前回のあらすじ
身元不詳の女子中学生が体で払わせてくださいとお願いする回でした。
誇り高き放浪伯が剣、誉れ高き遍歴の騎士の名を頂いたアルコ・フォン・ロマーノが、定例の巡回経路を外れ、あり触れたさびれた街のひとつに過ぎないレモの街に訪れたのは、なにも旅の遊びの内ではなかった。
昨今帝国東部を騒がせる茨の魔物の跳梁を耳にし、アルコとその従者フラーニョはその噂を確かめるべくこのしなびた街へ向かったのだった。
レモの街に至る街道は代り映えのしないものだった。アルコたち遍歴の騎士たちが、またそれぞれの領主に剣を捧げた巡回騎士たちが盗賊や魔獣・害獣を討伐して回り、今も宿場を増やしつつある街道は、旅慣れた者たちにとっては歩き慣れた実家の庭ほども安全だ。
「実家の庭に豚鬼出るんですねアルコ様」
「出な……いや、たまに出たかな」
「辺境ですか」
「失敬な奴だな。第一ご近所さんだろう」
まあ安全といえども限度はある。
遍歴の騎士も巡回騎士も数に限りはあるのだ。旅路の完全な安全の達成、盗賊や魔獣・害獣の駆逐にはまだまだ時間がかかるだろう。
何しろ盗賊の絶えたためしはなく、魔獣や害獣とはいずこからともなく湧いてくるようなものだからだ。
ともあれ、無事豚鬼の群れと角猪たちを狩りつくし、アルコとフラーニョは使用した矢を回収し、討伐の証明として豚鬼は左耳を切り取り、角猪は角を圧し折って革袋に詰めた。
矢の数は、豚鬼の数とぴたりそろった。
この程度の相手に自慢する程ではなかったが、アルコは《無駄なし》の異名を誇る弓の名手である。
余りにも平然と盗賊を、魔獣を、そして害獣を仕留める手腕は全く淀みというものがなく、傍目から見る分には自分にもできるのではないかと思わせるほどに手軽にやってのけるが、もちろんこれは言うほどには簡単な事ではない。
まして今回の相手はただの豚鬼ではなく、旅人を追いかけまわしているその最中であった。
敵の注意が他所に向いているというのは一見してこちらに有利であるばかりのように思えるが、実際のところはそう簡単な話ではない。
射かける側としては、逃げる旅人が次にどちらへ逃げてどう動くのかを把握した上で、それを追いかける敵を狙わなければならない。
ましてお世辞にも安定しているとはいいがたい角猪の上にある、暴れに暴れる豚鬼たちを、こちらも揺れる騎馬の上から射掛けるのだから、生半な腕ではまず、当てることさえ難しい。
それをすべて、滑りやすい頭に正確に命中させ、ただの一発ずつで絶命させているのだから、これは、
(全く、相変わらず化け物じみている……)
と言ってよい。
助けた旅人は奇妙ななりであった。
ふわりふわりと柔らかな布をふんだんに使う、どこか神官の法衣のような印象なのだが、妙に露出があったり、やけに飾りが多かったりと、踊り子のようでもある。
またしがみつくようにまたがった馬も珍しい、というよりは見たことがない。
山猫や豹と言った大型の猫のようにも見えるが、よく見れば目や口といったものがないのっぺらぼうで、時折主と何かしら話し合っているようにさえ見える。
妙な魔獣である。
ユヅルという名も聞き慣れぬ響きである。
西方の響きによく似ているが、ユヅルの話す交易共通語はなまりのない綺麗なものである。
また奇妙な所はさらに続いた。
レモの街の街門に辿り着き、遍歴の騎士に与えられた通行手形を見せたまではいいが、助けた旅人は手形も、身分を証明するものも、何も持っていないという。
「フムン、どこかで落としてきてしまったのかな」
「服もきれいですし、近くで仲間がはぐれているのかもしれませんね」
考えてみれば、どうにも頼りなさそうな小娘が馬を頼りに一人旅をするなどというよりは、旅の仲間とはぐれてしまったと考える方が真っ当である。
とはいえ、そのはぐれた理由とはぐれた先とを考えると、まず真っ先に思い当たるのが先の豚鬼どもであるから、アルコとフラーニョは顔を見合わせた。
まさか今にも泣きだしそうな小娘に確かめてみるわけにもいくまいと思っていると、おもむろに娘が顔を上げた。
「え、ええとですね、さっきの、豚鬼達に追いかけられていた所からはわかるんです。でも、それ以前のことは記憶があいまいで、頭をぶつけたせいだとは思うんですけれど。ここがどこかも、自分がどこから来たかもわからないんです。あ、名前とかはわかるんですけど」
何もわからないという現状に緊張と不安を感じているのか、早口でいささか挙動の怪しいところはあったが、言い分は成程わからないでもなかった。
特に荒事に慣れていない子供などは、凄惨な光景を心が受け止め切れず、咄嗟に心を閉ざして見なかったことにしてしまうということが多々見られる。大人でさえ時にそういった、現実を受け入れ切れずに心壊すことがあるのだ、この手弱女にそのような災難が降りかかっても致し方のないことと思われた。
もちろん、よくあることだけに悪党どものよく使う文言でもあるが、この水仕事もしたことがなさそうな指と言い、ふっくらとした頬と言い、いかにも小金持ちの商人の娘といった風情に、そのような疑いをかけられようはずもなかった。
よしんば偽りであったとしても、どうせ無理な婚姻でも押し付けられそうになって身一つで逃げ出してきた家出娘とか、そのようなことだろう。そういった家庭の事情に首を突っ込むのはいささか以上に、野暮だ。
アルコ達は深入りすることを止め、ただ身寄りのない娘を保護したということで、しばらくの面倒を見ようと決めた。
そういうアルコ達の気遣いを察してか、ユヅルは健気にも路銀の持ち合わせがないこと、また働いて返すつもりであることを告げてくれたが、仮にも遍歴の騎士が保護した娘を働かせて路銀を稼いだなどということがあってはならない。
その気持ちばかりは立派なものだから、何か形ばかりの仕事でも与えて満足させるべきだろうか。
アルコ達がそのような事を考えていると、思いもかけない言葉がユヅルの口からこぼれた。
「わ、わたし、魔法が使えるんです!」
フムン、とアルコは顎をさすり、馬上からちらとフラーニョを見やった。
フラーニョもまた、思案顔である。
魔法使い、魔術師というものはこれは才能が大きいものであるから、誰しもが使えるものではない。しかし逆に言えば才能さえあれば、農民でも気軽に使えるものもいるし、騎士などはみな一つや二つの魔法は覚えているものである。
それこそ水くみを楽にする程度のものも、魔法と言ってよいのだ。
「何ができるんだい?」
「その、き、傷を治したりできます。あと、疲れをとったり」
しかしユヅルの口にしたものは、どちらも身近な魔法と言っていいものではない。
魔法でも同じことはできるが、どちらかと言えば神の力を借りる神官の技である。
「以前、村の薬師がスリ傷や切り傷といった小さな傷を治すまじないを使うのを見たことがあります。その程度でしたら、有り得るのでは」
フラーニョもそういうことであるし、何より必死に言い募る小娘を嘘つき呼ばわりするのは、遍歴の騎士のすることではない。
「わかった、わかった。君の魔法については後で考えるとして、まず宿をとろう」
門前でつかえて、いい加減に流れが滞っていた。
宿と言っても、市井の宿を探す必要はなかった。
遍歴の騎士というものは言ってみればある種の公務員であり、その職務は公務であるから、村であれば村長に、町であれば町長に、レモの街のようなある程度の大きさの街であれば代官に宿を求めれば、これは余程の事でもない限り快く受け入れられるものである。
代官の屋敷について、馬とユヅルをフラーニョに任せると、アルコは一人応接間で代官と向き合った。
「これはこれは、まさか遍歴の騎士様がお出でなさるとは」
「茨の魔物が出たと聞き及び、微力ながらとはせ参じました」
「ありがたい。私はこの街の代官を任されております、郷士ジェトランツォ・ハリアエートと申します」
郷士ジェトランツォは上背のある堂々とした初老の人族男性だった。
物言いこそ丁寧ながら、むしろ度量の大きさのようなものがはっきりと見て取れ、いくら才気に富むとはいえ若造に過ぎないアルコにはいささか苦手とする相手である。
「それで、シニョーロ・ジェトランツォ」
「敬称はやめてくだされ。放浪伯の剣に頭を下げさせたとあっては」
「では、ジェトランツォ殿。よしなに」
「ええ、ええ。客室を用意させます。それで、お連れは……?」
「私の従者と、門前で保護した娘です。豚鬼の群れに襲われていたところを拾いました」
「なんと、我が街の軒先でそのようなことが。よろしければこの街でお預かりいたしましょうか?」
「滞在中は面倒を見るつもりですが、娘が望むようであればよろしくお願いしたい」
「勿論、勿論」
「手慰みに仕事など与えていただけると助かります。あれが言うには、癒しの魔法が、」
豪華ではないがしっかりとした作りの椅子に腰を下ろし、水で薄めた蜂蜜酒を酌み交わしながら詳細を話し合おうとしたところで、窓の外から歓声が響いた。
「おお! おお! すごいぞ!」
「次は俺だ、俺を頼む!」
「いや、馬が先だ!」
「病は治るのか!?」
アルコとジェトランツォは顔を見合わせた。
窓から見下ろせば、中庭にずらりと男たちが並び、小柄な娘を取り囲んでいるようである。
娘はユヅルであった。
「おい、おい、貴様ら、なにをしておるか! 客人のお連れであるぞ!」
獅子の吠えるような声で郷士が怒鳴りつけると、男たちはさっと青くなって跪いた。その中できょとんとしたユヅルが、こちらを見上げて、よくわからないといった顔つきでためらいがちに手を振った。
「何があったというのだ。トリデント、説明しておくれ」
一喝した後はむしろどっしりと腰を落ち着けた様子で、郷士が下男の一人に尋ねると、下男は興奮した様子で物語った。
「き、傷が治ったんでさ!」
「なに? 傷が? 詳しく申せ」
「昨日馬に蹴られて腕の骨を折っていたんですが、この嬢ちゃん、いえ、こちらのお嬢さんが手をかざすや、あっという間に骨が接いで、痛みもなくなっちまったんでさ!」
「俺もです御代官様! ナイフでざっくり切っちまったところが、あっという間に跡も残らねえんだ!」
「馬たちの怪我も直してくださったんでさ!」
口々に叫ぶ男たちに囲まれて、ユヅルが困惑したように呟いた。
