ただ黙っているだけで時間は経過する。
嫌でも経過する。時は魔法より強し。
背中で叫ぶジャックをうるさく思いながら、リアムは王の言葉を思い出す。
『私の命と引き換えにこの国が守れるのなら、喜んで差し出そう』
王は王宮でドラゴンの頭をなでながら優しい声でそう言った。リアムは王の傍らで頭を下げ、苦い顔でドラゴンを見上げると、ドラゴンは涙目になって小さくイヤイヤと顔を横に振っていた。
『簡単な話だよリアム。私はドラゴンと共に散るから後はお前に任せる』王がそう言うとドラゴンは『死にたくない』と必死な目でリアムに訴えていた。
簡単な話であるものか。
魔王の要求に従い、王とドラゴンの首を捧げても必ず助かるという保障はない。自ら絶望を呼び起こすのは間違いだとリアムは思っている。王もドラゴンも救いたい。この美しい平和なウィストロバニアを守りたい。
藁にもすがる気持ちで、リアムは救世主を待っていた。
来ないかもしれない。ただの迷信かもしれない。占い師の気休めかもしれない。けれど我々は救いを求めている。
沈着冷静で現実主義、剣の腕前は自他ともに認めるリアム。命知らずの敵に突き進む強い騎士が、はっきりしないものを救いに求めているなんて、自分で自分を笑ってしまう。その笑いは空虚で悲しい笑いだった。
「リアムさまーー」
背中であまりにもうるさく叫んでいるので、リアムは手を上げてジャックの位置を5メートルほどアップした。するとジャックの叫び声もアップする。
「助けて下さいって!リアム様は剣も魔法も一流です。さっきのは本当の軽い冗談で……あれ?リアム様?遠方右手の方角に……誰かいます」
「ん?」
「誰か横たわっています。もしかしたら救世主様かもしれません」
「助かろうとして、そんな嘘をまた付くつもりか?」
「嘘じゃありませんよ、見て下さい」
真剣なジャックの声に押されて、リアムは小さな金の双眼鏡を取り出して海岸を覗くと、確かに何か横たわっている。
もしや……あれが救世主か。
身体中に力がみなぎる。リアムは馬の横腹を蹴り上げ、長い髪を海風になびかぜて小さな影に向かって一直線に馬を走らせた。
心臓が高く跳ねる。占い師の言葉は本当だったんだ。世界一の魔法使いが現れた。この国と王を救う救世主が現れたんだ。
リアムが横たわる影の傍に到着すると、そこには女が足を波に向け、砂浜の上に倒れていた。
これが救世主?
あの魔王を破壊できる力を持ち、我が国を救える最強の救世主なのか?
何か嫌な予感をさせながらリアムは馬から降り、剣を片手から離さずように、横たわる女を観察した。
生きてはいる。手とまつ毛が微かに動いた。
髪は少年のように肩までしかない。顔は小さく身体も小さい。救世主は子供かもしれない。
服装も変だった。白いブラウスの上には舞踏会で上着の下に着る胸当てのような物を着ているが豪華さはない。金糸も銀糸も使ってはいない。その上にグレーの柔らかい上着を着ていた。勲章も宝石もない。下は短いスカートだが……こんな短いものを見たことはない。町の女性たちも娼婦以外は足を見せてはいないから……娼婦か?いや、下着だろう。
横たわる女を見て、リアムは想像していた救世主とのギャップにためらっていた。
しかし、あれほど待ち続けた救世主。リアムは女に声をかけ、身体を揺すり目を開けさせた。
女は頭をふらつかせながら横たわる身体を起こし、リアムを見て「ひっ!」と声を出した。
【ひっ?】第一声が【ひっ?】だって?反射的にムッとした顔になったが、リアムは騎士だった。沈みかかる夕日を背にして丁寧に膝を着き、女に頭を下げて敬意を見せた。
「お待ちしておりました救世主様。我が国と王を救って下さい、偉大なる魔法使い様」
夢にまで見たこの瞬間だった。リアムは生まれて初めて震えながら声を出す。
「信じておりました救世主様。我がウィストロ……」
「いやちょっと待って!お兄さんどなたですか?ここはどこですか?外人さんですよね、馬?うまぁ?本物?いや言葉……言葉が通じるのはなぜでしょう?日本語お上手なんですか?」
リアムの言葉をさえぎって、女はパニックを起こしながらそう言った。
「ニホンゴ?」
「だってここ日本でしょう、えっとですね……あの、私は会社の中にいて、これからお昼で、その……あの、えーーっ!どんなドッキリ?モニタリング?いやいやスケール大きすぎ、私はただの普通の女ですから!」
女は大きな声を出して立ち上がってうろたえる。
違う。何か違う。
嫌な予感でリアムの頭はガンガン鳴り響く。
「救世主様ですよね」
「誰が?私は宮本里奈《みやもと りな》株式会社 エースツーの総務課勤務。男に振られて仕事に生きる女で趣味は……どうでもいいからここはどこですか?あなたは誰?」
「救世主ではないと?」
「ただのいっぱんピープルです」
「魔法は?」
