弁当箱を返し、自分の鞄から出した水筒で一息つき、翔太は改めて彼女の優しさを噛み締める。幸福感と共に、疑問さえ湧いてくる。自分はここまでしてもらう義理を、彼女に果たしたことがあっただろうか。
「凛は、優しいよな」
少しだけ素直に言うと、彼女はきょとんと目を丸くした。
「そんなことないよ」
「あるって。だって、俺なんかのためにここまでしてくれる。俺は中々動かないのに、いつも誘ってくれるし、話したいなんて言ってくれる」
「だって、本当のことだもん」
「わざわざマフラー編んでくれたり、高校見学だって誘ってくれたし。あれがなかったら、俺、高校行くなんて発想すらなかったよ」
正直な感想を並べる翔太に、凛は横顔を見せて視線を微かに伏せさせた。
「……翔太だから、だよ」
え、と言葉を切った翔太に、今度は真っ直ぐな視線を向けた。
「翔太だから、寒そうにしてるのが嫌だったし、一緒の高校も行きたかったんだよ。いっぱいいっぱい話したいし、おにぎりぐらい、いくつでも作ってくるよ」とりとめなく言葉を紡ぐ彼女は、返事を挟む余裕を与えず続ける。「本当に、鈍いよね。私がこれだけ素直なのに、全然気づいてくれないんだもん」
言葉はふざけているが、彼女はいたって真剣な顔で翔太を見つめる。
そして彼にとって、一生忘れられない言葉を口にしたのだ。
「私、翔太のこと好きなんだ。大好きなの」
凛は真っ赤になった顔を俯けた。
翔太は、仰天して何も言えなかった。凛が、自分のことを好きだって? そもそも自分に告白してくれる女の子がいるなんて、期待どころか想像したことすらないのに。
しかし全てに合点がいった。彼女は確かに優しい女の子だ。だが少し過剰だとも思えるそれの根拠が、彼女の中には確立していたのだ。
「いつ気付いてくれるかなって、ずっと待ってたのに。ちっとも気付かないんだから」
「いや……ちょっと待ってよ」
「待てない。もう待たない。私は翔太が大好き」
ついばむように言葉を口にする凛を、翔太は最初、唖然と見ているだけだった。だが彼女が膝の上で握りしめる両手や、強張る細い両肩、光の宿る瞳を目にすると、次第に苦しくなってくる。凛はやっとの思いで、言ってくれているのだ。今までの関係がすべて崩れてしまう可能性を恐れながらも、秘めていた想いを懸命に伝えてくれている。少しずつ、本当に僅かずつ縮めた自分たちの距離。その最後の一歩を踏み出してくれている。
翔太はこれまで、誰かを好きになったことはなかった。自分を厄介者扱いする雨宮家の人間に、愛情を感じることはなかった。
それでは、よつば食堂の人たちはどうか。彼らのことは「好き」だが、それは「親しさ」と呼ぶべき、本来の家族に対して抱くはずの感情に似ていた。学校にも「好き」な友人はいるが、それは男女問わず「友人」としての枠組みを超えたことはない。
今になって、榎本凛がどちらにも属さないことに気が付いた。
食堂で出会った、大切な友人。だが、それだけの枠に収めるには、彼女の存在は大きすぎる。自分の未来を変えてくれて、忘れていたことをたくさん思い出させてくれて、想像さえしなかった想いを伝えてくれる。好きだと言ってくれる。
「俺は……」
知らなかったから、気づけなかった。けれどもう目は逸らさない。消極的だなんだと言い訳はしない。彼女と一緒に居たいのは、彼女と話をしたいのは、たった一つの感情のおかげ。
「俺も、好きだよ」
初めてのことに心臓がうるさく鳴っている。今日、こんな瞬間が来るなんて、ちっとも思いがけなかった。
「俺も、凛が大好きだ」
こちらを見つめる彼女の瞳が、みるみる潤んでいく。唇の端が微かにわななく。彼女は無理に笑おうとしているようだった。目を細める動きを受けて、眦から光がこぼれる。美しい雫が、彼女の頬を滑って落ちる。
よかった、と凛の唇が声なく動いた。その動きにはたくさんの意味が込められていた。安堵と嬉しさと、抱いていた恐怖が垣間見える。告白して翔太に嫌われたらどうしよう。それなら言わない方がマシだった。そんな想像を恐れていたに違いない。
「ごめん。ずっと、気付けなくって」謝ると、凛は泣きながら首を横に振る。「でも、おかげで気付けたよ。ずっと、凛と一緒にいたいって。もっと色んなこと話していたいって」
大きく頷きながら、彼女はぽろぽろと涙を零す。
