「なんて話だった?」
唄は戻ってくると隣に座ってきた。
「特に何にもないよ」
「具合悪い?」
その言葉に笑顔を取り繕うとしたが、口角が言うことを聞いてくれない。
「今日は帰ろ」
肩を軽く殴られた。
「ゲーセン行くの!」
「え、なんで」
「何言われたかはわからないけど、それとこれとは話は別! 今日はせっかくのズル休みなんだから遊ばなきゃ!」
唄の顔は晴れていた。こんな暗い僕に対しても変わらず、彼女なりに励まそうとしてくれたんだと思う。
「琴さんに心配かけられないから、夕方には帰るよ」
「うん!」
僕自身もあまりゲーセンの経験が無くて、自動ドアが開いた瞬間に漏れ出した騒音に思わず耳を塞いだ。
「入りずらいね、ここ」
唄は引き攣った笑顔をこっちに向けてきた。そして引き返そうとしたから腕を掴んだ。
「ここに来るのに結構時間かかったんだ」
僕も気は乗らなかったけれど、唄を引っ張って中まで連れ込んだ。
「何やる?」「あれは?」唄が指差した方にあったのは太鼓の達人。
「あれ難しいんじゃない?」
「私を誰だと思ってるの?」
唄はどこから湧いてくるのかわからない自信に満ち溢れているようだった。
「負けないぞ」
バチを握りしめる表情は素人そのもの。やっぱり根拠のない自信だ。一曲目は『さくらんぼ』。
「ほら、新くん来るよ!」
全然上手くできなくて、難易度も鬼だったから叩いている最中やぶれかぶれだったりしたけど、隣で楽しそうに太鼓を叩く唄を見ていると、そんなのどうでも良くなった。二人とも結果は酷かったけれど、そんなことより楽しかった。
「次は、あれ!」
次はUFOキャッチャーを指差した。
「取れないよ」
「やってみなきゃわかんないよ」
渋々百円を入れて、トライした。何かのアニメキャラクターのぬいぐるみ。意外にも持ち上がって、声が出てしまった。でもやっぱりアームが弱くされているのか、すぐに落っこちた。
こんなのやるくらいならお賽銭の方が全然マシだ。
「次は私!」
取れないと分かりつつも、少しの希望を抱いてしまう。僕みたいにまた持ち上がった。どうせ、また落ちる。
唄は「みてみて!」とぬいぐるみを指差した。ぬいぐるみが天井に差し掛かった時に衝撃があって、アームからずるっと落ちた。と思った。そしたらタグがアームに引っかかってぎりぎりで耐え、「え!」声が漏れた。その不安定な状態のままで穴までスーッと運ばれて落とされた。
「⋯⋯取れちゃった」
他にもホッケー、バスケ、ゾンビのシューティングゲームなんかをやった。唄は意外とビビりでゾンビに対して本気で騒いでいた。ヒーローみたいに唄の方に行ったゾンビも僕が倒す。ちんけだけど、楽しかった。マリオカートもやった。泥試合で、コンピュータにすら負けたけど、逆ワンツーフィニッシュで、ある意味熱戦と言えたかもしれない。
「あれ撮ろうよ」
「プリ⋯⋯ク⋯⋯ラ⋯⋯⋯⋯」
これはハードルが高すぎる。
「ほら、もう時間一七時だし、琴さんのためにもそろそろ帰らないと」
「だ・か・ら、最後に撮ろうよ」
唄は僕の袖を引っ張って、プリクラを指差し続ける。
もう一度確認した。やっぱりあれの中に入る勇気は持ち合わせていない。
「ねえ、お願い。こんな経験中々できないの」
「⋯⋯わかったよ」
すると、スッとプリクラの方へ歩き始めた。僕が折れるのをわかっていたようで、まんまと嵌められた。いっつもこんな感じな気がする。
中に入ってからはすぐだった。真っ白な空間とカメラのレンズのようなものがあって、どこからか女子のような機会音が聞こえた。どんどん指示をしてきて、そのお題に合わせてポーズを取った。唄は女子だからなんとなく様になっていたけれど、僕はぎこちなくて、上手くできない。そんな僕を見て、唄は笑った。
【最後は二人でハート作ってね!】上からそんな事を言われた。
「無理だよ」
「いいからほら!」
僕が拒んでいると、カウントダウンが始まった。
「早く手を出さないと!」
【三! 二! 一!】
僕は手を震わせながら、唄の左手に右手を合わせた。
あー恥ずかしい。
少しして、プリントアウトされた写真が出てきた。全部微妙な僕の顔。隣の唄は自然笑えていて、やっぱり不釣り合いだった。
「ありがと! 大切にするね」
最後に撮ったハートなんて、片方が歪すぎて、ハートに見えない。
「僕も大切にするよ」
それでも隣で笑う唄が見ていて、とても嬉しかった。
「はーい、じゃあある程度班ができたら塊になって座って!」
榊原の言葉で、みんなが席を立って、予め決めていたであろう友達とすぐ束になっていく。
「俺たちは二人でいいよな?」
席を一歩も動かない僕の前に石川が来た。僕は首を縦に振る。
「新、石川、よろしく」
すると、当然のように米村先生が僕らの前に来た。
「なんですか、よろしくって」
「ここの班二人だろ? だから私はここ」
何を言っているのかさっぱり分からない。
「榊原、私はここでいいよな?」
先生は黒板の前にいる榊原に、片手を口に添えてかなり大きなボリュームで聞いた。
「そこ何人ですか?」
「二人」
「大丈夫です!」
榊原はにこやかな表情で返す。
「担任はクラスで一番人数の少ない班と行動することになっているから、私はここだ」
「嫌ですよ」
「私も高校で一回しかない生徒の修学旅行に介入したいわけじゃない。でもうちの高校は堅苦しいから、そういう融通が効かないんだよ」
「米村先生が他の班に行ったらウェルカムなんだろうけど、新のこの顔見てくださいよ」
本当に嫌だ。修学旅行までこの人と一緒にいたら、絶対ろくな事が起きない。
「どう足掻こうと私はこの班だ。ドンマイ」
先生が僕の肩をポンポン叩いてきて、僕の顔はさらに歪んでいく。
「じゃあ二日目の班別行動の道を決めてください。終わったら三日目の自由行動の内容も決めてもらって大丈夫です」
三泊四日の修学旅行。二日目まで京都、三日目から大阪。なんか移動が激しい気もするけど、班別行動と自由行動で見る場所を被らせないためなのだろう。
「新決めようぜ」
「勝手に決めちゃっていいよ。二日目も三日目もどうせ石川とだろうから」
「ごめん、三日目は先約いるから、新は他当たって」
「榊原か?」
「そゆこと」
「いいだろ新! 私とデートだ。楽しもうじゃないか」
先生は僕を肩を引き寄せる。
「⋯⋯石川、恨むから」
石川はそんな僕に手を合わせて、へなへなと謝ってきた。
「二日目は決めちゃっていいよ」
「三日目は先生について行くんで適当にお願いします」
