異変を感じていたのは、少し前からだった。

ガチャン、と玄関のドアが開く音で目が覚めた。寝ぼけ眼のまま枕元の時計を見れば、時刻は午前0時に近づいていた。隣を見ればそこにはまだ彼の姿は無くて、今帰宅したのだろう。立ち上がって声をかけに行こうかと思ったけれど、やめた。眠気に耐えられなくて、そのまま目を閉じてしまった。

朝起きても、隣に彼の姿は無かった。

あくびをしながら顔を洗いに洗面所へを向かう。その足でキッチンへと向かえば、昨日浩平のために用意していた夜ご飯はきちんと無くなっていて、お皿は洗って水切りカゴの中に入っていた。それになぜだか少しだけホッとしてしまって、慌てて思考を切り替える。彼のスーツもカバンも無くて、どうやらもう出勤したようだ。ここ最近、浩平の帰りは遅くて、そして朝は早かった。夜更かしが苦手な私は彼の帰りを待っていることが出来なくて、ゆっくり話す時間もとれていない。一緒にゲームも出来ていなかった。仕事が忙しいんだろう、そう勝手に考えて、夜ご飯だけは欠かさずに用意していた。浩平は忙しかったりして自分に余裕がない時はまずはご飯を食べなくなる。だから、食器が綺麗になっていることに安心した。・・・ううん、本当はそれだけじゃない。ご飯が食べてあることで、食器が綺麗になっていることで、彼がまだこの家に帰ってくる意思があると思ったから、安心した。少しの疑いは、どうしても頭の中に浮かんでしまっていた。

そんな気持ちが大きくなってしまったのは、今夜の事だった。

午後10時前、ここ最近にしては早めに帰宅した浩平はやはり少し疲れた顔をしていて、ご飯の前にシャワーを浴びに行った。私も今日はまだ起きていて、ソファでスマホをいじっていた。不意に、スマホの着信音が鳴る。私の手元ではない、机の上からだ。普段だったら気にならないし、見ないし、でも、今日はなんだかやけに着信音が耳に障った。駄目だという気持ちとは裏腹に私の手は動いていて、彼のスマホをひっくり返した。

穂乃果(ほのか)

表示されていたのは、その3文字だった。

見覚えのある名前に、不思議と心は落ち着いていた。何事もなかったかのようにスマホをまた裏返して、歯磨きをして布団にもぐった。「里紗?寝た?」なんて浩平の声が聞こえてきたけど、返事をしなかった。初めて寝たふりをした。私が寝ていると思って彼は私のおでこにキスをおとしたけど、それすら切なくて慌てて唇を噛んだ。



「ええ、それ大丈夫ですか?」

私の話を聞いて、三奈ちゃんが綺麗な額にしわを寄せる。
その手には大きなおにぎりが握られていて、聞けば新しい彼氏はたくさん食べる女の子が好きだそうだ。

「いや大丈夫じゃないですよね絶対。」
「どうなんだろうねえ。」
「そんな他人事みたいに。」

ありえない、ありえない、険しい顔のままブツブツ呟く三奈ちゃんの眉間のシワを指先で広げれば、だって!と珍しく声を荒らげた。

「そんなの!浮気説濃厚じゃないですか!!」
「いやまあ、決まった訳じゃないし。」
「でもだってその穂乃果ってオンナ!彼氏さんの元カノなんでしょう!!」
「そうそう、元カノ元カノ。」

なんでそんな平然としてるんですかあ~、と今度はガックリと肩を落とす。そんなに平然としているように見えるだろうか。でも確かに、意外と心の中は穏やかだ。浩平のスマホに表示されていた着信が、もう連絡を取っていないはずの彼の元カノからだったのを見てしまったわりには。

しばらくの間プンスカとおにぎりをかじっていた三奈ちゃんは、急になんだか真剣な顔をして私の名前を呼んだ。

「里紗さん。」
「なに?」
「なんか里紗さん、変です。彼氏さんが浮気しても仕方ないような顔してます。」
「・・・どんな顔それ。」
「今のその顔です。仕方ないような、諦めたような。」

三奈はそれ、なんか嫌です。そう言って彼女はまたおにぎりを一口かじる。なんだか彼女が泣きだしそうに見えて、慌てて口を開いた。

「待ってごめんなんか嫌な気持ちにさせた?そんな変な顔してた?」
「…里紗さんが悲しいのに悲しまないから!不安なのに不安って言わないから!!三奈が悲しくなったんです。里紗さんが、自分の気持ち大事にしてないから。」

