事をひととおり片づけると、店の一番奥にある三人が勝手に会議室と名付けた四人がけのテーブルに集まって、タブレットを手元にさっきからひたすらメモを書いている。
「ふわぁ。なかなか難しいねぇ」
ガタンと椅子をならして立ち上がった茜音は、仕事の時間からつけっぱなしだったエプロンを外し、大きく伸びをした。
「信越と東北って列車の本数が少ないから難しいんだよこれが」
時刻表から顔を上げた佳織も一息をついた。
「正直、これが最終戦だからなぁ。多少の無茶は承知なんでしょ、茜音?」
「うん。もう学校休んだどうこうとは言ってられないし」
高校3年生となり、春休みやゴールデンウィーク、果ては修学旅行を使ってまでの茜音の旅は大詰めを迎えていた。
とにかく雪の多い地区は避け、西日本、九州をやむなく一部手分けをして駆け抜け、そのほかの地区も四国を千夏に、信州と中部地方を理香と清人、北海道を家族旅行で回っていた萌、箱根や日光など関東の山間などは真弥にお願いしたり、それ以外にもSNSの力も借りながら情報を集めた。
その結果、残る地域は東北地区だけとなっている。
それは佳織の意見としても、一番可能性の高い地域でもあり他人任せではなく、直接回れる時期が来るまで最後に残したのだという。
残されている時間はあと1ヶ月。1学期の期末試験を終えれば夏休みに入る。あの写真に印字されている日付では、この年の夏休み3日目があの日から10年となる。
現実的な話、高校3年生となった三人とも目前に迫る期末試験の対策に抜かりはない。放課後は店の夜の部ギリギリまでは佳織を先生とする勉強会が開かれている。
その後の夏休みの間には最終の進路決定もしなければならない。
しかし、茜音はたとえそれらを考える時間や寝る暇を削ってでもしなければならないことがあった。
自分に与えられている時間はわずか1ヶ月。平日は学校があり、祝日もなく動けるのは週末だけという6月になっても、まだはっきりとした手がかりをつかむことができない状態では十分な時間とは言えない。
そこで茜音が考え出した最後の手段は、フットワークが軽く、多少の無理もできる一人旅で、これまで回ることができなかった未踏破地域の一掃を行うことだった。
『佳織、ルート作りお願い!』
そんな茜音の無謀とも言える頼み。でも、佳織も親友の気持ちは十分に理解できたから、それに応えると約束をした。
期間は期末試験が終わった翌日から、採点休みや週末、場合によっては学校を休んでまでの強行軍とした。
菜都実や佳織も参加を申し出たが、さすがに学校を休むことを覚悟するだけに、直接関係のない二人を巻き込むわけには行かない。
「まぁ、大体のルートは決まったけどさ。今回はローカル線も多いから、1本逃したらアウトってとこも多いから注意しなさいよ」
「うん、気をつける」
残留組二人は仕方なく、逐次茜音から送られてくる情報を元に、次の指示を出す役目に回った。これであれば、たとえ学校にいたとしても休み時間の間にも茜音に最新情報を渡すことができる。
「それにしても、ここまで手こずるとは思わなかったなぁ」
菜都実は笑っているが、一番それを痛感しているのは、当然茜音本人である。
「そうだねぇ……。もうちょっと早くから探しておけばよかったなぁ」
そうは言うものの、さすがに、ここまで全国を飛び回る旅はこの歳になってようやく許されたものだ。
「そういえば、佳織に一つ聞きたいことがあったんよ」
「なに?」
時刻表を睨んでいた佳織に菜都実が声をかける。
「どうして、最後に東北を残したわけ? 前から佳織、本命の地区だって言ってたけど」
「そういえばそうだね」
昨年の夏に探し始めた頃は三人とも場所の検討もつかず、これまであちこちに足を延ばしたけれど、今年のゴールデンウィークを直前にして、突然佳織は東北に重点を置き始めた。
「もっと、早く気づけばよかったの。茜音の目的地が多分東北だって」
「ほえぇ。どうやって?」
佳織は、茜音の頭に手をやって続ける。
「茜音がいた施設は、おそらく関東のどっかだからだよ。それも結構南部だと思う」
「なんでぇ?」
茜音自信も自分がどこの施設にいたのか、はっきりと覚えていない。それが分かるだけでもかなりのヒントになったはずだった。幼かったことと、今とは違い土地勘もなかった。残念だけど仕方のないことだ。