僕は二人の表情など、素知らぬ顔で外に目をやった。
外子さんと新一のことが頭にチラついて、何にも集中ができない。
「外子さんってどういう人?」
いつもの世間話のようなテンションで唄に聞いた。
「なんかお姉ちゃんみたいな? 優しくて、目配り気配り思いやりがすごいできてるイメージかな」
顎にペンを立てて、少し考えてからスラスラと言った。
「何で?」
「あー、いや、昨日話して、いい人だなぁってさ」
「そうでしょ? 私の家族みたいなもんだし」
「琴さんも外子さんもみんないい人だよ」
唄はこんな人たちに囲まれている。じゃあ、何で琴さんの前であんな顔するんだろう。
唄の中で琴さんと外子さんの差がわからない。
「新曲リリースもうすぐだね」
そんな踏み切ったことが聞けるはずもなく、話を逸らした。
「そうだよ! ちゃんと聞いてね」
「再来週だよね?」
僕の言葉に唄は「あー」っと言いながら目を泳がせた。
「違かった?」
唄は何か苦しい顔で、数回言おうとしてはやめてを繰り返した。
「これ言っちゃダメなんだけど、サプライズで今日の二十時にYouTubeで発表するんだ。だから、ちゃんとその時間に待機しててね」
「何それ、誰が提案したの?」
「⋯⋯桐谷さん」
何となくそんな予感がしたけど、こんなことしていいんだろうか。
「大丈夫? 炎上とかしない?」
「ファンのみんな騙すみたいで嫌なんだけど、言うこと聞くしかないからさ」
あの人の名前を出すと、唄は急激に顔色が悪くなる。
もう、いいよ。辞めちゃいなよ。とか言いたいし、この一言を唄が受け入れてくれれば唄を苦しませるものの一つを取り除けると思った。でも、それを言っても聞いてくれるはずがない。
「無視してみたら?」
僕が今できる精一杯の誘導をしようとした。
でもやっぱり「いやぁ」と、苦い表情で返される。
「まあ、タイトル好きだし、僕は楽しみにしてるよ」
家に帰ってから、風呂に入って、ご飯を作って、食べて、宿題やって、皿洗いをして、歯を磨いて、としていたら気がつくと二二時を回っていた。いつもなら電話がかかってくる頃なのに電話もなくて、時間の確認を忘れていた。
不審に思いつつも、YouTubeを開いて、USのアカウントをタップした。本当にアップされていた。動画を押して、広告が流れた。最上部にあるコメントが見えた。
<ずっと思ってたんだけどさ。高校生ですごいって言われてるけど、そんなアーティストAdoで十分だし、こういう意味わかんないことして、調子乗るの目に見えてたんだよな>
背中がゾワッとした。恐る恐るコメント欄を開いた。それと同時に新曲の『星涙』が流れた。
「何だよ、これ」
コメント欄は曲ではなく、USの人格否定のような言葉で溢れかえっていた。しかもそれに対して、いいねがたくさんつけられている。いくらスライドさせても、誹謗中傷のような言葉ばかり。擁護するようなコメントを見ても、次はそこを一斉に叩き始める。
あー、本当に腐ってる。これが日本で現実だ。僕がずっと見てきた世界だ。いつも、どんな時でも裏切って背中を向けて、底に堕ちたら救うものはどこにもいない。希望なんてありゃしない。
「満天の星に輝いた君の涙が星になって、冬の夜空に消えていく。君の背中はもう見えない」
やっぱり悲しい歌詞から始まった。
唄はそんな世界知る必要ない。僕が見せないようにすればいい。こんなのはまやかし。
YouTubeを閉じて、唄のLINEを開く。電話マークを押そうと指を伸ばすと、スマホが鳴った。知らない番号からの電話だ。
「何だよ、こんな時に」
普段ならすぐ切るのに、なぜか出た方がいい気がした。本当に理由はないけど、出てしまった。
「住永麗美です。新くんの携帯でよろしいでしょうか?」
「は、はい」
母の姉だ。なんだ、こんな時に。
「今、大丈夫?」
「長くならなければ」
早くしてくれ。一分でも一秒でも早く唄に電話したい。そんな気持ちで。こんな数秒が何十分にも感じた。
「妹が、亡くなった状態で見つかったの」
言葉が出ない。
動揺しなかったといえば嘘になる。でも、僕は一人で生きてきた。楽じゃない。昔は寂しかった。それもこれもいなかった母が悪い。
「⋯⋯だから、何ですか。僕にとっては赤の他人です」
「本気で言ってるの? あなたの母親よ!」
当然の反応だ。僕の言っていることは人道的にも一般的にもおかしい。そんなこと重々わかってる。でも――。
「知らないですよ、そんなの。もう切っていいですか?」
「そうよね。ごめんね」
呆れのような言葉を最後にツーツーと電話が切れた。
あとは、唄に電話をかけるだけ。――だけなはずなのに。指が震えて、心臓がざわついた。顔すら知らない他人の死。テレビのニュースで報道されているのと何ら変わらない。そう自分に言い聞かせても、唄に声をかける気にはなれなかった。
結局、電話はできなかった。何度も寝て忘れようと布団に潜ったけど、眠ることすらできなかった。電気も全部消して、朝日が出てきたからカーテンを閉めた。今は誰も僕に触れないでほしい。ここまで自分の気持ちに整理がつかないのも初めてだった。全く理解できない。こうなっている全ての可能性を否定した。もしかして、僕たちを捨てた親を見返したいとか、心のどこかで思ってたのか? いやそんなわけない。親の温もりが欲しかったとか? 今さらそれもないだろ。
プルルルルル。五月蝿い。放っといてくれ。
プルルルルル。黙れ。関わってくるな。
プルルルルル。⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
全てが黒に見える。もう生きる気力すら感じられなかった。親が死んだからなんだ。親がいないのが可哀想? じゃあ親の凄さを僕に教えてくれよ。誰もそんなことできない。寂しさ、絶望、嫉妬、羨望、孤独。誰も味わったことないだろ。僕がこんなに一人で頑張ってきたのに。やっぱり報われない。
ピンポーン。⋯⋯。ピンポーン。⋯⋯⋯⋯。ピンポン、ピンポン、ピンポ、ピンピンポーン。
ガチャ。
「入るぞー」
声で米村先生だとわかった。こんな僕を見られたくなくて、布団に潜る。元々包まっていたから、被るだけ。
床が軋む音。どんどん近づいてくる。
「あーらーたー」
ガラガラガラ。
「あ、いた。これで無断欠席三日連続だぞ? 何してんだよ」
無理やり布団を剥がされた。見せたくない自分を見られた。
「何ですか? もう、僕に構わないでください」
先生の顔は一切見ずに、胡座をかいた。