「や、やりすぎちゃった、かも……」
用語解説
・放浪伯
ヴァグロ・ヴァグビールド・ヴァガボンド(Vagulo Vagbirdo Vagabondo)放浪伯。
帝国各地に、大きくはないが点在する形で飛び地領地を数多く持つ大貴族。
過去の戦争中にあちらこちらで転戦して領地を獲得していった結果らしい。
本来であれば利便性の為にもどこかにまとめる筈だったらしいが、本人の放浪癖とあまりに力を持ち過ぎる事への懸念からあえて分散させている。
当人はいたって能天気で権力に興味はない。
旅の神ヘルバクセーノの加護により、一所に長くとどまることが出来ない代わりに、旅を続ける限り不死である。
・レモの街
(Lemo)
帝国東部の小さな町の一つ。放浪伯の所有する領地の一つ。
養蜂が盛んで、蜂蜜酒が名産の一つ。
・山猫/豹
大型のネコ科の獣。
・魔獣
魔法を使う獣の総称。
・交易共通語
帝国全土で用いられている公用語。種族、地域問わずに用いられるが、それぞれに訛りがある。
・魔法
魔力を用い、精霊の力を借りて奇跡を起こす技。
・神官の技
神の力を借り、奇跡を起こす技。法術。
・郷士(hidalgo)
貴族階級と平民の間にある身分。
主に貴族が不在地主である領地で、代官として領地を治める家。
一代限りであるが、通常は長男が次の郷士として叙任される。
・ジェトランツォ・ハリアエート(Ĵetlanco Haliaeto)
レモの街の代官として代々郷士に叙任されてきたハリアエート家の現当主。
五十を超えていい加減代替わりを考えねばならない年だが、長男がせめて一度でいいから父に土をつけるまではと代替わりを渋っている。
・シニョーロ(Sinjoro)
英語でいうSirにあたる。騎士、また郷士に敬称として用いる。
・蜂蜜酒(Medi-trinko)
蜂蜜を水で割り、発酵させた酒類。ここでは保存性、香りづけ、また薬効を高めるために種々の香草を加えたものを言う。
栄養価も高いことから医師の飲み物(Medicinista trinkaĵo)、略してメディトリンコと呼ばれている。その効能と安価なことから民衆にも親しまれている。
東部では養蜂が盛んで、レモの街でも製造している。
・トリデント(Tridento)
ハリアエート家に仕える下男頭。
前回のあらすじ
身元不明の女子中学生が、むくつけき男どもに囲まれてやりすぎちゃった回でした。
「や、やりすぎちゃった、かも……」
『かもじゃないよねえ、これは』
ユヅルはむくつけき下男たちに囲まれて困惑していた。
そもそもの最初は、フラーニョに連れられて、厩に馬をつなぎに行ったときである。
アルコの馬を厩につなぎ、じゃあその子もと言われて慌てて、この子は繋いでると具合悪くなるんでとなんとかノマラを連れていくことを許してもらった。ノマラのサポートがなければ、ユヅルは自分がやっていけないだろうことを痛いほど感じていた。
この厩に勤めている下男の一人が、腕を吊っているのを見て、ついつい職業病が出たのである。
「あの、その腕はどうされたんですか?」
「あ? ああ、いやね、うちにゃ気性の荒い馬がいるんだが、うっかり怒らせて蹴られちまってね」
「折れてるんですか?」
「ああ、骨接ぎに接いじゃもらったけど、まだつながらねえんだ」
「よかったら治しましょうか?」
「治せるもんなら治してもらいてえもんだよ」
「はい、じゃあ」
ぽんと手を当てて、口の中で短く呪文を唱える。
そうすれば魔力があふれて傷口にしみこみ、健康だった状態まで回復させる。
この場合であれば、折れた骨と骨がしっかりと向き合ってくっつき、骨の破片が一つ一つ元の位置に戻り、傷ついた筋肉や神経がぴたりぴたりと張り合わされ、しっかりと固定される。
一番簡単な魔法だから、これでは足りない血や欠損部までは回復しないが、簡単な骨折程度であれば、これ一発で済む。
そう。
単純骨折を、単純と名前がついているからという理由で簡単なものだと錯覚する頭の軽さが、ユヅルにあまりにも気軽に治療をさせていた。
「いっ……たくねえ」
「おーい、どうした?」
「痛くねえ! 骨が繋がってやがる!」
「おまっ、ばっ、まだ一月はかかるって言われたろ!」
「治ったんだよ! ほら!」
それから先は、友釣りよろしく、あるいは芋づるよろしく、俺も、じゃあ俺も、俺もここが、馬の調子が悪くて、風邪気味なんだけど、結婚してください、と気づけば野外診療所が出来上がってしまい、最終的にはあたりはばからぬ歓声を上げて怒られる羽目になったのだった。
「おお、あなたがユヅル殿か!」
「え、あ、あい、すみませんわたしが結弦です」
「何を謝られるか! 下男どもにこうも惜しみなく癒しの術をかけていただけるとは!」
「……フラーニョさん、わたしやっちゃった?」
「やっちゃってます」
「ぐへぇ」
「街の薬師も医者も、こうまで見事な施術はできますまい。是非とも感謝の品を」
「いえいえいえいえそんな恐れ多い!」
むくつけき男どもに囲まれた時でさえテンパった挙句無心で治療に専念することでしか心の安定を保てなかったのに、そのむくつけき男どもの親玉と思しきマッスルにマッスルを重ねたようなおじさままでやってきたとなるともはや結弦の精神は折れそうだった。元々常に折れそうだが。
「こここ、これはそのう、身寄りもなし保証もないわたくしめを拾っていただいたアルコ様へのお礼と、屋根を貸していただけるという郷士様へのご恩返しというやつでしてえへへへ」
『卑屈過ぎない?』
「おお! そのような技をお持ちでありながら謙虚でいらっしゃる! さぞや名のある術師殿とお見受けするが、寡聞にしてもお名前を存じ上げず申し訳ない!」
「いえいえいえいえ、自分でも自分が何者かさっぱりでして!」
こうしてマッスルおじさまの褒め殺しと結弦の土下座に等しい謙遜合戦はかろうじて結弦優勢で収まり、記憶が全くないので詳しいことはわからないが、自分にできることとして精いっぱいやった結果がこれですと言い張ることに成功した。
「……うわぁ」
「人間あそこまで卑屈になれるものなのだな、フラーニョ」
「いや、平民でもあそこまで卑屈なのは稀ですよ」
外野が何やら言っているが、一般的な女子中学生の中でも特に自己評価の低い方である結弦にとって、持ち上げられれば持ち上げられるほど苦痛とめまいと吐き気が襲い掛かってくるものなのだ。
それも権力のありそうなお偉いさんに頭を下げられるなどという経験は結弦の人生で初めての経験であり、そもそもお偉いさんという漠然とした概念と遭遇することさえ、学校の校長先生が限度だ。
事態が落ち着き、郷士ジェトランツォ・ハリアエートは改めて一行に自己紹介し、また結弦も記憶喪失という設定上でできる範囲の自己紹介をかわした。
つまり、記憶を失って名前と回復魔法が使えること以外はわからないというごり押しである。
そして、拾ってもらった恩もあるし、ここで面倒を見てもらえるという恩もあるし、できることであれば自分にとってたった一つの取り柄である回復魔法でどうにかご恩返しさせていただきたい、ぜひそうさせていただきたい、そうでもなければわたしにはもう行く当てもないしここで本当に体でも売る外にないのでどうかお許しいただきたいと頭を下げた。
勿論、よき領主であり代官である郷士ジェトランツォは、下男たちを癒してくださった恩人にそのような没義道で報いることは有り得ないとし、恩に対し報いたいという気持ちは無下にできるものでなし、互いに気持ちよく過ごすためにもそのような取り決めを定めるのはやぶさかではない、とこの求めに応じてくれた。
なお結弦の精神はこのとき、男どもに囲まれ、さらにはお偉いさんに頭を下げられるというダブルショックによって圧し折れかけており、これらの答弁はすべてぴったり張り付いたノマラの囁きを反射的に棒読みで読み上げるというスタイルでお送りしている。
ざっくり簡単に言えば、「ここで働かせてください!」→「いいよ!」となった。
「もとよりアルコ殿より頼まれておりますからな」
「え、そうなんですか」
「君のこと放り出すつもりはないってば」
「え、でもわたしお支払いできるものが……」
「君ほんと、どんな生活してきたの?」
貴族っぽいアルコからだけでなくその従者であるフラーニョからも不憫そうに見られてしまったが、むしろここまで好意的な対応をされることの方が何か裏がありそうで恐ろしく感じてしまうのが結弦であった。
なにしろ魔法少女になったばかりの頃は回復魔法しか使えずろくにダークソーンとも戦えず、ようやく魔法少女仲間を見つけてみればこれがろくでなしどもで、結弦を無限に回復する肉盾兼囮として使い潰した挙句、自分たちの回復にも使用するという磨り潰し具合だった。
おかげさまで魔法のレベルはガンガン上がり最悪破片さえ残っていればそこから回復させることもできなくはないという極限回復魔法を身につけられたけれど、ありがたみはまるでない。自分の脳みそが飛び散る光景とか見ながら回復魔法を発動しっぱなしにしていた肉盾経験のおかげですありがとうございますとまで言えるほど結弦は卑屈ではない。
そして組合の魔法少女たちに助けられてからも地獄は変わらなかった。むしろ考える余裕ができた分、生き地獄度は上がったかもしれない。
授業中も部活中も担当区画にダークソーンが出れば関係なく出勤で、放課後はもちろんパトロール。日が沈めばダークソーン狩りが活発化する中、ひたすら出張ヒール受付所を開いて怪我人が入れ代わり立ち代わりやってくるのを癒し続ける日々。
以前は自分の壊れた体を直し続ける日々だったけれど、今度は人様の切り傷擦り傷、もげた手足に零れた内臓、潰れた目玉に砕けた膝の皿を癒しに癒し、ひき肉になり果てた仲間をマントに包んで持ってきては助けてくれと叫ぶ狂気じみたあの目! ああ! ああ! そりゃあ直したさ! 形ばかりは直して、本当に魂さえ元に戻せたかの自信なんて欠片もなくて! それでも涙ながらにありがとうありがとうと叫ぶ娘に何が言えただろうか! やめて、もうやめて! でもやめれば本当に死んでしまう。みんなみんな列をなして死んでいく。助けを、助けを、助けを、求めているのはわたしだ! わたしはただ死にたくなかっただけなのに!