「そんなの使えません。使えるわけがないでしょう。早く戻して下さい!午後イチで大切な会議があるんです、いや冗談でしょう、太陽が沈んでるってこれどーゆーこと?会議終わった?」
ギャーギャーと叫ぶ女を目にして、リアムの口から大きなため息が出る。救世主ではない。こいつはただの行き倒れだ。期待した自分が悪いのだが、この怒りをどうしてくれよう。
リアムは岩をも砕く自慢の剣を取り出し、怒りに震える腕をなんとか制御しながら頭を抱える女に切っ先を向けた。
空が青いと気づいたのは
大きな収穫である。
年数にかかわらず
生きていると色んな事がいっぱい起きる。
たとえば
そう、たとえば道路にある排水溝の格子模様のようなフタにヒールが刺さり、コケて転んで傷だらけになったり。合コンに行ったら学生の頃に付き合っていた彼が斜め前の席に座っていたり、2時間かけて入力したデータを課長が消してたり。
結婚すると思っていた恋人に振られたり……する。
3年付き合って、2年一緒に暮らして、お互いの両親も公認で来春に結婚しようかと思っていたのに、今、私と彼はテーブルの上にあるゼクシィを挟みながらにらみ合っていた。
「だから……ごめん」
「だからって何?」
身体中の水分は出尽くしたはずなのに、私はまた涙を流している。泣くのは嫌いだけど涙が止まらない。涙腺崩壊、ダム崩壊。
「相手に子供ができた、責任取りたい」
「責任で結婚するの?」
「そーゆーんじゃなくって」
この会話はもう何度目だろう。エンドレスにもほどがある。
【恋人が浮気して相手に子供ができたから私たちは別れます】息継ぎもせず一気に言える内容が悲しい。でもそれが真実だ。
ヤツはモゾモゾしながらゼクシィを裏返そうとするので、それを私は強く阻止した。
「要するに浮気でしょう?」
「そうとも言う」
それ以外にあるかっ!!
「ヤルことヤッたから子供ができたんでしょう」
「失敗はしてないはずなんだけど」
「他の男の子供じゃない?」自分でも酷いこと言うなーと思いながら言葉が止まらない。
「言っていいことと悪いことがある。彼女を侮辱するなよ」そう逆切れされて、ゼクシィの角で頭を叩き割りたくなる。
酔ってる酔ってる。自分の発言に酔ってるぞ。
一流商社で顔もそこそこいい。優しくて面白くて、ちょっと優柔不断なところもあるけど相性が良くて、一緒に過ごしていて楽しかった。これからだと思っていたらこんな結果になってしまった。
一番のバカは私かもしれない。最近は仕事も忙しくて、彼との時間も少なくて浮気に気づかなかった。こんなに近くにいたのに油断していた自分も悪い。
いいかげん前に進もう。
「もういいよ、自分の荷物は片づけたんでしょう」
「里奈……」
「さよなら」
私がそう言ってプイっと横を向くと、サイドボードのガラス越しに移った彼は安堵の笑顔を見せていた。
ちょっと!そこで笑顔ってどーなの?くやしいーー!!もっと粘って嫌味をガンガン言えばよかった。
「ありがとう」彼はそそくさと席を立ちポケットから部屋の鍵を取り出した。そして「これ、もういらないよね」って、テーブルの上にあるゼクシィと鍵をチェンジして、逃げるように部屋を出て行った。
おいっ!それを持って逃げるんかい!式を挙げる気なんかい!
くやしいーーー!!!
「転んでゼクシィに頭ぶつけて死んでしまえっ!」
私が大きく叫ぶと、扉の奥で階段から足を踏み外したような叫び声が聞こえた。
ざまみろ
本当にざまみろ。
あ……やっぱり泣ける。
宮本里奈
見事に捨てられました。
時間は経過する。嫌でも経過する。時間は悲しみより強し。
私はキーボードの手を止めて、ふと15階の窓に広がる空を見つめた。
全国展開の企業の本社である、総務課のオフィスには人が流れて様々な音が波のように寄せては引いていた。
大きな窓から見えるのは青い空だ。雲ひとつない澄んだ青い空。
空ってこんなに青かったっけ?そういえば最近は下ばかり見ていたから、気づかなかったもしれない。久しぶりに空を見た気がする。
「宮本さん。午後イチの会議資料はそろってる?」課長の声で我に返った。
「はい。来年の創立30周年の企画資料ですね」
「ありがとう。君も会議に参加できるかな?」
「はい大丈夫です」
そう答えながら、今日中に片付ける仕事をグルグルと頭の中で素早く整理する。
「宮本先輩すいません。営業2課からの伝言が意味不明で」
「宮本さん、これ経理から届いてるけどわかる?」
「宮本さーん。こっち先でお願いします」
男に振られたばかりだけど、就業時間限定で私はモテる。
あちこち動きながら効率よく処理して、午前中を終わらせようとしていたら
「僕もだけど、みんな宮本君に頼りすぎだよ」と、笑って課長がそう言った。
だから私は「大丈夫です。元気に定年まで働いて、重役目指してバリバリ働きます!」
そう宣言すると、みんなの顔が固まった。
いや……そこ笑うとこなんですけど!