「学校来いよ」
「もういいですよ、学校なんて」
「石川が待ってるぞ」
「石川は僕がいなくても生きていけるでしょ」
「そんなことないだろ。教室だって新がいないと釈然としないし」
「⋯⋯それは無理があるでしょ」
先生は言い返せないのか、黙って、
「私だって新がいないと学校がつまらない」
次の手段を使ってきた。
「もういいでしょ! 僕がいなくて困る人いないだろ! ずっと自分の力だけで生きてきたんだ。自業自得だよ! 死んだところで葬式で泣く人すらいない! 何なら誰が金出して葬式なんてするんだ? ⋯⋯だから、僕はいらない。代用効くし、僕じゃなくてもいいん⋯⋯だ」
急に暖かく包まれた。急すぎて何もわからなかった。でも、懐かしい感覚があって、完全とは言えないものの、新一に近い感覚があった。
「ごめんな、新。私が、私が全部、全部悪かった。だから、何があったのか教えてほしい」
先生の声から、初めて自信を感じなかった。肩が少し濡れた。段々抱き締める力が強くなって、先生が何を言っているのかはわからなかったけど、気持ちだけは骨の髄までしっかり伝わってきた。
「母が、死にました」
スッと言えてしまった。この不幸を移すように、その言葉は簡単に出てきた。
「辛かったな」
「でも、僕は母と話したこともなければ、顔すら知りません」
「それでも母親は特別なんだよ」
「そういうものですか?」
「そりゃあな。よく今まで一人で頑張ったよ。石川とも唄とも違う、本当の一人を知っているのは新だけだもんな」
「何で、今日来てくれたんですか? 何でそんなに僕に構ってくれるんですか」
「もうちょっと、もうちょっとだけ待ってくれ」
「何でなんですか」
「今じゃないんだ」
言ってくれないと思った。でも、嫌な感覚はない。
「⋯⋯まあ、いいですよ。明日は行きます」
「ありがとう。無理はしなくていいから」
先生は僕の頭をポンポンと、叩いて出ていった。
掛けてある時計は二二時を示していた。久しぶりにカーテンを開けると、星が泣いているように輝いていた。『星涙』が頭に浮かんだ。それでも唄に電話する気にはなれなかった。明日学校で謝ろう。それで話を聞いて――。
「大丈夫だよ! そんなの気にしてない」
え?
放課後、僕は第一声で謝った。「大変な時に一言も何も言えなくてごめん」そう言ったら笑顔で返してきた。
「この仕事してて、何もない方が不自然でしょ? 炎上なんてみんなしてるって。だから何とも思ってないよ」
僕が悪かった。僕が家でウジウジしていたから。唄の笑顔は全てを振り切っていて、もう事は全て終わっていたんだとわかった。
家に帰ってから石川を河川敷に呼んだ。
グローブの感覚は違和感しかない。投げるのもキャッチするのも雰囲気でできる。
「何で野球なんだよ」
投げられたボールを返した。
「ただ話すだけだと、しんみりするだけだろ」
石川はそれをまた投げる。
「もう大丈夫だよ」
石川のボールはぎりぎり届かなくて、芝の地面に転がった。
「明日は修学旅行だぞ? 流石に楽しまなきゃだろ」
拾って、軽く砂を落として、また投げる。
「そうだね」
「近くにこんな広い河川敷あったなんてな」
石川はピッチャーのような構えをして、緩いボールを投げてきた。
「前に見た星空はもうちょっと奥だけどね」
「それにしてもこの川汚いよな」
僕も真似して、それっぽくボールを投げてみた。
変に格好つけたボールはあらぬ方向へ飛んでいった。
「どこもこんなもんだよ」
「上流の方は綺麗って言うじゃん?」
石川は川の近くに飛んでいったボールを追いかけて、拾った勢いのまま投げてきた。
「ここ下流でしょ」
「そうじゃなくて、人間がいる場所は汚くなるよなって」
ちょっとサイドスローしてみた。意外とうまくいって、真っ直ぐ飛んだ。
「そうだよ。多分、人間がいなかったらもっと世界が綺麗だったかもね」
「じゃあ世界に希望持つなよ? 希望がなけりゃ絶望もないんだから」
石川はアンダースローで投げてきた。それはソフトボールだ。
「期待の方が適切だよ」
「細かいこと気にすんなって」
高橋礼だっけか。あんな感じをイメージした。そのボールは石川の遥か上空を飛んで、川に落ちた。
「悪い」
「⋯⋯帰るか」
「もう電話できなくなるね」
唄と三日ぶりの電話をした。
「修学旅行が終わったらまたできるよ」
唄の少し哀愁を漂わせたトーンに、僕の口調も柔らかくなった。
「久しぶりの電話なのに、またできなくなるんだよ?」
「たった三日だよ。修学旅行中も話せる時あると思う」
「どうかなー」
僕もそれは無理な気がした。生徒会室という特別な空間がなければ、僕たちがまともに話せる場所はない。
「大丈夫だよ」
「先生たちもみんな寝た後に抜け出して、会うとか?」
あの夏休みが蘇った。背徳感など忘れて、生徒会室で夜中に会った時のこと。でも、
「だめだよ。今回は四日間もあるんだから、ちゃんと寝ないと」
「⋯⋯確かに」
「まあ、楽しもうよ。それで帰ってきたら、その話いっぱいしよ」
「そうだね」
朝五時に学校に着いて、それからバスに乗った。バスで東京駅に向かって、新幹線。
「新は新幹線酔いするか?」
「そんなユニークな酔いは知らない」
「じゃあ俺が窓側な」
石川は先に奥の椅子に座った。僕も隣に座る。そして当然のように米村先生が隣に座ってきた。
「先生、ここなんですか?」
「嬉しいか?」
「そう見えますか?」
僕は最大限の嫌悪を顔にだした。
新幹線はすぐに出発して、あまりの揺れの少なさに感激した。僕にとっては初新幹線。文明の開花。昔の人は大名行列とか言って遠くに行くために、たくさん人を引き連れ何ヶ月も歩いたんだとか。
「新、トランプやろうぜ」
「トランプも相当昔からある遊びだよな」
「あ、ああ?」
考えていたことがそのまま出てしまった。
「私も混ぜなさい」
この先生なら昔に生きていても、生き抜きそうな気がする。
「どっちかなあ」
先生は僕の手札に残った二枚のトランプに探りを入れてくる。
「こっちだ」
見事にジョーカーを引き当て、次は僕が引く番になった。
「だー! よし、新待てよ」
先生は引いた手札を後ろに隠し、シャッフルを始める。よくある手法だ。そして得意げにトランプを出してきた。僕も先生同様に、右のカードを触って、次に左のカードを触って、を三回繰り返した。右を触ると、先生の顎が少ししゃくれる。左を触ると、口角が上がった。明らかに左がジョーカーだろ。
僕は躊躇なく右のカードを引いた。
