「黒虎、被害の確認は終わった。家屋の修繕や、壊れた水路の補修、田畑への損害を割り出して人員を確保してくれ」
「わかりました」
水害の規模を確認し終え、住人たちの安全の確保を無事に終えた白桜は、屋敷への帰り支度をしていた。これでようやく鈴のもとに帰れると白桜は安堵していた。
黒虎が屋敷からの連絡を聞いたのが一昨日のこと。なにやら父親に会うために鈴が人間の世に帰りたがっているというのだ。聞けば父親が流行り病で危篤状態なのだという。
鈴のことを人の世に帰すつもりなど毛頭なかった白桜は、鈴の家のことなど把握させていなかった。どこから知らせが入ったというのか……。
その点が気がかりではあったが、父親が危篤とあれば一目会わせてやりたい気にもなる。
だが、鈴ひとりで帰すわけにはいかない、自分もついていくつもりだ。満月までにどうにか戻るつもりであったが、間に合いそうで白桜は安堵していた。
「戻るぞ黒虎」
黒虎を連れて急いで屋敷に帰ると、すぐに梅花が出迎えた。焦ったような表情で白桜にしがみついくる。
「大変でございます! 奥様が……!」
「鈴がどうした!」
「どこにもいらっしゃらないのです!」
「なんだと……!」
「恐らく、おひとりで戻られたのではないかと。申し上げにくいのですが、鈴様から相談を受けたのです。すぐに人の世に戻りたいと……もちろん私は引き止めたのでございます。旦那様がお帰りになるまで待ってくださいと。それなのに奥様はどうしてもすぐに家に戻りたいのだと仰られて……」
「鈴はひとりで帰ったのか! 誰が連れて行った」
「わかりません。おひとりでも行かれるつもりだったのかもしれません。屋敷の中に姿が見えないのです」
「鈴が……」
「奥様は私たちあやかしのことを怖いと仰っていました。その、白桜様のことも、恐ろしいと……もしかしたら、ここから逃げ出されたのかもしれません」
鈴が、そんなことを……。私のことを、恐ろしいと思っていたのか――
鈴と暮らした短い日々のことを考える。鈴の言葉を、笑顔を、嘘だとは思いたくなかった。
なぜ――。考えたところで答えなど出るはずもない。
「鈴」
屋敷の中を探し回ったが、鈴の姿はどこにもなかった。
「玉、鈴はどこにいった! おまえは見ていないのか」
鈴の身の回りの世話をさせていた玉は青い顔をしていた。「黒虎さん……どうして……」とつぶやく。
「黒虎の何か気になるのか?」
問いかけると玉は青い顔で答えた。
「黒虎さんは、奥様と人間の世に行かれたはずでは……」
玉の返答に、黒虎も白桜も血の気が引いたような青い顔になる。
「鈴には私も一緒に人の世に行くと返事をしておいただろう!」
「はい、私も奥様も、旦那様が一緒に行かれると聞いて安心していたのです。奥様も喜んでおられました」
「ならば、なぜひとりで鈴は出て行った!」
「私、深夜に鈴様が黒虎さんと一緒にお屋敷を出て行くのを見かけたのです。二人の話を聞いていると、旦那様は用事が出来てお戻りになられるのが遅くなると、それで黒虎さんだけが戻ってきたのだと……」
玉の言葉に、白桜は黒虎を振り返った。
「黒虎、どういうことだ! おまえは私とずっと一緒にいただろう!」
白桜に問いかけられた黒虎は深刻な表情で口を開いた。
「申し上げにくいのですが‥‥…この屋敷にはひとり、私の姿に化けられるものがおります」
「それは……まさか!」
「妹の梅花です。先ほどの梅花は、嘘を申し上げていたのだと思います。白桜様を想うあまりに何をしでかすかわからないと警戒していたのですが、私の考えが甘かった。まさか私になりすまして奥様を連れ出すなど……!」
「すぐに連れ戻しに行く」
なぜ、このようなことになったのか、白桜は自分の甘さに苛立っていた。梅花が自分の妻になりたがっていたことは以前からわかっていたことだ、何度も心に決めた女がいるからおまえのことを娶る気はないと伝えていたつもりだが、そんな梅花を鈴のそばに置いておくべきではなかったのだ。自分の甘さが、このような事態を引き起こした。
白桜は自分の詰めの甘さを悔いた。
「黒虎、おまえには悪いが、妹には相応の処分を受けてもらう」
「妹の管理を怠った私にも罪がございます。二人で相応の罰を受け、償うつもりでおります。妹にも、必ず償わせます」
黒虎の言葉に苦い顔をした白桜はぐっと口を引き結び、闇に浮かぶ丸い月を睨んだ。
鈴と初めて出会ったあの夜も、満月だった。
仕えていた神は去り、片方の石像に宿っていた相方にも戻るよう促した後のことだ。もうあやかしの世に帰る力は残っていない、最期は自分の炎で死のうと、己の白い狐火に身を焼かせていた時だ。幼い子供に水をかけられて驚いた。そもそも、水ごときで己の火が消えるとは思いもしなかったのだ。それほどに力が弱まっていたのかとも思ったが、そうではなく、子供の『狐を助けたい』という気持ちが、己の炎に打ち勝ったのだとわかった。もう二度目の炎を出す気力は残っていない。死ぬに死ねなくなってしまった。このときばかりは鈴のことを恨みもした。
二度目に鈴に出会ったのは祭りの日のこと、あの日も満月であった。白桜が消えていく意識を必死につなぎとめながら、天を仰ぐと満月が昇っていた。
消えることを覚悟したその時、朗らかな子供の声がしたのだ。
「お母様、こんなところに神様のお家がありますよ」
「あら本当、こんなところに社があったなんて全然知らなかったわ」
