目覚めると、日は高く昇っていた。
 ここ数日、嫌な夢ばかり見る。何度も何度も繰り返し、汗びっしょりになって目を覚ます。夜も昼も関係ない。寝ようとしてなかなか寝付けず、うつらうつらして飛び起きる。それを幾度も繰り返している。
 布団に横になったまま、目覚まし時計に目をやる。十二時十分。もうすぐ昼休みだ。そういえば、腹が減っていたことを思い出す。最後にものを食べたのはいつだっけ。一昨日、カップ麺の最後の一つを食べてしまった。参ったなあ。そう思いながら寝返りを打つ。
 窓の外は、ひどく明るい。秋晴れの真っ青な空。ぽかりと浮いた白い雲が一つだけ。
 このずっと向こうで、青南高校にはいつもと同じ昼休みが訪れている。友人の顔を思い出す。また、嫌な夢を見てしまうに違いない。
 翔太は、疲れ切っていた。
 ――なんで、こんなことばかりなのかなあ。
 ほんの少し前まで、あんなに毎日が楽しかったのに。忙しくとも充実していて、好きな人たちと笑い合って暮らしていたはずなのに。まるであの夜の再来のように、あっという間にそれらは消え去っていった。
 ばちが当たったのかもしれない。そんなことさえ考える。元々自分は不幸に生まれついていて、幸せを望めば望むほど、悪い場所に落とされるのだ。愛する人も、通う学校も、働く店も、住む部屋さえも。崩れるように失っていく。それらを手にしていたこと自体、烏滸がましかったのかもしれない。
 美沙子はあれ以来帰って来ていない。もう二度と戻ってこないのかもしれない。
 次に住む場所を見つけなきゃ。学校にも退学届けを出して、働く先を見つけなければいけない。また情報誌をもらってきて、履歴書を買って、証明写真を撮って。退学するなら、せめてもう一度学校に行かなくちゃ。制服を着て、自転車を漕いで。提出したノートは、処分してもらおう。すぐに住む場所も何とかしないと。どこに行けばいいんだろう。十五歳の自分を相手にしてくれる不動産屋などあるのだろうか。
 よつば食堂の面々を薄く思い出す。彼らに泣きつけば、何か一つだけでも助けてくれるかもしれない。だが、これまで散々心配をかけ、気に留めてもらったのだ。その行為が美沙子の言った「泣き脅し」に値するのではと思うと、とてもそんな真似は出来ない。
 ――どうでもいいや。
 考えることに疲れ果て、翔太は再び瞼を閉じた。眠くはないが、起きている気力がなかった。もう全てがどうでもいい。このまま二度と目が覚めないことが、何よりの幸せだ。
 そう思う端で、最後の最後に気にかかるのが、彼女のことだった。自分が目覚めなくなったら、彼女はきっと悲しむだろう。自分が周囲と繋いでいたたくさんの糸。あっという間に千切れていったそれは、たった一本だけ残っている。その先にいる凛は、今どんな顔をしているだろう。
 夜になるのを待ち、翔太は一枚のメモを手に電話台の前に立った。丁寧に書かれている数字の通り、ボタンを押していく。
 三コール目で、彼女は電話に出た。「……翔太?」慌てた声がする。それは翔太にとってひどく懐かしく感じられる。
「うん。今、大丈夫」
「大丈夫だよ」
「ごめん、連絡遅くなって」
「ううん。電話してくれてありがとう」彼女は心底安堵しているようだ。「翔太、どうしたの。ずっと学校休んでるけど、なにかあったの」
「あったよ」翔太は小声で笑う。「あったなんてもんじゃない」
「どうしたの、なにがあったの」
「俺、もういっぱいなんだ。それで疲れたんだよ」意図せずともため息が漏れた。
「いっぱいって、どうしたの。ねえ、教えて」
「幸せだったよ。本当に、楽しかった。全部、凛がいてくれたおかげなんだ」静かな声で、翔太は続ける。「今まで一緒にいてくれて、ありがとう。俺にはもったいない彼女だった」
「翔太、何言ってるの。そんなこと言わないで。私はこれからもずっと翔太のそばにいたい、私、何をしちゃったの」
 切迫した声ですら、彼女のものなら愛おしい。
「凛のせいじゃない。俺たちは、最初から一緒にいるべきじゃなかったんだ」
「嫌だよ。突然どうしたの。おかしいよ、翔太」
「言ったろ、疲れたんだ。もう何も抱えられない。しんどいよ。全部、疲れちゃったんだ……」
「全部って、何が疲れちゃったの。私、そんなに負担になってたの。ねえ、声が変だよ。しっかりして」
 声が変なのは眠たいせいかな。そう思いながら、翔太は目を擦った。電話をするのも億劫なほど、なんだか身体が重たい。思わず欠伸が出てしまう。床に座りたかったが、残念ながらコードが届きそうにないので仕方なく立ったまま口を開く。
「凛が負担なわけないよ。さっき言ったように、俺にはもったいないぐらいなんだ」
「ならどうして、こんなこと言うの」
「凛だって、少しは分かってるだろ」電話の向こうの声が途切れた。「この前、凛のお姉さんって人に聞いたんだ。どうして凛が親と暮らせなくなったのか」
「それは……」