その両肩に腕を伸ばし、翔太は凛を抱き寄せた。少しでも近くにいたいと思えば、自然と腕が伸びていた。やがて、彼女の細い両腕が背中に回ってくる。「ありがとう」と囁く声が聞こえた。
彼女が泣き止んだ頃、翔太にも少しだけ恥ずかしさが戻ってきた。
だが、顔を見合わせると笑えてきてしまう。翔太がふふっと笑うと、凛もくすくすと笑う。
「よかった」改めて彼女は言った。「私だけだったらどうしようって、ずっと思ってた」
「ごめんって。そういう風に考えたことなかったからさ、まさかだったんだよ。こっちだってびっくりした。泣かなくてもいいのに」
「嬉し泣きだから。許して」凛は、泣き腫らした目を恥ずかしそうに擦る。「私も自分で驚いたの。悲しくないのに泣いちゃうのって、初めてだったから」
素直な彼女らしい。涙を零すほど喜んでくれていることが、翔太には嬉しい。
「あのね……」
少しの沈黙の後、彼女はおもむろに切り出した。
「なに?」
「実はね、私、告白されてたの」
瞬時に意味を理解できず、翔太はただ瞬きを繰り返す。「誰に?」ようやく言えたのはその一言。
「えっとね……」言ってもいいのかと迷う素振りを見せながら、彼女は呟いた。「五十川くん」
まるで気付かなかったと、翔太は驚きをあらわにする。
「いつ?」
「先週、告白してくれた」
五十川とは一緒に弁当を食べているが、翔太はそれに少しも気が付かなかった。だが言われてみれば、彼が何度も自分と凛の関係を尋ねていたことを思い出す。その度に、ただの中学が同じ友人だとしか答えなかった。あれは質問ではなく確認だったのだ。
「凛は、なんて返事したの」
「……断ったよ、もちろん」言いにくそうに彼女は口にした。
「五十川くんね、すごくいい人なの。私だけじゃなく、誰にでも気さくに話してくれて。翔太も知ってるでしょ」
「うん」恐らく彼と初めに友人になったのは自分だから、翔太はそのことに関しては合点がいった。最初に話しかけてくれたクラスメイト。いま教室で一番仲が良いのは彼だ。
「好きな人がいるから、ごめんって言ったの。そうしたら、気遣わせてごめんって言ってくれた。それからも、普段通りにしてくれてる。いい子だよね」
「うん。俺も、あいつはいいやつだと思う」
だが、知らず知らずの間に友人の恋敵になっていたと知れば、複雑な心持ちだ。五十川はきっと、凛が誰のことを指したか理解していたに違いない。これは知らんふりは出来ないぞ、と翔太は思う。
「私、彼のおかげで勇気をもらえたんだ。私も五十川くんの気持ちに気付かなかったから、私も言わないと永遠に気付いてもらえないって。だって翔太だもん」
「だから、ごめんってば」
くすりと凛は笑った。
「これからも、みんなで仲良くできたらいいね」
それが彼女の望む幸福だった。誰も嫌な思いをせず、それでいて素直なまま、笑って毎日を過ごせたらいい。そんなささやかな願いが、榎本凛が心から欲しがる世界の様相だった。
みんな幸せになれたらいい。翔太もそう思った。他人に無頓着な姿勢を貫くつもりだったのに、いつの間にかそんな願いが心に芽生えていた。彼女のおかげだ。心の底から、そう思った。
二人は相談して、この関係は他人に隠さないでおくことに決めた。つまりは、巷で言う彼氏と彼女の関係になったこと。今後からかわれた時に嘘をつきたくなかったし、少し恥ずかしいがこれで怪しまれることなく堂々と会話ができるのだ。
「だろうな。見てれば時間の問題ってことはすぐにわかった」
翔太はまず五十川にそのことを話した。恐る恐る口にしたのだが、相手は至極冷静に返事をする。
「あんなに榎本さんがアタックしてたのに。なんとも思わない方がおかしいって」
知り合ってほんの数か月の彼にも、翔太の鈍さは見抜かれていた。
「時間の問題って思ってたんなら、なんで。修も、その、凛に告白したんだろ」
「何度聞いても翔太が否定するからだよ。本気で興味ないのかと思ったからさ、それなら俺にもチャンスがあるかもって思うだろ」
五十川は翔太と違って随分行動力のある生徒だった。
「俺は、その……気付かなくって……」
「幸せもんだよ、翔太は」
一時限目が終わり、生物室から教室に帰る途中、五十川は嘆息した。だがそれに謝罪するのも嫌味に思える。言い淀む翔太に対し、彼は眼鏡の向こうの目でいたずらっぽく笑った。
「榎本さんはいい子だよ。だから、幸せにしろよ。悲しませたら俺が怒るからな」
