つるりとした光を反射する、セラミック・タイルの床。足を運ぶ度、カツンカツンと無機質な音がフロアに響く。
 わたしは密かな高揚を胸に、ドアの前に立った。

 ――虹彩認証クリア。高等植物研究所主任補佐・()(ろく)(あかね)

 わずかな音をたて、ドアがスライドする。少し躊躇ののち、わたしは足を踏み入れた。

 部屋のなかは、まるで空気が違っていた。汚染物質なんて欠片も含まれない、清浄な香り――みどりの匂い。
 深く吸い込むのは畏れ多くさえあり、わたしは浅く息を弾ませ、一歩ずつ進む。

 平原のように広漠な部屋の中央に、円筒型のカプセルがあった。周囲には(へり)(めぐ)らされている。
 その縁に凭れかかり佇む、ひとつの人影がある。

「……」

 息を潜め、人影へと目線を向ける。けれどわたしの瞳は、焦点を結べなかった。
 ――そのひとを、見つめるのが怖い。わたしなんかの瞳に、そのひとを映してしまってよいのだろうか。

 これまでの人生すべてを捧げてきた、崇高で尊い人を……。

 その時、何が起こったのか。その微笑みが、わたしの瞳に像を結ばせたのか。
 それとも、そのひとの微かな吐息に意識を搦め捕られてしまったのか。

「……っ」

 わたしはついに、人生を賭けてきたその存在を目の当たりにする。
 薄緑の髪を揺らし、微笑むそのひとは……。

 ――『プランツ・ラダー』、すべての草木を統べる者。
 固体名を『スバル』という――。

「おいで」

 初めて聞く、そのひとの声。たましいの奥底まで染み込むような、美しく澄んだ声音。
 わたしは操られたようにふらふらと、そのひとへと歩み寄った。
 足取りはふしぎに軽く、わずかな音さえたてない。

「やっと逢えたね」

 拡げられた腕のなかに、わたしは吸い込まれるように収まってしまう。
 ふわりと、若いみどりの匂いが香った。

「アカネ。待ち望んでいたよ。きみに逢うことを、きみを……抱きしめることを」
「スバル?」

 覚えているの? 幼い頃、連れられてゆくあなたを目にしただけのわたしを。

「僕は、いつだってアカネを見ていた。すべての植物は、僕の端末だから」

 スバルの繊細な指先が、わたしの髪をくしけずる。
 ちりちりとした快感がからだに奔り、わたしは瞼を震わせる。……まるで、毛先にまで神経が通っているかのよう。

「そう、きみの部屋のペペロミアもね。……僕はずっと、きみを見ていたんだよ」
「……!」

 『プランツ・ラダー』は全世界の植物と、ネットワークを形成している。わたしはそれを論文にして昇進し、スバルに逢う権利を得た。
 けれどあまりに筒抜けだったことに、わたしは頬を熱くする。

「逃がさないよ。ずっと待っていたんだ」

 彼の腕のなかで()(じろ)ぎをしたわたしを、スバルはぐっと抱きしめる。

「スバル」
「きみに、焦がれていた」

 頬に触れる、彼の白い指先。赤い血の通わない、つめたい植物の肌。

「僕たちがヒトを模すようになって十年。僕はきみだけを求めていた」

 わたしが幼い頃、植物たちはヒト型をとり始めた。そして、植物たちの指導者と見なされたスバルは、植物の叛逆を恐れる政府に捕らえられたのだ。
 以来スバルは、研究所の最奥、禁域のようなこの部屋に閉じ籠められている。

「スバルが逃げたいなら、わたしは……」

 わたしはついに、研究所の職員として言ってはならない言葉を口にした。
 けれども彼は、静かに首を振る。

「地上は汚染され、ヒトも植物も生きられない。ヒトは地下に潜った。……だけど、光合成をする僕たち植物は、ヒトの手を借りずには生きられない」
「ええ」
「植物は、僕らを生かしてくれるヒトを愛している。けれどもヒトは僕たちを愛し返してはくれない。――彼らにとって僕らはただの食糧。伴侶として愛を注ぐ存在ではないんだ」
「……っ、わたしはっ」

 スバルの、ヒトならざる琥珀の瞳。そこに宿る絶望を、わたしは(そそ)ぎたい。

「誰よりあなたを愛してる。あなたに逢うためだけに、わたしは研究所に入ったのだから!」

 言い募るわたしの姿を映す彼の瞳に、ふしぎな(きら)めきが瞬いた。
 つめたい植物のからだ、その瞳。けれどそこには、確かな熱が宿っている。

「……僕も、アカネを愛してるよ。ヒトで唯ひとり、きみだけを」

 抗い難く惹きつけられる。わたしのすべては、彼の瞳に吸い込まれてしまいそう……。
 スバルの長い指が、そっとわたしの頬をなぞりあげる。

 それから、ひんやりとした口づけが落ちてきた。強く薫る、みどりの匂い。重ね合わされたくちびるから、スバルの息吹が身体に満ちてゆく。
 ……まるでわたしも、彼の端末のひとつになったみたい。
 
 彼はわたしをいざない、カプセルへと導いた。ここは、植物のためのベッド。

「きみを愛させて。きみのすべてを僕にしたい」

 わたしは小さく首を振り、頷いた。白く冷えたスバルの体から蔦が伸びてきて、両の腕といっしょにわたしを抱き留める。

「は……」

 はだけられた素肌に、蔦が張ってゆく。繊毛の生える先端で撫で上げられ、わたしのくちびるからは甘い吐息が漏れだした。

 ――体温が上がる。カプセル内の空気が、しっとりと湿ってゆく。
 快楽がからだの境界をあいまいにし、液体のように蕩けてゆく……。



 スバルの唯一植物らしくない箇所を、わたしは自らのなかに受け容れた。雄《お》蕊《しべ》の変容であるそれは、ヒトに合わせてなのか血が通うごとく赤く、肉々しくケモノじみていた。

 スバルとわたしは深く溶けあい、混ざりあい、ひとつになった――。



   …∽‥∽∽‥∽‥∽∽‥∽‥∽∽‥∽…



「主任。良かったんですか」
「何がだ」

 高等植物研究所のモニタールーム。壁面に波形が映しだされている。スバルの脳波の形だ。
 プランツ・ラダーたるスバルにはナノマシンが埋め込まれ、常に生命活動が監視されているのだ。

 今の波形がスバルだけのものなのかは、調査の必要があるが……。

()(ろく)のことです」

 宇緑茜。スバルを誰よりも愛したその女は、ここにはいない。

「仕方ない。奴が本気になれば、人類を滅ぼすことなど容易なのだから」

 宇緑には伏せられていたが、近年、汚染された地上に芽吹く植物が発見された。どんな有害物質や病原菌を有しているか判らないそれらは、スバルの指示さえあれば一斉に、地下への侵攻を開始するだろう。
 否、地上の植物もまたスバル自身だ。意識を共有する彼らは、どの個体もスバルの端末にすぎない。

「でも」
「政府の決定だ」
「そう……ですね」

 モニターの波形が昂ぶり始めた。スバルと――スバルに取り込まれた宇緑茜の愛の交歓だろうか。

「我々は、せめて……」

 波形が踊る。高らかに愛を(うた)い、()いている。

「せめて、彼女とスバルの愛を祝福しよう」

 ――彼女がすべてを引き換えに手に入れたその愛が、何より至上でありますように。



<了>