翌朝、登校すると廊下が騒ついていた。普段よりも人が集まっていて、小声でなにかを話しながら、みんな一点を見ている。
「だから、なんとも思わないわけって聞いてんの」
「私は後ろめたいことなんてなにもしてないけど」
聞こえてきた声には覚えがあった。けれど普段私が聞く声よりも、鋭くて硬い。
「謝りもしないなんて最低」
「そんなに結愛が気に食わないわけ?」
「私は大丈夫だから……」
視線が集まっている方向に足を進めていくと、知夏ちゃんと四人の女子がなにやら険悪な雰囲気で向かい合っていた。そのうちのひとりの子はおろおろとして、周りの子達の顔色をうかがっている。知夏ちゃんのことを睨んでいる三人は、以前陰口を言っていた子達だ。
「まあでも、岡辺さんもあの態度ないよね。結愛ちゃん可哀想」
「だよね。元はといえば、岡辺さんが原因で揉めてるんでしょ」
すぐ傍にいる女の子達の会話が聞こえてきてしまった。以前美来が言っていた恋愛絡みの揉め事のことだろうか。
「私が岡辺さんに嫌われてるのは仕方ないし……」
「結愛は悪くないって!」
結愛と呼ばれた子を慰めるようにひとりの子が背中に手を回す。弱々しくて意見を言うのが苦手そうに見えるけれど、纏っているのは橙色だった。美来のようなリーダー的な人が橙色のことが多いので、彼女みたいな人は初めて見た。
「大丈夫だから、もう行こ?」
「まあ、結愛がそう言うなら……」
知夏ちゃんに食ってかかっていた子達は結愛という子の一言で、あっさりと怒りを納めて退散していった。
一触即発だった空気が消えると興味を失ったように生徒達は、ひとり取り残された知夏ちゃんを避けながら通り過ぎていく。なにがあったのかはわからない。けれどこのまま放っておくことができなくて、声をかけようと一歩踏み出す。
「やめとけ」
私の動きを制するように背後から声がする。振り向くと、近くに藤田くんが立っていた。
「話しかけるなって言われてるだろ」
「でも……」
「安全な場所にいたいなら、中途半端な優しさで関わらない方がいい。声をかけたら、笹原も巻き込まれる覚悟できてんの?」
辛そうな知夏ちゃんに声をかけることに覚悟なんているの?と言い返したくなったけれど飲み込む。この感情は綺麗事だ。私は見て見ぬフリをする自分になりたくないだけ。
本当は藤田くんが言いたいことはわかっている。迂闊に話しかけたことによって、私も周りから無視をされたり、悪意を持たれたらと思うと怖い。知夏ちゃんはそのことを配慮して、声をかけないでと言ったはずだ。
「だけど……悔しい」
「それは俺もわからなくはないけど」
無力な自分が嫌でたまらない。知夏ちゃんが酷い目に遭っているのを目撃したのに、私はなにもできない。
「明日って、岡辺とバイト被ってるよな」
「え? うん、そのはずだけど……」
「帰りに三人で話すか」
藤田くんからの提案に目を見開く。彼もこの状況を歯痒く思っているのかもしれない。
「岡辺が嫌がったら無理には聞かなねぇけど」
「うん。明日、知夏ちゃんに声かけてみる」
話してくれるかはわからないけれど、それでもこのままなにもしないで放っておきたくない。明日のバイト終わりに裏口で待ち合わせの約束をすると、藤田くんは教室に入っていく。私も彼に続いて教室に足を踏み入れる。
「楓、おはよ〜」
自分の席に鞄を置くと、すぐに美来がやってきた。空いている椅子を引っ張ってきて私の隣に座ると、声を潜める。
「商業科の子たちが喧嘩してるの見た? あの子が原因で彼氏と別れたんだって」
「あの子って……」
「岡辺さん」
知夏ちゃんが原因で、彼氏と別れた子がいる。それが事実なのか私は知らないけれど、だからって関係ない人たちがたくさんいる場所で責めるのはどうなのだろう。
「あと二年間も一緒なのしんどそうだよね〜」
私たち普通科と違って商業科はクラス替えがない。自分を敵視してくる人たちと卒業するまで同じ教室で過ごすなんて。私だったら毎朝教室に入ることすら怖くなってしまう。知夏ちゃんの笑顔を思い出すと胸が痛んだ。
「そういえばさ」
美来がちらりと私を見てくる。なにかを話したそうだ。いつもは言いたいことを躊躇わないのに珍しい。
「昨日の夜ね……めぐみと電話したんだ」
「え!……どうだった?」
「一応この間よりも関係マシになったかも」
