ランはこっそり自室を出た。
深夜である。向かった先は、王宮の地下にある厨房。
小腹がすいて眠れないから、ちょいと盗み食いにーー
来たわけではない。
いくら元は普通の中学生で、かなり能天気なタイプでも、そこまでハチャメチャなことはしない。
彼女は彼女なりに、真剣に考えていた。
(あのゲスの王太子、コーデリア様を毒殺しようとしてるなら、きっと料理長に頼んで、毒物を用意してあるはず。コーデリア様には【胃薬】を渡してあるから大丈夫だけど、万が一手違いが起こって別の人ーーたとえば王妃とかーーが死んだら面倒だわ。第二王子の計画が狂っちゃう)
だから、毒を探して処分するのがベストだ。布団にもぐってからそう思い立ったので、むくっと起きて、暗い廊下をそろりそろりと歩いたのだった。
(何だか修学旅行のイタズラみたい。夜こっそり、先生の目を盗んで旅館の探検……あーあ、あっちでもう少し生きていたら、中学校の修学旅行に行けたのになー)
そのぶん異世界で、青春を取り戻さないと。ランは思い出づくりのためにも、このクーデター計画の中で、何かしら重要な役目を果たしたいと願った。
厨房に鍵はかかっていなかった。
そもそも鍵がついているのは、王家の人々の私室くらいである。だから、衛兵に見つかって射殺されることさえ気にしなければ、いくらでも侵入し放題であった。
厨房の入口にランタンがあった。中のろうそくにマッチで火を点けて、その灯りを頼りに毒の保管してありそうな場所を探す。
まずは棚。大小さまざまな壜。これが怪しい。
(ドクロマークなんて貼ってあるはずがないから、中身が毒かどうかは、舐めてみなければわからない)
ランはいちばん手前の壜を取り、中身を手のひらに出して舐めてみた。しょっぱい。きっと肉料理につかうソースだ。
こんな調子で、十数本の壜のテイスティングをし、非常に切迫した喉の渇き(み、水!)を覚えたときに、ごく初歩的な誤りを犯していることに気づいた。
(そういえば、毒って変な味がするとはかぎらない。無味、無臭のものもある。毒を服んでも死なないし気分も悪くならない私が、いくら舐めてもそれが毒だとわかるはずがない)
こちらの世界に存在する「毒」が、ランにとって無害であることが、この場合は仇となった(毒の味がわかる舌を、天使に転生特典として要求すれば良かった!)。
が、ここで諦めるわけにはいかない。味で判断できなくても、見た目でいかにも怪しそうなのが、どこかにあるかもしれない。
ランには、さっきから気になる物があった。
木製の氷の冷蔵庫である。
(アンティークだなあ。といっても、こっちにはまだ家電がないんだから当たり前か。どれ、中を見てみよう)
ランの背とほとんど同じくらいの高さの冷蔵庫には、二つ扉があり、上の扉を開けると、四角い大きな氷が入っていた。
(氷屋さんから買ったのかな? それとも王宮のどこかに氷室(ひむろ)でもあるのかな? なんせ今日来たばかりだから、細かいところは全然わからない)ーーちなみに正解は、氷屋さんである。
ランは下の扉を開けた。
紙に包まれた物が入っている。
取り出して紙を開くと、肉の塊だった。
「牛肉かな? きっと最高級品ね。私まだサーロインっての食べたことないんだよな。明日の食事が楽しみ」
豪華な食卓を思い浮かべて、危うく何のために来たのか忘れそうになる。
ランはほかの包みも取り出してみた。どれも中は肉だった。
「肉専用の冷蔵庫なのね。どれ、最後の包みも見てみよう」
その包みの中身だけ、匂いも見た目も違った。
匂いは魚で、見た目は内臓だった。
「は? 魚の内臓? こんなにたくさん? ちょっとグロテスクだけど、これも高級食材なのかな」
ランは広げた包みをしばらく眺めた。
やがて、
「何か怪しい」
独り言を洩らした。
「……ひょっとして、これが毒じゃないの?」
このいかにも気色悪いものが、冷蔵庫のいちばん奥に隠すようにしまわれていたことが、ランの疑惑を深めた。
「毒があるとかいう、フグの内臓かもね」
ビンゴだった。女官のエリナもそうだが、若い女子の勘には、なかなか侮りがたいものがある。
「これが毒だとして、どう処分すればいいんだろう? 流しやトイレに捨てるのは最悪。その場合、行き着く先は王宮の近くを流れる川だから、罪のない川魚をたくさん殺しちゃう。ゴミ箱に捨てるのももってのほか。残飯の処理方法として、家畜のエサや畑の肥料にされたら大変。そう考えると、どうやら私が全部食べるしかないようね」
ランは、そのぬめぬめとした、白っぽいフグの肝臓を、指でつまんで口に近づけてみた。
「ウ……ウ……オェッ!」
食べられなかった。悲しいかな、いくら猛毒の処理という重大な使命を帯びていても、これが十四歳の少女の限界だった。しょせん崇高な使命感や責任感などに、ゲテモノを飲み込ませるだけの力はないのである。
「どうしよう。困った」
天を仰いだときだった。
天井に張りついていた何者かと、目が合った。
「わっ!」
ランは悲鳴を上げ、とっさに逃げようとした。
(今のは何? ニンジャ? スパイ? とにかく私は常人の二百倍のすばやさがある。相手が何であっても絶対逃げられるはずよ!)
