王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?



 毒見役のランは、狭くて、灯りの薄暗い部屋にいた。
 その少女を一目見た瞬間、

(あ、負けた)

 と、コーデリアは思った。

(この子はちっとも派手じゃない。それなのに、輝いている……)

 髪の毛は、コーデリアがブラウンで腰の下まである超ロングなのに対し、黒くて清潔感のあるショート。
 顔の造りは、コーデリアが眉も目も鼻も唇も濃いのに対し、いずれも小ぶりで上品。
 毒見の一族から連想されるような、毒々しさや禍々しさはどこにもない。
 むしろ健康的な感じすら受ける、まぶしいような「美」がそこにあった。

 コーデリアは知る由(よし)もなかったが、ランのまぶしさは天使からもらった「転生特典」である。だから普通の人間(ランから見れば異世界人)である彼女が、敵わないのは当然であった。
 
 しかしコーデリアは、そのまぶしさに心を打たれた。完敗だ。生まれて初めて美しさで負けた。これなら婚約者を奪(と)られても仕方がない。奴隷身分だろうとまだ十四歳だろうと、この子のほうが私より美しいのだもの……

 この瞬間、彼女から高慢さが消えた。
 彼女は謙虚になった。
 公爵令嬢コーデリア・ブラウンは、ほとんど生まれ変わったと言っても過言ではなかった。

「ランさん」

 声の調子にも、謙虚さが溢れた。

「あなたの予言どおり、私は婚約破棄されました。ジェイコブ王太子殿下は、あなたと婚約する代わりに、私に毒見役となるように申し付けられました」

 ランの黒い瞳が、ほんの少し大きくなった。
 ランもまた、心を打たれていたのである。

(貴族令嬢に生まれながら、奴隷の毒見役に敬語を使うなんて……この美貌のお嬢様は、レオ第二王子と同じきれいな心を持っている)

 見つめ合う美しい二人。
 やがてコーデリアが言った。

「王太子殿下は、明日の朝から毒見をしろと申しました。そこでエリナから聞いていたとおり、『それでは毒見役の心得をランさんから習っておきます』と答えて、こちらに参りました」

 ランが驚きの声を上げた。

「え、明日の朝からですか?」
「そうです。その朝食できっと私を毒殺するつもりです。早く厄介払いしたいでしょうから」

 これもまたコーデリアは知る由もなかったが、部屋の隅に敷かれた布団の中では、レオ第二王子が歯を食いしばって拳を握り締めていた。クーデター計画の肝心要の部分が、崩れてしまったからである。

「ですからランさん、もはや私には、あなたに救けていただく以外に道がないのです。どうか解毒の術を教えて下さい。できる自信はないですが、たとえわずかでも、生き延びる可能性に懸けたいのです」

 ランが私を救けると言ったのはそういう意味だろうーーとコーデリアは解釈し、お願いしますと頭を下げた。

 ランは考え込んだ。
 なるほど、そうなったか。明日の朝食で、王たちの食事に【睡眠薬】を入れるという計画はこれで崩れた。となると、やっぱり常人の百倍の力と二百倍のすばやさに物を言わせて、強硬手段に出るしかないか。
 
「えーと、待って下さい。解毒の術ですね?」

 と言いながら、腰に手をやり、少女らしい動物の飾りがついたポーチを開けた。
 このポーチもまた「転生特典」として与えられたものである。その中からは、転生前の世界に存在する薬を自由に取り出すことができたが、それらの薬はこちらの世界で絶大な力を発揮するので、いわゆるチートアイテムになるのであった。

 ランはポーチから摘み出した物を渡した。

「これを食前に服(の)んで下さい。【胃薬】です」
「……胃薬?」

 向こうの世界の【胃薬】を使うと、こちらの世界の人間の胃袋からは、大量の粘液が分泌される。
 その粘液は、胃に達した毒物を包み込み、無毒化してしまう。ちょうど黒魔法の【ポイズン】をかけられても、【完全毒防御】の効果を持つ防具をつけていればダメージを受けないのと同じように。

 ちなみにランのような転生者は、こちらの世界の青酸カリやフグ毒を摂取しても、何も起きない。
 たとえば、殺虫剤は虫にとっては致死的な毒だが、人間の体内に入っても、分解酵素によって速やかに分解されて体外に排泄される。つまりこちらの世界には、向こうの人間にとって殺虫剤レベルの毒しか存在しないのだ。

 そんな事情などいっさい知らないコーデリアは、受け取った数錠の【胃薬】を不思議な気持ちで見つめた。

「あの、これと解毒の術とは、どんな関係がーー」
「ごめんなさい。私は、解毒の術など知らないのです。ただの転生者ですから」

 と、ランはあっさり素性をバラして、いかにも申し訳なさそうに首をすくめた。

「……ただの、転生者?」
「はい。こちらの世界に存在する毒は、私のいた世界と比べるとどうってことありませんし、こちらの世界の人も、向こうの【胃薬】を使えばほぼ解毒できます。間違っても死ぬことはありません」
「あなたの、いた、世界?」

 無理もないが、コーデリアは口をあんぐり開けてしまった。

「はい。向こうの世界でトラックのタイヤに跳ね飛ばされて死んだ私は、天使にお願いして、こちらでの職業を毒見役にしてもらいました。そうすれば、何の危険もなく、王や貴族の食事を毎日食べられるからです。しかも、ご飯の支度も後片付けもしなくていいし、掃除も洗濯も買い物もしなくていいし、食事以外は部屋で寝ていればいい。最高じゃないですか?」

 まったく話についていけないコーデリア。
 ランは続ける。

「だから、私は結婚して、王太子妃になんかならなくてもいいんです。あ、それと、毒見役だからって、雇い主と寝るなんて誤解しないで下さいね。ほかの人は知りませんけど、もしそうされそうになったら、私はぶん殴って出て行きますから。だってこっちの世界の男性は、私の百分の一の力しかないですもん」

 カラカラと笑った美しい顔に、話は理解できなくても、コーデリアは引き込まれた。

(この少女は、信じられる)

 彼女は思わず床に膝をつき、ランの手を両手で握った。

「ランさん。あなたに逃げる力があるのなら、そうなさい。王太子はいい人ではありません。そしてそういう王太子を許している王も王妃もーー」
「知っています。この国が腐っていることは、転生してすぐにわかりました」

 毒見役の少女は、コーデリアの手を優しく握り返した。

「コーデリア様が、それに気づいてくれて良かったです。コーデリア様はとってもきれいなので、この国と一緒に滅びてほしくないと思っていました」

 ランの言うことに、コーデリアは次から次へと驚かされた。

「……シェナ王国は、滅びるんですか?」
「腐った建物は潰れます。理の当然です」

 気がつくと、コーデリアはランに抱きすくめられていた。
 突然聞かされた国の未来にショックを受け、泣きだしたからだ。
 


 レオ第二王子は、呼吸が苦しくなっていた。
 掛け布団と顔が密着していたからである。

(苦しい……横を向いて息をしたい。でも下手に動くと、この部屋に隠れていることがバレてしまう。もしそうなったら、僕は自分の立場を説明するしかないが、この危険なクーデター計画に、コーデリアさんを巻き込みたくはない……)