「仲直りできたってこと?」
「うーん、元通りってわけではないけど、でも私の態度とか謝った」
声は硬いけれど、表情が穏やかで美来にとっていい方向へ進んだのがうかがえる。
「そっか。ふたりが話せてよかった」
変わるための一歩を美来は踏み出したんだ。視線を下げて自分の灰色の手のひらを見つめる。私も変わりたい。
このままでいてもめぐみは普通に接してくれる。けれど何事もなかったフリをしていても、気まずさは消えずに残ってしまう。私もめぐみと話すべきだ。めぐみがどんな思いでいたのかを私はまだ知らないし、私も本当の気持ちを伝えられていない。
今日の放課後も展示で使う板にペンキで色を塗っていく予定だ。
「ごめん、楓。私先に帰るね」
「え? 今日美来、バイトだったっけ?」
「そうじゃないんだけど……私いると空気悪くしちゃうじゃん? あ、でも小物作るとか家でできそうな作業あったら言って」
集まり始めたクラスの子たちを横目で見ると、美来は軽く手を振ってから教室を出て行ってしまう。歯痒さを感じながらも、私は引き留めることができなかった。めぐみと話し合えたとはいえ、この間のことを気にしているみたいだ。
「楓、ペンキ使う前にジャージにした方がいいんじゃない?」
「確かに……着替えようかな」
めぐみの指摘の通り汚しそうなので、ロッカーへジャージをとりに行くことした。どうやらめぐみもジャージに着替えるらしい。
ふたりで並んで廊下を歩くのは久しぶりで、気まずさがある。けれど話すなら今かもしれない。
「ねえ」
私よりも先にめぐみが言葉を発した。
「さっき美来となんか話してたけど大丈夫なの? 帰っちゃったみたいだし」
「揉めたわけではないから、大丈夫だよ。めぐみは美来と話したんだよね?」
「一応、和解はしたと思うけど」
歯切れが悪く、すっきりとした様子の美来とは違っている。
「また一緒にお昼食べようって誘われたんだ。でも今更戻るのは無理かなって」
和解をしても、されたことが消えるわけじゃない。めぐみの中で消化しきれない感情が残っているように見える。
「私、楓にずっと——」
「あ、いたいた! 私たちもジャージとりに行く〜!」
クラスの女子達が私たちの元に駆け寄ってくる。一気に六人に増えて、私たちは三人ずつ前後で並んで廊下を進んでいく。通りかかったクラスからは賑やかな声が響いていて、みんな文化祭準備に勤しんでいるようだった。
「そうだ! 着替えたら、職員室にいらない紙もらいに行こ! ペンキが床につかないように絶対敷けって先生に言われちゃってさ〜」
「板でかいから、紙結構必要だよね。何枚くらいもらう?」
隣を歩くめぐみを見やる。先ほどめぐみがなにを言いかけたのか気になるけれど、聞けるような状況ではなくなってしまった。
私、楓にずっと——。
あの言葉の続きは、なんだったんだろう。
***
翌日のバイト終わり、更衣室で知夏ちゃんに声をかけた。三人でまた公園に行こうと誘うと、快く承諾してくれる。
「楓ちゃんから誘ってもらえると思わなかった〜!」
理由を話していないので嬉しそうな知夏ちゃんを見て、少し心苦しい。
着替え終わってから裏口で藤田くんと待ち合わせて、前回と同じようにコンビニに寄ってから公園へ向かった。
遊具の上に三人で登ると、知夏ちゃんが明るい声を上げる。
「すっかり寒くなってきたよね〜! でも寒い中で食べるアイスも最高!」
上機嫌でチョコレートにコーティングされた棒つきのアイスの袋を開ける知夏ちゃんに、藤田くんはげんなりとした顔で「うわ」と声を漏らす。
「よくアイスなんて食えるな」
「ちゃんとあったかい飲み物も買っておいたから大丈夫です〜」
「あっそ」
今日は夜風が吹いていて冷える。この中でアイスを食べたら凍えてしまいそうだ。私も藤田くんも温かい飲み物を湯たんぽ代わりに手に持っている。
「楓ちゃんの隣は私がもーらい!」
「俺はどこでもいいし」
知夏ちゃんは私の隣に胡座をかいて座った。自然と膝に視線がいき、黒っぽいことに気づいた。モノクロに見えているけれど、普通の膝の色ではないことはわかる。
「知夏ちゃん、その膝……」
「あ、これ? バレーのときぶつかって痣できちゃってさ〜。てかあのボール、結構痛くない? びっくりなんだけど!」
