今、こうして、自分の部屋の中で、ひとりぼっちでインスタに書き込んでいるけど、きっと誰にも読まれることなんてない。
 
 だから、このアカウントは私の気持ちを整理するノートでしかないから、思ったこと、今の考えをそのまま書くだけにする。机に置いたままのマグカップに入っているインスタントココアはまだ湯気だ出ていて、私は、まだその甘さを口に含むことができていなかった。

 私は18歳になったばかりの2月の初めにすべての意識をおいてきた気がする。

 例えば、人は人生の中でどれだけ喪失を経験するんだろう。

 例えば、人は人生の中でどのくらい微笑まれるのだろう。

 数えることができない、すべての出来事に嫌気がさしたら、私はどうやって生きていけばいいのだろうか。私はわからないし、気持ちを整理するために誰にもフォローされていない鍵垢に書きなぐる気でいる。

 



「人なんて、みんな強く生きれないよ」

 イサムさんは慣れた手つきで缶のコーラを開けた。炭酸が抜ける涼しい音がしたけど、すでに11月の半ばで、夏の暑さの記憶なんて忘れてしまっていた。学校の屋上から、一望する街は今日も夕日でキラキラと輝いている。

「だけど――」
「だけどなんてないよ。メル」

 イサムさんが微笑むと風が吹いた。その風でイサムさんの髪が弱く揺れた。髪は肩まで着くくらいロングだ。そして、パーマがかかっているから、アンニュイな印象を受ける。

「そんな萌え袖するなよ。セーター伸びるよ」

 私はそう言われて、急に顔が赤くなるのを感じた。手すりから手を離して、両手をスカートのポケットに突っ込んだ。

「イサムさんはさ、どうして、強く生きることができるの?」
「簡単だよ」

 イサムさんはそう言いながら、手すりから手を離し、身体をクルッと回して、背中で手すりに寄りかかった。そして、勢いよく、上を向いた。

 一瞬、このまま、飛び降りるのかと思った。だけど、イサムさんはその場に居たままだった。
 
 首から上はすでに手すりから大きく出ている。長い髪がだらっと、下がり、イサムさんの顎のラインが綺麗に見え、少しだけドキッとした。
 
「全部、知らないふりして笑顔でいればいいんだよ」

 そう言い終わったあと、イサムさんはまた元の姿勢に戻り、右手で髪をかきわけた。

 なに、言ってるんだろう。コイツ――。

 たぶん、他の学校だったら、明らかに校則違反になるはずだけど、うちの学校の校則はあるようでないものに近い。だから、派手に髪を染める以外で髪型は言われない。

「ねえ」
「なに? メルちゃん」
「なんで、人って、寿命があるんだろう」
「いいんだよ。そんなことより、どう? 話、乗ってくれる?」

 イサムさんの微笑みはオレンジ色で染まっていた。






 イサムさんの余命ノートを見てしまったのは偶然だった。

 教室に忘れ物を取りに行ったとき、教室には誰も居なかった。だけど、電気はついていた。私の席の前はイサムさんの席で、イサムさんの机にはノートが広げられていた。

 別に見るつもりはなかった。だけど、自分の席に向かっているときにノートの内容が目に入ってしまった。

・余命までやりたいこと

 余命って。予想外の言葉が目に入ってきて、私は立ち止まり、そのノートをじっくりと見てしまった。

・卒業して、半年くらいは生きたい。
・メルと付き合う。
・あとはもういい。それで十分。

「――なにこれ」

 私は理解できずに思ったことを口にした。一度、目を瞑って、すーっと息を吐いた。そして、見開き、もう一度ノートを見た。

「なんで、私――」
「マジかよ」
  
 後ろを振り返ると、右手を額に当てて、上を向いたイサムさんが立っていた。





 そのあと、屋上に連れて行かれて、イサムさんに告白されて、私はイサムさんの彼女になった。だけど、屋上から降りてきたあとも、何も変わっていない。

「イサムさん」
「やめろよ。さん付けするなよ」

 イサムさんを見ると少し不貞腐れているような表情をしていた。だけど、そのあとすぐ、その表情は微笑みに変わって、眩しく見えた。

「イサムくんでいいよ。無駄に留年してるだけだから」

 イサムさんにそう言われて、私はゆっくり頷いた。
 
「なあ」
「なに?」
「俺の心臓、もうあんまりもたないらしいんだよね」

 イサムさんがそう言ったあと、私は黙ったまま、歩き続けた。イサムさんは身体が弱くて留年したのは知っている。だけど、そんなこと、急に言われても実感がわかなかった。

「――ねえ」
「なに?」
「――こういうとき、なんて言えば、イサムさ……イサムくんの心は軽くなるの?」
「メルちゃん。俺はもう、何言われても大丈夫だよ。その優しさだけで十分だよ」