「お母様、お供え物をしてもいいですか? 今年一年、鈴はとても幸せだったので、神様にお礼を言いたいのです」
「それは良いことです、少し掃除もしましょうか」
「はい」
あの日の子供だとすぐに気が付いた。その手に残る大きな火傷の痕は痛々しかった。母親と娘は古びた社を綺麗に掃除し、持っていた果物を供えた。それから両手を合わせ、丁寧にお礼を口にする。白桜は暖かなその言葉に、冷えていた心の中に灯がともるのを感じた。娘の心は宝珠のように美しいのだ。あの日だって、その身が焼かれるのも厭わず。純粋に白桜を助けようとした。
こんな気持ちになるのは、幾年ぶりだろうか……。
この社に少女の祈りを聞き届ける神はもういない。
どうか、この娘に幸せを……。
懸命に祈る幼い娘の顔が、今までに見た何者よりも美しく見えた。少女の幸せを願ったその瞬間、白桜は自分の体の中に力が戻ってくるのを感じた。ぼやけていた視界がはっきりとし、体も軽快に動くような気がする。まるで、この娘を幸せにするのはおまえだと言われているような気がした。
「さぁ、帰りましょう鈴」
「はーい!」
母親に手を引かれて帰っていく娘の背に、白桜はつぶやいた。
「私が、おまえを幸せにしてやる、鈴」
あれから、鈴を得るために必死だった。人間を娶るには、そもそも強い力を持たなければならない。そうでなければ、娶った妻を守ることが出来ないからだ。あやかしは人を食う。その脅威から、鈴を守るためには巨万の富と力が必要だった。神の眷属であったとはいえ、消えかけの狐にすぎない自分には簡単なことではない。
中央で成果を挙げ、玄の国を任されるようになるまでに十年――異例の出世といっていい。その一方で、唯一無二の親友であると信じていた男と仲互いをすることにもなった。
白桜はかつて同じ神にに仕えた黒い狐のことを思い出し、苦い顔をした。
白桜の名は広く知られるようになり、多くのあやかしたちが白桜のために力を貸してくれるようになった。中でも一番の支援をしてくれたのが黒虎と梅花の父であった。
もしも国を治めるようになったら、黒虎と梅花を働かせてやってくれ。
それが、彼の口癖であった。
本当ならば、梅花を妻にと言いたかったのだろう。だが、白桜の想いを知っていた壮年の狐は娘のことを託しはしなかった。
申し訳ないと思っている。だが、私が力を欲したのは、全ては鈴のため。鈴を得られぬなら、国も富も命すらも、なにもいらないのだ。
濃い霧を抜けると、見覚えのある社が見えた。人間の足音がする。ひとり、否、ふたり分。逃げるように走る足音と、追うように駆ける足音。それが突然止まった。
「ようやく捕まえたぞ、逃げるような気がして見張っていえば思った通りだ」
「放してください!」
女の声を聞いた瞬間、白桜は全身の血が煮え立つかのような感覚にとらわれた。
「私は戻らねばならないのです! 旦那様のもとに!」
「どこへ逃げるのかと思えば笑わせるな、離縁されてきたくせに。捨てた女が縋りついてくるものほど男にとって面倒なことはない、君は大人しく遊郭で働くんだ」
「嫌です! 絶対に嫌! 私は、旦那様のものなのです、他の誰にも触れられたくない」
「聞き分けのない女だ。おまえの母親もそうだった、大人しくしていれば、命までは取らなかったものを!」
男の手が鈴に触れる寸でで、白桜は鈴の体を抱き寄せた。
「私の妻に汚い手で触るな」
抱き寄せた鈴に視線を落とすと、鈴は驚きのあまり目を見開いていた。
「は、白桜様……」
「助けに来るのが遅くなってすまない鈴」
「私を、離縁なさったと……黒虎さんが実家にきたそうです」
「離縁などするわけがない。屋敷へ戻るぞ」
白桜は鈴の体を抱き上げると、追いかけて来た男を睨んだ。
「落ちたものだな、黒桜。神の眷属であったおまえが、人の世を這うあやかしになっていたとは……」
白桜が名を呼ぶと、男の姿はわずかに変化し、白桜によく似た狐のあやかしの姿になった。まるで白桜の対であるかのように、浅黒い肌に黒い髪をしている。
「参ったな、そんなに大事な娘なら、さっさと殺しておくべきだった。そうしたら、君の嘆く顔が見られたのに」
「私のことがそんなに気に入らないのか」
「気に入らないね。君は、あのまま消えるはずだったのに。この小娘が君を助けてしまった。君さえいなければ、玄の国は私のものだったというのに」
「そうとは限らないだろう。我ら狐はもとより力の弱いあやかし……私が玄の国を得たのも、鈴がいたからだ」
「そうだ! だから気に入らないその娘を焼き殺してやるつもりだったのに母親に邪魔をされた。娘には呪いをかけるにとどまったのだ。本当に忌々しい……!」
「黒桜、おまえが鈴の……」
「そうさ、私がその母を焼き殺し、娘に呪いをかけた。それなのに、娘をおまえが娶ったと耳にしたときは驚いた。私は急いで娘の実家に取り入り、父親には亡き者になってもらったさ。君から、娘を引きはがすために。ちょうど愚かな狐の女が君に惚れていると知ってな、少し唆してやった。上手くいったと思ったのに……」
鈴の耳に、信じられない言葉の数々が流れ込んでくる。母も、父も、目の前に立つこのあやかしが殺めたというのだ。震える鈴の体を、白桜はしっかりと抱きしめた。そして耳元もとでささやく。
「鈴、目を閉じていろ、私が片を付ける」
白桜の言葉に、鈴は首を横に振った。