軽快に笑いながら、大したことがないように知夏ちゃんが話す。けれど、少しぶつけられただけでは、こんな大きな痣はできない。ボールをぶつけられただけではなく、突き飛ばされでもしたのではないかと疑ってしまう。
「いつまでヘラヘラ笑って平気なフリしてんだよ」
「えー、なに藤田。今日はやけに真面目じゃん」
重たい空気になるのを、知夏ちゃんは避けているようだった。
「知夏ちゃん、なんで嫌がらせ受けてるの?」
貼り付けられていた笑顔が一瞬強張る。
「きっと事情を聞いたら、くだらないって思うかも。それでも知りたい?」
頷くと、知夏ちゃんはアイスをくわえながら「なにから話したらいいのかなぁ」と呟く。
「同じクラスの子の彼氏と、浮気してたって勘違いされてるんだよね」
「それって、昨日廊下で揉めてた中にいた結愛ちゃんって子?」
「あー……そっか、見てたんだ。そう、その子。最近別れたらしいんだけど、それも全部私が邪魔したからだって言われちゃって」
結愛ちゃんという女の子は、知夏ちゃんに突っかかっていた子達を止めていて、困っている様子だった。それに彼女ではなく、周りが知夏ちゃんを一方的に敵視しているように私には見えた。
「私ね、隣のクラスに中学から仲の良い男子がいたんだ。藤田はわかると思うけど、小林って男子で、家が同じ方向だから時々帰りが一緒になるの。そしたらそれを見られたみたいで揉めたんだよね」
「話していただけで、浮気してるって思われたってこと……?」
「うん。結愛ちゃん側からしてみたら、いい気持ちはしないのかもしれないけどさ」
なにも知らない結愛ちゃんにとっては、誤解してしまうのもわかる。だけど、帰り道に会って話していただけで決めつけられてしまうのは理不尽だ。でもこれは私が知夏ちゃん側の人間だからそう感じるのだろうか。
「小林に彼女の誤解といてってお願いしたんだけどね。また勘違いされたら嫌だから連絡すんなってメッセージが来てブロックされちゃった」
それ以来、小林くんと話すことは一切なくなったらしい。これでは知夏ちゃんだけが悪者のようだ。
「あの子達の中では、彼女がいるって知ってて私が誘ったことになってる。真実なんて簡単に歪んじゃう。藤田の噂と同じ」
「でも……結愛ちゃんって子は……」
「優しい子に見えた?」
知夏ちゃんが口角を上げる。けれど目元は笑っていなくて、結愛ちゃんに対して怒りを抱いているように思えた。
「SNSで私のことだってわかるように、浮気されて傷ついたけど、彼のことが好きだからやり直したいって結愛ちゃんが投稿して、それから私は同じクラスの子達から避けられるようになったんだ」
低く微かに震える声で、知夏ちゃんが続ける。
「学校じゃ無視されるから、DMを送ったの。でももう誰も岡辺さんの話なんて信じないよって言われてブロックされた。それから一切話せてない」
なにを言っても、相手にとっては嘘に聞こえる。声を上げれば悪目立ちしてしまい、黙っていれば認めたと思われる。形にできないものを証明するのは難しい。
「てか、SNSに書く意味あんの?」
藤田くんの指摘に、知夏ちゃんは苦笑した。
「周りに報せるため、でしょ」
私にはその意味がわかる気がする。名指しはしていなくても、教室での会話や視線などから、関係ない人たちもなにかを察していく。そしてその投稿によって、内容を把握してしまう。あとは広まるのなんてあっというまだ。
「私の中学の友達がね、小林の元カノなの。別れた理由は浮気で、その相手は結愛ちゃんだった」
知夏ちゃんの抱えている苛立ちの輪郭が見え始める。勘違いからクラスで居場所がなくなったことだけではない。結愛ちゃん自身の行いや、中学の友達に関することなど、静かな怒りが知夏ちゃんの中に蓄積されているようだった。
「自分がしたことを、誰かにされるかもしれないって怖かったんだろうね」
だからこそ、結愛ちゃんは過敏に反応を示して、SNSに書いてしまったのかもしれない。
「誤解されたままなのは悔しいけど、なんでも声を上げたら間違いを正せるわけじゃないから。受け取る相手がこうだって思い込んだら、それが真実になっちゃうし、誰かと関わることも、弁明することも面倒になっちゃったんだよね〜」
いつもバイト先で見る知夏ちゃんの笑顔に戻り、声も明るくなる。無理をしていることは付き合いが浅い私でもわかった。
「……知夏ちゃんは、本当はどうしたい?」
