王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?



 レオ第二王子。
 突然変異である。
 シェナ王国の王家の血筋に、彼のような人物が現れたことはない。
 彼は、権力に興味がなかった。
 彼は、不正を憎んだ。
 彼は、平民や奴隷に同情した。
 それらは、父や母や兄の中をくまなく探しても、ひとかけらも見当たらぬ性質ばかりであった。

 父親のグレイス二世は、レオ第二王子にまったく期待をかけていなかった。長男のジェイコブは、幼い頃から小動物を殺すなど、非情で男性的なエネルギーを発散させていたが、次男のレオは七歳のときに、巣から落ちたツバメのヒナを部屋でこっそり育てていたことがあり、なんて女みたいなやつだと父親をひどくがっかりさせた。

 以来、両親も兄も、レオを軽んじた。どうせロクな男にはなるまい。将来のためにと、帝王学を叩き込むのもバカらしいくらいだ。

 レオ本人も、そう思われていたほうが気楽だった。現時点では王位継承の第二位であるが、兄が結婚して男子が生まれればそちらが二位になる。早くそうなって、王位継承の可能性が限りなく低くなることを願った。そうしてさっさと、放浪の旅にでも出たかった。

 放浪の旅は無理だったが、彼は学校をよくサボって遠出をした。気ままな第二王子のそうした行為を、誰も告げ口する者はなかった。誰もが王家の面倒に巻き込まれることを敬遠したからだ。

 遠出の先は決まって田舎だった。彼はごちゃごちゃした町には興味がなく、森や野原や田んぼの風景を好んだ。

 あるとき、田んぼを眺めて歩いていると、奇妙なことに気づいた。
 太い道の両側の水田だけ、稲が密集して伸びていて、そこから離れた水田にはほとんど稲がなかったのだ。

「どうして田んぼによって、こんなに差があるんだろう?」

 彼は近くにいた農民に声をかけて尋ねた。農民は、第二王子の顔を知らなかった。物好きな貴族のお坊ちゃんだと思い、ごく気軽に答えた。

「へい、領主様の命令で、稲をあっちからこっちに移したんで」
「なぜそんなことを?」
「視察のために、王様がこの道を通るとかで、ここだけ稲をびっしり植えたんでさあ」

 なるほどーーレオ第二王子は思ったーーこの地方の領主は、自分の土地の収穫が良いように見せかけるために、わざわざこんな手のかかる小細工をしたのか。

「ここだけの話、王様は収穫が少ないと、農民をサボらせるなって領主様を怒鳴りつけなさるもんで。領主様は王様の機嫌をとるために、豊作のフリをなさるが、そうすりゃ国にたんと米を貢がねばならねえ。でも実際にゃあ米はねえんだから、俺たちゃ飢えて死ぬのを待つばかり。あんまり辛くて辛くて、自分から死ぬのもいるだよ」

 地方と国への二重の税に追い詰められて自棄(やけ)になっていた農民は、行きずりの「貴族のお坊ちゃん」に、この国で絶対的なタブーとされている国王批判を含んだ愚痴をこぼした。

 レオ第二王子は衝撃を受けた。
 収穫が少ないと農民をサボらせるなと怒鳴る? 自分は働きもしないで、贅沢三昧の暮らしをしているのに?
 父親のグレイス二世に、吐き気を催すほどの怒りを覚えた。

(父の恐怖政治が、地方領主を不正直にさせ、農民を地獄に突き落としている。それがこの国の現実だ。奴隷とはいえ、農民も同じ人間ではないか。一部の人間の贅沢のために、同じ人間が餓死したり自殺したりしていいわけがない。シェナ王国は変わらねばならない!)

 強くそう思ったが、この独裁国家を変えるには、国王、すなわち自分の父親に死んでもらうしかないことは明らかだった。

(それは不可能だ。もし仮に、父の暗殺に成功したとしても、兄が王となって権力を引き継ぎ、同じような恐怖政治を続けるだろう。では兄も暗殺するか? そのようなテロを、果たして誰が支持するだろう。結局国はめちゃくちゃになり、今以上の地獄を招いてしまうのではないか?)

 そもそも、いかに正義感に突き動かされたとしても、心優しい第二王子にテロだの暗殺だのができるはずがなかった。だからこれは、あくまでも想像上の話、絵空事のクーデターでしかなかった。

 が、この日以降、彼の胸にはずっとその思いが残った。
 学校を卒業し、嫌な軍務に就かされるなど公務の時間が増えても、彼は暇があれば田舎に足を運び、気になる農民の様子を観察した。
 数年前と同じく、太い道の両側だけはいつでも「豊作」だった。

 そんなある日、痛ましい思いを胸に田んぼを眺めていると、後ろから声をかけられた。

「第二王子どのじゃな」

 振り向くと、腰の曲がった老婆が立っていた。
 レオ第二王子は軽く頭を下げた。

「農家の方ですか?」

 老婆はその質問に答えず、

「農民と思ったのなら、どうして頭を下げたのじゃ?」

 逆に質問した。
 第二王子は答えた。

「歳上の方に頭を下げるのは、当然のことです」

 老婆の細い目が、鋭い視線を放つ。

「奴隷に頭を下げるのが当然とは驚いた。あなたはこの国を変える人じゃ。力を貸そうか?」

 レオ第二王子は非常な驚きをもって老婆を見た。

「あなたは……誰ですか?」

 老婆は答える。

「仙女(せんにょ)じゃよ」

 第二王子は眉をひそめる。

「仙女ですか。残念ですが、おとぎ話を信じる年齢は過ぎました」

 老婆はニヤリと笑う。それはいかにも、いたずらっぽい笑いだった。

「笑ってすまん。そう、確かに仙女は、おとぎ話の存在じゃ。でもそれは、わしらの正体を知らない昔の人間が、仙女と思い込んで語り伝えたのじゃ。それではわしの正体を明かそう。わしは」

 老婆は一呼吸おいて言った。

「転生者じゃ」
 


 どの国にも民間伝承はある。
 シェナ王国にもそれは無数にあるが、もっともよく国民に知られているのが、仙女の話だった。

 いわく、仙女の呪いによって、王女が百年間眠らされた。
 いわく、仙女によって醜い王子が美しくされ、愚かな王女が賢くされた。
 いわく、仙女にガラスの靴を授けられた哀れな娘が、王子と結婚した。等々。

「それらはどれも、本当は、転生者がしたことなのじゃ」

 田舎の畦道で、腰の曲がった老婆が、レオ第二王子に語った。

「転生とは何ですか?」

 言葉の意味がわからない第二王子が尋ねると、

「ある世界で死んだ者が、別の世界で生き返ることじゃ。その際に、職業を選べるのじゃが、わしはかれこれ六十年ほど前に死んだときに、仙女にしてもらっての。ちなみに仙女というのは、転生者が選べる職業の一つで、元々こちらの世界には存在しなかったのじゃ」

