悩むリンファスが乗り込んだのを見て、ロレシオも軽々とタラップを踏んで馬車に乗り込んでくる。辻馬車の座席は二人掛けで、自然隣同士になるロレシオの体が近くて、リンファスはレディでもないのに、赤面した。
「私は他の乙女たちのような育ちではないですし、丁寧な扱いをされる意味が分かりません……」
リンファスが戸惑いを吐露すると、ロレシオはそうかい? と言って、リンファスに逆に尋ねた。
「だって君は現に花を着けた花乙女じゃないか。花乙女はそうだというだけで大切に扱われる存在なのに、君がそう言うことに頓着しないのは、何故だろう? 君は自分で理由を分かっている?」
心底不思議そうに言うので、自分が言っていることがおかしいのかと疑問を持ってしまう。でもリンファスは他の乙女に比べるとまだまだアスナイヌトに寄進できる花の数も少ないし、今咲いている花だって、いつ咲かなくなるか分からない。花が咲かなくなることに怯えて暮らしているのに、そんな脆弱な花乙女を大切に扱う意味が分からない。疑問を顔に浮かべたままでいたからだろうか、ロレシオはまあいい、と言った。
「君をウエルトに迎えに行った時、家の中から君の父親の罵声が聞こえたよ。君のことを罵倒することで、君が傷付くことを、まるで考慮していないような物言いだった」
ロレシオはハンナと一緒にリンファスを迎えに来てくれた。あの時は目の前で展開されるハンナのてきぱきとした行動で頭がいっぱいで思いつかなかったけど、ハンナがきつい口調でファトマルの大声を諫めたのを、家の外にいたロレシオは聞いていたのだ。
「で、でも、私は実際、父の役に立っていなかったので、父が怒るのは仕方ないんです」
「それだよ」
リンファスの言葉に、ロレシオが声を被せた。
「君は、あんなに罵倒されるのがさも当たり前のような顔をして、家を出てきただろう。その様子が実は少し気になっていた。
君の父親はたいそう君に辛く当たっていたようだけど、君がこの前、『働く事しか出来ない』と言っていたのは、そういう父親の許に長く居たからではないのかな。
それで君は、宿舎に来てまで雑務の仕事にこだわっているんじゃなかろうか」
こだわる……。そうなのだろうか。
役立たずの自分が生きていく為の術は、働くこと以外に見つけられなかった。それしか求められなかったし、それしか出来なかった。
そう応えたが、しかし、ロレシオの言葉は続く。
「僕は、自分の心を守るのは自分しか居ないと思うんだが、君はそうは思わない?
だって、自分の心は他人には分からないだろう?
そう言う意味では、君は父親に心を預けすぎた。
あの罵声を聞く限り、君の父親は君を否定し続けてきたのだろうし、その結果、君が自分に対して自信が持てなくなったのは、君の父親の罪だよ」
罪……。そんな風に考えたことなかった。
リンファスの人生で、ファトマルは絶対であり、庇護してもらう立場として従わないことはあり得なかった。
リンファスがそう言うと、それは危険な行為だよ、とロレシオは言った。
「愛してくれない相手に心を委ねるのは、自分を殺すことと等しい……。自分の心はまず、自分で守らねば……」
ロレシオは、ひと言ひと言、噛みしめるようにそう言った。
ロレシオがその言葉に込めた気持ちを図ることは、今のリンファスには難しく、考えた末に口に出来たのはこんな言葉だった。
「私は……、……自分を大事に……、していなかったのでしょうか……」
自分で守らなければならなかったのに、リンファスはそれが出来ていなかった、とロレシオは指摘した。
振り返って考えると、確かにリンファスは、常にファトマルの為に働いていた。
自分が屋根のある部屋を得、食事を得ることも目的のひとつではあったが、その行動の結果は、ファトマルが如何に機嫌よく暮らせるか、という事だったのだ。
だがそれは、リンファスがウエルトで生きて来るのに必要な行為だった。それでも咎められなければならないことなのだろうか。
リンファスの問いにロレシオは、そうだと思うよ、と応えた。
「自分だけは、自分で守らなければならない。運が良ければ、周りに助けてもらえることもあるだろうけどね。それは周りの環境という、運次第だ」
運、という天秤に掛けられて、リンファスは誰にも助けてもらえない環境に傾いた。
そこで自分を守ることをしなかったのは、リンファスがそういう考え方を知らなかったからだ。
生まれた時から傍にはファトマルが居て、リンファスを罵倒した。母親が死んだのもお前の所為だと罵った。
ファトマルの不運は全て自分の所為だと思っていた。
でもそれは運が悪かったうえに、リンファスがファトマルに心を預けてしまったからだと、ロレシオは言った。
だったらリンファスは、これからどうしたらいいのだろう?