不意に核心を突かれた言葉に、息が詰まった。悲しいです、そう言う彼女はもう一度私の名前を呼んで。

「里紗さん。」
「はい。」
「里紗さんはベリースーパークールビューティー仕事が出来るオンナ(しかも優しい)なんですよ。」
「はい?」

わざわざ「かっこ」「かっことじ」まで声に出して三奈ちゃんがそう言う。なんじゃそれ、と首を傾げれば、彼女は頬を膨らませた。

「そんな里紗さんを彼女にしながら浮気する男なんてあり得ないってことです!もし本当に言えない事をしているなら私が成敗しに行きます一生男として機能しないようにしてやります任せてくださいネ。」
「いや怖い怖い。」
「里紗さんが怒らないなら私が怒るし悲しまないなら私が悲しみます。私が大好きな里紗さんを傷つける事は絶対許さないし、それは里紗さん本人であってもですからね。」
「三奈ちゃん・・・。」

頬を膨らませながらもそう言いきって、彼女は私にチョコレートを一つ手渡してくれる。ありがとう、と受け取って、すぐに口に含んだ。甘くておいしい。もう一度彼女にお礼を言えば、三奈ちゃんは少し照れたように笑った。何その表情。可愛いなおい。

「今度サシで飲み行こう。約束。」
「いいですねえ。三奈今日でも大丈夫ですよ。」
「あーごめん、今日はちょっと。約束があって。」
「彼氏さんですか?」

三奈ちゃんの言葉にゆっくりと頷く。今日の朝、久しぶりに私よりも遅く出社した彼は、今日は早く帰れそうだと言った。最近一緒にご飯が食べれてないから一緒に食べたいと、里紗のハンバーグが食べたいと、そう言った。

「いやーん。そうなんですね、それは仕方ない。じゃあ今度にお預けですね。」
「ごめんね。絶対行こうね、約束。」
「指切りしましょう。」

そういって三奈ちゃんが小指を差し出すから、私も小指を絡めて指切りげんまんをする。まさかこの年になってする機会があると思わなくて、思わず2人で笑ってしまった。午後の勤務が始まる直前に、三奈ちゃんが私の方を振り向く。

「しっかり話せるといいですね。」
「うん。・・・本当に、ありがとう。」

私の言葉にニッコリと笑った彼女は、ヒールをならして受付カウンターへと入っていく。三奈ちゃんのお陰で、肩に入ってしまっていた力が少し抜けた気がした。



仕事を終え、スーパーに寄って買い物をしていた。ハンバーグを作るための材料をカゴに入れて、ああそうだ、付け合わせにマッシュポテトも作ろう。とジャガイモもカゴへと入れる。考えているうちに色々作りたいものが増えてしまって、気づけばエコバックの中はパンパンだった。両手で抱えてアパートへと向かう。自分の吐く息が白くなるのを見つめながら、そういえば出会った日も寒い日だったなあ、と記憶が過去へと引きずられた。


浩平と出会ったのはよくある合コンだった。友人に無理やり連れていかれた合コンで、あまりにもつまらなそうにお酒をちびちびと飲んでいるから逆に目をひいた。

『彼女いるんですか?』
『いたら来ないよ。なんで?』
『あまりにもつまらなそうな顔してるから。』

隣の席に座ってそう話しかければ、浩平は少し笑ってから、ごめん感じ悪かった?と眉を下げた。私が答える前に、正面に座っていた幹事の男性が声を上げる。

『こいつなー、彼女に浮気されて別れたばっかなのよ。』
『おい(しょう)。うるさい。』
『年上のちょーーうぜつ美女ね。ただ浮気性でさ〜困ったもんだよね〜。』
『勝手に人の事ベラベラ喋んな。』

浩平が笑いながら将と呼ばれた男性の頭を小突く。将さんはかなりお酒が入っているようで、浩平も怒った顔はせず呆れているようだった。小突かれた将さんも大袈裟に頭を抱えてみせて、中がいいんだなあと思った。後で聞けば中・高が一緒だったそうで、家族ぐるみで付き合いのある腐れ縁だと笑っていた。

不機嫌そうな顔が印象深かったが笑うと一点、子供のような笑顔になってそれがまた私の視線を奪った。浩平も何となく私に興味を持ってくれたのか、そのあとはほとんど2人で話し続けた。と、言っても好きな食べ物の話、好きなゲームの話、好きな季節の話、内容はそんなことばっかりで、でもそれがとても楽しかった。どちらから言うでもなく連絡先を交換して、そのあと何回か2人で会った。

最初は無愛想で冷めた人なのかと思ったけど、そんなことは全然なかった。一緒に見に行った映画では私よりも泣いていたし、私が気まぐれで買った旅行のお土産をずーっと部屋に飾ってくれていた。それを指摘したら赤くなっていて、なんだこの人は、と今までに感じたことの無い気持ちで満たされた。この気持ちを愛しいと表すのかと初めて知った。彼と過ごして、今まで感じたことの無い感情を知って、心が揺さぶられて、私の世界は広がった。好きだからこそ傷つくこともあったけれど、それすら幸せだった。