 絶句する彼女があまりに哀れで、今すぐにでも電話を叩き切りたい衝動を抑える。
「俺は今も凛が大好きだ。だけどきっと、俺のことなんか忘れた方がいいと思う」
「やだ……」彼女の声がみるみる湿っていく。「やだよ……忘れるなんて、そんなの嫌……」
「その方が、凛も幸せなんだ」
「そんなわけない。私は、本当に翔太が大好きなんだよ。それにきっと……」翔太の想像通り、凛は一縷の望みにかけていた。「人違いだよ……」囁く声で彼女は言った。
「俺も、そうだったらいいと思ってた」
 彼女が泣き出す前に、翔太は最後の一言を繋げた。
「俺の前の名字、「(みなみ)」っていうんだ」
 かざしただけで、勝手に力の抜けた手から受話器が落ちた。ガチャリと音を立てて電話が切れる。
 南翔太。もう誰も呼ばなくなった、存在しなくなった名前。凛の父親である日下部雄吾に奪われた、一家の苗字。
 これで、全部終わった。そう思い、翔太はキッチンの床に倒れ込んだ。あとはもういくらでも眠れる。何も気に掛けることはない。
 空っぽが立てる音だけを聞きながら、今度こそ夢も見ないまま眠りについた。
 電話の音で、翔太は目を覚ました。キッチンの硬い床に寝ていたせいで、身体中がぎしぎしと痛む。久々に深く眠れていたのに、叩き起こすのは誰だろう。
 のろのろと起き上がり受話器を手に取るまで、電話はしつこく鳴り続けている。
「はい……」
「おまえ、翔太か?」
 もしもしの言葉もなく、切迫した男の声が向こうから聞こえてきた。
「そうですけど」
「おまえはいい。早く美沙子に代われ」
「えっと……城戸さん、ですか」
 そうだと、電話越しに城戸は言った。「いいから、さっさと代われ」
「今、いません」
「いるんだろ、誤魔化すな!」
 唐突な怒鳴り声に閉口し、翔太は受話器を耳から遠ざける。無理に起こされた挙句に怒鳴りつけられるなんて、迷惑な話だ。
「いないです。俺ひとり」
「おまえ、嘘ついてたら承知しないぞ」
「美沙子さん、そっちにいるんじゃないですか。城戸さんのところに行くって言って、それからずっと帰ってきてないです」
 少し黙り込んだ城戸は、「本当か」と尋ねてくる。「それ、いつの話だ」
 翔太が日付を思い出して答えると、城戸は考え込んでいるのか返事をしなくなった。
「あの、何かあったんですか」
 いい加減翔太が聞くと、男は苛立ちを露わに「あいつ、とんでもない女だった」と呻いた。
「確かにその日、俺の家に来たんだ。これから同棲するはずだったんだ」
「それなら、そっちに……」
「あいつ、俺の金持って逃げやがったんだ!」
 はあ、と翔太は間抜けた声を出した。
「朝になって、一度荷物を取りに帰るって言って出てったんだ。解約の手続きもあるから遅くなるってな。なかなか戻ってこねえから連絡したら、ガスの停止でトラブっただの、翔太を親戚に預けてくるだの言ってたんだ」
 誰を誰に預けるって? そう言いたいのを我慢して、翔太は黙って話を聞く。
「そしたら今朝になって電話にも出なくなりやがった。嫌な予感がして調べたら、俺の通帳も印鑑もあいつが持っていってやがった」
「盗まれたってこと?」
「ああ。あの朝には俺の金持ってとんずらするつもりだったんだ!」
「金って、いくらあったの」
「一千五百万」
 それは大変だ。翔太は完璧な他人事として思った。と同時に、奇妙な感心を覚える。やっぱり彼女は城戸ではなく、勝也とお似合いの人間だったのだ。
「くそっ、ふざけんなよ!」城戸は怒鳴り散らす。
 もちろん、圧倒的に悪いのは美沙子だ。盗んだ本人が何よりも悪い。
 だが城戸の方こそ、そんな大金を持っていることを、どこかでひけらかしでもしたのだろう。そうした不遜は働くのに、悪人を見破る力は持っていなかった。翔太にはいまいち同情の心が湧いてこない。
「翔太、おまえ何とかしろよ。おまえの親戚だろ!」しかもとんでもないことを言い出す。
「なんとかって」
「おまえが稼ぐか借りるかして返せよ。それが道理ってもんだろ」
「無理だよ」即答する。「知ってると思うけど、俺、バイトして高校行くのがやっとだし。そんな大金貸してくれるとこなんかないよ」しかもクビになったし。そんなことをわざわざ言う必要はないだろう。
「じゃあ他の親戚に頼めよ。大人なら借りれるだろ」
「縁が切れてるんだ。美沙子さん、親戚に嫌われてたから。俺も嫌われてたし、親戚なんてどこにいるかも知らないよ」
「ちくしょう!」城戸が激昂するから、またしても翔太は受話器を耳から遠ざける。これで耳が傷んだらたまらない。
「それより、警察に行った方がいいよ」
「行ってやる。あの女許さねえ!」
 だが、美沙子が城戸の家を離れてから既に日が経っている。今はもう遠くに逃げおおせているだろう。
「早めに行った方がいいと思う」
「おい、おまえやけに冷静だな。あいつの噂が立ったらおまえも立場が悪くなるぞ」一瞬、心配しているのかと思ったが、もちろんそんなはずがなかった。「本当にグルじゃないだろうな」