 イサムさんはまた優しく微笑んだ。そして、私の手を繋いだ。急に触られた右手はいきなり電流が走ったみたいに感じた。

 あぁ。頬が一気に熱くなる。

「余命ノート、本当だったんだ」
「そうなんだよね。残念だけど。――だから、今日、ひとつ夢が叶ってすごく、俺、嬉しいよ」

 イサムさんは本当に嬉しそうな表情でそう私に言うから、こんな私をなんで選んだんだろうってすごく不思議に思った。そして、そんなガラスみたいに透き通ったイサムさんに私は釣り合わないんじゃないかって、イサムさんの整った横顔のシルエットを見てより強く思った。

 なんで、私なんだろう――。

「メルちゃん」
「なに?」
「ひとつだけ、約束してほしいことがあるんだ」
「なに?」
 私がそうイサムさんに聞き返すと、イサムさんはただ、前を向いたまま寂しそうな表情をしていた。






 図書室の当番で今日は5時半まで、このカウンターにいなくちゃならない。だけど、放課後開放しているこの図書室には誰一人として、寄付く気配はなかった。

 なんで、金曜日の当番になんてなったんだろう。私はため息を吐いたあと、白い天井を見て、ぼんやりとした。

 うちの学校はスポーツをやりに来る生徒ばかりだ。どのスポーツ系の部活も大体は県大会、全国大会の常連で強豪校と呼ばれているらしい。

 図書局の私にはそんなこと、関係なかった。図書局員は10人しかいない。そして、そのうち7人は幽霊部員だから、月、水、金の週3日しかこの学校の図書室は開いていない、この図書室のカウンター業務の当番は3人で持ち回りをしている。

「なに上向いて、ぼんやりしてるんだよ」

 声のする方を見ると、イサムくんが立っていた。そして、私のアホ面を見て、面白がっているのか、ニヤニヤしていた。

「ちょっと。来たならちゃんと気配出してよ」
「気配は出してたよ。それにしても、静かだな」

 イサムくんは貸し出しカウンターの一番近くにあるテーブルにバッグを置いた。そして、椅子を持ち上げ、カウンターの前に置き、椅子に座った。

 私とイサムくんはカウンター越しで向き合った。

「4年通って初めて、図書室来たけど、マジで誰も来ないんだな」
「なに? 冷やかしにでも来たの?」
「違うよ。メルちゃん。俺はただ、愛しの彼女に会いに来ただけだよ」

 イサムくんに告白されてから、一週間が経っても、イサムくんにそんな調子のいいこと、言われるとすごく恥ずかしくて、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。

「メルちゃん、また顔赤くなってるじゃん。そういえば、3年生なのに引退させてくれないの? 図書局は」
「人手不足だからね。――イサムくん入る?」
「あと4ヶ月で卒業なのに入ってどうするんだよ」

 イサムくんは笑いながら。立ち上がった。そして、日本文芸の書架の方までいき、何かの本を探し始めた。

「てか、古すぎだろ。ラインナップ」
「こんな利用率だから、新しい本、買ってもらえないの」
「うちの学校、サルしかいないからな」

 そう言って、イサムくんはゲラゲラ笑った。イサムくんは一冊の本を書架から抜きとり、それを持ってまた、カウンターの方へ戻り、椅子に座った。

「なに持ってきたの?」
「サラダ記念日」

 イサムくんは右手に持っている俵万智のサラダ記念日の文庫を弱く振った。その本は見るからに日に焼けていた。イサムくんはサラダ記念日を読み始め、一気に静かになった。遠くから聞こえてくる吹奏楽部の管楽器の音階が、上から下へ、下から上へいくのを繰り返している。