 無言で立ち尽くす第二王子。わからないことが多すぎて、何から訊いていいか思いつかないのである。

「完全に理解するのは難しいじゃろうが、わしという証拠を見て、この世にはそういうことがあるのだと納得されよ」
「では訊くが」

 第二王子は言った。

「『灰の姫』というおとぎ話がある。あれに出てくる仙女も転生者なのか?」
「そうじゃ」

 老婆が頷く。

「わしがこっちに転生するずっと前の話じゃから、憶測で答えるが、カボチャを馬車にしたと伝えられておろう? あれなどは、転生前の世界の知識と技術を使って、カボチャ形の馬車を作ったのじゃな。こっちの世界にはない技術だったから、魔法だと思われたのじゃ」

 第二王子は、まだ理解できない様子で首を捻っている。

「別の話で、王子を美しくしたり、王女を賢くしたりしたのがあるが?」
「それは簡単。転生するときに与えられる転生特典に、転生前の世界の道具を使えるというものがある。それがこっちの世界にとっては、驚異的な威力を発揮するから、いわゆるチートアイテムになるのじゃ。この場合は、転生前の世界の化粧品を使って王子を劇的に美しくしたり、転生前の世界の数学本か何かを与えて、王女を天才のように見せたのじゃろう」

 第二王子はもはや、理解を諦めた顔をした。

「あなたの話は難しい。いちおうもう一つだけ訊くが、王女を百年間眠らせたというのは?」
「これについてはわかっておる。転生前の世界の【睡眠薬】を服(の)ませたのじゃ。あっちの世界の薬は、こっちの世界の人間には強力に効く。わしの転生者仲間に、錬金術師を選択したカークという男がおるが、カークはそのことを実験で証明したそうじゃ。ついでに言うと、錬金術師も正体はほとんど転生者じゃよ」

 第二王子は俯いて考え込んだ。老婆の話を信じるなら、転生者というのはとんでもない力を持っている。人を天才にしたり、百年間眠らせたり……

 ハッと顔を上げる第二王子。突然、それこそとんでもないことを閃いたのだ。

(父と兄の暗殺は無理でも、百年間眠っていてもらうのはどうだ?)

 常に頭から離れなかった絵空事のクーデター計画ーーそれが不意に、現実味を帯びたのだ。

(もし父たちを殺したら、国は無法状態に陥る。が、単に「眠り病」になっただけなら、自分が代理の王を務めることによって混乱を避けられる。そうして、徐々に政治を良くしていけば、この国の民を救えるかもしれない)

 彼はこの考えに夢中になった。もしこれが可能なら、暗殺をしなくても済む。彼にとって、たとえ極悪の父と兄であっても、殺したり傷つけたりするのは何よりも忌避する事柄であった。

「念のために聞きます。薬を服んだ人は本当に百年間眠るだけで、死ぬことはないのですね?」
「わしにそれを教えたカークは、百パーセント信頼できる男じゃ」
「しかし、百年間飲まず食わずで死なないというのは、にわかには信じがたいですが」
「そのメカニズムもわかっておる。あっちの世界の【睡眠薬】をこっちの世界の人間が服むと、ちょうど白魔法の【スリープ】をかけられたときのように、生命は維持したまま細胞の活動が超スローになるのじゃ。白魔法は知っておろう?」

 首を傾げる第二王子。

「冒険者が、モンスター退治に使う技ですか? 幸いシェナ王国にはモンスターがいませんので、そのようなものを目にする機会はありませんが」
「わしは仙女としていろいろな国へ行ったから、モンスター退治に加わったこともある。それはともかく、細胞の活動が超低速になると、呼吸だけで生命を維持する【ブレサリー】という状態になるのじゃ。実際、ヨガの達人の中には、過酷な訓練によって【ブレサリー】の術を身につけて、七十年間も呼吸だけで生きた人間がいるそうだて」
「では百年後に再び目覚めたときには、ピンピンしているのですか?」
「そうじゃ。きっと本人にとっては、普通に一晩寝たくらいの感覚じゃろう」

 それも困るな、とレオ第二王子は考えた。

(百年後に眠りから覚めた父は、自分こそ王だと主張するだろう。そしてそのときの政治形態がどうであれ、強引に独裁国家を復活させようとするに違いない)

 そのための対策は考えておく必要がある。が、それは百年先のことだ。今やるべきことは、【睡眠薬】の入手だが……

「その薬を、譲っていただくことはできますか? 必ず良いことに使うと約束しますので」
「国を変えるのじゃな? 喜んで協力する」

 老婆は微笑んだ。しかし、

「わしは持っておらん。転生特典にそれはなかったからの。今から薬を持つ転生者を捜しに行こう。毒見の一族に紛れている、大変美しい少女がそうだと聞いたことがあるのじゃ」


 その日は時間がなかったので、転生者捜しは老婆にお願いして別れた。
 王宮に帰ったレオ第二王子は、女官のエリナを呼んだ。十四歳のエリナは、まだ少女ながら勘が鋭く、その観察眼を第二王子は信頼していた。

「エリナ、ニコラスだが、父や兄を嫌っていることは間違いないな?」
「絶対そうです。だけど、レオ王子様のことは大好きですよ」

 ニコラス・スミスは宰相だった。宰相とは、王宮において王の国政を補佐する役職であり、側近中の側近であると言えた。
 権力の甘い汁を吸いたい者にとっては、垂涎の的の地位である。が、独裁者に気に入られて側に置かれるというのは、諸刃の剣でもあった。ひとたび王の癇(かん)に障れば、たちまち失脚し、最悪の場合は処刑されることもあるのだ。

 ニコラス・スミスもそれは重々承知していた。だから言動には細心の注意を払い、常に慎重に立ち回っていた。にも関わらず、最近グレイス二世のニコラスに対する態度は冷たかった。なぜか。

 理由などない。人間、ありとあらゆる権力を有すると、気まぐれになるらしい。ニコラスがうまく立ち回れば立ち回るほど、グレイス二世はそのそつのなさが疎ましくなり、理由なく苛立った。

 ただでさえサディストだ。ニコラスなど、元々ゴミに過ぎなかったが、頭が切れるので引き上げてやった。それが調子に乗っている。どれ、処刑宣告してやるか。きっと蒼褪めて、ぶるぶる震え、命乞いするだろう。実に面白い。妻も喜ぶだろう。よし、決めた。近いうちに殺そう。

 王のその感情を、繊細なニコラスは感じ取っていた。王は私を排除しようとなさっておられる。何の落ち度もないのに。嗚呼、なんと理不尽なことだろうーーそう思っても、宰相の地位を自ら降りることもできなければ、王宮から逃げることもできない。もはや黙って死の宣告を待つのみ。そんな絶望感を隠しながら、ニコラスはサディストの王のために、日々の公務を哀れにもそつなくこなしているのであった。

 女官のエリナは、宰相の変化を見逃さなかった。宰相の心は王様から離れている。王太子も信用してない。唯一信頼しているのは第二王子だけ。私とおんなじね。そうだ、このことを、レオ様に教えてあげよう。

 このような経緯(いきさつ)から、レオ第二王子は、宰相のニコラス・スミスを自分の側につかせることができると踏んだのである。

 第二王子は女官のエリナを通じて、宰相に極秘の手紙を渡した。宰相は、深夜ひそかに、第二王子の部屋を訪れた。

「殿下、よくぞ国を救われる決心をなされました」

 ニコラスは泣いていた。レオ第二王子が立ち上がってくれることでしか、自らの死を逃れるすべはなかったのである。まさに奇跡が起こった。これが泣かずにいられようか!