「まず、自分の意思を持つことだ。自分でどうしたいかを選ぶ。
……例えば今日、僕が僕の意思で君を誘ったようにね。
君にはそれに対して、イエスかノーかの二つの選択肢があって、君はイエスを選んだ。
そうやって、自分で選択していくことが大事だ。自分の行動を、自分で選んでいく。
それはつまり、自分の心を尊重することに繋がる。だから君は、花乙女であることを求められても、それにノーと言う権利だってあったんだ」
役割を……、否定するだって!? 思いもしなかったことを言われて、リンファスは動揺する。
「や……、役割を頂けなかったら、どう過ごしていけば良いの……? 私は……、私が今此処に居る意味を……、何に見出せば……?」
「それを決めるのも、自分の心だ。君が生きている意味を見出せる価値のあることこそが、君の心を支えると思うよ」
……生きている意味を見出せること……。
リンファスは口の中でその言葉を何度も呟いたが、今、それを即座に見つけることは難しく、現状、リンファスにとってそれは、誰かの役に立つという事、つまり花乙女として花を着け、アスナイヌトに捧げることだった。
「ロレシオ……。私……、自分のことなんて、考えたことがなかったの……。でも……、私に求められる役割があるなら……、それを全うしたいわ……。それがこの街に来た理由だもの……」
インタルに来ることを決めた時のことを思い出してリンファスが言うと、ロレシオは口許に微笑みを浮かべた。
リンファスがそう言うのと、まるで分っていたみたいだった。
「君はそう言うと思った。
君があの父親が施した呪縛から解かれるためには、きっと、もっとたくさんの時間が必要だろうね。
……しかし、君がそれに囚われてしまうのは、実は、よくわかる」
呪縛? 恐ろしい言葉を聞いて、リンファスはロレシオの隠された目元を真面目に見つめた。
ロレシオは丁寧に言葉を紡ぎ、リンファスに諭すように説明した。
「強い言葉というものは、力を持つ。
一度聞いただけでも十分それを持つのに、繰り返し繰り返し耳にすれば、聞いた相手を洗脳することだってできる。
君が度々自分のことを役立たずだ、と言う理由はおそらくそれだろう。
君は館に来てケイトの仕事を代わったり、他の乙女たちの為に働いたりして役に立っていた筈なのに、なかなかそれを認められない。
それが、あの父親に卑下され続けた結果なんだ。君には、自覚がないようだけど……」
時々飛び起きる、ファトマルに罵倒される夢。
ロレシオは、まるでリンファスがあの夢を見て飛び起きることを知っているかのように告げた。
……もしかして、リンファスは弱い……、のだろうか……。
呪縛から逃れられず、ただ蜘蛛の糸に絡まっているだけの、死にかけの蝶……。
どうしたらリンファスがリンファスで在る為の、確固たる理由が得られるのだろうか……。
「ロレシオ……。私はどうしたらいいのかしら……」
リンファスが問うとロレシオは苦笑した。
「まず、僕が感じたことから言うと、君は、自分で自分の行いを正しく認めることが大事だと思うな。
例えばこの前の舞踏会で、僕が君に花を咲かせたことを認めただろう? そういう、心の変化を認めていくことだと、僕は思うよ。