「ユヅル?」
「え?」
「だ、大丈夫かい? 顔が真っ青だが」
「え、ああ、大丈夫です。生理です」
「えっ」
「え?」
「え、いや、うん、月のものか。いやでも」
「大丈夫です。わたしは大丈夫です」
「……うん」
さて、気持ち悪くなってすこし心が疲れてしまった。
何事も悪い方に傾き始めると、ずるずると傾きがひどくなっていってしまうものだ。
いけないいけない。傾きがひどくなると、取り戻すのに苦労する。
結弦は頬を軽く叩いて、深呼吸をした。ひとつ。ふたつ。みっつ。
『ユヅル』
「大丈夫。わたしは元気になりました」
『ユヅル』
「大丈夫。知ってるでしょ?」
『……』
そうだ。
信じようと信じまいと、わたしはヒーラー。
結弦はもう一度深呼吸を繰り返して、笑顔を張り直した。
「さて、じゃあ切りの良いところまでやっちゃおっか」
「え?」
「回復魔法ですよ。みんなやってあげないと不公平ですし、とりあえず、ここに集まってくださった方だけでも」
「よろしいのですかな。お疲れのようですが……」
「すっかり気が参ってしまっているのは確かです。でもだからこそ、動いて、働いて、気を紛らわせたいのです」
「そう申されるのでしたら無理におとめは致しません。部屋には後程案内させましょう」
「ありがとうございます」
こうして結弦の出張ヒール受付所(異世界支部)が始まったのだった。
用語解説
・何と今回は特にないんだ。
マジかよ。
前回のあらすじ
身元不明の女子中学生がやりすぎちゃった上に生理発言する回でした。
レモの街なる、この世界ではあまり発展していない方だという都市に辿り着いてしばらく、結弦の生活は一変した。
かつては遅刻ギリギリの時間まで惰眠をむさぼったかと思えば、時間になるや魔法で眠気を殺し、身だしなみを整えて朝食もそこそこに家を走り出て、学校の席に滑り込むや即座に眠ったふりならぬガチ寝でマイクロ睡眠時間を確保。
以降はダークソーン出現の報さえなければ休み時間ごとのマイクロ睡眠を徹底し、何なら授業中であっても気配の薄さと存在感のなさを駆使して居眠りを敢行し、板書は眠る必要のないノマラに任せていた。
授業が終われば部活動の時間で、思う様体を動かすことのできるアルティメット・テイザー・ボールは結弦のストレス解消に実に役立ってくれたが、それもダークソーン出現の報がない限りという条件付き。
最近では出現の報があって飛び出すけどお呼びじゃなかったです案件が二割ほどあってかなりクるものがあった。
楽しい部活動を終えれば一旦帰宅し、祖父の介護と祖母の夕飯づくりを手伝い、手早く夕飯を済ませて夜の街に繰り出す。
就寝の速い祖父母は結弦の夜間徘徊を疑ってもいないようだったが、他の健全なる一般家庭の魔法少女たちがどうしているのかは結弦の常々の疑問だった。
ノマラにそれとなく聞いたところ、『催眠って知ってる?』とあまり深入りしなさそうがいい感じの話題を提供されたのでそれ以来聞かなかったことにしている。実の家族に催眠かけてまで夜間徘徊するって間違いなくアウトだろ、と。倫理観どこ行ったんだよ、と。
そして夜の街に飛び出れば指定の場所で組合の用意してくれた飲料とお菓子と一緒に怪我人を待ちぼうける。怪我人が出るかどうかは日によってまちまちで、ハッスルするのかハッスルしそびれた鬱憤を晴らすのか週末は何となく怪我人が多い気がするが、気の抜けかけた水曜日も多かったり、かと思えばやる気の出ない月曜日に怪我をしたり、まあそれぞれに多少の傾向はあるようだが、ほとんど時の運と言っていい。怪我するときはするし、しないときはしない。
一応、三交代制でローテーションを組んでもらってはいるが、じゃあ非番の時は何をしているかと言えば、結局働かないことに罪悪感を覚えてダークソーン狩りに出張って出張ヒーリングしたり、ヒーラー仲間のお仕事を横でヒールして慰めてあげたりしていた。三人のヒーラーは割とそう言う、罪悪感とネガティブシンキングで生きているような面子だったので、ちょくちょく顔を合わせることもあった。それが仲良しだということにはならないのが魔法少女業界の辛いところだが。
そして夜が本当に更けて、ダークソーンの宿主である人間たちがすっかり寝入った頃に、魔法少女たちも解散する。ダークソーンは人の悪意を種に増殖する。だから昼間は程々で、夜間に盛り上がり、そして寝ている時は穏やかだ。時間決めてやってくれ、というのがすべての魔法少女の等しく尊い祈りであったように思う。人を人とも思わぬ業界ですら時間決めてピックアップやらイベントやらやってんだぞ、と。
そして罪悪感や明日への不安を無理やりに魔法で殺した不自然な眠りの後に、全ての魔法少女に等しく朝は訪れ、一コマ目に戻る、だ。
そんな生活はしかし、このレモの街で一変した。
朝。
朝は、朝日とともに目覚めた。窓から差し込む朝日に照らされ、目覚めは自然とやってきた。魔法で不自然に眠気を殺さずとも、快適な目覚めが訪れた。時にはそれよりも早く目覚めて、朝焼けを小鳥のさえずりとともに楽しむことさえあった。
朝食は質素なものだった。パン粥にチーズ、それに時に果実が一つつけばいい方だった。これはこの街では貧富の差に関係なく一般的なものだった。
レモの街は朝が最も忙しい。その忙しい時間帯に食事を摂る時間を悠長には取れず、またたっぷりと腹を膨らませては、仕事のしようもない。
郷士の屋敷もまた朝が一番忙しかった。郷士の朝の支度が整えられ、その家族の朝食が供され、彼らは各々の仕事へと就いて行く。
掃除は朝のうちから行われ、少なくとも昼食前には持ち分を終わらせなければならなかった。何しろ屋敷は広く、磨いても磨いてもきりはなかった。
とはいえ屋敷の女中の中でも、彼女らは特別忙しいわけではなかった。
特別忙しいのは厨房だっただろう。
何しろ厨房に休む時などない。郷士とその家族の朝食が供されれば、今度は下男や女中、侍従や侍女の朝食がふるまわれた。これは何しろ質素なものだから簡単な仕事だったが、問題は昼だった。
朝たっぷりと働いたこの街の人々は、昼によく食べた。一日のうちでもっとも豪勢なのが昼食だった。だから厨房の人間は朝食を出し終えたらもう昼食の仕込みの為にてんやわんやだった。料理長は献立に頭を悩ましながらも腕を振るい、パン焼き職人はせっせとパンを焼いた。厨房女中たちはみんな手元とにらめっこして野菜の皮むきや掃除だ。
勿論、厨房の人間が忙しい中、他の者たちが暇であるわけでもなかった。厩では馬丁たちが種々様々な馬たちの面倒を見、庭では庭師が鋏を入れ、また水をやり、魔木の面倒を見た。
掃除女中は床という床、窓という窓を神経質に磨き上げたし、洗濯女中は山ほどのシーツや、それぞれに洗い方にコツのある屋敷の住人の衣類、また使用人たちの衣類を積み上げては崩していくことに余念がなかった。
そして昼食にたっぷりのパンと、時に麺類、そして肉料理や魚料理を楽しんだ後は、少しの弛緩が来る。
郷士たち屋敷の家族も昼食後は各々にのんびりと時間を過ごすし、侍従や侍女も手すきのものは街に遊びに出る。馬丁達もよほどのことがない限りは、そっと見守ってやるだけでいいし、庭師も仕事が済めば後はゆっくりと休める。
厨房だけは別で、やはり夕食の仕込みが始まっているが、それだって昼と比べたらつつましやかなものだから、ほとんどのものは遊びに出かけているか、午睡にいそしむ。
日が暮れてくれば夕食の時間で、一品か二品の軽食と、濃いめに煮出された甘い茶が供された。
屋敷の住人の食事が済めば、使用人たちもまたそれぞれに軽食をとりわけて、そして、そう、後は寝るだけだ。
東部は何もかもが程々である代わり、何事にも不自由はなかったが、それだって不夜城を気取るには油というものは有限だった。揚げ物料理を市民が手軽に食べる程度には油はあり触れていたが、歓楽街を除けばこの街の夜は早かった。
夜が早いから朝は早い。そのようにして一日は回る。
結弦は最初のうちこそこの生活リズムに慣れなかったが、しかし、慣れてしまえばこれほど健康的な生活もない。少なくとも、魔法少女として、ダークソーンと戦っていたころに比べれば、格段に健康的と言えただろう。
誰もが仕事を持つ屋敷での生活で、結弦もまた自分の居場所を見つけた。それは屋敷のすぐ目の前に建てられた小屋だった。即席の小ぢんまりしたものとはいえ、なにしろ郷士の命で建てられたそれは、造りもしっかりとしており、そしてこう看板が掛けられていた。
「……『ユヅル施療所』」
『って書いてあるらしいね。不思議と読めるけど』
「うん、わたしも不思議と読める」
屋敷についてすぐ、結弦たちがこの世界において文盲だということは知れた。というのも、何しろこの帝国とやらでは、そこらの下働きどころか、ちょっとした丁稚小僧でさえ文字が読めるかなりの識字率なのである。誤魔化す方が難しかった。
しかしそこはそこ、ファンタジー世界の妙というところか。
郷士達に勧められて言葉の神エスペラントなる神様の神殿を訪ねたところ、物の三十分ばかり読書するだけで、この世界の文字が読み書きできるようになっていたのである。
試験勉強の時にこの神がいてくれたらどれだけ楽だっただろうかとは思ったが、普通の記憶と一緒で使わなければ忘れていくとのことで、結局は日々の努力であるらしい。
さてもさて、そのように読めるようになった看板の掲げられた施療所というのが、いまの結弦の居場所だった。結弦にもわかりやすい言葉で言えば、要するにヒーラー受付所だった。つまりいつもの仕事場だった。
「はい、おじいさん、どこが痛むんですか」
「わしゃ、腰が、腰が痛くてのう」
だとか、
「いてえ、いてえよぉ!」
「あらま、折れちゃってますね。骨継ぎからしますねー」
だとか、
「膝を矢で射られてしまってな」
「古傷はちょっと難しいんですけど、まあこのくらいでしたら」
だとか、最初のうちは冷やかし程度だった客も、代官公認の施療所ということもあり、またその腕が確かなこともあり、徐々に人気を博して、今では行列ができる始末だった。
一応、慣例として営業は昼までとなったが、それでも客は随分、入った。
「うへ、うへへ、ノマラ、見てみなよ」
『ああ、ゲスい顔して』
結弦は壷にたっぷりとため込んだ硬貨をジャラジャラともてあそんだ。一番安い銅貨の三角貨がやはり一番多かったが、鉄貨の五角貨も所々見られ、銀貨の七角貨がちらほら、それに、馬車にはねられた重態の男性を治した時に頂いた上等な銀貨の九角貨がその中で一枚きらりと輝いた。