「私も、最後まで見届けます。すべてを――」
白桜は一瞬目を見開き、それから頷いた。
「わかった」
白桜は黒桜に向けて、手を伸ばす。その先に、強い力が宿っているのが見えた。
「ずっと探していたのだ。道から外れたおまえを正すために」
「何か正しいかなど、誰にも決められやしない。私は、私が正しいと思うことを行って来ただけだ。君への復讐が、私の正義だった。私の負けなのか……。だが、これでやっと救われる。この長い苦しみから……」
黒桜が言葉を言い終えるころ、彼の体は光に溶けて行った。
かつて互いを信頼していた二人の狐は、人々の信仰が社を離れたときに決別した。朽ちた社を後にするとき、黒桜は白桜を置いていった。そのことを、ずっと悔いていた。悔いて悔いて、苦しみが己を焼き尽くすほどに痛みが募った。痛みが黒桜の心をすっかり荒ませてしまった頃、白桜が生きていたことを知ったのだ。
自分の痛みは何だったのかと、黒桜はかつての親友を心から憎むようになった。その全てを奪い去ってやりたいと思うほどに。
黒桜が消えた後、白桜は鈴を連れてあやかしの世へと帰ってきた。自分を抱きしめる白桜の心から、計り知れない悲しみがしみ込んでくるようだ。
「白桜様……」
思わずはらはらと涙を流す鈴の頬に、白桜は手を当てる。
「怖い思いをさせてすまなかった。おまえの不幸は、すべて私と出会ったことから始まった」
鈴はゆっくりと口を開いた。
「違います。すべては、あなたに出会うために必要だったことなのでしょう」
母の死を、父の死を、思い出すと心が苦しくなる。だが、過去を悔やむよりも前を向きたいと思った。
「私は、あなたを選んだのです」
「鈴……」
白桜は鈴の体を強く抱きしめる。
「悪かった。謝って許されるものではないだろう。だが、おまえを放してはやれない。私は、どうしたっておまえが欲しい」
自分を抱きしめながら小さく震える白桜に、鈴はたまらない気持ちになる。
この人を、幸せにしたい。それが私にできるのならば……!
そう、強く願った。
「鈴、実家で何があった。黒桜は、おまえに何をした」
「……私が実家に戻ると父はすでに亡くなっていました。継母の話では亡くなってからずいぶん経っていたようで……継母は他の男性と再婚しておりました。私とはもう赤の他人だと仰って……離縁されたのなら自分の食い扶持は自分で稼ぐようにと……ですが、私は、白桜様が私を離縁なさったと言うことを信じられなくて……もう一度、あなたに会いたくて……来てくださって、本当にありがとうございました」
はらはらと頬を伝う涙を拭う。
「鈴……! 私が、おまえを離縁することなどありえない。おまえを娶るために国を得たのだ。おまえがいなければ、何の意味もない」
白桜は鈴の体を強く抱きしめた。
屋敷に戻ると玉が駆けて来て鈴に抱き着いた。
「奥様! 奥様! 心配いたしました! よくぞご無事で!」
「玉、心配をかけてごめんなさいね」
他のあやかしたちも鈴の帰還を喜んだ。ただひとり、梅花を除いて。白桜は梅花の前に立つと、怒りに満ちた目で梅花を見下ろした。
「誰かに唆されたのだろうが、大罪を犯してくれたものだ」
「そ、その人間がいけないのです、白桜様の妻になるのは私だと! ずっとそう思ってお慕いしてきました、それなのに……こんな突然現れた人間の小娘を、国を治める力を得るべくために娶るだなんて! 私の気持ちはどうなるのです!」
「梅花、おまえは大きな勘違いをしている。そもそも、私が生きているのは鈴のおかげなのだ。私は鈴によって救われ、あやかしの世で財を築き、一国の主になるまでに強くなった。それはすべて、鈴を娶るため。おまえの思っていることとすべてが逆だ」
「そ、そんな……」
「おまえに気を持たせたつもりもない、端からおまえを娶る気はないと言っていたではないか」
「そ、それは……!」
「もう、おまえをこの屋敷で雇うわけにはいかない。実家に戻れ」
「白桜様!」
「本当は今すぐ屠ってやりたいほどに私は腹を立てている。これはおまえの父と兄の世話になったからこその温情だと思え!」
白桜が低い声でそこまで言い切ると、梅花はぐっと涙をこらえて逃げて行った。
「鈴」
白桜は鈴に視線を戻した。困惑したような瞳でこちらを見つめてくる鈴に、優しい笑みを向ける。
「鈴、今夜はよく休め」
「はい」
「玉、鈴を頼む。一番上等な風呂に入れてやれ」
「畏まりました!」
玉の計らいでゆっくりと湯船につかった鈴はようやく一息ついたような気分になった。
「あのまま都に連れていかれていたら、二度と白桜様には会えなかったかもしれない」
考えただけで恐ろしくなる。離縁されたと聞いた瞬間から、自分がいかに白桜に強く惹かれていたのかということを思い知った。離れがたいと、離れたくないと強く思った。
出会ったばかりの人だというのに、誰かを好きになるのに、時間など関係ないのかもしれない……。
温かい湯船の中でそんなことを考えていると眠気が襲ってくる。昨夜からいろいろなことがありすぎて疲れているのだ。今夜は早く寝ようと思い、風呂から上がって手早く身支度を終えると、横になった。
「おやすみなさいませ、奥様」
心地よい玉の気配を感じながら、鈴はあたたかな気持ちで眠りに就いた。
はずであった。深夜に胸騒ぎがして目を覚ますと、庭が赤く燃えているのが見えた。その中に人影が見える。
狐火……!