……僕が自分のことを認められたのは、君に僕の花が咲いたからだったからね。それと同じことだ」
ロレシオもまた、言葉の呪縛というものに苦しんできたのだろうか。それで、今までリンファスに対しても冷たい態度を取っていたのだろうか。
それが、ロレシオが言う『鏡』としての自分の花を見て、彼を縛り付けていた呪縛、というものから抜け出せた瞬間となったのだろうか。
動じないと思っていた心が動いたことを、ロレシオは受け入れた瞬間、おそらく彼は、呪縛のひとつから抜け出せた……。そういうことなのだろう。
「花乙女は、想いが寄せられればその想いの花が咲くのだったのではないの?」
ケイトやプルネルからはそう聞いた。だからこの前の舞踏会の時にリンファスは、ロレシオが何らかの想いを寄せてくれたのだと信じたのだけど……。
リンファスの疑問に、ロレシオはいや、と答え、言葉を続けた。
「それは花乙女次第だ。
花乙女が想いを受け付けずに拒絶したら、花は落ちると聞いたことがある。
つまりあの時君は、僕に感情があったことを示し、僕の気持ちを受け入れてくれたことになるんだ。君は二重に僕を救ってくれた。
……だから新たに生まれたような気分になった、と言ったんだよ。分かってくれたかい?」
成程、ロレシオがリンファスのことを『鏡』と言った理由がやっと分かった。彼はリンファスが知るよりも深く、花乙女のことを知っている。
だからリンファスに咲いた自分の花の理由を考えたのだ。
……ロレシオは、もしかしたら『自分』を信じていなかったのだろうか……?
ふと、気になった。
ハンナやケイトの話を聞く限り、イヴラと花乙女はお互いの中から結ばれる相手を選ぶように出来ていると思う。そんなイヴラでありながら、自分の気持ちの証である『花』が着いたことを驚いたあたり、そんな気がする。
何故そう思うに至ったかは、分からないけれど。でも、ロレシオが自分を信じて、自分を認められるようになる為にリンファスが役に立つのであれば、それは積極的に関与したいと思う。
だってロレシオはこんな自分に花をくれた人なのだから。
「貴方の役に立ててうれしいわ、ロレシオ」
「直ぐに『役に立つ』という指標を捨てるのは難しいだろうね。でも、自分が自分で在るという自信を持つということは、自分の能力を間違いなく認めると言うことだ。
君は長くあの父親に罵倒されながら暮らしてきたんだろう? 言っただろう、君の館での働きぶりは、ケイトにも負けないくらいだった。そんな働き者の君が、地元で仕事を怠っていたとは到底思えないね。
白い花のこともある。君の自分を評価する指標は、お父上という物差しから変えなくてはならないものだと思うよ」
リンファスはロレシオの言葉をぽかんと聞いた。
ロレシオは先程からファトマルが悪人のように言っているが、リンファスを罵倒したのはファトマルだけではない。村人すべてがリンファスを、悪魔の子だと言って蔑み、厭っていた。
そんな中、屋根のある部屋にリンファスを住まわせたファトマルのことを、リンファスは悪い人だとは思えない。
そんなファトマルがリンファスのことを役に立たないと言ったのなら、そうなのだろうと思うことは、当たり前じゃないのか……?