 私は自分のiPhoneでXのタイムラインを適当に指で流していた。だけど、別に必要とする言葉や情報なんてほとんど手に入らなかった。

「今日は何月何日?」

 急にイサムくんが聞いてきた。私はあまりにも急すぎてこたえることができなかった。
  
「何月何日?」
「11月16日」
「この味いいねって言って」
「いや、意味わからないんだけど」
「いや、言ってみてよ。メルちゃん」
「……この味いいね」

 私がそう言うと、イサムくんはニヤニヤした表情をしていた。私はそれですぐにイサムくんが次に何をするのかわかった。

「この味いいねと君が言ったから――」
「11月16日はサラダ記念日」
「おー、さすが。文学少女」
「なにこれ」
「今日は俺達のサラダ記念日」
「無理やりじゃん」

 私がそう言うとイサムくんは満足そうにまた、ゲラゲラと笑ったから、私も思わず、つられて笑った。






 5時半までイサムくんは図書室で私と一緒に過ごした。今日も結局、イサムくん以外の利用者はいなかった。

 まだ、どの部活も練習しているみたいだ。玄関を出て、二人でゆっくりと歩き始めた。すっかり辺りは暗くなっていて、冷え込んでいる。息を吸い込むとかすかに冬の匂いがした。

 カーキのアウターのポケットに両手を入れていても、たまに強く吹く風が冷たくて、そのたびに私は身震いした。

 ――冬至が近い。
 
 息を吐くと息は白かった。それなのにイサムくんはブレザーの上に厚手の白いパーカーを着ていた。ポケットに両手を突っ込んでいる。

「寒いな」
「うん」

 右側に見えるグランドは照明で白く照らされていた。その中で、野球部とサッカー部は練習をしていた。時折、大きな声が辺りに響いていた。

「元気すぎだろ。こんなに寒いのに」
「そうだね」
「――ちょっと前までは羨ましいって思ってたけど、今はなんとも思わないな」
「――そうなんだ」

 私はイサムくんの話が重く感じ、どうやって返せばいいのかわからなかった。イサムくんは残りの人生を意識していることをこういう何気ない会話の中で、この一週間、何度感じたかもうわからなくなった。

「優しいな。ホント、メルちゃんは」

 イサムくんはまるで私の気持ちを見透かしたかのようにそう言った。右側を向き、イサムくんの顔を見ると、イサムくんはいつものように優しい微笑みを浮かべていた。
 
「――イサムくん」
「なに?」
「どうして、私と付き合いたかったの?」
「――それは内緒だよ」  

 イサムくんは左手をパーカーのポケットから出し、そのまま、私の右肘の間に腕を通し、私とイサムくんはつながった。



 


 いつものように線路脇の路地を歩き、駅まで向かっている。イサムくんと手を繋いだまま、ゆっくり歩いている。二本の線路が路地と同じ目線で続いていて、路地の街灯でレールが渋く光に反射していた。

 先に見える踏切の様子が変だ。
 
「ねえ、あれ」
「思った」

 イサムくんもその違和感を覚えたみたいだ。予兆もなく急に鳴り始めた警報と、それに合わせて闇の中に赤色が点滅し始めた。
 
「マジかよ」

 イサムくんは私の手を離したあと、すぐに走っていった。踏切の真ん中で制服姿の女の子が座ったままだった。

「え、待って」
 
 私はイサムくんの後ろを慌てて、追った。遮断器の棒は完全に下がりきった。
 
 ――変だ。
 
 女の子は踏切の真ん中で体育座りをしたままで、すでに生きる気力がないようなそんな感じに見える。路地の小さな道の踏切だから、私達以外、誰もいない。だから、きっとこの異変に気づいているのは私とイサムくんだけだ。

