「はぁ? 駄々こねてないでいつも通り『はい』って言いなさいよ! いつまで経っても結婚する気配の無いお姉様に結婚相手を用意してあげたのよ? 社交界で相手される事なんてないだろうからって。優しいあたしの心遣いに感謝してさっさと出て行ってよ! はっきり言ってお姉様の存在って邪魔なの、邪魔! あたしの代わりになるぐらいしか取り柄ないんだから、こういう時ぐらいあたしの役に立ちなさいよ!!」
本当に何言ってんのかしら、この子。
人が喋っているのを妨げてまで言う事がそれ? はぁ……一体どこで教育を間違えてしまったの? わたくしと同じ教育を受けてたはずなのに……。
はぁ……と、ついにため息を我慢出来ずにもらしてしまった。
すると妹の顔がキッと怖い魔女のように歪む。
「何よ!」
「……別に何も無いわ。本当にいいのね、わたくしがいなくなっても」
「いいに決まってるじゃない。口うるさいお姉様が社交界にもサロンにも行かずにずっと家にいるから、迷惑してたのよ。それに仮面伯爵と結婚とか絶対に嫌っ、醜悪な顔を隠してるって噂だし、辺境とか絶対に無理!」
舌の根も乾かぬうちにこの子は……なんて失礼なのかしら。代わりになるとかならないとか関係無しに、こんな子を偉大なる辺境伯様の元に嫁がせるわけにはいかないわ。
どこに出しても恥ずかしい花嫁だもの、この子は。
「……そう。分かったわ、あなたの代わりに辺境伯様の元に嫁ぐ。これでいいのね」
家門と領地の事が心残りだけど、仕方無い。辺境伯様からの申し出なんて名ばかりの貧乏家門からすれば願ったり叶ったりだし、何より財政的にも決して断れない。
こうなったら、辺境伯領からなんとか領地の支援が出来ないか、嫁いでから掛け合ってみよう。
「ふふん、最初からそう言えばいいのよ。本当にどこまでも面倒で邪魔なお姉様ね」
なんですか、そのしたり顔は。
一応、わたくしはあなたの望みを聞いてあげた立場にあたるのだけれど。感謝の一言…………があるはずもないか。この子が人に感謝する時は下心と打算がある時のみだもの。
満足げに自室に戻る妹の背を見送り、わたくしは頭を抱える間もなく、辺境伯様への返事と家令への仕事の引き継ぎに奔走する事になったのだった。
こうして。わたくし、社交界では悪女と呼ばれるアンジェリカ・スハロウズは──……この度、随分と手癖の悪いずる賢い妹に全ての悪行を擦り付けられてきた上に、「まだ遊んでいたいから」と結婚まで押し付けられてしまいました。
結婚相手は常に仮面をつけた辺境伯、マークス・キースラクシード様。その素顔を見た者は社交界にもおらず、陰では醜悪な顔をしているのでは。などと噂されているそう。
まあ、わたくしは社交界になどまったく出た事ないので詳しくは知りませんけど。
妹のモルニカに毎度あれこれ雑用を押し付けられるわ、出た所でどうせわたくしはモルニカを引き立てる為の踏み台になるのが決まっているようなもの。
そもそもわたくし、表舞台に立つより裏方仕事の方が性に合っているのですわ。
家門としては歴史を持ち、古くより侯爵位をいただく我が家ですけれど、父と妹の散財癖の酷さのせいで何故かとても貧乏です。
しかも厚顔無恥な妹はその散財や起こした問題を全てわたくしがした事にする始末。父も父で、いつも母を下げて自分を上げるような真似をしていたと。
典型的なクソ野郎ですね。おっと、口が滑ってしまいましたわ。
そんな使い物にならない父の代わりに母が領地の運営をして、わたくしも母の手伝いをしていたので……そもそも社交界に出る時間などわたくしには無かったのです。
特に興味もありませんでしたし。
しかしそんな母が一年半程前に過労で急逝し、それからは私が家門を切り盛りしていた。しかしそれももうおしまいのようですわ。
だって妹がわたくしに出て行けと言ったんですものー。これは仕方無いですわー。
そんなこんなでわたくしは結婚式当日を迎えました。ちなみにこれまでの二ヶ月間で一度たりとも辺境伯様とはお会いしておらず、度々送られてくる手紙でやり取りをするだけでした。
手紙で見た感じでは辺境伯様は淡白な印象を受けましたけれど、同時に義理堅い印象も受けた。
モルニカと比べて可愛くも愛嬌も無いわたくしですけれど……きっと役に立つ所をお見せすれば、追い出したりはしない筈。
長年領地を運営してきた実力を発揮するのみ! です!