「だ……、だって、あの村で、私みたいな変な色の子供を育ててくれた父さんが言うんだもの……」
「変じゃない。花乙女とはそう言う色なんだ」
「と……、父さんに満足に食事も作れなかったし……」
「じゃあ、君はどうだったの? この手もこんなに荒れて。
それに君くらいの年の女の子だったら、花乙女だって言うことを除いても、十分な食事があれば、そんなにやせ細っていたりしないだろう?」
「とう、……さん、が……、使うお金、も……稼げなく、て……」
「君がそんなにやせ細っているのに、お父上は何にお金を使っていたの」
ずっとずっとファトマルの為に生きてきた。それを取り上げられたら、リンファスはどう生きたら良いか分からない。
ロレシオの言う、ファトマルに代わる物差しを、リンファスはまだ持っていないのだから……。
喉の奥からぐぐっと熱い塊がせりあがる。目の奥がじわりと滲む。
ぽたりとひとつ落ちてしまったら、後はとめどなく涙が零れ落ちるばかりだった。
「と……っ、……取り上げないで……。私が……、生きてきた、証……、なの……」
そう。証だ。今までリンファスを支えてくれた、僅かばかりの誇り。
ファトマルの為に尽くそうとしたという、自己満足という名の誇りだった。
ぐずぐずと泣きだしたリンファスの肩を、ロレシオがふわりと抱き締めた。
あたたかい腕がリンファスを引き寄せ、包み、ぽんぽんと背中を撫ぜて、やさしいリズムで落ち着かせようとしてくれる。
「君が生きてきた証は確かにそうかもしれない。
でもこれからはお父上とは違う道を生きていくんだろう? 違う証を見つけたっていいじゃないか」
違う、……証……?
不思議な言葉を聞いて、リンファスは瞬きをした。ぽろりと雫が零れる。
「ケイトやハラントだって良い。友達だっていう花乙女やイヴラだって良い。君の価値をきちんと認めてくれる人をこれから生きていくための証にしたっていいじゃないか」
「……、…………」
考える。今までリンファスが礎にして来たファトマルの言葉たちと別れて……、新しい拠り所を得ると言うこと……?
そんなこと、許されるのだろうか……。それは、ファトマルを捨ててしまうことにならない……?
(……でも、……でも、もし、許されるんだったら……)
「…………あなたは……?」
「え?」
「ロレシオは……どうなの……? ロレシオも……、……私がこれから生きていく、証……に、なってくれるの……?」
自分に花を咲かせてくれた、この人が証になってくれたら良い。
リンファスはそう思ってリンファスが恐る恐る聞くと、ロレシオは口許を緩めて微笑んだ。
「僕が自信を持てたのは君のおかげだからね。そうなれたら、嬉しいと思うよ」
もう一度瞬きをする。ロレシオの、……生きる証になっているのだろうか? リンファスが?
「わたし……、……貴方の、役に立ってるの……?」
リンファスがそう言うと、ロレシオは息を零して笑った。
「友情は役に立つ、立たないで成り立つものではないと思うけれど、君がそれを理解するのが難しければ、そう考えれば良いと思う。
いずれ変われば良いと思うけどね」
ロレシオは終始穏やかに話し掛けてくれた。フードを被った陰で眼差しの様子は良く分からないが、口許が穏やかに微笑んでいて、それだけで安心できる。
ロレシオの『友情』の花の花びらがふわふわと揺らいで、まるで『此処に居るよ、何時でも居るよ』と言ってくれているようだった。
それはまさしく、ロレシオの気持ちだったのだろう。リンファスは彼からのあたたかい気持ちが有難くて泣いてしまった。
さっきの『証』を奪われるかもしれないという底知れない恐怖からの涙とは違い、安心で泣いてしまったのだ……。
野外音楽堂でのショーは面白かった。
舞踏会で流れるオーケストラとは使っている楽器も違い、また小気味いいリズムがリンファスを虜にした。