結弦はまだこの世界の金銭の価値をあまり知らない。毎食代官屋敷にお世話になっているし、遊びに出かけてもこれと言って買うものが思いつかず冷やかすばかりなので、金は溜まる一方で、使う機会がないからだ。
それでも十三角貨も出せば串焼きが二本は食べられるということは知っていたし、五角貨一枚あればいいところで昼食が食べられることも知っていた。というのも、暇であるらしいアルコに奢ってもらったことがあるからだった。
「うへ、うへへ……」
それを考えれば、壷一杯の銅貨は、たかが銅貨と言えど相当な金額になることは間違いない。恩返しが主目的ということもあって代官に頼んで割安で営業しているが、それでもこの調子なら相当額がたまることだろう。
「こん、こんなに……」
『ユヅル、ハンカチ』
「う、ん。うん」
結弦はハンカチで目元を覆った。
「こんなに、人から感謝されるなんて、わたし、ほんとに、ほんとに……!」
喜びがそこにはあった。
用語解説
・アルティメット・テイザー・ボール
いままでなぜか突込みが来なかった部活。
詳しくは調べてみよう。
・催眠
ある程度魔力の扱いに慣れた魔法少女はみんなこれで家族の認識を誤魔化しているという。
悪い子の魔法少女は学校の認識も誤魔化してサボったりしてるとか。
・言葉の神エスペラント
かつて隣人たちがみな言葉も通じず相争っていた時代に現れ、交易共通語なるひとつなぎの言語を授けて、争うだけでなく分かり合う道を与えたとされる。
・通貨
銅貨の三角貨、鉄貨の五角貨、銀貨の七角貨、より銀の含有率の高い九角貨が主に通貨として流通しているようだ。金貨もあるようだが、これはもっぱら贈答用のものである。
前回のあらすじ
身元不明の女子中学生が銭を数えてゲスい笑いを漏らす回でした。
遍歴の騎士アルコ・フォン・ロマーノがレモの街に滞在して早一か月が過ぎようとしていた。
元来気の長い方ではないアルコはそろそろ焦れてきていたし、そうでなくても退屈を持て余していた。レモの街は近くに良い森も持つし、狩猟権を持つ代官の食客ともなれば狩りなど好きなだけ出来そうなものだったが、彼女の仕事が、また矜持がそれを許さなかった。
暇を持て余したから、というといささか悪趣味ではあるが、保護したからには面倒を見てやらねばならぬという当然の道理から、アルコはしばしばユヅルの勤める施療所に顔を出した。
施療所と言っても本当に小ぢんまりとしたもので、少しもすれば忽ち行列ができてしまうほどである。いや、小さいながらに行列ができるほどに人気の施療所と言えばいいのだろうか。
何しろ普通施療所とか施療院とかいうものは、貴族の政策の一環や、金持ちの有志の取り組みとして開かれるものであって、その実態はさほどによろしいものではない。街の薬師が扱うような薬を処方し、傷に包帯を巻き、病に正しい診察ができるのはほんの一握りで、精々が横にならせて加持祈祷じみた呪いをして見せる程度の、それなら神殿にいくというようなものだ。
神殿は神殿でこれも難しく、確かに癒しの術の多くは神官の用いる法術なのだが、確かな施療として癒しの法術を使える神官は決して多くはない。というのも、魔術にしろ法術にしろ、術というものは往々にして必要に迫られてはじめて開眼することが多く、神殿で祈るだけのものにはなかなか芽生えず、かえって在野の冒険屋などに多く使い手がいるほどなのだ。
勿論、レモの街の施療院は多くが良心的だ。金銭的な意味でも、施療的な意味でも。もとより代官たる郷士ジェトランツォの気配りの届いた差配で、街の各所には施療院が立てられ、そこに勤めるのはみな医療の術を学んだものばかりである。
これは領主としては当然のことのようにも思えるが、しかし実践して行うことができているかというと話は全くの別である。医療の術は学ぶに難く、一見して見返りはさほど多くないように思われるからだ。そこを押して通したからこそレモの街では赤子が死ぬことも減り、老人もみな、矍鑠している。
はじめひなびた街に過ぎないと思っていたアルコも、一月も過ぎれば郷士ジェトランツォがまったく優れた為政者だということがよくよく知れた。彼と彼の一族を代官としてここに置いた放浪伯の慧眼たるや恐るべきである。
そのように医療においてはまず他よりも随分高水準にあるレモの街であったが、ユヅルの施療所はそれと一線を画す水準にあった。
というよりは、文字通り、
(格が、違う……)
のである。
ユヅルは臆病で、卑屈で、何事にもあたらしく始めることを厭うような娘であったが、怪我人、病人が来るとさっと顔が変わった。大工が曲がった梁を見た時のように、或いは料理人が食材を見た時のように、また或いは船乗りが風と波とを見た時のように、万事仕事を整えた職人のような顔をとる。
そして目で見て、耳で聞いて、手で触れて、治してしまう。
この速やかなることは全く尋常ではない。
まず目で見れば外傷のほどはわかる。耳で話を聞けば、怪我をした時のことや、今どう感じているかがわかる。手で触れれば、実際にどうなっているかがわかる。これは施療院でも行う。行わなくては施療はできない。
だがユヅルの場合、診察をしたのち、ほとんど流れるようにこれを癒してしまう。
本人が癒しの術と呼ぶそれは、遍歴の長いアルコにしてもまるで見たことのない類のものである。
ユヅルは神に祈りを捧げない。言葉で持っても、仕草で持っても、祈りなどそこにはない。高らかに名を呼ばうこともないし、激しい祈祷の身振りもない。
小さく口の中でなにごとか呟くさまは、魔術師のそれに似ている。それも熟練の魔術師のそれと同じような滑らかさである。そして触れる。時に触れずとも行う。そうだ。癒しの術を。
ユヅルの目は時々怖くなるほど平坦に見えることがある。子供の擦り傷も、大人の病も、小さな傷も、大きな怪我も、ユヅルはその大小軽重にかかわらず、見て、聞いて、触れて、癒す、その工程を変えるということがない。
大の男でさえも目をつむるような、馬車に轢かれた哀れな男が担ぎ込まれたとき、人々はみなもう駄目だと思った。施療院ではなく神殿の仕事だと思った。つまり、癒しではなく弔いの時間だと。
だがユヅルはたった一人、神に祈らなかった。
目の色を変えず顔色を変えず、ただその倒れ伏した体を見て、聞こえますかと声をかけて聞き、そのねじ曲がった体に触れ、そして、ああ、そうだ、そして彼は癒された。骨は元の形に継ぎ直され、肉は元の形に張り合わされ、血は元のように収められ、命は元のようにそこにあった。
奇跡だと歓声の上がる中で、彼女だけが、ユヅルだけが怯えたように身を縮こまらせていた。
ユヅルは不思議な少女だった。
まだ幼いと言っていいほどにいたいけな彼女はしかし、常に礼儀正しく、自分を抑えるということを知り、そして臆病なまでに卑屈だった。
これほどの術が使えるのだ、本来であれば天狗どものように高慢であってもいい。
或いは土蜘蛛どものように偏屈でもいい。
しかしユヅルはそのどちらでもなかった。
高価そうな衣服に身を包み、よくよく教育を施され、しかしてその内面はどこまでも卑屈で、内罰的で、自己卑下の塊だった。
せっせと毎日施療に精を出して大いに稼いでいると思いきや、当人はその銭を一切使うことなく溜めこむばかりで、教えねば金の使い方もわからないのかと危ぶんだほどであったが、幸いそこまでではなかった。
しかし、これらの矛盾はアルコを、また郷士ジェトランツォを困惑させた。
ともすればどこかの富豪が、癒しの術を目当てに奴隷扱いしていたのではないか。そのようには思えども、まさか当人に聞くわけにもいかない。
アルコも何度かユヅルを気にして、街の物見や、食事に連れて行ったことがあるが、その振る舞いは精々が、先輩や上司に食事をおごってもらって恐縮しているといった体を出ない。また、あれやこれやと聞いてくることは割合に当たり前のことが多く、記憶がないというのもどうやら確かのようだった。
まったく、この少女は何処から湧いて出たのか降ってきたのか。アルコも郷士ジェトランツォも頭を悩ませるばかりである。
この日もアルコは、施療所での仕事を終えたユヅルを連れて物見に出たが、あれやこれやと興味を示すものの、手は出さない。奢られるのを待っているのかと意地悪な気持ちで、買ってやろうかと声をかければ、きょとんとした顔で見上げてきて、いえ、欲しいと言うほどではないのでとあっさり断られてかえって困惑する。
年頃の娘ならば飾り物や、可愛らしい小物など欲しがるのではないかと積極的に勧めても見るが、曖昧な微笑みでしかしやんわりと断られる。物欲というものがないのだろうか。
屋台で串焼きを買った時は食べてもらえたし、食事に誘えばたまには付き合ってくれるが、これも後に残らぬものだからなのか、それとも単に付き合いで食べただけなのか、いまだに判然としない。
そのようにアルコが一人頭を悩ましているというのに、ユヅルという少女は酷いものである。
「アルコさんて」
「うん、どうしたかな?」
「お暇なんですか?」
「ぐふっ」
無垢な瞳がかえって辛かった。
勿論、アルコも暇な身ではない。忙しい中、保護した義理を思って顔を出しているのだ。だがそれを責めようにも、ユヅルの顔にはこう書いてあるのだ。私のようなもののところに来るなんて余程に暇なのだろう、と。彼女は自分の立場というものがわかっていないのだ。
「暇なわけじゃあない。いまも一応お仕事中だよ」
「お仕事中に、私とお茶してていいんですか」
「むしろ人ごみに紛れて、助かる」
茶屋で甘茶などを飲みながら、ようやく疑念を晴らす時が来たかとアルコは胸をなでおろした。
「私は巷を騒がす茨の魔物を追いかけているのさ」
用語解説
・冒険屋
いわゆる何でも屋。下はドブさらいから上は竜退治まで、報酬次第で様々なことを請け負う便利屋。
きっちりとした資格という訳ではなく、殺しはしないというポリシーを持つものや、ほとんど殺し屋まがいの裏家業ものまで幅広い。
・天狗(Ulka)
隣人種の一つ。風の神エテルナユーロの従属種。
翼は名残が腕に残るだけだが、風精との親和性が非常に高く、その力を借りて空を飛ぶことができる。
人間によく似ているが、鳥のような特徴を持つ。卵生。
