「あたし、まだ誰かだけの花になるつもりはないの。だってそんなの社交界の損失でしょう? だから代わりにお姉様が嫁いでよ──仮面伯爵に」

 ……何言ってんのかしら、この子。
 多くの男に股を開いたから頭も緩くなってしまったの?
 そもそもこれはあくまでもうちの家門に来た申し出であって、あなたへの求婚ではないのに。何を当たり前のように偉そうな事を言っているの。
 ずる賢い頭は持ってるのに、どうしてこうも……残念な……。
 でもそうね、この結婚話はわたくし共にとってはまたとない申し出。いやらしい話だけれど、常に資金不足に悩まされる我が領地としましては、由緒正しき家門との縁談は喉から手が出る程のもの。
 しかし分からないわ。どうしてこんなにも由緒正しき家門──あの辺境伯家のご当主が、うちのような貧乏な家門に……? わたくしがどれだけ頑張ってもうちの領地の財政は一向に回復の兆しを見せないのよね。
 だからわたくし共姉妹どちらかへの結婚の申し出なんて、はっきり言って無意味にも等しい事ですのに。

 わたくしはこの通り女らしさの欠片も無い上に、世間では妹のせいで『悪女』だなんて呼ばれている。社交界には両手で数えられる程しか出た事がない。
 妹は……まあ、贔屓目なしでも見た目は可愛いし、自分の悪行をわたくしに擦り付けているから社交界でも人気だわ。
 きっと、辺境伯様は妹の見目に騙されて結婚を申し出てきたのだろう。それなのに妹はこんなので……本当に申し訳無いですわ。

「……わたくしは結婚するわけにはいかないわ。まだまだ安定していない事業が多いの。今わたくしがいなくなれば、間違いなく領地の経営はかたむ──」

 いつもならこの子の相手をするだけ時間の無駄なので、適当に流すところだけど……今日ばかりはそうはいかない。
 無能な父と妹のせいで母が急逝し、今や家門と領地を守るためにはわたくしが頑張らなければならないのだから。ただでさえギリギリでなんとか持ち堪えてる我が領地の運営からわたくしが離れれば確実に我が領地と家門は破綻する。
 何故それをこの子は分かってくれないのかしら?
「はぁ? 駄々こねてないでいつも通り『はい』って言いなさいよ! いつまで経っても結婚する気配の無いお姉様に結婚相手を用意してあげたのよ? 社交界で相手される事なんてないだろうからって。優しいあたしの心遣いに感謝してさっさと出て行ってよ! はっきり言ってお姉様の存在って邪魔なの、邪魔! あたしの代わりになるぐらいしか取り柄ないんだから、こういう時ぐらいあたしの役に立ちなさいよ!!」

 本当に何言ってんのかしら、この子。
 人が喋っているのを妨げてまで言う事がそれ? はぁ……一体どこで教育を間違えてしまったの? わたくしと同じ教育を受けてたはずなのに……。
 はぁ……と、ついにため息を我慢出来ずにもらしてしまった。
 すると妹の顔がキッと怖い魔女のように歪む。

「何よ!」
「……別に何も無いわ。本当にいいのね、わたくしがいなくなっても」
「いいに決まってるじゃない。口うるさいお姉様が社交界にもサロンにも行かずにずっと家にいるから、迷惑してたのよ。それに仮面伯爵と結婚とか絶対に嫌っ、醜悪な顔を隠してるって噂だし、辺境とか絶対に無理!」

 舌の根も乾かぬうちにこの子は……なんて失礼なのかしら。代わりになるとかならないとか関係無しに、こんな子を偉大なる辺境伯様の元に嫁がせるわけにはいかないわ。
 どこに出しても恥ずかしい花嫁だもの、この子は。

「……そう。分かったわ、あなたの代わりに辺境伯様の元に嫁ぐ。これでいいのね」

 家門と領地の事が心残りだけど、仕方無い。辺境伯様からの申し出なんて名ばかりの貧乏家門からすれば願ったり叶ったりだし、何より財政的にも決して断れない。
 こうなったら、辺境伯領からなんとか領地の支援が出来ないか、嫁いでから掛け合ってみよう。

「ふふん、最初からそう言えばいいのよ。本当にどこまでも面倒で邪魔なお姉様ね」

 なんですか、そのしたり顔は。
 一応、わたくしはあなたの望みを聞いてあげた立場にあたるのだけれど。感謝の一言…………があるはずもないか。この子が人に感謝する時は下心と打算がある時のみだもの。
 満足げに自室に戻る妹の背を見送り、わたくしは頭を抱える間もなく、辺境伯様への返事と家令への仕事の引き継ぎに奔走する事になったのだった。