 次第に酸欠状態になり、頭がぼうっとしてきた第二王子の耳に、恋するコーデリア・ブラウンのすすり泣く声と、それを慰めるランの声が聞こえた。

「国が滅びるのは、悲しいですか?」
「……よくわからない。でも、私はこの国に生まれて、家族も友達もいるから」

 コーデリアは敬語をやめていた。自然にランとの距離が縮まっている。

「大丈夫。滅びるのは腐った部分だけ。腐ってない人が、また建て直してくれます」
「そんな未来のことまで、転生者には見えるの?」

 コーデリアが涙を拭いてそう訊いたときだった。
 レオ第二王子の呼吸が限界に達した。

(もうだめだ。ここから出て、コーデリアさんにすべてを打ち明けよう。兄にこれほどひどい目に遭わされながら、この国が滅びると聞いて、涙を流してくれた彼女に)

 ランの部屋の隅に敷かれていた布団が、むくっと持ち上がった。

 悲鳴を上げかけるコーデリア。その口を、ランがすばやく押さえる。

「安心して。この国を救う人よ」

 掛け布団が中からめくられる。
 そこから姿を現したのは……

「まあ!」

 あまりの衝撃に、コーデリアの時間が止まった。

(レオ第二王子様!? いつから? どうして? なぜ殿下が後宮に?)

 第二王子は、照れたように頭を掻いた。
 
「驚かせるつもりはありませんでした。お詫び申し上げます、コーデリアお義姉(ねえ)様」

 彼女のことをお義姉様などと呼んだことは、かつて一度もない。なのにとっさにそう呼んだのは、この場面に決まりの悪さを感じて、おどけてみせたのだった。

(仮にも一国の王子が、女性の部屋の布団に隠れていたとはみっともない。しかもそれを、いちばん見られたくない人に見られてしまった……ああ、何だかドキドキしてきた。何をしゃべればいいのかも、どんな顔をすればいいのかもわからない)

 第二王子はモジモジした。そしてコーデリアも、同じくモジモジした。

(レオ第二王子様に聞かれてマズいようなことを、私は言わなかったろうか? ジェイコブ王太子のことをあのクソ野郎とか? ああ、全然思い出せない。でもお邪魔だったのは間違いないわ。殿下も、この美しい少女に惹かれたのね。私、ランにダブルで男性を奪(と)られちゃった)

 コーデリアは沈んだ顔をした。しかし元々、レオ第二王子様と自分とでは釣り合わないと思っていたのだ。悲しいけれど、ランに負けたのならしょうがない。転生者とは初めから勝負にならないのだ。

 とはいっても、コーデリアも十八歳の乙女である。どんなに負けたと自分に言い聞かせても、それで恋の炎が消えるわけではなかった。

 お互いに、まるでお見合いの席での初対面のように相手をチラチラ見ていると、

(王子もコーデリア様もダサすぎるよ。好きなら好きって言っちゃえ!)

 ランはそう言ってやりたくてウズウズした。

 やがてコーデリアが、ゴクリと喉を鳴らして言った。

「ど、どうして殿下が?」

 レオ第二王子は、いかにもリラックスしているふうを装い、よいしょと言って布団の上にあぐらをかいた。

「フフフ。僕には女嫌いという評判がありましてね。それが煙幕になって、後宮が格好の隠れ場所になったというわけですよ」

 第二王子は、二十一歳という年齢にふさわしい若々しい笑い声を立てた。

「まあ、それは冗談として、この国を救うには、父と兄を斃(たお)すしかない。ということは、明白な事実です。そのための行動を、ずっとしてきました」

 そんな恐ろしい話を、レオ第二王子はサラッと言う。

「僕を支持してくれる人はたくさんいます。あとは本当に、父と兄を斃すだけ。しかしそれを実行に移すには、特別な力がいる。そこで僕がやったのが、転生者捜しです」

 さっきは口をあんぐりしたコーデリアが、今度は目をまん丸くする。

「転生者の力を借りれば、このクーデターは成功する。その信念を胸に、捜し続け、そして見つけました。もうおわかりでしょうが、それが彼女です」

 ランはまた申し訳なさそうに、首をすくめた。

「彼女を新しい毒見役として、父に選ばせるのは簡単でした。父の好みの髪型や服装を知っていますからね。まあ、兄まで夢中になるとは予想しませんでしたけど。で、彼女が向こうの世界から取り出せる【睡眠薬】に、大変な力があることを、僕は仙女を名乗る女性から教えてもらっていたのです。明日の毒見の機会に、それを父と兄に服ませる手はずでした。が、事情が変わりました」

 第二王子はランのほうを見た。

「さて、どうしよう。暴力は使わずに、薬を服ませたいが」
「強硬手段はだめ?」
「何度も言ったように、だめだ」

 ランは腕を組んだ。

「じゃあさ、料理人たちを仲間にして、睡眠薬を料理に入れてもらうのはどう?」

 すると第二王子は即座に首を振った。

「それは話にならない。彼らは王家に忠誠を誓っている。特に料理長は、コチコチの勤王家だ」

 第二王子は知らなかったが、この時点ではすでに、料理長の忠誠は揺らいでいた。ジェイコブ王太子が最低のクソ野郎だと、勤続三十年目にしてようやく知ったから。

「じゃあこうしたらどう?」

 ランがまっすぐにコーデリアを見た。

「コーデリア様は、もう王太子を愛してはいないわよね?」
「大嫌いだわ!」

 コーデリアは反射的に叫んでいた。

「では、王太子に復讐したいと思ってる?」
「……それは、まあ」
「そしたらさ、コーデリア様が、毒見のときに【睡眠薬】を入れたら?」

 コーデリアは固まった。

「えっ? 私が?」
「大丈夫。さっき夕食のときにシミュレーションしたけど、手のひらに隠した薬を料理に入れるのは超簡単。これなら誰でもできるなって思ったから」
「確かに」

 と、レオ第二王子も頷いた。

「配膳された料理から、一口分を取り分けるのは毒見役だ。特にサラダを取るときは、そっと錠剤を落とすことはそう難しくない。この錠剤は水によく溶けるので、野菜の水気やドレッシングで充分溶ける。そして父も母も兄も、サラダは必ず残さず食べる。よし、義姉(ねえ)さんにやってもらおう!」