「上がりです」
「⋯⋯顔に出てたか?」
「先生は嘘を吐くとき顎がしゃくれるんだよ!」
隣の石川が嬉しそうに言った。
「昔っから嘘付くのが苦手でな。我慢するとどうしてもな」
「それは生きづらそうですね」
そんな人間いたのか。確かに先生は思ったことをズバッと言ってしまうところはあると思うけど。
「昔なんて嘘言えなかったから、これでもマシになった方なんだぞ」
先生は石川にトランプを返した。
「なんかゲームないのか? テレビゲームとかさ」
「あるわけないでしょ。てかそれアウトだから」
石川がトランプを纏めながら言った。
それからも現地に着くまで知っているトランプの遊び全部とUNOと三人で人狼をやった。当然、人狼は一日目で終わるクソゲーになっていたけど――。
最初に着いたのは奈良公園。
「本当にこんなにいるんだな」
僕と石川はみんなが鹿と戯れているのを側から見ていた。
「石川は鹿せんべい買わないの?」
「金の無駄遣いだ」
石川はガムを吐き捨てるように言った。
「僕も同感だ」
僕たちがあげなくても、ここの鹿が飢えることなんてないだろう。だから僕はやっぱり有象無象の一部でしかない。そんなマイナスな気持ちが込み上げてきて、首を横に激しく振った。
「おい、何も持ってないぞ」
いつ来たのか、一匹の鹿が寄ってきていた。鹿は石川を見て首をクイクイと動かす。僕たちはどうすることもできなくて、無言で鹿を見つめていると、やがて外方を向いて、仲間たちの元へ歩いて行った。
「たとえばさ」
石川があの鹿を見ながら喋り出した。
「あの鹿は俺たちが何もせずにぼーっとしてたから、遊んであげようかなとか思っていたとしたら?」
「いや、ただの鹿だよ」
「いるじゃんか。周りに気使いすぎて、ぼっち察知能力跳ね上がってる人。そんな感じ」
「僕たちは鹿に気を使わせたのか?」
「ちょっと見てろよ」
石川は腰掛けていた柵を手で跳ね除けて、首の骨を鳴らす。腕をグルグルと回して、僕に微笑んだ。「よっ」という声と同時に石川は倒立をした。
「え、何してんの?」
かなり長い間続けて、それを見て色々な人が近づいてきた。接近してくる人は一般の観光客もいて、たくさんの鹿も人と一緒でこちらに注目している。もちろん全鹿ではないけど、人と同じん見えた。
ドタ
地面に鈍い音が響いた。
「これで、鹿も俺たちが大丈夫ってわかっただろ?」
石川は尻を地面についたまま、親指を立てた。
「バカだね」
周りに集まった人たち、みんな意味がわからなくて、色々な声が渦巻いていた。笑う人も、怪訝を示す人も、シンプルにドン引きする人も。それでも、周りに人が集まった事実は変わらない。不器用過ぎるし、結局何がしたかったのかわからなかった。だけど、石川は僕に持っていないものを持っていて、僕が欲しかったものを持っている気がした。
「新もやれよ!」
「やらないよ」
ホテルに着くと、各自自由行動になった。部屋には風呂があって、入浴は大浴場でも部屋のものでもいいと言っていたから、部屋で済ませた。夕食も食べて、大体二時間くらい二三時消灯まで時間ができた。
「ワードウルフやろうぜ」
「二人でやるもんじゃない」
石川は横になっていたベッドから起き上がって、スマホを取り出す。
「なあ、石川」
石川はスマホをいじって、片手間で「ん?」と返してきた。
「石川は何で僕なんかと一緒にいてくれるんだよ」
前なら聞けなかった質問が喉を通って、言葉になる。今日の石川を見て改めて思った。石川にとっての僕の価値を教えて欲しかった。
石川は手を止めて、僕の顔を見た。特にいつもと変わらないはずの顔をじっと。
「⋯⋯今は楽だからだよ」
石川はなぜかジャンパーを着て、ズボンも重ね着をした。
「外行こうぜ」
意図が読めなくて、とりあえず小さく頷く。
木々に囲まれている外の空気は澄んでいて、とても気持ちよかった。もうすっかり暗くなっていた。空気が冷えていて、たまにブルっと体が震える。
石川は森の中、道でもない方向へ歩き出した。僕は石川の隣をついていく。
「俺が新と話したのいつか覚えてるか?」
「⋯⋯小三の初め」
「名前で前後なのに、何一つ話そうとしないし、ボッチで可哀想だと思って、話しかけたんだよ」
石川は懐かしそうに笑って、目を輝かせていた。
僕の脳裏にも、その時のことがゆっくり蘇ってくる。
「めちゃくちゃ気まずそうに、頑張って話しかけてきたよね。『好きな食べ物教えてよ』って」
石川は顔を手で覆い隠して、大きく息を吐いた。
「しょうがないだろ。俺だって緊張してたんだよ」
「僕が『卵焼き』って言ったら、石川は『俺はオレンジジュース!』だよ? 食べ物って聞いたの石川なのに、何で飲み物なんだよ、ってすっごい思った」
「いいだろ。本当に好きだったんだから」
「あの時、学校で初めて笑った気がする」
「ほら、結果オーライじゃんか」
数分歩いても、石川は歩みを止めなかった。所々、道がぬかるんでいるし、暗すぎて前がよく見えない。
「どこまで行くんだよ。ていうか何で外に来たの?」
「見えてきた」
石川の目の先には開けた視界があった。今までとは違い、そこからは光が差している。石川は軽く小走りでそこに向かったから、僕も慎重かつ少し急いで、あとを追う。
崖のようで、前は水平線が見えるくらいに何もなくて、遥か下に古風な温かい光が灯っていた。
「上、見ろよ」
何もない、綺麗な星空。まさに満天の星。見慣れている星たちはいつもより気合が入っているように見えた。大きくも見えた。たった百メートル前後上がっただけで、距離的には全然変わらないはずなのに、何倍も何十倍も綺麗で大きかった。
「これを見せたかったんだよ。京都行くんなら、綺麗に見えるかなって思ってさ」
言葉が出なかった。圧巻の空。これは表せない。類語もない、言い換えもできない。比喩すらもできない。
「新に呼ばれて行った河川敷で星を見ただろ? あれさ、すごい心に残っててさ。実は雫が逝ってから、何度も雫が夢に出てきて、苦しくなって、目が覚めたんだよ。その度にベランダから空を見上げてさ。星を見ると楽になるんだ。忘れられたんだよ」
石川も同じだった。弱い自分と共感できた気がして、悩みが無くなったわけじゃないのに、気持ちが軽くなった。
「逃げていいって思ったよ。苦しかったら、逃げちゃっていいんだよ。生きてくれていることが雫にとっての妹孝行だ。だから、新はただそこにいてくれるだけでいいんじゃないか? てか、新がいなかったら雫だって、最後まであんな笑ってなかったさ。俺だって、新がいなかったら、今こうして笑顔になれたかすらわかんない」
