●プラハの女、あらわる
「プラハの嵐とブラバの嵐はどう違うのだろう」
風速40mの超大型台風が吹き荒れる夏の夕方。ざぁざぁと窓ガラスが津波のような雨に洗われている。
強風波浪警報、大雨警報、暴風警報が出され公共交通機関も止まっている。
普段なら定時帰りの会社員で賑わうこの店も死んだように静まり返っている。
帰宅難民となった当店のマスターこと只野咲花《ただのさっか》は暇を持て余していた。
そしてあまりに退屈なあまり上記のようなしょうもない疑問を呟いたのだ。
迎えに来てくれる家族も彼氏もいない。常連客とはプライベートで交流しない主義の咲花だ。
一人さみしく景色を眺めている。
「何でこんなバカな事いってるんだろう、わたし」
ブラバとはブラウザーバックの略だ。常連客達が良く話題にしている。
小説の投稿サイトであまりにつまらない作品に遭遇した時の動作をブラウザバックというそうだ。
文字通りウェブブラウザーのバックボタンをクリックして前画面に戻る。
つまり、閲覧を中断し、その作品を読まなかったことにする。
常連客達は投稿サイトの常連でもあるらしかった。
只野咲花は小説やコミックの類に興味がない。むしろK-POPやジャニタレの追っかけで忙しい。
音の出ない小説を読むぐらいだったら推しメンバーのMVを観てニヨニヨしていたい。
その時、どこかから声がした。「私はプラハの嵐だ」
いきなり女の声。咲花はお客さんだろうか、と玄関ドアを見やった。誰もいない。
気のせいかしら、と店内を見回すとカウンターに黒いスマホが置いてあった。お客さんの忘れ物だろうか。
それが「私はプラハの嵐だ」と言っている。「もしもし?」
咲花は通話ボタンを押した。

「はい、もしもし私、只野咲花です」
「今、どこ」
抜けるように透き通った女の声。歯切れよい。テレビ業界の人間だろうか。
「こちら神保町の喫茶ふらわぁです。お客様はスマホをお忘れではありませんか?」
咲花は発見した経緯と預かっている旨と相手の現在位置をたずねた。
「ここ。プラハの嵐でございます。私は…折り返しお電話いだけますか?」
「ちょっと待った、私に電話かけて来い、とおっしゃるのですか」
ずうずうしい落とし主だ。
「それもそうですね。じゃあ、はい」
「ご都合がよろしい時にご来店ください」
大雨警報が出ている。車で乗り付けるにしても危険だ。どのみち受け渡しは明後日になるだろう。
「ああ、はいはい、ごめんなさい、じゃあ、今からそっちに向かうので」
通話ボタンを押すより早く咲花は扉に隠れた。外に居る誰かに見つかる前に逃げ出したい。
生きた心地がしない。この日は玄関口に植木鉢を並べカウンターの裏で息をひそめるように過ごした。冷蔵庫の中身を空っぽにして身体はおしぼりで拭いた。

翌日は台風一過の後片付けという口実で臨時休業した。地デジが被害状況を伝えている。山手線は架線が切れたり土砂崩れで終日運休。アパートに帰る気がしない。
ボックス席で寝ているとカウンターのスマホが鳴った。
プラハの嵐とは最近の流行りの曲で、歌っているのは若い女性だ。
テレビで「私はプラハの嵐です♪」と笑うと、咲花の心臓がバクンと大きく跳ねる。
この女性こそが世界の救世主と言われている、咲花は感じた。
彼女はプラハの嵐。その名前を知らない者はもちろん、いない。あの曲が好きじゃない人もあまり聞いたことがない。
「あなた、そういえば…ああら、いやだ。あたしとしたことが」