凛の言う通りだ。五十川は、いいやつだ。
「わかった」
そう思ったから、翔太も頷いて笑い返した。
一学期の期末試験期間、アルバイト先の楠は翔太の学生という身分を気遣って、数日間はシフトを入れないでいてくれた。そのおかげもあってか、翔太はそれなりの順位を取って夏休みを迎えることが出来た。
時間があるのだからバイトに専念しようと翔太は計画していたが、青南高校には夏休みの前半と後半に十日ずつ夏期講習を設けていた。参加は任意だというが、よほどの理由がない限り全ての生徒が登校する、半強制の二十日間だ。それでも午前の講習だけなので、翔太も当然参加した。家でバイトの時間までだらけているよりも、ずっと有意義な時間だ。
前半の最後の講習の日、翔太は凛と五十川と共に中庭で弁当を食べ、話をした。文化部の二人は、そろそろ十一月の文化祭のことを考えなければならないらしい。
「翔太も、荷物運び手伝ってくれよ。男手足りないんだ」
「うんうん。そうしたら、私たちも楽できるしね」
半分本気、半分ふざけて笑い合う時間は、実に楽しい。
やがて教室に荷物を取りに戻り、玄関で五十川と別れた。
今日は珍しく、翔太が凛を放課後に誘っていた。「海を見に行こう」と。しかし八月初旬の午後一時。これから更に暑くなるだろうと、二時間ほど図書室で課題をこなして過ごし、少し日差しが和らいだころに学校を出た。
向こうに見える海を目指してアスファルトを歩きながら、途中に見かけた小さな文房具屋に寄る。目を引いたのは文具ではなく、「アイスクリーム」の旗だ。
バイトをしているなら少しぐらい金を入れろと美沙子に言われ、翔太はやっと稼いだバイト代から一万円を彼女に渡していた。それでも、二百五十円のアイスクリームを買う金は手元に残っている。誰にも気遣う必要なしに口にできるそれは、いっそう美味しく感じられる。
凛のチョコレート味と翔太のバニラ味を一口ずつ交換し、どちらも美味しいと言いながら再び歩き出す。
「暑いねー」
制服の胸元を摘んでぱたぱたとやる凛に頷きながら、翔太は少し残念に思った。
「俺の目が見えてれば、よかったのにな」
「どうして」
「そしたらさ、自転車の二人乗りとか出来たのに。そうすればもっと早く着けるだろ」
彼女が暑いと嘆く時間も短縮できたはずだ。それがなんだか悔しい。
だが、考えた彼女は「そんなことないよ」と言う。「私は、こうして一緒に歩いてるだけで十分嬉しいよ。翔太とのんびり歩いて海まで行くの、去年から憧れてたんだ」
「去年?」
「そう。見学に来た時から」
一年も前から彼女が自分を気にしていたことに、翔太は驚いてしまう。
「来年、一緒に青南高校に通って、放課後に海まで散歩して、たくさん喋って。そんなことが出来たら幸せだなあって、ずっと思ってた」彼女は跳ねるような笑顔を見せる。
「だから今、本当に幸せなの。願ってたことが全部叶っちゃったから。おまけに好き同士になれたし。いいのかな、怖いぐらい幸せ」
少し恥ずかしそうに、凛は翔太の左手を掴んで大きく振る。翔太は何も言えないまま、代わりに彼女の手を強く握りしめた。
辿り着いた海岸では、一面に広がる青い海が臨めた。眩しい陽を受けてきらきらと輝く穏やかな波。水平線から上には、海より少し薄い青色が広がる。雲一つない夏の青空。
砂浜には他に人の姿はない。静かな海辺には波の打ち寄せる音が優しく響いている。
「すっごく綺麗!」
はしゃぐ凛の髪が、穏やかな風に吹かれて揺れる。それを耳にかけて振り向くと、彼女は微笑んだ。
「誘ってくれてありがとう、翔太」
はにかむ彼女は本当に嬉しそうで、それを見ているだけで翔太も嬉しくなる。海辺に誘うだけでこんなにも喜んでくれる彼女の存在が、愛おしくて仕方ない。
次第に心臓が高鳴る。砂浜に置いた鞄からそれを取り出し、再び海を見つめる彼女の背に翔太は呼びかけた。なに、と彼女が振り返る。
「あのさ、これ……」
不思議そうな凛に、翔太は封筒を差し出した。
「どうしたの」
「大したもんじゃないんだけど、今日渡そうと思って。その、誕生日だろ」
彼の台詞に、彼女は大きな瞳を見開いた。
「どうして知ってるの」
「中学の、凛の友だちに聞いたんだ」
榎本凛と仲良くしていた元クラスメイトに電話をかけ、翔太は彼女の誕生日を調べていた。転校生である凛の誕生日を知っている相手に中々出会えず、その間に幾度もからかわれて大変だった。