 コーデリアに復讐させる、というランの思い付きを、第二王子はすっかり気に入ってしまい、蒼くなった恋する人を「あなたなら絶対できる」と笑顔で励ました。


 エリナを連れて、深夜に自分の部屋に帰ったあと、コーデリアはしばらく茫然自失していた。

 ランの部屋での、レオ第二王子との会話が頭の中をぐるぐると回る。

「もしかして、私が、陛下と殿下を暗殺するのですか?」

 向こうの世界の薬には大変な力があると聞かされたコーデリアが、血の気の引く思いで訊くと、

「いいえ。まさか女性に、そんなことはさせませんよ」

 レオ第二王子は、ランから受け取った【睡眠薬】を、コーデリアの手に握らせて言った。

「【胃薬】と間違えないで下さいね。こっちが【睡眠薬】。このほんの小さな錠剤一つをこちらの世界の人間が服むと、百年間は眠ります。ちょうど白魔法の【スリープ】をかけられたときのように、生命は維持したまま細胞の活動が超スローになるのです」

 転生者の老婆から聞いた知識の受け売りを、恋する人に得意げに話す。

「細胞の活動が超低速になると、呼吸だけで生命を維持する【ブレサリー】という状態になります。実際、ヨガの達人の中には、過酷な訓練によって【ブレサリー】の術を身につけて、七十年間も呼吸だけで生きた人がいるそうです。まあ、それはともかく、百年後に再び父と兄が目覚めたときには、シェナ王国は独裁国家ではなくなっているでしょう。それは僕が保証します」

 そんな大事な役を私などに、とコーデリアが固辞しても、

「いいえ、僕は決めました。あなたが明日の毒見役になったことに、僕は運命というか、何か大きな天の意志のようなものを感じるのです。僕のクーデター計画、ランの転生、兄の毒見役への執着、あなたの手紙などすべてが、明日の朝食という一点に集約されたことーーそう。あなたこそ、邪悪な王と王太子を百年眠らせるべく選ばれた女性です。大丈夫、僕を信じて下さい。決して危険な目には遭わせません。何が起きても、必ずあなたを護ります!」

 そのあと何を話したかは憶えていない。
 ぼんやりと時計の針を見る。午前零時十分。

「エリナ」

 今夜は眠れそうもない、と思ったコーデリアは、女官の少女の手を握り、

「お願い。薬を入れる練習を手伝って」

 するとエリナはにっこり笑い、

「はい、奥さん」

 と言った。
 コーデリアは嫌な顔をした。

「奥さんはやめて。婚約破棄されたんだから」

 エリナはますます笑顔になる。この勘の鋭い女官は、コーデリアに対して、「未来の王様の奥さん」という意味で言ったのだ。

「奥さんは奥さんです。ねえ、奥さん。シェナ王国は、どんなふうに変わるでしょうね?」

 エリナの楽天的な口調に、コーデリアはやや苛立った調子で、

「今はそれどころじゃないわ。明日のことで頭がいっぱい」
「第二王子様が僕を信じろっておっしゃったじゃないですか。悪いことを考える必要はないですよ」
「私は自分を信じられないの! あんなサディストを、いい人だと信じたくらいドジなんだから」

 そして、レオ王子様の気持ちに気づかないくらいドジだわーーとエリナは、女主人を愛おしい思いで見つめた。

「奥さん、レオ王子様は、どんな改革をなさるでしょうか?」

 コーデリアは苛立ちながらも、

「それはきっと、農民の税を軽くなさるでしょうね」

 と答えた。エリナは手を叩いた。

「素晴らしいです! 農民たちは、涙を流して喜びますよ!」

 エリナの目が潤んだ。それを見て、コーデリアの目頭も熱くなった。

「そうね。餓死の心配がなくなったら、飛び上がって喜ぶでしょうね」

 言ったとたん、コーデリアの目から涙が溢れた。
 エリナが涙声で言った。

「奥さん、優しいですね。農民のことを思って泣いて……」
「あなたも泣いてるじゃない……」
「もらい泣きですよ。それとも嬉し泣きかな……」
「どうして私たち、こんなに泣くんでしょう……」

 深夜はおかしいテンションになるものだ。しかも今夜は特別。二人にとって、生涯でもっとも長い夜になった。

「……エリナ、そろそろ練習してもいい?」
「はい、奥さん」

 エリナがテーブルに皿を用意した。
 右手に【睡眠薬】の錠剤を隠し持つコーデリア。
 その手をゆっくりと皿のほうにーー

「あっ!」

 錠剤は、皿の遙か手前で落ちた。

「もう一度!」

 今度は、手汗で錠剤が溶けかけて、手のひらに貼りついてしまった。

「もう一度!」

 今度は震える手が皿に当たって皿をひっくり返し、錠剤も勢いよく宙を飛んだ。

「だめだ! 絶対に無理っ!」

 コーデリアはテーブルに突っ伏して泣いた。悲しすぎる涙であった。

「誰でもできるだなんて大嘘よっ! 手汗はひどいし手はぶるぶる震えるし……私が死ぬほど不器用なのを殿下は知りもしないで勝手に決めたのよ。百パーセント確実に失敗するわ!」
「奥さん、信じて。奥さんは選ばれた人よ」
「無理無理無理無理無理無理!!」

 パニックで呼吸困難になる。エリナもさすがにこれは無理だと考え直し、

「仕方ないですね。料理長にお願いしましょうか」

 と提案した。
 えっと驚いて、エリナをまじまじと見つめるコーデリア。

「料理長にお願い? だって、コチコチの勤王家なのでしょう?」
「つい最近までは」

 エリナは、はっきりとした確信を持って言った。

「でももう、王家への崇敬の念はないですね。目を見ればわかります」
「それは、単なるあなたの勘でしょう?」
「勘ですよ」

 エリナにとって、それこそが何よりの証拠なのであった。

「そして彼は、奥さんの大ファンです。だから奥さんが、料理にこれを入れてって【睡眠薬】を渡したらーー」
「いけないわ。殿下に黙ってそんなことをしたら」

 コーデリアが首を振ると、

「じゃあ予定どおり、奥さんがします?」

 エリナは非情に言い放った。
 コーデリアはにっちもさっちもいかなくなった。
 
「……私、どうしたらいいかわからない。あなたはどう思う?」
「レオ王子様に相談しても、今さら作戦は変更しないと思います。だから私が料理長のところに行って、奥さんの命が懸かってるって言ってきます。そうしたら、絶対に協力しますよ」
「そこまで言うなら……任せるわ」
「任せて下さい」

 エリナはコーデリアの部屋を出て、料理人たちが寝泊まりする地下へと降りていった。
 そしてこれが、最悪の失敗であった。


(だめだ。今夜は眠れそうもない)

 コーデリアと同じく、深夜に悶々としている人物がいた。
 料理長である。

「いよいよ決行だ。明日の朝食で、全員分の肉料理にフグ毒を入れろ。どの皿にも致死量の十倍以上だぞ。いいな?」

 洞穴のような目をしたジェイコブ王太子にそう告げられたのが、つい二時間前。眠っているところを起こされて、廊下に呼び出されての、爆弾投下だった。

(無理だ無理。絶対無理無理無理無理)

 料理長は、ベッドに身を起こして嘆息した。そこは料理人用の大部屋で、同じ部屋に八人が寝起きしている。声を出せばほかの料理人を起こしてしまうので、料理長は無言でため息をつくばかりだった。

(フグの肝臓を大量に炒め、すり潰して水気を抜き、濃縮されたレバーペーストを作る。これをレアステーキにべったり塗り、上から赤ワインソースをたっぷりかける。はい、美味しい猛毒フィレステーキの出来上がり!)

