平賀さんはヒーラーなんですけど!?

前回のあらすじ

わたし、平賀結弦。的場中学校の二年生。
好きな科目は家庭科と理科。真面目が取り柄の女の子。
学校ではUTB部に所属してるの。
わたしの名前を時々忘れる源外おじいちゃんと、やさしいおばあちゃんの佳寿子さんと3人暮らし。
ぐへぇ……ある日、わたしが虐められている黒猫を助けたばっかりにうっかり魔法少女に勧誘されちゃった!
魔法を使ってダークソーンを退治しないと!




「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 もう何度目の呟きだろうか。
 中途半端な高さの中途半端な土地面積の、恐らくは中身も中途半端な企業が入っているだろう中途半端なビルのさびれた屋上で、平賀(ひらが) 結弦(ゆづる)は錆びついたフェンスにしがみつくようにして呪詛のごとくぼやき続けていた。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 結弦は的場中学校に通う平均的な女子中学生だった。
 少なくとも結弦自身は、自分に平均以上の何かがあるとは思ってみたこともなかった。
 いつか何かになれるかもしれないと淡い夢を抱きながら、しかし今の自分はきっと何者でもないのだろうなというやわいまどろみの中で生きているような、そんな女子中学生だった。

 はずだ。はずだったのだ。
 本来ならば。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 見下ろす景色はすっかり夜の帳に包まれ、すこし繁華街に入り込めば闇に抗うように輝くけばけばしいネオン、そうでなくても絶賛残業中のビルの灯りで、睡眠障害を引き起こしそうな光で満たされている。
 順法精神に則らなくても、ただの女子中学生がいていい場所でも、いていい時間でもない。
 そんなことは結弦自身がよくよく理解しているし、結弦だって規則やルールは守るべきものだと思っている。あえてそれを外れようとするほどひねくれてはいない。
 しかし必要がそうさせたのだという言い訳を盾にする他に結弦にできることはなさそうだった。
 だから、そう、仕方がないのだ、これは。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 スーパーの鮮魚売り場の魚たちの方がまだきらきらと輝く目をしていただろう。
 今日日の冷蔵・冷凍技術は目を見張るものがある。どうしてそれが生きた人間に適用されないのか結弦にはわからないことだったが、きっとそれも仕方がないことなのだ。
 世の中は仕方がないで溢れている。

 例えばそう、ただの女子中学生でしかない結弦が、やや露出度高めのふわふわひらひらしたコスチュームに身を包んで、売ればそれなりに高くつきそうなごつい宝石のはめ込まれた杖など携えて、携帯端末片手に連絡待ちしているのも仕方がないのだった。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 それは結弦自身意識しての呟きではなかった。
 もはや溜息と同様のものだった。
 溜息をすると幸せが逃げるというが、この場合呪詛が漏れていそうだ。

 だって結弦自身、もうそうやってぼやく以外にどうしたらいいのかわからないのだ。

「どうして……はい、こちらヒーラー」

 ぼやき途中に端末が着信音を鳴らせば、結弦の手は反射的に通話ボタンを押して耳元に運んでいる。
 それは、当初見知らぬ番号からの着信にいちいちおどおどして、端末を何度もとり落としそうになっていた初々しさなど完全に失われた、作業的な挙動だった。

「はい、はい、サファイア・ビルの屋上です。ブルー・ブレイドさんですね、はい、わかりました」

 通話を切り、フェンスから離れて軽く体をほぐし、足元の段ボール箱からペットボトルの清涼飲料水を取り出し、杖に魔力を通す。
 その一連の動作はベルトコンベアの流れる工場が淀みなく生産を行うように、もはや結弦の体に染み込んだ作業工程だった。

 ほどなくして、隣のビルから軽やかにこのビルの屋上に着地してくる姿があった。
 その驚くべき身体能力と言い、その驚くべき露出度とファッションセンスの煌く服装と言い、間違いなく同業者だった。
 つまり、魔法少女だった。

「あんたがヒーラーさん?」
「はい。飲み物とお菓子ありますけど、先にヒールします?」
「んー、ヒール先にお願い」
「はい」

 近づかなくてもわかる、むわっとした血の匂い。
 それが近づけばはっきりと、血に濡れた装束と痛々しく切り裂かれた傷口から零れ落ちていくのが目にも見える。
 だが当の少女自体はあっけらかんとしていて、さっさとお願いねと言葉も軽いものだ。
 痛覚を止めているのだ。
 魔法少女の戦闘は時に激しいものとなる。
 感覚は鋭敏であるに越したことはないが、しかし足を止めるような刺激は場合によっては死にもつながる。
 ブルー・ブレイドという魔法少女名(コードネーム)から予想できる通りの近接戦闘タイプならば、痛覚を切断して近場で切り結ぶこともよくある事なのだろう。
 結弦にはとてもできないことだが、魔法少女の多くはそういった荒事に慣れきっている。

 最初の頃はかすり傷一つで大慌てしていた結弦も、今ではこの程度の傷にはあまり心が動かなくなっていた。さすがに内臓がこぼれかけていたり、腕がもげかけていたりすれば吐きそうにもなるが、この程度の傷だと精々服が汚れたらいやだなくらいにしか思わない。

 結弦はくるりと杖を傷口に向け、口の中で呪文を詠唱する。
 呪文は、魔法少女の胸の裡から湧いてくるものだ。誰が唱えても同じように効果があるわけではない。それは時に意味深な言葉の羅列であり、時にただ真心からあふれる祈りの言葉であり、そして時に叫びや嗚咽の形をとることもある。

 要するに、魔力を効率よく現象――つまり魔法に変換するためのプロセスに過ぎないのだと今の結弦は理解している。

「はい、ふさがりました。十分くらいは魔力が乱れて痺れる感じがあると思います。あと、血が足りてないと思うので、ちゃんと水分と糖分補給してくださいね」

 まるで献血だ、なんて思いながら、結弦は段ボール箱の中の清涼飲料水とお菓子を少女に渡す。

「ありがと。お金は?」
「組合費から出てますので」
「あたしらの税金でってわけだ」
「保険料と思ってくださいよ」

 ブルー・ブレイドはペットボトルを開けて清涼飲料水を呷り、それから軽く魔力の燐光をまとわせて、魔法装束の汚れを払い、破れや解れを直していった。

「毎回面倒臭いなあ。変身し直すのも大変だし。服は直してくんないの?」
「服は魔法でできてるので、わたしの魔法で干渉できないんですよ」
「使えないなあ。まああたしも回復はあんまり使えないし、そんなもんなのかな」
「そんなもの、ですよ」

 お菓子と清涼飲料水をすっかり平らげ、ごみを結弦に預けたブルー・ブレイドは、携帯端末で連絡を取りながらまた夜の街へと駆け出して行った。
 勤勉な事だ。あれだけの怪我をしてなお、まだダークソーンたちと戦おうというのだから。
 別に彼女たちは、戦いたくなければ戦わなくてもいいのだ。
 その分組合からの報酬はなくなるけど、それはもともとの生活にはなかったものだ。
 ただの女子中学生として暮らす分には、痛い目を見てまで稼ぐ必要のないものだ。

 結弦は再びフェンスに体重を預け、次の客を待ち始める。
 来たら来たで面倒だが、来なければ来ないで退屈で仕方がない。
 眠気こそ魔法でどうにでもなるが、退屈はひたすらに心を削る。
 とはいえ、結弦は勝手に休むわけにはいかなかった。

 結弦は他の魔法少女たちと違って戦う能力こそ乏しかったが、しかし数少ない回復魔法持ちであり、そして他の魔法少女をはるかに上回る膨大な魔力持ちだった。自前の魔力でちまちま回復するほかのない魔法少女たちにとって、戦闘に使わなければならない魔力を温存して、速やかに回復を施してくれるヒーラーの存在は貴重だ。

 この街にいる結弦と同等のヒーラーはたったの三人。交代で回してはいるけれど、疲れてるから嫌ですとは言えない。
 仮に結弦がしんどいので退職させていただきますと告げたら、組合が黙ってはいない。

 正体不明の邪悪な存在であるダークソーンたちが魔法界から密かにこの世界の闇に住み着くようになって、どれだけになるのだろうか。人の心に忍び込み、心の毒を育てて凶行に走らせる悪魔たち。人の心を喰らい、夜の闇にはびこる魔物たち。
 魔法少女はそのダークソーンたちに抗うため、魔法界からやってきた妖精たちと契約した少女たちだ。
 魔法少女はその契約によって、妖精たちから恩恵を受けている。
 ダークソーンたちを倒すことは、俗な言い方をすれば魔法少女たちにとって給料を得るための仕事なのだ。

 だから、効率的な狩りをもたらしてくれるヒーラーがその役割を放棄しようとするのならば、魔法少女の権益のためにある組合は、結弦にどんな脅しをかけてくるか。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 溜息、いや、ぼやきがまた漏れる。
 これで魔力が全然なかったら結弦はただの役立たずで済んだ。
 だがこうして無制限にぼやきが漏れるように、結弦の魔力は底なしだ。

『ユヅルが自分でなるって言ったんじゃないか』
「言った、けどさー……」

 ぬるり、と結弦の陰から顔を出すのは、結弦と契約を交わした妖精のノマラだ。
 見かけは真っ黒な()()()()()()の猫といったところだろうか。シルエットこそ猫のそれだが、口もなければ目もありはしない、ただのっぺりと黒い顔面だけがある。
 こうして結弦の陰から顔を出している姿などは普通の猫と大差ないが、いざダークソーンたちが出ればたちまちヒョウのように大きくなって、結弦を背に乗せて駆けだすのだ。

 正直な所結弦からすると、幾何学的な美しさのあるダークソーンと比べて、妙に有機的な妖精たちのほうが余程魔物じみて感じられた。

「子供にいじめられてる猫を助けようとしたら、その猫が妖精だとは思わないじゃん」
『その節はどうも』
「で、その子供たちがダークソーンに操られてるとは思わないじゃん」
『危なかったねー』
「小学生に殺されそうになるとは思わなかったよ!」
『縦笛も武器になるんだねー』