「それはねぇ、茜音の言葉で気がついたのよ」
「ふえぇ?」
「そんな情報聞いたこともないっ!?」
驚く二人。もちろん、当の本人もそこにヒントがあるなどとは夢にも思っていない。
「私も、最近になって気がついたんだけどね。茜音って口癖はあるけど、言葉の訛りっていうか方言はないのよ」
「確かに……」
「そうかなぁ?」
仕方ない。言葉の訛りなんてものは自分では気にしているようなものではないから、第三者でないと気づけない。
「あっちこっち旅して分かったんだけど、茜音の発音はそうなのよ」
「んでも、茜音んちは厳しいからそれで矯正されたんじゃないの?」
「最初はそう思ったんだけど、でも、茜音ってあの夏までは当時の自宅と施設で育ったんだよね?」
「う、うん」
まだよく理解はできないものの、事実なのでうなずく。
「だったら、それまでに覚えた言葉ってなかなか直らないと思うよ。少なくとも茜音が津軽弁とか関西弁を話したことって無いでしょ?」
「確かにそうだわ」
菜都実も腕組みをしてうなる。確かに自分たちが関東の言葉を話している中で、もし茜音が地方の言葉を発していれば、出会った当時にかなりの違和感を感じたはずだ。
「そうなると、比較的癖がない関東で、茜音の家の躾だとすれば、不自然さはないわけ。そんで、夜のうちに出発して、朝方人気のないところを走れる鉄道の路線となると、東北ならいくらでもあるわけよ。東海道方面は結構大都市が多いから」
「なるほどぉ。もう少し早く気づけなかったもんかねぇ」
「そもそも東北のローカル線は怪しいなと思ってたんだけど、それに確信が持てなかったのよ。最後の手段かもしれないけどとは思ってたけど」
そんな佳織の説明も、結局は「100%の自信は無いけどね」というものだった。
それでも、どんな些細な情報、ヒントでもかまわないというのが今の状況だったから、方針として1つ固まったのは多少の気休めにはなる。
もちろん、これまでにも協力してくれたメンバーや、ネットからの情報をベースに全国の候補地をつぶしていくということは必要だったから、それは残留組の仕事だと菜都実は押し切った。
佳織の説明を聞き終わり、地図を拡大してみると、言われたとおり、川沿いのローカル線の線路は何本も存在している。
「とにかくさぁ、さっさと期末終わらないかなぁ」
「本当にねぇ」
それは三人とも同意見だ。しかも高校3年生ともなると、この冬から来春にかけての受験というものも無視はできなくなる。
また、大学を推薦で受ける可能性もあり、早い学校で2学期中に入試があるとすれば、この期末テストは内申点を決める最後の試験でもある。
茜音は自分の進路というものをまだ決めかねていた。もちろん、いろいろと夢はあるし、将来の職業についてもおぼろげに見えてきたところもある。
だだでさえそういう大事なことを決める時期に、いくら進んで手伝ってくれているとしても、茜音の心境としては、大切な友人を巻き込んで時間をとらせたくはない。
「本当に無理しないでいいからねぇ」
折に触れて二人には言い続けてきた。しかし、いつも返ってくる答えは同じだった。
「茜音を一人にして自分だけ勉強しろっての? そんなことできないよ。少なくともどっちかに落ち着くまではね」
「そうそう。頭の方は夏休みに佳織にたたき込んでもらうからさ。あんたの場合は人生かかってんだから、今はうちらのこと気にしている場合じゃないっしょ」
少なくとも、例の日までは二人とも勉強にシフトする気はないらしい。
「ありがとねぇ……」
「ん? なんか言った?」
思わず口をついて出た声に反応する菜都実。
「ううん、いつもありがとねぇって……」
「まーたそんなこと言ってる。あたしたちもいい息抜きになってんだから、気にしなさんな」
「うん。もう少しだからねぇ」
「おっし、こんなもんかなぁ」
時刻表を睨んでいた佳織が、数字でいっぱいになった紙を手にして欠伸をした。
「ほえぇ、できたのぉ?」
「お、できたか?」
二人はテーブルに戻った。
「でも、ものすごいスケジュールよ。茜音大丈夫かなぁ」
書き殴ったメモの中から必要な数字だけを抜き取り、別のルーズリーフに書き込んでいる。
「もう仕方ないよぉ。着替えもできるだけ持っていくし、車中泊がいくつもなければ……」