どうして固まる!
笑ってスルーしてよーーー!仕方なく自分で笑って辺りを見回すけど、誰も私と目を合わさず避けていた。
これは私が超能力者じゃなくても、みんなの心の声が聴こえるよ。
『やっぱり宮本さん、別れたんだ』
『相手の男の浮気だって、かわいそうに』
『別れたから仕事に生きるんだね』と……。
元カレのおしゃべりな親友が同じ課の先輩の彼氏で、私の耳には入らないけど色々な噂がwi-fiばりにオフィスで飛んでいるのだろう。いや別にいいんだけどさ。
「えーっと……午後イチ会議の準備があるから……先にお昼に行こうかなぁ」
オフィス中に広がる『宮本さん捨てられてかわいそう』オーラをひしひしと全身に受けながら、私は財布を持ってコソコソと総務部を出て行く。
気にしてもらってありがたいけど空気が重い……。
エレベーターを待ちながら、近くの窓からまた空を見る。
夏の初めの空は好き。来週からとんでもなく暑くなりそうだけど、暑いのも夏らしくて好き。去年は海に沢山行ったなぁ。泳ぎはしなかったけどドライブ行ってカフェを巡って、いつも隣には彼がいたっけ……過去形です。空が綺麗って思えるのなら、私も少しは前向きに立ち直って来たはずだ。お腹も空いてきたし。
まだ切ないよ。
本音を言えばまだ傷付いてるし、恨んでいるのか戻ってきてほしいのか自分でもわからない。でも、自分にも悪い所はいっぱいあった。付き合いが長くなって慣れ合いになり、わがままを言ってたかもしれない。ちょっとしたケンカもいつもの事と思って甘くみていた。ケンカしても最終的に仲直りするからって軽く見てたかもしれない。産まれてくる相手の子供には罪はない。子供は元気に産まれてほしいと思いつつ……やっぱり……ムカつくような……。
あぁわからない。
わからないけど空が青いから大丈夫だ。
仕事に生きよう!午後イチの大切な会議に参加して、昇進の階段をつかもうって言うのは大げさだけど、目の前のことからひとつひとつ頑張ろう。色んな感情もあるけれど前向きに頑張ろう。いい女になって出世して見返してやるっ!
「よしっ!」
自分に気合を入れるように声を上げ、私は降りて来たエレベーターに乗り込むと……誰も乗ってない。これは珍しい。エレベーターが開くと、正方形のスペースは空っぽだった。大きなオフィスビルだから、フロアごとに専用エレベーターがあるけれど、こんな偶然は初めてだ。いい事あるかな?今日は2階のコンビニじゃなくて、ちょっと贅沢をしてカフェに行こうかな。
自分で気分を上げながら2階のボタンを押すと、すぐ下の14階でエレベーターは停まってしまった。やっぱりエレベーター独占はならず。苦笑いで14階で扉が開くのを待っていると、開いたと同時にひとりの女性がスッと音もなく乗り込んできた。
そして私は、その女性を見て息を止めてしまった。
なぜならば、彼女の服装が完璧コスプレだったから。コスプレがコスプレを越えているというのか、美しさとその品のある立ち姿に圧倒されたというのか、つまり異次元だった。おっ……お姫様?
えっ?14階って広報課のフロアだっけ?来月とかイベントあったっけ?
彼女はエレベーターのボタンも押さず、狭い箱の中で私の正面に身体を向けてジッと目を見る。
とても美しい人だった。デコルテを出したグレーのドレスはシルクだろうか、艶があり優雅に広がっている。両方の肩からウエストにかけて金の刺繍をあしらい胸元には細かいアンティークレース。絞られたウエストが細くて下に広がるドレスのラインを美しく見せている。
そのドレスに負けないのが着ている本人である。
私より背が高く、腰まである髪は柔らかくウェーブがかかっていた。黄色がかった薄い茶色の髪が輝いている。あぁこれが亜麻色の髪なのね初めて見た。そして透けるような肌の白さとスミレ色の瞳。
やばい。これはかなりの美形。どこかのモデルさんかな。緊張してしまう。なんて品があって、透明感があって美しい女性だろう。ブラウスにベストにカーディガンという、定番の自分の事務服が急に恥ずかしくなる。