 あの時は酷かった。
 黒猫と思ったら妖精だったというのもだが、虐めていた子供たちがみな恐ろしい形相で、口角泡を飛ばしながら罵詈雑言を吐き散らし、手に手にボールペンや縦笛、そこらの石などを握りしめて襲い掛かってくる様は悪夢さながらだった。
 語られる狐憑きや魔女狩りというものは存外ダークソーンたちの暗躍によるものなのかもしれなかった。

『でも、ユヅルのおかげでこの街のダークソーン被害はかなり下火になってるよ。ワタシとしてはユヅルが魔法少女になってくれて良かったよ』
「それはいいことなんだろうけど、さー……」

 でも、思わずにはいられないのだった。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 結弦はただ、毎日を平和に過ごしたかっただけなのだが。

 はあ、と正真正銘のため息を吐き、苛立ち紛れにフェンスを蹴りつけた。
 そんなことに意味はない。
 意味はないとわかっていても、何かに当たらなければどうしようもないものがあった。
 そんな自分のどうしようもなさにひどく疲れを覚える。

 再びのため息とともにフェンスに体をもたれかけさせて、

『ユヅル!』
「えっ」

 そして浮遊感が全身を襲った。
 錆びついたフェンスはついにその生涯を終え、少女の体に押されるままに、ぐらりとビルの谷間へと落下していた。
 普通の魔法少女であればこの程度の高さは、魔力で体を強化すればどうということはない。
 しかし結弦が精通しているのは回復魔法だけだ。必要故に鍛えられた最低限度の身体強化さえ、とっさに扱えるほどには覚えてはいない。

 つまり。

「どうしてこうなっちゃったかなー……」

 その体はあっけなく落下していった。





用語解説

・平賀結弦
 残念なことに主人公。
 魔法少女になったはいいが、身体強化と回復魔法しか使えないポンコツ。
 的場中学校の二年生で、友達は小学校の頃からの幼馴染だけ。
 好きな科目は家庭科と理科。真面目が取り柄といえば聞こえはいいが融通が利かない。。
 部活動はUTB(アルティメット・テイザー・ボール)部。
 両親とは死別しており、痴呆の進みかけている祖父源外と、介護に悟りを見出した祖母佳寿子と三人暮らし。

・サファイア・ビル
 バブル期に建造されたビルの一つ。当時はこれでも立派な高層ビルディングだったが、今では周囲に埋もれかけた古いビルの一つに過ぎない。廃ビルではないがよく「出る」と噂。

・ブルー・ブレイド
 魔法少女。近接攻撃型で、武器は剣。剣の腕は確かだが、遠距離攻撃ができないことや特殊な魔法がないことに悩んでおり、ヒーラーの存在には助けられている。

・組合
 魔法少女組合。
 魔法少女たちが円滑に活動できるように、妖精たちの支援もあって設立された組合。
 組合費として毎月一定の金銭を要求するが、ヒーラーの手配や、狩場の情報共有、必要な物資の融通など、活動は多岐にわたる。

・ヒーラー
 魔法少女の中でも特に回復に特化したものを呼ぶ言い方。
 通常、魔法少女はダークソーンとの戦闘に特化した能力、つまり誰かを傷つけたり、誰かに傷つけられないようにする能力に目覚めるが、時折結弦のように回復魔法に優れた魔法少女が生まれる。

・ダークソーン
 魔法界からやってきたとされる魔物。
 形而下においては黒い茨のような姿で認識される。
 人の心に取り付いて毒を撒き、凶行に走らせて毒をまき散らし、繁殖するとされる。

・ノマラ
 結弦の契約妖精。いわゆるマスコット。
 のっぺりとしたシルエットだけの猫のようであるとされるが、触り心地はかなり良いらしい。
 小さな子猫サイズから大型のヒョウサイズまで体の大きさを変えられる他、影の中を移動することができる。

・妖精
 魔法界からダークソーンを追ってやってきたとされる超存在。
 少女たちに力を貸して魔法少女に変身させ、ダークソーンを駆逐することがその目的とされる。

前回のあらすじ
少女落下中……。



『ユヅル! 起きて!』

 眠い。
 とにかく眠かった。
 結弦は鉛のように重い瞼を押し開けようと先程から努力はしているんだとまどろみのなかで言い訳し、ふわふわすべすべと寝心地の良い、ぬくぬくと温かい何かに抱き着いた。これだ。これがいけないのだ。この寝心地のいい何かがいけないのだ。

『ユヅル! 起きてるでしょこれ!』

 本当に眠かった。
 最近は寝不足気味で、授業中に居眠りしそうになることもしばしばだった。それもこれもすべては放課後にパトロールを強要し、夜間もヒーラー業を要求し、土日祝日も関係なく働くことをせまる魔法少女組合のせいだった。ひいてはそんな魔法少女組合の横暴を許容する妖精たちの怠慢のせいだった。

『そう言うの後でいいから! ほんとに起きてよユヅル!』

 声ではない声で脳に直接呼びかける妖精テレパシーがうっとうしかった。
 それにやけに揺れる。
 結弦とてわかっていた。
 これは本当に起きなければまずいやつだと。
 しかしそれでも、瞼は重く、体も重く、心も重かった。
 たとえどんなにいけないとわかっていても、そう、必要な睡眠時間はいつだってあと五分なのだから。

『起きてーッ!! ユヅル起きてーッ! 起きないと永眠しちゃうからーッ!』

 いっそ永眠した方がいいんじゃなかろうかとも思い始めるくらい最近の超過勤務は結弦の精神をごりごり削っていたけれど、さすがに生命の心配をされるレベルだと狸寝入りも楽しめない。
 ふわふわすべすべと温かいノマラの背中の上で、結弦はあくびを漏らしながら瞼をこじ開け、

「うわっ」

 そして閉めた。

『ユヅル今の起きたでしょ絶対! 夢じゃないから!』
「夢だってこれ……夢でしょ……憧れとかはあったかもしれないけど……」
『夢だけどー夢じゃなかったー!』
「ぐへぇー! なにこれー!」

 自称高速道路も走れる程度の走力を誇るノマラの背中の上で、結弦は現実と戦うべきか否かを選ばされていた。
 乙女らしからぬ悲鳴を上げさせたのは、自称ヘアピンカーブも楽勝の脚力を誇るノマラを追走する、角の生えた猪とそれにまたがる緑の肌の巨漢たちだった。毛皮をまとい、鋲を打った棍棒を振り回して、獣のようにこちらを吠え立てる、特殊メイクではちょっとなさそうな牙をはやした巨漢たちである。

 緑の肌の巨漢()()

 余りに現実離れした光景に思わずじっくり眺めて数えてしまったが、結弦の目が確かなら彼らは十人近くの群れを成して、この貧相な女子中学生を追いかけまわしているのだった。

 先程まで薄暗き魔法少女ワールドを満喫していたところに、急に荒れ果てた世紀末(ジョージ・ミラー)ゆきてかえりし物語 (トールキン)が足して二で割らずに襲い掛かってきたようなショックだった。
 サービス残業にあえぐ労働基準法違反の女子中学生であるところの結弦はそのどちらも実際のところ映画館に見に行く余裕などなかったが、テレビのコマーシャルで見る限りはあまり間違っていなさそうではある。

『ワタシが聞きたいよ! ユヅル前世でどれだけ悪行働いたの!?』
「わたしの前世次第でオークみたいのに襲われるの!?」
『今世でユヅルが頑張ってきたのは、ワタシ知ってるからね』
「ノマラ……」
『だから前世はきっと反吐が出るような邪悪だったんだろうなあーって』
「ノマラーッ!」

 さて。
 いくら現実離れしているとはいえ、これ以上ショートコントなどしてじゃれついている暇などはない。
 ノマラは一向疲れた様子など見せないし、相変わらず距離は縮んでいないが、それもいつまで続くかわかったものではない。
 見渡せば辺りはだだっ広い平野で、うまく連中を撒くための障害物も見当たらない。
 他に何か――目を凝らした先に、結弦は希望を見つけた。

「ノマラ!」
『アレだね、わかった!』

 指さす先に、ノマラは走り出す。緑の巨漢たちも奇声を上げながらそれに続く。
 結弦が指さした先には、石造りの巨大な壁が見えた。あまりなじみのあるものではないけれど、少なくとも人工物であることは確かだろう建造物だ。
 漫画や映画で見ることのある、街壁で囲われた都市なのだろう。
 いや、きっとそうだ。そうに違いない。そうでなかったら許さないからね。
 もはやいろんな意味でぎりぎりの結弦は心の中でそう祈りながら都市へと向かった。

「ぐへぇっ、ノマラ! なんか飛んできた!」
『手斧だね。石斧じゃなくて金属製だ。意外と文明が発達してるのかな』
「そういうこと聞きたいんじゃないよ!」

 とはいえ、さすがに緑の巨漢たちも焦れてきたらしく、ノマラ曰く金属製の手斧を投げかけてくるという積極的な手段に訴えかけてきた。幸いノマラが機敏に回避してくれたからよかったが、おかげで上に乗っている結弦は盛大にむちうちになりかけたが。

「ノマラもなんかないの! 銃とか!」
『あるわけないでしょ。ユヅルこそなにか――何もなかったね』
「あったら苦労してないよ!」

 身体能力こそ魔力で強化すればそこそこにはなる。
 それこそビルの上を跳んで渡るくらいは、慣れれば簡単なものだ。
 しかしそんな強靭な身体能力を持つ魔法少女でありながら、結弦が味噌っかすの役立たずの回復魔法以外見るべきところのない最底辺として見なされてきたのは、いや、まあ本当にそんな風に思っている魔法少女がいたかどうかというのは結弦の主観に過ぎないが、ともかく結弦が自分でも思う位に役立たずなのは、それ以外に本当に何もないからだ。