「私だけではありません。実を申すと、王と王太子に、心からの忠誠を捧げている文官はほとんどおりません。皆、恐怖から従っているだけです」
「軍人はどうだ?」

 第二王子が小声で訊いた。

「残念ながら、軍はその性質上、王に絶対の忠誠を誓っております。王が死ねと言えば死ぬ、それが軍人ですから。しかしです」

 ニコラス宰相が身を乗り出す。

「王と王太子がいなくなって、殿下が王になれば、軍は新たな王に従います。ですから、王と王太子さえ斃せば、必ずやクーデターは成功するでしょう」
「そうはいくまい。僕が父と兄を殺せば、それは反逆だ。正統な王位継承ではない。となると、軍は反逆者の僕を殺して、軍事政権を樹立しようとするだろう。僕には軍事力がないのだから、それを防ぐ手段がない。国は大混乱に陥り、今よりもひどいことになる」

 宰相は舌打ちした。

「くそっ! あの二人さえいなくなれば、何もかもうまく行くのに。地方領主の中にも、そう思っている者がたくさんいるはずです」
「ニコラス、ぜひ仲間を増やしてくれ。このクーデターを支持してくれる仲間を」
「え? ですが、軍はどうするのです?」
「父と兄は斃さず、『眠り病』になってもらうのだ」

 第二王子は宰相に説明した。

「転生者ですと!?」

 シーッと第二王子は指を唇に当てた。しかし宰相は興奮し、

「それなら成功間違いなしだ! 何なら【睡眠薬】だけでなく、戦争に役立つチートアイテムも譲ってもらいましょう。そうすれば、軍を力で抑えられるじゃないですか!」
「ニコラス、僕は戦争が嫌いなんだよ。それに殺人も」
「あくまでも、王と王太子は生かしておくつもりなんですね?」
「そうすれば、反逆にならない。僕は王の代理という立場で政治ができる」
「なんとまあ、殿下はお優しいですなあ!」

 ニコラス宰相は、文官や地方領主らと極秘に接触し、「反グレイス二世・親レオ第二王子」のネットワークを構築する役目を負った。
 一方、レオ第二王子の役目は転生者捜しである。それについて宰相は、

「転生者は、毒見の一族に紛れている美少女なのですね? とすると、うまくやれば王宮内に潜入させられるかもしれません。毒見役の候補者選びは、私の仕事ですから」
「なるほど。あまり目立たない候補者の中にその転生者を入れれば、父はきっと選ぶだろう。もちろん、転生者がそこまで協力してくれればの話だが」
「ぜひお願いして下さい。チートアイテムを持つ一人の転生者の力は、一万人、いや、それ以上の軍人の力に匹敵する。我々は力を持つことになるのです」

 ニコラス宰相は拳を固めた。

「王は毒見役を数年で交代させます。そろそろ交代の時期です。そのときこそ、この暴力によらないクーデター、謀略式無血クーデター開始の号砲となるでしょう!」


 ところでランは、転生前の世界では、白崎蘭(しろさきらん)という名前を持っていた。
 蘭はごく普通の十四歳の女の子であった。ところが交通事故で死んだ。即死であった。

 彼女は目に見えない姿となって、宙をふわふわと飛んだ。どうして自分が飛んでいるのか不思議だった。
 気がつくと、後ろから誰かが抱きついていた。

「……誰?」
「天使です」
「天使?」

 翼を広げた天使がにっこりと笑う。なかなかのイケメンだった。

「ということは、私は死んだの?」
「そうです。トラックから外れたタイヤが直撃し、十五メートル飛ばされて地面に頭から落ちました」
「外れたタイヤが直撃……ダサ」

 蘭は死に方に納得がいかない顔をした。

「じゃあ、私がいい子だったから、天使さんが天国に連れていってくれてるのね?」

 蘭はすぐに気持ちを切り替えた。天国行きなら超嬉しい。きっとそこでは、勉強も仕事もする必要がなく、食べ物も抜群に美味しく、一日中ゴロゴロしても誰からも叱られない生活が永遠に続くのだろう。
 ところがーー

「いいえ、天国には参りません。あなたはまだ若いですし、この世に未練がありましょう。なので、異世界に転生させてあげます」
「は?」

 蘭が勢いよく振り向いたので、天使は危うくバランスを崩しかけた。

「おっとっと。運搬中の急な動きはお控え下さい」
「ちょっと待ってよ。転生するって何? また一から人生をやり直すの? めっちゃダルいんですけど!」

 天国に行けるとすっかり期待していた彼女は、何とか天使に方針を変えさせようとした。

「天国に行かせて! 毎日美味しい物を食べてダラダラ過ごさせて!」
「無理です。あなたの異世界行きはもう決定しているのです。諦めて下さい」

 蘭はどんよりした。喜んでもらえるとばかり思っていた天使は、何だか申し訳ない気持ちになり、自分にできるかぎりの便宜を図ってあげることにした。

「あのー、転生先での職業は何にします? 自由に選べますけど?」
「それがダルいって言ってるの。天国だったら仕事なんてしなくていいんだから」
「これはどうですか、毒見役。毎日貴族の食事を食べられますよ。仕事は基本それだけ。あとは寝ていればいいんです。ね?」

 蘭は怒った。

「あなたそれでも天使? 毒見役を人に薦めるなんて、もし毒を呑んで死んだらどうするの?」
「そのとき改めて、天国に行かれては?」
「嫌っ! 毒死なんて苦しいじゃん!」
「ではこうします。こちらの世界の人間にはまるで効かない毒しか存在しない世界に、あなたを転生させます。ついでに、いつでもこちらの世界の薬を取り出せるポーチもプレゼントしましょう。それを異世界人に服(の)ませたら、どんな病気でも治せます」

