三方を山 一方を海に囲まれた小さな国。 ヴィストロバニア。
三つの山のふもとと海辺にはそれぞれ町が広がり、その中で一番栄えているのは浜辺の町で、名はルベッセンという。
首都ルベッセンには天空まで届きそうな王宮があり、若く賢く美しい王がそこに住んでいた。王も美しければその側近たちも強く美しい。
海を見下ろすなだらかな斜面は、この国の宝石とも言われる葡萄がたわわに実り、最高品質のワインを造る街として有名だった。少し粗いが気の良い民たちの自慢は、そのワインの味と慈悲深き我らが王である。二十年ほど前に大きな戦いがあったが、その後は平和を保ち、国の民たちは平和に幸せに暮らしていた。そんな美しい国、ウィストロバニアに暗い影が落ちたのは、昨年の秋祭りの出来事だった。
さっきまでの晴天が嘘のように色を失い、切れ目のない一面に繋がる暗雲が国を覆いつくしていた。それは形を変え、何ともおどろおどろしい不気味な大きな顔になり民を地獄に陥れた。
「一年後この国は亡びる。全ての生き物は苦しんで死んでゆくだろう。それが嫌なら国王の首とドラゴンの首を斬り、我に捧げよ!」
容赦なく国を楽しみながら滅ぼす魔王の話は噂には聞いていたが、まさか自分の身に訪れることがあるとは、平和ボケした国民は言葉を失い恐怖に身を震わせた。
その日から三日三晩休むことなく大きな雷鳴が国中に鳴り響き、丘の上にある大きな広場に建てられていた歴代王の銅像は、こっぱみじんに砕け散る。
ただ自らの快楽の為に無茶ぶりをして国を亡ぼす恐ろしい魔王の話を、みんな噂には聞いていた。しかし、まさか自分の国が狙われるなど誰も想像もしていなかった。狙われて助かった国はいない。民は嘆き悲しんだ。優しい王はドラゴンと自ら犠牲になる道を選んだが、民と側近は(指名されたドラゴンを含む)それを許さなかった。何か助かる手はないか……国一番の占い師のお告げを待てば、占い師がこう言った。
「海から流れる女が国を救う」と……。
その日から
雨の日も風の日も、騎士リアムは時間を作り海辺に佇む。
騎士リアムは長身で手足は長く、濃いブラウンの長い髪をひとつにまとめ遠くを見つめていた。
スッと通った鼻筋に形の良い少し薄い唇。彼の一番の魅力は凛としたヘーゼルの瞳だろう。その瞳に射抜かれたなら女は誰でも夢中になってしまう。キリリとした端正な顔立ちだけではなく、リアムは剣の腕も強く誰にも負けない腕前を持っていた。
王に忠誠を誓った騎士。国の為に王の為に、心も身体も捧げる強い意志が彼にはある。王を助けたい、国を助けたい。愛馬と共に彼は海からやってくる救世主を祈りながら待ち続けていた。
あれから季節は巡り、今は夏の始まり。
夏が終われば秋が来て、この国は魔王に滅ぼされてしまう。焦る気持ちを落ち着かそうとリアムは深いため息をつきながら海岸線をいつまでも見つめる。
我々が全力で戦っても魔王には勝てないだろう。王は言葉には出さないが自分の首を魔王に差し出そうとしている。
神よ……最強の魔法使いを私たちにお使い下さい。
誰にも負けない魔法を使える、魔王に対抗できる力を持つ最強の救世主を我らに……。
夏の始まりの夕暮れ。
今日は供のジャックを連れて、リアムは愛馬にまたがり海を見つめていた。
いつもと変わらない海は穏やかで優しい。太陽が海にゆっくり沈みかかると水平線が赤く染まり、夜の青が頭上から出番を待っていた。
と、その時
水面が小さく動き始めた。
「あれは……」リアムは顔色を変えて水面を鋭い目で見つめると、そこから小さなさざ波が円を描き、中心からスッと音もなく美しい女性の姿が立ち上がった。
「リアム様!女神様が現れ……いてっ!!!」
ジャックはリアムに軽く突き飛ばされて自分の馬から落ち、その拍子に海に浮かんだ女性の姿も消えてしまった。
「あれはお前の女か?」
冷たい声と突き飛ばしにも慣れっこのようで、ジャックは砂をほろってまた自分の馬に乗る。
「酒場で一番人気のサマラですよ、誰もが知ってます。もう、リアム様は顔と剣の腕はいいけど、真面目で世間しらずで心配になります」
「だから、その女をどうしてここで出す!」
「そんなイラっとした声を出さないで下さい。だって、毎日この場所で眉間にシワを寄せながら怖い顔で救世主様をずーっと待ってるリアム様を見ていると、そんな冗談をやりたくなって……待って!ごめんなさい!もう二度としません!!」
ジャックの身体はふわりと浮き、宙づりのまま後ろの木の上に飛んでゆく。
「リアム様!許して下さい冗談ですから」
「俺に冗談は通じない」
リアムは振り向きもせず、今日も水平線をジッと見つめる。
ただ黙っているだけで時間は経過する。
嫌でも経過する。時は魔法より強し。
背中で叫ぶジャックをうるさく思いながら、リアムは王の言葉を思い出す。
『私の命と引き換えにこの国が守れるのなら、喜んで差し出そう』
王は王宮でドラゴンの頭をなでながら優しい声でそう言った。リアムは王の傍らで頭を下げ、苦い顔でドラゴンを見上げると、ドラゴンは涙目になって小さくイヤイヤと顔を横に振っていた。
