コーデリア・ブラウンの外見が美しいことは事実である。
国中でそれを知らぬ者はない、というのは、これまた文字どおり事実であると言っても過言ではなかった。
とはいえ。
自筆の手紙にあったように、性格が素晴らしく良いとか才気溢れるとかいう点については、いささか疑問の余地を残していた。なぜなら口の悪い貴族令嬢の中には、あれは性格の悪い馬鹿だという娘さんもいたからである。
むろん、その娘さんたちのほうが、性格の悪い悪役令嬢である可能性もあるにはあったが。
「……え、マジ?」
当の美少女コーデリア・ブラウンは、思いがけない王太子からの返信に硬直した。
危険なパンチを顎にもらって、ビーンと不自然に身体が伸びてしまった格闘家のように。
「一目惚れ……結婚したい……嘘でしょ?」
あまりの幸運を信じられずにワナワナ……が、これこそが、哀れな被害者に確定したことを報せる手紙、簡潔に言えば死亡フラグであった。
むろん本人はまだ気づかない。
「百万に一つの富くじが当たっちゃった」
コーデリアには確固たる信念があった。それは、買わねば富くじは当たらないというもの。
シェナ王国の貴族階級において、結婚はほとんどすべて、親の決める政略結婚であった。
娘には同じ階級か、あわよくば上の階級の相手に嫁がせる。その話をまとめるのが親の最大の務めだ。
コーデリアの両親もそう思っていた。しかしコーデリアは、
「お父様とお母様には、せっかく類まれな美貌に産んで下さったのですもの。ここは一発富くじを買ってみますわ」
ここで言う富くじとは、最も上の階級、すなわち王家との結婚に果敢にチャレンジすることだった。
両親に、王家と交渉するパイプはない。そこでコーデリアは、美貌一つを武器に、直接自己アピールする手段に出たのである。それが例の写真入りの手紙であり、一攫千金を狙う富くじであった。
「目立たなければ手紙は捨てられるだけ。どうせやるなら思いっきり弾けなくちゃ」
意図的に、クセの強い文章を書いた。ひとえに王太子様の目を引くためーーそれが当たりすぎて、王太子の激烈な殺意を引き出したのは予想もしない成り行きだったが。
「感謝しなくっちゃ。お父様とお母様に」
自らの美貌を鼻にかけるきらいはあったが、それによって「幸運」を手にすると、たちまち彼女は殊勝になった。
「これで親孝行ができた。それが何より嬉しい」
心からそう呟いたうら若きコーデリア・ブラウンが、もうすぐ罠にかかったキツネのように殺されることを想像すると、いささか同情を覚える向きがあるかもしれない。
それとも、馬鹿で性格の悪い娘が高望みするとしっぺ返しを食うという、教訓的な結末を期待されるであろうか?
しかし公平を期すなら、このとき彼女は手紙に「性格が良い」とか「頭が良い」とか書いたことについて、
(ああ、こうなるとわかっていたら、あんなクセの強いことは書かなかったのに)
と後悔し、
(あんな恥ずかしい文章を読まれて……もうっ、死んでしまいたい!)
とすら思い、ベッドに顔を埋めてシーツを濡らしたことを記さねばならない。
が、この点については、どうか心配しないでいただきたい。
死にたい、と思う同じ脳内で、彼女はもう、華やかな王太子妃の生活を思い描いていたのである。
(美貌の王太子妃を国民は祝福してくれるだろうか? きっとそうだろう。もしかすると、コーデリア妃フィーバーすら起こるかも)
だから、今後もし、彼女が死にたいとか舌を噛み切ってやると独白することがあっても、その悩みを真剣に聞く必要はない。
死にたいという気持ち自体に嘘はなくとも、ちゃんとその直後に、自分自身でブレーキをかけられるのである。
死にたいけど、今はまず眠ろう。死ぬ前に、何か甘い物を食べよう。そうだわ、イチゴを使ったケーキを三種類ほど。
こんなふうに考えられるのは、良いことである。なぜならちょっとのことで思い悩んで死ぬよりは、性格や頭、あるいはその両方とも悪くても、生きてるほうがずっと良いのだから。
要するに、コーデリアとはそういう娘であった。
(恥ずかしくて死にたい。でも、お父様お母様、それにシェナ王国の国民のため、私は生きる。美しい王太子妃の誕生によって、この国に喜びをもたらすのだわ)
彼女は涙を拭いて笑顔になると、王太子からの手紙を胸に、母親がくつろぐ二階のパーラー目指して走った。
両親とともに招かれた王宮の謁見室で、ジェイコブ王太子と初対面した瞬間、コーデリア・ブラウンの全身にビビビと電気が走った。
「やあ、本当に、実物は写真の百倍きれいだ」
優しく微笑む王太子。
背が高く、筋肉質で、胸板が厚い。
目に力があり、鷲鼻で、顎が発達している。
実際に会うまでは、独裁者の長子でもあり、もっと威圧感があると想像していた。
ところがーー
「あなたこそ探し求めていた女性だ。ぜひ幸せな家庭を築きましょう」
なんていい人だろう。なんてフレンドリーなのだろう。
その感動が、ビビビと身体を打ったのだ。
が、その優しい笑顔には理由(わけ)があった。
今はできるだけ高く持ち上げて、そのときが来たら思いっきり突き落とす。そして殺す。
その将来が楽しみで楽しみで、抑えきれずに笑みがこぼれ、優しい言葉が口から溢れてしまうのである。
「王太子様、私は、世界一幸せな女です」
黙れメス豚、と心の中で吠えながら、あくまでも優しく、
「こちらこそ、最高です」
コーデリアが毒を呑んでのたうち回るさまを想像して、ますます笑顔を広げた。
「コーデリア。そうお呼びしていいですね?」
「は……はい。あの、私は?」
「殿下でよい。あなたにそう呼んでもらえると、ゾクッとする」
まもなくこの手で殺すとわかっているので、ゾクッとするのだ。この王太子、死んでも治らぬ救いようのないサディストであった。