ランは閃光のようなすばやさで、厨房の扉に達した。
がーー
相手のほうが速かった。
ついさっき天井にいた何者かの手に、扉を開けようとした手は押さえられてしまった。
グレイス二世はスパイを多数抱えていた。
彼らは、貴族や平民や奴隷などに扮し、それぞれの階層で、普通に社会生活を営んでいた。
国民の中に、王や王家の悪口を言う者がいるか、反体制の思想を持つ連中が集まったりしているか、外国に逃亡しようとしている者がいるか、また外国から侵入したスパイがいるかなど、さまざまなことに目を光らせて、情報を収集し、王に直接報告しに訪れるのである。
グレイス二世は、自分とスパイとのあいだに、役人を決して介入させなかった。側近中の側近である宰相もしかり。つまり彼は、側近よりもスパイを信用していた。それほど独裁者というものは、ある意味孤独なのだった。
(信用できるのは、スパイと軍人だけだ。あとの者には、常に疑いの目を向けていなければならぬ。そのくらい用心深くなければ、我が王国の独裁体制を、長く安定させることはできない)
その夜、晩餐も終わってさあ寝ようかというときに、一人のスパイが報告に訪れた。
スパイに対しては、二十四時間いつでも会うと伝えていた。重大な情報があれば、それを聞くのを何時間も遅らせたくはない。だから真夜中であろうと、翌朝まで待つことなく、一刻も早く告げに来いと。
そのスパイは、農民のあいだに紛れている者だった。
「妙な噂を聞きました」
王は寝室で、寝巻き姿のまま、ベッドにあぐらをかいた姿勢でスパイの話を聞いた。
「クーデターがあるというのです」
王の眉間に、深いしわが刻まれる。
「その噂の主は、仙女の老婆です」
「仙女?」
王の口から、不審げな声が洩れる。
「仙女とは、おとぎ話によく出てくる、あの仙女か?」
「はい」
片膝を床についた格好で、スパイが頷く。
「巷(ちまた)にはいろいろと怪しげな者がおります。錬金術師やまじない師や星を読む者など。彼らの多くはペテン師ですが、この仙女に関しては、確かに不思議な術を用いるようです」
「たとえば?」
王は興味を引かれて訊いた。
「はい。その老婆は、普段は山奥の洞窟に暮らしているそうですが、【地獄耳】という術を用いて、山の麓(ふもと)の農村での会話を聞いているようです。会話をピタリと言い当てられた、という証言が山ほどあります」
「それは、単に盗み聞きしたのではないのか?」
「見渡すかぎり田んぼで、隠れ場所のないところでした会話も聞かれたとか」
「まあ、それはよい。その老婆が、いったいどんな噂を流したのだ?」
スパイは声を低く抑えて言った。
「近頃仙女は、一家心中しようとしている農民の家を突然訪問し、死ぬ必要はない、もうすぐ世の中が変わって奴隷は解放されるから、と告げまわっているようなのです」
「もうすぐ世の中が変わる……」
王は腕組みをした。
「それはクーデターを意味しているのか? よくある救世主伝説の類いではないか?」
「いずれにしても、仙女の予言はよく当たります。彼女が晴れると言えば晴れるし、降ると言えば降る。土砂崩れや川の氾濫も前もって当てるので、農村では多くの人命が救われています」
「その老婆が、まもなく世の中が変わると言ったのだな?」
「そうです。そのためいくつかの農村では、近いうちにクーデターがあるようだという噂になり、それが私の耳に入ったのです」
スパイの話はここまでだった。
あくまでも田舎での噂。何の証拠もない。
噂の出どころは、怪しげな老婆。
その老婆の言葉を信じるか?
単に気安めを、自殺しようとしている農民に言っただけではないか?
しかし、天気や災害をピタリと言い当てるというのが本当なら、どうにも不気味だ。
クーデター。
ありえない話ではない。
「報告ご苦労であった。引き続き情報収集に努めよ」
と言ってスパイを下がらせたが、グレイス二世から眠りはすっかり奪われていた。
クーデター、クーデター……
王の脳裏には、一人の顔が浮かんでいた。
次男のレオ。
(もし、仮に、クーデター計画があったとする。その場合、誰が新体制のトップになるか。反体制派が担ぎ出すとしたら、王の血を引きながら王位継承から外れた者、すなわち第二王子……)
いや、まさか、あの虫も殺せぬような軟弱な息子がクーデターなど……と否定しようとしたが、逆に軟弱であるだけに、反体制派に近づかれて説得されたら強く断われないのではないかと、息子を疑う気持ちが大きくなっていった。
(そう言えば、あいつはいつからか、我々と同じ食事をしなくなった。世の中に飢えている人がたくさんいるのに、それを知りながら美食を食べたくはないと。フン。軟弱な思想だと思ったが、その思想を推し進めれば、奴隷解放につながる。どうもあいつは、生かしておいたら危険な気がしてきた)
グレイス二世はせっかちだった。ひとたび危険だと思うと、すぐにでも排除しなければ気が休まらない。衛兵に言って、今夜にでも暗殺させるかと、そんなことさえ頭をよぎった。
まさにその瞬間、寝室の扉がノックされた。
(スパイが戻ってきたか?)
と思ったが違った。衛兵隊長のコールマンが、「王妃殿下が参りました」と告げ、当のポーラ王妃が、目を潤ませて入ってきたのだ。
扉が閉まるなり、むしゃぶりついてくる王妃。
「待て。どうして女のほうから忍んできた?」
「だって、我慢できなかったのですもの。あなた最近、ちっとも来て下さらないから」
「今夜はよせ。そんなことより、重大な話がある」
王妃はすすり泣いた。勇気を振り絞った自分の行動を、そんなことの一言で切り捨てられたから。
「そうだ。お前と二人で話すより、コールマンも呼ぼう」
寝室の扉を開いて、
「コールマン、折り入って話がーー」
と言いかけた王は、ジェイコブ王太子がそこにいるのを見て驚いた。
「どうした、こんな深夜に?」
「えー、その、コーデリアが志願した毒見役との交代のことで、いろいろ心配になって眠れなくて……」
なんだ、下らない。そう思った王は、長男の話を遮って、衛兵隊長と長男に言った。
「二人とも中に入ってくれ。重大な相談がしたいのだ」
この夜は、眠れぬ人々が多かった。
王宮からおよそ百キロ離れた、山麓の農村。
星月夜の王都とは違い、こちらは、糠のような雨が降りつづいている。
その一軒の農家では、夜中になっても、八人家族の全員が起きていた。
「お母さん、見て。これ何だと思う?」
六歳の次女が、粘土で器用に作った人形を、母親に見せる。
「何だろうね。クマさんかい?」
「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」
「じゃあ猫かい?」
「全然違う! 猫はこんなしっぽじゃないよ。しっぽが特徴だよ。見て」
「降参。教えて」
「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」
ケラケラと笑う。ほかの子も、藁や竹や紙などで、熱心に工作している。普段は家の手伝いで一日中忙しく、夜は陽が沈めば寝てしまうので、夜中までずっと起きていて遊んでいいと言われたのは、どの子も生まれて初めてなのだった。
「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」
十二歳の長男も、この夜ばかりは、幼児に帰ったようにはしゃいだ。
「立派なお城じゃのう。わしも一度でいいから、王宮を見てみたかったものじゃ」
「爺ちゃん、行ったことないの?」
「ない、ない。わしが見たら、きっと立派すぎて、目が潰れてしまったかもな」
年寄りも、楽しそうに孫と話す。その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、
「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」
八人家族の十六個の目が、短くなったろうそくの炎に向けられる。
「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」
主人は、家族一人一人の前に、縁の欠けた茶碗を置いた。
その中に、ヤカンから液体を注(そそ)ぐ。どの茶碗にも、溢れるほどいっぱいに。
「子どもたちと爺ちゃん婆ちゃんが、中身をすっかり飲み干すのを見届けたら、俺と母さんも飲む。それで家族全員が、この地獄からおさらばできるんだ」
と言いながらも、目は真っ赤だった。
どれほど貧困に苦しみ、子どもらを食わせていく希望はなく、いくら考えても一家心中する以外に道は残されていなくても、死ぬのはやはり、最大限につらい決断だった。
「お父さん……味、まずくない?」
次男が訊いた。もしこの飲み物が美味しくなかったら、一気に飲めないかもしれない。一気に飲めなければ、ちゃんと死ねなくて、親に迷惑をかけるのではないかと、この子は九歳なりの頭で心配したのであった。
母親の、鼻をすする音が響いた。
「大丈夫よ。あなたたちの大好きな、リンゴジュースだから」
ありがとう、と六歳の次女が言うと、十歳の長女が急に泣き出した。毒入りジュースにありがとうと言った妹が、健気(けなげ)なような哀れなような、複雑な感情に襲われたのだ。
その幼い姉妹を、祖母が固く抱き締めた。
「……おいら、最初に飲んでいい?」
耐えきれなくなって、長男が茶碗を取った。
「いいか、見本を見せるからな。あとから真似しろよ」
口元に近づける。
青酸ソーダ入りのリンゴジュース。
飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。
(ためらうな。生きていたって、何もいいことはないんだ。死ねば楽になるし、父さん母さんも助かる。さあ、飲もう!)