 ――きっと。

 イサムくんは遮断器を無視して、線路の中に入っていった。

「イサムくん!」
「危ないから、メルちゃんは待ってて!」

 イサムくんの大きな声が辺りに響いた。依然として、制服の女の子は線路の上に座ったままだった。私は非常ボタンを押した。

 イサムくんと女の子が何かのやり取りをしているように見える。列車のライトが見えてきた。

「イサムくん。早く!」

 私の声がイサムくんに届いているのかどうかわからない。
 
 あー、終わっちゃう。

 私は何もできずにイサムくんと女の子を見守っているだけだった。イサムくんは両腕を使って女の子を無理やり起こした。女の子は思ったより華奢に見える。

 イサムくんは女の子を無理やり、引っ張るように反対側の遮断器の方まで歩き始めた。

 その直後、私の目の前を耳につく高音を立てながら通過した。☆

「バカじゃねぇの!」

 踏切の警報音が止み、遮断機が開いてすぐ、怒鳴り声が聞こえた。私は反対側にいるイサムくんと女の子の方へ駆け寄った。

 女の子は遮断機の前に座ったまま、泣いていた。イサムくんは女の子の前にかがんでいた。

「イサムくん」
「メルちゃん。今、俺、すごい腹立ってるから話しかけないでくれる」

 振り返って、私を見たイサムくんはすごく怖い表情をしていて、私は思わず息をのんだ。

「――ごめん……なさい」と女の子は小さな声でそう言った。
 
「ふざけるんじゃねーよ! なにが死にたかったからほっといてほしいだよ」

 イサムくんは背中からでもすごい剣幕を感じる。女の子は噎びながら泣いている。私はバッグから、ポケットティッシュを取り出した。

「あの……。これ、使って」

 ポケットティッシュを女の子に渡すと女の子は無言で、ポケットティッシュを取った。私も仕方なく、イサムくんの隣でかがむことにした。しばらく、三人とも無言のままだった。私とイサムくんは女の子の様子をずっと見たままだし、女の子はひたすら泣き続けていた。

「ねえ。運転手から、女の子、足、くじいたって聞いたんだけど」
「いや。こいつ、足なんてくじいてないよ」
「え、どういうこと?」
「メルちゃん。こういうときは正当な嘘をつかないと大変なんだよ」

 私は思わずイサムくんを見ると、イサムくんはニコッとした表情をした。

「――どうして、嘘なんかついたの?」
「仮にこの子が本当の理由話してしまったら、事故じゃなくて、この子の過失になる。つまり、電車を止めた賠償金を支払わなくちゃならなくなる」

 なんで、イサムくんはこんなことも知ってるんだろう。

「電車止めるっておおごとなんだぜ。仮に飛び降り自殺したら、最悪、その遺族に何千万、何億か賠償請求されることだってあるらしいよ」
「へえ。物知りだね」
「まあな。入院してるとき観てた、ワイドショーでやってたの思い出したんだ」
 
 イサムくんがそう言ったあと、しばらくの間、沈黙が流れた。女の子は静かに泣いていて、私とイサムくんは女の子の次の言葉を待っていた。

「……それでも死にたかったの」
「あっそう。いいよな。生きること放棄する選択があるのって」
「……あんたにはわからないよ!」

 女の子の声が路地に響き渡った。女の子が着ている制服のスカートは他校のものだ。

「は? 知らねーし」
「どうせ、わかりっこないよ。あんたなんかに。生きることがつらい人のことなんて。なに? なんなの。ヒーローぶってさ。私だってそれなりの覚悟であんなことしたんだよ」
「知らねーよ。迷惑かけるような身勝手なことはどうかと思うけどな」
「ねえ。どうしてあんなことしたの?」

 私がそう女の子に聞くと女の子はしばらくの間、黙ってしまった。きっと、何かを自分の頭の中で再生しているのかもしれない。

「……私、社会不適合者なんだと思う」
「あっそ」
「イサムくんは黙ってて」

 私がそう言うと、イサムくんはバツが悪そうな表情をしながら、大きなため息をついた。

「周りと話が噛み合わないし、友達いないし、いじめられてはいないけど、失笑されたり、無視されたりするし、学校に行くだけでつらく感じるし、生きてる意味なんてよくわからないから、だったら死んだほうがマシって思ったの。――ただ、それだけ」

 女の子はそう言い終わったあと、立ち上がった。だから、イサムくんと私も女の子と同じように立ち上がり、女の子の次の言葉を待った。

 空を見上げると月の光が薄い雲で濁っていた。すっと息を吐くと白かった。

「やっぱ、ムカつくわ。理解できない」とイサムくんは呆れたような口調でそう言った。
 
「――理解しなくたっていいよ。どうせ、理解されないことだってわかって言ったんだから。あんたたちみたいに人生上手くいってそうな人にはわからないよ」

 ――なにそれ。ムカつく。

「ねえ。決めつけないでよ。人生上手くいってるだなんて」
「えっ」

 女の子は一瞬で驚いた表情になった。さっきまで泣いていた両目は暗闇の中でも、充血しているのが見えた。

「全然、上手くいってないよ。少なくともイサムくんは」
「いいよ。メルちゃん」
「イサムくん。私が良くない。――イサムくんはね、もう命が短いの! 勝手に決めつけないでよ。あなたに何があったか知らないけどさ、イサムくんがどんな気持ちであなたのこと助けたのか、わかって!」