 魔法少女として基本的な身体強化と、魔法少女として非凡な回復魔法。
 この二つだけという、ピーキーすぎる仕様だった。
 魔法少女として手にした武器はなにやら高価そうな杖だけで、剣や弓といった攻撃力の高そうなものでは決してない。見た目通りの鈍器としての性能しかないし、暴力に慣れない結弦が振るったところで、何十発か頭を殴りつけてようやくお互い血みどろで決着がつくような、その程度の殺傷能力でしかない。
 ましてや遠距離武器等、望むべくもない。

「うー……鞄になんか入ってなかったかな……」
『投げて威力が出せるような重いものってそうそうないもんねえ』
「防犯ブザーくらいしかない……」
『助けてくれる人がいればねえ』

 せめて一対一ならばなんとかなったかもしれない。
 これでも結弦は魔法少女だ。
 身体強化すればフライパンくらい平気で曲げられるし、軽自動車にはねられるくらいなら大丈夫だ。どちらも実践済みだ。
 こちらに殺傷能力の高い武器がないのは痛手だが、しかしどれだけ攻撃を喰らおうと回復魔法持ちの結弦とタフネス勝負となれば相手もさすがに敵わないだろう。これも実践済みだ。初のダークソーンとの対決は血まみれ土まみれの泥仕合だった。

 しかし、さすがに相手が十人近くいるとなると話は違う。
 これだけ数が違うと、回復ができるとかそう言うのはもはや意味をなさない。こちらに反撃のしようがないのだから、ひたすらにぼこぼこにされる未来しか見えないし、仮に連中が空腹だった場合、消化吸収されながらでも回復が利くのかどうかはさしもの結弦も試したことがなかった。というか想像もしたくなかった。

 こんな、ビルから落ちたらオークに追いかけられましたみたいな意味不明な展開のまま、何もわからないまま食われて死ぬなんてのは嫌だ。嫌だけど、では状況をどう解決しようかという手段はここにはなかった。容赦なく手斧を投げてくるあたり、くっ殺せ、女の喜びを、といった歪んだ形での生存も期待できない。

 自殺か。自殺するのが一番楽なのか。でも多分自動で回復魔法が発動して延々苦しむ羽目になるんだろうな、ということはよくよくわかっていたので、せめて痛覚だけでも切っておこうかと覚悟を決めた時の事である。

「あべればっ」
「え」
『おっと』

 奇声を上げたのは結弦ではない。
 結弦を追いかけていたオークもどきの一人が、その脳天から何かを生やしていた。

「おけっ」
「へばっ」
「あぼろべっ」

 続けて三人が、頭から何かを生やす。
 いや、何かではない。
 あれは、

「……矢?」

 魔法少女としては割とポピュラーな遠距離武器であるから、結弦も何かと見かけた覚えがある。とはいえ、いまオークの頭に突き刺さった矢は、魔法少女たちが使うものほどきらきらしてもいなければピカピカしてもいなかったが。

「大丈夫かー!」

 ぽかん、としているところに聞こえてきたのは無事を確認する声である。
 オークたちもようやく襲撃に気付き、猪を巧みに操って敵を探し始める。
 その間にもまた一人、矢の一撃を受けて転げ落ちる。

「は、はーい! 大丈夫でーす!」
「そっかー! 当たらなくて良かったよー!」
「そっち!? 誤射の心配!?」

 下手すると自分にもあたっていたらしいことに怯える結弦であったが、声の主は気にした風もなく次々とオークを仕留めていく。
 ようやくその射手をのせた馬の姿がユヅルにも確認できた頃には、オークたちはそれぞれが一発ずつ脳天に矢を受けて絶命していた。
 結弦には弓の腕の良しあしはわからないが、移動し続け、警戒もしていた相手に対して、全て一撃で仕留めるというのはまったく生半な腕ではなさそうである。

「やあ、やあ、大丈夫かい?」
「え、ええ、大丈夫です、お陰様で」
「よかったよかった。豚鬼(オルコ)の群れを見かけて追いかけていたんだが、間に合ってよかったよ」

 馬上から声をかけてきたのは、金属製の鎧を身にまとった長身の女性だった。鎧と言っても全身を覆うほどのものではなく、胸や肩といった部分部分を覆った動きやすそうなものであり、騎士というより傭兵といった身なりであった。
 手にはまだオークたちを倒した弓が油断なく携えられており、背中の矢筒の矢も十分に数があった。

「見たとこ、街を目指してたんだろう? せっかくだ、一緒に行こうじゃないか」
「いいんですか?」
「なに、旅人を無事に送り届けるのも、遍歴の騎士の仕事さ」

 女性は遍歴の騎士アルコ・フォン・ロマーノと名乗った。





用語解説

・角の生えた猪
 角猪(コルナプロ)
森林地帯に広く生息する毛獣。額から金属質を含む角が生えており、年を経るごとに長く太く、そして強く育つ。森の傍では民家まで下りてきて畑を荒らしたりする害獣。食性は草食に近い雑食だが、縄張り内に踏み入ったものには獰猛に襲い掛かる。

豚鬼(オルコ)
 緑色の肌をした蛮族。動くものは基本的に襲って食べるし、動かないものも齧って試してから食べる非文明人。
 人族以上の体力、腕力と、コツメカワウソ以上の優れた知能を誇る。
 角猪(コルナプロ)を家畜として利用することが知られている他、略奪した金属器を使用する事例が報告されている。

・遍歴の騎士
 騎士は通常、主君に仕えているものだが、中には自分の武勇を試したり浪漫を求めて諸国を漫遊している騎士もいる。彼女の場合は遍歴が義務であるという、この世界特有の騎士の在り方のようだ。
前回のあらすじ

マッドオークたちに襲われるという貴重な経験を得た結弦とノマラ。
あと少しずれていたら助けに来た騎士の矢が脳天に直撃するという経験も得られたのだが。



 その後何事もなく街までたどり着いた、とは言えなかった。

「全く、まーた女の子とみるや突っ走るんですから!」

 少しして合流した、こちらは徒歩の少女は、アルコの従者であるフラーニョだという。

「そう言うなフラーニョ。これはもはや我が家の血だよ」
「いっそ絶えてもらえませんかねぇ」
「はっはっは、拗ねるな拗ねるな」
「拗ねてません!」

 アルコが馬上にあるだけでなくひょろりとした長身であるのに比べて、フラーニョはいささか小柄な作りだったが、足腰はしっかりとしていて旅慣れた風情があった。大荷物を背負って平然としているのも全くそれらしい。

「さて、早速街に向かう、前に、路銀を稼いでおこう」
「ろぎん?」
『旅で使うお金のことだよ』

 こんなところでお賃金が稼げるものだろうかと、腰が抜けたままノマラの上でぼんやりと二人の歩みを見送って、そしてぺしりとノマラのしっぽが目元を覆った。

「ちょ、なにするの?」
『見ない方がいいよ、ユヅルは』
「なにしてるの?」
『多分、倒したっていう証明をもっていけばお金になるんだよ』

 成程。ゲームや漫画でもそういう理屈はよく見る。
 しかし証明とは何だろうかと少し考えてしまって、その少し考えるだけのおつむを、結弦は後悔した。

「証明って、つまり……」
『あの豚鬼(オルコ)というやつは、耳だね。角猪(コルナプロ)は角を折ってる』

 聞かなければよかった。

 しかし女二人であれだけの数の獲物から耳だの角だのを切り取って回収するというのは大変な作業ではなかろうか。自分も手伝いに行くべきではないだろうか。

「の、ノマラ、どうしよう……」
『腰の抜けた結弦が行ってもしょうがないよ。プロに任せよう』

 それはそうかもしれない。
 しかしそれにしてもどうしてだろうかと結弦は小首を傾げた。
 普段仕事で傷など見慣れているというのに、いざ耳を切り取ると聞くとぞっとする思いになったのは不思議だ。
 それこそ内臓がはみ出ていたり、折れた骨が皮膚を突き破っているところも最近は慣れてきたのだから、耳をそぎ落とすくらいは平気なのではないだろうかと、ちらりとノマラのしっぽから覗き見てみたが、駄目だった。

 嬉々として猪の角を手斧で圧し折るアルコと、人間に似た生き物の耳を淡々とナイフでそぎ落としていくフラーニョの姿は、どうしようもなく恐ろしく感じられて、見ているのがいたたまれなくなった。
 そうだ。耳や角といった部位自体が恐ろしいのではない。生き物を部品として見ることのできるあの二人が恐ろしいのだ。そう気づくと、なんだか先程まで自分たちを襲ってきていたあの生き物たちの方が哀れにも思えてきた。ではあの二人の方はどうかと言えば、さしもの結弦も口にはしかねた。

「やあ、終わったよ」
「ひゃっ」
「そんな血だらけで声掛けたら驚くでしょう。ほら、ちゃんと拭いて」
「やあ、失敬失敬」

 革袋に戦利品を詰めて戻ってきた二人を何となく恐ろしい思いで見ながらも、結局のところ頼りになるのもまたこの人たちだけなのだという思いが、結弦の中の天秤を危ういところで均衡させていた。



 街に辿り着いて、早速問題が発生した。
 どう見ても巨大な肉食動物であるノマラの存在が問題視されるかと思ったが、どうも人が乗る生き物はひとくくりで馬と扱われるらしくて、鑑別札なる札を首に下げられておしまいだった。どんなファンタジーだ。
 しかしまあ道を行く人々を見れば確かに、鳥のような人や、手足が四本ずつある人が普通に歩いているし、馬だけでなく巨大な鳥や蜥蜴などが荷運びをしていたり、いよいよもってファンタジーじみてきている

