体の節々が痛くても、楽しい真夜中はプラマイプラ。私と遼太郎は手を繋いで東京を歩いていた。終電がなくとも、東京の一駅は余裕で歩けてしまう。
「一駅分の乗車時間の短かさと都会度は比例すんのよ」
「信憑性ありそう、参考にしちゃう」
花が咲いたようなやわらかい笑顔は、遼太郎の素晴らしいところだと思う。
一方私は、世間でいう大層可愛くない女であった。顔がたいへんよく整っていたので、有効活用しないともったいない。女にチョロそうなタイプの中年男性にはにゃんにゃん声で対応したし、女を舐めているタイプの更年期男性には常に食ってかかっていた。
同じ会社の人には、仕事ができるね〜美人だね〜となまぬるく褒められて、そうすることで明確な心の距離を取られている。
でもね、お金を稼ぐことは楽しいのよ。お金はないよりあったほうがいいし。だから、すすんでひとりを選んだつもりでいた。
それがぜーんぶ勘違いだったってこと、遼太郎に出会わなきゃ一生知ることはできなかったと思う。
道路脇に、ぽとりぽとりと落ちている缶ビール。前にも2人でコンコン蹴りながら歩いたことがある。しかし、遼太郎曰く、無闇に蹴ってはならないという。なんと三分の二の確率で中身が入ったままらしい。
「23時過ぎまで会社に残ってさ、駅まで歩く道すがらにポツンと置いてあったら、俺たちには蹴る以外の道残されてないじゃん?ビールシャワーを浴びちゃった俺の片足は泣いてました」
「やだ、かわいそう。ちゃんと慰めてあげた?」
「ボディクリームで丁寧に揉み込んであげた」
「慰め方がOLのそれなのよ」
「むくみ解消できてよかった〜」
今日はどうかな!?と早口で捲し立てて、遼太郎は軽く缶ビールを蹴り上げる。中身は空っぽで、思った以上に勢いよく舞い上がった。
私と遼太郎からは、よく舞ったねー、とうすい感想しか出てこなかった。どちらかというと、ビールシャワーを浴びたい気分だったから。
左手には牛丼屋のチェーン店が真夜中でも元気よく輝いている。ここは、遼太郎の会社と私の会社のちょうど中間地点にある。
「あ!俺たちの初絡みご利益スポット」
「ご利益あるんだ」
「あるでしょ間違いなく。俺、麗華といった店マップにピン立ててるから。全部にありがたみを感じてる」
手、汚れてるから取って、と、体をぐいぐい密着させてくる。私は言われるがまま、遼太郎のスーツジャケットのポケットからスマホを取り出した。
マップを開くと、なかなかの数のピンが立てられていた。集合体恐怖症の私はそっとポケットにしまう。遼太郎はまた笑っていた。
取引先会社との打ち合わせで部長の議事録係として参加したとき、目の前に座っていたのが遼太郎だった。
皮膚の薄そうな白い肌に、ゆるめのパーマのかかった黒髪、どちらかというと童顔であるその顔には、無害です、とはっきり描いてあった。
彼には猫をかぶることも、肉食獣になる必要もなさそう。そういう異性の方は燃費良く対応できるので、私的にははじめから好感度が高い。
打ち合わせの20分後、私は遅めの昼食を取るために牛丼屋を訪れた。券売機の前に立ってすぐ、さきほどの議事録係の彼がカレーを食べていることに気づく。
牛丼屋のカレーの美味しさを知っていたので、思わず話しかけてしまった。遼太郎は『さきほどはありがとうございました』と、社会人としての最低限の挨拶はかろうじてできたって感じ。顔はガチガチに緊張していた。
どうにかコミュニケーションを取らなければ。おそらく、その思考にたどり着いた遼太郎が、おそるおそる隣の椅子をひいて、やわらかい声で放った言葉。
『一緒に食べませんか?』
あの瞬間、私の中に恋がころんと落ちてきた。
ひとりで生きると豪語していた私が、ゲームのバグのようなタイミングで恋愛をスタートさせた、おかしな世界は現在に至る。
「牛丼屋の匂いが俺を裏切ったことないよ、いつだってグッドスメル」
「…食べる?しばらくは食べれないよね、たぶん」
「いや、さすがにやめとくし、無理でしょ。もうちょっと麗華と歩きたい」
遼太郎は笑い顔と泣き顔が似ている。今のはたぶん、笑っていた。ずっとこうして笑っていてくれたらいいのに。
スケボーに乗った男の子たちが私たちをスイスイ追い越していく。こちらを見向きもしない。夜風を感じることに忙しそうだ。
そういえば、付き合う前のデート帰りの行動パターンはわりと決まっていた。
なんとなくまだ帰りたくなくて、でも帰りたくないとはっきり言える関係ではなくて。
フラフラと歩いて運良く見つけたタピオカ屋で、飲みたくもないタピオカミルクティーのタピオカ抜きを吸いながら、縁石に座ってスケボーブラザーズを観察する。
しばらく観察を続けて得た私たちの見解。
服のダボ率が高ければ高いほど、ヒエラルキーは上説。
たぶん、これが最後の観察大会になるので、見解を確固たるものにしたい。
「…今日のブラザーズ、接戦じゃない?」
「ダボファッションのレベル高い。最終回にして幹部の集いか?」