どちらかというとウエルトの村での収穫祭の時の音楽に似ており、馴染みやすいのも起因した。ダンスでも、頭に花輪を着けて踊る女性たちが明るく朗らかな笑みを浮かべているのにつられてリンファスもパッと笑顔になった。
「踊るかい? リンファス」
「踊りたいわ! ……でも、ロレシオは、こういう曲で踊れる?」
「どうだろう。こういう曲で踊るのは初めてだけど、気持ちが弾んでいるから踊れるかもしれない。良かったら一緒に踊って欲しいな」
にこやかに手を差し伸べるロレシオに、リンファスも応じて手を乗せる。
そして簡単な座席の並びから芝の敷かれたひらけた部分に出て、同じようにステージの軽快なダンスに合わせてリズムを取って踊っている人たちの輪に加わる。
二人組で手をつないだり離したりしながら、相手の顔を見たままくるりと回ってステップを踏む。
また手を繋いで、今度は腕を組む。そのままくるりと回って、お互いを見てステップ。
合わせた手を高く掲げて、女性だけ回る。スカートがひらりと波打って、そこにも色とりどりの花が咲いたようだった。
音楽がはじけ飛ぶ。人々が笑う。
会場を取り巻くかがり火があたりを赤いこがね色に染め上げている。いっときの高揚感が宙を舞い空へと駆け上がっていく。
やがて音楽が鳴りやみ、拍手喝采が贈られるステージの上では、花輪を付けた女性たちがお辞儀をしていた。
楽しかった時間があっという間に過ぎてしまって寂しかったけれど、とうに暮れた夜空の下で踊ったロレシオの黒のフードから覗く淡い金の髪が、照明を兼ねたかがり火の赤い火の色に染まって、朱金のその色は夕焼けの色と似ており、とても綺麗だったのが心に刻みたいほど印象的だった。
「実に楽しんだようだったね、リンファス」
笑うロレシオがそう言うので、申し訳ない気持ちになりながらも、でも心はさっきのダンスのリズムを刻む。
「収穫祭の音楽に似ていたんだもの、仕方ないでしょう?
収穫祭の時はみんなが楽しそうに大きな焚火を囲んで踊るの。何重にも輪が広がって、夜中まで踊るのよ?
普段は父さんの食事の用意があるから夜は家に居たけど、収穫祭の時だけは父さんも一晩中遊びに出てたから、私もお祭りを見ることが出来たのよ」
村での生活で唯一の楽しみだった祭りに似ているのだから、もう仕方ない。
リンファスが顔を綻ばせながらそう言うと、良かった、とロレシオは言って、踊って乱れたリンファスの髪を梳いた。
さらりと耳端に触れる指先がやさしくて、思わずどきりとしてしまう。
ロレシオはそのままリンファスを見つめて、やさし気に口端をゆるりと持ち上げた。
「僕も心から笑う経験を、久しぶりにしたよ。とても心地のいい体験だった。また君と来れたら良いな」
ロレシオが先の約束を持ち出してくれたので、是非、と応えた。
「私もとても楽しかったの。こんなに大はしゃぎしたのも、初めてだったのよ」
リンファスがそう言うと、それは良い、とロレシオが笑った。
「舞踏会に馴染んでいないと思って誘ったけど、そういう理由なら、この季節、カーニバルとかも楽しめるだろうか?
夜になると各テントにランタンが灯って、通りがオレンジ色になるそうだ。
市ではいろいろなものも売っているらしい。焼きたてのパンやお菓子だったり、アクセサリーだったり、文具も売っていると聞いている。
そしてみんなで大きな祝祭の炎を囲んで踊るそうだ。君の言う収穫祭に似ていると思うから、君、きっと好きだと思うよ」
ロレシオの言葉に、リンファスを楽しませようとする意図以外の色が一切認められなくて、リンファスは大きく頷いた。
ロレシオといることが、何より楽しい。そう思えた。
「昔、村に旅の途中で立ち寄ってくれた旅の一座が、滞在していた間だけテントで市を開いていたわ。市はそれと似たような感じかしら」