 さて、問題というのは結弦に身分を証明するものが一切なかったことである。

「フムン、どこかで落としてきてしまったのかな」
「服もきれいですし、近くで仲間がはぐれているのかもしれませんね」

 などと話し合っているけれど、ではそこんとこどうなのと聞かれでもしたら、何しろ答えようがない。ビルから落ちたらこんなところにいましたなどとどう説明しろというのだ。

「の、ノマラ、たすけて」
『仕方ないにゃあ』

 必死で助けを乞うと、気だるげにノマラは顔を洗った。

「え、ええとですね、さっきの、豚鬼(オルコ)達に追いかけられていた所からはわかるんです。でも、それ以前のことは記憶があいまいで、頭をぶつけたせいだとは思うんですけれど。ここがどこかも、自分がどこから来たかもわからないんです。あ、名前とかはわかるんですけど」

 結弦がいくら何でもご都合主義すぎるだろうと思いながらも、ノマラ監修によるそりゃあ無理があるだろと言わんばかりの怪しい設定を棒読みで告げてみたところ、何とそれで納得していただけた。

「そうか、そんな目になあ……いいともいいとも。遍歴の騎士が身分を保証しよう」
「大変だったんですねユヅルさん。もう大丈夫ですよ」
「お嬢ちゃん、もう大丈夫だからな。ゆっくり養生していきな」

 むしろその心優しさと純朴さに結弦の心の方がざっくりと傷つけられそうなほどだったが、しかしこれでまず第一関門は突破したと言っていいだろう。むしろこの後の方が結弦には申し出るのがつらい思いだった。

「そ、それでですね、アルコさん」
「なんだいユヅルちゃん」
「その、襲われたときに落としたのか、お金も持っていなくてですね……」

 そう、路銀がまるでないのである。
 そりゃあ鞄に財布は入っているし、使う暇もないので女子中学生としてはそこそこのお小遣いが収まっている。しかしそれはこの世界ではまず間違いなく使用できない異世界の通貨なのである。何か売れるものでもあればよかったのだが女子中学生の鞄にそうそう金目のものは入っていないし、第一あったとしても相場がわからない。

 なので頼れるものはというと、

「なんだ、そんなことか!」
「ひゃっ」
「大丈夫ですよ、しばらくは私たちが面倒見ますから」
「あ、いえ、そのっ、悪いですし」
「世の中持ちつ持たれつって」
「か、体で払いますからっ!」

 何やら、盛大に間違えた気がする結弦だが、残念なことに世界には巻き戻し機能はついていないようだった。

「お嬢ちゃん達風紀が乱れるから他所でやってくれる?」

 しかも門番の人に追い打ちを喰らってしまった。

 すごすごと門を抜けると、馬上から優しい声が降ってきた。

「あー、ユヅルちゃん。気持ちは嬉しいけど、さすがに大人としてそう言うのは……」

 ちゃらんぽらんとした感じの人に正論をぶたれるこの辛さがわかるだろうか。
 しかし違う。
 違うのだ。
 結弦は少し間違えただけなのだ。

「あのですね、違くて、は、働いてお払いしますということでして」
「あー、なるほどね。それはそれで気持ちは嬉しいけど……」

 馬上から見下ろす視線がつらい。
 言わんとすることはわかる。
 いまだに腰が抜けてノマラの上に乗っかったままであり、かつ服装はどう見ても労働なんかしたことがないだろうと言わんばかりのふわっふわの魔法少女装束だ。
 よくて貴族の娘さん。悪くてそういうお店の踊り子だろう、どう見ても。
 しかしここで言い出さなければ、もはやこの後はタイミングがつかめそうにない。
 すでに結弦を迷子のお子様として扱うことを決定しているらしい二人に、結弦は覚悟を決めて切り出した。

「わ、わたし、魔法が使えるんです!」
『ところでそれ言って大丈夫な奴かな』
「え」







用語解説

・アルコ・フォン・ロマーノ
 放浪伯に使える遍歴の騎士。諸国を旅して民のために戦うことを義務とする。
 騎士爵ロマーノ家の三女にあたり、弓矢を得意とする。

・フラーニョ
 アルコの乳姉妹。幼少のころからロマーノ家に仕え、アルコの遍歴の旅に付き添うようになった従者。
 戦闘能力はあまり高くないが、大抵のことは器用にこなせるオールラウンダー。

・鳥のような人
 天狗(ウルカ)
 隣人種の一つ。風の神エテルナユーロの従属種。
 翼は名残が腕に残るだけだが、風精との親和性が非常に高く、その力を借りて空を飛ぶことができる。
 人間によく似ているが、鳥のような特徴を持つ。卵生。
 氏族によって形態や生態は異なる。
 共通して高慢である。

・手足が四本ずつある人
 土蜘蛛(ロンガクルルロ)
 足の長い人の意味。
 隣人種の一種。
 山の神ウヌオクルロの従属種。
 四つ足四つ腕で、人間のような二つの目の他に、頭部に六つの宝石様の目、合わせて八つの目を持つ。
 人間によく似ているが、皮膚はやや硬く、卵胎生。
 氏族によって形態や生態は異なる。

前回のあらすじ
身元不詳の女子中学生が体で払わせてくださいとお願いする回でした。



 誇り高き放浪伯が剣、誉れ高き遍歴の騎士の名を頂いたアルコ・フォン・ロマーノが、定例の巡回経路を外れ、あり触れたさびれた街のひとつに過ぎないレモの街に訪れたのは、なにも旅の遊びの内ではなかった。
 昨今帝国東部を騒がせる茨の魔物の跳梁を耳にし、アルコとその従者フラーニョはその噂を確かめるべくこのしなびた街へ向かったのだった。

 レモの街に至る街道は代り映えのしないものだった。アルコたち遍歴の騎士たちが、またそれぞれの領主に剣を捧げた巡回騎士たちが盗賊や魔獣・害獣を討伐して回り、今も宿場を増やしつつある街道は、旅慣れた者たちにとっては歩き慣れた実家の庭ほども安全だ。

「実家の庭に豚鬼(オルコ)出るんですねアルコ様」
「出な……いや、たまに出たかな」
「辺境ですか」
「失敬な奴だな。第一ご近所さんだろう」

 まあ安全といえども限度はある。
 遍歴の騎士も巡回騎士も数に限りはあるのだ。旅路の完全な安全の達成、盗賊や魔獣・害獣の駆逐にはまだまだ時間がかかるだろう。
 何しろ盗賊の絶えたためしはなく、魔獣や害獣とはいずこからともなく湧いてくるようなものだからだ。

 ともあれ、無事豚鬼(オルコ)の群れと角猪(コルナプロ)たちを狩りつくし、アルコとフラーニョは使用した矢を回収し、討伐の証明として豚鬼(オルコ)は左耳を切り取り、角猪(コルナプロ)は角を圧し折って革袋に詰めた。

 矢の数は、豚鬼(オルコ)の数とぴたりそろった。

 この程度の相手に自慢する程ではなかったが、アルコは《無駄なし》の異名を誇る弓の名手である。
 余りにも平然と盗賊を、魔獣を、そして害獣を仕留める手腕は全く淀みというものがなく、傍目から見る分には自分にもできるのではないかと思わせるほどに手軽にやってのけるが、もちろんこれは言うほどには簡単な事ではない。

 まして今回の相手はただの豚鬼(オルコ)ではなく、旅人を追いかけまわしているその最中であった。
 敵の注意が他所に向いているというのは一見してこちらに有利であるばかりのように思えるが、実際のところはそう簡単な話ではない。
 射かける側としては、逃げる旅人が次にどちらへ逃げてどう動くのかを把握した上で、それを追いかける敵を狙わなければならない。
 ましてお世辞にも安定しているとはいいがたい角猪(コルナプロ)の上にある、暴れに暴れる豚鬼(オルコ)たちを、こちらも揺れる騎馬の上から射掛けるのだから、生半な腕ではまず、当てることさえ難しい。

 それをすべて、滑りやすい頭に正確に命中させ、ただの一発ずつで絶命させているのだから、これは、

(全く、相変わらず化け物じみている……)

 と言ってよい。

 助けた旅人は奇妙な()()であった。

 ふわりふわりと柔らかな布をふんだんに使う、どこか神官の法衣のような印象なのだが、妙に露出があったり、やけに飾りが多かったりと、踊り子のようでもある。
 またしがみつくようにまたがった馬も珍しい、というよりは見たことがない。
 山猫(リンコ)(パンテロ)と言った大型の猫のようにも見えるが、よく見れば目や口といったものがない()()()()()()で、時折主と何かしら話し合っているようにさえ見える。
 妙な魔獣である。

 ユヅルという名も聞き慣れぬ響きである。
 西方の響きによく似ているが、ユヅルの話す交易共通語(リンガフランカ)はなまりのない綺麗なものである。

 また奇妙な所はさらに続いた。
 レモの街の街門に辿り着き、遍歴の騎士に与えられた通行手形を見せたまではいいが、助けた旅人は手形も、身分を証明するものも、何も持っていないという。

「フムン、どこかで落としてきてしまったのかな」
「服もきれいですし、近くで仲間がはぐれているのかもしれませんね」

 考えてみれば、どうにも頼りなさそうな小娘が馬を頼りに一人旅をするなどというよりは、旅の仲間とはぐれてしまったと考える方が真っ当である。
 とはいえ、そのはぐれた理由とはぐれた先とを考えると、まず真っ先に思い当たるのが先の豚鬼(オルコ)どもであるから、アルコとフラーニョは顔を見合わせた。

 まさか今にも泣きだしそうな小娘に確かめてみるわけにもいくまいと思っていると、おもむろに娘が顔を上げた。

「え、ええとですね、さっきの、豚鬼(オルコ)達に追いかけられていた所からはわかるんです。でも、それ以前のことは記憶があいまいで、頭をぶつけたせいだとは思うんですけれど。ここがどこかも、自分がどこから来たかもわからないんです。あ、名前とかはわかるんですけど」