氏族によって形態や生態は異なる。
共通して高慢である。
・土蜘蛛(longa krurulo)
足の長い人の意味。
隣人種の一種。
山の神ウヌオクルロの従属種。
四つ足四つ腕で、人間のような二つの目の他に、頭部に六つの宝石様の目、合わせて八つの目を持つ。
人間によく似ているが、皮膚はやや硬く、卵胎生。
氏族によって形態や生態は異なる。
・甘茶(dolĉa teo)
甘みの強い植物性の花草茶。
前回のあらすじ
身元不明の女子中学生を連れまわす事案。
結弦は参っていた。
たまにアルコが食事や見物の誘いに来るのが非常にしんどかった。屋敷の食事以外も食べられてラッキーくらいに思っていたのだが、そこにフラーニョの警告があったのだ。
「あの人、若い娘なら誰にでも優しくしますから気を付けてくださいね」
「え、それって」
「女たらしです」
まさか市内見学のお誘いがデートのお誘いだったとは、さしもの結弦も思いもよらなかった。というより、男子からのお誘いもまだなのに異世界で女性からのアプローチを受けると誰が思うだろうか。
この世界ではそういう趣向に非常に寛容というか、もはや当たり前レベルで受け入れられているらしいが、結弦としてはちょっと待ってほしい。何事にも悟った世代といわれて育った結弦としても、急に受け入れられるかどうかというのは難しい問題なのだ。
なにしろアルコは役者のように顔も良いし、そこらの男よりも背丈もあり、何より振る舞いが紳士的であるから、結弦でもちょっとドキッとすることはある。でもそれはあくまでもアルコの表面の部分にドキッとしているだけであって、アルコの中身や、また肉の体に対してドキリとしているわけではないのだ。
素直に格好良いとは思う。憧れるだけなら楽だとは思う。しかし当事者となると、かえって結弦には気が重かった。
同性愛だのなんだのというところを省いても、結弦はそういう、積極的に意識を向けられることに慣れていなかった。それが好意であれ悪意であれ、人の意識というものは本来、結弦の前で上滑りしてどこかへ流れていってしまうものだったのだ。
けれどこの世界では、時間の流れが穏やかで、そして、意識の逃げる場所というものがない。ただまっすぐに自分に向けられる視線というものが、結弦にはどうしようもなく耐えきれなかった。
勿論、フラーニョの言うのはあくまでもアルコにはそういう性向があるというだけのことで、結弦にそういう視線を向けていると限ったわけではなかった。しかし結弦からすれば、結弦のような平凡な小娘になにくれとなく気をかけてくれ、食事に誘い、アクセサリーや小物をプレゼントしてくるというのは、それだけでそう言う視線だと断定していい気分になる重圧だった。
もし違ったとしたらそれこそ勘弁してくださいよと泣きたくなる。
今日もそのように微妙に胃の痛くなるデートを断り切れず、やんわりと曖昧な笑みで話題を流しに流してきたけれど、喫茶店らしき店で甘いお茶を頂いている時に、ついつい毒が出た。
「アルコさんて」
「うん、どうしたかな?」
「お暇なんですか?」
「ぐふっ」
もう少しで美形が茶を吹く瞬間が見れたのだが、さすがに美形はガードが堅い。ハンカチで抑えられてしまった。
図星だったのだろうかと眺めていると、「頭痛が痛い」と言わんばかりの顔をするのでどうも違うらしい。
「暇なわけじゃあない。いまも一応お仕事中だよ」
「お仕事中に、私とお茶してていいんですか」
「むしろ人ごみに紛れて、助かる」
結弦が訳も分からず小首を傾げると、
「私は巷を騒がす茨の魔物を追いかけているのさ」
「茨の魔物、ですか?」
それはちょっとどころではなく、いやな予感のする響きだった。
「もともと、私が遍歴の騎士だというのは話したっけ」
「う、ん、お聞きしたような気がします」
「まあ、遍歴の騎士というものは有名なものではないからね」
アルコは語った。
この帝国には、かつて戦争で各地を転々と戦いに明け暮れた将がいた。帝国が統一され、聖王国軍を追い返すころには、その功績たるや一人の将に収まるものではなかった。皇帝はその働きを褒め称え、その打ち立てた功績に見合う領地を一所に揃えようとした。
しかしそれは帝国内部にあまりに大きな権力を配するということであったし、なにより、将は自分が一所にとらわれることを拒んだ。故に、皇帝は将が功績を上げた土地をそのまま将の飛び地の領地として配し、将を特別に取り上げることでその代わりとした。
この将が、今の放浪伯ヴァグロ・ヴァグビールド・ヴァガボンドその人であるという。
「……え。その戦争って最近なんですか」
「まさか、大昔さ」
「じゃあ、その、相当お年を召されているというか……」
「全くかなりの御長命だよ。閣下は旅の神ヘルバクセーノに愛されていてね。旅を続ける限りは不死であるという、加護とも呪いともいえる寵愛を受けておられる」
「それはまた……ファンタジーな」
「ふぁんたじー?」
「いえいえ。それで、アルコさんはその……?」
「うん、放浪伯に剣を捧げた騎士は、何しろ領地が帝国全土に散らばっているからね、必然的にあちこち動き回るものも必要になってくるのさ。私はその動き回る方の騎士。これを遍歴の騎士と言うんだ」
「街にいらっしゃる、巡回騎士という方とは違うんですか?」
「巡回騎士はその領地の騎士が、領内を見て回るお巡りさんさ。私はさながら出張ばかりの旅商人でね」
「じゃあ、この街にも出張で?」
「そう、それが茨の魔物さ」
茨の魔物。どこか馴染みある響きである。いやな馴染みが。
「この魔物は、ただの魔獣ではない。人に取り憑くんだ」
「人に……取り憑く」
アルコが語るところによれば、こうだった。
茨の魔物は人に取り憑く。いつ、どうやって取り憑くかはわからない。しかし人の体に取り憑く、隠れてしまう。普段は全くそれらしいそぶりを見せないから、これを発見するのは容易ではないが、取り憑いてしばらくすると段々と成熟してきて、この魔物は本性をあらわにし始める。
最初のうち、それは取り憑かれた人間の性格の急変という形で現れる。急に気性が荒くなったり、あくどいことをし始めたり、それまで優しかったものが突然に冷淡になったり、そのあらわれ方は様々だが、まるで何かに憑かれたようにというのが被害者たちの言うところであるという。
そしてその時期を過ぎると、茨の魔物は夜な夜な正体を現しては人々を襲い、その恐怖に紛れて人の心に忍び込み、殖えていくのだという。この段階まで来るとようやく力業で狩ることができるようになるが、何しろ人に取り憑いてたっぷりと精気を吸ったものだから、これが、手ごわい。また狩り損ねると、人々の心の陰に隠れてしまう。
「神官たちの法術で傷つけられることはわかっているんだが、まさか一人一人に法術をかけて確かめるわけにもいかないし、正体を現してからは危険すぎて、戦える神官は少ない。まったく実に面倒な魔物でね」
「アルコさんは、倒したことがあるんですか?」
「うん。以前、此処よりもう少し大きな街でだったけれど、運よく正体を現したところを一矢で仕留めた。その功績を買われて、普段は来ないレモの街までやってきたというわけさ」
結弦はあまり聞きたくない、というかはっきりと聞きたくないのをこらえて、最後のところを確認した。
「ところで、その茨の魔物というのはどういう姿をしているんですか?」
「なに、名前の通りだよ。真っ黒な茨のような姿さ。まるで模様を描くように茨を張り巡らせる、影の魔物と言ったところかな。正体を現すまでは全く見分けがつかないから、様子がおかしくないか毎日見回りしているんだけどね」
成程。
結弦は頷いて、味のわからないお茶を啜った。
「ねえノマラ」
『うん、ユヅル』
「これって、間違いないよね」
『そうだね……ダークソーンだ』
用語解説
・旅の神へルバクセーノ(HerbaKuseno)
人神。初めて大陸を歩き回って制覇した天狗ウルカが陞神したとされる。この神を信奉するものは旅の便宜を図られ、よい縁に恵まれるという。その代わり、ひとところにとどまると加護は遠のくという。
前回のあらすじ
事案かと思いきや、さらなる面倒ごとの匂いだった。
アルコと別れ、何をするという目的があるわけでもなくぼんやりと街を歩きながら、結弦は困惑していた。
「まさかこっちの世界にもダークソーンがいるなんて……」
『もう組合のノルマもないんだし、別に無理して倒さなくていいんだよ。アルコだっているんだしね』
「ノマラはそれでいいの?」
『ワタシはユヅルに助けられた身だからね。ユヅルがいいと思う形でいいと思うよ』
「むーん。判断放り投げてくれちゃって」
『君が判断することだからね』
でも、とノマラはその長い尾で、慰めるように結弦の肩を撫でてくれた。
『さっきも言ったけど、アルコだっているんだ。この世界の人は十分にダークソーンと戦えているみたいだし、本当に、無理しなくていいと思うよ』
「そんなもんかなあ」
『魔法少女だからって、別にもう気負わなくていいと思うけどなあ』
そうは言われても、結弦の気は晴れなかった。
確かに、異世界に飛ばされるなんてとんでもないイレギュラーのさなかにいるのだ。そしてそのイレギュラーの中では、結弦が無理をして戦うまでもなく、人々は自力でどうにかできている。
でも、結弦は魔法少女なのだ。それでも、結弦は魔法少女なのだった。他の魔法少女たちがダークソーンと戦い傷ついていったように、結弦もまた、ダークソーンと戦ってきたのだ。その貢献度は決して大きくはなかったかもしれないが、それでも結弦なりに戦ってきたのだ。
いまさらそれを、環境が変わったからと言って翻すのはなんだかおかしなことのように思われた。
『ユヅルは真面目だなあ』
「そうなのかなあ」
『もう少し適当でいいと思うよ。第一ユヅルは好きで魔法少女になったわけじゃないじゃないか』
それは、そうだった。
そもそも結弦が魔法少女になったきっかけは、ダークソーンに寄生された小学生に襲われているノマラを助けようとしたことからだった。返り討ちにあって傷つけられそうになった結弦は、咄嗟のことではあったがノマラと契約してダークソーンと戦う力を得て、これといった特殊能力もない杖でひたすらダークソーンを三十分ほど殴打して泥仕合の末に勝利を収めたのだった。あれほど日頃のアルティメット・テイザー・ボールで鍛えた足腰に感謝した日はなかった。
