好きになった人は吸血鬼でした。―さくらの血契1―【完】


ぼけーっとしている俺を不審に思ってか、振り返った。

「黎」

返事をしないでいると、また澪に名を呼ばれた。

「なんだよ?」

無視してるとうるさいので、眼鏡を押し上げ応じた。今は、瞳の色は銀ではない。

さっきまでぼけーっと書類に視線を落としていたけど、澪に呼ばれて意識ははっきりしている。

「ねえ黎。何かあった?」

……ありまくったよ。

「なんも」

素っ気なく返したけど、小さい頃から一緒に育った澪に隠し事、は意味のないことだった。

「……明後日で、いいんだよね?」

それは、じじいの決めた俺の食事の日。毎日ではなく、数日置いて与えられている。

たまに間隔を空けたり狭めたりして、じじいは俺を観察している。

「あー」と曖昧に肯いておいた。澪は顔を渋くする。

……何かしら、悟られたかもしれない。


一人の家。それが当たり前だったのに。

……淋しさを、初めて感じていた。

ママと仲が悪いわけではない。

料理があまり得意ではない私を心配して、ママは毎日ごはんを作ってきてくれる。入院施設のある個人医院で看護師をしているから時間はまちまちだけど。昨日は朝に来てくれていた。

その間だけはアパートに母子(おやこ)が揃って、一時の笑顔が飾られる。

だから、それ以外の時間が独りだというだけで、別段問題があることはなかった。

ママが早く来た日は、海雨にところへ行って帰りが遅くなっても怒られることもない。

海雨以外に深い付き合いの友達はいないから、友達のとこへお泊りー、なんてことにもならない。

私は大勢で群れるより、気の合うたった一人といる方が楽で、すきだった。

だから、今まで生きて来て淋しいなんて感情を知らなかった。

黎がいない朝に、初めて襲ってきた孤独。

淋しい。

独りは嫌だと、大声をあげて泣きたくなった。

その声は、たった一人のすきな人に届けばいい。

届かないと知っているから、私は声をあげて泣くことはしなかった。

ただ、ひっそり泣いた。

引き結んだ唇。

とめどなく頬を流れるだけの涙。

そういう泣き方をした。

淋しさをこらえた泣き方。

……ねえ、まだすきなんだよ……。

暁になれば消える、なんて……嘘じゃない。

全然、すきじゃなくならない。

すきだよ。

もっともっと……たった一日で、こんなにすきなれるのかってくらいに……。

逢いたいよ。


……どっちの差し金だ?

病院を出て、胡乱に思った。

澪とその父は小埜の血統であるが、相応の力はない。

このままだと、澪の祖父で現当主である、小埜古人(おの ふるひと)で小埜家の家業は途絶える。

小埜家は、陰陽道の大家、影小路(かげのこうじ)の流れを組む陰陽師一族だ。

だが、その滅びも抗えない時の流れか。

――恐らくはその使役が、俺を尾行(つけ)てきている。

真紅の血を吸ったことがバレたか?