 こうして。わたくし、社交界では悪女と呼ばれるアンジェリカ・スハロウズは──……この度、随分と手癖の悪いずる賢い妹に全ての悪行を擦り付けられてきた上に、「まだ遊んでいたいから」と結婚まで押し付けられてしまいました。
 結婚相手は常に仮面をつけた辺境伯、マークス・キースラクシード様。その素顔を見た者は社交界にもおらず、陰では醜悪な顔をしているのでは。などと噂されているそう。
 まあ、わたくしは社交界になどまったく出た事ないので詳しくは知りませんけど。
 妹のモルニカに毎度あれこれ雑用を押し付けられるわ、出た所でどうせわたくしはモルニカを引き立てる為の踏み台になるのが決まっているようなもの。
 そもそもわたくし、表舞台に立つより裏方仕事の方が性に合っているのですわ。
 家門としては歴史を持ち、古くより侯爵位をいただく我が家ですけれど、父と妹の散財癖の酷さのせいで何故かとても貧乏です。
 しかも厚顔無恥な妹はその散財や起こした問題を全てわたくしがした事にする始末。父も父で、いつも母を下げて自分を上げるような真似をしていたと。

 典型的なクソ野郎ですね。おっと、口が滑ってしまいましたわ。

 そんな使い物にならない父の代わりに母が領地の運営をして、わたくしも母の手伝いをしていたので……そもそも社交界に出る時間などわたくしには無かったのです。
 特に興味もありませんでしたし。
 しかしそんな母が一年半程前に過労で急逝し、それからは私が家門を切り盛りしていた。しかしそれももうおしまいのようですわ。

 だって妹がわたくしに出て行けと言ったんですものー。これは仕方無いですわー。
 そんなこんなでわたくしは結婚式当日を迎えました。ちなみにこれまでの二ヶ月間で一度たりとも辺境伯様とはお会いしておらず、度々送られてくる手紙でやり取りをするだけでした。
 手紙で見た感じでは辺境伯様は淡白な印象を受けましたけれど、同時に義理堅い印象も受けた。
 モルニカと比べて可愛くも愛嬌も無いわたくしですけれど……きっと役に立つ所をお見せすれば、追い出したりはしない筈。
 長年領地を運営してきた実力を発揮するのみ! です!
「良かったわね、お姉様。お姉様みたいな人でも貰ってくれるいい人で! ……お姉様が着るには相応しくないドレスだけど」

 ぶすっとした顔で、わたくしの着ているドレスが気に入らないと文句をこぼす。
 それに関してはわたくしも同意見。何やら辺境伯様が用意した物らしいのだけど、あまりにも上質すぎて。こんなドレス、一生に一度着られたら幸福レベルの代物よ。
 何故わたくしがこんないいドレスを着ているのかと不安になる。それなのに、周りの人達はおべっかばかりでわたくしの事を褒めるだけ。まるでわたくしが人並みの人間になったかのような──そんな錯覚さえ覚えてしまう。
 今ばかりは、この小憎たらしいモルニカの口さえもありがたく感じる。現実を、わたくしという人間を思い出させる。
 そこで父がわたくしの入場の為に控え室まで迎えに来たので、特に腕を組んだりする事はなく、ただ横を歩いて式場に向かう。
 そこで父はおずおずと繰り出した。

「なあ、アンジェリカ。その……先方からの支度金等はいつになったらこちらに入るんだ? この結婚で私達に金が入るのはいつになるんだろうか」
「……さあ。そのうち入るのではないでしょうか」
「そ、そうか。辺境伯ともあろう男が支度金を渋る訳がないからな、はは」

 何故か安心しきった父。お金大好き……というか散財が大好きな父は、大金がいつ我が元に来るのかとたいそう気になっているらしい。
 でも残念ながら我が家には一切支度金などの諸経費は入りませんわ、父よ。
 そもそもこの結婚は先方からの申し出であり、先方たっての希望でこの結婚と結婚式に関する費用は辺境伯様が全額負担。
 その上でわたくしの方から『であれば、支度金等の諸経費は全てわたくしの領地に“寄付”してください』と失礼ながらもお願い申し上げ、何故か快諾していただけましたので。
 この結婚において、わたくし共の家に一切の利益が出ぬよう……そして領民の暮らしが良くなるよう、家を離れるわたくしに出来る最後の仕事をしたつもりです。