 料理長は声を出さずに泣いた。こんな料理を誰が作りたいものか。でもやらなければ、愛する妻と娘は虐殺されるのだ!

 料理長の心は死んだ。
 もうどうでもいい。
 なるようになれ。
 自分は王太子様から命令されたとおりにするだけだ。
 フグのレバーペーストを食べて、あの美しいコーデリア様は死ぬかもしれない。でも、毒入り料理など作ったことはないから、単に食中毒になるだけで、命はとりとめるかもしれない。

 コーデリア様が死ねば、自分は殺人者だ。潔くフグの肝臓を食って死のう。
 もし死ななければ、手心を加えたと疑われ、反逆罪が確定する。そうなれば、家族みんなで手を取り合って死のう。

 そこまで考えたとき、大部屋のドアが、そーっと音もなく開いた。
 目を瞠(みは)る料理長。
 口に指を当ててシーッとしながら入ってきたのは、女官のエリナだった!

「静かに、静かに」

 まるでスパイのような忍び足で料理長のベッドのそばまで来ると、エリナは囁き声で言った。

「きっと起きてると思ったわ。王太子に、良からぬことを頼まれて悶々としてたんでしょう。どう、図星?」

 料理長はガタガタ震え出した。

(コーデリア様に付いている女官に、秘密がバレている……嗚呼、いったい私はどうなってしまうのか!?)

「奥さんの大ファンだもんね。身を裂かれる思いだったんでしょ? わかるよ、その気持ち。今から救けてあげるから、黙ってついて来て」

 エリナが料理長の寝巻きの袖をつかんで引いた。
 料理長は、糸を引かれた操り人形のように立ち上がる。

 ドアを閉め、忍び足で階段へ。
 召使い部屋や厨房のある地下から、セレモニーホールや食堂のある一階へ。一階から、王の間や王室の人々のプライベートルームがある二階へ。

 暗い二階の廊下を、コーデリアにあてがわれた部屋に向かってそろそろと進む。
 そのときだった。

「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」

 鋭い誰何(すいか)の声。

 料理長は気が遠くなった。


 ◆◆◆◆◆
 

 ポーラ王妃は後宮の主(ぬし)であった。
 シェナ王国の宮殿は、王宮と後宮が渡り廊下でつながっている。
 王妃の部屋は王宮にもあったが、夜は後宮で過ごすことを好んだ。
 なぜなら、ほぼ毎晩のように、自分の部屋で女官たちにレスリングをさせて、それを観るのを愉しみにしていたからだ。

「ほらもっと頑張りなさい。髪の毛を引っ張ればいいのよ。休んでないで。さあ、顔を思いっきり引っ掻きなさい!」

 女たちが本気でケンカをし、仲の良かった者同士が険悪になったりすると、王妃はたまらなく喜んだ。平和よりも争いが好きなのである。

 しかしその夜は、レスリング大会を開催しなかった。
 翌朝の、コーデリアの毒殺が愉しみすぎて、ほかのことに気が乗らなかったのだ。

(早く見たいわあ。フグにあたって人が死ぬところを。青酸カリの一千倍も強いって、なんて素敵な毒なんでしょう。きっとものすごーく苦しむわ。ああ、早く見たい見たい見たい……)

 ポーラ王妃はうっとりとした。
 そして、お腹の奥が熱くなり、ジンジンと疼いていることに気づいた。

(だめだわ。こんなに興奮していたら、今夜は眠れそうもない)

 彼女は立ち上がって部屋を出た。
 女官も連れずに、一人で渡り廊下を歩く。
 向かう先は夫ーーグレイス二世の寝室だ。

 これはまことに異例であった。
 王と王妃が身体の関係を持つ場合、必ず王のほうから後宮に忍ぶ。その逆はない。
 が、近頃は後宮に来ても、お気に入りの女官か毒見役を抱くばかりで、王妃の部屋を訪れることはなかった。

(久々に、身体が男を求めている。これを我慢するなんて地獄。今夜だけは、前例を破らせてもらうわ)

 階段で二階に上り、王の寝室へ。
 その扉の前には、夜間に王を警護する任務を負っている、衛兵隊長のコールマンが陣取っていた。

(……む。何奴(なにやつ)?)

 衛兵隊長は、近づいてくる人物のほうへ、左手に持ったランタンを掲げた。

(シルエットは女のようだが……あっ、あれは!)

 ランタンの灯りで、暗い廊下を一人で歩いてくる女性が、ポーラ王妃であることを知った。
 衛兵隊長は直ちにランタンを足元に置き、銃剣を身体の前で垂直に立てて、捧げ銃(つつ)の敬礼をした。

「コールマン、敬礼はいいわ」

 ポーラ王妃の妖艶な笑みが、ランタンの黄色い光りに浮かび上がる。

「どうぞ妻が忍びに来たのを見逃してちょうだい。そこで聞き耳を立ててもいいのよ。いつも忠実に仕えてくれるあなたへの、これはほんのボーナス」


「何ですって?」

 ニコラス・スミス宰相が大きな声を上げた。
 レオ第二王子は、唇に指を当ててシーッとした。

 ここは第二王子の部屋。
 ランの部屋から帰ってきたあと、予定どおり深夜にニコラス宰相が忍んできて、明日に備えた最後の打ち合わせをしているところだった。

「コーデリア嬢にそこまで話したのですか? クーデター計画の詳細は、殿下と私とランの三人だけが知る。あとは誰にも洩らさない。そう決めたではないですか?」
「仕方なかったのだ、ニコラス。これは運命の糸だ」

 その糸は、きっと赤い色をしているんでしょうな、という皮肉が口から出そうになるのを、第二王子の恋心に気づいて苦々しく思っていたニコラス宰相は、懸命にこらえた。

「コーデリアさんには、クーデター計画を打ち明けただけではない。実はーー」

 明日の朝食で、【睡眠薬】を入れる役目を頼んだと第二王子が話すと、宰相は頭を抱えた。

「どうしてそんな……あれはただの貴族のお嬢様だ。そういうことのできる度胸や勇気などあるはずがない。彼女が失敗したらどうするつもりです? 最悪の結果になりますぞ!」
「ニコラス。僕は信じているのだ」

