いよいよつまみ出されるのだろうか。家まで誰かがやって来るのはそういうことだろう。
 だが、怖いという気持ちはない。なるようになれ。どうにもならないなら、それまでだ。部屋のチャイムが鳴った時、翔太はぼんやりそう思った。
 だるく重い身体を持ち上げ、目を擦りながら玄関に向かう。いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、空気は随分と冷えていた。靴につま先を引っ掛け、鍵をひねる。ゆっくりとドアを押し開けた。
 驚きに、翔太はぽかんと口を開けた。同時に、自分はまだ夢を見ているのだと思ったが、頬に触れる風は冷たく現実的だった。
「悦っちゃんに聞いたの。この場所」
 制服姿の凛が、廊下に立っている。
「入れて」
 思いつめた顔で、きっぱりと彼女は言った。
「どうして……」
「話があるの」
「俺はないよ」
「私があるの」彼女はじっと翔太を見つめている。「お願い、聞いて」
 半ば強引に、凛はドアを開けて部屋に入る。彼女の剣幕に押される翔太が部屋の奥に後ずさると、強張った表情の彼女があたりを見回しながら後に続く。
 カップラーメンの容器、ビールの空き缶、吸い殻の溜まった灰皿。そんなもので溢れるテーブル。床は埃っぽい。灰色のキッチンを通り過ぎ襖を開けて自室に入ると、翔太は敷きっぱなしの布団を蹴とばしてスペースを開けた。そんな彼を見ながら、凛は畳に正座をする。
「……痩せたね」
 彼女は微笑んだ。あまりに悲しそうなその表情を、翔太は立ったまま見下ろす。
「空っぽなんだよ」
 音がしそうなほど、身体が軽い。動く度に、骨や内臓がからからと音を立てそうだ。
「……わかるよ」
「知ったかぶりするなよ」
「翔太……」
 冷たく見下ろす彼を見つめ、彼女は両手をつき深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」彼女の謝罪は、まるで悲鳴のようだった。
「……謝らないでよ」翔太は苦く呻く。
「ごめんなさい。たくさん奪って、傷つけてしまって。あなたの人生を辛いものにしてしまって、本当にごめんなさい」
 こんなの違う。そう思う翔太の目の前で、彼女は額を畳に擦り付ける。
「全部、私たち家族のせいなの。お父さんがおかしくなったのは、私たちが負担だったからなの」これは、彼女の懺悔だ。「私がもっといい子だったらよかった。私がいなければ、きっとお父さんはあんなことをしなかった。あなたの家族を壊す真似なんて、しなかった。あなたの身体を傷つけたりもしなかった……!」
「やめてよ」
「ごめんなさい。ごめんなさい……ごめんなさい」
「やめてってば」
「ごめんなさい。許してなんて、言いません。ごめんなさい、本当に……」
「凛!」
 翔太は膝を折った。懸命に彼女が堪える嗚咽を聞いた。それでも彼女は「ごめんなさい」と壊れたように小声で謝り続けている。
「ごめんなさい……私のせいなんです。ごめんなさい」
 いつも元気で、優しい凛。だがこれが、本当の彼女の姿なのだ。殺人犯の娘という業を細い肩に負い、重すぎる責任を感じて周囲に謝罪し続ける、孤独な女の子。死刑を免れた父親と、自分を捨てて逃げた母親に代わり、たった一人残された彼女は謝り続けている。
「ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい」
 私はね、山吹なの。夏に海岸で聞いた彼女の台詞を、翔太は思い出した。花が咲いても、実のならない徒花。花など見せかけだと悲しそうに言っていた。しかし、罪の重さに苦しむ少女は、それでも必死に眩しい花を咲かせてきた。もう一度前を向こうと懸命に足掻き、家族の分も他人を思いやって精いっぱい生きてきた。

 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 どれだけ孤独だったろう。どれほどの涙を流し、寂しさに押しつぶされ、絶望の夜を越えたのだろう。この小さな身体で。空っぽの身体で――。
 胸が詰まり、息が苦しくなる。「凛……」愛しい名前を、優しく呼ぶ。
 震える肩に両手をやり、そっと上を向かせた。涙にぬれた顔、泣き腫らした両目。それを見ると、何かが弾けた。
 両腕で、翔太はしっかりと凛を抱きしめた。嗚咽を漏らして震える細い身体が二度と離れないよう、両腕に力をこめる。
「凛のせいじゃない」
 その声が濡れてしまう。
「俺たちは、何も悪くない」
 躊躇う凛の両手が背に触れる。細い両腕は、やがて翔太を強く抱きしめた。
 涙を流し、翔太と凛は抱き合った。ただただ繋がりたい相手を求め、泣き続けた。
 やっぱり好きだ。どうしても大好きだ。泣きながら、翔太はようやくその感情を理解した。誰が何と言おうと、離れたくない。いつまでも凛と一緒にいたい。この繋がりだけは、手放したくない。
 互いにしゃくり上げながら、少しだけ顔を離す。
「俺、もう何もないんだ」向かい合う凛の瞳が、涙できらきらと光っている。「バイト、クビになって、学校にも行けなくなった。伯母さんも逃げたから、この部屋も出て行かないといけない。全部が切れたんだよ」
 辛い。辛い。ずっと辛くてたまらない。本当は、誰かと繋がっていたい。ひとりぼっちは、とても怖い。
 そんな彼の弱音を、彼女は全て受け止めた。
「大丈夫だよ」小さな両手が、そっと翔太の頬を包む。
「まだ、私がいるよ。私はずっと、翔太の味方だよ」
 翔太は嗚咽の隙間で「ありがとう」と言った。もう少しだけ、涙がこぼれた。