ノマラがその後土下座する勢いで謝罪したことだったが、一度魔法少女になったものは二度と元に戻れないことはその時に説明されたが、ああ、そうだ、確かノマラはあの時も、無理して戦わなくていいのだと、そう言ってくれたのだった。
ダークソーンと戦う道は、常に傷つき、傷つけられる世界だ。傷つくことも、傷つけることも恐ろしい結弦がやっていける世界ではないのは確かだった。
それでも結弦は魔法少女として戦うことを決めた。
そりゃあ、酷いことばかりだった。ガラの悪い魔法少女に絡まれて肉壁兼回復薬として運用されたときは早く殺してくれと四六時中思っていたようだし、魔法少女組合に助けられてからのブラック労働を続けている時もどうして生きているのかわからなくなることが多々あった。
環境に流されて、情に流されて、同調圧力に流されて、なんとなくでやってきたのかもしれない。
それでも、やると決めたのは結弦だった。
何かを変えたかったわけじゃない。何かになりたかったわけじゃない。最初はただ純粋な思いからだったように思う。けれど今はそれが思い出せない。暗くくすぶった思い出の中に沈んで、最初にあったはずの気持ちが、もう思い出せない。
思い出せない。
思い、出せない。
けれど。
それでも。
だけれども。
やると決めたのが他でもない結弦なら、結弦だけはその決意を裏切ってはいけないのだった。
『……まったく、これじゃユヅルじゃなくて譲らずだね』
「頑固はおじいちゃん譲りだもん」
ささやかな覚悟を固めるのはともかくとして、結弦は小首を傾げた。
「それにしても、どうしてダークソーンがこっちの世界にもいるのかな」
『ワタシにもわからないよ。こんな世界があるなんてワタシも知らなかったし』
こういう時頼りになるはずのノマラも首をかしげるばかりである。
『そもそもワタシたち妖精は、ダークソーンを追いかけて魔法界からやってきた。この時点ですでに異世界ものだよね』
「考えてみたら大概ファンタジーだったんだね」
『で、そこから更にユヅルはこの異世界に落っこちてきたわけだね』
「玉突き事故みたい」
『ユヅルは時々びっくりするようなこと言うよね。でももしかしたらそうなのかもしれない』
「そうって?」
『ユヅルの世界に飛び込んだダークソーンとワタシたち妖精が、ユヅルを突き飛ばしてこの異世界に飛ばしてしまったんだとする』
「結構酷い話だよね」
『これが崖っぷちの事故なら、先頭車両に続いて、追突車両も落っこちてきたっておかしくないんじゃないかな』
「先頭車両がわたしで、追突車両がダークソーンってこと?」
『かもしれないという話だけれどね』
すべては仮定の話だった。
しかし、結弦がこの世界にやってくるよりも先に、他のダークソーンがいたという話もあるから、全くこの通りというわけでは無いのかもしれない。
「もしかしたら、玉突き事故がいっぱい起こったのかも」
『つまり?』
「ダークソーンが来たのと一緒に、わたしたちみたいに、魔法少女がやってきているかもねって」
『成程、それはありそうだ』
勿論、ダークソーンがそこまで大きな話題になっていないところを見ると、魔法少女が大量にこの世界にやってきているということもなさそうだった。それでももしかしたら仲間がいるかもしれないということは結弦にとって希望に、
「……また肉壁かなあ」
『ユヅル、濁ってる濁ってる』
まあ、希望を持つことは大事だ。ありもしない絶望に身をゆだねるよりは、ずっと。きっと。
前回のあらすじ
無理はしなくてもいいと言ってくれるノマラ。
釈然としない結弦。
そして。
それは絶望が煮凝ったような形をしている。
というのは、以前ダークソーンにぼろくそに刻まれてヒーラー受付所にやってきた魔法少女の言葉だった。
「人の嫌なこと、嫌がること、不安や不満、妬みや憎しみ、そう言ったものを鍋にぶち込んで煮凝らせて、最後に残った結晶みたいにどす黒いんだ」
彼女は忌々しそうにそう形容した。
ダークソーン。それは確かに忌々しい存在だ。人の心に巣食ってはその毒を吸い上げ、最後には弾けて種をばらまき、増殖していく邪悪な存在。
でも何故だろうか。
ダークソーンが描く幾何学的な模様を見る度に、結弦は奇妙な美しさを感じずにはいられないのだった。澱んだ沼の水を吸い上げた蓮が美しく咲くように、酷く、美しい花を咲かせようとしているように、そう感じられさえするのだった。
『ユヅル!』
「う、ん……大丈夫……!」
いま、結弦はその美しい模様を見ていた。夜の闇よりもはるかに濃い漆黒の茨の描く模様を。
「ダークソーン……!」
宿主は、閉まりかけて人気のなくなってきた施療所に飛び込んできた男だった。
男は明らかに様子のおかしい、血走った目で結弦をにらみつけ、わめき散らした。
施療所での治療は明らかにおかしいということ。邪法でも使っているのではないかということ。お前のせいでうちの施療院は貶められているということ。患者たちから比べられ、罵倒されること。
その他、あることも、ないことも、男はまくしたててた。ユヅルを罵倒して、罵倒して、それでもまだ足りぬように、あたりのものに当たった。
周囲の人々は男を止めようとしたが、とてつもない剣幕にそれもうまくいかず、手をこまねいているうちに、結弦がさっと立ち上がった。
「危ないですから、皆さん下がって」
結弦が落ち着いていたのは、この数日で心が強くなったから、では勿論ない。
ただ、慣れていたからだ。この光景に、慣れきっていたからだ。
「明らかに様子がおかしい……なんていったっけ」
『他者に対する暴力的な異常高揚状態、だっけ』
「そう、それっぽいね」
わめきたてる男に、結弦は杖をとった。この世界に来てから、触れることも随分減ったあの杖だ。それは、触れることも減る。
なにしろそれは、武器なのだから。
魔法少女の、武器なのだから。
「ホーリー・ピュリフィケーション!」
慣れ親しんだ呪文とともに杖を振るえば、燦然とした光がどこからともなく降り注ぎ、男の体をくまなく照らしていく。
変化は劇的だった。
男はまるで灼熱の炎にあぶられたかのように身じろぎ、叫び、そして大きくのけぞりかえり――不意に弛緩する。どろりと崩れ落ちるように男の体は脱力し、その代わりに、その体からにじみ出るようにあふれ出るのは、黒い、茨。
まるで体中の血を絞り上げたかのように、茨はずるずると男の体を中心に湧き出ては、幾何学的な模様を描いていく。
周囲から悲鳴が聞こえた。
「茨の魔物だ!」
そうだ。茨の魔物。そして、ダークソーン。
そう呼ばれる魔物が、白昼の往来でその姿をさらしたのだった。
「こんな時間から現れるなんて……!」
『天敵の気配を察したのかもね』
「もしかしてそれって……!」
『勿論君だよ、魔法少女ユヅル!』
成熟したダークソーンは膨れ、弾けて、種をばらまく。だからその前に退治しなくてはいけない。
だが未成熟なダークソーンは、極めて凶暴だ。
「う、わっ、と!」
『気を付けてユヅル!』
「わかってる!」
なけなしの身体強化を使い、結弦はダークソーンが繰り出す茨の打擲をかわしていく。その速さは、結弦でもなんとか見切れる速さだ。しかしその威力は生半ではない。回避した先で、施療所の小屋がギャリギャリと音を立てて刻まれる。
高速で振るわれる茨は、まるで荒れ狂うチェーン・ソウだ。鋭い棘が、何もかもをずたずたに引き裂いていく。
結弦は冷静に立ち回った。派手に動き回れば、相手をかく乱させられる。しかしその分茨は荒れ狂い、周囲の人々を無駄に傷つけることになるだろう。
「みんな、逃げて!」
「で、でも」
「いいから、アルコさんを呼んで!」
ただ逃げろと言っても、結弦を置いて逃げるのは難しいのか。そう判断した結弦は、人々に役目を寄越す。はっきり名指しで呼んで頼んでやれば、さらに効果は出る。
人々が離れていけば、後は、そう、魔法少女の仕事だ。
「すぅ……はぁ……」
『アルコが来るまで待ってもいいと思うけど』
「被害が広まる前に、抑え込まないと」
いまはまだ、未成熟なものだ。
しかし時間がたてば成熟し、此処では爆ぜてしまう可能性もある。あるいは浄化の光の効果が薄れ、宿主に引っ込んで逃げてしまうかもしれない。そうなれば、追うのはたやすいことではない。
覚悟は数秒。
結弦は杖を構えてダークソーンへと突っ込んでいく。
荒れ狂う茨を杖で打ち据え、手でかいくぐり、傷つきながら肉薄する。傷ついても、すぐに治るのならば、それは傷なんかじゃない。ただ煩わしいだけの障害だ。ざりざりと鋭い棘も、この距離では満足に振るうこともできなしない。ならばそれはただの棘に過ぎない。
「じゃ、久しぶりに泥仕合と行きましょうか!」
『つくづく魔法少女じゃないなあ』
ざくざくと肌を傷つける茨を抱きしめて、結弦は宿主の男性に触れる。まだ暖かい。まだ呼吸をしている。この男性は、まだ生きている。
それが確認できれば、結弦にできるのは一つだけ。触れれば触れるだけ肌を傷つける、割れたガラスのように鋭い茨をひっつかみ、結弦は一本一本を宿主から引き抜いていく。その度に茨はあばれ、結弦を傷つける。
「あっ、ぐ、ううう、ぐ、あああっ!」
『ユヅル、痛覚を切って!』
「そんな、器用な事、また今度言って!」
そうだ。
結弦は器用なことなどできはしない。
ちょっとした身体強化と回復魔法。そのふたつだけ。
あとは、持ち前の我慢強さだけだ。
「や……やめてくれ……」
「っ! 大丈夫ですか!」
茨と格闘するうちに、宿主の男性が目を覚ます。茨が引き抜かれるたびに、その表情は苦しみに歪むようだった。
「いま、いま助けますから!」
「やめ、やめてくれ……あんた、そんなに、傷ついて……」
「それが、わたしの、仕事ですから!」
「わしは、儂は随分あんたに酷いこと言ったじゃないか……あれは嘘なんかじゃあない……魔物に囚われて、言ってはいかんことを言ったかもしれん……でもあれは………みんな、みんな、儂の思った通りなんだ……」
「……知ってます! ダークソーンは、人の心の毒を引き出す。でもそれは、植え付けるわけじゃないんです」
「ならわかるだろう……わしは、醜いやつだ……わしは、酷いやつなんだ……わしは……」
「それでも!」
結弦は茨を引き抜く。茨は結弦を傷つける。それは血まみれの乱闘だ。泥仕合だ。
だがそれでも、結弦はそれを止めようとはしない。