「良かったわね、お姉様。お姉様みたいな人でも貰ってくれるいい人で! ……お姉様が着るには相応しくないドレスだけど」
ぶすっとした顔で、わたくしの着ているドレスが気に入らないと文句をこぼす。
それに関してはわたくしも同意見。何やら辺境伯様が用意した物らしいのだけど、あまりにも上質すぎて。こんなドレス、一生に一度着られたら幸福レベルの代物よ。
何故わたくしがこんないいドレスを着ているのかと不安になる。それなのに、周りの人達はおべっかばかりでわたくしの事を褒めるだけ。まるでわたくしが人並みの人間になったかのような──そんな錯覚さえ覚えてしまう。
今ばかりは、この小憎たらしいモルニカの口さえもありがたく感じる。現実を、わたくしという人間を思い出させる。
そこで父がわたくしの入場の為に控え室まで迎えに来たので、特に腕を組んだりする事はなく、ただ横を歩いて式場に向かう。
そこで父はおずおずと繰り出した。
「なあ、アンジェリカ。その……先方からの支度金等はいつになったらこちらに入るんだ? この結婚で私達に金が入るのはいつになるんだろうか」
「……さあ。そのうち入るのではないでしょうか」
「そ、そうか。辺境伯ともあろう男が支度金を渋る訳がないからな、はは」
何故か安心しきった父。お金大好き……というか散財が大好きな父は、大金がいつ我が元に来るのかとたいそう気になっているらしい。
でも残念ながら我が家には一切支度金などの諸経費は入りませんわ、父よ。
そもそもこの結婚は先方からの申し出であり、先方たっての希望でこの結婚と結婚式に関する費用は辺境伯様が全額負担。
その上でわたくしの方から『であれば、支度金等の諸経費は全てわたくしの領地に“寄付”してください』と失礼ながらもお願い申し上げ、何故か快諾していただけましたので。
この結婚において、わたくし共の家に一切の利益が出ぬよう……そして領民の暮らしが良くなるよう、家を離れるわたくしに出来る最後の仕事をしたつもりです。
まあ、実際は……ほぼ身代わりのような形でわたくしを無理やり嫁がせ家から追い出したあの妹や、普段から何を言っても聞かない散財癖持ちクソ親父に、わたくしの結婚でいただいた金を無駄遣いされる事が非常〜〜〜に癪だっただけですが。
なので大金など全く入ってきませんわよ。貴方が、長年わたくしと母に当主業や領地の運営を押し付けてきた代償と思いなさい。
仕事を押し付けるために、わたくしに当主である事を証明する特別な印璽を持たせていた事が父の敗因ですわ。あれが無ければ、こんな風に勝手に話を進める事など不可能だったのに。
本当…………最初から最後まで馬鹿な人。母もどうしてこんな男に捕まってしまったのかしら。
「新婦、アンジェリカ・スハロウズ入場!」
式場の前に辿り着くとそんな言葉と共に扉が開く。
嫌々父のエスコートを受けて、白薔薇の花弁が舞う赤いカーペットの上を歩く。その先には神父と思しき方と、今日初めて会うわたくしの旦那様が立っていた。
初めて会ったのだから、当然実物を見るのも初めてだけれど……本当に仮面をつけているわ。こんな場でも仮面をつけているわ。
そんな物珍しさと好奇心からじっと辺境伯様を見つめていると、鬱陶しがられたのかふいっとそっぽを向かれてしまった。
そして始まる結婚式。長々と神父が文言を口にしているのを退屈に思いながら聞いていると、ようやく終わりが見えて来て。
「新郎、新婦共に相手に生涯の愛を捧げると誓いますか」
神父の言葉に、わたくしは「誓います」と短く答えた。少し間を置いてから辺境伯様も「……誓います」と一言。その一言だけでも辺境伯様の声がたいへんよろしい……というか、蠱惑的な声だと分かった。
素顔が見えずとも、辺境伯様はそのお声一つで、妹によって招待された見ず知らずの令嬢達を虜にしていました。これが世にいうイケボとやらなのでしょうか。
「では、新郎新婦は誓いのキスを」
あーはいキスですね。分かりましたしましょう──……って、出来なくないですか? わたくしの旦那様、仮面をつけてますのよ? あれっ、これこのまま誓いのキスが出来ないまま終わるのではなくて……??
そんな疑問をわたくし含め誰もが抱いたようで、会場は少しざわついた。
「…………あぁ、もう、これも必要無いか」
わたくしや神父の不安や戸惑いを他所に、辺境伯様はボソリと呟き、その仮面に手をかけて──、
「待たせてごめんね、アンジェリカ。誓いのキスをしようか」
一目見て虜になってしまいそうな美しい顔を晒し、輝くような微笑みを浮かべた。
……え? あまり噂には詳しくないのだけれど、素顔は醜悪だなどと世間噂されていた程の方で……おかしいわ、わたくしの目にはどうにもこの御方が醜悪だなんて見えませんわ。
この顔で醜悪だと言うのであれば、世界中の人間が醜悪どころの話では済みませんわよ?
