「ええ……。なかなか現状は変わらないです」
「そう……」
淋しげな舞子ちゃんの声。
現状が変わっていないということは、よくもなっていないが悪化もしていないということだろう。そして、ドナーも……。
「今度、真紅ちゃんとお見舞いに行くわね」
「是非そうしてください。海雨ちゃん喜びますよ」
にっこり笑顔のお隣さんに、おやすみと挨拶をしてまた独りの家に帰るために歩いた。
――本当は一緒に暮らしたい。
大すきな、宝物みたいな娘だもの……。
そんな真紅ちゃんが、泣くほど逢いたがっている人がいるのね……。
「それを奪っていくには、相応の輩(やから)でないと納得いかないわね!」
「……ママってすごいなあ」
それから更に半紙を増やしてみた。
五枚ほど書いたところで、何だか満足――した。
心が満たされた、と言うか……安心したのだと思う。
「……もう、大丈夫」
言葉一つで信じることが、出来る。
……私は薄々考えていたことがある。ママの恋人とやらのことだ。
「本当に、いるのかな……?」
ママが私を独りにしている理由。
私がその人と逢ったことは一度もない。実の父親がどうしていないかは知っている。あれはあれでなかなか複雑だから、私に言えたこともない。それが原因で、ママは私ともども桜木の家から絶縁されたらしい。
しかしママに恋人がいないとなると、どうして私を独りにしているかがわからない。
叶うなら、一緒に暮らしたい。
「………」
考えてもわからないことなので、一旦放棄することにした。それより今は、黎のこととか。海雨のこととか。
明日も海雨のところへ行こう。海雨とは保育園からの友達で、一番私をわかろうとしてくれる子だ。
「――白桜(はくおう)様」
柔らかい呼びかけに、私室の縁側で夜天を見上げていた俺は、つと振り返った。
「天音(あまね)」
着物を重ねて着、しかし動きやすいように細工されている意匠(いしょう)の、銀色の髪の女性は軽く面を伏せた。
「黒藤(くろと)様がいらっしゃっております。至急、白桜様に取り次ぐようにと」
「黒(くろ)か。すぐ行く」
黒藤――幼馴染である影小路(かげのこうじ)家の若の、月御門(つきみかど)へのその来訪の理由は薄ら気づいていた。
「白(はく)。母上が目覚める」
門まで出迎えた俺に、長身の黒い幼馴染は端的に告げた。
「紅緒(くれお)様が眠られてから十六年か……。所在は摑んでいるんだろう?」
「紅亜様の居所は常に小路に把握されている。娘を護るため、紅亜様は今、共には暮らしていないようだが……。その日、娘に逢って来ようと思う」
「それは小路(こうじ)の問題だから、御門(みかど)の俺が口を出すのも難だが……真紅嬢だったか? 出自は知らないんだろう?」
「父君との一件で、桜木から絶縁されているからな。紅亜様は直系長姫(ちょっけいちょうき)でありながら廃嫡(はいちゃく)された身だ。知らされてもいないし、陰陽師や退鬼師としての修業なんざもやってねえみたいだ」
黒はぼやくように頭を掻いた。一房だけ銀が混じった黒い前髪。
桜木真紅。
陰陽師の大家の直系長姫である影小路紅亜様の一人娘。
紅亜様は退鬼師である桜木家に養子に出、その先で婚姻。
娘の真紅は退鬼師・桜木の血も引いている、血筋だけで言えば、黒よりも生粋の払魔師(ふつまし)だ。
だが、この世界、生まれ持った才だけではやっていけない。俺も黒も、共に月御門と影小路という名家の跡継ぎとして、物心がつく前から修行を重ねている。
現在俺は、十六歳で月御門――御門流の当主であり、一つ年上の黒は、影小路――小路流の正統後継者だ。
先代当主である黒の母――紅亜様の双児の妹の紅緒様は、十六年前、一つの大きな術をかけることと引き換えに、眠りについた。
永劫(えいごう)の眠りではなく、その間、持ちうる力の総てで、ある一人の少女を守護するためのもの。
それが、姉の娘である真紅だった。
紅亜様に陰陽師としての力はない。だが、その娘である真紅は――影小路を創った、始祖の一人の転生だった。
小路はなんとしても、真紅の命を護らなければならない。
始祖の転生は強大な力を持つ代わりに、その血は至高。妖異が得てしまえば、また大きな力と生命力を与えてしまう。
――ゆえに、小路の始祖の転生は妖異に狙われやすく、ある程度成長するまで存在を秘されているのが常だった。
「だが、今回は少しわけが違う」
黒は普段のおちゃらけた様子はどこへやら、難しい顔で続ける。
「真紅嬢は、純粋な小路の者ではない……」
俺が補うと、黒はそうだと肯いた。
「退鬼師桜木の血が入っている」