私が何度も自分に問いかけていた言葉。辛いときや、なにかを恐れているとき、きっと私たちは目を逸らして、日常をやり過ごそうとしてしまう。けれど傷ついた心と向き合えるのは自分だけで、放置をしても傷は残り続ける。
「どうしようもないっていうか、諦めてるんだよね〜」
知夏ちゃんの手に、溶けたアイスが伝っていく。それに構うことなく、貼り付けられた笑顔のまま、なんてことないように明るい口調で知夏ちゃんは話し続ける。
「だってさ、誰もこんなやつに近づきたくないじゃん? 人の彼氏奪ったとか噂流されて、それがきっかけで仲が良かった人も私のこと空気読めないとか、自分勝手だと思ってたとか悪口を言い始めたし」
「俺はそんな噂どうだっていい。笹原もさっき言ってたけど、岡辺はどうしたいんだよ。今のまま学校で話しかけないでほしいわけ?」
心の奥底に気持ちを仕舞うと、そこから言葉を取り出すのは容易なことではない。だけど口に出さなければ、伝わらないことだってある。
「それに噂なんて俺もあるし、巻き込むとかそういうの深く考えすぎんな」
「でも……」
知夏ちゃんが私を見やる。その目には戸惑いが含まれていた。きっと巻き込むことを躊躇っているのだと思う。ポケットからティッシュを取り出して、知夏ちゃんの手についた溶けたアイスを拭う。
「私は自分の目で見た知夏ちゃんを信じてる」
天真爛漫で分け隔てなく接してくれて、バイトでは困っていることがあるとさり気なく周りのフォローをしてくれる。それに一緒にいると楽しくて、苦しいことがあってもそれを見せずに笑って耐えている。私の中の知夏ちゃんは学校の噂で聞くような人ではない。私は彼女の言葉を信じたい。
「だから、知夏ちゃんの気持ち教えて」
知夏ちゃんは目を大きく見開き、瞳を揺らした。睫毛がゆっくりと下がると涙が頬に落ちていく。
「……つ、らい」
嗚咽を漏らしながら、振り絞るように知夏ちゃんが言った。
「なんで……っ、関係ない人たちに好き放題言われないといけないのってずっと思ってた」
本音を聞かなければ、私は知夏ちゃんの抱えている苦しさや葛藤に気づきもしなかった。誰もがなにかと戦っていて、強く見えたとしても、弱さを隠しながら耐えていることだってある。
「誤解されてるのも本当嫌。でもひとりでいると、時々私が悪いのかもって思考が麻痺しそうになる。……私、あのときどうしたらよかった? だって偶然帰りに会っただけなのに。たったそれだけで……っ、なんでこんなことになっちゃうの」
後ろめたいことなんて、なにもしていない。そう思っていても、責められ続けたことによって心のバランスが崩れてしまう。知夏ちゃんの傷ついた心は、とっくに限界がきていたんだ。
「ご、ごめ……こんなこと言われても困るよね。ちょっと弱ってただけだから、大丈夫。泣いたらすっきりしたし」
から笑いをしながら、私から離れようとする知夏ちゃんの手を握りしめる。
「今度一緒にお昼食べよう!」
「え?」
突拍子もない私の提案に、知夏ちゃんも藤田くんもきょとんとしている。もうちょっと知夏ちゃんが落ち着いてから提案するべきだったかもしれない。
あのままだと壁を作られてしまいそうで、つい思ったことを口にしてしまった。
「あ、えっと、時々でいいから一緒にお昼過ごしたいなって!」
「……楓ちゃんは優しいね。だけど、私といるところ見られたら嫌な思いするよ」
優しい。その言葉が棘のように胸に突き刺さった。
「私、優しくなんてないよ」
今まで私は周りでなにかが起こっていても、目を逸らしていた。揉め事を傍観して、安全な場所でいい人を演じる。
それが私にとっての最善だと思っていたのだ。でももしも今傍観者のまま、知夏ちゃんと距離を置いてしまったら、きっと後悔する。自分がどうしたいのか。臆病で踏み出せなかっただけで、私の中でその答えはもう出ている。
「知夏ちゃんと仲良くなりたいし、周りの目より自分の気持ちを優先したいって思うんだ。だからこれは私のわがまま」
誰かにとって知夏ちゃんが嫌な人だったとしても、私にとっては違う。噂に惑わされずに、関わる人は自分で決めたい。
私が知夏ちゃんと仲良くしていたら、美来になにか言われるかもしれない。でも交友関係はひとつである必要はない。それぞれとの関係を大切にすればいい。