 まあ、実際は……ほぼ身代わりのような形でわたくしを無理やり嫁がせ家から追い出したあの妹や、普段から何を言っても聞かない散財癖持ちクソ親父に、わたくしの結婚でいただいた金を無駄遣いされる事が非常〜〜〜に癪だっただけですが。
 なので大金など全く入ってきませんわよ。貴方が、長年わたくしと母に当主業や領地の運営を押し付けてきた代償と思いなさい。
 仕事を押し付けるために、わたくしに当主である事を証明する特別な印璽を持たせていた事が父の敗因ですわ。あれが無ければ、こんな風に勝手に話を進める事など不可能だったのに。
 本当…………最初から最後まで馬鹿な人。母もどうしてこんな男に捕まってしまったのかしら。
「新婦、アンジェリカ・スハロウズ入場!」

 式場の前に辿り着くとそんな言葉と共に扉が開く。
 嫌々父のエスコートを受けて、白薔薇の花弁が舞う赤いカーペットの上を歩く。その先には神父と思しき方と、今日初めて会うわたくしの旦那様が立っていた。
 初めて会ったのだから、当然実物を見るのも初めてだけれど……本当に仮面をつけているわ。こんな場でも仮面をつけているわ。
 そんな物珍しさと好奇心からじっと辺境伯様を見つめていると、鬱陶しがられたのかふいっとそっぽを向かれてしまった。
 そして始まる結婚式。長々と神父が文言を口にしているのを退屈に思いながら聞いていると、ようやく終わりが見えて来て。

「新郎、新婦共に相手に生涯の愛を捧げると誓いますか」

 神父の言葉に、わたくしは「誓います」と短く答えた。少し間を置いてから辺境伯様も「……誓います」と一言。その一言だけでも辺境伯様の声がたいへんよろしい……というか、蠱惑的な声だと分かった。
 素顔が見えずとも、辺境伯様はそのお声一つで、妹によって招待された見ず知らずの令嬢達を虜にしていました。これが世にいうイケボとやらなのでしょうか。
「では、新郎新婦は誓いのキスを」

 あーはいキスですね。分かりましたしましょう──……って、出来なくないですか? わたくしの旦那様、仮面をつけてますのよ? あれっ、これこのまま誓いのキスが出来ないまま終わるのではなくて……??
 そんな疑問をわたくし含め誰もが抱いたようで、会場は少しざわついた。

「…………あぁ、もう、これも必要無いか」

 わたくしや神父の不安や戸惑いを他所に、辺境伯様はボソリと呟き、その仮面に手をかけて──、

「待たせてごめんね、アンジェリカ。誓いのキスをしようか」

 一目見て虜になってしまいそうな美しい顔を晒し、輝くような微笑みを浮かべた。
 ……え? あまり噂には詳しくないのだけれど、素顔は醜悪だなどと世間噂されていた程の方で……おかしいわ、わたくしの目にはどうにもこの御方が醜悪だなんて見えませんわ。
 この顔で醜悪だと言うのであれば、世界中の人間が醜悪どころの話では済みませんわよ?
 あまりの事に唖然としていると、会場中に硝子を引き裂いたような黄色い歓声が溢れる。しかし、辺境伯様はそんなの全く気にとめず、わたくしの頬に触れて、

「俺の愛しいアンジェリカ。ずっと、君とこうする事だけを考えていたんだ」
「んっ……」

 何やら気になる事を言って唇を重ねて来た。
 唇を越しに伝わる辺境伯様の熱。世間一般的に聞く結婚式ではありえないような長い時間、じっくりと味わうように辺境伯様はわたくしの唇を奪い続けた。
 一生忘れられないような初めてのキスとなった事は、言うまでもない。

「君に永遠の愛を誓うよ、アンジェリカ。君は俺の全てだ。俺は君のために生きるから、君も俺のために生きて欲しい」
「え、は、はい……分かりました……?」

 思わずドキッとしてしまうような、艶やかな微笑み。溶かされてしまいそうな熱い視線に顔を熱くしながらも、わたくしは何とか返事をした。
 その後の事はあまり覚えていない。
 あれよあれよという間に式は終わり、気がつけばわたくしは式場のある一室で辺境伯様と二人きりになっていた。
 そこまではいいのです。だけど、ここからがよくないのです。