あまりの事に唖然としていると、会場中に硝子を引き裂いたような黄色い歓声が溢れる。しかし、辺境伯様はそんなの全く気にとめず、わたくしの頬に触れて、
「俺の愛しいアンジェリカ。ずっと、君とこうする事だけを考えていたんだ」
「んっ……」
何やら気になる事を言って唇を重ねて来た。
唇を越しに伝わる辺境伯様の熱。世間一般的に聞く結婚式ではありえないような長い時間、じっくりと味わうように辺境伯様はわたくしの唇を奪い続けた。
一生忘れられないような初めてのキスとなった事は、言うまでもない。
「君に永遠の愛を誓うよ、アンジェリカ。君は俺の全てだ。俺は君のために生きるから、君も俺のために生きて欲しい」
「え、は、はい……分かりました……?」
思わずドキッとしてしまうような、艶やかな微笑み。溶かされてしまいそうな熱い視線に顔を熱くしながらも、わたくしは何とか返事をした。
その後の事はあまり覚えていない。
あれよあれよという間に式は終わり、気がつけばわたくしは式場のある一室で辺境伯様と二人きりになっていた。
そこまではいいのです。だけど、ここからがよくないのです。
「ふふ、アンジェリカ……こうやって君に触れ君を感じられる事が本当に幸福で仕方無いよ。その花嫁衣装だって本当によく似合っているよ、君を想いながら俺がデザインしたから当然なんだけどね。ああでも、他の誰にも見せたくなかったな、こんなにも美しく可憐な君の姿は……」
誰、この人は!?
わたくしが事務的な手紙のやり取りをしていた方は誰だったんですの?! 少なくともあの文面からはこんな感じの人だとは分からなかったのだけど!!
それにっ、貴方はわたくしではなく妹に一目惚れして結婚を申し出てきたのではなくて?! ……いや、そうだとしたらわたくしが結婚しますと返事をした時点でこの話が白紙になっていてもおかしくない。
本当に、どうしてこの御方はわたくしと結婚したの…………??
「結婚初夜は君の元で、思っていたけれど……駄目だな、いざ結婚すると思っていたよりもずっと独り占めしたくなる。今すぐにでも領地に連れて行って一晩と言わずにずっと君を沢山愛したい」
一晩と言わずに!?
わ、わたくしは妹と違って男性との経験など微塵も無いのであまり良くは知りませんが、それって話に聞く絶倫というものなのではなくて?! わたくし、見ての通りまだ処女ですのよ、貴方のような女性経験が豊富そうな整った顔の男性の相手など務まりませんわ!!
「……ん? どうしたんだい、そんな風に愛らしい瞳で俺を見上げて……相変わらず君は可愛いね。ふふ、君が他の誰かのものになってなくて本当に良かったよ。まあ、そんな事は誰にもさせなかったけどね」
もしかして、わたくしじゃない誰かが実はいたりします!?
さっきから一人で延々と喋り続けてて怖いですわこの御方! 不定期に何やら恐ろしい事を口走っていらっしゃるし!!
わたくしこれからこの御方と夫婦としてやっていけるのかしら……? 相手方どのような方でも愛する努力はすると決めていたものの、何だかちょっと不安になってきましたわ。
そもそも、わたくしがいつ愛らしい瞳で貴方を見上げたのですか……どちらかと言えば恐怖ですのに。どうして貴方はそんな恍惚とした表情をしているのですか本当に怖い!!
「ああそうだ。ねぇ、アンジュと呼んでもいいかい? ずっとね、色々と君の愛称を考えていたのだけど……どれも良くて選び難かったんだ。この結婚が決まってからは毎日のように君の名前を呼ぶ練習をしていたんだけど、アンジェリカとアンジュがどちらもしっくり来たものだから。君が許すならば、二人きりの時などはアンジュと呼ばせて欲しいんだ」
毎日わたくしの名前を呼ぶ練習をしていた……!?
一体全体どういう事ですの、何がしたいんですの?! わたくしなんて所詮肉親に厄介払いされた面倒な女なのよ、それも世間では悪女だと揶揄されている!
それなのにどうしてこの御方はこんな風に──、まるでわたくしを愛しているかのようにペラペラと愛を囁くの?!
一度も会った事無いのに……結婚式当日まで会わなかったのに! 一体何が目的なの…………っ、わたくしに差し出せるものなんてもう何もありませんわよ!!