いつかのことを思い出すより先に、鈴は、駆け出した。
「梅花さん!」
鈴は、火中の人影を抱きしめ、そのまま池の中に飛び込む。
「な、何をするのです!」
「それはこちらのセリフです! 何をなさっているのですか!」
「放っておいてください、私など、いなくなったほうがあなたにとっても得でしょう? 白桜様のおそばにいられないのなら、死んだほうがマシなのです!」
「そんなことがあるものですか!」
鈴がそういうと、梅花は叱られた子供のような顔になって俯いた。
「さぁ、火傷に油を塗らないと。痕が残ったら大変だわ。その前に着替えもしないと、ずぶ濡れになってしまったもの」
鈴は大人しくなった梅花を連れて屋敷の中へ戻る。濡れた服を着替え、髪を拭いた鈴は、梅花の火傷に油を塗りはじめた。
「どうして助けたのですか。私など、いなくなったほうがよいでしょう? 私を恨んでいるはずです」
「白桜様のためですよ。あなたになにかあれば、彼は悲しみます。あなたのことを考えて、白桜様が悲しむ顔など、私は見たくありませんから」
「なんだ、あなたもずいぶんと自分本位なのね」
「はい、そのようです。だから、気負ったりしないでくださいね、これは、すべて私のためなのです」
鈴はそういいながら梅花の治療を終えた。
「……私は明日この屋敷をたちます。見送りはいりません、兄をよろしくお願いします」
「わかりました、どうぞお気を付けて。では、おやすみなさい」
「待ってください」
鈴が立ち上がると梅花は鈴を見上げた。それから、鈴の目をじっと見つめて頭を下げる。
「奥様、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる梅花のもとに、鈴はしゃがみこむ。
「私は無事に白桜様のもとに戻ることが出来ました。恨んでなどいません。ですが、謝罪は確かに受け取りましたよ、ありがとう」
柔らかな笑みを返して、鈴は自室へと戻った。部屋に戻ると、中に人影があることに気が付いた。開けた窓から庭を眺めているのは他でもない白桜であった。月に照らされた白桜の美しい顔に思わず見とれてしまう。あやかしとは、こんなにも美しいものだろうかと、自分との違いに寂しい気持ちがあふれてくる。
突然、記憶が泉のように湧き出てきた。火傷をした狐に油を塗ってやったこと。母と神社を訪れたときに、古びた社に手を合わせたこと――「神様、今年も一年ありがとうございました」と――。
「思い、出しました……」
「鈴?」
「幼い頃、白い炎に包まれた狐を助けたことが、それに、山の社にお礼を告げたことも……」
鈴が答えると、白桜は目を細め、満足そうにうなずいた。
「そうだ。私はおまえに二度救われた。おまえは狐火で己を焼こうとしていた私を助け、その祈りは私に力を与えた。力を得た私はこの国へと戻ることができたのだ。ありがとう鈴」
「私は何も……」
「正直に言うと、油を塗られたときは余計なことをするなと思ったものだ。私はあの日、己の炎で身を焼き死ぬつもりだった」
「どうして……!」
「あやかしの国へ戻れぬのなら、一刻も早く消えたいと願っていたのだ。おまえはそんな私から死を奪った」
鈴はなんと返したらよいのかわからなかった。
「そんな顔をするな。その後、おまえは母とともに私の社に現れた。あのとき、純粋に祈るおまえに私は恋をした。時が来れば、必ずおまえを妻にすると決めたのだ。そのためには立派な屋敷もいる。私はあやかしの国へ戻ってから必死で働いた。そうして今があるのだ、おまえを妻にしたいと願った結果が今だ。だから梅花の言葉など気に留めるな」
白桜は鈴を優しく抱きしめると、そのまま抱き上げた。どくどくと、心臓の音が響く。
「見て、いらっしゃったのですか?」
「梅花が狐火で己を焼こうとしていたから止めに入るつもりだった。そうしたらおまえが止めに入ったので驚いた。会話もすべて聞いていた」
鈴は恥ずかしくなって俯いた。
「鈴、おまえを好きになって本当によかった」
「白桜様……」
「こんなにも、欲しいと思った女は他にはない」
白桜は鈴を抱き寄せ、耳元でささやく。
「おまえと出会ったあの夜、私は少々焦っていた」
祭りの夜のことだろうかと、鈴はドキドキと鳴る心臓の音を聞きながら考えた。
「おまえを納得させるために、性急にその腹に命を授けるようなことをした。どうしても、おまえを手に入れたくて……」
それは、あの夜に宿った命を思い、鈴は涙を流した。
「申し訳ありません……私は……」
「おまえに責任はない。きちんと説明すべきであった。あの時の私にはわかっていたのだ、万が一おまえの体に私の命が宿っても、それは仮初のもの。けっして生まれてくることはないと。ただ、仮初の命が宿ることがあれば、おまえは私の子を授かることができる」
「そ、それはどういう……ことでしょうか……」
「それを、これから教えてやる」
白桜の手が、優しく鈴に触れてくる。この夜のことを、鈴は永遠に忘れることはない。
翌朝、鈴の部屋を訪れた玉は目を白黒させた。
「奥様、おはようございます……だ、旦那様!?」
深い眠りに落ちている鈴を見守るように、白桜が横たわっていたからである。
「鈴をもう少し寝かせてやってくれ、昨夜は少し無理をさせた」
「は、はい、かしこまりました……!」
それはどういうことかと問いたげな目を向けてくる玉に、白桜は笑みを返す。
「今夜から鈴の布団を私の部屋に敷いてくれ」
「え、は、はい、かしこまりました!」
白桜は鈴の額に口づけを落とすと、上機嫌で部屋を出て行った。