 何もわからないという現状に緊張と不安を感じているのか、早口でいささか挙動の怪しいところはあったが、言い分は成程わからないでもなかった。
 特に荒事に慣れていない子供などは、凄惨な光景を心が受け止め切れず、咄嗟に心を閉ざして見なかったことにしてしまうということが多々見られる。大人でさえ時にそういった、現実を受け入れ切れずに心壊すことがあるのだ、この手弱女にそのような災難が降りかかっても致し方のないことと思われた。

 もちろん、よくあることだけに悪党どものよく使う文言でもあるが、この水仕事もしたことがなさそうな指と言い、ふっくらとした頬と言い、いかにも小金持ちの商人の娘といった風情に、そのような疑いをかけられようはずもなかった。

 よしんば偽りであったとしても、どうせ無理な婚姻でも押し付けられそうになって身一つで逃げ出してきた家出娘とか、そのようなことだろう。そういった家庭の事情に首を突っ込むのはいささか以上に、野暮だ。

 アルコ達は深入りすることを止め、ただ身寄りのない娘を保護したということで、しばらくの面倒を見ようと決めた。

 そういうアルコ達の気遣いを察してか、ユヅルは健気にも路銀の持ち合わせがないこと、また働いて返すつもりであることを告げてくれたが、仮にも遍歴の騎士が保護した娘を働かせて路銀を稼いだなどということがあってはならない。
 その気持ちばかりは立派なものだから、何か形ばかりの仕事でも与えて満足させるべきだろうか。
 アルコ達がそのような事を考えていると、思いもかけない言葉がユヅルの口からこぼれた。

「わ、わたし、魔法が使えるんです!」

 フムン、とアルコは顎をさすり、馬上からちらとフラーニョを見やった。
 フラーニョもまた、思案顔である。

 魔法使い、魔術師というものはこれは才能が大きいものであるから、誰しもが使えるものではない。しかし逆に言えば才能さえあれば、農民でも気軽に使えるものもいるし、騎士などはみな一つや二つの魔法は覚えているものである。
 それこそ水くみを楽にする程度のものも、魔法と言ってよいのだ。

「何ができるんだい?」
「その、き、傷を治したりできます。あと、疲れをとったり」

 しかしユヅルの口にしたものは、どちらも身近な魔法と言っていいものではない。
 魔法でも同じことはできるが、どちらかと言えば神の力を借りる神官の技である。

「以前、村の薬師がスリ傷や切り傷といった小さな傷を治すまじないを使うのを見たことがあります。その程度でしたら、有り得るのでは」

 フラーニョもそういうことであるし、何より必死に言い募る小娘を嘘つき呼ばわりするのは、遍歴の騎士のすることではない。

「わかった、わかった。君の魔法については後で考えるとして、まず宿をとろう」

 門前でつかえて、いい加減に流れが滞っていた。



 宿と言っても、市井の宿を探す必要はなかった。
 遍歴の騎士というものは言ってみればある種の公務員であり、その職務は公務であるから、村であれば村長に、町であれば町長に、レモの街のようなある程度の大きさの街であれば代官に宿を求めれば、これは余程の事でもない限り快く受け入れられるものである。

 代官の屋敷について、馬とユヅルをフラーニョに任せると、アルコは一人応接間で代官と向き合った。

「これはこれは、まさか遍歴の騎士様がお出でなさるとは」
「茨の魔物が出たと聞き及び、微力ながらとはせ参じました」
「ありがたい。私はこの街の代官を任されております、郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォ・ハリアエートと申します」

 郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォは上背のある堂々とした初老の人族男性だった。
 物言いこそ丁寧ながら、むしろ度量の大きさのようなものがはっきりと見て取れ、いくら才気に富むとはいえ若造に過ぎないアルコにはいささか苦手とする相手である。

「それで、シニョーロ・ジェトランツォ」
敬称(シニョーロ)はやめてくだされ。放浪伯の剣に頭を下げさせたとあっては」
「では、ジェトランツォ殿。よしなに」
「ええ、ええ。客室を用意させます。それで、お連れは……?」
「私の従者と、門前で保護した娘です。豚鬼(オルコ)の群れに襲われていたところを拾いました」
「なんと、我が街の軒先でそのようなことが。よろしければこの街でお預かりいたしましょうか?」
「滞在中は面倒を見るつもりですが、娘が望むようであればよろしくお願いしたい」
「勿論、勿論」
「手慰みに仕事など与えていただけると助かります。あれが言うには、癒しの魔法が、」

 豪華ではないがしっかりとした作りの椅子に腰を下ろし、水で薄めた蜂蜜酒(メディトリンコ)を酌み交わしながら詳細を話し合おうとしたところで、窓の外から歓声が響いた。

「おお! おお! すごいぞ!」
「次は俺だ、俺を頼む!」
「いや、馬が先だ!」
「病は治るのか!?」

 アルコとジェトランツォは顔を見合わせた。

 窓から見下ろせば、中庭にずらりと男たちが並び、小柄な娘を取り囲んでいるようである。
 娘はユヅルであった。

「おい、おい、貴様ら、なにをしておるか! 客人のお連れであるぞ!」

 獅子の吠えるような声で郷士(ヒダールゴ)が怒鳴りつけると、男たちはさっと青くなって跪いた。その中できょとんとしたユヅルが、こちらを見上げて、よくわからないといった顔つきでためらいがちに手を振った。

「何があったというのだ。トリデント、説明しておくれ」

 一喝した後はむしろどっしりと腰を落ち着けた様子で、郷士が下男の一人に尋ねると、下男は興奮した様子で物語った。

「き、傷が治ったんでさ!」
「なに? 傷が? 詳しく申せ」
「昨日馬に蹴られて腕の骨を折っていたんですが、この嬢ちゃん、いえ、こちらのお嬢さんが手をかざすや、あっという間に骨が接いで、痛みもなくなっちまったんでさ!」
「俺もです御代官様! ナイフでざっくり切っちまったところが、あっという間に跡も残らねえんだ!」
「馬たちの怪我も直してくださったんでさ!」

 口々に叫ぶ男たちに囲まれて、ユヅルが困惑したように呟いた。

「や、やりすぎちゃった、かも……」





用語解説

・放浪伯
 ヴァグロ・ヴァグビールド・ヴァガボンド(Vagulo Vagbirdo Vagabondo)放浪伯。
 帝国各地に、大きくはないが点在する形で飛び地領地を数多く持つ大貴族。
 過去の戦争中にあちらこちらで転戦して領地を獲得していった結果らしい。
 本来であれば利便性の為にもどこかにまとめる筈だったらしいが、本人の放浪癖とあまりに力を持ち過ぎる事への懸念からあえて分散させている。
 当人はいたって能天気で権力に興味はない。
 旅の神ヘルバクセーノの加護により、一所に長くとどまることが出来ない代わりに、旅を続ける限り不死である。

・レモの街
 (Lemo)
 帝国東部の小さな町の一つ。放浪伯の所有する領地の一つ。
 養蜂が盛んで、蜂蜜酒(メディトリンコ)が名産の一つ。

山猫(リンコ)/(パンテロ)
 大型のネコ科の獣。

・魔獣
 魔法を使う獣の総称。

交易共通語(リンガフランカ)
 帝国全土で用いられている公用語。種族、地域問わずに用いられるが、それぞれに訛りがある。

・魔法
 魔力を用い、精霊の力を借りて奇跡を起こす技。

・神官の技
 神の力を借り、奇跡を起こす技。法術。

郷士(ヒダールゴ)(hidalgo)
 貴族階級と平民の間にある身分。
 主に貴族が不在地主である領地で、代官として領地を治める家。
 一代限りであるが、通常は長男が次の郷士(ヒダールゴ)として叙任される。

・ジェトランツォ・ハリアエート(Ĵetlanco Haliaeto)
 レモの街の代官として代々郷士に叙任されてきたハリアエート家の現当主。
 五十を超えていい加減代替わりを考えねばならない年だが、長男がせめて一度でいいから父に土をつけるまではと代替わりを渋っている。

・シニョーロ(Sinjoro)
 英語でいうSirにあたる。騎士、また郷士(ヒダールゴ)に敬称として用いる。

蜂蜜酒(メディトリンコ)(Medi-trinko)
 蜂蜜を水で割り、発酵させた酒類。ここでは保存性、香りづけ、また薬効を高めるために種々の香草を加えたものを言う。
 栄養価も高いことから医師の飲み物(Medicinista trinkaĵo)、略してメディトリンコと呼ばれている。その効能と安価なことから民衆にも親しまれている。
 東部では養蜂が盛んで、レモの街でも製造している。

・トリデント(Tridento)
 ハリアエート家に仕える下男頭。
前回のあらすじ
身元不明の女子中学生が、むくつけき男どもに囲まれてやりすぎちゃった回でした。



「や、やりすぎちゃった、かも……」
『かもじゃないよねえ、これは』

 ユヅルはむくつけき下男たちに囲まれて困惑していた。

 そもそもの最初は、フラーニョに連れられて、厩に馬をつなぎに行ったときである。
 アルコの馬を厩につなぎ、じゃあその子もと言われて慌てて、この子は繋いでると具合悪くなるんでとなんとかノマラを連れていくことを許してもらった。ノマラのサポートがなければ、ユヅルは自分がやっていけないだろうことを痛いほど感じていた。

 この厩に勤めている下男の一人が、腕を吊っているのを見て、ついつい職業病が出たのである。

「あの、その腕はどうされたんですか?」
「あ? ああ、いやね、うちにゃ気性の荒い馬がいるんだが、うっかり怒らせて蹴られちまってね」
「折れてるんですか?」
「ああ、骨接ぎに接いじゃもらったけど、まだつながらねえんだ」
「よかったら治しましょうか?」
「治せるもんなら治してもらいてえもんだよ」
「はい、じゃあ」