「そう思うなら来てもいいよ。もう誰もいないから」
「なんなんだ、その余裕。てかなんでおまえまだそこにいるんだ。そこ解約するってのは嘘だったのか」
「捨てられたんだ、俺。家賃払えないし、ここも出てかなきゃいけない」
 数秒、城戸が沈黙する。「それ、マジか」
「うん」
「これからどうすんだよ」
「どうしよう」
「学校は」
「辞めないといけない」
「あの女、マジでクズだったんだな」
 改めて城戸が吐き捨てた。そのクズに傷めつけられた自分たちはなんなんだろうと、翔太は思った。
「美沙子が戻ってきたら連絡しろ。いいな、翔太」
 自分勝手な言葉に翔太は返事をしなかったが、城戸は勝手に肯定だと受け取ったらしい。
「そうじゃなかったら連絡するなよ。俺とおまえは他人なんだからな」絶対に泣きついてくるな。そういう意味の言葉を重ねて、城戸は電話を叩き切った。
 俺はもう、何にも繋がってないんだな。
 受話器を戻し、そう考えるとなんだか不思議な気がした。自分がこの世で一番孤独な人間に思えた。
 人間は皆、生まれる前から母親とへその緒で繋がっている。生まれた後はずっと多くの人と出会っていく。常に誰かと繋がっているはずなのだ。誕生してから息絶えるまで、その繋がりがゼロになる人間がどれほどいるだろう。増えたり減ったりしながらも、皆誰かと繋がっている。
 俺は、ゼロになったんだ。生まれて初めて、全ての繋がりが切れたんだ。翔太はそう思った。果たしてそれは、生きていると言えるのだろうか。誰にも認識されない「生」は、「生きて」いると言えるのか。
 延々とそんなことを考えながら、部屋に戻り布団の上に転がった。「切れて」いるのはある意味楽だなとも思った。誰のことも考えなくていい。後のことも先のことも、知ったことじゃない。だって、気分次第でいつでも終わらせることが出来るんだから。何も怖くはない。
 今が何時だろうが関係ないから、時計を伏せて目を閉じた。窓からそよぐ風が、やけに冷たかった。
 いよいよつまみ出されるのだろうか。家まで誰かがやって来るのはそういうことだろう。
 だが、怖いという気持ちはない。なるようになれ。どうにもならないなら、それまでだ。部屋のチャイムが鳴った時、翔太はぼんやりそう思った。
 だるく重い身体を持ち上げ、目を擦りながら玄関に向かう。いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、空気は随分と冷えていた。靴につま先を引っ掛け、鍵をひねる。ゆっくりとドアを押し開けた。
 驚きに、翔太はぽかんと口を開けた。同時に、自分はまだ夢を見ているのだと思ったが、頬に触れる風は冷たく現実的だった。
「悦っちゃんに聞いたの。この場所」
 制服姿の凛が、廊下に立っている。
「入れて」
 思いつめた顔で、きっぱりと彼女は言った。
「どうして……」
「話があるの」
「俺はないよ」
「私があるの」彼女はじっと翔太を見つめている。「お願い、聞いて」
 半ば強引に、凛はドアを開けて部屋に入る。彼女の剣幕に押される翔太が部屋の奥に後ずさると、強張った表情の彼女があたりを見回しながら後に続く。
 カップラーメンの容器、ビールの空き缶、吸い殻の溜まった灰皿。そんなもので溢れるテーブル。床は埃っぽい。灰色のキッチンを通り過ぎ襖を開けて自室に入ると、翔太は敷きっぱなしの布団を蹴とばしてスペースを開けた。そんな彼を見ながら、凛は畳に正座をする。
「……痩せたね」
 彼女は微笑んだ。あまりに悲しそうなその表情を、翔太は立ったまま見下ろす。
「空っぽなんだよ」
 音がしそうなほど、身体が軽い。動く度に、骨や内臓がからからと音を立てそうだ。
「……わかるよ」
「知ったかぶりするなよ」
「翔太……」
 冷たく見下ろす彼を見つめ、彼女は両手をつき深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」彼女の謝罪は、まるで悲鳴のようだった。
「……謝らないでよ」翔太は苦く呻く。
「ごめんなさい。たくさん奪って、傷つけてしまって。あなたの人生を辛いものにしてしまって、本当にごめんなさい」
 こんなの違う。そう思う翔太の目の前で、彼女は額を畳に擦り付ける。
「全部、私たち家族のせいなの。お父さんがおかしくなったのは、私たちが負担だったからなの」これは、彼女の懺悔だ。「私がもっといい子だったらよかった。私がいなければ、きっとお父さんはあんなことをしなかった。あなたの家族を壊す真似なんて、しなかった。あなたの身体を傷つけたりもしなかった……!」
「やめてよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさい」
「やめてってば」
「ごめんなさい。許してなんて、言いません。ごめんなさい、本当に……」
「凛!」