自分に必死に言い聞かせる長男。
その口が、茶碗の縁に触れたときーー
「待つのじゃ!」
田舎の、鍵などない玄関の戸がいきなり開けられて、わっと驚いた長男の手から、茶碗が落ちた。
毒入りジュースが、床に敷いたゴザに広がっていく。
みな呆然として、深夜の闖入者の顔を見た。
まるでおとぎ話から抜け出てきたような、皺くちゃな老婆の顔を。
「間に合って良かった。あんたたちの会話は、わしの特殊能力の【地獄耳】で聞いた。一家心中など、やめたがいい」
主人は声もなく、その古代ふうの怪しげな紫色の布をまとった老婆を見ていたが、やがて、
(これは普通の人間ではない)
と結論づけて、質問した。
「……あなたは、誰ですか?」
「仙女じゃ」
正確には、職業「仙女」を選んだ転生者ということになるが、むろんそんなまだるっこしい説明はしない。
「仙女、ですか?」
「そうじゃ。噂くらいは聞いておろう?」
山の反対側の村に仙女が現れて、川の氾濫を予言したという話は農家の主人も聞いていたが、こうして実物を見るまでは、どうせキツネが化けたとかいう類いのホラ話の一つだと思っていた。
「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」
主人は信じられなかった。
「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」
この三千年の歴史を持つ独裁国家の体制が変わるはずがないーー農民を含めたほとんどすべての国民が、心の深いところで諦めきっていることだった。
「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」
「殺人ですよ!」
まだ絶望の中にいた主人に、冷静な反応はできなかった。
「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」
ヒステリックに食ってかかる。
それに対して、
(もう少し辛抱したら、必ず幸せになれる。それを伝えて、これまで十を超える家族が、心中を思いとどまってくれた。だから、この心優しい一家も必ずや……)
老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げた。
「あっ、待て!」
老婆が叫んだが遅かった。
主人は一息に、毒入りジュースを呷(あお)ってしまったーー
王の寝室の円卓に、グレイス二世、ポーラ王妃、ジェイコブ王太子の三人が座った。
衛兵隊長のコールマンは、王の正面、王太子の背後の位置に立っている。
「どう思う? レオを排除するべきだろうか?」
農民に扮したスパイから、クーデターの噂があることを聞いたグレイス二世は、レオ第二王子が反体制派に利用される可能性が大きいと考え、殺害したほうがいいかと悩んだ。その相談を、この深夜に始めたのである。
「それは早計よ」
ポーラ王妃は即座に反対した。
「レオがクーデターに関係している証拠はないし、第一、クーデター計画が本当にあるかもわかってないでしょう?」
まあ、レオの母親だからそう言うだろうな、と思いながら、王は頷いた。
「そのとおり。これには何の証拠もない。もしかすると、そんな計画はかけらも存在していないのかもしれん。しかし」
王の眼光が鋭さを増す。
「世の中に、そういう噂があるということ自体が問題だ。農民のやつらは、政権が転覆されることを望んでいるのだ。そういう邪(よこしま)な期待は、跡形もなく粉微塵に砕かねばならん」
王の鼻息が聞こえるほど、寝室がしんとした。
「余がこれをどれほど憂慮しているかわかるか? 奴隷というものは、隙あらば怠けようとする。予言が当たるという評判の老婆が、『もうすぐ奴隷は解放される』などと触れまわって歩けば、その気になって逃亡する準備を始めるかもしれん。少なくとも、今までは何も考えずに労働していたのが、こんなふうに考えるようになるだろう。いざ政変が起これば、俺たちは農具を武器にして、奴隷を解放してくれる反体制派の側について一緒に戦おう、と」
「お言葉ですが」
自由に発言してよいと言われていたコールマンが、直立不動のまま口を開いた。
「我が国において、クーデターないし政変の起こる可能性はありません。なぜならば、軍以外に武器および武力はほとんど存在しないので、せいぜい局地的な反乱しか起こりようがないからです。そしてそのような反乱は、我が軍が容易に鎮圧できます」
「外国から、大量に武器や傭兵が入ってくるという可能性はないか?」
「ありません」
王の懸念を、コールマンは言下に否定する。
「そもそも、我が軍に対抗できる組織や団体が存在しないのですから、外国も武器の売り先がありません。ましてや、すぐに鎮圧されるとわかっている反乱軍に傭兵など加わりませんよ」
暴力による政変はシェナ王国では起こり得ないというコールマンの見方は、正しかった。
だからこそ、レオ第二王子の狙う政権の転覆は、暴力によらないクーデター、すなわちチートアイテムを用いた謀略による無血クーデターなのであった。
しかしながら、この場にいる誰も、暴力以外にクーデターの方法があるとは思いつかなかった。そのため、王もいささか緊張をゆるめて、
「そうか。では、軍に任せておけばいいのだな?」
「はい、お任せ下さい」
「ジェイコブよ、お前もそう思うか?」
グレイス二世から突然話を振られた王太子には、特にどうという考えもなかったが、
(奴隷であるランを正妻に、という願いを聞いてもらうためにも、ここは自己アピールしておかねば)
と気を引き締めて、まともらしいことを言った。
「そうですね。確かにクーデターが成功する可能性はないでしょう。しかし陛下のおっしゃるように、反体制派がレオを担ごうとする危険はあると思います。だから今のうちに殺してしまえば、将来的にも禍(わざわい)の芽を摘むことになるでしょう」
「ちょっと!」
王太子の意見に、ポーラ王妃が声を荒らげた。
「そんな理由で第二王子を殺していいと思うの? もしあなたが病気や事故で突然死んだらどうなるの? 私はもう子どもなんか産めないから、王位継承者がいなくなってしまうのよ!」
王太子は慌てた。
(まずい、母を怒らせてしまった。こんなことが理由で、母が俺の結婚に反対してもつまらない。機嫌をとっておこう)
「もちろん、殺すというのは文字どおりの意味ではなくて、飼い殺しにするということです。生かしてはおくが、カゴの中の鳥のようにして、外部と接触させない。おかしな思想を持つ連中が、近づけないようにするのです」
すると王も王妃も頷いたので、ジェイコブ王太子は「よしっ」と心の中でガッツポーズをした。
