「ねえ、翔太くん」食堂を出ると、凛が言った。「今日、時間ある?」
「どういうこと」
「急ぎじゃなかったら、遠回りしない?」
 彼女は今日の高揚が抜けないようだった。
「別に、構わないけど」家になど急いで帰る必要は全くない。むしろあの人たちは、帰ってくるなと言う。
「でも、榎本さんはいいの」
「私は、平気。ちょっとぐらい」
 それならばと、二人はいつも左右に別れる交差点を真っ直ぐに渡った。この先に凛は行ったことがないと言う。
 辿り着いたのは「若葉公園」という広い公園だった。手の込んだ遊具だけではなくグラウンド、亀の住む池、四季折々の花壇を備えている。彼女はあたりを見回しながら、「こんな場所があったんだ」と嬉しそうに言う。
 ふと「あれ」と凛は立ち止まった。
「こっち、どこに通じてるの」
 彼女が指さす方には、茂みに隠れた階段があった。木をわたした簡素な段が上へと続いている。一本の街灯が階段の始まりになっていた。
「ああ、丘だよ。何もない」
「行ってもいい?」
 素っ気ない翔太の言葉に、彼女はそんなことを言った。
「ほんとに何もないよ。自販機も、展望台も」
「夢で見たの。この階段」
「また夢か」
「ねえ、行くだけ行ってみようよ。きっといいことがあるよ」
「何もないって言ってんのに」
 それでも彼女が渋るので、階段を上がることにした。この丘には二年ほど前、友だちと遊んだ時に上ったきりで、せいぜいベンチが一つあっただけ。だが執拗に断る理由もないので翔太は段を踏みしめた。
 勾配は急で、道はくねっている。振り返ってその高さを知ると少し怖い。途中にぽつぽつと街灯が立っていなければ、あっさり足を踏み外しそうだ。決して落ちないよう、翔太は手すりを握り締め、急な階段を黙々と上る。
 最後の数段は、先に平坦な地に立った翔太が手を貸し、二人は丘の上に辿り着いた。
 景色が開け、短い草の生える土地には錆びたベンチが一つだけ。
 しかし、その先の光景に二人は息を呑んだ。
 頭上に広がるのは満天の星空。何ものにも遮られない群青の天体には、数えきれない星々が瞬いている。まるで海のように広々と広がる夜空。
 視線を下げると、丘の下には星空を反転したような街の光が輝いていた。団地に食堂、二人が通う学校。小さくとも煌めく街の灯り。
「すごい!」凛がはしゃいだ声を上げた。「ね、翔太くん!」
「うん」翔太も素直に頷く。「すごい」同じ台詞を口にした。昼間はただ寂れた街並みが見えるだけの丘の上。しかし夜にはこれほど綺麗な景色が広がっているだなんて、想像しなかった。
「ほら、いいことあったでしょ?」そう言った彼女は、街を指さす。「見て!」
 その指先で、一筋の光が、流れるように街を離れて行く。
「ほうきぼしだ」翔太にはわかった。
「ほうきぼし?」
「うん。街から出てる夜行列車」
 列車はまるで流星だった。「ほうきぼし」という名の通り、流れ星のようにその煌めきは走っていく。二人の知らない、遠い土地へ。
「いい名前だね。ほんとに流れ星みたい」
 ため息を吐くように凛が言った。
 上を見たり下を見たり。飽くことなく眺めながら二人は丘の上を歩いた。こうしていたら、いつか自分も景色に溶けてしまう気がする。それは幸せな想像だった。これほど美しいものの一部になれたら、どれだけいいだろう。
「ねえ、この花知ってる?」ふと凛が立ち止まった。脇には一メートルほどの茂みがある。
「花?」翔太にはほとんど草花の知識はなかった。タンポポや向日葵といった有名すぎる花の名前しか知らず、特に興味を抱いたこともない。「知らないけど」
「これね、山吹っていうの」
 彼女は、黄色く小さな花をそっと指先ですくってみせる。五枚の花びらが星のような形を取った可憐な花が、たくさん咲いている。
「植物、詳しいんだ」
「ううん。そうでもないよ。でもね、この花は好きだから」彼女はひとつだけ花を摘み、「はい」と翔太に手渡して笑った。「プレゼント」などと言う。
 やっぱり彼女の夢は当たっていた。受け取り同じように笑いながら、翔太は思った。