 第二王子の目が遠くを見つめた。

「遠い将来、この一連の出来事すべては、きっと伝説になると。『眠り姫』や『灰の姫』のように、人々に語り継がれていくだろうとね。であるならば、主役は僕やランではなく、数奇な運命に翻弄された彼女であるべきなのだ」

 そしてラストは性格の良い王子様と結ばれてめでたしめでたし、というわけですかな? いやはや、まったく。

 宰相は、もはや言うべき言葉がなかった。
 伝説? 眠り姫? 灰の姫?
 これはおとぎ話ではない。現実だ。それなのに、この第二王子は、まるでロマンチックな夢の中にでもいるかのようだ。

 しかし、と宰相は思い直す。

 もし彼に、ロマンを求める心がなければ、失敗すれば死が待っているクーデターなど考えもしなかったであろう。
 国王の次男という、極めて恵まれた境遇に、安穏として収まっていればよかったのだ。

(仕方がない。この船の船長は彼だ。私は喜んでそれに乗った。ならば最後まで、このロマンチックな船長と運命をともにするのみだ)

「わかりました、殿下。私も運命を信じることにします」

 と言って自室に引き上げながらも、一抹の不安はどうしても拭えなかった。

(コーデリア嬢は、女官のエリナに何か洩らさないだろうか? あれはまだ十四歳の少女で、いささか軽率なところがある。そういうところから、いよいよ大詰めまできた計画が破綻しなければよいが……)


 ◆◆◆◆◆


 ジェイコブ王太子は胸騒ぎがしていた。
 眠れぬまま、時計の針が午前零時を回る。

(情熱のままにプロポーズしたのはいいが、果たして父は、ランを正式な妻として認めてくれるだろうか?)

 夜が更けるにつれて、その心配がずんずん大きくなっていった。
 
 ランの身分は奴隷だ。
 それが王太子妃になれば、将来は国王の妻、王妃になる。
 前例がない。
 いまだかつてシェナ王国で、貴族以外が王太子妃や王妃になった例はないのだ。

(ランをもらうことは約束したが、妻の座に据えるとは言わなかった。ひょっとすると父は、それを許さないかもしれない。だが……)

 一世一代の恋に落ちた王太子は、かつてコーデリアに向かって、

『貴族は貴族であり、平民は平民であり、奴隷は奴隷だ。これが崩れたら大変なことになる。特に王家はこれを守らねばならない』

 と上から目線で言ったくせに、その奴隷身分である毒見役を、何としても正妻に迎えたいのだった。

(愛人ではだめだ。それは彼女に対する冒瀆だ。俺は彼女に対して、勅命によってお前を妻にするとはっきり言った。それは俺の情熱から思わず出た嘘だが、その嘘を本当にするために、父をうまく説得して勅命を引き出さなければならない)

 明日コーデリアは死んで、婚約者はいなくなるのだから、できるだけ早く勅命をいただきたい。しかし、どう話を持っていけば、奴隷を王室ファミリーにすることを納得させられるだろう?

 眠れぬ王太子は、必死に知恵を絞って考えた。
 やがて出た結論は、

「衛兵隊長のコールマンを動かそう」

 というものだった。

(父は誰よりも、コールマンを信用している。コールマンが進言すれば必ず聞く。そしてコールマンは、俺の頼みを断わることはできない。なぜなら、将来王になる王太子の切なる願いを断われば、やがて代替わりの時期が来たときに、それまでに得た勲章をすべて剥奪される恐れがあるからだ。軍人にとって、これほど不名誉で悲惨な末路はあるまい)

 ジェイコブ王太子は自室を出た。
 夜間、王の寝室前で王の警護をしている衛兵隊長に、話をしに行くためである。
 
(コールマンの口から、父に言ってもらおう。ご子息が本気で望んでいる結婚を、決して邪魔してはなりません。祝福するのです。そうすれば、王と王太子は一枚岩となり、国民に対する支配力がより強固になります、と)

 王太子が王の寝室へ近づくと、

(……何奴(なにやつ)?)

 衛兵隊長が左手に持ったランタンを掲げた。

(おや? 王妃殿下に続いて、王太子殿下も? 今夜はやけに慌ただしい……)

 衛兵隊長はランタンを足元に置き、王妃のときと同じく、銃剣を身体の前で垂直に立てて、捧げ銃(つつ)の敬礼をした。

「コールマン、敬礼はよい」

 王太子のいかにも悪そうな笑みが、暗い廊下で、ランタンの黄色い光りに浮かび上がった。

「折り入って頼みがある。実はーー」

 王太子が言いかけたときだった。
 寝室の扉が、いきなり中から開いた。

「コールマン、ちょっと。折り入って話がーー」

 と言ったグレイス二世は、息子がそこにいるのを見て驚いた。

「どうした、こんな深夜に?」

 焦る王太子。懸命に口実を探す。

「えー、その、コーデリアが志願した毒見役との交代のことで、いろいろ心配になって眠れなくて……」
「何だ、お前も眠れずにいたのか」

 王太子のしどろもどろの説明の途中で、王は不安そうな顔つきで口を挟むと、

「だが、いいところに来た。二人とも中に入ってくれ。重大な相談がしたいのだ」


 ランはこっそり自室を出た。
 深夜である。向かった先は、王宮の地下にある厨房。

 小腹がすいて眠れないから、ちょいと盗み食いにーー
 来たわけではない。
 いくら元は普通の中学生で、かなり能天気なタイプでも、そこまでハチャメチャなことはしない。
 彼女は彼女なりに、真剣に考えていた。

(あのゲスの王太子、コーデリア様を毒殺しようとしてるなら、きっと料理長に頼んで、毒物を用意してあるはず。コーデリア様には【胃薬】を渡してあるから大丈夫だけど、万が一手違いが起こって別の人ーーたとえば王妃とかーーが死んだら面倒だわ。第二王子の計画が狂っちゃう)

 だから、毒を探して処分するのがベストだ。布団にもぐってからそう思い立ったので、むくっと起きて、暗い廊下をそろりそろりと歩いたのだった。

(何だか修学旅行のイタズラみたい。夜こっそり、先生の目を盗んで旅館の探検……あーあ、あっちでもう少し生きていたら、中学校の修学旅行に行けたのになー)

 そのぶん異世界で、青春を取り戻さないと。ランは思い出づくりのためにも、このクーデター計画の中で、何かしら重要な役目を果たしたいと願った。

 厨房に鍵はかかっていなかった。
 そもそも鍵がついているのは、王家の人々の私室くらいである。だから、衛兵に見つかって射殺されることさえ気にしなければ、いくらでも侵入し放題であった。

 厨房の入口にランタンがあった。中のろうそくにマッチで火を点けて、その灯りを頼りに毒の保管してありそうな場所を探す。

 まずは棚。大小さまざまな壜。これが怪しい。

(ドクロマークなんて貼ってあるはずがないから、中身が毒かどうかは、舐めてみなければわからない)