鈴の体に異変が起こったのは、白桜と寝室を共にするようになって半年の月日が経った頃のこと。嬉々として医師を呼びに行った玉は、その診断を聞いて鈴以上に興奮した様子だった。
「わ、私、私、旦那様にご報告してきます!」
その後、慌てた様子で白桜が鈴のもとに駆けこんできたのは語るまでもない。
それからというもの、玄の国はかつてないほど繁栄した。なんでも、人間の娘を娶れるほどに強いあやかしがその国を治めているからだという。そのあやかしは、人間の娘との間に多くの子をもうけたそうだ。そのどれもが、強いあやかしであったという。玄を治める白桜の名を、知らぬものは、あやかしの世にはいない。その伴侶である、鈴の名とともに。
「わかりました」
水害の規模を確認し終え、住人たちの安全の確保を無事に終えた白桜は、屋敷への帰り支度をしていた。これでようやく鈴のもとに帰れると白桜は安堵していた。
黒虎が屋敷からの連絡を聞いたのが一昨日のこと。なにやら父親に会うために鈴が人間の世に帰りたがっているというのだ。聞けば父親が流行り病で危篤状態なのだという。
鈴のことを人の世に帰すつもりなど毛頭なかった白桜は、鈴の家のことなど把握させていなかった。どこから知らせが入ったというのか……。
その点が気がかりではあったが、父親が危篤とあれば一目会わせてやりたい気にもなる。
だが、鈴ひとりで帰すわけにはいかない、自分もついていくつもりだ。満月までにどうにか戻るつもりであったが、間に合いそうで白桜は安堵していた。
「戻るぞ黒虎」
黒虎を連れて急いで屋敷に帰ると、すぐに梅花が出迎えた。焦ったような表情で白桜にしがみついくる。
「大変でございます! 奥様が……!」
「鈴がどうした!」
「どこにもいらっしゃらないのです!」
「なんだと……!」
「恐らく、おひとりで戻られたのではないかと。申し上げにくいのですが、鈴様から相談を受けたのです。すぐに人の世に戻りたいと……もちろん私は引き止めたのでございます。旦那様がお帰りになるまで待ってくださいと。それなのに奥様はどうしてもすぐに家に戻りたいのだと仰られて……」
「鈴はひとりで帰ったのか! 誰が連れて行った」
「わかりません。おひとりでも行かれるつもりだったのかもしれません。屋敷の中に姿が見えないのです」
「鈴が……」
「奥様は私たちあやかしのことを怖いと仰っていました。その、白桜様のことも、恐ろしいと……もしかしたら、ここから逃げ出されたのかもしれません」
鈴が、そんなことを……。私のことを、恐ろしいと思っていたのか――
鈴と暮らした短い日々のことを考える。鈴の言葉を、笑顔を、嘘だとは思いたくなかった。
なぜ――。考えたところで答えなど出るはずもない。
「鈴」
屋敷の中を探し回ったが、鈴の姿はどこにもなかった。
「玉、鈴はどこにいった! おまえは見ていないのか」
鈴の身の回りの世話をさせていた玉は青い顔をしていた。「黒虎さん……どうして……」とつぶやく。
「黒虎の何か気になるのか?」
問いかけると玉は青い顔で答えた。
「黒虎さんは、奥様と人間の世に行かれたはずでは……」
玉の返答に、黒虎も白桜も血の気が引いたような青い顔になる。
「鈴には私も一緒に人の世に行くと返事をしておいただろう!」
「はい、私も奥様も、旦那様が一緒に行かれると聞いて安心していたのです。奥様も喜んでおられました」
「ならば、なぜひとりで鈴は出て行った!」
「私、深夜に鈴様が黒虎さんと一緒にお屋敷を出て行くのを見かけたのです。二人の話を聞いていると、旦那様は用事が出来てお戻りになられるのが遅くなると、それで黒虎さんだけが戻ってきたのだと……」
玉の言葉に、白桜は黒虎を振り返った。
「黒虎、どういうことだ! おまえは私とずっと一緒にいただろう!」
白桜に問いかけられた黒虎は深刻な表情で口を開いた。
「申し上げにくいのですが‥‥…この屋敷にはひとり、私の姿に化けられるものがおります」
「それは……まさか!」
「妹の梅花です。先ほどの梅花は、嘘を申し上げていたのだと思います。白桜様を想うあまりに何をしでかすかわからないと警戒していたのですが、私の考えが甘かった。まさか私になりすまして奥様を連れ出すなど……!」
「すぐに連れ戻しに行く」
なぜ、このようなことになったのか、白桜は自分の甘さに苛立っていた。梅花が自分の妻になりたがっていたことは以前からわかっていたことだ、何度も心に決めた女がいるからおまえのことを娶る気はないと伝えていたつもりだが、そんな梅花を鈴のそばに置いておくべきではなかったのだ。自分の甘さが、このような事態を引き起こした。
白桜は自分の詰めの甘さを悔いた。
「黒虎、おまえには悪いが、妹には相応の処分を受けてもらう」
「妹の管理を怠った私にも罪がございます。二人で相応の罰を受け、償うつもりでおります。妹にも、必ず償わせます」
黒虎の言葉に苦い顔をした白桜はぐっと口を引き結び、闇に浮かぶ丸い月を睨んだ。
鈴と初めて出会ったあの夜も、満月だった。
仕えていた神は去り、片方の石像に宿っていた相方にも戻るよう促した後のことだ。もうあやかしの世に帰る力は残っていない、最期は自分の炎で死のうと、己の白い狐火に身を焼かせていた時だ。幼い子供に水をかけられて驚いた。そもそも、水ごときで己の火が消えるとは思いもしなかったのだ。それほどに力が弱まっていたのかとも思ったが、そうではなく、子供の『狐を助けたい』という気持ちが、己の炎に打ち勝ったのだとわかった。もう二度目の炎を出す気力は残っていない。死ぬに死ねなくなってしまった。このときばかりは鈴のことを恨みもした。