 ぽんと手を当てて、口の中で短く呪文を唱える。
 そうすれば魔力があふれて傷口にしみこみ、健康だった状態まで回復させる。
 この場合であれば、折れた骨と骨がしっかりと向き合ってくっつき、骨の破片が一つ一つ元の位置に戻り、傷ついた筋肉や神経がぴたりぴたりと張り合わされ、しっかりと固定される。
 一番簡単な魔法だから、これでは足りない血や欠損部までは回復しないが、簡単な骨折程度であれば、これ一発で済む。

 そう。
 単純骨折を、単純と名前がついているからという理由で簡単なものだと錯覚する頭の軽さが、ユヅルにあまりにも気軽に治療をさせていた。

「いっ……たくねえ」
「おーい、どうした?」
「痛くねえ! 骨が繋がってやがる!」
「おまっ、ばっ、まだ一月はかかるって言われたろ!」
「治ったんだよ! ほら!」

 それから先は、友釣りよろしく、あるいは芋づるよろしく、俺も、じゃあ俺も、俺もここが、馬の調子が悪くて、風邪気味なんだけど、結婚してください、と気づけば野外診療所が出来上がってしまい、最終的にはあたりはばからぬ歓声を上げて怒られる羽目になったのだった。

「おお、あなたがユヅル殿か!」
「え、あ、あい、すみませんわたしが結弦です」
「何を謝られるか! 下男どもにこうも惜しみなく癒しの術をかけていただけるとは!」
「……フラーニョさん、わたしやっちゃった?」
「やっちゃってます」
「ぐへぇ」
「街の薬師も医者も、こうまで見事な施術はできますまい。是非とも感謝の品を」
「いえいえいえいえそんな恐れ多い!」

 むくつけき男どもに囲まれた時でさえテンパった挙句無心で治療に専念することでしか心の安定を保てなかったのに、そのむくつけき男どもの親玉と思しきマッスルにマッスルを重ねたようなおじさままでやってきたとなるともはや結弦の精神は折れそうだった。元々常に折れそうだが。

「こここ、これはそのう、身寄りもなし保証もないわたくしめを拾っていただいたアルコ様へのお礼と、屋根を貸していただけるという郷士(ヒダールゴ)様へのご恩返しというやつでしてえへへへ」
『卑屈過ぎない?』
「おお! そのような技をお持ちでありながら謙虚でいらっしゃる! さぞや名のある術師殿とお見受けするが、寡聞にしてもお名前を存じ上げず申し訳ない!」
「いえいえいえいえ、自分でも自分が何者かさっぱりでして!」

 こうしてマッスルおじさまの褒め殺しと結弦の土下座に等しい謙遜合戦はかろうじて結弦優勢で収まり、記憶が全くないので詳しいことはわからないが、自分にできることとして精いっぱいやった結果がこれですと言い張ることに成功した。

「……うわぁ」
「人間あそこまで卑屈になれるものなのだな、フラーニョ」
「いや、平民でもあそこまで卑屈なのは(まれ)ですよ」

 外野が何やら言っているが、一般的な女子中学生の中でも特に自己評価の低い方である結弦にとって、持ち上げられれば持ち上げられるほど苦痛とめまいと吐き気が襲い掛かってくるものなのだ。
 それも権力のありそうなお偉いさんに頭を下げられるなどという経験は結弦の人生で初めての経験であり、そもそもお偉いさんという漠然とした概念と遭遇することさえ、学校の校長先生が限度だ。

 事態が落ち着き、郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォ・ハリアエートは改めて一行に自己紹介し、また結弦も記憶喪失という設定上でできる範囲の自己紹介をかわした。
 つまり、記憶を失って名前と回復魔法が使えること以外はわからないというごり押しである。

 そして、拾ってもらった恩もあるし、ここで面倒を見てもらえるという恩もあるし、できることであれば自分にとってたった一つの取り柄である回復魔法でどうにかご恩返しさせていただきたい、ぜひそうさせていただきたい、そうでもなければわたしにはもう行く当てもないしここで本当に体でも売る外にないのでどうかお許しいただきたいと頭を下げた。

 勿論、よき領主であり代官である郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォは、下男たちを癒してくださった恩人にそのような没義道で報いることは有り得ないとし、恩に対し報いたいという気持ちは無下にできるものでなし、互いに気持ちよく過ごすためにもそのような取り決めを定めるのはやぶさかではない、とこの求めに応じてくれた。

 なお結弦の精神はこのとき、男どもに囲まれ、さらにはお偉いさんに頭を下げられるというダブルショックによって圧し折れかけており、これらの答弁はすべてぴったり張り付いたノマラの囁きを反射的に棒読みで読み上げるというスタイルでお送りしている。

 ざっくり簡単に言えば、「ここで働かせてください!」→「いいよ!」となった。

「もとよりアルコ殿より頼まれておりますからな」
「え、そうなんですか」
「君のこと放り出すつもりはないってば」
「え、でもわたしお支払いできるものが……」
「君ほんと、どんな生活してきたの?」

 貴族っぽいアルコからだけでなくその従者であるフラーニョからも不憫そうに見られてしまったが、むしろここまで好意的な対応をされることの方が何か裏がありそうで恐ろしく感じてしまうのが結弦であった。

 なにしろ魔法少女になったばかりの頃は回復魔法しか使えずろくにダークソーンとも戦えず、ようやく魔法少女仲間を見つけてみればこれがろくでなしどもで、結弦を無限に回復する肉盾兼囮として使い潰した挙句、自分たちの回復にも使用するという磨り潰し具合だった。
 おかげさまで魔法のレベルはガンガン上がり最悪破片さえ残っていればそこから回復させることもできなくはないという極限回復魔法を身につけられたけれど、ありがたみはまるでない。自分の脳みそが飛び散る光景とか見ながら回復魔法を発動しっぱなしにしていた肉盾経験のおかげですありがとうございますとまで言えるほど結弦は卑屈ではない。

 そして組合の魔法少女たちに助けられてからも地獄は変わらなかった。むしろ考える余裕ができた分、生き地獄度は上がったかもしれない。
 授業中も部活中も担当区画にダークソーンが出れば関係なく出勤で、放課後はもちろんパトロール。日が沈めばダークソーン狩りが活発化する中、ひたすら出張ヒール受付所を開いて怪我人が入れ代わり立ち代わりやってくるのを癒し続ける日々。
 以前は自分の壊れた体を直し続ける日々だったけれど、今度は人様の切り傷擦り傷、もげた手足に零れた内臓、潰れた目玉に砕けた膝の皿を癒しに癒し、ひき肉になり果てた仲間をマントに包んで持ってきては助けてくれと叫ぶ狂気じみたあの目! ああ! ああ! そりゃあ直したさ! 形ばかりは直して、本当に魂さえ元に戻せたかの自信なんて欠片もなくて! それでも涙ながらにありがとうありがとうと叫ぶ娘に何が言えただろうか! やめて、もうやめて! でもやめれば本当に死んでしまう。みんなみんな列をなして死んでいく。助けを、助けを、助けを、求めているのはわたしだ! わたしはただ死にたくなかっただけなのに!

「ユヅル?」
「え?」
「だ、大丈夫かい? 顔が真っ青だが」
「え、ああ、大丈夫です。生理です」
「えっ」
「え?」
「え、いや、うん、月のものか。いやでも」
「大丈夫です。わたしは大丈夫です」
「……うん」

 さて、気持ち悪くなってすこし心が疲れてしまった。
 何事も悪い方に傾き始めると、ずるずると傾きがひどくなっていってしまうものだ。
 いけないいけない。傾きがひどくなると、取り戻すのに苦労する。
 結弦は頬を軽く叩いて、深呼吸をした。ひとつ。ふたつ。みっつ。

『ユヅル』
「大丈夫。わたしは元気になりました」
『ユヅル』
「大丈夫。知ってるでしょ?」
『……』

 そうだ。
 信じようと信じまいと、わたしはヒーラー。
 結弦はもう一度深呼吸を繰り返して、笑顔を張り直した。

「さて、じゃあ切りの良いところまでやっちゃおっか」
「え?」
「回復魔法ですよ。みんなやってあげないと不公平ですし、とりあえず、ここに集まってくださった方だけでも」
「よろしいのですかな。お疲れのようですが……」
「すっかり気が参ってしまっているのは確かです。でもだからこそ、動いて、働いて、気を紛らわせたいのです」
「そう申されるのでしたら無理におとめは致しません。部屋には後程案内させましょう」
「ありがとうございます」

 こうして結弦の出張ヒール受付所(異世界支部)が始まったのだった。






用語解説

・何と今回は特にないんだ。
 マジかよ。
前回のあらすじ
身元不明の女子中学生がやりすぎちゃった上に生理発言する回でした。



 レモの街なる、この世界ではあまり発展していない方だという都市に辿り着いてしばらく、結弦の生活は一変した。

 かつては遅刻ギリギリの時間まで惰眠をむさぼったかと思えば、時間になるや魔法で眠気を殺し、身だしなみを整えて朝食もそこそこに家を走り出て、学校の席に滑り込むや即座に眠ったふりならぬガチ寝でマイクロ睡眠時間を確保。
 以降はダークソーン出現の報さえなければ休み時間ごとのマイクロ睡眠を徹底し、何なら授業中であっても気配の薄さと存在感のなさを駆使して居眠りを敢行し、板書は眠る必要のないノマラに任せていた。

 授業が終われば部活動の時間で、思う様体を動かすことのできるアルティメット・テイザー・ボールは結弦のストレス解消に実に役立ってくれたが、それもダークソーン出現の報がない限りという条件付き。
 最近では出現の報があって飛び出すけどお呼びじゃなかったです案件が二割ほどあってかなりクるものがあった。

 楽しい部活動を終えれば一旦帰宅し、祖父の介護と祖母の夕飯づくりを手伝い、手早く夕飯を済ませて夜の街に繰り出す。
 就寝の速い祖父母は結弦の夜間徘徊を疑ってもいないようだったが、他の健全なる一般家庭の魔法少女たちがどうしているのかは結弦の常々の疑問だった。
 ノマラにそれとなく聞いたところ、『催眠って知ってる?』とあまり深入りしなさそうがいい感じの話題を提供されたのでそれ以来聞かなかったことにしている。実の家族に催眠かけてまで夜間徘徊するって間違いなくアウトだろ、と。倫理観どこ行ったんだよ、と。