こっちを向いた石川は泣きながら笑っている。スッと頬を涙が流れ星のように伝って輝いていた。
「やっぱり現実は残酷だよ。期待とか希望とか夢とか見させるくせに、最後はほとんど成功しない。成功したとしてもその後、理想とは全く違うものが待ってる。それでまた苦しむ」
「まるで見てきたみたいに言うんだな。でもその時のための社会であり、集団生活だと思う。一人じゃ生きていけないんだよ。どんな人でも誰かに助けられて、その人が底にいるんだ。だからそんな現実に対抗するための友達だ。現実なんてクソ喰らえってな」
「なに言ってんだよ」
また臭い台詞。現実でこんな格好つけて言うやつなんてまともじゃない。でも、言いたいことも、伝えたいこともなんとなくわかった。
「戻ろうぜ」
「うん」
「今日はどこ行くの?」
「永遠に松原通で試食し続ける」
僕が石川に聞くと、その奥から先生が答えた。
「なんか有名な商店街みたいなところって言ってたぞ」
スマートフォンで松原通を調べると、そこは清水寺へ行くための通りと書いてある。確かに色々なお店が立ち並んでいる画像が出てきた。生八つ橋なんかもたくさん試食できるんだとか。
タクシーでその通りまで移動した。
「すごい人だな」
観光客でごった返す通りは、近くにいないと、簡単に人の波に揉まれてはぐれてしまいそうだった。
「具合悪くならないか?」
石川がこの人の量を見て、僕を心配そうに見てきた
「多分、きつい」
「そうか。新は人混み苦手だったな」
先生は苦笑を浮かべて、眉を顰めた。
「二人で行ってきてください。僕はそこら辺で帰ってくるの待ってますから」
こんなこと言ったら気を遣わせてしまうとわかっていたけれど、他に言い方が見つからなかった。
「そうか? 悪いな新!」
先生の元気な声に石川は目を見開いた。
「ちょ、正気かよ」
先生は石川のまともな反応を無視して、
「ほら、行くぞ」
石川の肩を引っ張って行った。そしてあっという間に二人は人混みに消えていく。
「マジで置いてかれた」
地図で調べて、二人は清水坂の方に行ったことを確認できた。
新〉戻る時、教えて
石川〉本当にいいのか?
新〉いいよ、どっかで暇つぶしておく
石川〉悪いな
人を避けるように一本裏の細い道に入った。車一台が通れるかギリギリの道路。京都の街はどの家を見渡しても、木造で茶色くて、雰囲気を壊さないために皆が協力しているように見えた。
少し歩るくと、喫茶店が見えた。足も疲れてきたから、大人っぽい雰囲気に入りづらさを感じつつ、ドアを開けた。カランカランとドアベルが鳴る。古い曲なのか、聞いたことのない緩くて、遅い音楽が流れていた。
「いらっしゃいませ」
口髭を生やしたおじさんがカウンターの前に立っていた。ワイシャツにエプロンを付けた格好の男性。
「どうぞ、座ってください」
雰囲気に酔いしれていると、店主さんが目の前の席に掌を差し出した。
少し高めの椅子に背伸びをして、腰をかける。
落ち着かないけど、落ち着く。不思議な空間。
「何、飲みますか?」
僕にメニュー表を渡してきた。
・スペシャルブレンドコーヒー(ホット・アイス)
・カフェオレ(ホット・アイス)
「これだけですか?」
思わず声に出してしまった。メニュー表のドリンクにはこの二つしか書いてなかった。
「二十年間ドリンクはこれだけでやっているんです。私のこだわりでね」
店主はコップを拭き始め、拭いたコップを静かに棚に並べた。店内はコーヒー豆の香ばしい匂いが漂っていた。
コーヒーを飲めるという人は、格好つけてるだけとか思っている僕だけど、
「じゃあこのコーヒーで」
なぜか飲んでみたくなった。
「はい、少々お待ちくださいね」
よくテレビで見る円錐の紙に挽いたコーヒーの粉末を降らせる。お湯を注ぎ始めた。温かい温風とともに、さらにコーヒーの香りが漂う。
紙を通して、お湯が黒い液体になって落ち、ポタポタと垂れていく。
「一回目で味が決まるんです。渦状に全体に沁み渡らせるように注ぎます。丁寧に、心を込めて」
何が変わるんだろう。初心者の僕には比較対象すらなくて、よくわからない。
「よく沁みてきたら、二回目を注ぎます。二回目は香りと風味を決めるんです。たくさん注ぎます。香りはコーヒーの性格ですから。私は優しいコーヒーを目指しているんです」
店主は優しく、一回目より多く注ぐ。きめ細やかな泡が出て、香りが際立つのがわかった。
「いい香りでしょ?」
僕の眉が上がったタイミングだった。
「若くてコーヒーに慣れていなくても、大事なことに向き合える人なら、この違いはわかります」
店主が注ぐのをやめた。だんだん沁みていく。さっきよりコーヒーを含んで水が落ちていくのを感じた。
「三回目、四回目はだんだん量を減らしていくんです。不思議ですよね。このコーヒーは私にしか作れない。でも一番じゃない。十人十色、どれも違くて全部いいんです」
店主はコーヒーを見つめ続けて、三回目を注いだ。タイミングが大事なんだろうか。
「コーヒーはどれくらい飲むんですか?」
「⋯⋯あまり飲まないです」
「素直ですね。こういう時は見栄を張ってもいいんですよ」
フワッと笑って、またお湯が注ぐ。落ちる水滴の勢いはどんどん落ちていき、最後表面張力でギリギリ耐えていた水滴が落ちた。
「はい、どうぞ」
目の前で作られていたコーヒーがすぐに出された。あっという間だった。とにかく黒くて、でも濁っていない。自分の顔が映るくらい透明感のある黒く綺麗なコーヒー。
「お熱いので、ゆっくりどうぞ」
ゆっくり口元に持っていって、軽く息を吹きかけた。湯気がボワッと上がって、深い香りが鼻の奥で循環する。
「いただきます」
やっぱり熱くて苦かった。舌を火傷した気がする。でもまろやかで火傷すら優しくて、口の中に広がる苦味は純粋に美味しいと思えた。口を通して、鼻に香りが広がる。鼻から吸う香りより奥床しさを感じた。
「良かったです」
何も言っていない僕に店主は微笑んだ。
「一つ聞いてもいいですか?」
「いいですよ」
「仕事って楽しいですか?」
「はい、楽しいです」
店主は迷わず答えた。
「でもずっとじゃないですよ。私が追い求めていたコーヒーは何十年間も試行錯誤して、手に入れたものですし、今でもまだ満足はしていません。何度もやめようと思いましたしね」
「なんで続けられたんですか?」