退鬼師である桜木は、今は廃(すた)れているが、歴代には強力な術者がいた。小路や御門の系譜ではないため、陰陽師とは質を異にする。
「紅亜様を桜木に出したのが問題だったんじゃねえかな……」
黒は夜天を見上げてぼやく。
紅亜様と紅緒様は、本家の双児だった。
小路は、本家筋の人間の中でも、兄弟が多くあれば、最も力の強い者が後継者となってきた。
妹の紅緒様が跡継ぎとなり、紅亜様は桜木の家に養子に出された。
紅亜様に陰陽師としての力がないだけなら、妹が跡継ぎとなっても、小路の今までを考えれば特に問題はない。だが、紅亜様にはそれだけではない理由があったと聞いている。
「黒。中へ入れ。冷えるだろう」
「ん? いいのか? ……敷地に入った途端矢が飛んでくるとか……」
「ねえよ」
呆れ気味に答えたが、黒の心配もあながち間違いではない。
俺の祖父であり御門の先代・白里(しろさと)おじい様は、ある理由から黒が俺に近づくのを嫌がっていた。
おじい様は隠居して京都の本邸に移ったのだが、首都にある御門の別邸には、俺のほかにも同居人が何人かいる。
そのうち数人は、おじい様が俺の補佐にとつけた一族の者だ。彼らにとって当主は俺だが、主人はおじい様だ。
「お前が来ることはみんなにも話してある。短く終わる話でもないだろ」
黒が今夜、御門別邸を訪れることは、涙雨(るう)という名の黒の式があらかじめ教えてくれていた。先触れ(さきぶれ)というやつだ。
「そうか……白が自分から俺を招き入れてくれるなんて、俺のよ
「天音―。振り下ろしていーぞ」
「やめろ!」
いつも通りの戯言(たわごと)を言うつもりだったらしい黒の髪を数本斬る勢いで、天音が大鎌を振り下ろし寸止めした。
黒の脳天貫かれるところだった。
「白桜様! お屋敷の中に招き入れるのは危険すぎです! 御身がどれほどの危機にさらされるか……!」
「いやお前のが危険だからな⁉ 未だにそれ持ってんのかよ! 鬼神(きしん)の名前捨てる気全然ねえだろ⁉」
「わたくしたちの大事な白桜様を御守りするためなら、今一度その名を纏うことも白桃(はくとう)姫様はお許しになられますわ……!」
「白桃様引き合いに出すな!」
黒い空気を纏う天音と、必死に抗議する黒。俺はため息をつくしかない。ちなみに、白桃とは俺の母の名だ。
「外でするのも難な話だろ。無炎(むえん)。無月(むつき)も呼び出して黒の見張りにでもついていてくれるか? それならいいだろ?」
「ま、とーぜん控えているけどな」
すっと姿を現したのは、紅い髪に着流しの青年。面差しは黒に似ている。
「無月。お前はこいつの首に縄でもつけておけよ」
無炎に呼ばれ、次に顕現(けんげん)したのは無炎と全く同じ顔で、髪の色だけが違う青年。こちらは、着物というよりは祭祀を司る官吏が着るような衣をまとっていて、黒と同じ黒髪だが紫がかっている。そして無炎とは違って感情の見えない表情と眼差しで黒に言う。
「黒藤。御門の家に入るお前は、白桜の幼馴染ではない。あくまで小路の後継者という立場、忘れるな」
「う~……白は可愛いのに~」
「それ家ん中で言うんじゃねえぞ」
泣き言を言い始めた黒に厳しく言い、後ろ襟首を無月が摑んで歩く。
天音と無炎は、俺の使役(しえき)――式で、無月と涙雨、そして縁(ゆかり)という三基が黒の式だった。
黒の式は、主への態度が色々と非道い気がするが、黒の言動にも多分に問題がありすぎなので構う気はない。
「白桜―。……来たわね黒藤」
植木の小路を抜けた母家(おもや)の玄関口で待っていたのは水旧百合緋(みなもと ゆりひ)という名で、御門が預かっている少女だ。俺と同い年で、お互い物心ついた頃にはすでにここにいた。
「百合姫(ゆりひめ)。もう休んでいな」
俺が言っても、百合姫はその幼さの残る面(おもて)に剣を露わにする。
「話が終わるまでは起きてる。黒藤が白桜に不埒な真似をしたら、里おじいちゃんに合わせる顔がないもの」
「百合姫……」
キッと、黒を睨む百合姫。ほんとここは仲悪いなあ……。両方とも大事な幼馴染だから、二人に板挟みにされるのでいつも困っている。
俺が黒を呼んだのは、母家の私室。客間でもいいのだけど、内容が、な……。
当然、天音、無炎、そして黒の式でありながら見張り役の無月も同席する。
仕事の話と聞いて、百合姫はこの場に入ることは辞したが、居間で起きているのだろう。いつもなら百合姫の護衛に天音をつけるのだが、天音も無炎も、俺と黒を二人きりにすることの方を厭(いと)うので、俺が別邸に呼んだ家人の一人に一緒にいてもらっている。