「それは大丈夫。ただ、予定より1日早く出ることになるけど大丈夫かな? まぁ、夜行バスだけど……」
「マジっすか?」
「うあぁ、夜バスかぁ……」
当初は佳織も朝1番の新幹線で青森まで行き、そこからと考えていたのだが、それではかなり遅くなってしまうことが判明した。
それをカバーするために使うしかないという話だったけれど。
「でもさぁ、いくらなんでも初日から夜行はきついぞ。なんか他の手はないんか?」
「あるっちゃぁあるけど……」
佳織は再び時刻表をめくる。
「まぁ、これでもいいかぁ。朝1番の飛行機で飛ぶってパターンね」
「羽田に何時よ?」
結果、7時45分の飛行機ならば、夜行列車で青森駅に到着するのと大差ないことがわかり、こちらで予定を組むことになった。
「しかし、今回は遠いなぁ」
「うん。でも、佳織の言うとおり、遠いところから最初に行かないと帰ってくるとき大変だから」
タブレットの画面から早速飛行機の予約をしている佳織を横目に見て、茜音はメモ書きに視線を戻す。
「大変だぁ……」
羅列された内容を改めて確認すると、次の旅の過酷さがすでに十分に感じられる。
「願わくば、これを全部回ることなく帰ってこられることね」
「うん、そうだねぇ……」
もちろん、茜音自身も最初から全部回る気はない。しかし、見つからなければそれをやるしかないのも分かっている。
「よし茜音、飛行機OK。一応、時刻表も最新版で確認して、明日学校で渡すわ」
「はぁい。それじゃぁしばらくはテスト勉強にしよぉ」
その日から、三人は旅のことは一時お預けとなり、目前に迫った3年生1学期の期末試験対策に追われることとなった。
「それじゃ行って来ます、お父さんお母さん」
「気をつけるんだぞ」
「危ないことはしないようにね」
「うん、これが最後だから」
茜音は両親に答えて、玄関を出た。
何度となく同じシチュエーションでこの扉を開けたはずなのだが、今回ばかりはいつもとは明らかに違うと思った。
これが探索のための最後の出発になる。次にドアを開けるときには、それがなんであれ、自分なりの答えを出してこなければならない。そのために長期戦も覚悟だから荷物もいつもより大きい。
夏至を過ぎて朝が早くなっている。そんな夜が明けたばかりの道を駅に向かう。
この道を次に歩くときはどんな気持ちなのだろうと考えながら歩いていき、駅に到着する。
「遅いわよ茜音」
「ふえぇ?」
駅の改札には、見慣れたいつもの二人が仁王立ちで待っていた。
「早いから一人で行くって言ったのにぃ……」
「ばーか、茜音一人で旅立たせるわけにはいかないでしょうが。全部一緒に行くとは言わないから。羽田まで荷物持ちさせてもらうわ」
そう言いながら、茜音のキャリーケースを取り上げてしまう菜都実。
「そゆことだから。こんな早い時間を組んだのも私だし。見送りくらいはさせてちょうだい」
「ありがとぉ」
ここは素直に受け入れた。ここまで自分の無謀とも言える計画に賛同してくれるものが現れるとは、正直なところ茜音自身も以前は想像すらしていなかった。
春先の京都調査で菜都実にも話したとおり、二人がいなければここまで自分もできたかどうか分からない。
「志望校、二人は決めたのぉ?」
電車の中、少し話題を逸らしたくて、茜音は二人に尋ねた。
「まだ。今日から暇な時に考えるかなって感じ?」
「でも、佳織はどこでも平気でしょうが。あたしなんかホントどんだけ考えても答えなんか出やしない。ま、夏休みに出ればいいかなぁって感じ? 茜音はどうなのよ?」
菜都実が逆に聞き返した。
「具体的にどうするかはまだ全然決められないんだけどねぇ。将来はなんとなく見えてきたかなぁ」
「ほぉ? 健君の嫁さんで決定じゃないんか?」
茜音は常々、彼のそばに将来は行きたいと言っていたが、どうもそれだけではないらしい。
「それは個人的な目標で……。最初はやっぱり働かなくちゃと思ってて。学校か、施設の先生になろうと思ってるんだぁ」
「施設の先生か。茜音らしいって言えばそうだけど、どうして?」
佳織はうなる。
「やっぱりねぇ、いろんな理由で傷ついちゃった子供たちと向かい合っていく大変なお仕事だってのは分かってるよぉ。でも、やっぱり、わたしはそこで育ったし、そこにいるみんなになにが必要かって分かってる。そこにまた入っていって、一人でも元気にしてあげるのが私の役目かなぁって思ってねぇ」