「やあ、どうやら私にも、待望の娘ができたようだね」
と、コーデリアに声をかけたのは、シェナ王国の国王、泣く子も黙る独裁者グレイス二世である。
「私のことは、お義父(とう)様と呼んでもよいぞ。娘のいない私にとって、あなたのような美人のお嬢様にそう呼ばれるのは夢のようだ」
コーデリアは心底感動した。まあ、国王ともあろう方がなんて気さくな……親子揃って、なんていい人たちなんだろう。
コーデリアは間違っていた。間違っても、この双子のような親子はいい人たちなどではない。極悪だ。事実グレイス二世は、農民から搾れるだけ税を搾り取り、年間で何万人も餓死しているという報告を受けても、「食い扶持が減ってよい」と冷笑しながらステーキを頬張るような、歴史に名を残すレベルのサディストであった。
「それなら私は、お義母(かあ)様と呼んでもらえるのね、美しいコーディ」
グレイス二世の横で妖しく微笑んだのが、これまた歴史に残るレベルの悪妻のポーラ王妃である。なんせ彼女は人が死ぬのを見るのが大好きで、夫にもっと死刑を増やすようにとせがみ、それが執行される日には朝からソワソワして誰よりも早く処刑場に馬車をつけるのであった。
むろんコーデリアはそんなことは知らない。王妃の優しい言葉に感激を覚えて、ハラハラと涙をこぼしたものだった。
「レオ。お前の義姉(ねえ)さんになる人だ。紹介しよう」
と、ジェイコブ王太子が声をかけたのが、彼のただ一人の弟のレオ第二王子、二十一歳であった。
レオ第二王子は、兄より一回り身体が小さく、顔も小さかった。
ジェイコブが目も鼻も大きいのに比べて、それらも小ぶり。もし人の顔を調味料に喩えるとしたら、兄はデミグラスソースで、弟はソイソースといった感じ。あくまでも、調味料に喩えたらの話だが。
「あ、どうも」
レオ第二王子の挨拶は、ひどくぶっきらぼうだった。
コーデリアの胸は、スーッと冷えた。優しい王家の人たちの中にあって、一人だけ、付き合いにくい人がいた。それによって、せっかくの幸福に水を注された感じがした。
「コーデリア・ブラウン嬢だ。これは弟のレオ。どうだレオ、お前も嬉しいだろ? こんな美人の義姉(あね)ができて」
「別に」
レオ第二王子の碧い目は、コーデリアの顔を見ても、何ら賞賛の色を浮かべなかった。
「外見は、どうでもいいことです。むしろそれによって、高慢な心を育てることもある」
グサッと、いきなり刃物で刺された気がした。
この、初対面の第二王子は、勝手に決めつけた!
ひどい、ひどすぎる。
生まれて初めての屈辱だ。
これまでどこへ行っても、誰と会っても、必ずその美貌を褒められた。
面と向かって褒め言葉を口にしなくても、目の中に、必ず美貌を認めた色を浮かべたのだ。
ところがこの王太子の弟は、それを認めもせず、それどころか美しさははむしろ欠点であるかのように、高慢だと言い切ったのだ!
(そんな……それじゃあ私は、まるで性格が悪いみたいじゃない。私のことを知りもしないで!)
繰り返すが、コーデリアをよく知る貴族令嬢の中には、彼女を性格の悪い馬鹿だと評する者もいた。しかし彼女は、人が陰でそう言っていることなど夢想だにしなかったのだ。
レオ第二王子は、一面の真実を正直に語ったのみである。そして彼は、サディスト一家の王家にあって、まるで突然変異のように唯一まともで、唯一正直で、唯一正義感のある「いい人」であった。
正直な話、王家を知る人々の中で、心ある人は皆、レオ第二王子にのみ救いと希望を見ていた。それはもちろん、あとの三人があまりにもひどすぎるからだ。
だがそんなことを知らないコーデリアは、王太子の弟を憎み、悔し涙を流した。
「どうした、コーデリア? レオの言葉に傷ついたのだな。かわいそうに」
ジェイコブ王太子に慈しむように言われると、たちまちコーデリアは、海のように大きな安心感に包まれた。
王宮のセレモニーホールで舞踏会が催され、そこで婚約発表がなされた。
高貴な来賓たちによる鳴り止まない万雷の拍手に、コーデリア・ブラウンは震えが止まらなかった。
(ああ、この世にこんな幸福があるなんて。光栄、陶酔、晴れがましさ、達成感……そのすべての感情の頂点に、今私はいる)
すぐ隣に満面の笑みで立っているジェイコブ王太子は、自らの口で婚約を発表したこの瞬間まで、一つの欠点もコーデリアに見せなかった。
常に優しく、温かく、パーフェクトな婚約者であり続けた。
彼女の他愛のない拙い会話にも、退屈した顔などいっさいせず、いかにも面白そうに耳を傾けた。
(メス豚め。そのよく動く唇を、ぶっとい縫い針で縫い合わせてやろうか!)
こんなに優しい男性がいるかしら? という驚異すら、彼女は覚えるほどだった。
(何だか出来過ぎだわ。あまりにも幸せだと、かえって心配になる。婚約破棄とか、ついバッドエンドを空想してしまうわ)
もちろん王太子はそうするつもりであり、それどころか、うんと辱めて殺すつもりだった。
婚約破棄で満足するようでは、サディストとは呼べない。むしろマゾだ、とジェイコブ王太子は考えていた。
(あんな手紙を送りつけておいて、手ひどいしっぺ返しがないと信じてやがる。俺を不快にした罪は、千倍にして償わせてやるからな!)
王太子がスカッとするように死ねば、ようやく罪を償えるというわけだ。これはその「スカッ」を極限まで大きくするための婚約発表であり、盛大な舞踏会であった。
が、その「幸福」の絶頂において、たった一点、コーデリアの胸には黒いシミがあった。
王太子の弟、レオ第二王子の存在である。
(ついにこの日を迎えるまで、祝福の言葉を一つももらえなかった。こんな仕打ちをいつまでも受ける謂れはない。今日こそは、祝福してもらうわ!)