「飼い殺しか。ではレオはすべての職務から外して、シェナ王国史の編纂の責任者でもやらせよう。日がな一日、王宮の図書室に閉じ込めておくのだ」
王が言うと、王妃も「それがいいわね」と相槌を打った。
「とはいえ、老婆の予言は気になる。地方領主や中央の文官に対しては、監視を強化する必要があろう。明日にも、陸軍官にはそう命じる。コールマン」
王は、直立不動の衛兵隊長を見据えた。
「王宮内のことはお前に任せた。おかしな動きがないか、常に見張っているのだ。特にこのような深夜に、こっそりと誰かと会っている者がいないかどうか。今からさっそく巡回せよ」
「はっ!」
せっかちな王の命令に、衛兵隊長は敬礼で応えると、回れ右をして部屋から出て行った。
「では失礼します」
ジェイコブ王太子も出て行った。コールマンに用があったので、急いで追いかけたのである。
寝室に、王と王妃の二人が残される。
「ねえ、あなた」
とたんに王妃が、猫のように喉を鳴らして甘えた。
「何度も言わせないでね。私、我慢できないの」
王は、今度は王妃の期待に応えた。
真夜中の廊下に、軍靴の床を踏む音が戛戛(かつかつ)と響く。
衛兵隊長のコールマン。
彼は、筋金入りの「愛国者」であった。
(世の中が変わるという噂か。冗談じゃない。そんな噂を喜ぶとは、農民どもは陛下を舐めている。天子たるシェナ国王陛下のために労働できることを、奴隷は喜ぶべきなのだ)
彼自身、衛兵隊長として、いつでもグレイス二世の盾となって死ねる立場にいることに、無上の悦びを感じていた。
(俺は、陛下のために生き、陛下のために死ぬ。これほど幸福な生き方はない。できることなら、国民すべてがそうあってほしい)
グレイス二世を崇めるコールマンは、今回のことを、決して軽く見てはいなかった。それどころか、極めて憂慮していた。
(国王陛下は、王妃殿下と王太子殿下の家族の情に流されてしまわれた。やはりレオ第二王子殿下は、暗殺なさるべきなのだ。残念ながらレオ殿下には、国王陛下を支える立場であるという御自覚がない。万が一のことがあって王位を継承されても、シェナ王国の伝統を守っていこうという気概もない)
だから、とコールマンは考える。
(飼い殺しなどという生ぬるい処置で、生かしておく理由はない。いつか危険分子になり得る。クーデターの起こる可能性がほとんどなくても、思想の違う次男などは、もっと早く殺してもよかったのだ。内憂は早めに除去するのが上策だ)
ランタンを掲げながら、廊下を行く。深夜に不審な行動をする者がいないかどうかを探るために。
角を右に曲がろうとしたとき、背後から足音がした。
振り返ると、王の寝室から出てきたジェイコブ王太子が早足で近づいてきた。
「コールマン。相談がある」
王太子は言い募った。父が誰よりも信頼しているお前に、ぜひ頼みたい。ご子息が本気で望んでいる結婚を、決して邪魔してはなりません。祝福するのです。そうすれば、王と王太子は一枚岩となり、国民に対する支配力がより強固になります。そのように、父に進言してもらいたいのだと。
何の話だ? とコールマンはしらけきった。婚約者を毒見役と交換? その奴隷女との結婚を祝福? 不穏なクーデターの噂に陛下が眠れぬ夜を過ごされていたときに、王太子殿下は、そんな下らぬことを考えていたのか?
コールマンは返事ができなかった。とてもではないが、はい、いいですよと請け合う気分になれなかったのである。
すると王太子が、薄暗い廊下でもはっきりわかるほど、表情を険悪にした。
「よく考えてくれ。将来王になる王太子の切なる願いを断わったら、どうなるか。やがて代替わりの時期が来たときに、新しい王の覚えがめでたくなければ、それまでに得た勲章をすべて剥奪されることもあり得る。軍人にとって、これほど不名誉で悲惨な末路はあるまい?」
露骨な脅迫。
コールマンの気持ちは暗くなった。
(この王太子殿下は、本当に国のことを第一に考えておられるのか……が、やはり御長男である限り、天子には違いない。我々ごときが、反感を覚えることが許されるお方ではないのだ)
「わかりました。ご期待に添えるようにいたします」
たちまち王太子は表情を明るくした。
「頼んだぞ。お前は本当に頼りになる男だ」
足音も軽く自室へと帰る王太子。コールマンはそれを見送ると、角を曲がった。
そのときだった。
廊下の先に、人影が見えた。
影は二つ。どちらもランタンは持っていない。
一人のシルエットは男で、もう一人は女。
二人とも、いかにもこそこそと、後ろ暗いところのありそうな様子で歩いている。
(怪しいやつらめ。何か企んでいるな。拷問ですべて吐かせてやる!)
愛国者の衛兵隊長は、鋭く誰何(すいか)した。
「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」
硬直する二つの影。
一人は料理長。
もう一人は女官のエリナ。
エリナは、コーデリア・ブラウンがあまりにも不器用で、毒見のときに【睡眠薬】を入れることができそうにないので、料理長に前もって食事に【睡眠薬】を入れてくれるように頼むことを思いついた。
料理長はコーデリアの大ファンだ。コーデリアの口からそれを頼まれたら、きっと断われないーーそう考えて、料理長をコーデリアの部屋に連れてくる途中であった。
料理長は料理長で、翌朝の朝食に「毒」を入れるようジェイコブ王太子に命令されて、悩みで眠れずにいた。
そこへ突然やってきたエリナに、
『王太子に良からぬことを頼まれて、悶々としてたんでしょう。どう、図星?』
と爆弾発言をされて、すっかり観念し、エリナに手を引かれるまま廊下を歩いているところだった。
そこへ誰何されて、料理長は気を失いかけた。
(嗚呼、もう何もかも終わりだ。妻や娘にも会えないまま、私はこの場で処刑される……)
エリナもまた、血の気を失った。
(まさか見つかるなんて……料理長には悪いことをした。きっと拷問で、何をするつもりだったかを吐かせようとするだろう。でも私は、たとえ殺されても一言も洩らすことはできない。こんなところで、レオ王子様の計画をぶち壊すわけにはいかないのだ)
戛戛(かつかつ)と軍靴の音を響かせて近づいてくるコールマン。
その姿は、不吉な破滅の使者のようだった。
「おや? お前は料理長だな。そしてお前は、コーデリア嬢に付いている女官か。どうした二人とも、小鳥みたいに震えて。何か企んでいるのか?」
料理長の身体が後ろに倒れそうになる。
エリナがそれを支えようと手を伸ばす。
「動くな!」
コールマンの怒鳴り声に、ハッと目を見開く料理長。
(殺される!)