二度目に鈴に出会ったのは祭りの日のこと、あの日も満月であった。白桜が消えていく意識を必死につなぎとめながら、天を仰ぐと満月が昇っていた。
消えることを覚悟したその時、朗らかな子供の声がしたのだ。
「お母様、こんなところに神様のお家がありますよ」
「あら本当、こんなところに社があったなんて全然知らなかったわ」
「お母様、お供え物をしてもいいですか? 今年一年、鈴はとても幸せだったので、神様にお礼を言いたいのです」
「それは良いことです、少し掃除もしましょうか」
「はい」
あの日の子供だとすぐに気が付いた。その手に残る大きな火傷の痕は痛々しかった。母親と娘は古びた社を綺麗に掃除し、持っていた果物を供えた。それから両手を合わせ、丁寧にお礼を口にする。白桜は暖かなその言葉に、冷えていた心の中に灯がともるのを感じた。娘の心は宝珠のように美しいのだ。あの日だって、その身が焼かれるのも厭わず。純粋に白桜を助けようとした。
こんな気持ちになるのは、幾年ぶりだろうか……。
この社に少女の祈りを聞き届ける神はもういない。
どうか、この娘に幸せを……。
懸命に祈る幼い娘の顔が、今までに見た何者よりも美しく見えた。少女の幸せを願ったその瞬間、白桜は自分の体の中に力が戻ってくるのを感じた。ぼやけていた視界がはっきりとし、体も軽快に動くような気がする。まるで、この娘を幸せにするのはおまえだと言われているような気がした。
「さぁ、帰りましょう鈴」
「はーい!」
母親に手を引かれて帰っていく娘の背に、白桜はつぶやいた。
「私が、おまえを幸せにしてやる、鈴」
あれから、鈴を得るために必死だった。人間を娶るには、そもそも強い力を持たなければならない。そうでなければ、娶った妻を守ることが出来ないからだ。あやかしは人を食う。その脅威から、鈴を守るためには巨万の富と力が必要だった。神の眷属であったとはいえ、消えかけの狐にすぎない自分には簡単なことではない。
中央で成果を挙げ、玄の国を任されるようになるまでに十年――異例の出世といっていい。その一方で、唯一無二の親友であると信じていた男と仲互いをすることにもなった。
白桜はかつて同じ神にに仕えた黒い狐のことを思い出し、苦い顔をした。
白桜の名は広く知られるようになり、多くのあやかしたちが白桜のために力を貸してくれるようになった。中でも一番の支援をしてくれたのが黒虎と梅花の父であった。
もしも国を治めるようになったら、黒虎と梅花を働かせてやってくれ。
それが、彼の口癖であった。
本当ならば、梅花を妻にと言いたかったのだろう。だが、白桜の想いを知っていた壮年の狐は娘のことを託しはしなかった。
申し訳ないと思っている。だが、私が力を欲したのは、全ては鈴のため。鈴を得られぬなら、国も富も命すらも、なにもいらないのだ。
濃い霧を抜けると、見覚えのある社が見えた。人間の足音がする。ひとり、否、ふたり分。逃げるように走る足音と、追うように駆ける足音。それが突然止まった。
「ようやく捕まえたぞ、逃げるような気がして見張っていえば思った通りだ」
「放してください!」
女の声を聞いた瞬間、白桜は全身の血が煮え立つかのような感覚にとらわれた。
「私は戻らねばならないのです! 旦那様のもとに!」
「どこへ逃げるのかと思えば笑わせるな、離縁されてきたくせに。捨てた女が縋りついてくるものほど男にとって面倒なことはない、君は大人しく遊郭で働くんだ」
「嫌です! 絶対に嫌! 私は、旦那様のものなのです、他の誰にも触れられたくない」
「聞き分けのない女だ。おまえの母親もそうだった、大人しくしていれば、命までは取らなかったものを!」
男の手が鈴に触れる寸でで、白桜は鈴の体を抱き寄せた。
「私の妻に汚い手で触るな」
抱き寄せた鈴に視線を落とすと、鈴は驚きのあまり目を見開いていた。
「は、白桜様……」
「助けに来るのが遅くなってすまない鈴」
「私を、離縁なさったと……黒虎さんが実家にきたそうです」
「離縁などするわけがない。屋敷へ戻るぞ」
白桜は鈴の体を抱き上げると、追いかけて来た男を睨んだ。
「落ちたものだな、黒桜。神の眷属であったおまえが、人の世を這うあやかしになっていたとは……」
白桜が名を呼ぶと、男の姿はわずかに変化し、白桜によく似た狐のあやかしの姿になった。まるで白桜の対であるかのように、浅黒い肌に黒い髪をしている。
「参ったな、そんなに大事な娘なら、さっさと殺しておくべきだった。そうしたら、君の嘆く顔が見られたのに」
「私のことがそんなに気に入らないのか」
「気に入らないね。君は、あのまま消えるはずだったのに。この小娘が君を助けてしまった。君さえいなければ、玄の国は私のものだったというのに」
「そうとは限らないだろう。我ら狐はもとより力の弱いあやかし……私が玄の国を得たのも、鈴がいたからだ」
「そうだ! だから気に入らないその娘を焼き殺してやるつもりだったのに母親に邪魔をされた。娘には呪いをかけるにとどまったのだ。本当に忌々しい……!」
「黒桜、おまえが鈴の……」
「そうさ、私がその母を焼き殺し、娘に呪いをかけた。それなのに、娘をおまえが娶ったと耳にしたときは驚いた。私は急いで娘の実家に取り入り、父親には亡き者になってもらったさ。君から、娘を引きはがすために。ちょうど愚かな狐の女が君に惚れていると知ってな、少し唆してやった。上手くいったと思ったのに……」
鈴の耳に、信じられない言葉の数々が流れ込んでくる。母も、父も、目の前に立つこのあやかしが殺めたというのだ。震える鈴の体を、白桜はしっかりと抱きしめた。そして耳元もとでささやく。