一点のシミはどうしても気になるものである。それを落とすために、彼女は晴れやかな舞台の主役であるにも関わらず、曇った顔を第二王子に向けた。
「レオ殿下。どうぞ私たちの門出を、祝って下さい」
舞踏会で誰とも踊らずに、不機嫌そうにテーブルに座り続けていた第二王子は、
「門出? それは夫婦として、新生活を始めるという意味ですか?」
と訊いた。
「ええ、そうです」
コーデリアが答えると、
「だったらまだ早いですね。婚約を発表したばかりですから」
まるで何でも批判する気難しい評論家のようだった。
「もちろん、正式に結婚したわけではありません。そのくらいは愚かな私にもわかっています。ですがこういう席では、お祝いの言葉を一つくらい下さっても当然ではないですか?」
彼女の声は涙声になっていたが、第二王子がそれに心を動かされた様子はない。
「コーデリアさん(レオ第二王子は彼女を決して義姉(ねえ)さんとは呼ばずにこう呼んだ)、あなたは婚約を、人生の頂点であると勘違いしていませんか? また他人に祝福されなければ、幸福ではないと勘違いしていませんか?」
コーデリアは黙った。そのあまりに理屈の勝(まさ)った物言いに、呆れた思いだったのである。
(この人は、根本的に女性の気持ちが理解できないのだ。絶対にモテないに違いない!)
つくづく憎い男性(ひと)だ。優しい兄の王太子様は、写真だけで一目惚れしたのである。その実の弟が、これほどコーデリアの美貌に冷淡で、かつ嫌われても仕方のない態度をとり続けるとは、どう理解したらいいのだろう? 徹底した女嫌いなのか、それとも……男性しか好きになれない人なのだろうか?
彼女の疑惑は当たっていなかった。彼は決して女嫌いでも男好きでもない。ただ彼は、人を外見ではなく、内面で判断するようにしていた。
彼は彼女に言った。
「コーデリアさん。あなたが聡明であれば、婚約が人生の頂点でないことも、他人の祝福が自分の幸福に関係ないことも理解できるでしょう」
「ええ、ええ、そうでしょうよ。でも殿下のように女性の気持ちを理解できない方に、言われたくはございませんわ」
「コーデリアさん、あなたがもし聡明で、一国の王太子妃に真にふさわしい女性であれば、私の口から祝福の言葉が出ないことを理解できるでしょう」
「まどろっこいし言い方はしないで下さい! 何がおっしゃりたいのですか?」
「では言います」
レオ第二王子は声を潜めた。
「今年、シェナ王国の農民が、何人餓死したかご存じですか?」
コーデリアは言葉に詰まった。知らなかったし、考えたこともないことだ。
「約二万人です。まだ六月の時点でですよ。それなのに、この豪華なパーティーは何ですか? たった一日でどれほどの税金が消えましたか? 今この瞬間にも、何人の農民が餓死し、首を吊り,絶望から我が子を手にかけているか想像したことがありますか?」
第二王子の潜めた声は、コーデリアの耳にしか入らなかった。そしてそれは、コーデリアの耳を聴こえなくした。残酷な現実に、頭の中が真っ白になり、耳の奥でゴーゴーと血液の流れる音がしたのである。
「……それは、知りませんでした。十八歳になるまで、貴族女性として恥ずかしくない妻になれるような教育はされてきましたが、農民の生活については誰も教えて下さいませんでしたから」
「兄が教えるべきでした。僕なんかの口から聞く前に」
二人がちらりとジェイコブ王太子のほうを見たとき、彼はさる高名な公爵婦人とワルツを踊っているところだった。
レオ第二王子は仏頂面になって腕組みをした。
「コーデリアさん。あなたはいつもうっとりと兄を見つめていますが、人の本性は数か月やそこらではわかりませんよ。第一印象が良いほど、のちになって評価が変わるものです。こんなに早く婚約して正解だったかどうか、よく考えることですね」
コーデリアの胸にあった一点の黒いシミは、嵐の前の黒雲のようにむくむくと膨らんだ。
生まれて初めて、農民の実態を知ったせいである。
とたんに、無邪気にパーティーを楽しめなくなった。
(農民が何万人も餓死している? どうして? それなのに、私たち貴族はどうして毎日美食を食べられているの? どうしてそんな悲惨な事実が、国民に知らされていないの?)
シェナ王国は独裁国家である。民主主義という考え方はない。だから悪いことは、いっさい国民に知らせないようにしていた。
彼女は胸を痛めた。農民も、自分と同じシェナ王国の国民だ。それが飢えて死んでいるのに、贅沢三昧の生活を送っていていいのかしら? 彼女は貴族令嬢として育てられても、そういう考え方をできる女性だった。
そこで、公爵夫人と踊り終わったジェイコブ王太子に尋ねた。
「あの、殿下、質問をよろしいでしょうか?」
「いいですよ、可愛い人」
「シェナ王国では、農民が飢えているのですか?」
その瞬間、王太子の目に、凶暴な光が宿った。
が、あまりにそれが一瞬だったため、シャンデリアの光線の具合でそう見えたのだろうと思い、コーデリアはすぐに忘れた。
「農民が? なぜですか?」
「あの……噂で聞きまして」
「噂ですか。根も葉もないことですね」
ジェイコブ王太子は穏やかに微笑んだ。
「悲しいことに、この国にも、反体制の考え方をする者がいます。そういう輩(やから)の言うことには、耳を貸さないことです。何でもかんでも国が悪いように言いますからね」
「では、事実ではないのですか?」
「当然ですよ。我が国は豊作なのです。各地方の領主がしょっちゅう父に報告に訪れますが、収穫量が減ったという話は一度たりとも聞きません。収穫が増えているのに、どうして飢えることがありますか?」
それは、収穫が減ったなどと報告すると、残虐なグレイス二世が機嫌を悪くするからである。それが怖さに、どんなときでも地方領主は収穫が増えたと報告するから、結果として国に納める税が増え、農民は餓死したり一家心中したりしているのだ。
「そう、豊作なのですか……」
コーデリアは考え込んだ。ではレオ第二王子は、反体制派の誰かに嘘を吹き込まれたのだろうか? しかしそんなことは、現地に調べに行けばすぐにわかることである。第二王子は調べもせずに、私にあんなことを言ったのだろうか?
コーデリアの沈黙は、ジェイコブ王太子をイライラさせた。何をこのメス豚は、農民のことなど気にしているのだろう。女ごときが考えることか!