そんな事情は話さないでいると、彼女はおずおずと封筒を受け取る。「これ、なに? もらってもいいの」
「プレゼントだなんて言えるほどのものじゃないけど……受け取ってくれたら嬉しい」
緊張に表情を強張らせる翔太の前で、凛は封筒から中身を取り出した。
出てきたのは、一枚の栞。
「この花……」
凛が目を丸くしたのは、その栞が挟んでいる押し花に対してだった。「山吹だ」やはりひと目で彼女は気が付いた。
「去年、公園の丘に初めて上った時、凛がくれた花」
「まだ持っててくれたの?」
翔太は頷いた。あの時、凛がふざけて「プレゼント」などと言いながら手渡した山吹の花を、彼は捨てずにいた。そのまま枯らせるのが惜しいと思い、図書室で方法を調べて押し花にしたのだ。その花は今、凛の手の中にある。
「その花、好きって言ってたから……」女の子にプレゼントを渡すというガラにもないことに、翔太は気まずく思ってしまう。
「よく本読んでるから、栞だったら使えるんじゃないかと思って……。きっと、買ったものの方が使い勝手は良いと思うんだけど、俺も何か自分で用意したくってさ」
白い紙に、黄色い花。上部には小さな穴が開けられ、青く細いリボンが結んである。高校生のプレゼントにしてはあまりに陳腐だったが、それでも翔太なりに悩んだ末に作ったものだった。
要らなければ捨ててもいい。そう言いかけた翔太に、凛が飛びついた。数歩足を引きながら何とか受け止めた翔太に、凛は満面の笑顔で笑いかける。
「ありがとう! ありがとう、翔太! すっごく嬉しい!」
「ごめん、本当はもっと良い物あげるべきだと思うんだけど」
「ううん! そんなことないよ」彼女は本当に大切そうに、栞を両手で包む。「だって、翔太が私のことを考えてくれてるって証拠だもん。こんなに嬉しいことはないよ」
どうして、と思わず翔太は言いかけた。どうしてそこまで好きでいてくれるんだ。
だが、彼女の笑顔を見ていると、どんな理由も大した問題ではない気がしてくる。問いかけてわざわざ困らせるのも嫌だ。だったら凛の好意をありがたく受け入れよう。
「よかった。喜んでくれて」
海岸と車道を隔てる石段に座ると、隣に並ぶ凛は大切そうに封筒へ栞をしまい、それを鞄に収めた。
「私なんかが、いいのかな。こんなに幸せで。ばちが当たりそうで怖いな」
「何言ってんだよ。こんぐらいでばちなんか当たるわけないだろ」翔太は笑ったが、凛はつられて笑わなかった。
「私はね、山吹なの」
唐突な台詞にきょとんとする翔太を見て、凛は静かに笑う。
「徒花って、知ってる?」
「あだばな?」咄嗟にその意味を考えるが、学校で習った覚えはなかった。「聞いたことはあるけど……それだけ」
「山吹とか、他には桜とか。花を咲かせても、実をつけることのない植物のこと」
「つまり、凛がその徒花だって?」考えて、つい翔太は可笑しくなる。「何言ってんだよ。花だとしたら、凛は立派なものだよ。友だちも多いし、みんなに好かれてるじゃんか」
「見せかけだよ。そんなの」
彼女は冗談を言ってはいなかった。
「そんな風に見せてるだけなの。私は本当は、誰かに近づくべきじゃない、つまらない人間なんだ。例え花が咲いたとしても、そこには何も残らない」
「……どうしたんだよ、凛」
「翔太にだって、近づくつもりじゃなかった。私なんかが誰かを好きになるなんて、駄目なことだって分かってた。でも我慢できなかったの。……ごめんね」
「なんで謝るんだよ。そんな必要ないってば」
凛は、自分を「つまらない」と罵るほどに自信を無くす経験をしている。そのことを翔太は理解した。
「たとえ花が咲いてるように見えても、私は空っぽ。幸せになんて、なっちゃいけない」
「なに言ってんだよ。意味わかんねえって」
「翔太……」
凛の悲しそうな瞳は、じっと翔太を見つめる。
「翔太は、私のこと、好きでいてくれる?」
だから翔太も、凛の瞳をただ見つめる。
「私ね……」彼女の声が、凍えるように震えている。「私、わたし……」
そんな彼女に手を伸ばし、翔太は抱き寄せた。
「言わなくていいよ」
右腕で彼女の頭をそっと包み、自分の頭に軽く当てる。彼女はその身体まで微かに震わせている。
「過去のことなんて、無理に喋る必要はない。何があったとしても、好きでいるよ」