 ランはいちばん手前の壜を取り、中身を手のひらに出して舐めてみた。しょっぱい。きっと肉料理につかうソースだ。

 こんな調子で、十数本の壜のテイスティングをし、非常に切迫した喉の渇き(み、水!)を覚えたときに、ごく初歩的な誤りを犯していることに気づいた。

(そういえば、毒って変な味がするとはかぎらない。無味、無臭のものもある。毒を服んでも死なないし気分も悪くならない私が、いくら舐めてもそれが毒だとわかるはずがない)

 こちらの世界に存在する「毒」が、ランにとって無害であることが、この場合は仇となった(毒の味がわかる舌を、天使に転生特典として要求すれば良かった!)。
 
 が、ここで諦めるわけにはいかない。味で判断できなくても、見た目でいかにも怪しそうなのが、どこかにあるかもしれない。

 ランには、さっきから気になる物があった。
 木製の氷の冷蔵庫である。

(アンティークだなあ。といっても、こっちにはまだ家電がないんだから当たり前か。どれ、中を見てみよう)

 ランの背とほとんど同じくらいの高さの冷蔵庫には、二つ扉があり、上の扉を開けると、四角い大きな氷が入っていた。

(氷屋さんから買ったのかな? それとも王宮のどこかに氷室(ひむろ)でもあるのかな? なんせ今日来たばかりだから、細かいところは全然わからない)ーーちなみに正解は、氷屋さんである。

 ランは下の扉を開けた。
 紙に包まれた物が入っている。
 取り出して紙を開くと、肉の塊だった。

「牛肉かな? きっと最高級品ね。私まだサーロインっての食べたことないんだよな。明日の食事が楽しみ」

 豪華な食卓を思い浮かべて、危うく何のために来たのか忘れそうになる。
 ランはほかの包みも取り出してみた。どれも中は肉だった。

「肉専用の冷蔵庫なのね。どれ、最後の包みも見てみよう」

 その包みの中身だけ、匂いも見た目も違った。
 匂いは魚で、見た目は内臓だった。

「は? 魚の内臓? こんなにたくさん? ちょっとグロテスクだけど、これも高級食材なのかな」

 ランは広げた包みをしばらく眺めた。
 やがて、

「何か怪しい」

 独り言を洩らした。

「……ひょっとして、これが毒じゃないの?」

 このいかにも気色悪いものが、冷蔵庫のいちばん奥に隠すようにしまわれていたことが、ランの疑惑を深めた。

「毒があるとかいう、フグの内臓かもね」

 ビンゴだった。女官のエリナもそうだが、若い女子の勘には、なかなか侮りがたいものがある。

「これが毒だとして、どう処分すればいいんだろう? 流しやトイレに捨てるのは最悪。その場合、行き着く先は王宮の近くを流れる川だから、罪のない川魚をたくさん殺しちゃう。ゴミ箱に捨てるのももってのほか。残飯の処理方法として、家畜のエサや畑の肥料にされたら大変。そう考えると、どうやら私が全部食べるしかないようね」

 ランは、そのぬめぬめとした、白っぽいフグの肝臓を、指でつまんで口に近づけてみた。

「ウ……ウ……オェッ!」

 食べられなかった。悲しいかな、いくら猛毒の処理という重大な使命を帯びていても、これが十四歳の少女の限界だった。しょせん崇高な使命感や責任感などに、ゲテモノを飲み込ませるだけの力はないのである。

「どうしよう。困った」

 天を仰いだときだった。
 天井に張りついていた何者かと、目が合った。

「わっ!」

 ランは悲鳴を上げ、とっさに逃げようとした。

(今のは何? ニンジャ? スパイ? とにかく私は常人の二百倍のすばやさがある。相手が何であっても絶対逃げられるはずよ!)

 ランは閃光のようなすばやさで、厨房の扉に達した。
 がーー
 相手のほうが速かった。
 ついさっき天井にいた何者かの手に、扉を開けようとした手は押さえられてしまった。
 

 グレイス二世はスパイを多数抱えていた。
 彼らは、貴族や平民や奴隷などに扮し、それぞれの階層で、普通に社会生活を営んでいた。

 国民の中に、王や王家の悪口を言う者がいるか、反体制の思想を持つ連中が集まったりしているか、外国に逃亡しようとしている者がいるか、また外国から侵入したスパイがいるかなど、さまざまなことに目を光らせて、情報を収集し、王に直接報告しに訪れるのである。

 グレイス二世は、自分とスパイとのあいだに、役人を決して介入させなかった。側近中の側近である宰相もしかり。つまり彼は、側近よりもスパイを信用していた。それほど独裁者というものは、ある意味孤独なのだった。

(信用できるのは、スパイと軍人だけだ。あとの者には、常に疑いの目を向けていなければならぬ。そのくらい用心深くなければ、我が王国の独裁体制を、長く安定させることはできない)

 その夜、晩餐も終わってさあ寝ようかというときに、一人のスパイが報告に訪れた。
 スパイに対しては、二十四時間いつでも会うと伝えていた。重大な情報があれば、それを聞くのを何時間も遅らせたくはない。だから真夜中であろうと、翌朝まで待つことなく、一刻も早く告げに来いと。

 そのスパイは、農民のあいだに紛れている者だった。

「妙な噂を聞きました」

 王は寝室で、寝巻き姿のまま、ベッドにあぐらをかいた姿勢でスパイの話を聞いた。

「クーデターがあるというのです」

 王の眉間に、深いしわが刻まれる。

「その噂の主は、仙女の老婆です」
「仙女?」

 王の口から、不審げな声が洩れる。

「仙女とは、おとぎ話によく出てくる、あの仙女か?」
「はい」

 片膝を床についた格好で、スパイが頷く。

「巷(ちまた)にはいろいろと怪しげな者がおります。錬金術師やまじない師や星を読む者など。彼らの多くはペテン師ですが、この仙女に関しては、確かに不思議な術を用いるようです」
「たとえば?」

 王は興味を引かれて訊いた。

「はい。その老婆は、普段は山奥の洞窟に暮らしているそうですが、【地獄耳】という術を用いて、山の麓(ふもと)の農村での会話を聞いているようです。会話をピタリと言い当てられた、という証言が山ほどあります」
「それは、単に盗み聞きしたのではないのか?」
「見渡すかぎり田んぼで、隠れ場所のないところでした会話も聞かれたとか」
「まあ、それはよい。その老婆が、いったいどんな噂を流したのだ?」

 スパイは声を低く抑えて言った。

「近頃仙女は、一家心中しようとしている農民の家を突然訪問し、死ぬ必要はない、もうすぐ世の中が変わって奴隷は解放されるから、と告げまわっているようなのです」
「もうすぐ世の中が変わる……」