「まあ仮に飢えたとしましょう。でもそれが、どうしたというのです?」
この問いは、コーデリアをひどく驚かせた。優しい婚約者の口から出るにしては、思いもしない冷たい台詞に聞こえたのである。
「どうした、とおっしゃいますと?」
「ではこう聞きましょう。ブラウン家には使用人がいましたか?」
「ええ、それは」
「使用人は、あなたと同じ身分でしたか?」
「いいえ……違います」
「農民は、その使用人より下です。奴隷身分です」
コーデリアは黙った。
するとさっきの凶暴な光が、再び王太子の瞳に宿った。
「我々の生活する社会には決まり事があります。貴族は貴族であり、平民は平民であり、奴隷は奴隷であるということです。これが崩れたら大変なことになる。そういう大変なことが起こらないためにも、奴隷が飢えることなどは考えないほうがいいのです。特に王家はこれを守らねばならない。わかりましたか?」
コーデリアは思わず目を伏せた。
王太子の顔を直視できなかったのである。
『コーデリアさん。あなたはいつもうっとりと兄を見つめていますが、人の本性は数か月やそこらではわかりませんよ。第一印象が良いほど、のちになって評価が変わるものです。こんなに早く婚約して正解だったかどうか、よく考えることですね』
レオ第二王子の言葉が甦った。
王太子に対する印象が、明らかに変わってしまった。
(どうしよう。農民が餓死しているのが事実かどうかはともかく、奴隷が飢えることなど考えるな、と言う王太子様より、農民のことを考えて舞踏会を楽しめない第二王子のほうが正しく思えてしまう)
コーデリアは葛藤に苦しんだ。が、彼女は女である。どれほど王太子の性格に疑問が生まれても、自分を愛し、婚約者に選んでくれたことに対して、無条件ですべてを捧げたい気持ちがあった。
(そうよ。王太子様は、よその国の王族からだって妻を迎えることができた。それなのに私を選んでくれたのは、政略ではなく純粋な恋愛、私に一目惚れしてくれたからよ)
王太子からの嘘の手紙を信じていた彼女は、やっぱり彼に従おうと決めた。たとえどれほど第二王子が正しいことを言おうとも、しょせんコーデリアを愛してはいない。それどころか、高慢で聡明さのない女性だと決めつけたのだ。
だかこのとき、すでにジェイコブ王太子は飽きていた。コーデリアを愛している芝居をすることに。
(さあ、婚約発表も済んだ。予定どおり毒見役と……フフフ、天国から地獄に突き落としてやるぞ)
王太子はそのときから、優しい目つきをすることをやめた。
コーデリアの幸福に影が差した。
シェナ王国の慣例として、婚約発表をしたその夜から、王宮に部屋をあてがわれて一人で住むようになったのだが……
(とたんに王太子様の態度が冷たくなった。まるで愛というろうそくの炎が消えてしまったかのように)
そんなはずはない、と頭では思っても、彼の目の中に、どうしても温かい感情を見つけられない。
不安になって、二人きりで食堂にいるときに、彼女は訊いた。
「ねえ、殿下?」
「何?」
王太子の態度は、明らかに面倒くさそうだった。
「あの……どうして私を選んで下さったんですか?」
「顔」
王太子は一言で答えた。いちばん短い単語を選んだのである。
しかし、かつてはその返事でも、コーデリアは喜んだだろう。結婚の決め手としては薄い理由だったが、その武器で王太子の気を引くことが、そもそもの狙いだったのだから。
だが今は、そっけない返事に怯えるばかりである。婚約破棄の空想が、現実になりそうな予感がして仕方なかった。
婚約発表をした三日後、王太子はゲップした。
「ちょっと濃すぎるな」
それは独り言だったが、意味は「こいつの濃い顔にも飽きたからそろそろ始末するか」ということだった。
ところでジェイコブ王太子はコチコチの女性差別主義者だったが、欲望の捌け口としての女性は大好きだった。
だから、コーデリアがいてもお構いなしに、ちょいちょい後宮に行った。そこに住まわせている女官を抱くためである。
後宮での王太子の嫌われようはひどかった。なんせ王太子は、女性を人と思っていない。猿と同じに思っている。だから相手の感情などにはお構いなく、気まぐれに被害者を決めた。
「どれにしようかな、天の神様の言うとおり……よし、今日はお前だ」
彼が帰ったあとの後宮では、長くすすり泣きの声が聞こえた。
「女の顔や身体を見て、香水を嗅ぎ、女の声を聞くと元気が出る。国の王太子が元気なのは、国民にとっても喜ばしいことだ」
後宮から帰ると、コーデリアに対してわざわざそんな言い訳をした。
むろん彼女は気づいていた。鼻を刺激する女の香水の匂いに。
(最悪だ。婚約三日で堂々と浮気するなんて。「美人は三日で飽きる」という格言が、王太子様と私のケースに、無情にも当てはまってしまったのね……)
理想とはかけ離れた現実に、コーデリアは失望し悲しんだ。けれども、独裁国家の王の息子に、女遊びを禁止させる方法はない。普通に考えて、それはするだろう。だから、「は? 何してくれてんの?」とは思っても、グッとこらえた。まさか口喧嘩などをして、婚約破棄にでもなったら目も当てられない。
(我慢よ、我慢。親孝行のため。この婚約期間を乗り越えたら、正式に王太子妃になれるのだから)
ところが事態は、急速に悪化した。
彼女が自室で浮かない顔をしていたとき、コーデリアに付けられた女官のエリナが、突然近くに寄ってきて言った。
「ねえねえ、奥さん」
まだ結婚していないのに、エリナはコーデリアをそう呼ぶ。
「コーディでいいのよ、エリナ」
「奥さん、旦那さんね、悪いことしたよ」
浮気のことだろう。王太子の秘め事をあっさりと婚約者にバラすとは、エリナも口が軽い。が、それだけに、コーデリアは彼女を味方につけたいと思った。自分の親族が一人もいない王宮で、捨てられそうな不安と戦っているコーデリアは、スパイのように情報を教えてくれる存在が欲しいと思っていたのだ。
「殿下が、何か?」
「ランに、奥さんと婚約破棄して、お前を娶るって言ったんだよ」
爆弾級の衝撃。
頭がクラクラする。しかしまだ、心の半分くらいでは、下手に大騒ぎをしなければ元の鞘に収まると信じていた。
「あ……ありがとう、エリナ。とっても言いにくいことを教えてくれて」
「あたし、奥さん好きだからさ。すっごくきれいだし、憧れちゃう。でも旦那さんは嫌い。サディストのクズ。あんなのが、次の王様になっちゃ駄目だよ」
「シッ! 聞こえたら、恐ろしいことになるわよ」
「ねえねえ、旦那さんの弟の、第二王子に鞍替えしたら? あっちの王子様は、旦那さんと違ってちゃんとしてるって。国の将来のことをすごく考えてるんだってさ」
「王太子殿下も、きっと深く考えておられますよ」
「全然、全然。女を抱くことしか考えてないって」
自分より若い女官の言うことが、どうも真実を突いている気がした。
「あ、でもね、弟のレオ王子様は、女嫌いで有名。だから相当頑張らないと、ハートはつかめないよ。いや、やっぱり奥さんの美貌なら無双か。なーんて」
レオ第二王子は、後宮でも女嫌いと信じられていた。しかし繰り返すが、それは真実ではない。内面の美しい女性には、彼も心を惹かれるのである。
(鞍替えか……)
コーデリアは、空中に浮かんだ第二王子の顔を、手を振って急いで消した。
(とにかく、王太子様の移り気は許そう。今は辛抱して、大騒ぎをしないこと。だって相手はただの女官ですもの。慌てず騒がず、王太子妃の座をしっかりとつかむのよ、コーデリア)
「ところでエリナ、そのランというのは、どんな女性?」
「あ、知りません?」
エリナは目を輝かせ、
「後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ」
あっという叫びが、コーデリアの口から洩れた。
まさか、毒見役とは!