「そっか」
単純といえば単純な動機かもしれない。一方でそれ以上にない選択かもしれなかった。
また同時にその言葉が佳織の中に残ったのも、彼女の大きな転換点となることに誰も気づいていない。
毎回の長期休暇の最後の方に、福祉の課外実習があり、学校側で用意した複数の施設や作業現場などに生徒は参加しなければいけないことになっている。
この夏休み、学校から提示された選択肢の中で、茜音は迷うことなく児童福祉施設の手伝いを自ら申し出た。それを決めたときには彼女は自分のビジョンについてすでに考えていたのかもしれない。
朝も早かったため、電車の混雑に巻き込まれることもなく羽田空港に到着する。
フライト時間までにはまだ時間もあったので、チェックインを済ませ朝食を摂ることにした。
「茜音は機内で食べる時間があるのに悪いね」
「ううん、いいよぉ」
他の二人よりも軽めにサンドイッチをゆっくりつまんでいる茜音。
「今回で最後かぁ」
「うん、本当に1年間ありがとぉ」
「まだ早いって。予定より早くのいい報告待ってるからね。なんか情報があれば、すぐに送るからさ」
「うん、頑張ってみるよぉ」
茜音が青森に到着するのはこのあと10時頃になる。それまでに菜都実と佳織は店の仕事をしながらウィンディの一角に陣取り、茜音から送られてくる情報を整理することにしている。そのために、佳織も今日明日は菜都実の部屋に泊まり込むことにしていた。
「茜音、おみやげ持てなくなったら宅急便で送ってな」
「あうぅ、時間あればねぇ。乗り換えの時間が結構あったりするからそのときかなぁ。でも田舎の方に行くと駅前にコンビニがなかったりするよぉ」
「そういうときも気合いだぁ!」
「そんなぁ~~」
いつの間にか時間も過ぎ、三人はセキュリティゲート前までやってくる。
「あ、そうだ茜音。いつものアプリにメッセージ送っておいたの見てくれる?」
佳織に言われて、メッセンジャーアプリを立ち上げると、公開されているSNSとは違って、茜音・佳織・菜都実の三人だけのグループトークの中に、ウェブサイトのアドレスが入っていた。
「開いてみて。怪しいサイトじゃないからさ」
菜都実も一緒になって開いてみると、そこには、今回のコースの時刻表だけでなく、駅の乗り換え、観光案内所や宿泊先の情報と連絡先などが整理されて表示されている。
「急いで作ったからデザインはイマイチだけど、パケットも使わないように最低限のデータで作ったの。それに私の手元ですぐに更新できるから、何か困ったときに開いてみて」
「すげぇ……、いつの間に作ってたんだぁ?」
まさかの専用ページの用意に菜都実の方が呆れている。
宿泊先の情報や行き方、乗り換え駅で食事の調達可否まで書いてあるのが、細かいところにも妥協しない佳織らしい。
「あうぅ、ありがとぉ。忙しい中でごめんねぇ。なんとかいい報告ができるように頑張ってみる」
スマートフォンを操作して、ブラウザのブックマークにすぐに登録した。
「やっぱ、いつもより装備が重そうだわな」
「なんかあったら、すぐに連絡してちょうだい。行けるところなら次の日には駆けつけてあげるから。あと、美弥さんと真弥ちゃんが東北に旅行に行くって昨日言ってた。今日上野から出発するみたいだから、途中で会うかもね」
京都で会った葉月美弥と真弥姉妹はその後も店にやってきたりと親睦を深めている。佳織の情報で茜音が北から攻めると聞き、二人は南側からスタートするという。
「そうなんだぁ。二人とも春に受験終わってたもんね。負けてられないね」
搭乗開始の案内が流れる。茜音は再び荷物を確認すると、
「じゃぁ、いってきまぁす」
「茜音!」
「ん?」
菜都実の声にもう一度振り返ると、彼女は握った手の親指を上に付きだした。
「グッドラック」
「うん、じゃぁね」
ゲートの中に小さな姿が消えると、残った二人は大きなため息を付いた。
「だめだぁ、涙こらえるのやっとだった」
「なんか、心配よね……。あとは祈るだけ……か」
「おし、美弥さんたちに茜音の出発だけ連絡して、任務に就きますかぁ」
佳織もそれにうなずき、二人は空港をあとにした。