「⋯⋯あなたの悩みはわかりませんが、若いうちはトライアンドエラーですよ。失敗したなら、そこから学べばいいんです。私はそうしてきました」
店主は洗い物を始めて、何かを思い出すかのように徐に話し始めた。
「好きなことをして違うなら辞めて、また新しいことするべきだと私は思います。一度きりの人生です。チャレンジしなくてはもったいないです」
言っていることは難しいし、まだ僕には理解できる領域ではない気がする。でも、言葉の意味より雰囲気で伝割ってきてなんとなく納得できた。
「自分のために仕事をした方がいい。小学校、中学校、高校、大学。それの次が仕事です。嫌なことがあるのは当たり前ですけど、楽しまなきゃだめだと思いませんか?」
先人の知恵というのだろうか。優しい語り口調だからか、はたまたこのコーヒーのように体が頭がその言葉を受け入れる。
「一度きりの人生の大半が仕事です。高校の三年間より遥かに長い。あなたもしくは近しい人が悩んでいるなら、逃げていいんですよ。またやり直せる」
小さく頷いた。
「ちょっと待っててくださいね」
店主はまな板と包丁を取り出して、玉ねぎやソーセージ、ピーマンを切り始めた。
フライパンを熱して、バター、オリーブオイル、野菜を入れた。
手際がかなり良い。プロだから当たり前なんだろうけど、手慣れていて、迷いが一切なくて、楽しそうに具材を炒めていた。
「食べれないものはないですか?」
「特にはないです」
コンロは僕に背中を見せないと使えない位置にあったから。顔は見えなかった。でも、コーヒーを淹れる時とは明らかにテンションが違った。
野菜をフライパンから出して、そのフライパンにオレンジ色のソースを入れた。ナポリタンの匂いだ。ソースを温める間に、隣でパスタを茹で始めた。
時計を見ると既に一二時を回っている。匂いで自分のお腹が空いていることに気がついた。
「はい、お金は大丈夫だよ」
出されたナポリタンの熱気が僕の食欲をそそる。
「いただきます」
トマトの匂いを口に閉じ込めるようにパスタを放り込む。
「どうですか?」
「⋯⋯温かいです」
何だろう。なんかこの料理もだけどそれ以上に温もりを感じた。
「真心篭っているでしょう?」
店主はカウンターに肘をついて、僕の顔を嬉しそうにみてきた。恥ずかしくて、下を向いてナポリタンにがっついた。
十五時が過ぎた頃、スマホが震えた。
石川〉終わったから戻ってこーい
「行きますか?」
「はい、ご馳走様でした」
僕は財布を取り出して、五百円玉をカウンターに置いた。席を立ち上がって、もう一度軽く頭を下げた。ドアに手をかけた時、「また来てくださいね」と、言われた。
「はい」
修学旅行で来た場所に個人的に行けるかなんてわからない。でも、また来る気がして、確信なんてなかったけど、僕は振り返ってそう言った。
戻ると、石川は僕に生八橋をお土産に買ってくれていた。
「新、大丈夫だったか?」
「ああ。行かなくて良かったまである」
石川は申し訳なさそうで、先生は大層ご満悦な表情をしていた。
ホテルに着いてから、クラス男子全員で人狼をやるとのことで、僕もその集合に来ていた。
中は僕と石川が泊まっているような普通の部屋で、その中に二十人近くが入っていたから、かなりの密度になっている。いつになっても人狼が始まらない。みんな個々で話していて、収拾が付かない。こうなることが予想できなかったのかと思いつつ、時間が過ぎるのを待った。
「あらたー、米村がお呼びだぞ」
石川の声がどこからか聞こえて、部屋を出た。
この密な状態から出してくれた先生に今日初めてありがたみを感じる。こんなことで菅はねが刺されてる可哀想な先生。
部屋を出たすぐのところに先生がいた。ソワソワして、落ち着きがない。
「どうしたんですか?」
「これを見てくれ」
先生はスマホを僕に見せた。画面にはネットニュースの記事が映っていて――。
【USの顔が明らかに⁉︎ 関係者が明かしたその美貌を大公開‼︎】
目を疑った。大々的に書かれた文字の下に大きな唄の写真。目は黒く塗りつぶされて、隠されていたけれど、明らかに唄だった。
「いや、こんなのおかしいでしょ」
いくら見ても、目を凝らしても唄だった。誰がこんな事⋯⋯。誰が――。
「桐谷さん」
「⋯⋯私もそう思う。おそらく、文化祭の腹いせだろうな」
「先生!」
他クラスの女子が走ってきた。いつも唄と一緒にいる女子たち。
「どうした」
「唄がいません」
先生は下唇噛んで、表情をさらに険しくさせた。
「わかった。私が探しに行くから、部屋に戻ってて」
三人はその言葉を聞いて、安心したのか部屋に戻っていった。事態を知っていた僕と先生は焦りが更に増す。
「唄が行った場所わかるか?」
生徒会室――いや、
「小学校」
その言葉に一瞬だけ先生の顔に哀愁が見えた。
「⋯⋯駐車場で待ってろ」
駐車場に着いて、少しすると先生が来た。
「そこの車乗って。高速で、小学校向かうから」
「いや、え? 何でそこまで」
「早く乗って」
「は、はい」
Ⅲ
「はい、これ」
先生は赤信号で、僕に何かの鍵を渡してきた。小さな親指サイズの鍵。
「それ、唄のアクセサリーの鍵だよ」
「え、何で先生が持ってんですか」
先生はバックミラー越しに僕の顔を隠して、大きく息を吐いた。
「私が、新一の彼女だったからだよ。覚えてないか?」
「それは大学の友達じゃないんですか?」
「失礼だな、あれは私だ。その鍵は私でネックレスは新一だったんだよ。私のであれを開けられる。要はペアになってるんだ。なのに新一が死んだ時、それなかったんだぞ? 必死に探したのにないから、意味わかんなかったさ」
「何でそれを唄が持ってるんですか」
「新一が渡したんだろうな。理由なんて知らない」
すぐに高速道路に乗った。
「どれくらいかかりますか?」
「結構かかると思うから、寝ててもいいよ」
「そんなこと言って逃げないでくださいよ。もういいでしょ? 話してください」
後部座席に座っているから、バックミラーを通しても、先生の目元しか見えなかった。目だけだと先生が今どんなことを思っているのかも、何もわからなかった。
苦しい沈黙が続く。今は亡き兄の恋人といるこの状況は気持ち悪い緊張感があった。今までただの教師だった米村先生が――と考えるだけで、やっぱり今まで通りというのは厳しい。
「新一が死んでから辛くて、何もできなくなって、ずっと引き篭もるようになったんだ。仕事もやめて、親の仕送りと生活保護で生活してたんだ。笑えるだろ?」