毒見役。
賤役(せんえき)である。
賤しく禍々しい「解毒の術」を体得した一族の女。
身分的には奴隷と変わらない。それこそ王太子が蔑み、餓死しても構わないと公言している農民たちとも。
ではなぜそんな奴隷の少女が、后妃(こうひ)や女官の住まう後宮に大切に囲われているのか?
そこにはシェナ王国の、暗い物語があった。
シェナ王国は昔から権力争いが絶えない。
王が絶対的な権力を持つため、出世願望を持つ男どもが、王に取り入ろうとして醜い争いを起こすのだ。
その結果どうなるかというと、王の周りをおべっか使いのイエスマンばかりが固めることになる。
王の政務の補佐をする宰相や大臣しかり、王の世話をする執事や侍従しかり、また戦争をする陸軍官や海軍官もそうだった。
これには危険がある。つまり調子に乗った王が暴走しやすく、また実際にそうなったときに、誰も暴走を止められない状態が完成してしまっているのだ。
過去に何度もそれで国が存亡の危機に瀕した。「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の有名な格言どおりである。
このとき、真剣に国を憂い、国民を救いたいと願う真の愛国者はどうするか?
王の暗殺を企てるのである。
理論的に考えて、国と国民を救う方法はそれしかない。腐敗しきった組織を立て直すには、頭をバッサリと切り落とすしかないのだ。
しかし暗殺は難しい。独裁者という者は、自身の権力をわずかでも脅かす者の存在を許さない。したがって巧妙にスパイ網を張り巡らし、少しでも自分に対して反抗的な発言をした者を見つけると、その家族も含めて容赦なく処刑した。
独裁者とは、容赦ない殺人者の別名である。
現在の王、グレイス二世も例外ではない。
気に入らない人物に次々と反抗者の烙印を押し、徹底的に弾圧し、粛清した。
そして絶対的な権力を確立すればするほど、必然的に確率の高まる暗殺の可能性に怯え、歴代の王が皆そうだったように、スパイや毒見役を重宝した。
毒見役には特殊な家系の者しかなれない。
それは、秘法である「解毒の術」を代々伝えてきた家系だ。
彼らに名字はない。
それぞれ出身の地名をとって、セイユの者とかルースの者とか呼ばれる。
彼らは王室に対しては、一族の中でもっとも容姿の良い若い女を毒見役に推薦してくる。
それが王に選ばれる最大にしてほとんど唯一の条件であることを、彼らは経験的に知っているのだ。
資産家の貴族や有力な大臣などではなく、国王陛下に選ばれること。これ以上に、毒見役の家系にとって誉れとなることはない。
だから彼らは、「解毒の術」を極めるのと同じくらい、「美顔の術」をマスターすることに腐心した。
肌を美しくするためには、人間の胎盤を闇ルートで買い漁り、全身に塗りたくるようなこともした。おぞましい話ではあるが。
さらにまた、毒に対する耐性をつけるため、赤ん坊のころから少量の毒を摂取し続けることによって、異様なほど肌が透き通ったり、不思議な色の髪や瞳に成長することがまれに起こった。
これなどは、普通人では決して獲得することのない、毒の作用による凄絶な「美」であると言えた。
したがって、王が毒見役の女に手をつけることは、シェナ王国では珍しくなかった。というより、ほとんどそうした。
凄絶な美を持つ毒見役の女と、絶対的権力者の国王の交わりーーそれは爛(ただ)れた王宮の暗部、この三千年の歴史を持つ国家の秘められた物語であった。
◆◆◆◆◆
セイユの者のラン。
というのが、ジェイコブ王太子が「見初めて」しまった毒見役の少女の名だ。
『後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ』
コーデリア付きの女官のエリナが、まるで後宮の誉れであるかのようにそう言った。
(十四歳ですって? でも、毒見役が王室に我が身を売り込むためなら、年齢詐称くらい平気でするだろう。だから本当のところはわからないわ)
コーデリアは吐き気がしてきた。
(ラン……いかにも奴隷らしく、また何となく騒動を巻き起こしそうな名前だ。もし私が名門貴族のしつけをされていなかったら、ランと聞いた瞬間に、部屋の床にぺっと唾を吐いたところだ)
コーデリアがここまで怒りの炎を燃やしたのは、ランという少女が卑しい身分だからではない。
いや、確かに、奴隷身分の毒見役に王太子がプロポーズしたという事実は、怒りを増幅させた。
(何を考えてるの。身分差結婚にも、程がありすぎるでしょうが!)