「……」
「いいんだね? ありがとう、アンジュ。アンジュ、アンジュ…………ふふ、一言一言を噛み締めているけれど、本当に今とても幸せだな」
先程の答えにと恐る恐る頷いてみると、辺境伯様はこれまた嬉しそうに笑った。何と眩しい笑みなのか。
本当にどうして、こんなにも整った顔の御方が仮面を被り、その素顔が醜悪だなんて噂が流れたの……? その噂を流した人は見る目が無いわ。そもそも目があるのかも怪しいわ。
辺境伯様の異常な態度に怯えながらも素朴な疑問が頭に湧く中、物凄い勢いで部屋の扉が開け放たれた。
そこには肩で息をする妹がいて、妹はわたくしをキッと睨んでから辺境伯様にしなだれかかる。
「伯爵様! この結婚、本当はあたしがお受けする筈だったんです……っ、それなのにお姉様が誰にも相手にされないからってあたしから強引にこの結婚を奪って、それで伯爵様と結婚したんです!」
悲劇のヒロインのように涙を流し、妹は辺境伯様に訴えかける。
もしかして、この妹、辺境伯様の噂が嘘だったと分かって手の平を返したわね? この結婚話が来た時なんて、絶対嫌! と駄々を捏ねた挙句わたくしに結婚を押し付けてきたのに?
本当にどこで育て方を間違えたのかしら……花嫁としてだけでなく、人としても恥ずかしいわ、この子。
「あたしは伯爵様を慕っておりました! それを知った上で、お姉様があたしの邪魔をしたんです! お姉様は酷い事ばかりをする悪女で、社交界でも凄く評判が悪くて……そんなお姉様と結婚したら、伯爵様のイメージも悪くなりますわ!!」
まあ、とんでもない事を言い始めましたわね。そんな事、わたくし全く知らなかったわ。
妹によるあたし可哀想でしょう劇場の緊急公演が始まったので、観客気分でそれを眺めていると、いつの間にか辺境伯様の顔が酷く冷めきっていて。
「……──醜い豚が、いつまで俺に触っているつもりだ? アンジェリカの妹だからと仕方無く話を聞いてやれば、平然と嘘を口にしてアンジェリカを貶しやがって」
先程までの胸焼けするような無駄に甘い声とは大違いの、低く背筋が凍るような冷たい声音。
その無表情も相まって、恐怖は何倍にも増してしまった。
「え、え……? はく、しゃくさま……?」
「大体この俺が何も知らないとでも思ったのか? お前が自分の悪行を全てアンジェリカに擦り付けていた事ぐらい全部把握してるに決まってるだろう。お前が、見目が良ければ誰彼構わず股を開くような下品で卑しい女だって事も勿論把握している」
「そ、そんな……っ」
辺境伯様の怒涛の口撃に、妹は涙を流して膝から崩れ落ち、絶望から体を震えさせる。
「俺は最初からアンジェリカと結婚するつもりだった。アンジェリカ以外の女に興味は無いし、お前のような下品で卑しい豚など存在すらも汚らわしい」
まるでゴミを見るかのような目で妹を見下して、辺境伯様は次々に背筋が凍るような言葉を吐く。
先程までわたくしに向けられていた熱い視線は何だったのか。先程までの姿が全て夢幻だったんじゃないかと思い込んでしまう程の、あまりの変貌。
「スカル、さっさとこの雌豚を返品しろ。俺とアンジェリカの邪魔をした畜生だ、丁重に扱ってやれ。今後二度と社交界でアンジェリカを貶められないぐらい……徹底的にな」
「はっ!」
どこからともなく現れた全身黒衣の男性が、妹の首根っこを掴んで部屋から消える。
その際、妹の「いやぁあああああああああぁぁぁっ! あたしが、あたしがイケメンと結婚するのぉおおおおおおおおおっ!!」と言った下心全開の醜い断末魔が徐々に消えゆく。
貴女がまだ遊んでいたいが為に、噂に翻弄されてわたくしに押し付けた結婚なのに。どうしてそんな風に嘆くのかしら。自業自得なのに……。
まさかこんな所で身内の恥を晒す事になるなんて、と恥ずかしい気持ちになっているわたくしの頭からは、何故か、隣に立つ御方の事がすっぽりと抜けていて。
「……──さて。邪魔者も消えた事だし、今度こそ二人の愛を深めようか」
「あっ……」
ひゅっと喉笛が鳴る。もう多重人格なのではと疑うしかない変貌っぷりで、辺境伯様はまたもやわたくしに熱い視線を向けてきた。
こうして。わたくし、アンジェリカ・スハロウズはこの度、妹の身代わりで結婚した相手であるマークス・キースラクシード辺境伯様に囚われて──何故か、訳も分からず、溺愛されてしまうようです…………。