パニックを起こした料理長が、くるっと後ろを向いて走り出す。
「待て!」
コールマンが追う。エリナもまたパニックになり、反射的に飛び出した。
コールマンは銃剣を突き出した。
(……しまった!)
威嚇のために突き出した銃剣だったが、暗い廊下で目測を誤り、その鋭い切っ先が、エリナの胸を抉った。
エリナは崩れるように倒れた。
仰向けになったエリナの青い女官服の胸のあたりが、見る見る赤い血で染まっていった。
その頃王宮の地下では、摩訶不思議なことが起こっていた。
(きっと厨房には毒が隠されている。万が一の事故が起こらないように、それを処分してしまおう)
そう思いついた「元毒見役」のランが、深夜に厨房に忍び込んだとき、何者かが天井に張りついていることに気づいた。
ランは逃げようとした。
が、常人の二百倍のすばやさがあるランより、その何者かのほうがすばやく、扉を開けようとしたランの手は、上から押さえられてしまった。
さっと振り向いて、何者かの顔を見る。
「あっ!」
ランは小さく叫んだ。
その顔はーーイケメンだった。
「あなたは……」
ランは一瞬にして、自分がまだ白崎蘭だった時代のことを思い出した。
「その節は、どうも」
ペコリと頭を下げるラン。
すると相手も、同じく頭を下げた。
「いえいえ、至りませんで。どうですか、異世界は?」
心配そうにランの顔を覗いたのは、まだ中学生だった白崎蘭の死後に転生特典をいくつも与えた、イケメンの天使だった。
「おかげさまで、楽しく過ごしています」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、毎日美味しい物を食べてゴロゴロしているというご希望には、残念ながら添えていないようで」
ああ、それは、とランは照れたように笑い、
「このゴタゴタが落ち着いたら、気の済むまでゴロゴロしようと思います。だけど、このゴタゴタしたシェナ王国に転生させてくれたおかげで、エリナとかコーデリア様とかレオ王子様とか、とても素敵な人たちと出会えたので、すごく感謝しています」
それを聞いた天使は、非常に申し訳なさそうに、羽をすくめた。
「それなんですが……まさか私も、運命がこんなふうになるとは」
天使の口ぶりに不吉なものを感じて、ランの心臓がドキリと鳴った。
「……こんなふうって?」
「これをお聞かせするのはまことに心苦しいのですが、レオ第二王子のクーデターは、失敗に終わります」
大きく目を見開くラン。天使は続ける。
「明日には、第二王子とコーデリアさんと宰相が処刑されます。エリナさんは、衛兵隊長に銃剣で刺されて、今夜中に息を引き取ります」
気がつくと、ランは床に座り込んでいた。
「嘘でしょ……みんなあんなに頑張ったのに……どうして?」
天使はますます小さく羽をすくめる。
「いくつもの偶然が重なって、計画が露見したのです。私は天からそれを見て、あなたに対して本当に悪いことをしたという気持ちになり、地上に降りて参りました。地上のことに干渉するのは、あまりいいことではないのですが」
それを聞いた瞬間、ランは天使の足にすがりついた。
「お願い! 干渉して! あなたの力で、地上の運命を変えて!」
ランは泣いていた。
本来天使というものは、このイケメンの天使に限らず、人間を護(まも)ってやりたいという深い愛情を持っている(堕天使は除く)。
なので、このとき天使は、ランの涙を見て胸が張り裂けそうになり、
「ああ、もちろんですとも! そのつもりで、私は地上に来たのです!」
たちまち顔を明るくするラン。
「運命は、変えられるのね?」
「きっと。いや、必ず。さあ、急ぎましょう。コーデリアさんの部屋の前へ」
急ぐとなると、ランと天使は速かった。
まるでつむじ風が舞い上がるように、あっという間に二人の身体は地下から二階に到達した。
その薄暗い廊下で二人が見たものは、腰を抜かしてへたり込んでいる料理長と、銃剣とランタンを提げて悄然と佇んでいる衛兵隊長と、胸から血を流して倒れているエリナの姿だった。
ランと天使が突如として現れたことに、まだ誰も気づいていない。
(運命を変えなきゃ!)
ランは何も考えずに行動した。
エリナを見降ろして立ち尽くしている衛兵隊長の前に行き、その顔をビンタした。
ランの力は、異世界人の百倍である。
女の子のビンタなど、軍人にとってはハエの止まったようなものだーー普通なら。
しかしこの場合は、百人の中学生に同時に張り飛ばされたも同然だった。
衛兵隊長コールマンの筋骨隆々たる身体は、まるでバレリーナのようにクルクルと回転し、意識を失ってその場にぶっ倒れた。
驚いたのは料理長である。
突然、空中から何物かが出現し(異世界人の二百倍のすばやさで動くとそう見える)、バチンと音がして、衛兵隊長がきれいにピルエットを回ったのだ。
「ななな、何だ?」
コールマンが床に倒れたかと思うと、羽の生えた人間が進み出て、それをお姫様抱っこの形にかかえ上げた。
「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」
ランはエリナのそばに跪いて、叫んだ。
天使はシッと言い、
「大きな声を出してはいけません。エリナさんなら、もう大丈夫です」
ランはエリナを見た。
その女官服の左胸のあたりは、真っ赤に染まっている。
「どうして大丈夫なの? 血が止まらないよ!」
「落ち着いて。ポーチから、薬を出せるでしょう?」
「あ、そうか」
ランは腰に常にポーチをつけていることを忘れていた。そのポーチからは、前に生きていた世界にある薬を取り出すことができ、異世界人にはそれが劇的に効くのだった。
「エリナ、待ってて。すぐ治してあげる」
ランはポーチから【絆創膏】を出すと、エリナの胸をはだけ、血を流している傷口に貼った。
出血は、すぐに止まった。
「……良かった」
ランはエリナに覆いかぶさって、優しくその身体を抱いた。
すると、エリナが目を開いた。
「あれ? 私、何で寝てるの? あのー、私の上にいるのはどなたですか?」
自分が刺されたことを憶えていないエリナを、ランはたまらなく愛おしく感じ、身体を押しつけてギュッと抱き締めた。
コーデリア・ブラウンは生きた心地がしなかった。
「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」
と、コールマンが誰何したときに、誰が何を言っているのかはわからなかったが、
(廊下で人がしゃべっている)
ということはわかり、ベッドで寝たフリをしながら、小刻みに身体が震えるのをどうにも抑えられなかった。
(もしかして、エリナが衛兵にでも見咎められたのでは? そして、料理長を私の部屋に連れてこようとしたこともバレたのでは? もしそうなら、私も含めて、怪しい行動をしたとして国王陛下の前に突き出されるかも。最悪の場合、地獄のような拷問を受けて、レオ殿下のクーデター計画を白状させられてしまうかもしれない……)
ここまできてレオ殿下を裏切るくらいなら、いっそのこと舌を噛み切って死のうーーそんな悲愴な決意を固めるほど、コーデリアの予感は悪い方向に膨らんだ。
そしてそれは、天使が介入しなければ、まさしく的中する予感であった。
やがて、料理長が逃げる足音、コールマンが怒鳴る声、エリナが胸を刺されて倒れる音なども聞こえ、コーデリアは悲鳴が出ないように掛け布団の端を必死で噛んだ。
(今にドアがノックされる。衛兵に、部屋から引きずり出される!)