 今度は私の声が辺りに響き渡った。女の子は驚いた表情のまま、私を見つめている。なんでこんなにこの女の子のことがムカつくんだろう。
 
「メルちゃん。いいよ。ありがとう。――俺、余命半年なんだよね。だから、ついムキになっちゃったんだよ。悪かったな。いきなり、怒鳴ったりして」

 イサムくんのことが気になって、思わずイサムくんの方をみると、微笑みを浮かべていた。






「あーあ、なんで俺、あんなに怒っちゃったんだろうなぁ」

 結局、私達はあのあとのソワソワして浮かない気持ちを解消するために駅前のスタバに入り、お互いにフラペチーノを飲んでいた。

「ねえ。イサムくん」
「なに?」
「ごめんなさい。私、ムキになって、病気のこと、口走っちゃって」
「違うよ。メルちゃん。――嬉しかった」
「えっ」

 私は予想外の答えがかえってきたから、少し動揺した。だから、それを隠そうと、フラペチーノを一口飲んだ。

「今、なんでって思ったでしょ」

 私が小さく頷くと、イサムくんは笑みを浮かべて、フラペチーノを一口飲んだ。

「俺のこと、わかってくれてるなって、すごい思った」

 私は急に恥ずかしくなった。そして、その感情と同時に顔が一気に熱くなるのを感じた。

「一瞬さ、俺、あのまま電車に轢かれるのかと思った」
「――よくやったよね」
「だろ。女の子に気づいて、走り始めた時は、どうせあと半年の命なんだから、電車に轢かれてもいいやって思った」

 イサムくんはそう言ったあと、小さなため息を吐いた。私はイサムくんの次の言葉をただ、待つことにした。

「だけど、電車のライトが見えたとき、怖くなったんだ。――死にたくないって」
「――そうだったんだ」
「あぁ。――なんでだろうな。もうさ、半分、諦めてるんだよね。俺。別にいいやって。だから、あんなバカげたノートも書いたんだよ」

 イサムくんは右手で髪をくしゃくしゃと何度かいじったあと、上を向き、また小さく息を吐いた。

「なあ。メルちゃん。――やっぱり、先がない男なんかと付き合っても辛くなるだけだろうからさ。別れちゃおうか。このまま」
「え、なに言ってるの」

 胸の奥にズキッと鈍くて思い感覚が広がった。
 
「やっぱ、余命半年ってつらいわ。――もっと、普通にこうやってデートだってしたかったし、メルちゃんのこともっと知りたかったな」
「ねえ。そんな悲しいこと言わないでよ。まだ、私、なにも答えだしてないんだけど」

 私がそう言って、イサムくんのことをまっすぐ見た。イサムくんの目元が少しだけ涙が滲んでいるのがわかったけど、私は目をそらさないように心がけた。

「今更、遅いよ。せっかく好きになり始めてるのに、自分だけ、格好つけないでよ。――その気にさせておいて、無責任だよ」
「――悪い。そうだよな。だけど、マジでいいの。最後まで」
「――いいよ。最後まで、付き合ってあげる。その代わり、イサムくんも最後まで私に付き合ってね」
「いいよ。約束する」

 イサムくんはそう言ったあと、右手の小指を私の方に差し出してきた。だから、私は右手の小指をイサムくんの小指に結んだ。






「結局、俺から約束破っちゃったね」
「いいよ。そんな最初の約束なんて、無いようなものじゃん」
 私は一瞬、この面会がイサムくんと最後になるのかもしれないと思って、胸の奥が一気に熱くなるような感覚がした。だけど、それをぐっと、我慢して、イサムくんに微笑んだ。

「付き合う前、俺から、メルとは病室では会わないって約束してって言ったのに、自分から呼んじゃうんだから、ダメだよな」
「ううん。素直に会いたかったよ、イサムくんに。――それより、イサムくん。これ読んで」
 私は緩みそうな、気持ちにしっかりとムチを打つために、バッグからサラダ記念日の文庫本取り出し、それをイサムくんに渡した。イサムくんの病室からは、雪で白くなった街が綺麗に見えている。