 そして夜の街に飛び出れば指定の場所で組合の用意してくれた飲料とお菓子と一緒に怪我人を待ちぼうける。怪我人が出るかどうかは日によってまちまちで、ハッスルするのかハッスルしそびれた鬱憤を晴らすのか週末は何となく怪我人が多い気がするが、気の抜けかけた水曜日も多かったり、かと思えばやる気の出ない月曜日に怪我をしたり、まあそれぞれに多少の傾向はあるようだが、ほとんど時の運と言っていい。怪我するときはするし、しないときはしない。

 一応、三交代制でローテーションを組んでもらってはいるが、じゃあ非番の時は何をしているかと言えば、結局働かないことに罪悪感を覚えてダークソーン狩りに出張って出張ヒーリングしたり、ヒーラー仲間のお仕事を横でヒールして慰めてあげたりしていた。三人のヒーラーは割とそう言う、罪悪感とネガティブシンキングで生きているような面子だったので、ちょくちょく顔を合わせることもあった。それが仲良しだということにはならないのが魔法少女業界の辛いところだが。

 そして夜が本当に更けて、ダークソーンの宿主である人間たちがすっかり寝入った頃に、魔法少女たちも解散する。ダークソーンは人の悪意を種に増殖する。だから昼間は程々で、夜間に盛り上がり、そして寝ている時は穏やかだ。時間決めてやってくれ、というのがすべての魔法少女の等しく尊い祈りであったように思う。人を人とも思わぬ業界ですら時間決めてピックアップやらイベントやらやってんだぞ、と。

 そして罪悪感や明日への不安を無理やりに魔法で殺した不自然な眠りの後に、全ての魔法少女に等しく朝は訪れ、一コマ目に戻る、だ。

 そんな生活はしかし、このレモの街で一変した。

 朝。
 朝は、朝日とともに目覚めた。窓から差し込む朝日に照らされ、目覚めは自然とやってきた。魔法で不自然に眠気を殺さずとも、快適な目覚めが訪れた。時にはそれよりも早く目覚めて、朝焼けを小鳥のさえずりとともに楽しむことさえあった。

 朝食は質素なものだった。パン粥にチーズ、それに時に果実が一つつけばいい方だった。これはこの街では貧富の差に関係なく一般的なものだった。
 レモの街は朝が最も忙しい。その忙しい時間帯に食事を摂る時間を悠長には取れず、またたっぷりと腹を膨らませては、仕事のしようもない。

 郷士(ヒダールゴ)の屋敷もまた朝が一番忙しかった。郷士(ヒダールゴ)の朝の支度が整えられ、その家族の朝食が供され、彼らは各々の仕事へと就いて行く。
 掃除は朝のうちから行われ、少なくとも昼食前には持ち分を終わらせなければならなかった。何しろ屋敷は広く、磨いても磨いてもきりはなかった。
 とはいえ屋敷の女中の中でも、彼女らは特別忙しいわけではなかった。

 特別忙しいのは厨房だっただろう。
 何しろ厨房に休む時などない。郷士とその家族の朝食が供されれば、今度は下男や女中、侍従や侍女の朝食がふるまわれた。これは何しろ質素なものだから簡単な仕事だったが、問題は昼だった。

 朝たっぷりと働いたこの街の人々は、昼によく食べた。一日のうちでもっとも豪勢なのが昼食だった。だから厨房の人間は朝食を出し終えたらもう昼食の仕込みの為にてんやわんやだった。料理長は献立に頭を悩ましながらも腕を振るい、パン焼き職人はせっせとパンを焼いた。厨房女中たちはみんな手元とにらめっこして野菜の皮むきや掃除だ。

 勿論、厨房の人間が忙しい中、他の者たちが暇であるわけでもなかった。厩では馬丁たちが種々様々な馬たちの面倒を見、庭では庭師が鋏を入れ、また水をやり、魔木の面倒を見た。

 掃除女中は床という床、窓という窓を神経質に磨き上げたし、洗濯女中は山ほどのシーツや、それぞれに洗い方にコツのある屋敷の住人の衣類、また使用人たちの衣類を積み上げては崩していくことに余念がなかった。

 そして昼食にたっぷりのパンと、時に麺類、そして肉料理や魚料理を楽しんだ後は、少しの弛緩が来る。
 郷士(ヒダールゴ)たち屋敷の家族も昼食後は各々にのんびりと時間を過ごすし、侍従や侍女も手すきのものは街に遊びに出る。馬丁達もよほどのことがない限りは、そっと見守ってやるだけでいいし、庭師も仕事が済めば後はゆっくりと休める。
 厨房だけは別で、やはり夕食の仕込みが始まっているが、それだって昼と比べたらつつましやかなものだから、ほとんどのものは遊びに出かけているか、午睡にいそしむ。

 日が暮れてくれば夕食の時間で、一品か二品の軽食と、濃いめに煮出された甘い茶が供された。
 屋敷の住人の食事が済めば、使用人たちもまたそれぞれに軽食をとりわけて、そして、そう、後は寝るだけだ。
 東部は何もかもが程々である代わり、何事にも不自由はなかったが、それだって不夜城を気取るには油というものは有限だった。揚げ物料理を市民が手軽に食べる程度には油はあり触れていたが、歓楽街を除けばこの街の夜は早かった。

 夜が早いから朝は早い。そのようにして一日は回る。

 結弦は最初のうちこそこの生活リズムに慣れなかったが、しかし、慣れてしまえばこれほど健康的な生活もない。少なくとも、魔法少女として、ダークソーンと戦っていたころに比べれば、格段に健康的と言えただろう。

 誰もが仕事を持つ屋敷での生活で、結弦もまた自分の居場所を見つけた。それは屋敷のすぐ目の前に建てられた小屋だった。即席の小ぢんまりしたものとはいえ、なにしろ郷士(ヒダールゴ)の命で建てられたそれは、造りもしっかりとしており、そしてこう看板が掛けられていた。

「……『ユヅル施療所』」
『って書いてあるらしいね。不思議と読めるけど』
「うん、わたしも不思議と読める」

 屋敷についてすぐ、結弦たちがこの世界において文盲だということは知れた。というのも、何しろこの帝国とやらでは、そこらの下働きどころか、ちょっとした丁稚小僧でさえ文字が読めるかなりの識字率なのである。誤魔化す方が難しかった。

 しかしそこはそこ、ファンタジー世界の妙というところか。

 郷士(ヒダールゴ)達に勧められて言葉の神エスペラントなる神様の神殿を訪ねたところ、物の三十分ばかり読書するだけで、この世界の文字が読み書きできるようになっていたのである。
 試験勉強の時にこの神がいてくれたらどれだけ楽だっただろうかとは思ったが、普通の記憶と一緒で使わなければ忘れていくとのことで、結局は日々の努力であるらしい。

 さてもさて、そのように読めるようになった看板の掲げられた施療所というのが、いまの結弦の居場所だった。結弦にもわかりやすい言葉で言えば、要するにヒーラー受付所だった。つまりいつもの仕事場だった。

「はい、おじいさん、どこが痛むんですか」
「わしゃ、腰が、腰が痛くてのう」

 だとか、

「いてえ、いてえよぉ!」
「あらま、折れちゃってますね。骨継ぎからしますねー」

 だとか、

「膝を矢で射られてしまってな」
「古傷はちょっと難しいんですけど、まあこのくらいでしたら」

 だとか、最初のうちは冷やかし程度だった客も、代官公認の施療所ということもあり、またその腕が確かなこともあり、徐々に人気を博して、今では行列ができる始末だった。
 一応、慣例として営業は昼までとなったが、それでも客は随分、入った。

「うへ、うへへ、ノマラ、見てみなよ」
『ああ、ゲスい顔して』

 結弦は壷にたっぷりとため込んだ硬貨をジャラジャラともてあそんだ。一番安い銅貨の三角貨(トリアン)がやはり一番多かったが、鉄貨の五角貨(クヴィナン)も所々見られ、銀貨の七角貨(セパン)がちらほら、それに、馬車にはねられた重態の男性を治した時に頂いた上等な銀貨の九角貨(ナウアン)がその中で一枚きらりと輝いた。

 結弦はまだこの世界の金銭の価値をあまり知らない。毎食代官屋敷にお世話になっているし、遊びに出かけてもこれと言って買うものが思いつかず冷やかすばかりなので、金は溜まる一方で、使う機会がないからだ。

 それでも十三角貨(トリアン)も出せば串焼きが二本は食べられるということは知っていたし、五角貨(クヴィナン)一枚あればいいところで昼食が食べられることも知っていた。というのも、暇であるらしいアルコに奢ってもらったことがあるからだった。

「うへ、うへへ……」

 それを考えれば、壷一杯の銅貨は、たかが銅貨と言えど相当な金額になることは間違いない。恩返しが主目的ということもあって代官に頼んで割安で営業しているが、それでもこの調子なら相当額がたまることだろう。

「こん、こんなに……」
『ユヅル、ハンカチ』
「う、ん。うん」

 結弦はハンカチで目元を覆った。

「こんなに、人から感謝されるなんて、わたし、ほんとに、ほんとに……!」

 喜びがそこにはあった。





用語解説

・アルティメット・テイザー・ボール
 いままでなぜか突込みが来なかった部活。
 詳しくは調べてみよう。

・催眠
 ある程度魔力の扱いに慣れた魔法少女はみんなこれで家族の認識を誤魔化しているという。
 悪い子の魔法少女は学校の認識も誤魔化してサボったりしてるとか。

・言葉の神エスペラント
 かつて隣人たちがみな言葉も通じず相争っていた時代に現れ、交易共通語(リンガフランカ)なるひとつなぎの言語を授けて、争うだけでなく分かり合う道を与えたとされる。