 翔太は膝を折った。懸命に彼女が堪える嗚咽を聞いた。それでも彼女は「ごめんなさい」と壊れたように小声で謝り続けている。
「ごめんなさい……私のせいなんです。ごめんなさい」
 いつも元気で、優しい凛。だがこれが、本当の彼女の姿なのだ。殺人犯の娘という業を細い肩に負い、重すぎる責任を感じて周囲に謝罪し続ける、孤独な女の子。死刑を免れた父親と、自分を捨てて逃げた母親に代わり、たった一人残された彼女は謝り続けている。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい」
 私はね、山吹なの。夏に海岸で聞いた彼女の台詞を、翔太は思い出した。花が咲いても、実のならない徒花。花など見せかけだと悲しそうに言っていた。しかし、罪の重さに苦しむ少女は、それでも必死に眩しい花を咲かせてきた。もう一度前を向こうと懸命に足掻き、家族の分も他人を思いやって精いっぱい生きてきた。

 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 どれだけ孤独だったろう。どれほどの涙を流し、寂しさに押しつぶされ、絶望の夜を越えたのだろう。この小さな身体で。空っぽの身体で――。
 胸が詰まり、息が苦しくなる。「凛……」愛しい名前を、優しく呼ぶ。
 震える肩に両手をやり、そっと上を向かせた。涙にぬれた顔、泣き腫らした両目。それを見ると、何かが弾けた。
 両腕で、翔太はしっかりと凛を抱きしめた。嗚咽を漏らして震える細い身体が二度と離れないよう、両腕に力をこめる。
「凛のせいじゃない」
 その声が濡れてしまう。
「俺たちは、何も悪くない」
 躊躇う凛の両手が背に触れる。細い両腕は、やがて翔太を強く抱きしめた。
 涙を流し、翔太と凛は抱き合った。ただただ繋がりたい相手を求め、泣き続けた。
 やっぱり好きだ。どうしても大好きだ。泣きながら、翔太はようやくその感情を理解した。誰が何と言おうと、離れたくない。いつまでも凛と一緒にいたい。この繋がりだけは、手放したくない。
 互いにしゃくり上げながら、少しだけ顔を離す。
「俺、もう何もないんだ」向かい合う凛の瞳が、涙できらきらと光っている。「バイト、クビになって、学校にも行けなくなった。伯母さんも逃げたから、この部屋も出て行かないといけない。全部が切れたんだよ」
 辛い。辛い。ずっと辛くてたまらない。本当は、誰かと繋がっていたい。ひとりぼっちは、とても怖い。
 そんな彼の弱音を、彼女は全て受け止めた。
「大丈夫だよ」小さな両手が、そっと翔太の頬を包む。
「まだ、私がいるよ。私はずっと、翔太の味方だよ」
 翔太は嗚咽の隙間で「ありがとう」と言った。もう少しだけ、涙がこぼれた。
 十一月にしては、随分と部屋は冷え込んでいた。翔太は窓を閉め、効きの悪い電気ストーブをつけ、温かな紅茶を入れたカップを凛に渡した。礼を言う彼女は、いつものように嬉しそうに笑ってくれる。
「この本、ありがとう」
 学習机に乗せていた文庫本を彼女に差し出す。「夢十夜」を受け取った凛が裏表紙を見るのに、翔太は居心地が悪くなる。
「ごめん。名前、勝手に見て」
「ううん、いいの。そっか、ここで分かっちゃったんだ」細い人差し指で名前をなぞる彼女は、「こんな夢を見た」と言う。
「引っ越した先の知らない町。交差点を左に曲がると、ある食堂の暖簾が目に入った。お腹を空かせた私は、吸い寄せられるように暖簾をくぐる」
「それ、凛の夢の話か」
「うん。だから私は、あの日よつば食堂に行ったの」彼女は照れくさそうにはにかむ。「大当たりだった。皆と知り合えたし、翔太にも出会えた。本当に、あの夢を見てよかった」
「全部、夢のおかげだったんだな」彼女がそんな夢を見なければ、今こうして一緒にいることもなかったかもしれない。「いつから、そういう夢を見てたんだ」
 翔太が尋ねると、彼女は遠い記憶を呼び覚ましながらカップの縁を指でなぞる。
「いつからだろう……。お父さんが捕まって、お母さんがいなくなって……叔父さんのところに預けられてしばらくした頃かな。私、子どもらしくない子どもだったの」
 一口紅茶を飲み、彼女はほっと息をつく。
「いつも、幸せになりたいって思ってた。毎日寂しくて、悲しくて。私なんか駄目だって思ってるくせに、心の奥ではやっぱり幸せが欲しかったの。少しでも良い方を選ぶのに必死になってた。子どもなのに、可愛くないよね」恥ずかしそうに笑う。「そのうち、次に起こることの夢を見るようになって、その通りにしたら不思議と良いことが起こって。ジュースが当たるようなちょっとしたことが多かったんだけど、私にはそれが救いになったの。なんでこんな夢を見るのかは、今でもわからないんだけど」
「俺、神様とか信じないけどさ」翔太は凛に笑いかけた。「もしいるんだったら、凛の夢はきっと特別に与えられたものなんだよ。凛が少しでも幸せになるために、見せてくれてるんだ」工事現場の事故を思い出す。彼女が自分の無事を幸せだと思ってくれていたから、今こうして生きているのだ。