 蘭は考え込んだ。

「異世界に行ったら、モンスターに襲われたり、悪役令嬢に意地悪されたり、キモい男に狙われたりしない?」
「力とすばやさについてなら、少々サービスできますが?」
「じゃあ、転生先の住民と比べて、力を百倍にして、すばやさを二百倍にしてくんない? そうしたら、たいていの危険は乗り切れそうだから」

 男どもにパンチを食らわし、モンスターを投げ飛ばす自分を想像して、「私つえーっ!」と爽快な気分になった。

「ではそれでよろしいですか? 毒見役に転生で?」
「まあ、よしとするわ。あと、どうせなら王様と同じ食事を食べたいから、王室に雇われるようにして」
「美人にしときましょう」
「どっちかっていったら清楚にね。決して派手じゃないんだけど、誰よりも輝いてるっていうか」
「輝かせましょう」

 話がまとまった。双方が満足する結果だった。

「転生先の国名はシェナ王国。セイユ地方に住む毒見の一族に生まれていただきます。十四年後にオーディションで選ばれて、王宮入りします。そこまで決めておけばいいですか?」
「最初の十四年間を、飛ばすことはできない? ダルいから」

 さすがに天使もムッとした。まったく近頃の若い者ときたら……
 いやいやと、天使はすぐに反省した。近頃の若い者は、と言うようになったら、それは老化の証拠だ。今の感性では、これが普通なのだろう。楽して生きたい。それだけが、今の若者の願いなのだ。

 何も世界一の金持ちになりたいとか、世界一の権力者になりたいとか、世界一モテたいと願ったわけではない。それを考えると、彼女の願いなどかわいいものだ。そのくらい叶えてやろう。

「では目が覚めたら、十四歳の毒見役です。何もしないで待っていれば、王宮からの使いが来ます。あとは上手にやって下さい」
「サンキュ」

 蘭はたちまち眠くなって意識を失った。
 目が覚めると、そこは絵に描いたような田舎のあばら屋だった。
 厳しい毒見の一族の修行生活。しかしランには楽勝。なんせ力は他人の百倍で、すばやさは二百倍。言いつけられた作業や訓練をあっという間にこなし、余った時間は寝て過ごした。

「ありゃ仙女の生まれ変わりだな。わしらの手に負えん」

 一族の長老も呆れるばかり。本当はランは仙女などではなく、楽して生きたい普通の女子だったのだが。

 とんでもない女の子がいる、という噂は、人から人に伝わった。それはやがて、職業「仙女」を選択した転生者の老婆の耳にも入った。

「間違いない。その子は転生者じゃ。不思議なポーチから不思議な薬を出すというが、きっとチートアイテムが使える転生特典を付与されたのじゃろう。美しくて力持ちですばやいうえにそれか……うらやましい。ずいぶんうまく天使と交渉したと見える」

 やがてレオ第二王子と出会った老婆は、その少女を捜すことになり、セイユ地方の山間部で発見した。

「仙女さん? あなたが王宮の使いね。待ってたわ」
「なんじゃ、そこまで運命を決めて転生したのか。なら話が早いわい」

 ということで、老婆は毒見の一族に、

「この子は必ず王に選ばせる。仙女の約束は絶対じゃ」

 と告げて、ひとまず自分が住む洞窟に帰り、第二王子に転生者を「発見」させる作戦を練った。


 演出は大切だ。
 老婆は常々そう考えていた。
 歴史に残る話には、必ずそれがある。

 カボチャの馬車という演出によって、「灰の姫」の話は印象的になった。当時の仙女は、それを実によくわかっていたのである。

「眠り姫」もそう。姫が百年眠ったから語り継がれるのである。あのとき仙女が睡眠薬の量を調節し、ほんの一年で目が覚めるようにしたら、現在あの話を知る者は誰もいなかったであろう。

「第二王子が国を変えるカギとなる転生者捜しには、ぜひとも演出が必要じゃ。それでこそ、人々は語り継ぐようになる。わしはこれを伝説にしたい」

 かくして仙女の老婆は、約束した日に田んぼ道でレオ第二王子と再会すると、

「どうしても見つからぬ」

 とっくに居場所を突き止めていながら、そう言った。

「転生者のあなたでも無理ですか?」

 第二王子は歯ぎしりした。
 というのも、つい先日グレイス二世がニコラス宰相に、

「そろそろ毒見役を交代するから、候補者選びをしておけ」

 と命令したからである。
 第二王子は知らなかったが、コーデリア・ブラウンからの手紙を読んだジェイコブ王太子が、婚約者と毒見役の交換を思いつき、グレイス二世にそれを持ちかけたのが、つい一週間ほど前だったのである。

(まさか、こんなに早く交代の時期が来るとは。候補者選びは、数か月で終えねばならない。そのあいだに、チートアイテムを持つ転生者を見つけられなければ、このクーデター計画の成功は怪しくなってしまう……)

 第二王子は焦った。

「毒見の一族を、片っ端から当たってみてはどうですか?」

 老婆は首を振った。

「彼らは徹底した秘密主義じゃ。解毒の術の奥義を知られぬためにの。だからこそ、わしも難儀しておる」
「僕の……第二王子の名前を出したらどうでしょう?」
「どうかな。毒見の一族は雇われた主人のために死ぬ。王家で彼らを雇うのは王であって、王子ではない。主人になることのないあなたに、果たして隠し事を教えてくれるかどうか」

 第二王子の歯ぎしりがひどくなり、奥歯がメリメリと音を立てた。
 このとき仙女の目が、キラッと光った。

「おお、あれを見よ!」

 老婆の震える細い指が、田んぼを指差す。

「田んぼが何か?」
「水田ではない。かかしじゃ!」

 畦道に、ボロ布を纏ったかかしが立っている。

「……かかし?」
「そうじゃ。あれの顔を見よ。あれは南向きに立っているのに、顔だけが東を向いておる。これは転生者が東にいるというお告げじゃ! 行くぞ!」

 第二王子は不審げな顔つきをしたが、走り出した老婆のあとを黙って追いかけた。

「見よ!」

 次に老婆が指差したのは、一時間ほど走ったのちに突き当たった、流れの緩やかな小川だった。

「あの水面が見えるか? 謎の文字が浮かんでおる!」

 第二王子が目を凝らしたが、もちろん文字など見えるはずもない。老婆の演出だから。

「わしには見える。テ……ロ……グ……わかった! テ、とはテモン草原、ロ、とはロバ、グ、とはグノースの泉。つまり、テモン草原でロバを見つけ、それに乗ってグノースの泉に向かえということじゃ!」