恐怖で気を失いそうになるコーデリア。
ところが、ランがコールマンをビンタしたバチンという音と、「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」という怒鳴り声がしたあとは、ほとんど物音がしなくなり、コーデリアの部屋がノックされることもなかった。
(どうしたんだろう。エリナと料理長は、どこかに連れ去られたのかしら?)
不安が募って寝たフリを続けられなくなり、ベッドから降りて、そーっと部屋の扉まで歩いていったときに、
〈コツコツ〉
扉がノックされたので、わっと叫んでしまった。
しかしーー
「奥さん、エリナです。開けて下さい」
と、若い女官の落ち着いた声が、扉の隙間から聴こえてきたので、コーデリアは安堵のあまり膝から崩れ落ちた。
「良かった……見つかったんじゃなかったのね」
思わず独り言が洩れる。
コーデリアはゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。
すると、
「説明はあとでします。とにかく全員入れて下さい」
と早口で言ったエリナを先頭に、暗い顔をした料理長と、晴れやかな笑顔のランと、衛兵隊長のコールマンをお姫様抱っこしたイケメンの天使が入ってきた。
今度こそコーデリアは、気絶しそうになった。
「奥さん、ベッドにお連れします。どうぞ気を楽にしてお聞き下さい」
倒れそうになるコーデリアをとっさに支えたエリナが、女主人をベッドまで歩かせ、ふかふかのクッションによいしょと座らせた。
さて何から説明しようかと、エリナが思案していると、料理長がいきなりコーデリアの前に進み出て土下座をした。
「お赦し下さい、コーデリア様!」
美しい王太子の元婚約者を目の前にしたとたん、自分がいかに恐ろしいことを実行しようとしていたかにハッとさせられ、心の底から懺悔したい気持ちに駆られたのである。
「王太子殿下に頼まれて、私は明日の朝食にーー」
「言わなくていいよ」
と、料理長を制止したのはランだった。
「王と王太子に逆らったら家族ごと殺されるのは、みんな知ってるから。ところで毒って、厨房の氷の冷蔵庫に隠してあった、魚の内臓?」
料理長の顔が、真っ青になった。
「あ、あれを、見たのですか?」
ランはやっぱりとつぶやき、
「食べて処理しようと思ったんだけど、グロすぎて無理だった。天使さん、あれはどうしたらいい?」
天使はコールマンを抱っこしたまま、
「あなたが厨房に来る前に、この羽で一撫でして、無毒化しておきました。だから安心して食べられますよ」
みんなシーンとしてこのイケメンを見つめていた。そこでランはコホンと咳払いをし、
「紹介が遅れましたが、こちらは天使さんです。私が死んだときに、こちらの世界に転生させてくれた恩人、いえ、恩天使です」
説明はそれだけだったが、コーデリアも料理長もエリナも、それぞれ自分なりに天使の存在を受け止めた。なるほど、天使ね。どうりで羽が生えてると思った。きっといい人、いえ、いい天使に違いないわ。
こうして、ジェイコブ王太子によるコーデリア毒殺計画にまつわる心配事は除き去られたがーー
「料理長さん、一生のお願いです!」
ベッドから降りて床に正座し、料理長と目線の高さを合わせたコーデリアの胸には、自身の毒殺計画よりも遙かに重大な問題がのしかかっていた。
「明日の朝食に、【睡眠薬】を入れてほしいのです。どうか、どうかお願いします!」
コーデリアの柔らかな手が、料理長のガサガサに荒れた手をギュッと包む。
料理長は息を呑んだ。
まるで宝石のように輝く、コーデリアの潤んだ大きな瞳が、息がかかりそうなほど近くに……
「プハー!」
窒息寸前で、呑んだ息をようやく吐き出すことのできた料理長は、何度も首を縦に振った。
「コ、コーデリア様のお望みであれば、何でもさせていただきます!」
ほらね、とエリナが、得意げに女主人のほうを見た。
「料理長はもう王室を崇敬してない。だから大ファンの奥さんの頼みなら絶対聞くって言ったでしょ? 私の勘はよく当たるんだー」
コーデリアがエリナに微笑むと、天使が料理長に質問した。
「王太子からは、何に毒を入れるようにと頼まれましたか?」
料理長は、イケメンの天使をまぶしそうに見上げ、
「はい、肉料理に入れろと」
「では【睡眠薬】は、肉料理以外の物に混ぜるといいですね。コーデリアさんは、すべての料理を毒見するのですか?」
天使の質問に、コーデリアはいささか緊張ぎみに答えた。
「あ、はい。そう伺っております……天使、さん」
「でしたら、サラダのトマトにでも【睡眠薬】を入れたらどうでしょう? コーデリアさんは、毒見のときにトマトをとらなければいいのです。王太子はあなたが肉を食べるところだけに注意していて、トマトを選ばなかったことなど気にしないでしょう」
コーデリアは黙って頷いた。確かにいい方法だ。たとえば飲み物やスープなどに薬が入っていると、均等に溶けてしまうので、どうしてもある程度は飲むことになる。その点、サラダのトマトにだけ溶けているのだったら、それを避けて皿にとって毒見すればよいのだ。
そのとき不意に料理長が、
「あのー、天使さん」
と、腰を浮かしながら発言した。
「もしよろしければ、私の代わりに、天使さんが【睡眠薬】を入れてくれませんか? そのほうが、成功確実に思えますので」
コーデリアもエリナもランも、それに賛成するような顔をした。
しかし天使は、
「私は生きている人間に対して、身体的な影響を及ぼすような力は行使しないと決めています。人を殴ったり、毒や薬を服ませたり、病気を治したり、傷を癒やすようなことはしません。良いアドバイスをしたり、人を導くことはいたしますがーーすみません」
やろうと思えばできるが、地上の人間のことに干渉する限度を決めている。というのが、この天使の倫理観であった。
料理長は、わかりましたと引き下がった。
コーデリアは、チートアイテムである【睡眠薬】を料理長に渡した。
「国王陛下、王妃殿下、王太子殿下のそれぞれが、一粒ずつ服むようにして下さい。味や匂いはなく、水にとてもよく溶けるそうです」
かつてのコーデリアは、自分の美貌を鼻にかけ、それを武器にしていた。
しかし、ランの美しさに接して謙虚になった今では、自分の美貌をほとんど意識することはなかった。
が、それでも料理長にとっては、やはり強力すぎる武器に違いなく、
「が、頑張ります!」
薬を手渡しされた瞬間、思わず上ずった声で叫んでいた。
と、その声に反応したのか、
「……うん?」
天使にお姫様抱っこされた衛兵隊長が、目をパチッと開いた。