いや、それならあのじじいなら正面切って殴りこんでくるだろう。変に思われた程度か。

……外の空気がすきだ。

閉じ込められていた時間が幼さの大半であるからか、ただ固定された空間の中にいない時間がすきだ。

夜の散歩で――

昨日は更に食事の日だったので、飲まされた不味い血の残り香を振り切るように月夜を歩いていた。

どこでもないところへ行きたいと。

――ああそうだ。

一度は母の育った家を見てみたい、とか、そんな益体もないことを考えながら。

そんなことで時間を潰していたら、香って来た。

たぶん、人生で初めて自分から探したもの。

月の香りの、少女。

……あの夜は、はっきり言って不可解だ。

真紅は実際、死にかけていた。真紅は深く考えていないようだったが――前後の状況が異常だ。

真紅は襲われた瞬間のことは憶えていないのか、見ず知らずの俺に対しても、恐怖していなかった。

警戒はされていたが、それは俺のアホな言動の所為かと思う。自分、吸血鬼とか普通に聞いたらまともではないことを初っ端から名乗っているし。

人間の世界で考えれば、通り魔だが……。


そうではないだろう。

でもあれ――俺が見たところ――真紅を殺しかけていた傷が問題だった。

普通の刃物ではない。

人間によるものではない。

傷にまとわりついていた妖気(ようき)がそれを教えた。

ならば俺たちと同じ、妖異怪異の類(たぐい)か。

……いや、それともどこか違う。完全な妖気ではなく、若干人間の持つ霊力の波動も感じていた。人間と妖異が混じった存在? そんなのは数多(あまた)といる。

人間を傷つけるだけの妖異怪異は存在しない。

それ相応の理由があって、人間を害する。

それ相応の理由がないと、妖異怪異は人間に危害を加える発想がない。

この世の理(ことわり)のようなものだ。

前提、人間に認知され、存在するのが妖異怪異であるから。

……もうあんな目に遭わなきゃいいけど。

真紅を傷つけたもの、調べよう。

最期の時に手を握っていると約束した。

だからその時は出来るだけ――未来(さき)の方がいい。

真紅の子供とか、見てみたい。

絶対、可愛い。

……俺、相当変か?

自分との間の子でなくても、真紅の子であるというだけで絶対可愛がれる自信がある。

……まあ、遠くから見守ることは出来ても、傍にいくことはないんだけど。

真紅に似た子供だったらいいなー、と、にやける顔を見られていたことには気づかなかった。


《ご主人様》

隠形(おんぎょう)――姿を視認できないよう隠――したままの式(しき)に呼ばれ、一度瞼を下した。

「どうだった?」

《何やらにやにやしておりました》

「……は?」

式の報告に胡乱に訊き返せば、

《にまにま――とも言えましょうか。いつもの夜歩きかと思ったのですが、明らかに浮かれております。ふわっふわしております。一応おなごの私としては気味悪いです。もう見ていたくなかったので帰ってきました》