 二人はセイユ地方のテモン草原に行った。すると本当にロバがいたので、レオ第二王子もだんだん興奮してきた。
 そしてーー

「ほれ、グノースの泉に、水を汲みに来ている女がおる。あれが転生者でなくて何であろう!」

 その黒髪の少女は、輝くばかりに美しかったが、水をいっぱいに入れた大甕(おおがめ)を両肩に一つずつ載せ、目にも止まらぬスピードで村のほうへ駆けていった。

「本当だ……あれは尋常の人間ではない」

 ほどなくして、少女は空にした大甕を指先でくるくる回しながら戻ってきた。
 第二王子は飛び出して、我を忘れて叫んだ。

「助けて下さい! あなたの力が必要です!」

 少女ーー転生者のランは、仙女の老婆からだいたいの話は聞いていたが、何だか天使に騙されたような気分がしていた。

(確かに私は、これで王宮に入れる。だけど、クーデター計画に協力したらどうなるんだろう? 私は美食を食べながら、毎日ゴロゴロするつもりだったのに、内乱なんかに巻き込まれたらおちおち寝ていられないかも)

 が、王宮入りまでは運命で決められており、それに逆らう方法はなかった。ランは素直に頷いた。

「私でお役に立てれば」

 転生者を「発見」した第二王子は小躍りして喜び、さっそく毒見の一族の住む村へ赴くと、

「毒見役の候補者は、こちらの少女に決めました」

 長老に告げた。長老は大いに満足した。

(良かった。転生者が味方になれば百人力、いや、一万人力だ。文官や地方領主のほとんども、このクーデターを支持してくれている。あとは薬の力で父と兄を「眠り病」にし、百年間眠っていてくれるだけ……)

 これで国民を救えるぞ、と思うと、レオ第二王子の武者震いは止まらなかった。


 毒見役の選定の日が決まった。
 ジェイコブ王太子とコーデリア・ブラウンの婚約発表という一大イベントの、四日後。
 すでにニコラス・スミス宰相が、残りの六名の候補者選びを終えていた。いずれも容姿は整っているが、どことなく輝きのない娘ばかりであった。

「絶妙な人選だな。これでランの髪型を父好みにし、父好みの服を着せたら選ばれること間違いなしだ」

 首尾よくランが毒見役になったら、食事の毒見をするときに、目にも止まらぬ早業で料理に【睡眠薬】を入れる。ランのすばやさは常人の二百倍あるので、その手の動きが人間に見えるはずはなかった。

 レオ第二王子は自信を深めていた。
 が、ただ一点、心の隅に晴れないものがあった。
 兄の婚約者ーーコーデリアの存在である。

(婚約発表が済めば、彼女も王宮に住み、父や兄と同じ食事をすることになる。父と母と兄には眠ってもらうが、彼女はどうしよう。国民に何も悪いことをしていない彼女まで、百年の眠りに就かせてしまっていいものか……)

 心優しい第二王子は、そのことを気に病んだ。

「大事の前の小事。王太子の婚約者など気にして計画を鈍らせてはなりません。一緒に眠らせてしまいなさい」

 ニコラス宰相は強硬に主張した。レオ第二王子も、結局はそれに同意した。
 ところが、婚約発表のために催された舞踏会で、図らずもコーデリアに農民の悲惨な現実を伝えることになったとき、

『……それは、知りませんでした』

 兄の婚約者は目を真っ赤にした。初めて知った農民の窮状に、心を痛めたのである。
 この瞬間、第二王子は胸を打たれた。

 この人は、ほかの貴族令嬢とは違う。
 奴隷である農民に同情する心を持っている。
 あまりにも美貌を鼻にかけるから、高慢な女性だとばかり思っていた。
 本当はーー心の美しい女性だったのだ。

(もし自分が新しい王となったら、彼女のような、奴隷の気持ちを思える女性をパートナーにしたい。この国を変えるのにもっとも大事なのは、我々トップがそういう心を持つことなのだ)

 第二王子の胸に、温かい火が灯った。
 それは恋の火種であった。
 しかも、彼は極めて純情であったので、ひとたび好意を持つと、まるで世界中に女性はコーデリア一人しかいないかのようになり、その恋に火傷するほど胸を焦がされた。

(彼女は決して眠らせまい。ニコラスが何と言おうと)

 兄の婚約者の処遇が、第二王子にとって小事ではなくなった。むしろ、日に日に大事になっていった。

 やがて、毒見役の選定の日になった。異例なことに、その場にジェイコブ王太子とレオ第二王子も呼ばれた。

「どうだ、レオ。お前ならどの女を選ぶ?」
「誰でも」

 王太子の問いに第二王子はムスッと答えた。こんなことには関心がないし、女の顔など見たくもないという態度で。
 しかし、心臓は早鐘のように打っていた。間違いなく選ばれる、と信じてはいても、そう決まるまで緊張に喉はカラカラだった。

 グレイス二世がランを指名した瞬間、第二王子の口からフーッと息が洩れたのは、そういう事情があったからだ。が、それを知らないジェイコブ王太子は、「何だ、弟もやっぱりランに注目していたのだな」と思っただけだった。

(ランはこのあと後宮に入る。今夜遅く打ち合わせをしよう。父と母と兄の料理には薬を入れ、コーデリアさんのには入れない。この程度のことをランが間違えるとも思えないが、いちおう念を押しておかないと)

 ジェイコブ王太子がランに一目惚れして、頭の中が菜の花畑になっていたとき、レオ第二王子の脳裏には、農民に同情して涙したコーデリア・ブラウンの顔がちらついていた。

(父と母と兄が【睡眠薬】に倒れたあと、コーデリアさんには何と言おう。婚約者は今後百年間は目覚めません。ですから、どうぞ実家にお帰り下さい……)

 第二王子は首を振った。

(それは男らしくない。ただのやせ我慢だ。フラれてもいいから、どうぞ新しい国づくりを手伝って下さい、僕のパートナーになって、と言ったらどうだ?)

