教室にひとりでいると、自然と周囲の会話が耳に入ってくる。
「ねえ、今度ここ行かない?」
「私、甘いのはパス」
「えぇ〜! ご飯系もあるから! お願い、めぐみ!」
中でも、菅野美来と瀬尾めぐみの声はよく通る。席がそこまで近くなくても内容がはっきりと聞こえてくるほどだ。
「楓は? 行くよね?」
「……うん! 行く」
ワンテンポ遅く笹原楓が反応をしたのが微かに聞こえた。
横目で見やると、控えめに微笑んでいる。なんで無理に笑ってんだろう。笹原が菅野たちと話しているのを見るたびに、そう思っていた。誰かに合わせて過ごすのは息苦しそうで、俺だったらひとりでいた方がずっといい。
タバコを吸ったと濡れ衣を友人ふたりに着せられて以来、俺は誰かと行動するのをやめた。あいつらとはクラスはバラバラで、特別な接点があったわけでない。
廊下で話しかけられてから、なんとなく三人で一緒にいるようになった。自分のクラスの和気藹々とした空気に馴染めないらしく、俺もそのうちのひとりだった。
最初は上手くやっていた。だけど、あるとき男子トイレでタバコが見つかって、目撃証言から俺以外のふたりが呼び出された。以前からそいつらが吸っているのは見ていたので、とうとうバレたか程度にしか思っていたなかった。
けれど翌日、何故か俺が呼び出された。
まるで取り調べのように数名の教師に囲まれ、沈黙が数分続く。
ビニール袋の音が聞こえ、視線を巡らせる。担任が袋に入った吸殻を机の上に置いた。
『これは藤田が吸ったものだよな』
決めつけるように言われたことに内心苛立ちながら、『違う』と答える。けれど呆れたように、ため息を吐かれた。
『他の奴らは藤田のだって言っていたぞ』
俺に絶対黙ってろと言われ、そのときに殴られた痣まで見せてきたらしい。もちろんそんな覚えもない。
愕然として言葉を失っていると、教師たちは俺が友人に裏切られたことにショックを受けたと思ったようだった。沈黙が肯定のようにとられてしまったのだ。カバンの中をひっくり返されて、タバコがないことを確認しても、俺の疑いは晴れなかった。周りが疑われて、家に置いてきたと考えたのかもしれない。
その後、俺がタバコを吸ったと嘘ついた奴らは、へらへらと笑いながら謝罪をしてきた。
『適当に嘘ついたらマジであいつら信じちゃってさ』『藤田はタバコ持ってねぇし、疑われても証拠出てこないだろ?』
そんな呑気なことを言い、俺が本気で疑われると思ってもいなかったようだった。
『俺ら運がよかったわ』
悪びれもない物言いに、俺は胸ぐらに掴みかかる。
『ふざけんなよ』
適当なこと言って、人に罪なすりつけて笑っている奴らが許せない。完全に頭に血がのぼっていた。それからは言い合いになり、向こうに殴られて俺が殴り返して。結果的にお互いに顔に怪我を負い、教師が止めに入るほどの事件になった。
それも俺が先に殴ったということにされて、おまけに担任から言い渡されたのは、毎月の持ち物検査。こんなのもう俺だと断定されたようなものだ。それでもあいつらは名乗り出なかった。
停学になり、次に学校へ行ったときには白い目で見られ、俺に声をかけてくるやつなんて誰もいなくなった。初めは居心地の悪さを感じていた。でも慣れてきたら、ひとりの方がずっと楽だ。周りに誰もいなければ、裏切られることもない。
そう思っていたはずなのに。気がつくと笹原とバイトを通じて関わるようになっていた。俺とは全く違う性格で、考え方も似ていない。最初は苛立つこともあったものの、今はなんとなく居心地がいい。
隣を歩く笹原をちらりと見る。前よりも打ち解けてきた気がする。バイトが一緒になった頃は敬語を使ったり、俺のことが苦手そうだった。でも今笹原から話しかけてくることも増えてきて、表情も硬くない。
「私、藤田くんみたくなりたい」
笹原楓の突然の発言に、一瞬動揺した。
「なんだそれ。冷たい人間になりたいってこと?」
高校で浮いていて、悪い噂がある俺みたいになりたいなんてどうかしている。それにたとえ噂がなかったとしても、俺は笹原に憧れられるような人間でもない。
「ううん。……自分を持ってる人間になりたいってこと」
自分を持っているなんて綺麗な言葉に聞こえるけれど、俺は自分を曲げられなくて周りに合わせられないだけだ。
「見る目ねーな」
「……少し前まではそうだったかも」
足を止めると笹原が俺の前に回り込み、笑いかけてきた。
「藤田くんは自分が思ってるより、冷たくないよ」
なんで無理に笑ってんだと以前は呆れていた。けど、誰にでもできることじゃない。
俺は笹原のようにはなれないし、周りと上手くやろうと努力もできない。もしも俺が人と上手くやれるやつだったら、濡れ衣を着せられたとき、もっとマシな対応がとれただろうか。
俺は間違ったことはしていない。そう思っていたのに、人との関係に一生懸命悩んでいる笹原を見ると、別の考えが頭を過ぎるようになっていた。
「私ね、今思ったんだけど、藤田くんといるときの自分が結構好きかもしれない」
笹原が無邪気に笑う。その姿を眺めながら、複雑な心境になる。好かれて純粋に嬉しいという感情と、なんで俺なんかと一緒にいてそう思うんだという疑問。