「鈴、目を閉じていろ、私が片を付ける」
白桜の言葉に、鈴は首を横に振った。
「私も、最後まで見届けます。すべてを――」
白桜は一瞬目を見開き、それから頷いた。
「わかった」
白桜は黒桜に向けて、手を伸ばす。その先に、強い力が宿っているのが見えた。
「ずっと探していたのだ。道から外れたおまえを正すために」
「何か正しいかなど、誰にも決められやしない。私は、私が正しいと思うことを行って来ただけだ。君への復讐が、私の正義だった。私の負けなのか……。だが、これでやっと救われる。この長い苦しみから……」
黒桜が言葉を言い終えるころ、彼の体は光に溶けて行った。
かつて互いを信頼していた二人の狐は、人々の信仰が社を離れたときに決別した。朽ちた社を後にするとき、黒桜は白桜を置いていった。そのことを、ずっと悔いていた。悔いて悔いて、苦しみが己を焼き尽くすほどに痛みが募った。痛みが黒桜の心をすっかり荒ませてしまった頃、白桜が生きていたことを知ったのだ。
自分の痛みは何だったのかと、黒桜はかつての親友を心から憎むようになった。その全てを奪い去ってやりたいと思うほどに。
黒桜が消えた後、白桜は鈴を連れてあやかしの世へと帰ってきた。自分を抱きしめる白桜の心から、計り知れない悲しみがしみ込んでくるようだ。
「白桜様……」
思わずはらはらと涙を流す鈴の頬に、白桜は手を当てる。
「怖い思いをさせてすまなかった。おまえの不幸は、すべて私と出会ったことから始まった」
鈴はゆっくりと口を開いた。
「違います。すべては、あなたに出会うために必要だったことなのでしょう」
母の死を、父の死を、思い出すと心が苦しくなる。だが、過去を悔やむよりも前を向きたいと思った。
「私は、あなたを選んだのです」
「鈴……」
白桜は鈴の体を強く抱きしめる。
「悪かった。謝って許されるものではないだろう。だが、おまえを放してはやれない。私は、どうしたっておまえが欲しい」
自分を抱きしめながら小さく震える白桜に、鈴はたまらない気持ちになる。
この人を、幸せにしたい。それが私にできるのならば……!
そう、強く願った。
「鈴、実家で何があった。黒桜は、おまえに何をした」
「……私が実家に戻ると父はすでに亡くなっていました。継母の話では亡くなってからずいぶん経っていたようで……継母は他の男性と再婚しておりました。私とはもう赤の他人だと仰って……離縁されたのなら自分の食い扶持は自分で稼ぐようにと……ですが、私は、白桜様が私を離縁なさったと言うことを信じられなくて……もう一度、あなたに会いたくて……来てくださって、本当にありがとうございました」
はらはらと頬を伝う涙を拭う。
「鈴……! 私が、おまえを離縁することなどありえない。おまえを娶るために国を得たのだ。おまえがいなければ、何の意味もない」
白桜は鈴の体を強く抱きしめた。
屋敷に戻ると玉が駆けて来て鈴に抱き着いた。
「奥様! 奥様! 心配いたしました! よくぞご無事で!」
「玉、心配をかけてごめんなさいね」
他のあやかしたちも鈴の帰還を喜んだ。ただひとり、梅花を除いて。白桜は梅花の前に立つと、怒りに満ちた目で梅花を見下ろした。
「誰かに唆されたのだろうが、大罪を犯してくれたものだ」
「そ、その人間がいけないのです、白桜様の妻になるのは私だと! ずっとそう思ってお慕いしてきました、それなのに……こんな突然現れた人間の小娘を、国を治める力を得るべくために娶るだなんて! 私の気持ちはどうなるのです!」
「梅花、おまえは大きな勘違いをしている。そもそも、私が生きているのは鈴のおかげなのだ。私は鈴によって救われ、あやかしの世で財を築き、一国の主になるまでに強くなった。それはすべて、鈴を娶るため。おまえの思っていることとすべてが逆だ」
「そ、そんな……」
「おまえに気を持たせたつもりもない、端からおまえを娶る気はないと言っていたではないか」
「そ、それは……!」
「もう、おまえをこの屋敷で雇うわけにはいかない。実家に戻れ」
「白桜様!」
「本当は今すぐ屠ってやりたいほどに私は腹を立てている。これはおまえの父と兄の世話になったからこその温情だと思え!」
白桜が低い声でそこまで言い切ると、梅花はぐっと涙をこらえて逃げて行った。
「鈴」
白桜は鈴に視線を戻した。困惑したような瞳でこちらを見つめてくる鈴に、優しい笑みを向ける。
「鈴、今夜はよく休め」
「はい」
「玉、鈴を頼む。一番上等な風呂に入れてやれ」
「畏まりました!」
玉の計らいでゆっくりと湯船につかった鈴はようやく一息ついたような気分になった。
「あのまま都に連れていかれていたら、二度と白桜様には会えなかったかもしれない」
考えただけで恐ろしくなる。離縁されたと聞いた瞬間から、自分がいかに白桜に強く惹かれていたのかということを思い知った。離れがたいと、離れたくないと強く思った。
出会ったばかりの人だというのに、誰かを好きになるのに、時間など関係ないのかもしれない……。
温かい湯船の中でそんなことを考えていると眠気が襲ってくる。昨夜からいろいろなことがありすぎて疲れているのだ。今夜は早く寝ようと思い、風呂から上がって手早く身支度を終えると、横になった。
「おやすみなさいませ、奥様」
心地よい玉の気配を感じながら、鈴はあたたかな気持ちで眠りに就いた。
はずであった。深夜に胸騒ぎがして目を覚ますと、庭が赤く燃えているのが見えた。その中に人影が見える。
狐火……!