 第二王子は首を捻った。

(いや、いきなりパートナーなんて言っても、とまどわせるだけだ。なんせ僕は、彼女にずっと冷たくしてきたのだ。それなのに、兄が寝た瞬間に「結婚して下さい」じゃあ、人格破綻者かと疑われてしまう。ああ、恋とは何と難しいのか。クーデターの百倍難しい……)

 ランの王宮入りを果たし、作戦の成功を確信したとたん、第二王子の心の比重は、目覚めたばかりの恋にすっかり傾いてしまった。

 第二王子が自室にこもって、コーデリアさんにどう言おう、こう言ったらどうだろう、などとシミュレーションしているあいだに、兄の王太子は矢も盾もたまらずに後宮を訪れ、

「新しい毒見役と話がしたい」

 と言って、女官のエリナを驚かせていた。

 その数時間後、晩餐のあとに、第二王子は人目を避けて後宮に行った。

 後宮では、王と王太子は蛇のように嫌われており、純情で奥手な第二王子は「かわいい」と大人気だった。
 なので、密かに後宮を訪ねても、それを王や王太子に告げ口する者はなく、また彼を「女に興味のない弱々しいやつ」と決めつけている父と兄は、第二王子が後宮にいるなどとは想像もしなかった。

 彼はランの牢獄のような殺風景な部屋に入った。
 そして、意外すぎる話を聞き、頭が真っ白になった。

「何ということ……」

 ここまできて、クーデター作戦の変更を余儀なくされたのだ。


 レオ第二王子の頭が真っ白になったのは、

「婚約者のコーデリアとは婚約破棄する。そしてあなたを正式に妻として迎える。これは勅命であるし、コーデリアも身を引いて毒見役と交代する所存だ」

 と、ジェイコブ王太子がランに語ったと聞いたからだ。

 完全に虚を衝かれた。
 せっかくランを王宮に入れ、毒見役という立場を活かして薬を入れさせようとしたのに、王太子妃になったらその機会が失われてしまう。

 毒見役は、王と王太子とそれぞれの配偶者(または婚約者)の飲食物に毒物が混入していないかチェックするために、全員分の食事に近づける(ちなみにレオ第二王子は、農民の窮状を知って以来王室の美食を拒みつづけ、使用人と同じメニューを自室で摂るようになっていた)。

 ところが王太子妃の立場になると、王や王妃からはかなり離れた位置に座ることになる。ランが王や王妃の食事に【睡眠薬】を入れるには、食卓を立って彼らに近づく必要があるが、いくらすばやさが常人の二百倍あっても、そこまで大きな動きをしたら気づかれる恐れがあった。

(まったく意外すぎる展開だ。どうしてこんなことになったのか……)

 勅命、ということは、グレイス二世が息子の婚約者と毒見役の交代を命じたことになるが、そんなことをする理由やメリットがどこにあるのか?

 どこにもない。あるとすれば、父がコーデリアさんを欲しくなり、愛人にするためにこんな奇策を編み出したということくらいだが、兄が素直に従っているのがおかしい。いくら王が独裁者でも、自分の後継者から婚約者を奪うなどという、確実に禍根を残す真似をするわけがなかった。

 もっとおかしいのが、コーデリアさんが自ら身を引いたという点だ。これこそ理由がない。彼女は公爵令嬢だ。奴隷身分の毒見役になるくらいなら死を選ぶだろう。たとえ彼女が奴隷に同情的であっても、自分からそうなるとはどう考えてもあり得ない話である。

 残るは兄の動機だが……

「王太子、キモかったなー。あれ完全に私に惚れてたよ。ダサッ!」

 ランがオェーッ吐く真似をした。もしそれが本当なら、今日毒見役に決まったばかりのランに一目惚れした兄が、父にコーデリアさんとランを交換してくれるように頼み、父がそれを了承し、コーデリアさんに圧力をかけて毒見役になるよう命じたことになるが……

 メチャクチャである。確かに父も兄もデタラメなところがあるが、これはいくら何でも行きすぎだ。クレージーすぎる。二人とも、あの心のきれいなコーデリアさんを何だと思っているのか。こんな残酷な仕打ちをできるなんて、彼女に対する情というものがないのか?

 待てよ。と、レオ第二王子は思い直した。

(ひょっとすると、兄には最初から、コーデリアさんに対する情などなかったのではないか?)

 仮に、この婚約全体が兄によるお芝居、偽装結婚ならぬ偽装婚約だったとする。コーデリアさんから送られた写真を見て一目惚れした、という出発点がそもそも嘘だったとしてみるのだ。

 なぜそんな嘘をついたのか? それは、自分に寄ってきた美しいコーデリアさんを、父親に対して、毒見役との交換のカードに使いたかったからだ。

 そう言えば……と、レオ第二王子は思い出した。

 かつて兄はこう言ったことがある。「毒見役の美しさは別物だ。とてもこの世のものとは思えない。あれを独り占めして好きにしている父は羨ましい。お前もそう思わないか?」と。

 そうだ。昔から兄は、決して手に入らない父の「所有物」に懸想し、嫉妬の炎を燃やしていたのだ。

 その兄の懐に、期せずして美しい獲物が飛び込んできた。さっそく兄は父にその写真を見せる。陛下、どうです? 上物(じょうもの)でしょう? 私と婚約したがっている女ですが、陛下に差し上げます。その代わりに、この次毒見役となる女はぜひ私に……

 あの兄なら、考えそうなことである。それに対して、父はどう反応しただろう? 

「わかった。余のものにしよう。もしそれを嫌がったら、毒殺すればよい。毒見役として余の代わりに死ねば、その名は歴史に残るのだから、ただの王太子妃になるよりずっと名誉なことだ」

 このくらいのことは言ったかもしれない。あの父ならば。

 レオ第二王子は唇を噛み締めた。

(何と血も涙もない男どもだろう。待ってろよ、コーデリアさん。あいつらの毒牙からもうすぐ救い出すからな。そう、明日の朝には……)

 自分の推理が当たっていると確信した第二王子は、ランに鋭い目を向けた。

「ラン、予定を変更するぞ。明日の朝食時に決行だ」

 ランはすでに前任の毒見役からその役を引き継ぎ、今日の晩餐で初の毒見をしていた。
 そして予定では、明日の朝食と昼食も実際に毒見をし、夕食時に【睡眠薬】を入れることになっていた。つまり今夜と合わせて都合三回、一種の「リハーサル」をする予定だったのである。
 しかし今では、いつコーデリアさんと交代しろと告げられるかわからない。であれば、明日の朝食を本番にするしかなかった。

「私はいつでもいいよ」

 ランはあくび混じりに答える。元々彼女は楽勝と思っていたのだ。

「交代はいつだろうな。これまで後宮に入った毒見役は、三日間は教育期間として女官からしきたりを指導される決まりだった。それを過ぎると父が夜這いにくるから、その前に決行すれば良いと思っていたが……王太子妃にする気なら後宮に置いておく意味はない。さすがに今夜はもう遅いからないだろうが、明日にはコーデリアさんと部屋を交換しろと言ってくるかもしれない」
「別に夜這いだろうと結婚だろうと」

 ランは第二王子の前であぐらをかく。

「私はそいつらの百倍力があるんだから、来たらぶっとばすだけよ。何なら毒見役から降ろされて【睡眠薬】を使えなくなっても、食堂でみんなまとめてノックアウトするからいいよ」
「いや、万が一王宮内の衛兵に見られたらアウトだ。僕らは反逆者として軍に処刑されるだろう。決して暴力は使わず、王宮に仕える侍医(じい)に王と王太子は奇病の『眠り病』にかかったと診断させてこそ、軍関係者を黙らせることができるんだ」

 そうかなー、私なら暴力の証拠を残さずに制圧できるけどなー、とランは自信を覗かせたが、第二王子はそれは最終手段だと言って認めなかった。

 そのとき、ランの部屋がノックされた。

 第二王子の心臓が跳ね上がった。

(しまった。兄がもうランを連れ出しに来たか?)