「凛の夢なら信じるよ」
「ありがとう。信じていて」
 嬉しくて幸せで、二人は顔を見合わせて笑った。
 次第に部屋が温まり、散々眠ったにもかかわらず、翔太は再び眠くなってしまう。凛と並んで壁にもたれると、頭の中がとろんと蕩けた様な虚脱感に襲われる。そうして、今までずっと緊張していたことに気が付く。
「これから、どうするの」
「どうしよう」凛の囁くような声に、眠たげな声で返事をした。「学校、行けないし。ここにももう、居られないし」
 大きく息をつく。「あんなに勉強したのになあ」嘆息すると、凛が不安そうに尋ねた。
「後悔、してる?」
「後悔って、どうして」
「これなら入らなきゃよかったって。そんなこと思ったりする?」
「そんなわけないよ」笑って翔太は否定した。「この半年、本当に楽しかったよ。友だちも出来たし、凛とも付き合えたし。海を見に行った日も、昨日のことみたいに覚えてる。後悔なんてするわけない。そりゃあ三年間通いたかったけど、俺はこの時間があったこと、絶対に忘れない。一生の自慢だよ」
 翔太の本心を聞いた彼女は、「そうだよね」と頷いた。
「私も、本当に楽しかった。あと二年、通いたかったなあ」
「何言ってんだよ。凛は学校辞めたりしないだろ」
 翔太の台詞に、凛は悲しそうな顔で笑ったまま、ゆっくりと首を横に振った。
「私、転校するんだって」
 目を丸くする翔太に、「また、引っ越すの」と凛は言う。
「ここは不便だって叔父さんも叔母さんも言ってて、来年の三月で友加里さんも短大卒業するから、タイミングが丁度いいって。だから私も、学校辞めないといけないんだ」
「なんだよそれ……タイミングって、凛には全然よくないじゃんか」
「仕方ないよ。私は、住まわせてもらってるんだもん」
「一人暮らしして通うとか出来ないのか」
「私もそう言ったの。アルバイトするから、ここに居たいって。だけど、私を一人にしたら何するかわからないって、許してくれなかった。信用ないよね」
「そんな。凛が人の迷惑になるようなこと、するわけないだろ」
「仕方ないの。信用なんて、初めからないから。ちゃんと勉強して、進学して、いい会社に入って、外に出て恥ずかしくない人間になれって。ただでさえ私は、親戚の恥なんだから……」
 凛のどこが「恥」だって? 翔太にはふつふつと怒りがこみ上げてきた。こんなに一生懸命生きている彼女を、何故信用しないんだ。どうして苦しい思いばかりさせるんだ。
「叔父さんが、転入先の学校も決めちゃったの。有名な女子高だって」
 目を伏せる彼女は辛うじて笑っているが、その顔は今にも泣き出しそうに見えた。たくさんのものを乗り切ってきた笑顔だ。そこに隠された涙に、彼女の家の人間は気づかないのだろう。気づいても、見て見ぬふりをするのだろう。
「無理するなよ」
 翔太が言うと、彼女はその笑顔を上げた。必死に自分を押し殺し、周囲を騙すための顔。
 その孤独に、ぴしりとヒビが入った。「私……」彼女の声が震える。
「……辞めたくない」彼女は潤む目元を拭う。「今まで通りの毎日がいい。翔太がいる学校に通いたい」
 翔太は、彼女の肩を抱く。彼女は力なく彼にもたれかかり、濡れた声で言う。
「でも、翔太も辞めちゃうんだよね」
「うん」
「この部屋も、出て行っちゃうんだよね」
「うん」
「……一緒にいたいよ」
 彼女の頭に額をくっつけ、翔太は考えた。望まないことだらけだ。足掻いてもがいて必死に手を繋いでいるのに、まだ世界は意地悪をする。どうしようもない運命ばかり課してくる。
「……凛」
 それなら、もっと足掻こう。もがき続けよう。世界が諦めてしまうまで、手を離さないでいよう。
「一緒に、遠くに行こう」
 彼女の目を見つめる。
「誰も知らない場所に行こう。どこまでも、一緒に逃げよう」
 手を握ると、凛も強くその手を握り返す。
「……うん!」
 生きる理由が、見つかった。
 週末、二人は丘の上に集合する約束をした。その足で夜行列車「ほうきぼし」に乗り、この街を離れる計画を立てた。
 怖くないといえば嘘になる。しかし、二人でいれば何もかもを乗り越えられる。さよならより辛く恐ろしいものなどないからだ。
 凛にはいくらかの罪悪感はあった。自分を厄介者扱いしていても、叔父一家が衣食住を与えてくれていたのは事実だ。例え世間体のためでも、施設に預けず育ててくれた恩はある。
 だが、彼らが翔太の存在に難色を示しているもの事実だった。彼氏など作って浮ついているのが目に余る。どうせろくな相手じゃない。叔父が親戚相手にそう言っているのを聞いたことがある。もしも彼が父の犯罪の被害者だと知られれば、絶望的だ。一緒にいたいと言っても、一生許してはくれないだろう。
 実際、友加里が先日、叔父にあることないこと吹き込んだらしい。叔父には今すぐ別れるように命令された。嫌だと反抗して頬を張られた日は記憶に新しい。