たちまちコーデリアの部屋に緊張が走った。
衛兵隊長のコールマンは、自分を抱いている者の顔を見上げた。
イケメン。
そしてーー背中には大きな翼。
「どうも、コールマンさん。私は天使です」
だろうな、とコールマンは思った。初めて見るが、少なくとも人間ではない。
天使が手を放すと、コールマンは床に立ち、部屋をゆっくりと見渡した。
コーデリア・ブラウン嬢。
料理長。
女官のエリナ。
新しい毒見役の少女。
気を失う前の記憶が甦る。
廊下で料理長とエリナを見つけ、誰何した。
料理長がパニックを起こして逃げ出し、それを追った。
するとエリナが飛び出してきたので、威嚇するために銃剣を向けた。
が、暗い廊下で目測を誤り、銃剣の先がエリナの左胸を抉った。
倒れたエリナを見降ろすと、女官服に赤いシミが広がっていった。
その直後、風が吹いたように感じ、気を失った。
(そうか。あのとき天使が天から舞い降りてきて、俺を気絶させたのだな)
そうコールマンは考えた。事実は、ランのビンタに意識を飛ばされたのだったが。
「コールマンさん」
天使が穏やかに言う。
「あなたはこちらの少女を殺すところでした。ランさんが【絆創膏】で傷の手当てをしなかったら、エリナさんは出血多量で息を引き取る運命でした。なぜならこの王宮では皆ーーあなたも国王も侍医もーー罪のない十四歳の女の子が死ぬのを黙って見殺しにすることになっていたからです」
その発言に、コーデリアが反応した。
「エリナ、あなたの胸!」
うかつなことに、コーデリアはほかに気を取られることが多すぎて(突然の天使の出現や、料理長への頼み事など)、エリナの服が血に染まっていることに気がつかなかったのだ。
「奥さん、心配いりません。ランが転生者のアイテムで治してくれましたから」
エリナが元気よく答えると、コーデリアは鼻をすすった。こんな少女でも命をかけて闘っているーーということに、胸を打たれたのだ。
「そして運命では」
天使が続けた。
「あなたは料理長さんとコーデリアさんを拷問し、それによって聞き出したことを国王に告げ口し、国王は命令を出して、レオ第二王子と宰相とコーデリアさんを処刑することになります。そこには一片の正義もありません。ですから私は、地上のことに介入するのは本意ではありませんが、こうして降りてきたのです」
衝撃的な天使の未来予告に、コーデリアたちは絶句した。
「しかし」
なおも天使は続ける。
「あなたが国王の元へ行き、巡回したが何も異常はなかったと報告すれば、今言ったことは起こりません。代わりに正義がなされます。どうでしょう、コールマンさん。あなたはどちらの行動を選択しますか?」
コールマンは、ギロリと天使をにらんだ。
「俺は国王陛下に忠誠を誓っている。だから嘘の報告などできん」
すると、この衛兵隊長に大切な親友を殺されかけたランが、固く握った拳(こぶし)を突き出して怒鳴った。
「偉そうにすんな! あのとき私がビンタじゃなくてグーで殴ってたら、今頃あんたはお陀仏(だぶつ)だったんだぞ!」
コールマンは顔色一つ変えなかった。言われたことの意味がわからなかったのである。
「衛兵隊長さん」
コーデリアが、情に訴えかけるように言った。
「あなたの行動によって、広く国民に慕われているレオ殿下が死ぬかもしれないのです。殿下の優しさはあなたもご存じでしょう? その罪のない血を流す代わりに、命を救う選択をして下さいませんか?」
コールマンがコーデリアに顔を向けたが、やはり表情は変わらなかった。
「答えは一緒です。国王陛下に対し、ありのままの事実を報告するのみです。それとも陛下を裏切れとでも?」
このとき、料理長がゴクリと唾を呑み、勇気を振り絞って言った。
「コールマンさん、聞いてくれ。私はジェイコブ殿下に、コーデリア様を毒殺するよう命令された。もちろんそれは、陛下の了承を得てのことだと思う。これはただの殺人だ。婚約者に飽きただけの、身勝手極まる行為だ。だから私は、もう陛下や王太子殿下を尊敬できなくなり、盲目的に従うことをやめた。どうかコールマンさんも、現実を見てほしい。国王陛下と王太子殿下に、果たして忠誠を貫き通すだけの価値があるかどうかを」
コールマンはじっと虚空を見つめた。ジェイコブ王太子に、尊敬できない面があることは確かだ。本当に国のことを第一に考えているのかと疑問に感じることもある。が、だからと言って、軍人が忠誠を捨てたら国を守れない。それだけは、何があってもしてはならないことだ。
「料理長」
コールマンは冷たく言い放った。
「お前の考えなどどうでもいい。俺は俺の務めを果たす」
「ねえ、隊長さん」
その鋭い勘で、物事の本質をズバリと突くことのあるエリナが、不意に質問を投げかけた。
「隊長さんは、それで幸せ?」
コールマンはエリナを見た。質問には答えなかった。
エリナが一歩前に出る。
「本当は知ってるんでしょ? 私たちの王が、国民を幸せにしていないことを。その王に仕えることで、人を不幸にする体制をせっせと支えていることを。だからあなたは、そんな不幸せそうな暗い目をしてるんだわ」
コールマンが銃剣を持ち上げた。
その刹那、風が吹き、手から銃剣が消えた。
銃剣は、ランの手に移っていた。
「殺せたよ」
銃剣の先は、正確にコールマンの心臓に向けられている。
「あんたがまばたきするあいだに、私はあんたを殺せる。でもそうしないのは、私は人殺しの王様とは違うから。こちらの天使さんもそう。その気になれば、あんたの命なんか一瞬で奪えるのよ。でもそうしないのは、あんたが正しい道を選べるように、チャンスを与えてやってるんだよ!」
コールマンは銃剣の先を見据えた。
そして、おもむろに床にあぐらをかき、
「殺すなら殺せ。俺は陛下のために死ぬ覚悟はできている。陛下を裏切ってまで、生き延びようとは思わない」
ランは天使のほうを見た。
天使は、仕方ないですね、と言って肩をすくめた。
「コールマンさん」
天使が近づいて、羽でコールマンを撫でた。
と、たちまちコールマンの身体は硬直した。天使の力によって動けなくされたのである。
「あなたには、言葉による説得は通じないようです。なので今からこの国の実態を見てもらいます。自分の目で見たものによって、どう行動するかを決めて下さい。ではランさんも一緒にどうぞ」
そう言って天使は翼を広げると、その背中にコールマンとランを乗せ、まるでつむじ風が舞い上がるように王宮から消えた。
天使は、ほんの数秒で、王宮からおよそ百キロ離れた山麓の農村に飛んだ。
その背中で、ランと衛兵隊長のコールマンがハッと目を覚ます。瞬間移動をしているあいだ、ほとんど気を失っていたのだ。