「………おい」

《では、私はこれにて》

「勝手に寝るな門叶(とが)! 明らかに浮かれてどこへ行くんだあの馬鹿は!」

《恋人のとこですかね》

「そう思うんだったらそこまで見届けて来い! その先が一番肝心なんだ!」

《だってキモかったんですよ》

「あれに恋人とかいたら桜城に何や言わなければならなくなるんだぞ」

《頑張ってください、ご主人様。私は桜城の鬼は苦手なのでこの屋敷からお見送り致します》

「せめて門前までついて来い!」

ぜえぜえ荒く息をする。

老体に鞭打ちすぎた……。

私の名は小埜古人(おの ふるひと)。澪の祖父であり、小埜家現当主。現在八十過ぎのじいさんだ。

家業を、陰陽師。

と言っても、人間に害を加えるものが対象であって、人間と変わらず生活するものとはむしろ手を組み世に争いが起きないようにするのも我が小埜家の役目だ。

桜城の鬼――黎の生家であるそこは、強力な力を持つ一族で、騒がしい連中を抑える方が得意だ。

よって、小埜家と桜城家は古くから交流がある。

黎は現在小埜姓を名乗っているが、本当の名は桜城である。桜城黎。


そこから、私にとっては『預かっている』形の黎。

正直、この国に吸血鬼というのは希少なので、手元に置いて観察出来るのはなかなかない機会だ。

黎は吸血鬼と言っても日本の鬼と異国の吸血鬼の混血なので、色々と先例から外れることがある。

例えば、食事が極端に少なくてよかったりする。

怪しまれないように、普通の人間と同じ食事もさせている。

が、それで満腹、ということはないようだ。

やはり主食は血だが、三日程度に一度、二、三滴ほども飲めばよい。

血を与えているのは、私の孫の澪だ。

澪は正統小埜家の血筋であるが、陰陽師としての力はない。

だから、澪を給仕(きゅうじ)にあてた。

……まあ、黎は毎回、不味い、もう飲みたくない、こいつの血は黒い――などと気に召さないようだが――だからこそ良かった。

好む血であれば、喰らいつくすが性(さが)の吸血鬼。

黎がそれに倣(なら)うかはわからないが、澪の血を好んで飲まれても困りものだ。

――それの加減を今、見守っている最中だった。

先ほど澪から連絡があった。

『黎の様子がおかしい』

孫が伝えた内容はそれだけだ。

あの孫は自分に陰陽師性がないのをどう思っているのだろうか。

……劣等感だろうか、ものすごく性格が歪んでいる。

人間としては有能――優秀な孫である。が、能力値――成績や功績――を見れば、黎には及ばない。

「……全くお前は」

《…………仕方ないのでまた見てきましょうか?》

「今私より沈黙長かったぞ、お前」

《だってー》

「一度符(ふ)の中に戻るかお前」

「遠慮します」

さっと顕現(けんげん)――姿を現――した式を、私は睥睨(へいげい)した。


行って来いと目だけで伝える。

直後、やっぱり行くなと思った。

こんな俄然やる気の奴が出て行ったら黎に気づかれる。

「空閑(くが)。行ってくれ」

「御意」

一瞬だけ姿を見せた鎧姿の式に肯き、門叶(とが)に座れと座を示した。門叶は、若い女性の姿で、浴衣のような衣に薄い領巾(ひれ)が腕を巻いている。

「………ご主人様」

しおれた門叶。

「門叶。耳出とるぞ」

はっと頭を押さえる式を横目にしてから問う。

「門叶。……黎は昨日、どこへ行った?」

「わかりません」

「わからん……? お前、昨日いなかったろう」

「はい。……昨日は気まぐれに吸血鬼の尾行をしていたのですが、ぷつりと気配が途切れてしまいまして……」

「お前の気まぐれにはいつも感心させられるな」

「ありがとうございます」

「しかしそれは、あれがお前に気づいて姿を消したと?」

「いえ、それはないと思います。そうですね……吸血鬼が自分から消したと言うよりは、何かに呑み込まれた――ような」

「………」

呑み込まれた?

「……その後はどうした? いつあれが戻ったとか……朝にはいたんだろう?」

「眠くなったから帰ってきましたのでわかりかねます。朝にはふつーに自分の部屋にいましたよ」

「……お前は気まぐれ過ぎるぞ。もう一回耳生やせ」

「やです」

式の放置を決め、考える。


昨日、黎の気配が一時的に消え――翌今日は、様子がおかしい。

……喰らったか。

門叶は恋人と簡単に口にしたが、まさかそのような存在が出来たのでは――

「あの馬鹿め」

もし相手が、普通の人間であったら――妖異怪異の類であったら――

「………」

今は、自由にさせておくか。

恋ごとに、じじいが顔を突っ込むのもあんまりだ。

でもいつか、黎――あの孫が、恋人の紹介なんてしてきたら……。

「……ずっと一緒にいてくれる子なら、よいか」

ぐりぐりと、門叶の頭を撫でまわした。

楽しみに、待っているぞ。


何だか料理を頑張ってみようと思った。

「あつっ!」

熱したフライパンに指が触れてしまった……。手を流水につけて、ため息をつく。自分はキッチンに嫌われているんだろうか。むーっと唸りながら蛇口を捻る。

それでも、頑張ってみようと思って、頑張るんだと決めた。

「自分がこんな女の子っぽいのキャラじゃないんだよー……」

けれど次に出るのは愚痴の混じった息。

そしてまた次の瞬間には頑張る思いでいっぱいになる。

天秤がぐらぐらし過ぎている私だった。

もう逢えないという人を想って、何をしているんだろう。

でもいつかは逢う人だからとすがってしまうのだろうか。

……でも何で料理?

苦手なことに向かっている自分。自問してしまった。

何か出来ること、何かしたくてしょうがなくって。

ただ立って待っているだけは出来なくて。

目についたことをしてみた。

……全く使った気配のないキッチン。

料理をしないでいたのは、それがママとの繋がりだったからだろうか。

記憶にあるママは、とても上手に、手際よく道具と材料を動かして。

美味しいご飯を作ってくれた。

だから、料理はママに頼り切りでいることが、私を無意識にママへ繋いでいる糸だった気がしてきた。

ママと離れて暮らして、恨むことはなかった。

知らない恋人といても、変わらないままだったから。

「真紅ちゃん!? どうしたの!?」