 おまえを「更生」してやってるんだ。叔父も叔母もいつだってそう言った。勉強していい大学に入ってまともな社会人になれ。決してこれ以上恥をかかせるな。せっかく金をかけてやってるんだ、がっかりさせるんじゃない。

 ――がっかりさせて、ごめんなさい。

 それだけを書いた紙を自室の学習机に乗せ、凛は部屋を出た。だが、彼らはがっかりはしないだろうな、と思った。驚きこそすれ、これで厄介者がいなくなったと思うに違いない。その自信は確かにある。
 翔太との約束は午後の六時だ。三十分前に、トートバッグを下げた凛は玄関で靴を履く。
 何だか嫌な予感がする。
 今日も夢を見た。だがその夢は、真っ黒だった。何が起こるわけでもない、ただ上も下も、右も左も黒一色で、そんな空間に佇んでいる夢だった。初めて見る夢だった。
「どこ行くの」
 背後からかけられた声に驚いて振り向く。いつも通り不機嫌そうな友加里が、奥の部屋から出てきていた。
「ちょっと、友だちのところ」
 笑って答えた凛をじろじろと見ながら「ふーん」と彼女は鼻を鳴らす。
「友だちって誰」
「中学の時の、友だちだよ」
「どこに住んでんの」
「えっと……」言い淀む凛は、必死に頭を働かせる。「若葉中の近く」咄嗟にそう答えた。若葉中学校は、公園に行く道の途中にある。
「こんな時間からなにすんのよ」
「週末だし、その子の家でお話ししようと思って。遅くなったらごめんなさい」
 どぎまぎしながらも、凛は笑顔を絶やさない。この家で家族と接する時は常にそうしてきたのだ。それは最後まで変わらない。
「へえー」
「約束してるから、もう行くね。行ってきます」
「それだったらさあ」友加里が少し声を張り上げる。「こっから大通り行く道あるじゃん。あそこ通らない方がいいよ」
「どうして」
「あの道、夜は通行止めらしいから。工事するんだって」
 脳内に地図を描く凛は、はたと首を傾げた。「本当……?」何度も通ったことのある道だが、通行止めなど初耳だ。
「なに? 疑ってんの」
「そんなことないけど……」
「今日、看板立ってるの見たのよ」
「そうなんだ」それならば遠回りをしなければならない。間に合うだろうかと、凛は内心で焦る。
「ありがとう。教えてくれて」
 行ってきますともう一度繰り返し、凛は家を後にした。

 駆け足で裏道を進む。あと二十分だ。待ち合わせの六時に間に合うかはぎりぎりの時間。一刻も早く翔太に会いたい。会って、言葉を交わしたい。
 遠回りの細い道を、息を切らして駆ける。空気の冷え込む夕暮れ。ようやく大通りに出る。信号が青に変わる。あと少し。もう少し。
 横断歩道に踏み出した途端、甲高い音を聞いた。同時に右側から眩い光に照らされる。
 首を曲げてそちらを見たが、視界は一面真っ白だった。

 会いたい――。

 ただそれだけが心の中にあった。
 集中治療室から戻ってきた彼女は、それでも一週間目を覚まさなかった。十一月の夕刻に信号無視のトラックに轢かれた彼女は、十二月に入ってようやく意識を取り戻した。
 だが彼女を診た医者は「後遺症」という言葉を口にした。彼女の右足は何か所も骨が折れており、以前と同程度までの回復の見込みは薄いと判断した。
「凛ちゃん、調子はどう」
 それでも彼女は、見舞いに来た叔母に「大丈夫です」と笑いかける。鎮痛剤の副作用でひどい吐き気に襲われる彼女は、まともに食事を摂れないまま青い顔をしていた。
「警察の方が、また話を聞きたいって言ってるんだけど、話せるかしら」
「それは、話せます。けど……」
 弱々しく身体を横たえたままの彼女は言い淀む。それを見た叔母は、タオルや着替えを床頭台にしまいながらため息をついた。
「まだ思い出せないの?」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないけど、まさかねえ」
 凛は項垂れるが、どうしても思い出せそうになかった。
 彼女は、事故付近の記憶を失くしていた。それだけでなく、彼女からは五年近くの記憶がごっそりと抜け落ちてしまっており、医者は「逆行性健忘」と診断した。
 だから彼女が何故あの日外に出ていたのか、誰にもわからないままだった。中学時代の友人のもとに遊びに行く約束をしていると、家を出る直前に義姉に伝えていた。だが彼女と仲の良かった友人には、その日彼女と会う約束をしている者は誰一人いなかった。その真偽を彼女に問おうにも、彼女は友人の写真や本人そのものを見ても、それが誰だったか話すことが出来なかった。顔も名前も何一つ思い出せないのだ。自分が通っていた若葉中学校の名前も、転校以前に通っていた学校名も言えなかったし、小学校高学年の頃に仲の良かった友人の記憶を辛うじて語れるだけだった。
「まさかあなたが、自殺なんてするわけないしねえ」