「あー待って、あの赤いニット帽の子、ダボりすぎて全ケツになってる…!」
「はい優勝。リーダーは全ケツボーイ、君に決めた」
「ほぼ脱いでるのになんで脱げないんだろうね」
「真の見せパンを見た気がする」
多方面から怒られそうなおバカな会話でも、夜は常に平等でいてくれる。
史上最低な今日という日でも、私たちを飴の包み紙のようにまあるく包んでくれた。
道に沿って歩き続けると、駅のKIOSK が見えてくる。高架下にあるそのお店は、営業時間外だからかシャッターが閉められていた。いつもなら表情筋が死んでるおばちゃんが店番をしている。
でも、KIOSKおばちゃんの表情筋が、いざという時はよく動くことを私たちは知っていた。
2人で高架下を歩いた記憶が蘇る。
『麗華ちゃんは、きれいだよ』
『…そう?』
『会話はいつだってたのしいし、居心地もとてもいいし』
『ありがとう』
『あ、全然伝わってないじゃん。小慣れた対応はなしね。身構えときな?』
『え、なにか始める気?ここ、KIOSKの前だけど、』
『問題なし。それよりも電車の音が心配。麗華ちゃん、きこえる?』
『きこえるよ』
『オーケー』
『麗華ちゃ…麗華。俺はこの先、麗華なしでも生きていけると思う。でも、もっともっと2人でたくさんの街を散歩して、飲んで、食べて、喉が枯れるほど笑って、そうやって一緒に生きていけたら最高なのにって、そんな想像ばかりして…だから、俺と一緒にいてくれないかな。
つまり、俺は麗華のことが、』
私の我慢は限界を超えて、2歩、歩み寄ってキスをした。
遼太郎は心底びっくりしていたし、KIOSKおばちゃんからは満面の笑顔で拍手が送られた。ブラボー!ブという叫び声は電車の走行音で運よくかき消された。
調子に乗った私たちがもう一度触れるだけのキスをすると、KIOSKおばちゃんは白けた顔になる。2回目はお望みではなかったのね、うーん難しい。
初めて手を繋いだ。遼太郎は小さな子どもと手を繋ぐように触れてきた。やさしかった。彼の手が1番大好きになった。
遼太郎の家で、キスの続きを、触れ合う夜を過ごした。
私はどちらかという真剣交際には至らず、今夜限りの関係になることが多かった。
だから、男性に壊れもののように大事に扱われたことなんかなくて、しあわせで、今なら死んでもいいなというぶっ飛んだ思想に行き着いて、とにかく終始泣いてばかりいたけれど、遼太郎は親指でずっと涙拭ってくれていた。
武装で隠した無防備なところをひっぱりあげて、大切に抱きしめてくるような人に、私、どうして出会えたんだろう。私はおそらく、とんでもない幸福を知ってしまった。
網膜に焼き付いた思い出は今も輝きつづけているけど、記憶の中でしか存在しない。記憶を宇宙で例えるなら、過去におわったその星はすでに死んでいることになる。
何万光年離れてるんだろう。個人的には永遠に輝いてほしいので、100兆億光年くらい離れているとうれしい。ずっと、輝いて欲しい。
私たちは目的地までそう遠くないところまできていた。大通りの角にあるオフィスビルの横を通り過ぎていく。
ビルの1階にはコーヒーチェーン店がある。この辺で働いてる人間はWifiが激弱であることで有名なお店だ。
「…麗華から、別れようってメッセージがきたとき、そこにいた」
それは、初めて共有する記憶だった。
「うそ!私、このビルの3階のシェアオフィスから送った気がする」
「マジ?うわあ、ここにきてまさかの事実じゃん。面と向かって言われたら泣いてたな…」
「私も泣いてたと思う」
「今だから言えることだけど。直接言って欲しかった。絶対に泣いてたけどな。麗華の顔を見たら、俺はもっと早くに気づけたかもしれないし」
そうだね。遼太郎はそう言ってくれると思ってた。でもね、過去を何度繰り返しても私の選択は変わらない。
私の地獄をきれいなあなたに見せるわけにはいかなかったから。
✴︎
女性関係に問題があるらしい男が私の直属の上司として配属された。
この男は目上の人間の懐に滑り込む身技がお上手で、無駄な接待にさんざん連れ回されても、まあ今後の勉強になるし、と彼の後ろをおとなしくついて行くことに徹していた。
だから、油断した。
いつもお世話になっている取引先に、会社ではあまり見せない猫かぶりを上司の前でうっかり出してしまい、あの男は私にそういうレッテルを貼ったのだと思う。男に尻尾を振る女だというレッテルを。
あっという間に、転がり落ちていく。
いつ隠し撮りされたのかわからない私の下着写真を仕事中にメールで送りつけられた。会議室に来いの一言を添えて。
盗聴の証拠を抑えようとノコノコとひとりで赴けば、体を抑え込まれて、ジ・エンド。
ループ設定の解除方法が分からない、狂った毎日が始まった。
呼び出され、体を貪られ、拒否すれば私の案件は他人の手に渡った。私は突然、無能な人間になった。社会の歯車だ老害だと散々馬鹿にしながら女を武器にして稼いできた報いがこれ?