「んでさ、お前は真紅嬢に逢ってどうするつもりだ?」
黒と、窓を開けた縁側で話す。十五夜も過ぎた頃合いだが、屋敷に結界を張っているのでその中では大して寒さは感じない。先ほど黒が大声を出しても、結界に閉ざされるので近所迷惑にはならない。
月は欠け始めている。
「んー? 真紅は影小路の血筋ですよ、って言う?」
「怪しまれるだけだろ」
いきなりそんな人が現れたら。
「従兄のお兄さんですよ?」
「それはそうだが……真紅嬢は紅緒様のことは知らんだろう? 紅亜様がお前のことを知ってるかも怪しいし……」
紅亜様は生後間もなく養子に出されていると聞く。本家の内情に、どこまで精通しているのか……。
「じゃー一から説明するしかねーのか……」
黒藤は目に見えて項垂れた。面倒くさいだろうが、それが正道だろうに。
「……黒」
「うん?」
「お前の座は、揺らがねえんだよな?」
確認に、黒は唇の端に笑みを載せた。
「さあ?」
愉快そうな顔をする幼馴染を睨む。当代最強の陰陽師は、間違いなく黒だ。しかし、黒は絶対的な力を持つ始祖の転生ではない。
もしも真紅が陰陽師として目覚めることがあったとき、当代最強の名を冠するのは、黒のままなのか――そして小路の跡取りは。
「どうだっていいだろ、そんなこと。誰が強かろうと、俺が護るべきは白だ」
「いや、まずは家と紅緒様を護ってやれよ。俺は自分でどうにかできるくらいではあると思うぞ?」
眉をひそめて言うと、何故か黒がうなだれた。だがいつものことで、すぐに復活する。
「……ま、いい。取りあえず、真紅には逢ってくる。じゃないと、母上が真紅にかけた封じが解けたとき、一斉攻撃を喰らいかねない」
紅緒様の絶大な霊力の守護で、真紅の存在は妖異には知られていない。
しかし、十六歳の誕生日、その守護の効力は切れ力をなくし、紅緒様は目覚める。十六年前に真紅が生まれた時刻になれば。
守護が一気に解けたとき、妖異は真紅の存在に気づくだろう。甘美な血を持った、現状ではなんの力も持たない少女。
「当面は、涙雨についていてもらうつもりだ。あんな形(なり)だが、強いからな」
「涙雨殿なら心配も少なくなるか……現状、真紅嬢は見鬼(けんき)でもないんだろう?」
「ねえな。涙雨のことも、今は黒い小鳥としてしか認識できないはずだ」
涙雨――黒の式。
「……紅緒様の封じが解かれたら、真紅嬢は見鬼になるのか?」
「八割は」
「残りの二割は?」
「母上が目覚める前に喰われる。そんだけ、小路の始祖は妖異の間では評判だ」
「……俺も小路の始祖には逢ったことがないからな……」
小路には、十二人の始祖がいる。
本家と分家を含め、『小路十二家(こうじじゅうにけ)』と呼ばれる。黒と紅緒様は本家筋の人間だが、どの家に始祖の転生があるかは、陰陽師の先見(さきみ)でもわからない――転生の檻(おり)だけは、範囲外だ。
十六年前――俺も生まれた年――紅緒様は姉の腹に宿った姪の存在を知った。そして、母体を通してもわかるほどの強大な霊力を持ち始めている胎児。そこで初めて、小路は始祖の転生が生まれようとしていることにも気づいた。
当時、黒藤、一歳。俺はまだ生まれて間もない。
紅緒様は、小路の当主としての任を後継者に譲り、生まれる前の真紅嬢に封じの術をかけた。
転生の霊力を抑え込み、普通の人間と変わらないようにするほどの術を使えば、反動はいかほど大きいか計り知れない。
結果、紅緒様は眠り、その間、紅緒様の全ての霊力で真紅が護られるようになった。
現在始祖の転生と確認されているのは、真紅一人だけ。全く存在しない世代の方が多いくらいだ。
だからこそ、知られてはいけない存在だった。
転生が生まれ落ちるとき、天変地異や、必ず何かが起きるとかいったことはない。ただ、絶大な霊力を持った転生は、そのほとんどが当主となってきた。
黒は跡継ぎであることに頓着していない。むしろそういうのは邪魔だと言い捨て、どうにか後継者の地位を押し付けられる相手を探していたくらいだ。
「真紅嬢に伝えて、そのあとはどうする? 真紅嬢が陰陽師にでもならない限り、自身の身を護ることも出来ないんじゃないか?」
「今までの転生に倣(なら)えば、害するものからは、その莫大な霊力で補ってあまりある。近世に生まれた者は真紅同様、幼い頃は出自を知らされなかったようだが、成長してから修行して得た力で、小路の家ごと護っていたみたいだな。小路の家の者となるかは真紅の判断だが、否やと言われれば、持っている霊力のコントロールくらいは教えて、あとは涙雨あたりを護衛につけるかな」
のんびりした解答に、目を細めた。