 叔母の遠慮のない台詞にも、凛は何も言えない。自室の机の上には「がっかりさせて、ごめんなさい」と書いた紙が残っていたという話だが、それを書いた覚えも彼女にはまるでなかった。
 自殺を疑われても仕方のない文言だが、その線も彼女には似つかわしくなかった。元来明るい性格で友人も多く、毎日楽しく学校に通っていた榎本凛が、まさか自殺を企図していたとは思えない。学校の生徒も教師も誰もが口をそろえて、彼女にいじめなどなかったと証言したし、その痕跡もなかった。手芸部で精力的に活動し、十一月末に控えた文化祭に向けて毎日作品作りに勤しんでいた彼女に、自殺をする動機などない。
 残された可能性は、「家出」だった。
 その根拠を色濃くしたのが、彼女が事故当時に下げていたバッグから三十万円を超える現金が見つかったことだった。友人の家に遊びに行くのに、そんな大金を持っていく必要はない。バッグに着替え一式が入っていたことも、疑惑を確信に繋げた。
 これまでの小遣いやお年玉をかき集め、彼女は家出を計っていた。しかしそこにも、彼女の向かった方角が駅とは間反対であることと、動機が不明であるという疑問点は残った。
 榎本凛が、あの日一体何をしようとしていたのか。義姉に嘘をついて、どこに向かおうとしていたのか。今となっては誰にもわからないのだ。
「まあ、三月までには退院できるみたいだから。それは良かったわね」
 叔母はそう言って安堵の顔をした。
 引っ越しの話を凛は聞いた。自分の事故が機なのかと思ったが、どうやらそれは以前から決まっていたそうだ。
「新しいところで、一から始めたらいいわよ」
 叔母の言葉に頷きながら、彼女は自分が白紙に戻ってしまったことを知った。そしてどうやら、家族はそれを喜んでいるようだ。
 彼らの迷惑にならないのなら、それでいいのかもしれない。ぼんやりと思いながら、凛は瞼を閉じた。
 病室にはひっきりなしに、クラスや部活での友人だという生徒が男女問わず、電車に乗ってやって来た。
「凛、大丈夫? 無理しなくていいよ」
 彼らは一様に思いやりがあり、常に凛の体調を気遣った。
「これ、みんなで買ったの」同じ手芸部だという三人の女子生徒は、フェルトやボールチェーンといった手芸用品を部員で揃えのだと持ってきてくれた。「あとこれ、凛が作りかけだったぬいぐるみ。元気になったらでいいから、やってみて。暇つぶしにもなるし!」
 彼らは彼女が忘れていてもいいように、作り方をプリントした紙も揃えている。
「ありがとう。すごく嬉しい」笑ってそれらの入った紙袋を抱く凛は、しかし僅かに表情を曇らせる。「私、こんなにしてもらってもいいのかな」
「どうして?」
「ここまでしてもらって、何だか申し訳なくて」
「いいんだよ。だって、もし立場が逆だったら、凛も絶対してくれたもん」
「そーだよ。だって凛は、私たちのこと大好きだったんだからね」
「みんなの誕生日覚えててさ、おめでとうって一番に言ってくれたし。部活なくても教室までプレゼント持ってきてくれたんだよ」
 友人たちは口々にそんな思い出を語って笑う。凛もつられて笑う。楽しくて仕方のない時間。
 だが、それと同時に彼女の中には罪悪感がどこまでも湧き上がってしまうのだ。それほどまでに自分が愛していた友人、自分を愛してくれている友人のことを、ちっとも思い出せない。彼女たちは恩返しだと言ってくれるが、自分がそれほどの義理を働いたのか常に疑問に思ってしまう。覚えていたはずの、彼女たちの誕生日。それを一つも思い出せない。それどころか今は名前一つ分からないし、語ってくれる思い出にも共感できるものがない。
 全く他人同然の彼らが尽くしてくれるのに、申し訳なくてたまらなくなってしまう。
 そして凛のそんな感情は、いくら隠しても彼女たちに伝わってしまう。
「じゃあ、そろそろ帰るね。また来るから」
「うん。来てくれて、ありがとう」
 いつもそんなやり取りをして手を振る。そして互いに見えなくなってからほっとする。相手を傷つけずに済んだことに安堵し、気まずい思いを隠し続ける。凛も彼らへの正しい接し方が分からなかったし、彼らもどうすれば凛を救えるのかが分からないのだ。
 そのためか、日が経つにつれ徐々に凛のもとを訪れる生徒は減っていった。凛はそれを寂しいとは思わなかったし、むしろ安心した。友人たちはとても優しい。だからこそ忘れていることで傷つけたくなかったし、気を遣わせるのも気が引ける。
 それでも彼女への訪問を欠かさない生徒が一人いた。
 同じ手芸部員だったという五十川修は、毎週末、電車を乗り継いで彼女を見舞った。
「榎本さん、調子はどう」
 年末、彼は今年最後の土曜日にも病室を訪れた。
「ご飯は、食べられるようになった?」
「うん。少しずつだけど、食べられるようになってきたよ」
「それはよかった」彼は心底ほっとしたようだった。「食べないと、人間元気にならないからね」