ひっくとしゃくり上げる声が聞こえた。「ごめんね」と彼女が涙声で囁く。「駄目だって分かってるのに、私も幸せになりたい。空っぽのままでいいの、ただ翔太のそばにいて、これからもずっとこんな毎日を送りたい」
彼女は大きな傷を負っている。その理由を話すだけで、その心は抉られる。ならば無理に話さなくてもいいと翔太は思う。泣きながら辛いことを語る凛の姿なんて見たくない。
「凛は、幸せでいるべきだ。少なくとも俺は、そうあってほしい。わざわざ不幸になんてなる必要ないよ」
懸命に涙を拭い、凛は一生懸命に頷く。ありがとうと何度も口にする。
やっと泣き止んだ彼女は、翔太を見上げて嬉しそうに笑った。
「翔太、変わったね」
「なにが」
「最初は、私のこと避けてたのに。覚えてるよ、私」
「避けてなんかないよ」
「うそ。目も合わせてくれなかった」
翔太がこめかみをかいて目を逸らすと、彼女はいっそう楽しそうな笑い声を零す。
「俺、どんなだった」
「最初は、暗い男の子って感じだった。無愛想で、目に力がなくって」
凛は翔太に身を寄せる。
「明るくなったよ、翔太。去年まですごく無気力で、将来なんてどうでもいいって顔してたのに、今は違うね。立派な高校生だよ」
「……それは、凛のおかげだって。いつも誘ってくれたから」
「だけど、最後に決断して努力したのは、翔太自身。それに今は、こんなに優しいことを言ってくれる。好きでいるなんて、言ってくれる」
急激に恥ずかしくなって黙り込んだ翔太に、今度は凛が腕を伸ばした。されるがままの彼をぎゅっと抱きしめる。
「大好き」
次第に海へ沈んでいく夕陽が、二人の影を長く長く伸ばしていた。
本格的な夏休みに入ると、二人で隣町の夏祭りに行った。丘にも何度も上り、長い時間話をした。後半の講習が始まると、五十川も交えて三人で弁当を食べた。
あっという間に時が過ぎていく。凛といると、時計が壊れたのではと思うほど、すぐに時間が経ってしまう。こんな毎日を送れるなんて、一年前の翔太は微塵も想像しなかった。
九月の体育祭も終わり、秋を感じられる十月。その日も翔太は九時までのアルバイトを店でこなしていた。仕事も五か月目を迎え、いち従業員として動けるようにはなっていた。
店の時計が九時を示し、閉店の十一時まで残る大学生に挨拶をした時、息せき切って一人の客が飛び込んできた。
息を切らす凛は、レジ脇のケースからアイスの袋を一つ取り出す。「これください」レジ打ちのアルバイトの大学生に差し出しながら、翔太に目配せした。彼も急いで三階の更衣室に上がる。
タイムカードを切って、仕事用のエプロンをロッカーにかけ、鞄を持って急いで下りる。店を出たすぐそこには、買ったばかりのアイスを手にした凛がいた。こちらを見ると、「間に合ってよかった」と笑う。
「どうしたんだよ、急に」
「これ、あげたくて」彼女が買ったのは、袋に包まれた一本の棒付きアイスキャンデーだった。「溶けちゃうから、食べて。お疲れさま」
受け取った翔太は、その意味を察した。袋を剥ぎながら、「夢だな」と先手を打つと、彼女は頷く。
「帰って宿題しながらうたた寝しちゃって。その時、夢見たの。このお店で、このアイスを買う夢」
「もう遅いのに……。これ、俺が食べちゃってもいいの」
「もちろん。翔太にも会いたかったし、丁度よかった」彼女は平気でそんなことを言う。
授業とアルバイトで疲れていた身体に、冷えた甘みは程よく染みる。身体の細胞が一つずつ息を吹き返す心持ちだ。
翔太は店先でそれを食べきった。案の定、棒に書かれている文字は「あたり」。
「本当によく当たるな。凛の夢」
改めて翔太が感心すると、「でしょ」と凛は得意げに胸を張る。
棒を持って店に戻った翔太は、同じアイスを手にして再び外に出てきた。「あげるよ」凛に手渡す。
「ありがとう」
「こちらこそ」
翔太は裏から引っ張ってきた自転車を押し、凛は隣を歩きながらアイスキャンデーを口にする。
時折、冷えた秋の風が吹いてくる。「寒くない?」と聞いたが凛は「寒くない」と答える。今日が比較的暖かい日でよかったと翔太は思う。
他愛のない話をし、笑い合い。翔太が店で貰ったアイスはやはりはずれだった。そのことを互いに可笑しく思いながら、帰路をたどる。凛の住むマンションまであと数分。暗い道に人通りはない。それでもどこかで秋の虫がりーりーと鳴くのが聞こえる。