いつかのことを思い出すより先に、鈴は、駆け出した。
「梅花さん!」
鈴は、火中の人影を抱きしめ、そのまま池の中に飛び込む。
「な、何をするのです!」
「それはこちらのセリフです! 何をなさっているのですか!」
「放っておいてください、私など、いなくなったほうがあなたにとっても得でしょう? 白桜様のおそばにいられないのなら、死んだほうがマシなのです!」
「そんなことがあるものですか!」
鈴がそういうと、梅花は叱られた子供のような顔になって俯いた。
「さぁ、火傷に油を塗らないと。痕が残ったら大変だわ。その前に着替えもしないと、ずぶ濡れになってしまったもの」
鈴は大人しくなった梅花を連れて屋敷の中へ戻る。濡れた服を着替え、髪を拭いた鈴は、梅花の火傷に油を塗りはじめた。
「どうして助けたのですか。私など、いなくなったほうがよいでしょう? 私を恨んでいるはずです」
「白桜様のためですよ。あなたになにかあれば、彼は悲しみます。あなたのことを考えて、白桜様が悲しむ顔など、私は見たくありませんから」
「なんだ、あなたもずいぶんと自分本位なのね」
「はい、そのようです。だから、気負ったりしないでくださいね、これは、すべて私のためなのです」
鈴はそういいながら梅花の治療を終えた。
「……私は明日この屋敷をたちます。見送りはいりません、兄をよろしくお願いします」
「わかりました、どうぞお気を付けて。では、おやすみなさい」
「待ってください」
鈴が立ち上がると梅花は鈴を見上げた。それから、鈴の目をじっと見つめて頭を下げる。
「奥様、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる梅花のもとに、鈴はしゃがみこむ。
「私は無事に白桜様のもとに戻ることが出来ました。恨んでなどいません。ですが、謝罪は確かに受け取りましたよ、ありがとう」
柔らかな笑みを返して、鈴は自室へと戻った。部屋に戻ると、中に人影があることに気が付いた。開けた窓から庭を眺めているのは他でもない白桜であった。月に照らされた白桜の美しい顔に思わず見とれてしまう。あやかしとは、こんなにも美しいものだろうかと、自分との違いに寂しい気持ちがあふれてくる。
突然、記憶が泉のように湧き出てきた。火傷をした狐に油を塗ってやったこと。母と神社を訪れたときに、古びた社に手を合わせたこと――「神様、今年も一年ありがとうございました」と――。
「思い、出しました……」
「鈴?」
「幼い頃、白い炎に包まれた狐を助けたことが、それに、山の社にお礼を告げたことも……」
鈴が答えると、白桜は目を細め、満足そうにうなずいた。
「そうだ。私はおまえに二度救われた。おまえは狐火で己を焼こうとしていた私を助け、その祈りは私に力を与えた。力を得た私はこの国へと戻ることができたのだ。ありがとう鈴」
「私は何も……」
「正直に言うと、油を塗られたときは余計なことをするなと思ったものだ。私はあの日、己の炎で身を焼き死ぬつもりだった」
「どうして……!」
「あやかしの国へ戻れぬのなら、一刻も早く消えたいと願っていたのだ。おまえはそんな私から死を奪った」
鈴はなんと返したらよいのかわからなかった。
「そんな顔をするな。その後、おまえは母とともに私の社に現れた。あのとき、純粋に祈るおまえに私は恋をした。時が来れば、必ずおまえを妻にすると決めたのだ。そのためには立派な屋敷もいる。私はあやかしの国へ戻ってから必死で働いた。そうして今があるのだ、おまえを妻にしたいと願った結果が今だ。だから梅花の言葉など気に留めるな」
白桜は鈴を優しく抱きしめると、そのまま抱き上げた。どくどくと、心臓の音が響く。
「見て、いらっしゃったのですか?」
「梅花が狐火で己を焼こうとしていたから止めに入るつもりだった。そうしたらおまえが止めに入ったので驚いた。会話もすべて聞いていた」
鈴は恥ずかしくなって俯いた。
「鈴、おまえを好きになって本当によかった」
「白桜様……」
「こんなにも、欲しいと思った女は他にはない」
白桜は鈴を抱き寄せ、耳元でささやく。
「おまえと出会ったあの夜、私は少々焦っていた」
祭りの夜のことだろうかと、鈴はドキドキと鳴る心臓の音を聞きながら考えた。
「おまえを納得させるために、性急にその腹に命を授けるようなことをした。どうしても、おまえを手に入れたくて……」
それは、あの夜に宿った命を思い、鈴は涙を流した。
「申し訳ありません……私は……」
「おまえに責任はない。きちんと説明すべきであった。あの時の私にはわかっていたのだ、万が一おまえの体に私の命が宿っても、それは仮初のもの。けっして生まれてくることはないと。ただ、仮初の命が宿ることがあれば、おまえは私の子を授かることができる」
「そ、それはどういう……ことでしょうか……」
「それを、これから教えてやる」
白桜の手が、優しく鈴に触れてくる。この夜のことを、鈴は永遠に忘れることはない。
翌朝、鈴の部屋を訪れた玉は目を白黒させた。
「奥様、おはようございます……だ、旦那様!?」
深い眠りに落ちている鈴を見守るように、白桜が横たわっていたからである。
「鈴をもう少し寝かせてやってくれ、昨夜は少し無理をさせた」
「は、はい、かしこまりました……!」
それはどういうことかと問いたげな目を向けてくる玉に、白桜は笑みを返す。
「今夜から鈴の布団を私の部屋に敷いてくれ」
「え、は、はい、かしこまりました!」
白桜は鈴の額に口づけを落とすと、上機嫌で部屋を出て行った。
鈴の体に異変が起こったのは、白桜と寝室を共にするようになって半年の月日が経った頃のこと。嬉々として医師を呼びに行った玉は、その診断を聞いて鈴以上に興奮した様子だった。
「わ、私、私、旦那様にご報告してきます!」
その後、慌てた様子で白桜が鈴のもとに駆けこんできたのは語るまでもない。
それからというもの、玄の国はかつてないほど繁栄した。なんでも、人間の娘を娶れるほどに強いあやかしがその国を治めているからだという。そのあやかしは、人間の娘との間に多くの子をもうけたそうだ。そのどれもが、強いあやかしであったという。玄を治める白桜の名を、知らぬものは、あやかしの世にはいない。その伴侶である、鈴の名とともに。