だったら、初めに教えておいてよ。知ってたら絶対にこんな生き方選ばなかったよ。
会社でのキャリアも、遼太郎に触れてもらえた体も汚されて、地獄を見た。生き地獄だった。すぐにただの肉塊になりたかった。終わりを何度も夢見てた。
それでも死を選ばなかったのは、遠くに輝く遼太郎の星だけが、私にとってたったひとつの生きる理由だったから。
歩く道の先に、淡い光に照らされた交番がある。あと数十メートル。あそこが、真夜中デートのゴール地点。
重力が倍になった気がした。足が重くて、前に進めない。進みたくない。
「…遼太郎、もっとゆっくり歩こうよ」
「これ以上?不審者って思われそう」
「じゃあ遠回りしよう。意味もなく道を逸れてぐるっと一周」
「あのなあ、麗華。見てよ?交番はすぐそこ。抵抗する意思はないって伝えないと。俺の手、血まみれなんだから」
私たちの手は繋がれている。手のひらには血が滲んでいる。
「…遼太郎は、わるくない。私が…ごめん、ほんとうに。わたしが、私のせいで、」
「謝んないで」
遼太郎は笑い顔と泣き顔が似ている。今のもたぶん、笑っていた。
「俺が、間違っただけ。間違って人を殺した。それだけ」
かすれた声は震えていた。
✴︎
つい先ほどのこと。
クズ上司と会社を出て2人でビジネスホテルに向かっていたとき、道路を挟んで向こうにいた遼太郎と目があって、頭から血の気が引いた。
こんな姿見られたくないと、見ないでと、この瞬間世界で1番強く願ったのに、遼太郎は驚いた顔で私をまっすぐに見つめていた。
私は男を振り切って路地裏に逃げ込んだけど、目の前には壁しかなくて。男に顔を殴られそのまま地面に押し倒される。
シャツのボタンが弾け飛び、タイツがビリビリと破け、パンツのチャックが下される。
今日も今日とて単調な地獄が始まる。ああでも、外は初めてだ。背中がアスファルトに擦られて痛いし、新鮮な気持ちになれるかも。いや、なる、なれ、ならないと死ぬ。
殺してやる。絶対、絶対に。この男を、私の手で。
『麗華!!!!!』
強い叫び声が聞こえたあと、一瞬記憶が飛んだ。遼太郎が泣きながら私を見下ろしている状況を見込めない。
体を起こして、目に飛び込んできた光景に息を呑む。男の頭と顔が潰れていて、アスファルトは血だらけだった。
そばに落ちてたコンクリートブロックも赤く染まっていて、遼太郎の手も赤色だった。
神様、どうして。
遼太郎が私の神さまになる必要がどこにあった?助けなんて求めてなかったよ?いつかこいつを殺してやろうと思っただけで、ただ、それだけで。
いつ間違った?なにを間違った?なぜ間違った?
最初から、ぜんぶ間違いだった?
無意味な間違い探しをおわらせたのは、私の手に触れた、遼太郎の血だらけの手。遼太郎のやさしすぎる手。
『麗華、きこえる?』
小さく頷くと、遼太郎はにこやかに笑った。泣いてるみたいに笑っていた。
『俺に、リベンジデートさせてくれない?俺が交番に自首するまででいいから、ね?そこまでなら我慢できる?』
救急車を呼んだあとに始まった、一駅分の真夜中デート。走馬灯のように流れるのは私たち2人のダイジェスト。
缶ビールシャワー、牛丼屋のカレー、スケボーブラザーズ、KIOSKのおばちゃん。
全部、思い出せる。あのときの感情がぜんぶ、道に焼き付いている。
交番まであと10メートルもない。間接照明が私たちを照らすスポットライトのようで、煩わしい。
遼太郎が手を離そうとしたから、慌てて阻止をする。手のひらの血はすでに乾いていて、パラパラと赤い結晶が落ちていく。
正面から抱きしめた。遼太郎はゆるく抱きしめ返してくれた。
「…麗華は、俺なしで生きていけるよ。人殺しの俺を気にかけちゃダメだからな。あの悪夢のことも俺のことも忘れて、生きて」
遼太郎の服を握りしめて、ぼろぼろと涙をこぼして嗚咽を吐くだけで、声にならない声ばかりで、私は何にも言葉を持たないけれど、わかってほしい。
私にとって遼太郎は神さまだよ。
でも、遼太郎に待ち受けているのは、現実の正しさにすり潰される日々だと思う。今までの人生を、その存在全てを否定され、間違いを正される。私がいないところで、遼太郎はすり減らされる。
遼太郎はいつか、私に出会ったことを後悔する。それでも、私だけは確信してる。
「…忘れない。遼太郎を選んだ私は、絶対に間違ってないから」
私の中で、私と遼太郎は生き続ける。道に焼き付いた記憶のまま、永遠に、きれいなまま。