……俺なんか、って。いつから俺は自分のことを卑下して、嫌になっていたんだろう。
高校でひとりになって、なにもかもが面倒で、こんな風になってしまった自分を心のどこかで悔いていたのかもしれない。
でも今は自分の中で変化が生まれつつある気がした。
「俺も。教室の笹原より、今の笹原の方がいい」
——俺も、笹原といるときの自分が結構好き。
笹原といると、些細な表情が気になって、どうしたら傷つけないかと考える。誰かを想いやれるようになった自分は嫌いじゃない。
みんなになんて優しくなれないけど。でも笑っていてほしい人はいる。そういう感情が、人を大切にするってことなのかもしれない。
***
「ねえ、ここのイルミネーションめちゃくちゃ綺麗なんだって!」
バイト先でユニフォームに着替え終わると、上機嫌な岡辺がスマホの画面を強引に見せてきた。
「早く持ち場行けよ」
「せっかく教えてあげたのに!」
「頼んでないけど」
信じられないと言いたげな岡辺が眉根を寄せながら、もう一度俺に画面を見せてくる。
「イベント大事!」
「なんの話」
「だからもー! 来月クリスマスじゃん!」
その話題を俺に振られても。どう反応をしたいいのかわからない。なんで俺にこれを見せてくるのか意図が理解できなかった。
「せっかく藤田たちのことを思って情報共有してあげたのに!」
——そういうことか。
最近妙に岡辺が気を遣ってくる。ただし、笹原が関連しているときだけ。
「そんな気にしなくていいって」
「だって、藤田はわかりづらいんだよ」
昼休みやバイト終わり、三人で過ごすことがあるので、俺と笹原を見ていると岡辺はもどかしくなることがあるのだろう。
友達なのかよくわからない距離感。だけど一緒にいると、伝わってんじゃないか?と思うこともある。だから尚更、どう切り出すべきなのか迷い、同じ場所を行ったり来たりしている気分だった。
それに笹原がなにを望んでいるのか、それが見えなくて臆病になる。間違ったことをしてしまえば、ぎこちなくなるはずだ。
多分はじめて、誰かに嫌われたくない。距離を置かれたくないと思っている。
***
結局切り出せず、数日が過ぎていった。今まで決断力はある方だったし、すぐに行動していたのに。今回ばかりはそれができない。いっそのこと、このままの距離感を保った方がいいのだろうか。
コンビニで飲み物を選んでいると、笹原からメッセージが来た。先ほど送っておいた明日は荷物検査のため、昼飯は三人で食えないという内容への返事だった。数回やりとりをして、そろそろ会話が途切れる頃だろうと思い「バイトおつかれ」と送る。
笹原からの返信は予想していたものとは異なっていた。
『明後日、バイト終わったら話したいです』
そのメッセージの真意を聞くために、電話をかける。
「話ってなに」
自分の声が強張っているのを感じた。少しの期待となにかあったのかという不安。
『え、あの、その……』
戸惑っているものの、落ち込んでいる様子ではない。電話越しに車の音が聞こえる。バイトが終わって三十分以上は経っているはず。
「てか、まだ外?」
『うん。星の道についたところ』
「は? ひとりで?」
『そうだよ』
この時間にひとりで寄り道は危ないだろ。と言いたくなったものの、言葉を飲み込む。
「そっち行く」
『え?』
「そこで待ってて」
電話を切り、笹原が好きそうなミルクティーとレモネードを購入した。急いで自転車を走らせる。ここからならあまり遠くない。七分。いや、五分で着く。ベダルを強く踏むと、冷たい夜風が頬を切る。自転車のライトが揺れて行く先を照らし、光を追いかけるようにタイヤが地面を滑っていく。
このタイミングでの電話ってことは、バイト先でなにかがあったのだろうか。
星の道にたどり着くと、人影が見えた。振り返った笹原の姿を見て、力が抜けていく。寒い中、自転車を漕いで息が切れるほど疲れていたはずなのに、妙な感覚だ。
笹原の話はバイトのことではなく、想像もしていなかった内容だった。
「私って藤田くんにとってどういう存在……?」
白い吐息が俺たちの間に浮かび上がって、溶けるように消えていく。けれど消えてもまたすぐに浮かび、呼吸が整わない。自分でも驚くほど、戸惑っていた。
平然を装いながら、なるべく普段通りの話し方を意識して口を開く。
「どういうって?」
「その、よく一緒にいるようになったし、私は藤田くんと一緒にいるのが楽しくって、すごく大切で……でも藤田くんが本心でどう思っているのかわからないし……」
そんなの俺が言いたい。笹原といるのが楽しくて居心地がよくて、でもどう思われているのかわからなくなる。好意を持たれているように感じることもあれば、ただの友達として見られている気がすることもある。
だけど目の前の笹原が俺をどう思っているのか、さすがにもう伝わってくる。でもきっと、笹原が求めているのはちゃんとした形な気がした。
「もっとちゃんとした言葉にした方がいい?」
寒さからか、それとも緊張からなのか頬を赤めた笹原が頷く。
「俺と——」
誰かにこんなことを言うのは初めてで、少し声が震える。
そして目を見開いた笹原は、目に涙を滲ませながら笑って答えた。
<さよなら、灰色の世界> 完
※書籍版の番外編は楓視点になります。