・通貨
 銅貨の三角貨(トリアン)、鉄貨の五角貨(クヴィナン)、銀貨の七角貨(セパン)、より銀の含有率の高い九角貨(ナウアン)が主に通貨として流通しているようだ。金貨もあるようだが、これはもっぱら贈答用のものである。

前回のあらすじ

身元不明の女子中学生が銭を数えてゲスい笑いを漏らす回でした。



 遍歴の騎士アルコ・フォン・ロマーノがレモの街に滞在して早一か月が過ぎようとしていた。
 元来気の長い方ではないアルコはそろそろ焦れてきていたし、そうでなくても退屈を持て余していた。レモの街は近くに良い森も持つし、狩猟権を持つ代官の食客ともなれば狩りなど好きなだけ出来そうなものだったが、彼女の仕事が、また矜持がそれを許さなかった。

 暇を持て余したから、というといささか悪趣味ではあるが、保護したからには面倒を見てやらねばならぬという当然の道理から、アルコはしばしばユヅルの勤める施療所に顔を出した。
 施療所と言っても本当に小ぢんまりとしたもので、少しもすれば忽ち行列ができてしまうほどである。いや、小さいながらに行列ができるほどに人気の施療所と言えばいいのだろうか。

 何しろ普通施療所とか施療院とかいうものは、貴族の政策の一環や、金持ちの有志の取り組みとして開かれるものであって、その実態はさほどによろしいものではない。街の薬師が扱うような薬を処方し、傷に包帯を巻き、病に正しい診察ができるのはほんの一握りで、精々が横にならせて加持祈祷じみた呪いをして見せる程度の、それなら神殿にいくというようなものだ。

 神殿は神殿でこれも難しく、確かに癒しの術の多くは神官の用いる法術なのだが、確かな施療として癒しの法術を使える神官は決して多くはない。というのも、魔術にしろ法術にしろ、術というものは往々にして必要に迫られてはじめて開眼することが多く、神殿で祈るだけのものにはなかなか芽生えず、かえって在野の冒険屋などに多く使い手がいるほどなのだ。

 勿論、レモの街の施療院は多くが良心的だ。金銭的な意味でも、施療的な意味でも。もとより代官たる郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォの気配りの届いた差配で、街の各所には施療院が立てられ、そこに勤めるのはみな医療の術を学んだものばかりである。
 これは領主としては当然のことのようにも思えるが、しかし実践して行うことができているかというと話は全くの別である。医療の術は学ぶに難く、一見して見返りはさほど多くないように思われるからだ。そこを押して通したからこそレモの街では赤子が死ぬことも減り、老人もみな、矍鑠している。

 はじめひなびた街に過ぎないと思っていたアルコも、一月も過ぎれば郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォがまったく優れた為政者だということがよくよく知れた。彼と彼の一族を代官としてここに置いた放浪伯の慧眼たるや恐るべきである。

 そのように医療においてはまず他よりも随分高水準にあるレモの街であったが、ユヅルの施療所はそれと一線を画す水準にあった。
 というよりは、文字通り、

(格が、違う……)

 のである。

 ユヅルは臆病で、卑屈で、何事にもあたらしく始めることを厭うような娘であったが、怪我人、病人が来るとさっと顔が変わった。大工が曲がった梁を見た時のように、或いは料理人が食材を見た時のように、また或いは船乗りが風と波とを見た時のように、万事仕事を整えた職人のような顔をとる。

 そして目で見て、耳で聞いて、手で触れて、治してしまう。
 この速やかなることは全く尋常ではない。

 まず目で見れば外傷のほどはわかる。耳で話を聞けば、怪我をした時のことや、今どう感じているかがわかる。手で触れれば、実際にどうなっているかがわかる。これは施療院でも行う。行わなくては施療はできない。

 だがユヅルの場合、診察をしたのち、ほとんど流れるようにこれを癒してしまう。
 本人が癒しの術と呼ぶそれは、遍歴の長いアルコにしてもまるで見たことのない類のものである。

 ユヅルは神に祈りを捧げない。言葉で持っても、仕草で持っても、祈りなどそこにはない。高らかに名を呼ばうこともないし、激しい祈祷の身振りもない。

 小さく口の中でなにごとか呟くさまは、魔術師のそれに似ている。それも熟練の魔術師のそれと同じような滑らかさである。そして触れる。時に触れずとも行う。そうだ。癒しの術を。

 ユヅルの目は時々怖くなるほど平坦に見えることがある。子供の擦り傷も、大人の病も、小さな傷も、大きな怪我も、ユヅルはその大小軽重にかかわらず、見て、聞いて、触れて、癒す、その工程を変えるということがない。

 大の男でさえも目をつむるような、馬車に轢かれた哀れな男が担ぎ込まれたとき、人々はみなもう駄目だと思った。施療院ではなく神殿の仕事だと思った。つまり、癒しではなく弔いの時間だと。
 だがユヅルはたった一人、神に祈らなかった。
 目の色を変えず顔色を変えず、ただその倒れ伏した体を見て、聞こえますかと声をかけて聞き、そのねじ曲がった体に触れ、そして、ああ、そうだ、そして彼は癒された。骨は元の形に継ぎ直され、肉は元の形に張り合わされ、血は元のように収められ、命は元のようにそこにあった。
 奇跡だと歓声の上がる中で、彼女だけが、ユヅルだけが怯えたように身を縮こまらせていた。

 ユヅルは不思議な少女だった。
 まだ幼いと言っていいほどにいたいけな彼女はしかし、常に礼儀正しく、自分を抑えるということを知り、そして臆病なまでに卑屈だった。

 これほどの術が使えるのだ、本来であれば天狗(ウルカ)どものように高慢であってもいい。
 或いは土蜘蛛(ロンガクルルロ)どものように偏屈でもいい。
 しかしユヅルはそのどちらでもなかった。

 高価そうな衣服に身を包み、よくよく教育を施され、しかしてその内面はどこまでも卑屈で、内罰的で、自己卑下の塊だった。

 せっせと毎日施療に精を出して大いに稼いでいると思いきや、当人はその銭を一切使うことなく溜めこむばかりで、教えねば金の使い方もわからないのかと危ぶんだほどであったが、幸いそこまでではなかった。

 しかし、これらの矛盾はアルコを、また郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォを困惑させた。

 ともすればどこかの富豪が、癒しの術を目当てに奴隷扱いしていたのではないか。そのようには思えども、まさか当人に聞くわけにもいかない。

 アルコも何度かユヅルを気にして、街の物見や、食事に連れて行ったことがあるが、その振る舞いは精々が、先輩や上司に食事をおごってもらって恐縮しているといった体を出ない。また、あれやこれやと聞いてくることは割合に当たり前のことが多く、記憶がないというのもどうやら確かのようだった。

 まったく、この少女は何処から湧いて出たのか降ってきたのか。アルコも郷士(ヒダールゴ)ジェトランツォも頭を悩ませるばかりである。

 この日もアルコは、施療所での仕事を終えたユヅルを連れて物見に出たが、あれやこれやと興味を示すものの、手は出さない。奢られるのを待っているのかと意地悪な気持ちで、買ってやろうかと声をかければ、きょとんとした顔で見上げてきて、いえ、欲しいと言うほどではないのでとあっさり断られてかえって困惑する。
 年頃の娘ならば飾り物や、可愛らしい小物など欲しがるのではないかと積極的に勧めても見るが、曖昧な微笑みでしかしやんわりと断られる。物欲というものがないのだろうか。

 屋台で串焼きを買った時は食べてもらえたし、食事に誘えばたまには付き合ってくれるが、これも後に残らぬものだからなのか、それとも単に付き合いで食べただけなのか、いまだに判然としない。

 そのようにアルコが一人頭を悩ましているというのに、ユヅルという少女は酷いものである。

「アルコさんて」
「うん、どうしたかな?」
「お暇なんですか?」
「ぐふっ」

 無垢な瞳がかえって辛かった。

 勿論、アルコも暇な身ではない。忙しい中、保護した義理を思って顔を出しているのだ。だがそれを責めようにも、ユヅルの顔にはこう書いてあるのだ。私のようなもののところに来るなんて余程に暇なのだろう、と。彼女は自分の立場というものがわかっていないのだ。

「暇なわけじゃあない。いまも一応お仕事中だよ」
「お仕事中に、私とお茶してていいんですか」
「むしろ人ごみに紛れて、助かる」

 茶屋で甘茶(ドルチャテオ)などを飲みながら、ようやく疑念を晴らす時が来たかとアルコは胸をなでおろした。

「私は巷を騒がす茨の魔物を追いかけているのさ」





用語解説

・冒険屋
 いわゆる何でも屋。下はドブさらいから上は竜退治まで、報酬次第で様々なことを請け負う便利屋。
 きっちりとした資格という訳ではなく、殺しはしないというポリシーを持つものや、ほとんど殺し屋まがいの裏家業ものまで幅広い。

天狗(ウルカ)(Ulka)
 隣人種の一つ。風の神エテルナユーロの従属種。
 翼は名残が腕に残るだけだが、風精との親和性が非常に高く、その力を借りて空を飛ぶことができる。
 人間によく似ているが、鳥のような特徴を持つ。卵生。
 氏族によって形態や生態は異なる。
 共通して高慢である。

土蜘蛛(ロンガクルルロ)(longa krurulo)
 足の長い人の意味。
 隣人種の一種。
 山の神ウヌオクルロの従属種。
 四つ足四つ腕で、人間のような二つの目の他に、頭部に六つの宝石様の目、合わせて八つの目を持つ。
 人間によく似ているが、皮膚はやや硬く、卵胎生。
 氏族によって形態や生態は異なる。

甘茶(ドルチャテオ)(dolĉa teo)
 甘みの強い植物性の花草茶。