いや、全然笑えないし。何よりも驚くほどに気持ちが理解できた。
寿命とは違う形の大切な人の死は想像を絶するほどに辛い。だからそうなる気持ちが凄くわかった。現に僕もそんな風になっていた。
「でも、その何年後かな。みんなが中三の時、USの生配信を初めて見たんだ。USは新一のペンダントをかけていたんだよ。特注のあのペンダントは世界に一つしかないから、見間違うはずがなかった。そこからは早かったよ。体感は数週間だった。実際は、一年以上かかったけどね。
あのペンダントを作ってもらった鍵屋で持ち主のこと聞いたら、娘がUSと一緒の高校に通っていると言うんだ。すぐに雇ってもらえるように面接を受けた。それでキーからUSが誰かも教えてもらったんだ」
震える声と微動する吐息。先生にとっては今でもこれを打ち明けることが、怖かったんだ。それを証拠に早く言ってしまおうと、段々早口にもなっていた。
「それでいざ学校に行くと、こっちを一切見ようとしない新がいたんだよ。新に会えた喜びもあったけど、酷く暗い新に哀しくなった。だから頑張って話しかけ続けたのに、そっけないし、突き放そうとしてくるし。そのまま一ヶ月と少しが経った頃に、唄が生徒会長に立候補したいって言ってきてな。唄とは入学以来キーの紹介でちょこちょこ関わる機会があったんだ。唄は周りに気を使い過ぎてて、新は周りと関わらな過ぎててさ。全然似てないのに、似てんなって思って。二人を合わせれば、何か起こるんじゃないかって」
「僕は化学物質じゃないです」
「そんな返し前までできなかったぞ。いい反応が起きてる証拠だと思うけどな」
「先生は僕に何がして欲しかったんですか?」
「違かった。やっと分かってきた。新は新一じゃない。ずっと新が新一みたいになってくれることを願っていたし、それを目指してたんだが。根本的に違う。新は新で、新一は新一なんだよな」
はっきりじゃないけど、先生なりの答えなんだろう。
「唄に会ったらその鍵で開けてあげな。中に何が入ってるかは知らないけど、私にも見せてくれよ?」
「わかりました」
石川〉今どこにいる?
石川のLINEを見て、高速道路の看板を見た。
新〉大阪
石川〉何してんの?
新〉帰らないかも
石川〉りょーかい。戻ってきたら何があったか教えろよな
詮索しないあたりがやっぱりいいやつだと思った。
「本読むか?」
先生は窓を見る僕に言ってきた。まだ到着までは数時間あるだろう。先生は片手に小説を掲げていた。
「先生って本読むんですか?」
「読まない。これは新一からの最初の誕生日プレゼント。センスの欠片もないだろ? 嬉しかったけどな」
確かにセンスはどうかしてる。僕でももうちょっといいものを選べると思う。
「――いや、大丈夫です」
その本を見ても読みたいとは思えなかった。断った理由にそれ以外なんてない。
Ⅳ
ずっと整理がつかない。
先生とも全然話さなかったし、唄になんて言えばいいのかもわからなかった。どんどん時間は経って、あっという間に見慣れた景色になった。
「もう着きますね」
「ここら辺で降ろすから、一人で歩いていきな」
道路の脇にハザードを焚いて、先生は車を停めた。
ドアを開けた。唄にどんな顔を見せればいいのかもわからないし、不安しかない。
「困ったら笑え」
外に出た僕に先生は窓を開けて、微笑んだ。
安心したし、落ち着いた。
「ありがとうございます」
遠目からではあったけど、あの歩道に唄がいた。何をしているんだろう。唄はずっと海を見ていた。
ゆっくり歩いて近づいた。段々鮮明になっていく唄の姿。遥か先の水平線を眺めて、泣いているわけでもなかった。何かを口遊んでいる。漣の音で何も聴こえない。
「唄」
「⋯⋯やっぱり新くんは来てくれるよね」
海の方を向いている唄の声が潮風に乗って、僕に届いた。顔を見てくれない。唄はずっと海を見続けている。
「ねえ、死んでもいいかな?」
唄は真顔だった。本気なのか、冗談なのか。
「ここで終わらせるのか?」
「私は成れない。いくらやっても真似事だよ。これ以上はもう無理だよ」
唄は砂浜に向かって歩き出した。僕もそれについていく。
唄が砂浜に座ったから、僕も隣に座った。
「一緒に死のうよ」
唄はまだ一回も僕の顔を見てくれていない。視界に唄の手が入った。ギュッと砂を掴んで、すぐに指の間からその砂が漏れ出す。
「僕は死ねない。これが僕の信念だから」
「でも、怖くて私一人じゃ死ねないよ?」
「死なないでよ」
「じゃあどうすればいいの? もう無理。顔もバレて、音楽も好きにできなくなったんだよ?」
口を噤んで、下顎を震わせて、必死に何かを堪えていた。
「もう、自分がわからない。ぐちゃぐちゃなんだよ?」
喉がヒクヒクと動く。
「もういいよ。全部やめよ。USの唄も学校での唄も琴さんの前の唄も。全部やめなよ」
「何も残らないじゃん」
「僕は唄がいてくれればいいよ。僕の前で歌ってくれればいいじゃん。学校も僕だけじゃなくて、石川も一緒にさ。石川ならどんな唄も受け入れてくれるよ。優等生じゃなくていいよ。笑顔じゃなくてもいいよ。怒ってもいいよ。――泣いてもいいよ」
「僕はそのままの唄が好きだよ」
整理のつかない気持ちをそのまま口から出した。何も考えず、内容が伝わっているかなんてどうでもよくて、言いたいことを言った。身勝手で自分勝手で我儘な唄に思ったことをぶつけた。
それで、手を握った。
「キスしようよ」
「なんで?」
「なんとなく。こういう時するものでしょ? すると何かありそうじゃない?」
まだ気持ちを無理に立て直そうとしている唄を感じた。
「あのペンダントある?」
唄はポケットから出して、渡してきた。いつ見ても不恰好なペンダントで、やっぱりセンスを感じられなかった。鍵を差して、中を見る。それだけをすればいい。僕も中が気になっていた。でも――
立ち上がって、大声と一緒に海に投げた。
「⋯⋯何してんの」
今日初めて唄と目が合った。
「殺したよ」
僕は唄に強引にキスをした。
僕と唄は修学旅行明けに二週間の停学処分になって、先生は三ヶ月の減給処分という対処が取られた。
その間、唄はUS引退をYouTubeで発表した。唄の素顔を売った事務所と唄の素顔を晒した週刊誌はバッシングの嵐。事務所は異例の記者会見を開いて、謝罪した。唄にも謝りに来たそうだが、唄自身ももうそこまで怒っていなかった。
停学の謹慎中に唄が家にやってきた。
「今は自宅謹慎だぞ?」
「だって暇なんだもん」