 彼は他の友人たちとは違い、積極的に彼女の記憶を取り戻そうとした。学校での思い出をたくさん語り、少しでも彼女の記憶に引っかかりがないかを探り、これが駄目ならあれ、あれが駄目ならこれと様々な話をした。
「ごめん、疲れちゃったかな」
「ううん。そんなことはないけど」脇のパイプ椅子で心配そうにする彼に、ベッド上に座る彼女は目を伏せる。
「ごめんなさい。五十川くんのことも、思い出せなくて」
「俺のことなんかいいって。それより……」そう言いながら彼も口をつぐむ。
 沈黙が病室を満たす。年明けには大部屋に移る予定だが、今は二人しかいない個室だ。院内のざわめきが遠く、気の重い静寂が沈む。床頭台のデジタル時計は、秒針の音も立ててくれない。
「……私、薄情だよね」
「榎本さんは悪くないよ」
 見舞いに来た友人の誰もが、凛にはとても大切な人がいたのだと言った。まず思い出すなら彼のことだと、皆が口を揃えた。凛は友人を大事にしたが、それよりも一途に愛する人がいたのだと。
 中学時代の高校見学の時から一緒だった。青南高校に入ってクラスが違っても、いつもそばにいた。一年生の誰もが知っているほど仲良しだった。並んで弁当を食べ、図書室で勉強し、部活がない日は共に駅まで歩いた。彼の隣に居る凛はなにより幸せそうだったと、誰もが証言した。どんな友人と一緒にいる時よりも、嬉しくて仕方がない笑顔だった。彼女は真っ直ぐに彼を愛していたし、彼も凛を大切にしていた。

 ――らしい。

「雨宮翔太……」
 何度も聞かされて覚えた名前を、凛は口の中で呟く。思い出したのではなく、覚えた名前。今となっては彼のことを何と呼んでいたのかも思い出せない。雨宮くん? 翔太くん? それとも呼び捨て? 彼が自分を何と呼んでいたのかも、分からない。名前も顔も、なにひとつ浮かんでこない。背はどれぐらい? 髪型は? 雰囲気は?
「……もう、学校に来てないんだよね」
「来てないよ、あいつ」五十川は困ったように笑った。「どこ行ったんだろうな」
 彼は凛が事故に遭う数週間前から、学校に来なくなっていた。今はもう、友人や担任が電話をかけても、その番号自体が使えなくなっているそうだ。彼は今時の高校生にしては珍しく自分用のスマートフォンを持っていなかったから、その時点で誰も連絡を取れなくなってしまった。
 五十川は、担任から聞き出した彼の住所にも向かったらしい。だが既に一度訪問していた担任の言う通り、彼の住んでいたはずの部屋はもぬけの殻になっていた。いや、それは少し違う。部屋には貴重品を除き、食器も布団も家電製品も、そのままに残っていた。まるで人間だけがひょっこりいなくなった部屋だった。
「夜逃げ、だっけ……」
「じゃないかって管理人は言ってた」
 行方を示唆する書置きもないが、誰かと争った形跡もないことから、警察にも事件性は薄いとされた。むしろ彼と一緒に暮らしていた伯母が愛人の家から金を盗み逃げたのだと、近所では噂されている。その伯母も行方をくらましていることから、「夜逃げ」という説が有力視されていた。
 とにかく、雨宮翔太は、消えてしまった。
「いいやつだったのに。勉強できたし、友だちだっていたし。逃げなくても、あいつ一人ならきっとどうにかなったのにな」五十川は悔しそうだ。「こんな消え方しなくてもいいのに」彼にとっても、雨宮翔太は大事な友人だったのだ。
「俺、思ったんだ」彼はぽつりと呟く。
「思ったって、何を?」
「もしかしたら、榎本さんはさ……」
 だがそこまで言いかけて五十川は黙り込み、凛も項垂れた。
「……そう、だったのかな」
 皆が言うほど彼を愛していたのなら、きっと彼と一緒にいることを自分は望んだだろう。だからあの日、彼と共に逃げるために家を出たのだ。
「もしかして、私……」
 それなら自分は、彼を裏切ったのだ。
「やめよう。ごめん、こんな話して」慌てて五十川は立ち上がる。「それだったらさ、あいつも見舞いに来るはずだよ。翔太が榎本さんのこと恨むはずなんてないから、それより会いたくて連絡してくるはずだって。今はきっと余裕がないんだよ。待ってりゃ向こうから何か言ってくる」
 凛の顔からは一層血の気が引いていて、だから五十川はこれ以上話ができなかった。姿を消す数日前から翔太の様子がおかしかったことも、二人が共に弁当を食べるのをやめてしまった違和感も、話すわけにはいかなかった。ただでさえ身体を壊している凛は、自分の思い出せない大きな責任があるのではと思い悩み、苦しんでしまう。
 だが彼女は「ありがとう」と笑った。
「教えてくれて嬉しいよ。それだけ誰かを愛して愛されてたっていうことを知られてよかった。私と一緒にいた人がそんなにいい人だったなんて、それだけで嬉しい」
「……あいつ、馬鹿だな。こんな彼女がいるのに、出てこないなんて」
 少しだけ話をして、やがて五十川は帰っていった。また年が明けたら見舞いに来ると約束し、互いに身体に気を付けるようにと言い合った。窓の外では雪が降っている。凛がこの町で経験する、二度目で最後の冬だった。