好きになった人は吸血鬼でした。―さくらの血契1―【完】


一つ目、本当に真紅嬢には退鬼師性はなく、影小路の血しか効力を持っていないこと。

二つ目、紅緒嬢によって封じられているものに桜木の血も含まれていて、血の持つ退鬼の力ごと封じられているために、黎明の子どもにはまだ影響が見られない。

三つ目に、なんらかの理由によって黎明の子どもには桜木の退鬼師の血が効果を発揮せず、今までも、今後も影響を与えない可能性。

……どれにしても真紅嬢よ、黎明の子どもを伴侶に望むのなら、一番の敵は桜城一族じゃぞ。

涙雨は黎明ののことを、『黎明の子ども』と呼んでいる。幾年(いくとせ)を生きる涙雨からすれば、百歳の人間だって子どもじゃ。

――桜城は鬼人の一族。そして真紅嬢は、主家の姫。

黒の若君が当主の確定を許していない以上、真紅嬢にも話は持ち上がる。

過去の始祖の転生は、ことごとく当主となってきたらしいしの。

現在小路流派だけでなく、陰陽師の世界で最強と言われているのは黒の若君だが、正式な後継者であるにも関わらず、何度も当主への就任を蹴っ飛ばしている主様だ。

そして真紅嬢が本気で陰陽師としての人生を選べば、その地位は黒の若君を脅かすだろう。

涙雨や無月殿、縁殿は、黒の若君が当主となることへ固執はしていない。

黒藤(あるじ)が興味ないのなら、式も興味を持たない。

黒の若君がどのような立場であろうと。それぞれ『影小路黒藤』の式に下ったのじゃ。『影小路の後継者』の式になった覚えはない。

真紅嬢が小路流に入れば、そして始祖の転生と知れれば、当然のように当主への道も話として出てくるはずだ。

当主の伴侶が、鬼人の一族の出身か……。

笑える話じゃ。

黒の若君が当主となることはないだろう。自分がそんなものになるくらいなら、流派ごと滅ぶ道を選ぶのが涙雨の主様だ。

ならば有力となるのは、やはり真紅嬢でしかない。

現状、黒の若君に次ぐ能力の持ち主と言えば、白の姫君と、今は眠っている先代の紅緒嬢となってしまうくらい、小路内外で見ても黒の若君の力は突出している。


……人間(ひと)のさだめの、なんと憐(あわ)れなことか。

長い年月を生きる妖異が、主と共に生きるのはほんの瞬(またた)きほど。

何人もの主を持ったものもいる。一人にさえ仕えない妖異もある。

黒の若君は、涙雨が初めて主とした人間だ。

涙雨は時空の妖異。その翼で駆け抜ける。黒の若君のもとにいる、今は羽休めの時間だ。

ほんの瞬き、人に寄ってみようと思ったのだ。そして黒の若君はそう思わせるだけの存在だった。

黒の若君の式に下って、涙雨は面白い毎日しかない。

権威と権力をぶっ飛ばして突き進む主様。その先には惚れた女子(おなご)がただ一人。

……白の姫君のもとへ行く前に、天音殿の大鎌(おおがま)に貫かれて終わりな気しかしないがの。

天音殿もまた、白の姫君が初めての主だと聞く。

天女のような麗しい姿で、身の丈より長い大鎌を振るう天音殿。

鬼神(きしん)と呼ばれなくなっても、唯一『姫』と呼ぶ人との約束のため、白の姫君を護るためにそれを捨てようとはしないと黒の若君が言っておった。

護りたいもの、というやつか……涙雨にはわからんな。

羽を仕舞い直して、涙雨もしばし眠ることにする。

意識の一端はいかなる時も覚醒しているので、真紅嬢が目覚めれば涙雨も起きる。

……今は、おやすみじゃ。


「真紅ちゃん。今日はちょっと出かけてもいい?」

「うん? いいよ。じゃあ私はあっちから荷物持ってきて、あと海雨んとこに――

「じゃなくて、真紅ちゃんも一緒に」

九時前に目を覚ました私は、ママの提案に瞬いた。

昨日は何も持たずにママのところへ来たから、私が住んでいたアパートから荷物の移動をしないといけない。

ママは用事があるのなら、今日と明日の休日中にそれを済ませて、海雨にも逢いに行こうと思ったのだけど――。

「黒ちゃんのところへ呼ばれたの」

楽しそうなママに、私は瞬きを返した。





「いらっしゃいませっ」

ママに連れられてやってきたのは、住宅街も離れた、少し山の中へ入りかけるような場所だった。

近いとは言えないけど、歩ける距離に黒藤さんも白ちゃんもいたのか。

生垣で囲まれた敷地の間から見えた入り口辺りから、大学生風の女性が私たちに手を振っていた。初めて見る人だ。ショートパンツにオフショルダーのトップス、靴はスニーカー。動きやすさ重視のような恰好だけど、肩より長い髪はそのまま垂らしている。二十歳前後に見えるけど化粧っ気はない。素で綺麗な人だ。