奴隷が王太子妃の座に収まることを想像すると、吐き気に加えて頭痛もした。いくら何でもありえない、まさかそんな馬鹿な真似を王家の人間がするはずがない、と考えて必死に気持ちを落ち着かせようとする。
しかし……
後宮一の美貌、というフレーズが、頭をぐるぐると回る。
(まさか、まさか、まさか……)
コーデリアにめまいがするほどの怒りを覚えさせたのは、彼女が「美貌」でランに負けたかもしれないという、にわかには信じがたい疑惑だった。
(私が美貌で負ける? このコーデリア・ブラウンが? まさか、まさかだわ)
が、その可能性は否定できなかった。
毒見役の美しさは別物だ。
なんせ、毒の作用が関与しているのである。
(王太子様は私の顔に一目惚れして下さった。ということは、もっと目を引くような顔に出会ったら、たちまち心を移してしまうこともあり得るのだ。いったいランという女は、どんな顔をしているのだろう……)
エリナに訊きたかったが、訊くのが怖くもあった。彼女は想像した。すると想像の中の少女は、青い血管が透けて見えるほど、毒々しくも美しい肌をしているのだった。
(きっとランは、全身を毒に冒されているのだろう。ひょっとすると、身体全体が毒になっているかもしれない。そんな少女とキスでもしたら、たちまち相手の男は、毒がまわって死んでしまうのではないだろうか?)
いっそのこと、ジェイコブ王太子もそうなればいい。美貌で負けたかもしれないという嫉妬に苦しんだコーデリアは、そんなことさえ願った。
毒見役。
ジェイコブ王太子にとって、それは決して手に入らぬ幻の宝石だった。
毒見役を選ぶのは常に王である。
その基準は、美貌だけであった。
実際、グレイス二世が即位してからの九年間で、王の食事に毒が入っていたことは一度もない。なので、その仕事といったら、王家の美食のメニューを毎回一口ずつ食べるだけであった。
だから、その存在は万一の保険であって、本当に役に立つのは十年に一度あるかないか。であれば、付加価値が欲しい。それが「美」である。
なので彼女たちの実際的な任務は毒見にはない。その美しさを、王に差し出すことがそれだ。
どの時代も、王は、若くて美しい「肉」を好んだ。その点で言えば、毒見の一族に勝る者はなかったのである。
歴代の王に倣い、グレイス二世も、数年ごとに毒見役を変えた。新しい「若くて美しい肉」を求めてのことだ。
もちろん王妃は、それを黙認した。毒見役に嫉妬するなど愚かなこと。王家の女性たるもの、英雄の色好みは微笑みで許容するのがごく当たり前のたしなみであった。
が、ここに嫉妬に狂った男がいた。
ジェイコブ王太子である。
シェナ王国において、王太子が望んで手に入らぬものはない。ところが毒見役だけは、どうしても手に入らなかった。王の所有物だからである。
(あの、この世のものとは思えぬほどの美少女を、父は抱いている……俺も欲しい、欲しい、欲しい)
王と同じ食卓につき、毒見役の女が毒見をしているのをじっと見ているとき、王太子はひどく飢えを覚えて胃がキリキリと痛んだ。
毒見役の女が口を開け、フォークで刺した野菜を口に入れる。
赤い唇をすぼめて、スープをすする。
頬の肉を動かして、魚を咀嚼する。
デザートの生クリームが唇につくと、さっと舌が出てそれを舐めとる。
白い喉を見せながら、ワインをゴクリと飲み下す。
グレイス二世は、悠然とそれを眺めている。王太子も同じく悠然とした態度を保っているが、心の裡(うち)ではそうではない。父親とその女との交わりを想像して、ほかのものはすべて捨ててもいいから、その女が欲しいと願うのだった。
(ああ、俺はなんと不幸なのだろう。毎食毎食、決して手に入らぬ父の所有物を見せつけられている。一人くらい俺にくださってもいいのに……みじめだ)
シェナ王国で好き勝手に振る舞いながら、たった一つだけ好きにできないもののことを思い、王太子は自分の境遇を憐れんだ。
そんな怏々として楽しまない日々を送っているときに、コーデリアからの手紙が届いたのである。
ジェイコブはおかしなことを閃いた。
(父にこの女を差し出して、代わりに毒見役の女をもらうというのはどうだ?)
そう思いつくと、矢も盾もたまらなくなった。
コーデリアに返信を書き、一目惚れしたと嘘をつく。
父親にコーデリアの写真を見せ、毒見役との交換を持ちかける。
頷くグレイス二世。親子のあいだで、こんな会話が交わされる。
「陛下、私もこの婚約者の肉には手をつけませんから、陛下も新しく選ぶ毒見役には、どうか手をつけずに私にくださいますように」
「わかった。しかしこの写真の娘は、素直に余のものになるかな?」
「なりましょう。この国の民は皆、陛下を崇拝しているのですから」
「王太子妃になれると思っていたのが毒見役にされたら、悲嘆して舌を噛み切るかもしれん。余は死人の肉は好まんぞ」
「死ぬとは思えませんね。手紙の文章を読むかぎり」
「妻の意見を聞いてみるか。我々より女の気持ちがわかるだろう」
ポーラ王妃はその計画を聞くと、
「毎日泣くでしょうね、その娘は」
グレイス二世は口をへの字にした。
「泣く女をなだめるのは、余の趣味ではない」
ジェイコブ王太子は焦った。
「大丈夫ですよ。落ち着いたら、陛下のものになったことを喜ぶようになるでしょう」
「しかし、毒見役の女であれば、飽きたら一族の元に返せばよい。この娘はそうはいくまい」
ポーラ王妃が意見した。
「ブラウン家といったら名門ね。もし婚約破棄をするのなら、それなりに事情を説明して家に返さないと、うるさく文句を言うかもしれないわよ」