 王は腕組みをした。

「それはクーデターを意味しているのか? よくある救世主伝説の類いではないか?」
「いずれにしても、仙女の予言はよく当たります。彼女が晴れると言えば晴れるし、降ると言えば降る。土砂崩れや川の氾濫も前もって当てるので、農村では多くの人命が救われています」
「その老婆が、まもなく世の中が変わると言ったのだな?」
「そうです。そのためいくつかの農村では、近いうちにクーデターがあるようだという噂になり、それが私の耳に入ったのです」

 スパイの話はここまでだった。
 あくまでも田舎での噂。何の証拠もない。
 噂の出どころは、怪しげな老婆。
 その老婆の言葉を信じるか?
 単に気安めを、自殺しようとしている農民に言っただけではないか?
 しかし、天気や災害をピタリと言い当てるというのが本当なら、どうにも不気味だ。
 クーデター。
 ありえない話ではない。

「報告ご苦労であった。引き続き情報収集に努めよ」

 と言ってスパイを下がらせたが、グレイス二世から眠りはすっかり奪われていた。
 
 クーデター、クーデター……

 王の脳裏には、一人の顔が浮かんでいた。
 次男のレオ。

(もし、仮に、クーデター計画があったとする。その場合、誰が新体制のトップになるか。反体制派が担ぎ出すとしたら、王の血を引きながら王位継承から外れた者、すなわち第二王子……)

 いや、まさか、あの虫も殺せぬような軟弱な息子がクーデターなど……と否定しようとしたが、逆に軟弱であるだけに、反体制派に近づかれて説得されたら強く断われないのではないかと、息子を疑う気持ちが大きくなっていった。

(そう言えば、あいつはいつからか、我々と同じ食事をしなくなった。世の中に飢えている人がたくさんいるのに、それを知りながら美食を食べたくはないと。フン。軟弱な思想だと思ったが、その思想を推し進めれば、奴隷解放につながる。どうもあいつは、生かしておいたら危険な気がしてきた)

 グレイス二世はせっかちだった。ひとたび危険だと思うと、すぐにでも排除しなければ気が休まらない。衛兵に言って、今夜にでも暗殺させるかと、そんなことさえ頭をよぎった。

 まさにその瞬間、寝室の扉がノックされた。

(スパイが戻ってきたか?)

 と思ったが違った。衛兵隊長のコールマンが、「王妃殿下が参りました」と告げ、当のポーラ王妃が、目を潤ませて入ってきたのだ。
 扉が閉まるなり、むしゃぶりついてくる王妃。

「待て。どうして女のほうから忍んできた?」
「だって、我慢できなかったのですもの。あなた最近、ちっとも来て下さらないから」
「今夜はよせ。そんなことより、重大な話がある」

 王妃はすすり泣いた。勇気を振り絞った自分の行動を、そんなことの一言で切り捨てられたから。

「そうだ。お前と二人で話すより、コールマンも呼ぼう」

 寝室の扉を開いて、

「コールマン、折り入って話がーー」

 と言いかけた王は、ジェイコブ王太子がそこにいるのを見て驚いた。

「どうした、こんな深夜に?」
「えー、その、コーデリアが志願した毒見役との交代のことで、いろいろ心配になって眠れなくて……」

 なんだ、下らない。そう思った王は、長男の話を遮って、衛兵隊長と長男に言った。

「二人とも中に入ってくれ。重大な相談がしたいのだ」
 


 この夜は、眠れぬ人々が多かった。
 王宮からおよそ百キロ離れた、山麓の農村。
 星月夜の王都とは違い、こちらは、糠のような雨が降りつづいている。
 その一軒の農家では、夜中になっても、八人家族の全員が起きていた。

「お母さん、見て。これ何だと思う?」

 六歳の次女が、粘土で器用に作った人形を、母親に見せる。

「何だろうね。クマさんかい?」
「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」
「じゃあ猫かい?」
「全然違う! 猫はこんなしっぽじゃないよ。しっぽが特徴だよ。見て」
「降参。教えて」
「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」

 ケラケラと笑う。ほかの子も、藁や竹や紙などで、熱心に工作している。普段は家の手伝いで一日中忙しく、夜は陽が沈めば寝てしまうので、夜中までずっと起きていて遊んでいいと言われたのは、どの子も生まれて初めてなのだった。

「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」

 十二歳の長男も、この夜ばかりは、幼児に帰ったようにはしゃいだ。

「立派なお城じゃのう。わしも一度でいいから、王宮を見てみたかったものじゃ」
「爺ちゃん、行ったことないの?」
「ない、ない。わしが見たら、きっと立派すぎて、目が潰れてしまったかもな」

 年寄りも、楽しそうに孫と話す。その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、

「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」

 八人家族の十六個の目が、短くなったろうそくの炎に向けられる。

「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」

 主人は、家族一人一人の前に、縁の欠けた茶碗を置いた。
 その中に、ヤカンから液体を注(そそ)ぐ。どの茶碗にも、溢れるほどいっぱいに。

「子どもたちと爺ちゃん婆ちゃんが、中身をすっかり飲み干すのを見届けたら、俺と母さんも飲む。それで家族全員が、この地獄からおさらばできるんだ」

 と言いながらも、目は真っ赤だった。
 どれほど貧困に苦しみ、子どもらを食わせていく希望はなく、いくら考えても一家心中する以外に道は残されていなくても、死ぬのはやはり、最大限につらい決断だった。

「お父さん……味、まずくない?」

 次男が訊いた。もしこの飲み物が美味しくなかったら、一気に飲めないかもしれない。一気に飲めなければ、ちゃんと死ねなくて、親に迷惑をかけるのではないかと、この子は九歳なりの頭で心配したのであった。

 母親の、鼻をすする音が響いた。

「大丈夫よ。あなたたちの大好きな、リンゴジュースだから」

 ありがとう、と六歳の次女が言うと、十歳の長女が急に泣き出した。毒入りジュースにありがとうと言った妹が、健気(けなげ)なような哀れなような、複雑な感情に襲われたのだ。

 その幼い姉妹を、祖母が固く抱き締めた。

「……おいら、最初に飲んでいい?」

 耐えきれなくなって、長男が茶碗を取った。

「いいか、見本を見せるからな。あとから真似しろよ」

 口元に近づける。
 青酸ソーダ入りのリンゴジュース。
 飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。

(ためらうな。生きていたって、何もいいことはないんだ。死ねば楽になるし、父さん母さんも助かる。さあ、飲もう!)