「それはみんな同じなんです! みんなみんな同じなんです! こんな、こんなくだらないことで、台無しにされていい訳がないんです!」
「あんた……あんたは……」
「こんな、こんなことで……!」
「あんたぁ……いいひとだなあ……」
それが男の最期の言葉だった。
くったりと弛緩し、脱力した体には、もはや先程まで存在していた熱が、ない。
表情はまるでぽかんとしたように虚空を見つめ、何の力もない。
ダークソーンに心の毒を全て引き出され、空っぽにされてしまったのだ。
人はみな、心に毒を持っている。不満や不安、妬みや憎しみ。ふざけるなという怒りや、立ち上がろうとする熱意。誰かを見返してやろうとする意志。驚かせてやろうというささやかな毒。そう言った、毒があるからこそ成り立っていた全てが、いまはもう、この男の中からは失われてしまったのだ。
『君たちの世界では、ユーストレスレス症候群と言ったね』
誰かを傷つけるかもしれない心の毒。しかし、それはなくてはならない薬でもあるのだ。
ダークソーンはそのすべてを引き抜いてしまう。そして引き抜かれた毒は種となって散らばり、また人々の心から毒を吸いだしてしまうのだ。熱意や、生気と言った、なくてはならない毒まで。
「あ、ああ、あああああああああああツ!!」
それらがすべて失われてしまったむくろを抱きしめて、結弦は叫んだ。まただ。またも届かなかった。いつだって結弦は遅すぎた。
「ユヅル! 大丈夫か!」
駆けつけるアルコの声が聞こえた。
結弦が振り向くと同時、ダークソーンもまた増援を知ったのだろう、激しく身をよじって結弦の体をずたずたに引き裂きながら、それは腕の中から抜け出して、飛び上がってしまう。
「あっ!」
「ちっ、待て!」
アルコがすぐさま弓を構えたが、ダークソーンは人混みへと飛び込み、ずたずたに引き裂きながら逃げ去ってしまう。さしもの『無駄なし』の弓も、こうも障害が多ければ射掛けるのをためらった。
やがてダークソーンはすっかりと姿を消してしまった。恐らくはまた、誰かの心の闇に隠れてしまったのだろう。こうなれば見つけるのは、ことだ。
「ユヅル! 大丈夫か!」
「大丈夫です……ダークソーンは、奴は……?」
「茨の魔物なら、すまない、逃がしてしまった」
「……追いかけないと! 早く!」
「馬鹿言え、君はそんなにも傷ついているんだぞ!?」
「この程度……!」
「それに見ろ! 人々だって……!」
「く、ううう、くううううううううッ!」
異世界におけるダークソーンとの第一戦は、物の見事な敗戦と相成ったのだった。
用語解説
・他者に対する暴力的な異常高揚状態
ダークソーンに憑りつかれた人間は、心の毒をため込むようになる。それが破裂寸前になると、暴力行動を伴う高揚状態に陥る。
・ホーリー・ピュリフィケーション
聖なる浄化を意味する。魔法少女たちの間で何となく流通している呪文で、別にこれでなくても発動する。
正常な人に使うことで心に防壁を張って一時的にダークソーンの侵入を防ぐほか、すでにダークソーンに憑りつかれている人間に使うことで、ダークソーンを引きずり出すことができる。
・ユーストレスレス症候群
人は誰でも心に毒を抱えている。言い換えればそれはストレスであったり、悪意であったり。
それらをすべて抜き取られた人間は、生きる気力さえも失ってしまう。
前回のあらすじ
そして現れたダークソーン。
激闘の末、結弦はこれを取り逃してしまうが……。
傷ついた人々を癒し、そして思い出したように自分の体を癒し、それから結弦は改めてダークソーンの犠牲となった男性のむくろに首を垂れた。もう少し早ければ、あるいは救えたかもしれない。それは傲慢な考え方かもしれなかったが、しかし切実な思いでもあった。
「あの方はどうなりますか」
「冥府の神の神殿で弔われるだろう」
「冥府の神?」
「そうだ。冥府の神の御許では、全ての魂は安らぎのうちに眠ることを許されるという」
アルコの説明をぼんやりと聞きながら、丁重に運ばれていく男のむくろを結弦は見送った。
どうあれ、あの男性はもう終わってしまったのだった。もう笑わず、もう怒らず、もう迷わず、もう思わない。突きつけられた終わりは、結弦の肩にズシリと重たく降りかかった。
魔法少女をやっていると、人の死とも触れ合うようになる。
いつも救えればそれでいいが、救えなかった多くの死を積み重ねて、ようやく魔法少女たちはいくばくかの命を救えている。そう言う事実がある。
もともと、ダークソーンが正体を現すのは、成熟して種をまく寸前だ。そうしてようやく魔法少女はその存在を感知し、駆けつけることができる。種をまく前に退治できればいい方で、少なからず取り逃すか、本体は退治しても、種は飛び散った後だったりした。宿主となったものはどうなるかと言えば、御察しだ。
対処が早ければ、生き残る者たちもいる。しかしそう言った者たちも多くは、心の毒を過剰に吸い取られ、生気や気力と言ったものに著しく欠ける状況にまで追い込まれ、病院のベッドから自力で立ち上がれるものはまれだ。失われた心の毒は、回復魔法でも癒すことはできない。
今回、結弦を狙って現れたのは、魔法少女としても絶好の機会だったのだ。結弦がもっと早くダークソーンを退治できていれば、あの男性は今も生きていたかもしれない。そのことが結弦の胸に刺さっていた。
「ユヅル、あんなことがあったんだ。少し休んだ方がいい」
「でも……」
「施療所が襲われて、人々も不安がっている。君がみんなの心の支えなんだ」
アルコの言葉は、とにかく結弦を休ませようとするための方便であることがすぐに察して取れた。
しかしそれでも結弦はその言葉に従って体を休めた。言葉を信じたからではない。ただ、どうしようもなく疲れて、疲れて、たまらなかったからだ。
寝台に横になって、目を閉じて眠りにおちようとしても、疲れた心身とは裏腹に、どこか昂った気持ちがおさまらず、結弦は何度も煩悶するように寝返りを打った。もはや目をつぶっていることさえ苦痛だった。落ち着かなかった。
自分にできることが何もないのだとわかっていて、それでも居ても立ってもいられない気持ちがあった。
『ユヅル、君は頑張った。よくやったよ』
「慰めのつもりなら、やめて」
『ごめん。でも……ううん、ごめん』
「わたしこそ、ごめん」
夜更けごろにようやく薄い眠りが訪れ、何度か短い眠りを繰り返しているうちに東の空が白々と明けてきて、結局そのまま結弦は起き出した。眠気はやはりなかったが、しかし酷く体が重たかった。魔法で癒してみても、疲れは取れても疲れた気持ちは晴れなかった。魔法では、心までは癒せない。
ぼんやりとしながら施療所の準備を整えてみたが、今日は客足がぱったりと途絶えていた。
なんとなく窓から外を見てみるが、通りかかる人はいても、施療所を見ると、どこか敬遠するようにして、そそくさと足早に離れていってしまう。町全体がそのような調子で、普段は賑やかな施療所の前が、今日はどこまでも空々しくしんと静まり返っていた。
「そりゃあ、そっか。あんなことがあったもんね」
結弦は自虐するようにつぶやいた。
町を密かに脅かしている茨の魔物が暴れに暴れた現場がここなのだ。怪我人も出た。死人も出た。野次馬はいるかもしれない。でも、わざわざそんな現場の施療所に顔を出すほどの急患は、この街にはもういないのだろう。
そうだ。
近頃は、怪我などほとんど口実のようなもので、人当たりの良い結弦と、その与えてくれる温かい癒しの光を求めて人々はやってきていたのだ。
それは何でもない日に足を運ぶにはちょうど良い理由かもしれない。
しかし恐ろしさと不安をかき分けてまでやってくる理由にはならない。
「それにあの時、わたし、必死だったもんなあ」
恐ろしい形相だったと思う。恐ろしい剣幕だったと思う。
服も肌もずたずたに切り裂かれながら、血まみれになってダークソーンにしがみつき、普段の温厚さなどどこへやらの大立ち回りをして見せたのだ。
傷つきながら癒し、癒しながら傷つき、自分の体などかえりみずもせずに襲い掛かる姿は、どちらが化物だという話だ。
「はは、は、もうちょっと、スマートに戦う練習、するんだったな」
昼前ごろに、幼子が施療所を訪れて、花を差し出していった。結弦が受け取ると、母親と思しき人が血相を変えて子供を抱きかかえ、何度も頭を下げて去っていった。
手元に残った野の花と、その光景とがずっと頭の中で繰り返されて、結局施療所は昼になる前に閉めた。
昼になると、屋敷の人が昼食を持ってきてくれたが、その顔にはおそれとも不安とも、何とも言えぬ表情が浮かんでいた。結弦はこれを受け取ったが、どうにも食欲が出ず、少しだけ口にして、後はノマラにやった。ノマラは食べないと疲れてしまうよと言ったが、もうすでにすっかり疲れていた。
眠くもないのに寝台に転がり、疲れているのにいやに覚めた目で室内を見回して、陰に半分溶けこんだノマラを見つけた。
「ねえ、ノマラ」
『なあに、ユヅル』
「わたし、もう駄目かなあ」
『駄目って、何がさ』
「わたし、がんばったよ。わたしなりにさ、頑張ってきたんだよ」
『うん』
「こんな慣れない場所でさ、見慣れない顔の人たちに囲まれて、それでも、なんとか馴染もうって、頑張ったよ」
『うん』
「でも、もう、駄目かなあ。みんなもう、怖くて来てくれないかな。私のこと怖がって、来てくれないかな」
『そんなことはないよ』
「だってわたし、あれじゃあ、ダークソーンと変わらないよ。腕がちぎれても、目が潰れても、それでも平気だなんて、化け物じゃない」
『そんなことはないよ』
「もうみんな、わたしのこと、必要としてくれないのかな。要らないって言われたら、わたし、どうしたらいいんだろう」
『大丈夫だよ、ユヅル』
「アルコさんも、どう思っただろう。ダークソーンは、明らかにわたしを狙ってたもんね。わたしのことも、怪しんでるんじゃないかな」
『大丈夫だよ、ユヅル』
「やっと……やっと、慣れてきたのになあ……」
ここでの生活もまた失われるのだろうか。かつて魔法少女となって、日常が滅茶苦茶になってしまったように。そう思うと結弦の心に殺伐とした気持ちが去来した。もうどうにでもなってしまえ。だって、もうわたしはどうしようもないんだから。
だが、結弦は再び立ち上がっていた。杖を手に、立ち上がっていた。
「ダークソーン……!」