静かに笑い合う二人の耳に、夜半には近所迷惑な話し声が聞こえてきた。それは、翔太には随分聞き覚えのあるものだった。
咄嗟に黙り込む彼の様子に、凛は小首を傾げる。「どうしたの」という台詞が、派手な笑い声にかき消えた。
ここで彼女に鉢合わせなければ、もしかすると全てが違っていたかもしれない。翔太はそう思い返すことがある。その度、これは決められたものなのだと自分を戒める。避けられない運命だとか、業だとか、きっとそういうものなのだと。
左手に伸びる道から歩いてきたのは、美沙子だった。
「あれ、あんた」
翔太の横顔に声をかける彼女の隣には、スーツを着た中年の男がいる。
驚くほど早く、美沙子は次の相手を見つけた。事件からひと月も経たないうちに全てを忘れたかのような顔をして、この城戸という男を部屋に呼んだ。最初、翔太は驚いたが、もしかしたらと思い直す。美沙子は以前から他の男とも何かしらの関係を持っていて、勝也の狡猾な嗅覚は、それを嗅ぎつけていたのではないだろうか。だからあの寿司屋で彼女を探るようにと言った彼の目は、妙に確信めいていたのだ。
今となっては、もうどうでもよいことだが。
「なにぶらぶらほっつき歩いてんだよ」
途端に表情を曇らせ目を伏せる翔太の姿に、凛は隣で戸惑う。翔太から一瞬で笑顔が消え失せた。そのことに不安を隠せない彼女を目にした美沙子は、愉快そうな顔をする。
「なんだよおまえ。それ誰だよ」
聡い凛は、翔太と美沙子の関係を瞬時に理解した。彼女の口の悪さにたじろぎながら、それでも律儀に頭を下げる。
「あの、青南高校の、榎本凛といいます」
「おいおいおい」
スーツの城戸が、からかう声を上げる。彼と美沙子はすっかり酔っていて、顔は赤い。
「まさかデート中? 翔太くん、きみ、彼女もちだったわけ?」
そんなわけあるかと、城戸と美沙子は顔を見合わせて大声で笑う。あの暗い翔太に、そんなものいるわけがない。馬鹿にしての笑い声。
だが、凛と翔太が何も言わないことを、段々と不審に思ったようだ。「マジで?」と目を丸くする男に翔太は黙っていたが、それが何よりの肯定だった。
「おまえ、いつの間に彼女なんて作ったんだよ」美沙子が吐き捨てた。
「へえー。なかなかやるじゃん。しかも可愛いし」
思わず翔太は城戸を睨みつけた。そんな目で凛を見られたくなかったのだ。
「なんだよその目」彼の敵意を察知した美沙子が声を荒げる。「彼女できたからって調子乗ってんのかよ」
「別に、そんなつもりじゃ……」
「生意気なんだよおまえ」
つかつかと歩み寄ってくるのに、翔太は自転車のハンドルを握る手に力を込めた。
「高校入ったからって、いっちょ前の顔しやがって。偉ぶってんじゃねえよ」美沙子は自転車の前輪を蹴飛ばす。「バイトまでしやがって、金がないって当てつけのつもりか?」
違う、と翔太は呻いた。
「何が違うってんだよ、あたしに金がないってアピールしてんのと同じことだろ!」
「そうじゃない……」声が潰れてしまう。「学校、行きたいだけ」
「おまえに学力なんか必要ないって言ってんだよ。せめて許してやってんのに、なにへらへら笑ってんだよ」
翔太にはわけがわからなかったが、美沙子はどうしようもない嫉妬を抱いていた。それなりの偏差値の高校に通い、苦もなく友人を作り、アルバイトに精を出し、おまけに彼女という存在がいる彼の青春が妬ましかったのだ。近所の食堂の人間にも可愛がられ、風邪をひけば多くの人に心配される彼を憎くも思った。そうして自分が憎む相手がまだ年端もいかない甥であるという現実に対し、やり場のない憤りを覚えた。自分と住む部屋では一切見せない笑顔に、どうしようもなくムカついた。翔太のくせに。ほんの一年前までは、いつだって暗い顔をして下を向いて歩いていたくせに。
「謝れ」彼女はもう一度自転車を蹴った。「謝れよ!」
「謝るって、どうして」
「口答えすんな!」
口汚く怒鳴り散らす美沙子を、翔太は毅然と見返した。口をぎゅっと引き結び、今は決して俯かず。
「反抗期かあ?」城戸という男がにやにやしながら言う。「まあ、彼女の前だしなあ」
「ふざけんなよ翔太!」
怒鳴り散らす女と、それをただ見つめる少年。どちらが大人か、分かったものではない。
だが、彼女の台詞に翔太ははっとした。
「イキってんじゃねえよ、この親殺しが!」