 自分に必死に言い聞かせる長男。
 その口が、茶碗の縁に触れたときーー

「待つのじゃ!」

 田舎の、鍵などない玄関の戸がいきなり開けられて、わっと驚いた長男の手から、茶碗が落ちた。
 毒入りジュースが、床に敷いたゴザに広がっていく。
 
 みな呆然として、深夜の闖入者の顔を見た。
 まるでおとぎ話から抜け出てきたような、皺くちゃな老婆の顔を。

「間に合って良かった。あんたたちの会話は、わしの特殊能力の【地獄耳】で聞いた。一家心中など、やめたがいい」

 主人は声もなく、その古代ふうの怪しげな紫色の布をまとった老婆を見ていたが、やがて、

(これは普通の人間ではない)

 と結論づけて、質問した。

「……あなたは、誰ですか?」
「仙女じゃ」

 正確には、職業「仙女」を選んだ転生者ということになるが、むろんそんなまだるっこしい説明はしない。

「仙女、ですか?」
「そうじゃ。噂くらいは聞いておろう?」

 山の反対側の村に仙女が現れて、川の氾濫を予言したという話は農家の主人も聞いていたが、こうして実物を見るまでは、どうせキツネが化けたとかいう類いのホラ話の一つだと思っていた。

「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」

 主人は信じられなかった。

「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」

 この三千年の歴史を持つ独裁国家の体制が変わるはずがないーー農民を含めたほとんどすべての国民が、心の深いところで諦めきっていることだった。

「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」
「殺人ですよ!」

 まだ絶望の中にいた主人に、冷静な反応はできなかった。

「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」

 ヒステリックに食ってかかる。
 それに対して、

(もう少し辛抱したら、必ず幸せになれる。それを伝えて、これまで十を超える家族が、心中を思いとどまってくれた。だから、この心優しい一家も必ずや……)

 老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げた。

「あっ、待て!」

 老婆が叫んだが遅かった。
 主人は一息に、毒入りジュースを呷(あお)ってしまったーー
 


 王の寝室の円卓に、グレイス二世、ポーラ王妃、ジェイコブ王太子の三人が座った。
 衛兵隊長のコールマンは、王の正面、王太子の背後の位置に立っている。

「どう思う? レオを排除するべきだろうか?」

 農民に扮したスパイから、クーデターの噂があることを聞いたグレイス二世は、レオ第二王子が反体制派に利用される可能性が大きいと考え、殺害したほうがいいかと悩んだ。その相談を、この深夜に始めたのである。

「それは早計よ」

 ポーラ王妃は即座に反対した。

「レオがクーデターに関係している証拠はないし、第一、クーデター計画が本当にあるかもわかってないでしょう?」

 まあ、レオの母親だからそう言うだろうな、と思いながら、王は頷いた。

「そのとおり。これには何の証拠もない。もしかすると、そんな計画はかけらも存在していないのかもしれん。しかし」

 王の眼光が鋭さを増す。

「世の中に、そういう噂があるということ自体が問題だ。農民のやつらは、政権が転覆されることを望んでいるのだ。そういう邪(よこしま)な期待は、跡形もなく粉微塵に砕かねばならん」

 王の鼻息が聞こえるほど、寝室がしんとした。

「余がこれをどれほど憂慮しているかわかるか? 奴隷というものは、隙あらば怠けようとする。予言が当たるという評判の老婆が、『もうすぐ奴隷は解放される』などと触れまわって歩けば、その気になって逃亡する準備を始めるかもしれん。少なくとも、今までは何も考えずに労働していたのが、こんなふうに考えるようになるだろう。いざ政変が起これば、俺たちは農具を武器にして、奴隷を解放してくれる反体制派の側について一緒に戦おう、と」
「お言葉ですが」

 自由に発言してよいと言われていたコールマンが、直立不動のまま口を開いた。

「我が国において、クーデターないし政変の起こる可能性はありません。なぜならば、軍以外に武器および武力はほとんど存在しないので、せいぜい局地的な反乱しか起こりようがないからです。そしてそのような反乱は、我が軍が容易に鎮圧できます」
「外国から、大量に武器や傭兵が入ってくるという可能性はないか?」
「ありません」

 王の懸念を、コールマンは言下に否定する。

「そもそも、我が軍に対抗できる組織や団体が存在しないのですから、外国も武器の売り先がありません。ましてや、すぐに鎮圧されるとわかっている反乱軍に傭兵など加わりませんよ」

 暴力による政変はシェナ王国では起こり得ないというコールマンの見方は、正しかった。
 だからこそ、レオ第二王子の狙う政権の転覆は、暴力によらないクーデター、すなわちチートアイテムを用いた謀略による無血クーデターなのであった。

 しかしながら、この場にいる誰も、暴力以外にクーデターの方法があるとは思いつかなかった。そのため、王もいささか緊張をゆるめて、

「そうか。では、軍に任せておけばいいのだな?」
「はい、お任せ下さい」
「ジェイコブよ、お前もそう思うか?」

 グレイス二世から突然話を振られた王太子には、特にどうという考えもなかったが、

(奴隷であるランを正妻に、という願いを聞いてもらうためにも、ここは自己アピールしておかねば)

 と気を引き締めて、まともらしいことを言った。

「そうですね。確かにクーデターが成功する可能性はないでしょう。しかし陛下のおっしゃるように、反体制派がレオを担ごうとする危険はあると思います。だから今のうちに殺してしまえば、将来的にも禍(わざわい)の芽を摘むことになるでしょう」
「ちょっと!」

 王太子の意見に、ポーラ王妃が声を荒らげた。

「そんな理由で第二王子を殺していいと思うの? もしあなたが病気や事故で突然死んだらどうなるの? 私はもう子どもなんか産めないから、王位継承者がいなくなってしまうのよ!」

 王太子は慌てた。

(まずい、母を怒らせてしまった。こんなことが理由で、母が俺の結婚に反対してもつまらない。機嫌をとっておこう)

「もちろん、殺すというのは文字どおりの意味ではなくて、飼い殺しにするということです。生かしてはおくが、カゴの中の鳥のようにして、外部と接触させない。おかしな思想を持つ連中が、近づけないようにするのです」

 すると王も王妃も頷いたので、ジェイコブ王太子は「よしっ」と心の中でガッツポーズをした。

「飼い殺しか。ではレオはすべての職務から外して、シェナ王国史の編纂の責任者でもやらせよう。日がな一日、王宮の図書室に閉じ込めておくのだ」

 王が言うと、王妃も「それがいいわね」と相槌を打った。

「とはいえ、老婆の予言は気になる。地方領主や中央の文官に対しては、監視を強化する必要があろう。明日にも、陸軍官にはそう命じる。コールマン」

 王は、直立不動の衛兵隊長を見据えた。
 
「王宮内のことはお前に任せた。おかしな動きがないか、常に見張っているのだ。特にこのような深夜に、こっそりと誰かと会っている者がいないかどうか。今からさっそく巡回せよ」
「はっ!」

 せっかちな王の命令に、衛兵隊長は敬礼で応えると、回れ右をして部屋から出て行った。

「では失礼します」

 ジェイコブ王太子も出て行った。コールマンに用があったので、急いで追いかけたのである。

 寝室に、王と王妃の二人が残される。

「ねえ、あなた」

 とたんに王妃が、猫のように喉を鳴らして甘えた。

「何度も言わせないでね。私、我慢できないの」

 王は、今度は王妃の期待に応えた。