「メルちゃんありがとう。さすが。サラダ記念日、読みたいって思ってたんだよ」

 ベッドの上に座っているイサムくんはいつものように微笑んでくれた。

「寒いよ。今日」
「あぁ。本、冷たくてそう思った」

 イサムくんとクリスマスは過ごすことはできなかった。クリスマスの一週間前に入院し始めて、イサムくんはそのまま、一足早い冬休みを病院で過ごすことになった。

 そして、1月になり、ようやくイサムくんから連絡があり、こうしてお見舞いに行くことができた。

「メルちゃん。クリスマスごめんな」
「いいよ。――4月になったら、桜見に行こう」
「――だな」

 お互いに黙ったままになってしまった。
 とにかく、最初の約束が破られた今、私は次の約束が欲しかった。

 ――約束が果たされるのかなんてわからないけど、今は約束するしかない。イサムくんとの未来を。

「ねえ。私達のサラダ記念日、覚えてる?」
「当たり前だろ。せーの」

「11月16日」

 お互いにそう言って、二人で弱く笑った。

「息ぴったりだね。私達」
「いつの間にか、合うようになるんだな」
「そうだね」
「なぁ。メルちゃん」
「なに?」
「本当はさ、クリスマスにやりたいことがあったんだ」
「え、なに?」
「もう少し、こっち来てよ」

 イサムくんにそう言われて、私はパイプ椅子から立ち上がり、イサムくんのベッドの方まで近づいた。

「もっと。柵の手前まで」

 そう言われて、私はベッドの転落帽子柵に身体をくっつけるくらい近づけた。イサムくんの身体には何本の線が繋がれていて、それらの線は心電図の機械にまとめられていた。左手には点滴がされていて、そんなイサムくんの姿が切なく感じた。

「もっと。ベッドに座って」
「――いいの?」
「ほら、座りなよ」

 そうイサムくんに言われて、私はイサムくんの方に背中を向けて、ベッドの端に座った。そのあと、すぐに後ろから温かさを感じた。

 イサムくんに抱きつかれたまま、しばらく、お互いになにも話さずにそうしていた。窓の外を見ると、雪がちらつき始めていた。このまま、時間なんて止まってしまえばいいのに。

 なぜか辛くなって、息を止めて、我慢しようと思ったけど、涙が一粒あふれてしまい、頬を伝ったのを感じた。






 これが君と付き合った数カ月の話だ。君がいなくなり、桜が咲き、そして、散っても私の気持ちは未だに整理がつかない。

 君と何気ない毎日が過ごせたらいいなって思えるくらい息が合う感覚を私は忘れることができないよ。

 ねえ。あの世はどうですか?

 あの世から私が見えているなら、きっと、このインスタの文章も見られているかもしれないね。

 前を向くためには、まだ、時間が掛かりそうだから、私はしばらくフリーターのまま、自分の心の整理をつけて次のことを考えたいと思っているよ。

 全部、君の所為って言いたいけど、君を選んだ私の責任もあるし、君はそのことを危惧してくれていたから、すべて私の問題だよ。

 だから、今日でこのインスタの更新も辞めようと思う。
 
 最後に、この画像は、最後に彼からもらった最後の手紙だ。


 

 メルちゃんへ

 これを読んでいるということは……
 とか、辛気臭い話はしないよ!

 俺は本当は、あと半年、いや、しぶとくジジイになるまで生きるつもりだったけど、無理だったわ。メルちゃんのこと、もっと知りたかったし、もっといろんなことしたかった。

 息が合うとか、運命ってこんな感じなんだって思ったよ。まさか、ノート見られるなんて思ってもみなかった。
 
 本当のこと、白状します。

 実はメルちゃんと付き合いたいと思ったのは、メルちゃんがうしろの席だったからにすぎないんだ。更に白状しちゃえば、あのとき、ものすごく失望していたんだ。

 自分の運命を受け入れることができなくて。

 だけど、あれのおかげで、君の優しさに触れることができたし、初めて愛しいと思える人と出会えました。
 
 最後にこれだけは言わせて。
 本当にありがとう。
 俺は君が大好きだ。

 メルちゃん、
 くやしいけど、君の幸せを俺は祈ってるよ。

 イサムくんより愛を込めて。





「もう、春なのに」

 ぼそっと、そう言ってみたけど、それは虚しく部屋の中に、響いだだけで、なにも起きなかった。

 新しい約束はもうなにもないけど、あの日、屋上で言われた「病室では会わないでほしい」って言ったイサムくんの寂しいそうな表情は忘れられないよ。
 私はそう思いながら、iPhoneをそっと、机に置いた。そして、マグカップを手に取り、ココアを一口飲んだあと、頬がまた濡れた感触がした。