「恐らくそうだろうね。どう? 行ってみない?」
今日のこの楽しい気持ちをもっと感じたくて、ロレシオの誘いに高揚した気分のまま頷いた。
「凄いわ、ロレシオ。いろんなことを知っているのね」
「君と違ってずっとインタルに居るからだよ。
僕も此処には初めて来たし、夜の市やカーニバルのことも話に聞いていただけだ。行ったことはないよ」
こんな楽しいショーを知っていながら今まで来なかったなんてもったいない。そう言ったら、何処にも出かけたくなかったんだ、とロレシオは言った。
「君みたいに心許せる友人も居なかったからね。何かを誰かと楽しむ、という感覚を持てなかったんだよ」
……そう言えばロレシオは、リンファスに花が咲いたときに動揺して驚いていた。理由を聞いてしまうと、彼も辛かったんだろうと思う。
そんなロレシオがプルネルやアキムたちと同じようにリンファスのことを『友人』と言ってくれるのが嬉しかった。
「そうだとすると……、私たちは似た者同士なのかしら? ずっと自信を持てずに……友達も作れずに過ごしてきたという……」
リンファスの言葉にロレシオは微笑んだ。
「そのようだ。君という人に会えてよかったと思うよ、リンファス」
ロレシオがリンファスに向かって手を差し出す。ぽかんとその手を見ていると、ふふっと息を吐き出すようにロレシオが苦笑した。
「握手だよ、リンファス。君という友人に会えた、感謝の気持ちを表したい。手を取ってはくれないか」
ロレシオの言葉にはっとして、リンファスはおずおずと手を握った。手のひらから伝わるロレシオのぬくもりとは別のぬくもりが体の中を満たす。
それはやはり左の腰に集まっていって、そこで小さな蕾が花弁の結びを緩やかに解いた。二重の……『友情』に似たかわいらしい花。それはプルネルに咲くアキムやルドヴィックの花の形に似ていた。
あの花を、プルネルは確か『親愛』の花だと言っていなかったか。
「ロレシオ……、私に沢山花をありがとう……。貴方が言っていた『自信』というものの証が、私にも伝染するようよ。貴方に認めてもらうことが出来て、嬉しいわ……」
「僕の方こそ、お礼が言いたいね。僕は君の前で一人の人として生きている気持ちになれる。こんな満ち足りた気持ちになるのは初めてだよ」
二人は視線を交わして微笑みあった。
『友達』がまた一人増えた夜、夜空には星が瞬いていた。
*
先日の舞踏会で右胸と左手首の『同情』の花が落ちて以降、『同情』の花が咲かなくなった。
リンファスが、花が減って元気をなくしていると、ケイトは良いことじゃないか、と慰めてくれた。
「どうして? 花乙女は花が沢山着いた方が良いんでしょう?」
リンファスの疑問に、ケイトは首を振って答えてくれた。
「花に込められた気持ちこそが大事なんだよ。
『同情』の裏側にある気持ちは『蔑み』だろ? それより『友情』の花の方がうんと良い。
対等な関係であることを、贈り主が認めたんだからね」
そうなんだ……。よく分からないけど、気持ちが変わって花の種類が変わるなら、その方が良いのか。
でもやはり、他の乙女たちみたいに花をいっぱい身に着けていたいけど……。
「リンファスも少しずつ友達が増えて、花が増える。その中から『愛情』の花を咲かせてくれる人を見つけるのさ。焦っちゃ駄目だよ」
「はい……」
でもやっぱり籠に沢山の花を寄進していく乙女たちは誇らしそうで羨ましい。
摘んでも摘んでも次々と咲いてくる花を身に着ける乙女たちは、ロレシオが言ったような『自信』に満ち溢れている。
『自分の能力を間違いなく認めると言うこと』。
ロレシオは簡単に言ったが、リンファスが自分に課してみるととても認識するのが難しい。
『認める』とはいったいどうやったら出来るのだろうか。ロレシオは『証』を友人に求めろと言ったけど、でも、どうやって?