『簡単な話だよリアム。私はドラゴンと共に散るから後はお前に任せる』王がそう言うとドラゴンは『死にたくない』と必死な目でリアムに訴えていた。
簡単な話であるものか。
魔王の要求に従い、王とドラゴンの首を捧げても必ず助かるという保障はない。自ら絶望を呼び起こすのは間違いだとリアムは思っている。王もドラゴンも救いたい。この美しい平和なウィストロバニアを守りたい。
藁にもすがる気持ちで、リアムは救世主を待っていた。
来ないかもしれない。ただの迷信かもしれない。占い師の気休めかもしれない。けれど我々は救いを求めている。
沈着冷静で現実主義、剣の腕前は自他ともに認めるリアム。命知らずの敵に突き進む強い騎士が、はっきりしないものを救いに求めているなんて、自分で自分を笑ってしまう。その笑いは空虚で悲しい笑いだった。
「リアムさまーー」
背中であまりにもうるさく叫んでいるので、リアムは手を上げてジャックの位置を5メートルほどアップした。するとジャックの叫び声もアップする。
「助けて下さいって!リアム様は剣も魔法も一流です。さっきのは本当の軽い冗談で……あれ?リアム様?遠方右手の方角に……誰かいます」
「ん?」
「誰か横たわっています。もしかしたら救世主様かもしれません」
「助かろうとして、そんな嘘をまた付くつもりか?」
「嘘じゃありませんよ、見て下さい」
真剣なジャックの声に押されて、リアムは小さな金の双眼鏡を取り出して海岸を覗くと、確かに何か横たわっている。
もしや……あれが救世主か。
身体中に力がみなぎる。リアムは馬の横腹を蹴り上げ、長い髪を海風になびかぜて小さな影に向かって一直線に馬を走らせた。
心臓が高く跳ねる。占い師の言葉は本当だったんだ。世界一の魔法使いが現れた。この国と王を救う救世主が現れたんだ。
リアムが横たわる影の傍に到着すると、そこには女が足を波に向け、砂浜の上に倒れていた。
これが救世主?
あの魔王を破壊できる力を持ち、我が国を救える最強の救世主なのか?
何か嫌な予感をさせながらリアムは馬から降り、剣を片手から離さずように、横たわる女を観察した。
生きてはいる。手とまつ毛が微かに動いた。
髪は少年のように肩までしかない。顔は小さく身体も小さい。救世主は子供かもしれない。
服装も変だった。白いブラウスの上には舞踏会で上着の下に着る胸当てのような物を着ているが豪華さはない。金糸も銀糸も使ってはいない。その上にグレーの柔らかい上着を着ていた。勲章も宝石もない。下は短いスカートだが……こんな短いものを見たことはない。町の女性たちも娼婦以外は足を見せてはいないから……娼婦か?いや、下着だろう。
横たわる女を見て、リアムは想像していた救世主とのギャップにためらっていた。
しかし、あれほど待ち続けた救世主。リアムは女に声をかけ、身体を揺すり目を開けさせた。
女は頭をふらつかせながら横たわる身体を起こし、リアムを見て「ひっ!」と声を出した。
【ひっ?】第一声が【ひっ?】だって?反射的にムッとした顔になったが、リアムは騎士だった。沈みかかる夕日を背にして丁寧に膝を着き、女に頭を下げて敬意を見せた。
「お待ちしておりました救世主様。我が国と王を救って下さい、偉大なる魔法使い様」
夢にまで見たこの瞬間だった。リアムは生まれて初めて震えながら声を出す。
「信じておりました救世主様。我がウィストロ……」
「いやちょっと待って!お兄さんどなたですか?ここはどこですか?外人さんですよね、馬?うまぁ?本物?いや言葉……言葉が通じるのはなぜでしょう?日本語お上手なんですか?」
リアムの言葉をさえぎって、女はパニックを起こしながらそう言った。
「ニホンゴ?」
「だってここ日本でしょう、えっとですね……あの、私は会社の中にいて、これからお昼で、その……あの、えーーっ!どんなドッキリ?モニタリング?いやいやスケール大きすぎ、私はただの普通の女ですから!」
女は大きな声を出して立ち上がってうろたえる。
違う。何か違う。
嫌な予感でリアムの頭はガンガン鳴り響く。
「救世主様ですよね」
「誰が?私は宮本里奈《みやもと りな》株式会社 エースツーの総務課勤務。男に振られて仕事に生きる女で趣味は……どうでもいいからここはどこですか?あなたは誰?」
「救世主ではないと?」
「ただのいっぱんピープルです」
「魔法は?」
「そんなの使えません。使えるわけがないでしょう。早く戻して下さい!午後イチで大切な会議があるんです、いや冗談でしょう、太陽が沈んでるってこれどーゆーこと?会議終わった?」
ギャーギャーと叫ぶ女を目にして、リアムの口から大きなため息が出る。救世主ではない。こいつはただの行き倒れだ。期待した自分が悪いのだが、この怒りをどうしてくれよう。
リアムは岩をも砕く自慢の剣を取り出し、怒りに震える腕をなんとか制御しながら頭を抱える女に切っ先を向けた。