集中治療室から戻ってきた彼女は、それでも一週間目を覚まさなかった。十一月の夕刻に信号無視のトラックに轢かれた彼女は、十二月に入ってようやく意識を取り戻した。
 だが彼女を診た医者は「後遺症」という言葉を口にした。彼女の右足は何か所も骨が折れており、以前と同程度までの回復の見込みは薄いと判断した。
「凛ちゃん、調子はどう」
 それでも彼女は、見舞いに来た叔母に「大丈夫です」と笑いかける。鎮痛剤の副作用でひどい吐き気に襲われる彼女は、まともに食事を摂れないまま青い顔をしていた。
「警察の方が、また話を聞きたいって言ってるんだけど、話せるかしら」
「それは、話せます。けど……」
 弱々しく身体を横たえたままの彼女は言い淀む。それを見た叔母は、タオルや着替えを床頭台にしまいながらため息をついた。
「まだ思い出せないの?」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないけど、まさかねえ」
 凛は項垂れるが、どうしても思い出せそうになかった。
 彼女は、事故付近の記憶を失くしていた。それだけでなく、彼女からは五年近くの記憶がごっそりと抜け落ちてしまっており、医者は「逆行性健忘」と診断した。
 だから彼女が何故あの日外に出ていたのか、誰にもわからないままだった。中学時代の友人のもとに遊びに行く約束をしていると、家を出る直前に義姉に伝えていた。だが彼女と仲の良かった友人には、その日彼女と会う約束をしている者は誰一人いなかった。その真偽を彼女に問おうにも、彼女は友人の写真や本人そのものを見ても、それが誰だったか話すことが出来なかった。顔も名前も何一つ思い出せないのだ。自分が通っていた若葉中学校の名前も、転校以前に通っていた学校名も言えなかったし、小学校高学年の頃に仲の良かった友人の記憶を辛うじて語れるだけだった。
「まさかあなたが、自殺なんてするわけないしねえ」
 叔母の遠慮のない台詞にも、凛は何も言えない。自室の机の上には「がっかりさせて、ごめんなさい」と書いた紙が残っていたという話だが、それを書いた覚えも彼女にはまるでなかった。
 自殺を疑われても仕方のない文言だが、その線も彼女には似つかわしくなかった。元来明るい性格で友人も多く、毎日楽しく学校に通っていた榎本凛が、まさか自殺を企図していたとは思えない。学校の生徒も教師も誰もが口をそろえて、彼女にいじめなどなかったと証言したし、その痕跡もなかった。手芸部で精力的に活動し、十一月末に控えた文化祭に向けて毎日作品作りに勤しんでいた彼女に、自殺をする動機などない。
 残された可能性は、「家出」だった。
 その根拠を色濃くしたのが、彼女が事故当時に下げていたバッグから三十万円を超える現金が見つかったことだった。友人の家に遊びに行くのに、そんな大金を持っていく必要はない。バッグに着替え一式が入っていたことも、疑惑を確信に繋げた。
 これまでの小遣いやお年玉をかき集め、彼女は家出を計っていた。しかしそこにも、彼女の向かった方角が駅とは間反対であることと、動機が不明であるという疑問点は残った。
 榎本凛が、あの日一体何をしようとしていたのか。義姉に嘘をついて、どこに向かおうとしていたのか。今となっては誰にもわからないのだ。
「まあ、三月までには退院できるみたいだから。それは良かったわね」
 叔母はそう言って安堵の顔をした。
 引っ越しの話を凛は聞いた。自分の事故が機なのかと思ったが、どうやらそれは以前から決まっていたそうだ。
「新しいところで、一から始めたらいいわよ」
 叔母の言葉に頷きながら、彼女は自分が白紙に戻ってしまったことを知った。そしてどうやら、家族はそれを喜んでいるようだ。
 彼らの迷惑にならないのなら、それでいいのかもしれない。ぼんやりと思いながら、凛は瞼を閉じた。