ママは黒藤さんに呼ばれていると言っていたから、この人は影小路の人だろうか。

私たちが女性の前まで行くと、女性は膝に手を置いて大きく頭を下げて来た。それから顔をあげて微笑んだ。あ、瞳の色が紫色――

「お初に御目文字(おめもじ)仕(つか)まつります。紅亜様と真紅お嬢様でいらっしゃいますね。黒藤が式の一、縁(ゆかり)と申します」

黒藤さんの式だった。……青春謳歌中の学生かと思った。

「初めまして、桜木真紅です。……えーと、縁さんのことはママも見えてるの?」

隣を見ると、ママは肯いた。なんで自分にも妖異が見えているのかと、不思議そうな顔をしている。

「あたし、一応黒藤の姉ってことでご近所さんには話してあるんです。黒藤の一人暮らしって言いながら周りに式がいるのも、説明が難しいかなってことで。ですから、いつも顕現(けんげん)して人の姿を取っていて、姉弟二人暮らしってことになってます」


微笑む縁さんを見て、頭の中で唸った。

昨日――今朝か?――逢った白ちゃんの式である天音さんは現代には添わない出で立ちだったからすぐに式――人間ではないと納得できたけど、縁さんはモデルさんくらいやっていそうな女子大生にしか見えないので、認識が困る。

「どうぞ中へ。黒藤が待ってます」

縁さんに先導されて、まだ認識が困っている私とママは小さ目の日本家屋に入った。一人――いや、二人か三人?――で暮らすには問題なさそうな広さだ。

「黒藤。お二人がいらしたわよ」

玄関から縁さんが呼びかけると、着流し姿の黒藤さんが顔を見せた。

「ああ。紅亜様、真紅、わざわざすみません」

「いいえ。黒ちゃんに逢えるの久しぶりだから嬉しいわ」

ママは甥っ子に向けて破顔する。

「そう言っていただけるとありがたいです。こちらこそ、旦那様と別れられたあとに何も出来ずに申し訳ありませんでした」

「いいわよ、そんなの。その頃にはもうお父様も亡くなっていたし、紅緒も眠っていたのだから、私が本家と顔見知りになってるって知ってる人いなかったでしょうから」

「ですが、俺は憶えているべきでした。――どうぞ。今日お呼びしたのは、見ていただきたいものがあるからなんです」

悔恨の顔をする黒藤さん。黒藤さんは私より一歳年上だというから、紅緒さんが眠るまでの一年はママとも逢っていたようだ。


座敷に通された。庭は思ったより広く、植木や鉢が整えられている。

「白から話は聞いています。これは、紅亜様にはご覧いただけないものなんですが、真紅には少しでも影小路のことがわかれば、と」

向かいに座った黒藤さん。るうちゃんはずっと私の肩に乗っている。縁さんは三人分のお茶を用意してから、端の方で正座している。

そういえば、黒藤さんの式は三基だと聞いたけど、最後の一人は気配を感じもしない。

「水鏡(みかがみ)といいます。本来なら、別の場所にいる二人の対象者が同時に術を使って交信する連絡用のものなのですが、今は影小路本家に俺が一方的に繋いでいます。向こうと話したりは出来ませんが、あちらの様子を見ることは出来ます」

そう言った黒藤さんは、胸の高さに片手を、掌を上に向けて軽く掲げた。

口の中で消えるほどの音量で何か言った。

するとそこに水滴――水が集まり始めて円盤状になった。

黒藤さんと私のお互いに裏表がちょうど見えるように、垂直に浮かんでいる。

驚きに目を見開いている間に、黒藤さんはそれを完成させたようだ。


「本家にいる、母上です」

「――、って、紅緒さん?」

まさか、本家に勝手に繋いでいるの? そんなことしていいんだろうか……。

「ああ。母上は本家の最奥に置かれている。影小路の本家は天龍(てんりょう)って山ん中にあってな。一応影小路家の拠点にはなってるんだけど、現当主も居つくことはなく、東京にある別邸にいる。さすがに山ん中じゃ利便さはないんだ」

「……ずっと、眠ってらっしゃるんだっけ?」

「母上の御身体は厳重に庇護(ひご)されている。母上が眠られた理由を知るのは、本家筋の人間と十二家当主とその周辺だけだ」

「じゅうにけ? って?」

私の問いかけに、黒藤さんは肯いた。

「影小路は小路流の宗家(そうけ)だが、長い歴史の中で多くの分家が出来た。本家を含めて十二の家が有力な幹部格の家としてある。小路十二家と呼べば、つまりは小路流の中心核ってことだ」