「まあ文句を言ってきたら反逆罪にしてやるが、貴族どもに不満分子を生んでもつまらんな」
王の言葉に考え込む三人。やがてポーラ王妃が、
「こうしたらどうでしょう。この娘が崇高な王室に仕えるために、自ら志願して毒見役になったことにするのです。それは立派なことなのだから、両親も娘の行動を咎められないでしょう?」
えっ? という顔を、グレイス二世はした。
「そんな話、親は信じるかな? いずれ嘘がバレるんじゃないか?」
「バレる前に、毒殺なさい。私、この娘が死ぬところを見たいわ」
自らの異常な性癖を暴露する王妃。すると王も、
「泣かれるくらいなら、殺してしまおう。歳をとって醜くなる前に、人生でいちばん美しいときに死ぬのが、この女にとっても幸せなのだから」
ジェイコブ王太子は、飛び上がって喜んだ。
「そうです、そうです、私もこの女を殺したかったのです! 図々しい手紙を書いて、私を不快にしたのですから」
殺人に同意した息子を、王妃は母親の顔で優しく見つめた。
「それはこの娘とブラウン家にとって、いいことでもあるのよ。陛下の毒殺を阻止して亡くなったとあれば、その名は歴史に残ります。女性国士として、永遠に国民のあいだで語り継がれるでしょう」
グレイス二世も満足そうに手を打つ。
「よし。盛大な国葬をやろう。どれほど盛大にしてもよい。かかった分は、税を増やせばよいのだから」
こうしてサディストの三人は、自分たちの考えた趣向に酔い、高らかに笑った。
王が毒見役の交代を宣言し、候補者が王の間に集められた。選りすぐられた美少女が七名。しかし一人だけ、断トツに輝いている者がいた。
「……セイユのランだな」
「……ランですね」
いつもなら、毒見役の選定は王が一人で決める。しかし今回は異例ながら、選定の場に王太子が呼ばれた。いずれ国王になれば毒見役の選定をするのだから、やり方を見ておくようにという理由で。もちろんそれは表向きの理由で、実際はジェイコブ王太子が自分好みの女を選ぶためだったが、表向きの理由がそうであれば継承順位二位の次男を排除するわけにいかず、レオ第二王子もその場に呼ばれた。
「どうだ、レオ。お前ならどの女を選ぶ?」
父王とも意見が一致し、ランにすることに決めてはいたが、いちおうジェイコブ王太子は弟に訊いた。
「誰でも」
第二王子はムスッと答えた。こんなことには関心がないし、女の顔など見たくもないという態度で。
「そうか。俺はセイユの者を推薦した。きっと陛下もあの女を選ばれるだろう」
王太子が言ったとおりに、グレイス二世がランを指名した瞬間、第二王子の口からフーッと息が洩れた。
それには、ある特殊な事情が関係していたのだが、それを知らないジェイコブ王太子は、「何だ、弟もやっぱりランに注目していたのだな」と思った。
とはいえ、選ばれた十四歳の少女は、コーデリアのような華やかな美人でも、毒の作用を感じさせる「凄絶な美」を持つ女でもなかった。
ランに派手なところは一つもない。
髪は黒くて癖がなく、清潔感のあるショート。
目も鼻も口も小ぶりで、上品。
毒見の一族には珍しく、健康的な印象。それがまぶしいような光を放っている。
ジェイコブ王太子は、このときこそ本当に「一目惚れ」した。実に、人生で初めてのことである。
すると、まことに奇妙なことが起こった。
女性差別主義者で、女は欲望のはけ口としか見ていなかった王太子の心に、ランを讃美する気持ちが湧き上がってきたのだ。
(なんと不思議な気持ちだ。口の中は甘く、胸の中では菜の花がいっぱいに咲いたよう。ひらひらと蝶々まで舞っている。それなのに、ひどく切なく苦しい……これが、恋とかいうものか?)
あの死んでも治らぬサディストが、恋の意味を知ったなどと告白したら、医者もたまげて治療室に収容するだろう。しかしこの「病い」ばかりは、どんな注射でも治りそうになかった。
こうして新しい毒見役が決まったのは、ジェイコブ王太子がコーデリアの顔にゲップをした翌日の昼であった。さっそくランは、後宮に入ることになった。
その直後に、王太子は後宮を訪ねた。
「新しい毒見役と話がしたい」
異例のことである。毒見役はすなわち、王の所有物である。王太子に用のあるはずはないのだ。
しかし、王太子の命令は拒否できない。応対した女官のエリナは、ランの部屋に行った。
后妃(こうひ)とは違い、女官の部屋は質素なものだ。ましてや毒見役には、いちばん狭く殺風景な部屋があてがわれるので、人によっては牢獄を連想するほどである。
「ランさん?」
部屋をノックすると、どうぞという返事。エリナがドアを開ける。すると家具も何もない部屋の床に、毒見役の少女が肘枕をしてゴロンと寝転んでいた。
(まあ、後宮に入ってきたときの清楚なイメージとは、ずいぶん違う……)
意外な気がして立ち尽くしていると、ランのいたずらっぼい目とエリナの目が合った。
その瞬間、ドキンと胸が鳴り、エリナはランが好きになった。
(あら、なんてこと。自分と同じ十四歳の女の子にこんな感情を持つなんて……でも女だろうと何だろうと、この子を見たら好きにならずにいられない!)
不思議な魅力に打たれた。そしてその魅力を、これまでに会った誰にもなかったものと感じた。
(まるで宇宙人というか、私たちとは全然違う星から来たみたい)
エリナに学はなかったが、勘は鋭かった。王宮の中でいちばん鋭いと言ってもよかった。
「あの……王太子様がお呼びです」
と、肘枕の少女は顔をしかめ、
「ダル」
と言った。
(ん? ダル? 何だろう。異国の言葉かしら?)