それには同感。最近は本を読む機会も極端に減って、暇を持て余していた。
「じゃあ、手伝って欲しいことあるんだけど」
唄を家にあげると、真っ先に新一の写真に駆け寄った。
「なんかこの人、知ってる気がするんだよね」
「僕の兄だよ。他人の空似ってやつじゃない? それより、この部屋の片付け手伝って欲しいんだ」
新一の部屋を開けた。
「汚いね、ここ」
「もう少しオブラートに言えなかった?」
ずっと放置していたんだからしょうがないか。
唄に大きなゴミ袋を渡した。
「僕はこっちやるから唄そっちやって。使わなさそうなの全部捨てちゃっていいよ」
唄は僕と反対側を向いた。唄は「分かった」と言って、どんどん袋に入れ始める。
僕も自分のものではないけど、躊躇なく手当たり次第に袋の中に詰めていく。僕より遥かに大きかったはずの新一の洋服も、今ではちょうど着れるような大きさになっていた。カビ臭いし、虫食いされているものもあって、どうにか着れそうなものもゴミ袋にとりあえず詰めた。彼女からのプレゼントか、手紙も見つかったけど、中身を見ずに捨てた。小さい頃の思い出の物なのか、戦隊モノのおもちゃがあった。それも袋に詰める。
ゴミ袋が5袋目に突入した。大体部屋の七割近くが片付いたところで、自然と涙が溢れた。唄に気づかれないように目を拭く。
「新くん、これは捨てていいの?」
タイミング悪すぎ。
唄はサッカーボールを持っていた。一回だけ使ったのを覚えている。僕と新一が公園で遊んだ記憶が蘇った。
「⋯⋯捨てていいよ」
手を止めると、今やっていることを後悔するような気がした。ゴミ袋に新一のものを入れる度に兄との記憶がフラッシュバックする。ぽっかり空いた記憶が新一のものを捨てるのと同時に埋まっていく。兄との思い出をたくさん忘れていた。さらに涙がポツポツと垂れてくるから、その度に拭いた。前に遊園地にいったことがあった。兄の大学にいったこともあった。授業参観に来てくれたこともあった。いつも帰ってくると僕の頭を撫でてくれていた。そして、泣いていた。何で泣いていたのか。
申し訳なかった。無理をさせていた。僕は新一を殺していた。それでも、この部屋はもう片付けなくちゃいけない。一人ではキツくて、唄が来てくれて本当によかった。
最後に残ったのは新一の本棚だった。僕と似ている。恋愛小説ばっかで、初めて血縁を感じた。でも、本を読みたいとは思えない。
「お兄さんも本が好きだったんだね」
唄の方は終わっていた。
「そうみたいだね」
唄が一番右上の本を取った。そこから写真が落ちた。
若い米村先生と新一の写真。楽しそうで、やっぱりカップルだったんだ。
「これ、米村先生じゃない?」
唄はその写真を拾って、すぐに気づいた。
よく、そのギャルが米村先生ってわかったな。と突っ込みたくなる。
「先生と付き合ってたんだって」
唄はその写真を見て、微笑んだ。
「お似合いだね」
僕もその写真を覗き込んで、「うん」と、言った。
1
今度は僕が唄の家に行った。次の日に仕返しのような気持ちで、インターホンを押すと、唄が出てきた。パジャマ姿で少し顔を熱らせる。
「停学中の生徒会長さんだらしないね」
「なんで急に来るの」
声を低くした唄の後ろから、琴さんが出てきた。
「あら、新くん。こんにちは」
いつもと変わらない琴さんに僕も軽く頭を下げた。
「お婆ちゃんはリビングいて!」
唄はお婆ちゃんを回れ右させて、出てきたドアからまた入れた。
「ごめんね」
戻ってきた唄は笑顔だった。
2
停学明け、最初の登校。一人で教室のドアを開けた。クラスメイトの視線を感じつつも、平然を装って椅子に座った。
「久しぶり」
目の前には僕を待っていたかのように、石川が座っていた。
「大変だったな」
「そんなことないよ。石川もありがと」
「俺は何もしてねえよ」
石川は外を向いて、照れ隠しをした。
「ほら、オレンジジュース」
「まだ覚えてたんだな」
「僕だって約束くらいは守るよ」
何もしてないとは言っても、誰一人何も聞いてこないのは石川が何かを言ってくれたんだと確信できた。
3
昼休みに屋上に行った。先生は一人空を眺めながら、弁当を食べていた。僕のドアを開ける音に気づいて振り向いた。
「おー新。どうした?」
「なんか色々とありがとうございました。とか言いにこようかなって」
「そんなんいいよ。あーそうだ。ペンダントの中身なんだった?」
やば。
完全に忘れていた。
「⋯⋯海に投げちゃいました」
沈黙が通過してから先生は吹き出した。
「なんだそれ! どうしたらそんな流れになるんだよ!」
「なんかすみません」
「あー、馬鹿だな。でも、新はそれでよかったんだろ?」
「はい」
「じゃあなんでもいいさ」
4
「ホワイトクリスマス、男二人でディズニー」
「悲しいね」
どこを見てもカップルしかいない千葉にある東京ディズニーランド。
雪のせいでアトラクションも運休だらけ、パレードだって男二人で見ても、物足りなすぎる。
「ディズニーって何するんだ?」
「倒立でもしなよ」
「煽ってんのか」
とりあえず歩き回って、見つけたもの全てに手を出した。食べてばっかで、それでも楽しかった。
「いたっ」
腰あたりに小さな子がぶつかってきた。
「大丈夫?」
「ごめんなさい」
今にも泣き出しそうな女の子に石川はしゃがみ込んでニコッと笑った。
「ほら、グリーメン饅頭いるか? これ、うまいんだぞ!」
石川は僕のお金で買ったお菓子を、その子に渡して頭を撫でた。妹がいたからか、小さい子の扱いには慣れていてこういうところも凄いと思う。
「すみませーん!」
両親らしき二人がこちらに向かって走ってきた。
「あれお母さんじゃない?」
「ほら、しずく。どうもすみません」
「お兄ちゃんたち、またね!」
その子はこっちに手を振ってから両親の手を取る。三人の後ろ姿は、黄色に包まれていて、込み上げてくるもので鳥肌が立った。
「石川、泣かないでね」
「誰が、泣くかバーカ」
?
カラオケ。小さな箱の中にいる人にしか聴こえない閉鎖的かつ、庶民的な空間。上手いとか下手とか。そんなのはこの中では関係ない。別にクラスで一番上手い人と、クラスで一番下手な人が一緒に行こうが何も問題はない――はずだ。
「歌、下手だよ」
「じゃあ私が先に歌うね」
そして唄は僕だけに。僕に向けて、『ありがとう』を唄ってくれた。
綺麗? 可憐? 秀麗? 天才? 違う。
ただ、楽しそうに、くしゃっとした笑顔が可愛い普通の女の子が目の前にいた。
唄は笑っていた。