 第二王子は急いで部屋の隅に敷かれた布団に潜り込んだ。
 見つかったらやるしかない。ランの力で兄を制圧し、間髪入れずに父と母も制圧する。そして気絶した三人の喉に【睡眠薬】を流し込む。衛兵に見つかる危険はあっても、緊急事態になれば一瞬たりとも躊躇すべきではなかった。

 がーー

「ラン、お客様よ」

 それは女官のエリナの声だった。

(お客様? 兄ではないのか? ではこんな時間に誰だ?)

 布団の中で息を潜めている第二王子の耳に、ドアを開ける音と、エリナの秘密めかした声が聴こえてきた。

「奥さんをお連れしたわ。どうか約束どおり救けてあげてね」


 場面はコーデリア・ブラウンの部屋に戻る。

 婚約四日目の午後、女官のエリナに、

「旦那さんがランに奥さんと婚約破棄して、お前を娶るって言ったんだよ」

 と教えられ、

「第二王子に鞍替えしたら?」

 と唆(そそのか)され、

「ランは後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ」

 と余計な知識を吹き込まれて、

(きっと毒見役のランは、その解毒の術の秘法によって、全身を毒に冒されているだろう。ひょっとすると身体全体が毒になっているかもしれない。そんな少女とキスでもしたら、たちまち相手の男は毒がまわって死ぬのではないか? いっそのこと王太子もそうなればいい)

 美貌で負けたかもしれないという嫉妬に苦しんで、コーデリアがそんなことを願った場面の続きだ。

「奥さん」

 エリナが言った。

「ランはいい子ですよ。会ったら、絶対に奥さんも好きになります」

 絶対にそうならないと、コーデリアは確信を持って言えた。

「私、勘は鋭いんです。あの子は信用できる。どうか奥さんも信じて下さい」

 その「奥さん」の地位は、その小娘のものになるかもしれないのだ。信じるもへったくれもなかった。

「ランから言付けがあります。きっと近いうちに、『お前を毒見役と交代する』って旦那さんに言われるよって」

 もしコーデリアがペンを持っていたら、怒りで真っ二つにへし折っていただろう。

(どういうつもり? もう自分が婚約者になった気分でいるの?)

 まるで目の前に毒見役の少女がいるかのように、両の瞳に炎をたぎらせた。

「それで、もしそう言われたら、『では毒見役の心得を教わってきます』と旦那さんに言って、私を訪ねてくるようにって。そうしたら、奥さんを救けてあげられるからって」
「救けるですって?」

 コーデリアの喉から出たのは、その美貌に似つかわしくないヒステリックな金切り声だった。

「私は奴隷に救けてもらう身分じゃない! もしそんなことになったら、舌を噛み切って死んでやる!」

 あまりの剣幕に硬直して黙り込んだエリナに、

「出てけっ! お前は奴隷と仲良くしていろっ!」

 怒号を発し、部屋から追い出した。

 コーデリアは一人になった。
 彼女のことを好いてくれ、自分も味方にしたいと思っていたエリナに、恐怖で顔が歪むほどの暴言を浴びせてしまった。
 
 ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。

(お父さん、お母さん、救けて……)

 その心の悲鳴が、遠い実家に届くはずもなかった。
 いくら名門ブラウン家であっても、王室に文句をつけることは許されない。
 仮に愛する娘が毒見役にされ、奴隷と同じ扱いを受けても、それが王、あるいは王太子の方針であれば、意義を申し立てることなど不可能なのだ。

 文句、意義は、死を意味する。しかも下手をすれば、国家反逆罪に問われ、一族すべてが虐殺されかねなかった。

(逃げられない。衛兵に見つからずに王宮から逃げるのも無理だし、もし奇跡的に逃げられたとしても、その罰としてブラウン家全員が処刑されてしまう。私に逃げ道はない。もちろん毒見役の小娘にも、私を救うことなどできやしないだろう。残された道は王太子様の愛を取り戻すだけ……王太子、様? 様? うっ!)

 心の中でさえ、ジェイコブ王太子に「様」をつけると拒絶反応が起こり、胃液が逆流しそうになった。

(救けて……)

 このとき、枕に押しつけていた彼女のまぶたの裏には、レオ第二王子の顔が浮かんでいた。
 王室で、唯一尊敬できる人物の顔が。

『第二王子に鞍替えしたら?』

 エリナの声が頭に響く。

(あの方に打ち明けたら、何とかしてくれないだろうか?)

 それははかない希望だった。
 第二王子の立場で何ができるだろう。
 シェナ王国の王室は長子相続だ。長男がすべてを得て、次男以下にはいかなる権力も渡らない。
 第二王子が意見したところで、王太子に聞く気がなければどうにもならないのだ。

(レオ第二王子様に泣きつこうだなんて、虫のいいことを考えちゃだめ。殿下は私なんかが近づけない崇高な方。農民の窮状に心を痛めるような、王侯貴族には珍しい心の美しい方ですもの……)

 それに引き換え自分は、奴隷と仲良くしてろなんて怒鳴ったりしてーーとコーデリアは、自己嫌悪に苦しんで枕を濡らした。

 やがて夕刻になり、エリナがしょげた顔で晩餐の時間ですと告げに来た。

「気分がすぐれないから行かないわ。みんなにそう言って謝っておいて」

 気分がすぐれないのは事実だったが、食堂に行きたくないいちばんの理由は、新しい毒見役になったランの顔を見たくないからであった。

「……はい」

 エリナはドアを閉めようとした。すると、

「待って」

 コーデリアが呼び止めた。

「さっきはごめんなさい。悪かったわ。まだ十四歳のあなたに、大人げなく怒鳴ったりして」
「いえ……」

 エリナは首を振った。
 主人はコーデリアである。自分が怒鳴られることは少しも気にならない。
 しかし、ランを誤解させたことは気が重かった。

 ランの正体は、反体制派の女スパイ。本当は毒見の一族ではないし、エリナの女主人から王太子妃の座を奪おうなどとは夢にも思っていない。
 しかもそのボスはレオ第二王子。すなわち反体制派のリーダーは、第二王子なのだ。

 その事実は、口が裂けても言うことができない。が、言えないことによって、コーデリアにランのことを信用させられないという、もどかしいジレンマに陥ってしまった。

(奥さんには、ランを頼ってほしい。それしか奥さんの救かる道はない。でもその根拠は言えない……ああ、もどかしいっ!)