意味がよくわからずにポカンとしていると、ランはよいしょと立ち上がった。
「あなた、お名前は?」
「え? ああ、エリナです」
「エリナさん、そばにいて。王太子が何を言うか、証人になってね」
様をつけずに王太子と言ったことに驚いているうちに、ランはずんずん廊下を進んだ。
後宮の入口の扉で、毒見役の美少女はジェイコブ王太子と対面した。
「あ、あ、あ、あの」
とても独裁者の長子とは思えない、緊張丸出しの声で王太子は言った。
「ち、父からの命令で、決まったことがある。そ、そ、その……」
カラカラに乾いた唇を舐めて、王太子は一息に、
「婚約者のコーデリアとは婚約破棄する。そしてあなたを正式に妻として迎える。ここ、これは勅命であるし、コーデリアも身を引いて毒見役と交代する所存だ。でで、では、そのつもりで」
まるでラブレターを渡した直後の少年のように、真っ赤な顔をして立ち去る王太子。それを見てランは、
「ダサ」
と言った。これもまた異国の言葉だろうーーエリナはそう思った。
エリナはコーデリア付きの女官であり、美しい女主人を好きであった。だから王太子から聞いた話には、憤懣やるかたなかった。
二人でランの部屋に戻ると、さっそく怒りをぶち撒けた。
「陛下はひどすぎる! いったい何を考えてるの!」
ランは「まあ座って」とエリナに床を示し、
「王があんな命令するわけないじゃん。何も得しないんだから」
少し落ち着きを取り戻したエリナは、
「えっ、じゃあ?」
あぐらをかいて座る美少女に、尋ねる視線を向ける。すると、
「きっと王太子は、婚約者に飽きたのよ。それで私と交換したくなったんじゃない? ダッサ!」
あの好色のサディスト王子ならやりそうなことだ、と思いながら、エリナは訊いた。
「ねえ、ランさん。ダサとかダッサってどういう意味? どこの国の言葉?」
「え、知らない? ダサいっていうのは、かっこ悪いってこと。外国語じゃないよ」
「ふーん。初めて聞いた。じゃあダルは?」
「ダルい。めんどくさいって意味」
「難しい言葉を知ってるのね」
「難しい……あー、宮廷や貴族社会では使わないのね。平民とか奴隷は普通に使ってるよ」
エリナは床に座ってくつろいだ。
「で、どうする? 王太子様と結婚するの?」
オェーと吐く真似をするラン。
「冗談じゃない。じゃあ逆に訊くけど、あなたはゴキブリと結婚したい?」
「でも命令されたら、逆らえないでしょう?」
「殴って逃げる」
「無理よ」
「いや、勝てる。あいつ動き遅いもん。ボディを蹴って、ガラ空きになった顎を打ち抜く」
シュシュシュと言って、ランが目にも止まらぬ速さでパンチを繰り出すと、エリナの青い髪がふわっと広がった。
「すごい。拳闘ができるのね?」
とはいえ、もし王宮内でそんなことをしたら、たちまち衛兵に取り囲まれて銃殺されるだろう。
エリナは目を細めて、毒見役の美少女を見た。
「……ねえ。あなた本当に、毒見の一族の出身?」
鋭い質問だった。
ランはニヤッとするだけで答えない。
さらに質問を重ねる。
「ランさん。あなた、王宮の毒見役になるのが、王様の女になることだって知ってるわよね?」
これにもニヤニヤ。エリナは畳み掛ける。
「だとすると、閨房でのことを叩き込まれているはず。王様を悦ばせるために、たとえばどんなことを教わった?」
ついにランは噴き出した。
「王様を悦ばせる? アハハ。もし触ってきたら、ワンツーからのハイキックでノックアウトよ」
エリナは確信した。ランは決してセイユの者などではない。
「これでわかったわ。もしあなたが毒見の一族だったら、絶対にそんなことを言うはずがない。だって、雇い主の代わりに死ぬ役を務めるのだから、徹底してその雇い主を尊敬するように教育されているはずよ」
ランはまだ笑っている。
「ズバリあなたは、反体制派が送り込んだ女スパイ。そうなんでしょう?」
「だったら?」
もはや認めたも同然。
エリナは考え込んだ。
これほど大きな秘密を知ったからには、中途半端な立場ではいられない。
ランと王室、どっちにつくか?
あくまでも王室への忠誠を貫くなら、今すぐ部屋を飛び出して、スパイが侵入した事実を伝えるべきだ。
でもエリナは、そうしたくなかった。
ランを好きだったし、コーデリアを裏切った王太子を激しく憎んでいたから。
(私は王様も、お妃様も、王太子様も本当は好きじゃない。王室で好感が持てるのは、第二王子のレオ様くらい。この際、スパイに味方して、王室をひっくり返すのに協力しちゃおうかな?)
しかしそれは、危険すぎる賭けである。
バレれば死。それも、エリナの一族すべてが反逆者の烙印を押されて、極めて残酷な方法で、不名誉な処刑をされるに違いなかった。
「エリナさん、どうしたの? 難しい顔して」
エリナはムッとした。
「それはそうよ。あなたが、重大なことを隠しもしないから」
「ほんとは毒見の一族じゃなくて、スパイだってこと?」
「そうよ。スパイって、死んでも正体を明かさないものなのに。あなたはスパイの風上にも置けないのね」
「じゃあ私のこと、告げ口する?」
「したらどうする? 私を殺す?」
「んなわけないじゃん。私、エリナさん好きだもん」
エリナはキュンとした。
「エリナさんはいい人だから好き。好きな人に、嘘はつけないでしょ?」
「ありがとう。私もランさんが好き」
「じゃあお互いに、さん付けをやめようか?」
「うん、ラン」
エリナはデレッとした。
「エリナ、あなたを巻き込むつもりはないし、絶対に迷惑はかけないから安心して」
「ありがとう。でも、協力できることがあったら遠慮なく言ってね」
「今のところ頼むことはないわ。ところでエリナは、コーデリアさんの世話係なのよね?」
「うん」
エリナは頷いた。エリナの女主人は、仕事をほとんど言いつけないので、こうして後宮で暇にしていられることが多いのだ。
「そしたら、王太子の裏切りを教えてあげて。きっと近いうちに、『お前を毒見役と交代する』って言われるよって」
「心の準備をさせてあげるのね」
「それで、もしそう言われたら、『では毒見役の心得を教わってきます』と王太子に言って、私を訪ねてくるようにと伝えて。そうしたら、コーデリアさんを救けてあげられるかもしれない」
「本当に? 奥さんを救けてくれる?」
「うまくいけば。でも救けるのは私じゃなくて、私のボスだけど」
「反体制派のリーダーね。どういう人?」
「あなたもよく知っている人よ、エリナ」
不思議な「毒見役」の少女は、純粋な心から味方になった同い年の女官に、魅力的ないたずらっぽい目を向けて言った。
「その人の名前は、レオ第二王子」