「じゃあ……その人たちは私のことも知ってるんだ?」

「ああ。十二家の一つに小埜という家がある。知っているか?」

「おの? ……って、黎が最初に言った名前……」

黎は初めて出逢ったとき、『小埜黎』と名乗っていた。

「小埜家は小路十二家であり、その縁で桜城家より黎を預かっている家だ。まあ、現当主の古人翁で小埜家は絶えるだろう。子どもも孫も、陰陽師となれるほど霊力がなくてな。あとはほかの十二家より養子と取るしかないんだが……他にもあまり余裕はない。真紅の存在が公にされていない現状、本家筋のガキも俺一人だ」


「………」

黒藤さん一人ということは、ママの存在はどう認識されているんだろう……。

「……ママ――お母さんが、影小路姓に戻ることはないの?」

「紅亜様が復帰されるということか?」

つと、黒藤さんはママに視線を遣った。

「……恐らくは、ないな。出来ていたら、母上が当主であった間にやっている」

「それはどうかしら」

黒藤さんの言葉に、ママは首を傾げた。

「どういう意味です?」

黒藤さんが問い返すと、ママは難しい顔で答えた。

「黒ちゃんがどの程度知ってるかはわからないけど、紅緒は誰より影小路が嫌いな子だったわ。何度も家出して、私のところへ来ていた。けれど、正統後継者という地位からは逃れられないで、当主に就いた。……無涯を連れて行ったのは、影小路への意趣返しでもあったと思うわ」

「……姉君様から見てもそういう母でしたか……」

黒藤さんは糸目になってむずむずするような顔をしている。

私の生まれに合わせて眠ったと言うのなら、黒藤さんがお母さんと過ごせたのはほんの一年ほどだ。

「影小路が嫌いって……後継にならないっていう選択肢はなかったの?」

私が疑問を口にすれば、黒藤さんは表情を変えないで答えた。

「あったには、あった。だが、母上は無涯を連れて来て、なおかつ家にいさせたいがために取引条件を出して当主になったと聞く」

また出た。『むがい』。ママは知っているようだけど、私は知らない名だ。

「……何回かその、むがいって名前を聞いたけど……」

「俺の父の名だ。今はいない。母上はよく、永遠(とわ)の恋人だと言っていた」

「………」

永遠の恋人。

「……映ったな。真紅、見えるか?」

黒藤さんに問われて、沈みかけていた意識がはっとする。

黒藤さんが示した水鏡を、黒藤さんとは反対側から覗き込む。

そこには、ママと同じ顔の女性が――祭壇? のようなところに横たわっていた。この人が……

「紅緒様……」

ふと口をついたのはそんな呼び方だった。

今まで誰かを『様』扱いなんてしたことないし、そういう家風とは縁遠かったのに、この女性はそう呼ぶ対象な気がした。


「紅亜様とよく似ていらっしゃるだろう。だが、性格は真反対というべきか。紅亜様のように穏やかな気性ではなく、荒々しく物々しい母だ」

「も、物々しいの?」

それって性格に対する評価でいいの?

「ああ。短気だ」

今度は一言で片づけられた。

どんな人なのだろう。ママと同じ顔の、双児の妹さん――

「逢ってみたい」

「うん?」

「私、紅緒様に逢ってみたい」

私の言葉に、黒藤さんは片眉をあげた。


「――――っ⁉」

血が、逆流する。

いきなり襲って来た感覚に、胸元を摑んで膝を折ってしまった。

場所が院長秘書室だったのは幸いか。病棟でこんなことになっていたら……。

今は誰もいない。院長である澪の父も、澪も、院長秘書も。土曜日の昼の少し前の時間、一人で雑務をしていた。

な、んだ? これは……。

血が焼かれているようだ。思わず咳込んでしまう。

手で口を押さえようとして、はっとした。

――……血?

口を押さえた手が、まだらに紅く染まっている。

咳込みは続く。手では押さえきれなくなって、一際大きく咳込んだとき、床にまで飛び散るほどの血がこぼれた。

血が焼かれていく。もしかして今、真紅の血が覚醒されたのだろうか。

「……は……」

思わず苦笑がもれる。

短い時間でさえ、あの子の傍は許されなかったのか。

桜城の家とは縁切りして、退鬼されるまでの少しの時間でも傍にいられたらと願った。真紅に出逢えたことだけでも幸福だと思って、死ぬことに諦めるつもりだった。

だが、そうするなと本人が厳しく言って来た。