流しきれない言葉に、隣で困った表情をしている凛も思わず「え」と声を漏らす。たちまち表情を引きつらせる翔太と、勝ち誇った顔をする美沙子。二人を慌てて交互に見やる。「翔太……」呟くが、彼は黙って目を伏せる。
「違う」乾いた喉で彼は絞り出す。「俺は……違う」
「何が違うんだよ。おまえのせいだろ」美沙子がせせら笑う。
「なに? どういうこと……」
狼狽する凛を見る彼女は実に愉快そうだった。
「おまえ、彼女なんか作ってるくせに言ってないのかよ」
「言ってないって、なにが、ですか」
不安に満ちた凛の声に、美沙子の声のトーンは高くなる。
「こいつの親、殺されたんだよ」
尋常でない台詞に、凛は絶句する。それを面白がるように、美沙子の言葉は続く。
「野球のバットでぶん殴って、撲殺だってよ。そん時にこいつも殴られてさ、そんで片目潰れたんだって」
「そんな……」凛の声が震える。彼女はみるみる顔面蒼白になっていく。
「頭のおかしいおっさんが夜中に入ってきて、無差別ってやつ?」
翔太はもう何も言えず、項垂れていた。
「翔太が鍵を締め忘れたせいで、入って来れたんだってよ」
美沙子の言葉は、どこまでも残酷だった。
日下部雄吾は、随分困窮していた、らしい。
後に翔太が知った全容は、こうだった。
日下部の家庭はとても貧しかった。妻子のためにいくら働いても、生活は楽にはならなかった。疲弊し摩耗したある日ふと思い立ち、会社帰りに見知らぬ駅で電車を降りた。
駅前で呆然と立ち尽くしていると、自分とほぼ歳の変わらない見た目のサラリーマンが目についた。その男には駅前まで妻と息子が迎えに来ていた。小学一年生ほどの男の子が、いち早く駆け寄って飛びつく。男はそれを抱きとめて嬉しそうに笑う。「ただいま」と言うと、男の子が「おかえりなさい」を連呼して、今日あったことを話し始める。歩み寄る妻が男の子と手を繋ぐと、その反対の手を男は握りしめた。
息子を真ん中にした、幸せな三人家族。
夕陽の中へ歩いていく彼らを見て、何故だか涙が溢れた。
そして、「壊さなければ」と思った。憎悪だの嫉妬だの、そんな感情がどろどろと混ざりあい、ゆっくりと、しかし力強く心の堤防を壊していった。目元を拭いながら、許せない、とも思った。
距離を空けて後をつけ、辿り着いたのは一軒の真新しい家だった。自分の狭いアパート暮らしが、惨めさを超えて馬鹿馬鹿しく思えるような家。
靄のかかった頭で庭に侵入し、物置の裏に身を潜めた。
時間の経過は記憶にない。すっかり日が暮れてあたりが暗くなった頃、勝手口が開き、パジャマ姿の男の子が現れた。彼は庭の植木鉢のそばにしゃがんで何かを拾い上げると、再び家の中に戻っていった。鍵の閉まる音はしなかった。
更に夜が更け、家からも周囲からも灯りが消えた頃、勝手口のドアの取っ手を引いた。音もなく開いたそこから家の中に忍び込む。キッチンから廊下を進むと玄関にたどり着いた。防犯用に置かれた金属バットを握り締め、再び家の奥へ踵を返した。
廊下の脇に、光の漏れる部屋があった。ゆっくりと開けると、中にはこちらに背を向けてデスクのパソコンで作業をする男の姿があった。
男が気配に振り向く前に、バットを上から下へ思い切り振った。頭部を打たれ、床に崩れて痙攣する男を何度もバットで打ち据えた。
血しぶきの生温かさに気づいた頃、男はピクリとも動かなくなっていた。
そして、「どうしたの」という不安そうな女の声が聞こえた。
引き寄せられるように部屋を出て電気の点いたリビングに入り、男の妻と鉢合わせた。彼女は目を大きく見開いて驚いたのち、事態の把握に努めようとその目を忙しなく動かした。視線が血に塗れたバットを捉えた頃、短く叫んだ彼女の頭部を狙いそれを振った。
だが一歩引いた彼女の頭を逸れ、バットは肩口に当たった。痛みに崩れながら必死に距離を空けようとする彼女に近づき、その胴を狙った。身体を守ろうとした腕を打つと、骨の折れる鈍い感触がした。
悲鳴を上げる顔面を打つと、真っ赤な血が吹きだした。這ってでも逃げようともがく彼女の腹を、足を打った。あの男では、壊す感触をあまり味わえなかった。だからその分、残りの家族で、と思った。
部屋の家具や壁に鮮血が飛び散った頃、息も絶え絶えの彼女が、「逃げて」と潰れた顔で必死に声を上げた。まだこんな大声が出せたのか。血や唾液や涙に塗れた顔面に向け、最後の一撃を食らわせるべくバットを振り上げた。