リンファスが食堂の掃除を終えて部屋に戻ろうとした時に、リンファスの部屋に行く途中にあった部屋のドアが開いた。プルネルだった。
「リンファス。お部屋に遊びに行っても良いかしら?」
ひょっこりとドアから顔を出したプルネルにそう尋ねられて、リンファスは自分の部屋を思い出した。
実はケイトに習って刺繍を勉強していて、以前刺そうと思っていた菫の刺繍をやっと昨日完成させたばかりなのだ。その片付けが出来ていない。
「え、ええと、お部屋が片付いてないの。プルネルのお部屋にお邪魔しては駄目?」
「ええ、良いわ。私、この前からずっと貴女と話をしたかったの」
笑顔で部屋に迎え入れてくれるプルネルに続いて部屋に入る。
プルネルの部屋も白い家具とファブリックで統一された部屋だった。ひとつ違うのは、大きなドロワーズチェストがあることだった。ぱちぱちと瞬きをしてそれを見たリンファスに、プルネルはなあに? と聞いた。
「これは、ドレスを入れてるの?」
「そうよ。リンファスもこの前ドレスを仕立てたんだから、持っていると良いと思うわ。サラティアナなんて三つも持ってるわ」
「三つも!」
確かにサラティアナのドレスの仕立ての回数は多い。リンファスが取りに行っているから良く分かっている。
「サラティアナは公爵家のご自宅から持ってきたドレスも多いかったから、最初から用意させたそうよ。今でも仕立てているから古いものは捨ててしまっているんじゃないかしら」
そうなんだ……。確かに部屋一つに収まるとは思えない。
村の地主であったオファンズの所にも商店の店主が度々出入りしていたけれど、そういう感覚なのかな、とリンファスは見当をつけた。
「ねえ、リンファス。そんなことよりも!」
プルネルは少し声を弾ませてリンファスの手をきゅっと握った。
「腰まである貴女の髪の毛に隠れてしまって見えにくかったけど、貴女、花が新しく着いたのね!? 見せて欲しいわ!」
そう言ってプルネルは腰を折ってリンファスの体の左側を見た。其処には確かに小さな蒼い花が咲いており、プルネルはそれを見て目を輝かせた。
「素敵! 胸の花に続いてまた新しく花が着いているわ! 胸の花も変わってしまっていて、少し気になっていたの。この花の贈り主の方は、貴方のことをまた一つ知ったのね!」
自分の事じゃないのにこんなに喜んでくれるプルネルに、リンファスは心が溢れる思いだった。
この『友情』の気持ちをどうやって伝えたら良いのだろう。プルネルの手首の花は今までと同じように咲いているだけで、この感謝を伝えきれていない。
「プルネル……。そんなに私のことを気に掛けてくれてありがとう……。私、インタルに来て一番良かったことは、貴女に会えたことだわ……」
リンファスは感動してそう言うと、ちょっと待ってて、と言って慌ててプルネルの部屋を出た。
自分の部屋に戻り、テーブルの上のハンカチを持って取って返すと、プルネルの部屋を訪れる。
「わたしね……、貴女に色々助けられているの。最初に話し掛けてくれた時から、ずっとよ……。
私の花は貴女に咲いたけど、それから全然変わらなくて、ちょっと心配で……。
だから……、なんて言ったらいいのかしら、私も貴女が気に掛けてくれるくらい、貴女の事大好きって伝えたくて……」
そう言って、手に持っていた菫の刺繍を刺したハンカチをプルネルに差し出した。
「貴女に似合えばいいなって思って刺したの。良かったらもらってくれると嬉しいわ……」
「まあ、リンファス! こんな素敵な贈り物、私、初めてよ!」
小さな菫が描かれたハンカチを手に取るプルネルが、嘘偽りなく喜んでくれているようで、リンファスは少し安心した。
「以前、ルロワさんのお店に行った時に、素敵な菫の刺繍を見たの。あんな風には刺せなかったんだけど……」
あの素晴らしい刺繍を思い出すと、いま渡したハンカチの刺繍は拙いと思う。それでも、リンファスの気持ちを表すにはこれしかなかった。
刺繍の出来に自信が持てずにいたリンファスに、プルネルはあたたかい声で語り掛けてくれる。
「リンファス、違うのよ。私が嬉しいのは、貴女が私の為に使ってくれた気持ちと時間というこの刺繍なの。貴女の時間と心がこもったこの贈り物、大事にするわ」
リンファスの気持ちを全く間違えずに理解してくれるプルネルを大切だと思う。リンファスは満ち足りた気持ちでありがとう、と微笑んだ。