その気配に、結弦は立ち上がらずにはいられなかった。
恐怖に震え、不安に震え、どうしようもなく震えに震えて、それでも立ち上がらずにはいられなかった。
何故ならば。
「私は、魔法少女だもん……!」
用語解説
・冥府の神
古き神の一柱。世界で最初に死んだ山椒魚人プラオであるとされる。
前回のあらすじ
苦悩する結弦。
しかし、それでも彼女は魔法少女だった。
結弦が施療所を飛び出した時、すでにそこではアルコがダークソーンと対峙しているところだった。
「ユヅル!? 駄目だ、まだ休んでないと!」
「もう大丈夫です! それより、そいつをどうにかしないと!」
ダークソーンは、今度は中年の女性を宿主にしているようだった。先の男性のようにぐったりと脱力しているが、心の毒はまだ吸い取られ切っていないようで、肌には血色が見られ、まだ絶望的ではない。
しかしその代わり、ダークソーンもまた意気軒高だった。ダメージを負っても、すぐに心の毒を吸い上げて回復できるのだから。
アルコは先程から茨を鋭く矢で射貫こうとしているようだったが、その度にダークソーンは回復し、より強力な茨の鞭で襲ってくるようだった。
「私が抑え込みます! その隙に!」
「駄目だ!」
結弦が昨日と同じように、と駆け出そうとした瞬間、アルコが鋭くそれを止める。
「駄目だ! あんな、自分で自分を傷つけるようなこと、させられない!」
「でも! それじゃあ!」
「私たちはみんな、君に頼りすぎてたんだ!」
唐突な言葉に、結弦は困惑した。
「君が与えてくれる癒しを当たり前と思って無邪気に享受していた。君の存在を当たり前と思って、搾取していたんだ!」
「それは、そんなの、」
「昨日の君の献身を見て、我が身を振り返らなかったものが一人でもいるものか!」
アルコは語った。人々は、自分が小さな少女に守られていることを、痛く羞じたのだという。日頃からひどく安い料金で癒しを与えてくれ、怪我がなくとも話を聞いてくれ、そして逃げ出そうとしていた自分たちを守るために、傷だらけになりながらも必死で茨の魔物を押さえつけてくれたことに、人々は、そしてアルコもまた、大いに羞じたという。
「一人の少女に何もかもをおっかぶせて、自分たちは見ているだけなどというのはあまりにも格好が悪すぎるだろう!」
「おお!」
「いまこそ聖女様にご恩返しを!」
アルコの叫びに呼応するように、周囲を取り囲む人込みから、分厚い鎧を着こんだ兵士たちが、茨に向かって切りかかった。
「茨が修復するならばそれよりも早く切りこめ! 宿主から切り離せ!」
それがひどく原始的な戦法だった。しかし数という確実な力によって、ダークソーンの茨が抑え込まれているのは確かだった。鎧によって茨を防ぎ、剣によってこれを刈り取り、宿主から分断しようというのだった。少ないながらも実戦から、ダークソーンの特徴をつかんで戦術を編んできているのである。
やがてダークソーンの根が宿主から切り離され、宿主の体が速やかに引き離された。仮にダークソーンに喉があったならば、激しく絶叫していただろうという具合にもだえ苦しむ。これを見て兵士たちは、そうしてアルコは勝利を確信したようだった。
しかし、結弦だけは知っていた。
「駄目です! すぐに逃げて!」
「なにっ!?」
宿主を失ったダークソーンは、まず次の宿主を探す。しかし自分に対して敵意をもって向かってくる強い心の持ち主には取り付けない。そう言ったものに囲まれて宿主が得られないとなると、ダークソーンは力技でこの包囲を突破すべく、強力な攻撃をお見舞いしてくるのである。
このダークソーンはぎゅう、と瞬間的に内側に丸まると球のように変化し、そして唐突にそれを開放した。視覚的に、それは真っ黒な爆発のように見えた。鋭い茨の棘が、周囲に向けて弾丸のような速度で打ち出されたのである。
「ぐあっ!」
「がああっ!」
兵士たちの鎧を容易く貫通し、茨は荒々しく肉を裂き、骨を砕く。そして兵士たちが身構える隙も与えずに再度球状に変化し、今度は余力のあるものを狙って、正確に、単発の茨をお見舞いしてくる。これには兵士たちも迂闊に近づけず、包囲の輪が広まらざるを得なかった。
いまはまだ、包囲を警戒してダークソーンもじりじりと間合いを計っている。しかしこれが焦れて暴れ出したとなれば、今度こそ兵隊たちも無事では済まない。
「くそ、応援を、応援を呼べ!」
早速応援が呼ばれたが、すぐに間に合うものでもない。
「いや……今なら的は小さい! 私が!」
アルコがさっと飛び出し、茨が打ち出される。これを身軽に避けるのだが、茨は一発だけではない。避けたならば避けた先に、撃ち落されたならばさらにその先に、アルコが近づけば近づくほどに茨の嵐は苛烈になり、そしてついにその足を貫いた。
「ぐうっ!」
アルコも遍歴の騎士として痛みには慣れている。しかしそれは剣で切られる痛み、矢で射られる痛みであり、茨のように鋭い棘が、傷口をずたずたに引き裂ていく痛みというのは初めてだった。ましてそれが鋼鉄のような硬さともなれば。
ダークソーンはアルコの機動力を奪うと、次に肩を狙って攻撃力を封じた。そしてとどめを刺せばいいのにそのまま傷口を抉ることに終始する。これは明らかに救助が来ることを狙っているのである。その救助者をさらに襲うために。
それがわかっていて、わかっているから、兵士たちも迂闊には手が出せない。
結弦もまた、ただ飛び込めばいいものではないということを痛感させられていた。
ただ飛び込んで、押さえつけられるのならばそれでよい。しかしダークソーンは昨日の件でそれを学んだのか、徹底的にアウトレンジで戦おうとして来ている。見た目こそ無生物のような外見ではあるが、ダークソーンは確かに学習し、成長する生き物なのだ。
「ノマラ、何か、何かないの!?」
『ユヅル。それは私に聞くべきことじゃあない』
「なんで! 早くしないと、アルコさんが!」
『ユヅル。魔法少女の力は心の力だ。君が回復魔法しか使えないのは、才能だからじゃない。君がそれ以外を望まないからだ』
「そんな、そんなことない!」
『君の回復魔法は、ワタシを助けたいというその一心で開花した、純粋な祈りの結果だ。でもそれから魔法が発達したのは、君が傷つきたくない、変わりたくないと願い続けてきたネガティブな祈りの成果でもある』
「そんな………そんな……!」
『魔法はポジティブなものでもネガティブなものでもない。善でも悪でもない。ただ君の強い祈りだけがそれを開花させるんだ』
「わたしの……いのり……」
『そうだ、魔法少女ヒラガユヅル。譲れないものが確かにそこにあるのならば、叫ぶんだ! 君の心を!』
「わたしの、こころ……!」
『そうだ、解き放て。君の心の毒を!』
結弦は駆けだした。
そうだ。結弦の中にはとっくの昔にあったのだ。その熱量が恐ろしくて、おっかなくて、触れることさえも拒んで、胸の奥底にしまい込んでいたものが、それでも確かにそこにあったのだ。
「うあぁあああああああああァァァァッ!!」
もうどんな準備も要らない。魔法の杖も、不思議な呪文も。
呪文は叫びだ。心の叫びだ。そして結弦の呪文は、それだった。
「ふざっけんなぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
それは叫びだった。純然たる、欠片ほども混じりけのない、結弦の心の底からの叫びだった。
そこにド畜生とつけてもいいし、腐れ仏陀とつけてもいいし、古今東西ありとあらゆる罵倒語を添えてやっても構わない。実際、結弦の心中は、結弦の知る限りの罵倒語で満たされていた。そしてそれはやはりこの一言に集約されるのだ。
「ふざけるな」と。
それはすべての障害に対する「ふざけるな」であり、全ての理不尽を殴りつける「ふざけるな」であり、全ての不条理を蹴り飛ばす「ふざけるな」であり、ありとあらゆる面倒事に対して中指を突き付ける「ふざけるな」であった。
その呪文を引き金に、結弦の心の深いところ、魔法少女のコアは応じる。心臓を引き裂き、ずぶりずぶりと漆黒の祈りが顔を出す。
それはしいて言うならば剣に似た姿をしていた。柄も刀身も区別がつかず、ただ出鱈目に棘を突き出しては、破裂しそうな内側の熱量を吐き出し続ける、金属の塊のようですらあったが、それは体裁的には剣であった。もっとも原始的な、剣の形であった。
つまり、ぶん殴って破壊するという、もっとも原始的な熱量の発散の形であった。
「うっだらぁぁぁあああああああッ!!」
乙女のあげていい声を大幅に逸脱した、そしてそれ故に何よりも心の叫びを最大限に響かせた怒声とともに、結弦は新たな魔法の武器、魔法の剣を胸から引き出し、それを振りかぶってダークソーンに迫った。
異常を察したダークソーンが速やかに迎撃準備を整えて、鋭い茨の砲撃を打ち出したが、時すでに遅し。
トサカに血の上ったプッツンに対して、それはあまりにも弱々しい攻撃だった。
肌を引き裂かれ、骨を砕かれ、それでも結弦の歩みは止まらない。怒りが、不条理に対する怒りが、痛みを超越し、回復速度を極度に速め、そして攻撃されたということに対する怒りがさらに魔法の剣を巨大化させた。
「ううううううぅぅうぅうううあああああああああああああぁあぁあああああああッッ!!!」
もはや言葉にもならない叫びとともに、魔剣の凶悪極まる刃が無造作に振り下ろされ、そしてダークソーンはその存在の核ごと真っ二つに切り裂かれ、朝日に掻き消える影のように霧散した。
それと同時に、役目を終えた魔剣もぴしぴしと端から欠け落ちては消滅していく。その様はどちらが悪魔だと言わんばかりの邪悪さである。
周囲を盛大に置いていった果ての勝利は、結弦にとって初めてと言っていい勝利は、しかし、あまりにもいろいろなものを犠牲にしていったのだった。
「……お、鬼か……」
用語解説
・心の毒
極端な話、魔法少女の魔力と呼ばれるものと、ダークソーンが扱う心の毒と呼ばれるものは同一のものである。
その本質は、抗おうとする力であるとされる。
・ザッケンナ・ブレード(仮)
この世の全ての不条理に対する叛逆。心の毒のあふれ出した形。
ふざけるなという叫びの塊。
心の毒の塊で作られた魔剣であり、同じ心の毒でできたダークソーンに対して致命的な破壊力を有する。
ただし、使用者である結弦自身に心の毒が溜まっていなければ大した威力は出せない。