「……ありがとう」
知夏ちゃんは涙で濡れた頬を緩めた。
私や藤田くんが学校で知夏ちゃんと話すようになっても、噂がなかったことになるわけでも、知夏ちゃんへの嫌がらせが消えるわけでもない。
でも、ほんの少しでも知夏ちゃんにとって安らげる場所があってほしい。
すっかり話し込んでしまい、あっというまに十一時を回っていた。
毎週一日くらい一緒にご飯を食べようと話をして、気兼ねなく過ごせる場所で食べたいねと、三人で場所を提案し合いながら公園を出る。
「あ、パソコン室の近くの廊下がいいかも! あそこって広いし授業ないとき生徒全く来ないんだよね〜」
先ほど泣いたせいか知夏ちゃんは鼻声だ。けれど空元気な感じではなく、いつもよりもリラックスして話しているように見える。視線を下げて地面を眺めると、あることが思い浮かんだ。
「藤田くん、星の道を通って行こう!」
ここからなら数分で着くので、そこまで手間にはならないはずだ。
「帰りの方向だしいいんじゃね」
「星の道?」
知夏ちゃんが首を傾げる。藤田くんと私は顔を見合わせて、にっと笑う。知夏ちゃんもあの場所を気に入ってくれる気がした。十字路へ案内すると、知夏ちゃんは感嘆の声を上げる。
「わぁ、キラキラしてる! こんな道あったんだ!」
「星みたいだなって思って、星の道って呼んでいるんだ」
「いいね! 私もこの道好き。なんでキラキラってしてるんだろう。不思議だね〜」
アスファルトを観察している知夏ちゃんに、藤田くんが「ガラスが混じっている」と説明する。ヘッドライトの光によってガラスが反射して、車線や横断歩道などの存在が目立つように舗装されているそうだ。
「すごいね。ガラスって割れていても使い道があるんだ」
モノクロの視界でも光っているのは見えるけれど、いつか色が戻ったらこの道を改めて見たい。星の道は色のある世界ではどう見えるのだろう。
地面を眺めていた知夏ちゃんが顔を上げて、なにかを閃いたように目を輝かせる。
「よし、じゃああの電柱まで競争!」
「競争?」
知夏ちゃんの提案に、私と藤田くんが同時に声を上げる。
「負けたら、今度みんなのジュース奢るってことで〜!」
「私負けそう……」
藤田くんも知夏ちゃんも、私よりも運動神経が良さそうだ。
「いや、笹原は足速い。体育祭のとき、リレーの選手だった」
「え、なんでそれ知ってるの! それにあれは色々あって……元々穴埋めの補欠だっただけだから!」
百メートルのタイムだって特別速いわけじゃない。偶然補欠になった私が代打で出場しただけだ。
「いいからやるよ〜! 電柱に最初に触れた人が勝ちね!」
有無を言わせぬ知夏ちゃんの「よーい、ドン!」という掛け声で、私は鞄を抱えながら足を踏み出した。高校生三人がこんな時間に外を走っているなんて、変な光景だ。だけど、夜空のようなアスファルトに瞬く星屑は、私たちが進むべき道を照らしてくれているみたいだ。
「藤田ってさー、楓ちゃんに優しいよねぇー!」
「は?」
「え?」
明るい声を響かせる知夏ちゃんに、私と藤田くんの動きが鈍くなる。
「隙アリ!」
どうやら作戦だったようで、一番前を走っていた藤田くんを知夏ちゃんが追い抜かしていく。
「お前、それずるいだろ!」
「心理戦でーす!」
知夏ちゃんと藤田くんの背中が視界に映る。私はビリだろうなぁと、まだ勝敗が決まらないうちに予想がついた。でも負けが確定していても、ただ走るだけのこの時間が楽しくてたまらない。
「いっちばーん!」
電柱の前に最初に立ったのは知夏ちゃんだった。次に藤田くん、そして最後に私。乱れた呼吸を整えながら、あることを思いだす。そして電柱に手を伸ばした。
「電柱に最初に触れた人が勝ち、だったよね?」
「あ!」
すぐに知夏ちゃんと藤田くんが電柱に触れたけれど、同時だった。
「私の方が先だった!」
「いや、俺だろ。自分で言い出したルール覚えてないとかありえないよな」
「藤田だって忘れてたじゃん!」
子どもみたいな言い合いをしているふたりを眺めながら、私はおかしくって噴き出してしまう。
「私がビリだったのに、一番になっちゃったね」
釣られるように藤田くんと知夏ちゃんも笑い出す。
誰かにとってはくだらないこの時間が、私の中ではかけがえのないもので、この日のことを忘れたくない。そう強く感じた夜だった。