「しょうた……!」
その言葉を最後に、頭を割られた彼女は血の海の中に溺れていった。
振り向くとリビングに一歩入ったところで、見覚えのある男の子が立ちすくんでいた。恐怖におののく細い足は震え、小さく開いた口から浅い呼吸が漏れている。
すぐくたばりそうだな、と思った。それならまず足から狙うべきだろう。
気の触れた思考が巡った時、リビングの窓を通し、隣家の部屋に灯りが灯ったのに気が付いた。話し声が聞こえる。先ほどの悲鳴を聞きつけた近隣住民が、怪しんでいるようだ。
その時、初めて「まずい」と思った。逃げなければ。この子の口を封じて、一刻も早く現場を去らなければ。
足を踏み出すと、それまで固まっていた男の子は弾かれたように動き出し、背を向けて逃げようとする。足早にその距離を詰め、黙らせようと素早く首根っこを掴んだ。幼い悲鳴をあげて暴れる身体を床に叩きつけ、頭を狙ってバットで殴った。一発で、男の子は動かなくなった。
いよいよ玄関のチャイムが鳴る。入ってきた勝手口から家を飛び出し、裏の塀を乗り越え、逃げた。
地獄だった、と翔太は思い返す。日下部雄吾に殴られた後、病院で目覚めた時には全てを失っていた。父も、母も。愛していたはずの親戚には、手のひらを返された。彼らは家を奪い、土地を奪い、両親の持っていた全てを当然の顔をして奪っていった。残ったのは、殴られた後遺症で、永遠に右目の見えなくなった身体だけ。たった一晩で、幸せだった生活は地獄に落ちた。その後の伯母との毎日は暴言と暴力に塗り潰され、枕を涙で濡らした回数はもう数えきれない。引っ越した先で通い始めた食堂で、優しい人たちに出会わなければ、本当に心が壊れていたと確信している。彼らには感謝してもしきれない。
だからといって、日下部を許す気は毛の先ほども存在しない。日下部は事件の後、血まみれのバットを握ったまま彷徨っていたところを通報され、逮捕された。あいつは、全てを認めていたという。後に初犯だとか精神異常だとか情状酌量だとか、そうしたものが積み重なり、やがては極刑を免れた。
当然、奴も死ぬものだと思っていた。だってそうだ、人を二人も殺したのだ。悪いことなど何一つしていない夫婦を、撲殺したのだ。それも妻には長く苦しみを与えるよう、あちこちの骨を砕いてからとどめを刺した。
人を殺せば死刑になる。そう信じていたのに、日下部は死ななかった。苦悶に満ちた母の顔を思い出し、父の無念を思えば涙が出た。右目の見えない不自由を感じるたびに、何故あいつは五体満足でまだ生きているのかと、憎くて憎くて堪らなく思った。
だが、奴を殺しに行かずに済んだのは、その侵入経路について知ったからだった。
日下部は、勝手口から家の中に入った。その夜、玄関のドアはきっちり閉まっていたのに、裏のドアは鍵が開いていた。だから入ることが出来たのだという。
それを聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
夏休みの宿題のため、裏庭で向日葵を育てていた。朝に観察した時に筆箱を置いたまま忘れていたことに気付き、寝る前に取りに行ったのだ。母が鍵をかけておくようにと、いつも言っていたのを思い出す。それなのに、あの夜はすっかりそれを忘れてしまっていた。
自分がきちんと鍵をかけていれば、日下部は家に入ってこなかった。
つまり、両親の死のきっかけは――。
いつか刑務所に乗り込んであいつを殺す。そうした幼い計画は破滅した。代わりに懺悔の涙に明け暮れた。後悔を抱えきれず、ふとした拍子からよつば食堂で皆に打ち明けた時に号泣した。
抱きしめてくれる悦子は、「翔ちゃんはいい子」と何度も繰り返した。アルバイトの大学生が水を持ってきてくれて、元さんの仲間はずっと背を撫でてくれた。泣き疲れてうとうとしていると、元さんが負ぶって家まで連れて帰ってくれた。
「翔太は、何も悪くない」帰り道、大きな背中にしがみついたまま聞いた。「翔太の父ちゃんも母ちゃんも、わしらもみんな、おまえが幸せになることを願っとるからな」
日下部は憎い。殺せるなら、今すぐ殺したい。
だがそうすれば、幸せを願ってくれる大切な人たちを悲しませてしまう。それは嫌だ。あいつにそこまでの価値はない。
そう思えたから、途方もない後悔を抱えながらも、罪を犯さず生き延びられたのだ。