まだ付き合う前、2人で会うのも数回目のお出かけで、お互いの過去の恋愛の話を少しした。その中で浩平は穂乃果さんの話をしてくれた。3つ年上で、3年付き合って3回浮気された。最後は、彼の方から終わりにしたらしい。

『俺じゃ全然足りなかったんだよ。』

ベンチに座って家族連れで賑わう公演を遠目に眺めながら、彼はそう言った。無愛想に見えた浩平は案外サラッと愛の言葉を口にするし、清々しいくらい自分の気持ちに素直だった。そういう所にも惹かれ始めていた時、彼は穂乃果さんの話をした。

少し複雑な家庭で育ったという彼女は、いつだって愛を求めていた。浩平がどれだけ彼女を愛していても、それを伝えても、それだけでは不足だった。そう彼は言った。

『このままじゃ俺がダメになると思って、逃げちゃった。』

そうおどけたように彼は言ったけど、その言葉の節々に彼女への未練のようなものを感じで、少し悲しくなったのを覚えている。

穂乃果さんとは、1度だけ会った事がある。

少し時が流れて付き合い始め、初めて浩平のアパートに行った時、玄関の前に彼女が立っていたのだ。顔を見た瞬間、会ったことも写真を見たこともないはずなのに、あ、穂乃果さんだ、となぜか思った。マフラーに顔を埋めた彼女は灰色のコートを羽織っていて、綺麗で、大人っぽくて、とても女性的で、女の私でもドキドキしてしまうような、そんな女性だった。

浩平は少し固まって、穂乃果さんも私と浩平を交互に見て少し驚いたように目を開いた。少しの間のあとに彼女がふっと笑う。

『ごめん、邪魔したね。』

浩平は何も言わなかった。私は彼の表情を見ることが怖くて、かといって穂乃果さんの顔を見ることも出来なくて、俯いた。そのまま彼女のヒールの音が遠のいていくのを感じて、結局そのまま、彼女が再び現れることは無かった。

『よかったの?』
『何が?』
『…ほのかさん。』

浩平のベットに寝転びながら、そう聞いた。初めての彼の部屋、初めてのお泊まり。シングルサイズのベットに、少しだけ隙間を開けて2人で並んで寝た。2人とも仰向けで、薄明かりの中で天井を眺めていた。

『家まで来たってことはなにか話したいことがあったんじゃないのかな。』

そうだねじゃあ話を聞きに行ってくる、なんて浩平に言われたら困るくせに、私の口からはそんな言葉がこぼれてしまった。いつもそうだ私は、余裕があるふりをしてしまう、人に優しくできる自分を演じてしまう、心の中がどんなにグチャグチャでも、それを人に気づかれるくらいなら死んだ方がマシだと本気で思ってしまう。

浩平が少し体を起こして、不意に私の頭を撫でた。

『あったとしても、別にいいよ。』
『・・・なんで?』
『うーん。今俺が聞きたいのは、というか知りたいのは?里紗の事だけだし。』
『…ふーん。』
『里紗の声だけ届けばいいわ。後はなんもいらない。』
『・・・浩平くん、変なの。』
『変なのって何だよ。』

本当は嬉しかったくせに。また性懲りもなく憎まれ口をたたいてしまった私の頬を浩平が両手でつまむ。やめてよ、と声を出したけどつままれてるせいで上手く話せなくて、そんな私を見て浩平が吹き出した。失礼な。

そうだ、その時はまだ浩平くんと呼んでいたなあ、なんて不意に懐かしくなった。懐かしい気持ちを感じたことで、思考が現実に引き戻される。マッシュポテトはもう完成していて、いまはハンバーグのタネを作って空気を抜いていた。あとは、焼くだけ。そんな時に私のスマホが震えた。つけていたビニール手袋を外して画面をみれば、メッセージは浩平からだった。

【ごめん、今日やっぱり遅くなりそう。】

絵文字はない。いつもの事だ。私も使うタイプではないから付き合ったばかりの時から割と文面はシンプルだった。でもそれが私にとっては楽で、でも今は、その文章がやけに寂しく感じた。

特に理由は聞かず、分かった、とだけ返信した。気づけば【仕事頑張ってね】なんて追加のメッセージも送ってしまっていて、また私は平気なふりをしてしまう。余裕なふり、大人なふり。心底自分に嫌気がさした。頭の中はグルグルと回転したままだったけれど、手はスルリと動いた。1人分のハンバーグを焼いて、マッシュポテトもお皿に盛って、ラップをかける。心と体があまりにもバラバラに動いているのが分かって、何故だか少し可笑しくなってきてしまった。

今夜まだ空いてる?そう三奈ちゃんにラインをすればすぐ返信があった。彼女がすぐさま共有してくれた位置情報を握り締めて早足で家を出た。出来るだけ早くここから遠い所に行きたかった。遠く遠く、ずっと遠くへ。