「ここは?」
呆然とつぶやくラン。糠のような雨に、服がしっとりと濡れそぼつ。
「ある農家の上空です。私の力で、屋根を透視できるようにします。向こうから、こちらの姿は見えません」
天使が言ったとたん、藁葺きの屋根が透けた。
家の中では、深夜にもかかわらず、八人家族の全員が起きていた。
「お母さん、見て。これ何だと思う?」
六歳の次女の声が、天使とランとコールマンの耳にはっきりと届いた。
「何だろうね。クマさんかい?」
「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」
真夜中に粘土遊びとは……ランはそれを、可愛らしい粘土のお人形とは裏腹に、何か異様なものに感じた。
「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」
次女がケラケラと笑うと、十二歳の長男も、
「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」
竹と紙で作ったお城を見せ、幼児のようにはしゃいだ。
その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、
「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」
急に八人家族がシンとした。やっぱり何か変だーーランは胸騒ぎを覚えた。
「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」
主人は、家族一人一人の前に茶碗を置き、ヤカンから液体を注(そそ)いだ。
「あれは何? 何をしてるの?」
下を見降ろしたまま、ランが天使に訊くと、
「青酸ソーダ入りのジュースです。彼らは今から一家心中するのです」
えっ、とランが甲高い声を出したが、下の家族は無反応だった。上空での会話は、天使の力で聞こえないようにされていたのだ。
「天使さん、止めないの? まさか、見殺しにはしないよね?」
ランの問いを、天使はそのままコールマンにパスした。
「コールマンさん、どうしましょう。見殺しにしますか?」
コールマンは答えない。ただじっと、怒ったように下の光景をにらんでいる。
「あなたのような軍人も含めて、国民には知らされていませんが」
天使が静かに言う。
「農民の餓死や自殺や心中は増える一方です。なぜなら、どんなに不作でも、納める税は年々増えているからです。王がそう命令しているのです」
そのとき下では、十歳の長女が泣き出し、それに耐えきれなくなった長男が、
「……おいら、最初に飲んでいい?」
と、茶碗を取った。
「王は知っています」
天使が言う。
「餓死者や自殺者の数は、王に報告されています。しかし彼は、それを薄笑いで聞くと、食い扶持が減っていいとさらに税を増やし、自分は毎回捨てるほど多くの食事を食卓に並べさせています。コールマンさん、あなたはこの現実を知っていましたか?」
コールマンは、あっと小さく声を洩らした。
長男が、茶碗を口元に近づけたのだ。
飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。
「天使さん!」
たまらずランが天使の羽を揺さぶったときーー
「待つのじゃ!」
玄関の戸がいきなり開けられて、驚いた長男の手から茶碗が落ちた。
(……誰だ?)
コールマンは知る由(よし)もなかったが、その闖入者の正体は、ランとレオ第二王子を結びつけた、職業「仙女」を選択した転生者の老婆だった。
(まるでいきなり空中から現れたみたいだが、あの老婆も、天使の仲間か何かか?)
コールマンの頭は激しく混乱した。が、ともかく長男が毒を呑まずに済んだので、声を出さずにほっと息をついた。
「一家心中などやめたがいい」
老婆は、一家の主人を説得しようとした。
「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」
主人は信じなかった。
「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」
「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」
「殺人ですよ!」
主人は声を張り上げた。
「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」
(まずいな……)
コールマンは唾を呑んだ。
(あの様子だと、説得は効かない。早くすべての茶碗をひっくり返さないと、発作的に毒を呑まれてしまうぞ)
その悪い予感はあたった。
老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げて、一息に毒入りジュースを呷(あお)ってしまった。
「あっ!」
コールマンは叫んだ。
全身から血の気が引き、手足が冷たくなる。
(クソッ! やられた! だがすぐに吐き出させれば、まだ間に合う)
コールマンは天使の翼を引っ張って言った。
「俺を降ろせ! あそこに行かせろ! 毒を吐き出させる!」
ところが天使は、慌てるそぶりもなく、
「おや、コールマンさん。あの農民は、王への務めを勝手に放棄して、死を選んだんですよ? そんな非国民の奴隷は、見殺しにすればいいじゃないですか」
「急げ! 早く救けろ!」
「王の意向を聞かなくてもいいですか? あの王様なら、ほっとけ、コールマン、と言いそうですが」
「早く!」
翼を強く揺すられて、天使はじゃあと言い、コールマンを乗せたまま農家の家の中に瞬間移動した。
コールマンは急いで天使の背中から飛び降りると、床に倒れた主人の口元に顔を近づけた。
息はしている。
服をはだけて左胸に耳をつける。良かったーー心臓もまだ動いている。
「コールマンさん」
天使の柔らかな声が聞こえた。
「毒を吐かせる必要はありません。あなたは気がつかなかったようですが、一足先に、ランさんをここに瞬間移動させたのです。そしてランさんは、【胃薬】という万能薬を、この方が毒を呑む直前に、すばやく口に放り込んだのです。ですから彼は死にません。仙女さんも、そういうことですので、どうぞご安心を」
コールマンは言葉もなく、天使とランと仙女をぼんやりと見た。
すると、毒を呑み干したという思いで一瞬気絶していた主人が、うーんと唸って身体を起こし、突然現れたコールマンたちに驚いて言った。
「……あんたたちは誰だ?」
天使の力で、彼らの姿は見えるようにされたのである。