(だめだ。今夜は眠れそうもない)
コーデリアと同じく、深夜に悶々としている人物がいた。
料理長である。
「いよいよ決行だ。明日の朝食で、全員分の肉料理にフグ毒を入れろ。どの皿にも致死量の十倍以上だぞ。いいな?」
洞穴のような目をしたジェイコブ王太子にそう告げられたのが、つい二時間前。眠っているところを起こされて、廊下に呼び出されての、爆弾投下だった。
(無理だ無理。絶対無理無理無理無理)
料理長は、ベッドに身を起こして嘆息した。そこは料理人用の大部屋で、同じ部屋に八人が寝起きしている。声を出せばほかの料理人を起こしてしまうので、料理長は無言でため息をつくばかりだった。
(フグの肝臓を大量に炒め、すり潰して水気を抜き、濃縮されたレバーペーストを作る。これをレアステーキにべったり塗り、上から赤ワインソースをたっぷりかける。はい、美味しい猛毒フィレステーキの出来上がり!)
料理長は声を出さずに泣いた。こんな料理を誰が作りたいものか。でもやらなければ、愛する妻と娘は虐殺されるのだ!
料理長の心は死んだ。
もうどうでもいい。
なるようになれ。
自分は王太子様から命令されたとおりにするだけだ。
フグのレバーペーストを食べて、あの美しいコーデリア様は死ぬかもしれない。でも、毒入り料理など作ったことはないから、単に食中毒になるだけで、命はとりとめるかもしれない。
コーデリア様が死ねば、自分は殺人者だ。潔くフグの肝臓を食って死のう。
もし死ななければ、手心を加えたと疑われ、反逆罪が確定する。そうなれば、家族みんなで手を取り合って死のう。
そこまで考えたとき、大部屋のドアが、そーっと音もなく開いた。
目を瞠(みは)る料理長。
口に指を当ててシーッとしながら入ってきたのは、女官のエリナだった!
「静かに、静かに」
まるでスパイのような忍び足で料理長のベッドのそばまで来ると、エリナは囁き声で言った。
「きっと起きてると思ったわ。王太子に、良からぬことを頼まれて悶々としてたんでしょう。どう、図星?」
料理長はガタガタ震え出した。
(コーデリア様に付いている女官に、秘密がバレている……嗚呼、いったい私はどうなってしまうのか!?)
「奥さんの大ファンだもんね。身を裂かれる思いだったんでしょ? わかるよ、その気持ち。今から救けてあげるから、黙ってついて来て」
エリナが料理長の寝巻きの袖をつかんで引いた。
料理長は、糸を引かれた操り人形のように立ち上がる。
ドアを閉め、忍び足で階段へ。
召使い部屋や厨房のある地下から、セレモニーホールや食堂のある一階へ。一階から、王の間や王室の人々のプライベートルームがある二階へ。
暗い二階の廊下を、コーデリアにあてがわれた部屋に向かってそろそろと進む。
そのときだった。
「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」
鋭い誰何(すいか)の声。
料理長は気が遠くなった。
◆◆◆◆◆
ポーラ王妃は後宮の主(ぬし)であった。
シェナ王国の宮殿は、王宮と後宮が渡り廊下でつながっている。
王妃の部屋は王宮にもあったが、夜は後宮で過ごすことを好んだ。
なぜなら、ほぼ毎晩のように、自分の部屋で女官たちにレスリングをさせて、それを観るのを愉しみにしていたからだ。
「ほらもっと頑張りなさい。髪の毛を引っ張ればいいのよ。休んでないで。さあ、顔を思いっきり引っ掻きなさい!」
女たちが本気でケンカをし、仲の良かった者同士が険悪になったりすると、王妃はたまらなく喜んだ。平和よりも争いが好きなのである。
しかしその夜は、レスリング大会を開催しなかった。
翌朝の、コーデリアの毒殺が愉しみすぎて、ほかのことに気が乗らなかったのだ。
(早く見たいわあ。フグにあたって人が死ぬところを。青酸カリの一千倍も強いって、なんて素敵な毒なんでしょう。きっとものすごーく苦しむわ。ああ、早く見たい見たい見たい……)
ポーラ王妃はうっとりとした。
そして、お腹の奥が熱くなり、ジンジンと疼いていることに気づいた。
(だめだわ。こんなに興奮していたら、今夜は眠れそうもない)
彼女は立ち上がって部屋を出た。
女官も連れずに、一人で渡り廊下を歩く。
向かう先は夫ーーグレイス二世の寝室だ。
これはまことに異例であった。
王と王妃が身体の関係を持つ場合、必ず王のほうから後宮に忍ぶ。その逆はない。
が、近頃は後宮に来ても、お気に入りの女官か毒見役を抱くばかりで、王妃の部屋を訪れることはなかった。
(久々に、身体が男を求めている。これを我慢するなんて地獄。今夜だけは、前例を破らせてもらうわ)
階段で二階に上り、王の寝室へ。
その扉の前には、夜間に王を警護する任務を負っている、衛兵隊長のコールマンが陣取っていた。
(……む。何奴(なにやつ)?)
衛兵隊長は、近づいてくる人物のほうへ、左手に持ったランタンを掲げた。
(シルエットは女のようだが……あっ、あれは!)
ランタンの灯りで、暗い廊下を一人で歩いてくる女性が、ポーラ王妃であることを知った。
衛兵隊長は直ちにランタンを足元に置き、銃剣を身体の前で垂直に立てて、捧げ銃(つつ)の敬礼をした。
「コールマン、敬礼はいいわ」
ポーラ王妃の妖艶な笑みが、ランタンの黄色い光りに浮かび上がる。
「どうぞ妻が忍びに来たのを見逃してちょうだい。そこで聞き耳を立ててもいいのよ。いつも忠実に仕えてくれるあなたへの、これはほんのボーナス」