 エリナがしおれていると、コーデリアは近づいて肩に手を置いた。

「ランには申し訳なく思っているわ。毒見役も立派な仕事なのに、奴隷なんて罵ったりして。だからさっき言ったことは忘れてね」

 エリナの目に熱いものが込み上げた。なんて優しい奥さん……どうか奥さんが、救かりますように!

 目をそっと拭って帰るエリナ。
 再びベッドに横になるコーデリア。
 その二時間後、いきなり部屋のドアが開いた。

「朝まで寝てる気か?」

 ジェイコブ王太子だった。

「そろそろ起きろ。俺は退屈なんだ。撞球でもしよう」

 そう言った王太子の目は、まるで底なし沼を覗くように真っ暗だった。


 ジェイコブ王太子は、毒物の研究をした。
 コーデリア・ブラウンを毒殺するためである。
 それはあの日ーー私をお妃に選んでほしいという、虫唾の走る図々しい手紙を受け取った日に、決定したことだった。

(どうせなら、いちばん苦しむと言われている毒にしよう。フグの毒だ)

 さまざまな本を調べた結果、王太子はそう決めた。本にはこう書いてあったのである。

・フグ中毒に特効薬はない
・致死率が極めて高い。
・フグ毒は無味、無色、無臭。しかしその強さは青酸カリの一千倍以上。
・煮ても焼いても冷凍しても毒性は失われない。
・食後二十分から三時間で身体がしびれはじめ、手足が動かなくなり、頭痛、腹痛、嘔吐、言語障害が起こり、やがて運動麻痺から倒れて呼吸困難となり、四時間から六時間で死亡する。

「いいぞ、いいぞ」

 ジェイコブ王太子はゾクゾクした。
 あのよくしゃべるコーデリアが言語障害になり、頭痛や腹痛に喘ぎ、ぶっ倒れて呼吸困難になり、苦しみ抜いて死んでいくさまを思う存分眺めることができるのだ!

(最高だ。これは絶対に成功させたい。父と母の堪能する様子が、今から目に浮かぶようだ)

 王太子は自ら厨房に足を運んだ。料理人たちはぎょっとした。王家の者が厨房に顔を出すなど、かつてなかったことだからだ。

 慌てて料理長が飛んできた。

「殿下、何か粗相がありましたでしょうか?」

 今年で五十歳になる料理長は蒼褪めていた。
 彼は勤続三十年のベテランで、料理の腕もさることながら、王室を心から崇敬する点で、常に料理人たちの模範でありつづけてきた人物だった。

「そうではない。ちょっと相談がある」

 料理長は蒼褪めたまま、厨房の扉をぴたりと閉め、王太子と二人きりで廊下に立った。

「料理長」

 王太子の目は、真っ暗な二つの穴のようだった。

「お前、フグ料理はできるか?」

 返事をためらう料理長。なぜ王太子殿下は、そのような質問をなさるのか?
 暗い瞳に魂が吸い込まれそうな怖れを感じながら、料理長は答えた。

「……はい。できます」
「そうか。フグの毒がある部位をよく知っているのだな?」
「それは、はい、知っています」
「どのくらいの量で人が死ぬかも知っているか?」

 料理長は、言葉に詰まった。

「えー、それは、ごく少量で死ぬこともありますし、そうでないこともありますが、私どもとしたら、ほんのわずかな量でも死ぬと考えてーー」
「では大量に食べたら必ず死ぬな?」

 料理長の額に嫌な汗が浮いてきた。いったい殿下は、何をおっしゃりたいのだろう……

「はっきり言おう」

 王太子は、極めて無表情に、淡々と言った。

「食べたら必ず死ぬとお前が思う量の、その十倍以上のフグ毒を、俺が頼んだときに、料理に入れてもらいたいのだ」

 料理長は後ろに倒れそうになった。もう少しで、気を失いかけたのである。

「返事はすぐしろ。やるのかやらないのか?」
「いたし……ます」

 何も考えずに出た言葉だった。貧血状態で、頭が正常に働いてくれない。

(フグ毒を料理に入れる……必ず死ぬ量……その十倍……つまりこれは……殺人指令なのか?)

「安心しろ。これは謀反ではない。それとも俺が父の殺害を依頼したとでも思ったか? え?」

 ジェイコブ王太子は、まるで上手いジョークでも言ったかのように笑った。料理長を悪寒が襲う。

「できると言ったんだから、やるしかないぞ。お前の王家に対する忠誠はよく知っている。だから頼むのだ。わかったな?」

 料理長は震えながら頷いた。
 これがほかのことであれば、王太子殿下直々の頼み事を躊躇する理由はない。むしろ両手を挙げて、ぜひ私めにさせて下さいと、涙を流してありがたく承ったはずだ。

(でもさすがに殺人は……軍人でもない私に、人が殺せるか? 無理だ。できない。やりたくない。もし断わったら、私は死刑だろう。それだけならいいが、家にいる妻も、二人の娘も、きっと反逆罪で処刑されるに違いない。嗚呼……私はどうしたらよいのだ?)

「どうした。さっきから蒼い顔をして。人を殺すのが怖いか?」

 怖い、などと言うものではない。人が痛がったり、血を流したりするのをチラッと見るだけでも嫌なのだ。
 自分は料理人だーーと料理長は思う。
 人が美味しい料理を食べ、嬉しそうな顔をするのを見るのが生きがいだ。その自分が、料理で人を殺す? 冗談じゃない。三十年間も料理人として御奉公してきて、そのようなことのできる人間に見られていたとは、何と情けないことか……

 料理長は泣いた。情けなかった。自分が心から崇敬していた王太子殿下は、こんなお方だったのか? 料理長に毒入り料理を作れと命令なさるとは。そんなことは、軍人か暗殺者に頼んでくれ!

「おいおい、泣くなよ。男だろ? なに、殺すのはたった一人だ。しかも王家の者ではない。俺の婚約者さ。どうだ、これで気が楽になったか?」

 料理長の背中を電流が走る。
 まさかーーコーデリア様!?

 正式な発表はまだだったが、ほぼ婚約者に内定している彼女は、何度も王宮に招かれて食事をした。その都度配膳をしたのが料理長であり、近くでコーデリアの美貌を一目見たときから、すっかり彼女のファンになっていたのだ。

(美しい王太子妃の誕生に、きっとコーデリア妃フィーバーが起こるぞと、妻や娘にも話したあの名門ブラウン家のお嬢様をーー私が毒殺する?)

 気がつくと、厨房の扉に寄りかかっていた。一瞬気絶したのだ。が、ジェイコブ王太子は、料理長の激しい葛藤など意に介したふうもなく、

「婚約発表したら、数日以内にやる予定だ。しっかり準備しておいてくれ。もしあいつが死ななかったら、お前が命令に背いたものとみなす。いいな、反逆罪は重罪中の重罪だぞ」